もと百姓が見たインド:野口さん:MLへの連載より




日本から南米へそして現在は北米に住んでいる野口さん、今回ご子息が暮らしているインド・デリーに出掛けて観た物、感じた体験談を書き綴りました。(2005年 2月):パラグアイMLに投稿されたものをまとめたものです。





(写真:野口さんとご家族)



01・はじめに
私がインドを歩き出して一番感銘を受けて、驚いた事は耕された土地の無駄が無い事でした。僅か780kmぐらいの走行でしたが昔の50年前の日本の田舎の雰囲気があったからでした。私が見た限りでのインドはそろそろ春終りに近ずいた田園が広がっていました。見た作物は、なたねの花、これが一番多く見た様です、それかジャガイモ、小麦、アルファルファ−、町や都市近郊は野菜栽培の畑を見る事が有りましたが、ナス、ブロッコリー、カリフラワーなど見ましたが、まだトマトは小さくて、植えてまだ1ヶ月ぐらいと感じました。畑のあぜ道一杯ギリギリまで綺麗に耕かされ、昔の日本の耕作精神を感じる事が有りました。行けども行けども見渡す限りの緑の農地を見て、インドが11億近い人口を維持しても、その食料を自給できる体制に感服しました。どこの農村地帯を見ても、どこかに人影が有り、仕事をしています、一度レンガを作る土を取った後の痩せた土地を、水をかけ土を起している人を見て、そばでは小麦が僅かに芽が出て、貧弱では有りましたが、何とか作物を植えられる土地にしようとしている努力を見る事が出来ました。



(写真:タージマハール)

人口の7割以上がまだ農村地帯で生活しているインドの国を見て。しかしながら人口の10%でも工業化の先端を仕事をしている人がいるとすれば、それは一億1千万人の人間となると言われ、人口もこれからは資源となと感じました。インドでは皆様もご存知の様に、学歴社会で、競争社会の、一部では世界のトップレベルを進んでいます。次男が借りていましたデリーの首都で、比較的上流社会の住家が多い所で、部屋を借りていましたが、そこの家主の家族の子供を見ても教育熱心でこれからのインドの競争社会を勝ち残り、生き抜くためには教育しか無いと話していました。ランチに呼ばれて食事をしながら話した事は昔の日本の激烈な受験戦争時代を思い浮ばせる感じでした。
この話は次回に致します。

02・これがインド
インドに到着して一番に肌で感じ、自分の体感で納得した『これがインドーー!』と言う事は、まさに笑いなしでは話す事は出来ません、時々、ワイフと話しては笑いこけています。インドに到着したのが夜の10時近い時間でした。迎えは車とガイド兼通訳が来ていました。次男はホテルに直接来ると話していましたので、その方が自宅のアパートから20分で来れると言っていましたので、さっさと迎えの車でホテルに行きました。翌朝早く小旅行に出かけるので、その方が便利でそのホテルが出発点でしたので、どうせ泊まると言っても、寝るのは6時間ぐらいです、ホテルに着いてしばらくして、次男も来ました。久しぶりの再開でしたが日に焼けて、一層たくましい感じに成長していました。アメリカから持ってきたお土産を渡してしばらく話して、息子は明日朝早く、もう一度同行する旅支度をして来ると、タクシーで帰って行きました。私達夫婦は長旅に疲れを癒す為に直ぐに寝る事にしました。

ホテルに朝のモーニング.コールを頼んでいました。目覚ましも部屋に無かったので、用心の為に念を押して出発に遅れない様に頼みました。シャワーも簡単に汗を流す程度に入り、パジヤマに着替えて『グーー!』です、その翌朝ーー!もの凄い音量で、何か携帯スピーカーで怒鳴る様にして、『起きろ〜!起きろ〜!』.とがなり立てています、『はっー!』と気が付き飛び起きました。まだ夢の中ー!寝ぼけて頭もー!はっきりしませんーー!、ワイフもびっくりして何ごとかと起きていました。インドでは廊下でスピーカで怒鳴るのかと一瞬感じましたたが、『チョイ〜!何か変な感じですーー!』窓の方から聞えています。パジャマ姿で、カーテンの隙間から外を覗くとー!まさにギヤー!の眠気も一瞬で吹き飛びました。ほんの目の前にモスクの寺院が有るのです、尖塔にはでかいスピーカーが有り、そこから朝のお祈りのコーランが流されていたのです、狭い路地が見え、幾人かがゴザを広げてメッカの方角に朝の礼拝をしていました。眠気もどこかに吹き飛び、あっけに取られて、まずは手配を頼んだ旅行会社を恨みました。『うらめしや〜!こんな朝早くからーー!』起きたついでに、朝の用足しに行き、いまさら寝る事も出来ませんので朝シャワーを浴びる事にしました。熱いシャワーで気分転換とひと風呂浴びて、バスタオルを広がて見て、これもびっくり仰天ーー!かなり大きな穴が開いて、よくよく見ると自宅で使用している足拭きタオルより、各段に貧弱なバスタオルでした。くたびれて今にもゴミに出すような物でした。まだ寝ていたワイフに見せて二人して『ゲラゲラ』と笑い出して、『嗚呼ーー!これがインドですね〜!』とワイフ殿がのたまわくーー、これで体感としてのインドを実感しました。ワイフがシャワーを浴びている間に外を見ていたら、この朝早く共同水道の近くで身体を水で拭いている人が見え。細かい路地をオート三輪がパタパタと走り抜け。リヤカーでゴミを回収しているのが見えて、インドの生活の一部も目で認識しました。泊まったホテルは3ッ星?ぐらいと感じました。次回も、つれずれに思い付いた事を書きます。

03・IT産業
現在のインドを語る時に引き合いで出される事の多くが、世界のこれからのITビジネスの先端をどこの国が将来をにない、また開発の主導権を握るかと言う事は、先日の新聞での評論を見ても解る事ですが、インドと中国です、技術の先端の開発を、ソフトと、ハードの技術の革新と改善を設計して、推進する技術者の数を見ても、インドです、シリコンバレーで働くITの技術者の数の多い事はアメリカで911事件後のビザ制限などの障害が有ってもインド人技術者を抜いては話しにならないと新聞に出ています、技術のレベルからしたら、本国でのサラリーから比較しても、アメリカでの比較的安い給料でも、インド国内と比較するとアメリカでの仕事がまだまだ各段もの差が有り、アメリカを目指しているインド人技術者が沢山います、行きの飛行機でも、帰りの成田行きの飛行機でも廻りにITビジネスで働く若い男女のインド人と乗り合わせて話しをする事が出来ましたが、成田に向かう直行便の飛行機の待合室で知り合ったインド人の若い技術者は日本の大手の電気会社で仕事をしている人でした。インドに拠点を置き、新しい開発技術者のスカウトが彼の仕事でした。日本語は全然話せないと言っていましたが、英語で事足りると言っていました。

インドの最高教育は全部英語での教授となり、アメリカでも、イギリスでも、オーストラリアでも直ぐに語学のハンデがなく仕事を始められ、インド人が思考する技術力を何の支障もなく伝え仕事が出来ると話していました。インドが貧しいと言っても確かにその様な事が一部見られる事は間違いない事実です、デリー市内などで目にする貧困層の数も驚きですがインドの現実として目をそむけることは出来ません。私がふと感じた事は、これからは内陸国での人口増加の著しいパラグワイなどはITビジネスなどの、開発などを中心に発展することが将来の百年の生き方と感じました。それには教育と言う一番の土台が必要と思います。次回はインドの一般家庭の炊飯燃料に付いて書きます。



(写真:タージマハール)

04・一般家庭の炊飯燃料
インドでの農村地帯を車で走って見ると、牛の糞を丸く固めて乾してあるのを沢山目にする事が出来ました。乾燥した牛糞はかなりのカロリーを出して1個の牛糞で小家族の一回の炊飯をする事がが出来ると話してくれました。それから沢山束ねてある枯れた物は、なたねの成熟して種を取った茎を集めて束ねてあつた物でした。家の脇に積み重ねて有り、これも燃料にすると話していました。時々小さな町を車で通過する時に、10kgのLPガスのタンクを配達する様に車に載せているのを目にしました。農村と小都市では燃料も格差があると感じましたが、LPガスと兼用して石油コンロも普通広く利用されていると聞きました。私が感じた事で余り植林された場所を目にする事がなかった様に感じました。アルゼンチンや、ブラジルなどは植林された場所を沢山目にすることが有りますが、インドでは小さなユーカリの林があったのを目にしました。田舎の国道沿いに植えて有る並木が、どこも下枝が綺麗に切られていました。一度車から見た事は長い竹の先にカマの刃を付けた道具で木の枝を切りとって、燃料として束ねていました。農家の主婦と言う感じの人が頭に束を乗せて歩いています、現実に目にして、インドと言う国がまだ木の枝一本でも利用して燃料とする精神には頭が下がりました。

私も50年前田舎の近所に茂っていた土手の竹を切り取り風呂の燃料とした覚えが有ります、根も掘り取り、乾燥すると良く油が有って燃えたのを覚えています、まだ子供でしたが父親の仕事を手伝った頃を思い出して、懐かしく見ていました。インドの現状を見ていて、今昔が混同して居ますが、昨年一年間で世界で新設された風力発電は大型原発7基分に匹敵する伸びでしたが日本では、スペイン、ドイツなどが約200万キロワットも増えたのに対して、その10分の1足らずの19万キロワットで、インドやアメリカ、中国からも遅れを取っています、全発電総数からしてドイツの20分の1と日本の地球温暖化の対策が貧弱である事が世界に暴露されています、その事は政治の政策が不充分である事を熱源からしての資源がない国で、あぜんとさせられる事実ではないかと思います。せめてインドよりは風力発電を多く設置するくらい、日本でも出来ると感じます。次回はインド庶民の懐のぐわいを書きます。

05・一般家庭の懐具合
現在のインド.ルピーの対米ドル換算は1ドル=42ルピーの相場が普通でした。しかしインド社会の現実は10ルピーが=100円の感覚でインド社会では使用されています、次男が借りていた部屋の家主の家族は大きな四階建てのビルにそれぞれの階に分かれて長男、次男と住んで居ましたが、家主は一階に住んで居ました、四階の屋上の部屋は200ドルで私の次男が借りていました。掃除洗濯は1ヶ月が10ドル程度でしてくれると話していました。総体的に貨幣価値が低いのです、インドのデリーと同じぐらいの部屋をサンフランシスコで借りるとすれば1000ドルは掛ります、ワンベッドですが私が住んで居ます郊外の市でも800ドルは普通です。デリーの首都で、普通のサラリーマンが稼ぐ給料はドル換算で400〜450ドルぐらいと言っていました。技能職で500から600ドルぐらいで、管理職で800〜1000ドルと話していましたが、田舎ではこれよりもっと下で2割は低い数字となると言っていました。デリーの大手会社の上級管理職で、1200〜1500ドルぐらいと話していましたが、次男の友人で雑誌の編集長をしている38歳の男性で、800ドル/月で車を会社から支給されていると話していました。インドの相場とすれば1000ドルの給料と感じます、インドでは車の価格が、生活水準からすればかなり高めとなりますので、独身男性の給料からすれば良い給料をもらっていると感じました。インドの農村部では現在でも家族で150ドルから200ドル程度で生活ししている家族が多く住んで居ると聞きましたが、インド農村部での自給生活に近い、家畜を飼い、野菜を植えて、穀物は家族で食べるだけを蓄えて生活する農村部では、それで家族の生活を賄う事が出来るのではないかと感じました。 次回はインドの食事について、

06・インドの食-01
インドでの食事をして、お米を使う南部インド料理、北インドの何かソーメンに似たうどんで作ったカレーうどんは中々イケル食べ物でした。次男が道端で簡単に食べさせる屋台の食べ物を、ちゃんとしたレストランで食べられる様にした所で、両親にも屋台のインドの庶民が食べる食事を試食して食べさせるのに選んでくれたレストランは、意外と美味しい味で、普通の屋台で食べるものが沢山メーニューに載っていました。そこは外国人も食べに来る様で、小奇麗な所でした。料理の味を試す前に、普通のインド庶民が買い物する、バザールを見物に行きましたたが、次男が案内してくれた所で、一番先に思い出した事は、45年前の上野駅近くのアメ横でした。懐かしく思い出して狭い路地を次男に案内されて歩いていました。米だけ沢山の種類を売っている店で、ワイルド.ライスに感じが似た米を見つけて驚いていましたが、インデイカ米も沢山の種類が有るのに驚いて関心して見ていました。

ブラウン.ライスに近い色が付いた米は、どうやって料理するか知りたいと思いました。野菜や果物、肉や魚を並べた店では郷里の小倉駅に近い所に有る、タンカ市場を思い出して、日本のネギに似たもの、白菜や、ボクチョイなども並んでいたのを見て、かなりの種類に驚きました。魚もエビも大小様々並んで、大きな車エビの型が揃った大型のサイズには『ウワ〜!』と感じるほどでした。てんぷらにして、天丼など美味しいだろうな〜!と思うほどで、どこから運んで来たか知りたいくらいでした。バザールの近所で驚いた事に、日本からの中古衣料品が山と吊るして売っていた事でした、インドやパキスタン、バングラデシューなど輸出されていると読んだことが有りましたが、実際に見て、これも驚いていました。バザール場内のカレー粉など香辛料を専門で売っていた店に来た時、昔、南アフリカの港町でインド人市場で匂っていた、同じ匂いを思い出して、その陳列の香料の盛りつけ型も同じ様で、これも驚いていました。小汚いバザールと思っていましたが、いやいやーー、驚きの体験でした。このバザールでニューデリー首都の胃袋を賄うのであれば、なるほどと思ったしだいです。次回もインドの食について書きます。

07・インドの食-02
インドでは食に関しては、かなり地域差が有る様です。ランチに次男が連れて行ってくれたのは、南部インドの専門料理店でした。ランチでワイフと三名で少しずつの皿を取り、味を見ながら食べました。私達がインドを訪問する前に南部インドを900kmぐらいサイクリングして来たので、だいぶ詳しい話しをしてくれました。自転車で走っている時に一番困ったのは、側をバイクや自転車で伴走して、必ず『どこから来たー?どこの国から来たー?どこヘ行くー?』これを一日いやになるほど聞かれた様です、そして直ぐにお茶や、ランチに招待してくれたそうです、インドの田舎を走った経験が有る人でしたら良くわかると思いますが、余り良くない舗装の道を900kmも良く走ったと、『知らぬが仏ーで!』でワイフとあきれていましたが、インド突端の Kanyakumri などの町で食べた料理などの話しをしてくれました。海鮮チャーハンは美味しかったと言っていました。

道端のインド.チャイ売りからお茶を買って飲んで居たそうで、勿論行く前に、C型肝炎の予防注射をしていましたが、チャイの中にショウガや、シナモンを入れて砂糖とミルクを入れて、少し煮立ててから飲むから安心だと、平気で話していましたが、しかし水だけはボトルを買って飲んで居たと話していました。道端の屋台で売っている果物はバナナと皮を剥いて食べるフルーツにしていたと話していました。どこでも道端に屋台などがあり、止まって何か話すと5分もしない内に十人ぐらいは直ぐにどこからか人が寄って来て、食べる物から、泊まるホテルまで世話をしてくれたとインド人の親切さに感心していました。南部インド料理はお米を沢山使う様で、バナナの料理は珍しかったそうです。次男も少し大きな町に泊まると、まずホテルに着いたら、2リッタの水のボトルを買い、シャワーを浴びて、インド風中華レストランに行って、自分に味の覚えが有る焼ソバや、中国料理で元気を付けて居た様です。次回もインドの食に付いて書きます。

08・インドの食-03
インドはヒマラヤの麓から、インド洋やアラビヤ海など、地域により気候的、土壌的な変化の激しい所です。アラビヤ海に面したムンバイー、(Mumbai)昔のボンベイが商業都市として賑やかで、それからコルカタ(Kolkata)日本式でカルカッタ、はベンガル地方の言語でベンガル語を話す様です、北のネパール地方から来た北部インド人はまったく日本人に似ていて、デリーで会った女性はご本人が笑いながら『私は日本人と韓国人に良く間違われるーー!』と言っていました。色の浅黒いインド人からしたら、どこと無く日本人の肌の色です、同じインドでもかなりの人種の差が有る様に、食べ物も所によってはお米を主食として、北部では小麦からのパンに似た、ナンと言う小麦粉から作った物を主食としていました。カレーを御飯に載せて手で混ぜ合わせて食べる食事の仕方や、ナンをちぎってカレーに浸して食べるやり方も有ります。

次男がオールド.デリーに連れて行ってくれましたが、近くの大きなモスクの寺院の前から、迷路の様な200年も昔しからの道路と、昔の建物が点在する場所を案内してくれたのですが、少し緊張して歩いていました。その帰りにランチを四代も前から宮廷料理を今に伝えるレストランに案内してくれました。モスクの寺院に近い所でしたが、ナショナル.ジオグラフィックの雑誌や、ニュヨークタイムズでも紹介された店で、そこのナンが柔らかく、ふんわりしていてインド滞在中に初めて食べた経験でした。ヨーグルトを混ぜて少し醗酵させて焼いていると聞きました。チキンをヨーグルトに浸してタレと焼いたバベキューは、中々の味でした。王様が食べた食事だそうで、付け合わせに出ていた赤玉ねぎのスライスがピッタリでした。食事の後、歩いて待たせていた車に戻るとき、沢山の商店が満載した商品を前に、活気有る呼び声が飛び交い、バタバタとオート力車が人を縫う様に走り、生きたニワトリが籠の中で暴れて声高く鳴き、羊の頭だけが積み上げられ、側でぐつぐつと煮えたぎってその匂いと、物乞いがさし出す手を払いのけて、後ろから車の警笛に驚かされて、力車引きがヨタヨタとペダルを漕いで、安くするから乗ってくれと叫び、まさにこれが本物のインドだーー!と言う実感を味わいました。見上げると200年も昔からの建物に、絡まる様に電話線などあらゆケーブルや電線などが。クモの糸の様にまつわり付いている様は壮観でした。次回も食について書きます。

09・インドの食-04
私がデリーに泊まっていた時、次男のアパートの直ぐ近くでした。近くにホテルが見つからず、友達の少し大き目なアパートに泊まっていました。毎朝必ず朝早くに、物売りが来ました。それで目が覚めていましたが、毎朝私も外に出て、何を売りに来たか見ていました。一番多かったのは野菜と、フルーツ売りでした。中にはリヤカーを引いて売るに来るのは、野菜とフルーツ混載でした。自転車に乗せて来るのはバナナとオレンジや、パパイヤを載せていましたが、バナナはモンキー.バナナの小ぶりのバナナでしたが、甘くて香りも良くて、毎日買って食べていました。リンゴも大きくて型も良くカリフォルニアでガラと言う感じのリンゴでした。それとブドウのマスカットをたくさん積んでいました。実は小ぶりでしたがかなり糖度は高い様でした。オレンジと薩摩ミカンなど余り種類は有りませんでしたが、売れ筋の物ばかり持っていた様です。

インドは広い国です、熱帯からヒマラヤの麓まで、季節にしたら夏から冬までの時期を収穫することが出来ます、特にデリーはインドでも首都の関係で、一番大きな青果市場が有ると聞きました。またそこから近郊都市に輸送されて行くと話していましたので、街道を走るトラックの隊列の凄いのに驚いていました。デリーだけで900万人以上が住んでいるし、その人口が消費する毎日の量だけで膨大な数になると感じました。一度街道ですれ違ったトラックにジャガイモが満載されて、それが5〜6台も連なり走っていく様を見て、こんな量でもデリーの人口からしたら一日分の量にも間に合わない数と感じました。住宅街をリヤカーで売りに来る引き売は、お得意様が沢山居る様で、2階のベランダから奥さんが声を掛けると、カゴに野菜を入れて配達しているのを見ました。カリフラワーの真っ白な山が直ぐに減って行くのに驚いていましたが、ニンジンも真紅の色の柔らかいニンジンでした。種類はそれだけで、皆、沢山カゴに入れて買っていました。ハーブ関係の葉物が、かなり種類が有るのに感心して見ていました。香辛料と会わせてカレーなどに使うのではないかと思っていました。それと綺麗な大根が有り何に使うか聞いたら、生で食べると言っていました。青首大根の様には大きくなく、早生のスラリとした真っ白の大根でした。それからオクラのそろつて綺麗なグリーンの山を見て。私も食べたくなった感じでした。チョイとゆでて、おかかをまぶしてビールなど大好きです。 次回も食に付いて書きます。

10・食べ歩き-01
インドに居ます次男はアメリカから行ってまだ一度も寿司をインドで食べた事が無いと話していました。そろそろ31歳の私の子供ですが、幾つに成っても子供は子供ですーー!未熟児で生まれて、保育器でピーピーと泣いていた次男ですが、風呂に入る時、私の両手の上で気持ち良く寝ていました。そんな子供が大きく育ち、今は次男の肩までした有りません、そんなに育って、やはり親がインドまで尋ねて行けば、やはり財布は親の財布を狙っていますから、何とか言ってデリー市内の美味しい所を案内するとか言って、食べ歩きをしました。日本食が2ヶ所、タイ料理と韓国料理が各1ヶ所それから、5星ホテルのイングリッシュ.テイーも飲みにも行きました。それから近頃一番美味しいと評判のケーキ屋にも行きました。

日航ホテルは綺麗な日本食レストランでした。インド、首都のデリーの日航ホテルでは安心して寿司が食べられると言う事で、次男が待ち焦がれていた所です。軽い財布では、とても寿司などつまむ事は出来ませんから、この時と日頃の日本食から離れたストレスを発散して食べていました、ワイフとついついーー、『ドンドンー!食べな〜!』などと言ってしまいました。揚げだし豆腐、肉じゃが、枝豆、お漬物、などなどーー!ぺロリでした。ポンポンに膨れたお腹を抱えて緑茶を飲んで幸せそうな顔に、親も満足して見ていました。これで『日本食飢餓症候群』からのストレスを少しでも解消した感じを受けて、親もやれやれーー!の印象を持ち、日頃はインドのカレーを主体にした食事ではいかに若いと言っても、日本食で育てた『本能的御飯好き症候群』を無くすことは無理と感じます。漬物をパリパリとワイフの白御飯を貰って食べる姿は、やはり我が子と感じました。これも親馬鹿の一つかーー!アメリカで30年近く育っても、『三つ子の魂、百までもー!』の感じです。次回も食べ歩きのことを書きます。

11・食べ歩き-02
次男の言葉に乗せられてデリー市内を食べ歩きしました。ホテル内に有る高級和食レストランには、毎回食べに行く事は出来ませんので、市内でも商社員などがランチを食べに来る様なレストランに行きました。従業員は北部インドからの日本人そっくりさんで、『へ〜!沢山日本人が働いているわーー!』などと感じてレストラン入った時に次男に話すと、理由を教えてくれました。インドでも北部インドからの出身者はデリーなどでは、レストランなどの下働きが多いと話していました。賃金も北部インドは首都からしたらかなり低い感じだと言っていましたので、同じインドでもかなりインド国内格差が有ると感じました。デリーの日航ホテルの和食レストランでも和服の小柄な日本人そっくりさんは、やはり北部インド出身で綺麗な髪型で和服が似合う女性の従業員でした。かなり上手な英語を話していました。

そんな事で、食べるレストランの雰囲気も、中のレストラン造作の作りも、『これインドーー!』感じました。そこではドンブリ物を取り、カツ丼、うな丼、味噌汁はお代りして食べていました。ビールのつまみは天ぷらが食べたいと次男が言いまして、友達も2名同伴してご馳走して、ワイワイと賑やかな会食でした。廻りで食べている人達も会社帰りの人も居る感じで、市内で居住している人達が、『チョイー!』食べに来ていると言う感じでした。値段が手頃で、日本の味が楽しめると言うレストランで、デリー市内で食べ歩きした中で、一番の庶民的な感じの店でした。ワイフは天ぷらドンブリでしたが、大きなエビに驚いていました。成田飛行場で食べたエビなどと比べたら倍の大きさだと、感心して食べて居た様です。ビールはインド国産で試しに2種類とり、飲み比べしましたが、味は両方ともいまいちで、日本のビールの味に慣れているのか、まだまだーーの味でした。カリフォルニアに住んで居ても、日本のビールは沖縄産のビールから、日本の有名ブランドは全て飲めますので、その点は有りがたい感じです。たらふく食べて、外に出て群がるオート力車(パタパタの三輪車)や小型タクシーを見て、雑踏の人込みのすさまじさで、インドの現実の世界に戻りました。 次回は食べ歩きで、インド人が良く行くレストランを書きます。

12・食べ歩き-03
インド料理を食べに行くと、必ず聞かれる事は、『ベジタリアンかーー?』と言う確認です、菜食主義者の厳格な事は驚きでした。それから肉を食べるのにしても、豚や牛などは全部ダメと言う感じで、食の分類とその宗教的厳格さは、日本人には少し厳しい感じでした。モスラムの人達は宗教的にも食べ物を厳格に決めていますので、やはり中華料理などと言う、四足で動くものであれば、自動車以外は何でも料理して食べてしまうと言う冗談も言われるくらいーー!、食に貪欲な中国人には、まったく適わないと思います、インドは長い間、大英帝国の支配化におかれ、一部高級支配階級では西洋文化として、ヨーロッパの食文化が取り入れられ、一般庶民とは区切りが出来て居た様です。それは、一般にはインドの食文化は手で食べると言うのが原則です、しかしヨーロッパの食事は、ナイフ、フォークとスプーン、これだけはテーブルに無いと始まりません、そんな事で、インドの食文化は宗教と手で食べる基本が大きく西洋食文化を阻止していた感じです、南インドに行くと、いまだにバナナの葉に御飯を載せて、カレーを横に置いて食べています、少し汁物はお鍋から家族で仲良くすくって食べていますから、それか、その汁に浸して手で食べています、私が見たのは素焼きの小さな皿に、ヨーグルトで味付けした煮込みを片手で持ち、御飯を丸めてそれに浸して食べていたのを見ました。それはパンに似たナンも同じでした。私達が食べ歩いて、インド人の家族や又は、仲間で食べに行く所はどこかと言う事を考えていました。

一般庶民が刺身や寿司を食べに日本食レストランに行くのはチョイと考えられません、彼等が良く行く所はどこかと言うと、今はイタリアンでも、中華料理でも有りますが、味も共通点があり、かなり激辛などの味付けが有る、タイ料理でした。カレーの種類もかなり有り、ココナツも使い、パパイヤのサラダなどはインド人好みと感じました。インドでは夕食の時間が遅く、レストランも同じで、私達がタイ料理のレストランに行った時間はまだ少し早目でしたが、直ぐにかなりの人で席が埋まりました。若い人達のグループも多くて、どことなく品の良い家族連れも来ていました。綺麗なサリーを着飾った年配のカップルが、ご主人と仲良くお皿から次ぎ分けて食べているのを見て、やはりタイ料理などがインド人の方達の口に合うと感じました。デリー、日航ホテルの日本レストランは、かなり白人が来ていましたが、インドの方は見ませんでした。そんな事でアレキサンダー大王がインドを攻略した時代から、インドの食事は余り大きな変化はなかったのではないかと勘ぐりますーー!。次回もデリーの食べ歩きから書きます。

13・食べ歩き-04
インドの食文化はペルシャ時代からまた、アフガニスタンからの進攻が有って、一部北部インドが支配下に納められた時代や、大陸の地続きの世界で、アレキサンダー大王のインド進攻までさかのぼるとインド人の中で、肌の白いギリシャ系の顔立ちの人も見られます、タージ.マハルを建造したムガル帝国第5代皇帝の時代もペルシャの影響は大きく、ペルシャ語で書かれたコーランの経典の一節がタージ.マハルの寺院の壁画に刻まれて残っているのを見ると、当時の食文化の交流がいかで有ったか、同じ小麦粉で作るナンとジパチィに別れる様に、首都デリーのインド料理レストランでの食べ物にも変化が有ります、私が想像するには、全ての近隣諸国の食べ物と、また、食文化が混ざり合ったのが、現代インドの今の食文化として、形成されたと感じます。

それにしても毎日良くもカレー、カレー、カレーと食べられるものと感心したものです、いくら若いと言っても私の次男を見ても分る様に『日本食飢餓症候群』のストレスを抱えてしまう様になると、インド料理も厭きてしまうのではないかと思いました。私もデリーでケンタッキー.フライドチキンなら食べられると思っていましたが、残念ながらチャンスは有りませんでした。私がデリーでがっかりした食べ物は、韓国料理でした。かなり有名なホテルに有りましたが、サンフランシスコの韓国人街に有る店と比べても、その味付けも、皿数の少なさ、量は半分ぐらいと感じました。当地で営業したら1ヶ月で潰れると感じました。私が通う当地の韓国レストランは、当地の韓国人がソウルで食べるより、美味しいか同じくらいだと教えてくれた店です、いつも満員で、週末は並んで待っています、石焼ビビンパなどは本格的で、焼肉も直火の炭火で焼いて食べます、もうもうと焼肉の煙りが店内に立ち込めて、換気扇がフルに回転しても間に合わないと感じるほど沢山テーブルで焼いて食べています。デリーで外れた食べ物でした。しかし沢山食べ歩きした中で、一番高い値段で、あとでカードの請求が来て、『ぎょ〜!』とした値段でした。それと今まで食べた冷麺の中で一番まずい麺でした。ワイフいわく、『損した感じーー!』私も同感ー!次回は食材と調理に付いて書きます、

14・食材と調理
インドに滞在して、カースト制度の影響を垣間見る事が有りました。デリーでインド人達が、自分達が住んで居る階層の地域により、店の構えから、売っている品物まで変わってしまうと話していました。次男が住んで居た地域はかなり上流と言う感じの所でしたが、歩いて行ける商店街は垢抜けて、ワイフも洗髪をするのに美容院に2回ほど行きましたが、アメリカよりサービスが良くて、上手だったと話して居ました。店の前には必ず、ガードが立って居ます、そして停電用に、自家発電機が据え付けて有りました。チョッと財布が軽いと見ただけで足が遠のくと感じました。

そんな中の商店街にケーキ屋が有りました。コーヒーショップも兼ねていました。ケーキはヨーロッパ的な味で、作りも上手な飾りで、沢山の若い人達がそこでお茶を楽しんで居ました。インド.チャイとコーヒーの香りが漂い、インド的な飲み物とアメリカでも飲める感じの飲み物がメニューに有り、にぎわっていました。廻りの商店を見ると、間口は余り広くは有りませんが、かなり専門的な感じの店が並んでいました。並んでいる商品もバザールで陳列されて居る商品とは少し違う感じでした。各店舗の前には必ずガードが居て、特に本屋ではまったく『ここはインドーー!』と疑るほどに陳列から並べて有る本までアメリカと感じが同じでした。歩いているサリーを着飾った婦人達もどこか余裕の有る感じで、買い物して居ました。パーキングにはインドでは珍しいベンツも有り、デリーでは所により沢山に見かける、貧しい物乞いの人も見られず、どこと無く区切りが出来て、仕切られている印象を受けました。食材も丁寧に包装した物で、バザールで山と積み上げて売るものとは違いました。イチゴのパックもアメリカと同じ、プラスチックのパックに詰めてあり、売り子も制服を着て、清潔な感じを受けました。誰かが教えてくれたのでしたが、インドでは『場所が変われば、品物から値段まで変わるーー!』と言ってくれました。そこでは、インドで初めて野菜屋を見ましてた。活気があり、大抵の物がそろっていました。そこでも綺麗な大根には感心しました。

しかし少し場所を変えると、同じデリー市内でも、道端に屋台と店が立ち並び、物乞いが並び、力車が客待ちして喧騒と、屋台の料理の匂いと雑踏の人込みに揉まれ、炭火のアイロンを手に、道端で仕事をするクリニング屋。次男が言った、『ここはまだ機械を使うより、人に仕事を与える為に、また、安く仕事をしてくれるから人を雇う』とーー!ちなみに、次男が雇っている人は部屋の掃除と台所のかたずけ、風呂場に脱ぎ捨てて置くとそれも洗濯してくれてーー、週に四回で月10ドルとはー!アーー!これインド〜!アメリカで、コインランドリーでは一回3.50セントです、洗い、乾燥でーー!大型でしたら5ドルもします。次回はインドで目に付いた、車などの事を雑多に書きます、



(写真:肉屋)

15・自動車-01
インドの国道を走るトラックを見ると、『TATA』と英語でマークが入った、インド民族系の国産車トラックが殆どでした。日本で言えば中型トラックです、後輪四輪で余り荷台は大きくは有りません、アメリカなどで馬鹿でかいトラックを見なれているから、インドで走っているトラックなどは小型に感じます、アメリカでは州によってはトレラーを3台も連結して走っています、追越などはえらい事で、良く長い、長いトレーラーを運転していると感じます。そんな事で、インドで見たトラックは6輪で、8トンからせいぜい10トンぐらいしか積めないと感じました。しかし、そんなトラックが何台も隊列を組んで、荷物満載でせいぜい40kか、50kmぐらいで走っていますから、これまた追い越しは大変でした。インドは世界でも有数の鉄道大国ですが、人口からしたら荷物の運送量は膨大な数と感じます、TATAのトラックはタイヤのサイズが大きくてかなりの積載は出来ると感じました。トラックは賑やかに飾りたてて、色鮮やかなカラーでペイントしてあります、インドの地図を見ると分りますが『V』の字型で左はアラビア海、右がベンガル湾に面して中国などと比較したら、まだ地理的には良い条件が整っています、沿岸部から内陸に輸送が比較的容易だからで、沿岸部の鉄道からの支線をトラックが支えていると感じました。

インドではだいぶ長い間、国内産業保護の為にトラックなどは一部を除いて、輸入を禁止していたからで、どこを向いてもTATAのトラックとなった様です。運転席の後ろにベッドが付いた余り大きなトラックでは有りませんが、長距離トラックと感じます、荷物満載でシートを被せて隊列を組んで走っていく様は、インドの経済を支える足と感じました。国道の片隅に駐車して、インドチャイを飲んでいる運転手や、見ると、サンダル履きで丸いアルミの弁当から手で何か食べているのを見ると、トラック.ストップが極端に少ないインドでは、道端の光景でした。それと田舎の町を通過する時に、修理しているトラックは道端の空き地で道路にはみ出して修理していましたが、どこにも修理工場などは無かったのは驚きでした。たまに粗末な椰子の葉をかけた小屋が目に付きました。田舎の道で単機筒のジーゼルエンジンを載せた耕運機より一回り大きな簡易トラックを沢山見ました、剥き出しの運転席で、ポンポンとエンジンを響かせて走る様は、昔、終戦後、一時日本でも見た風景と思い出しました。次回は同じく、インドの車事情に付いて書きます、



(写真:国民車)

16・自動車-02
今回のインド訪問で私が感じた事は、人口巨大国ではその人口比の10%でも、高学歴、教育程度の高い専門
職を維持し、発展させて、これからの人口増大を産業経済が支えると言う、日本経営方式を取ると確信致しました。専門家の意見を待たずとも、たとえ10%の人口とすれば、1億1千万人と言う、日本の人口に匹敵する、最先端の技術者の集団が化学IT産業教育、英語教育、デジタル専門教育などの高度な教育を身につけた人間が動き出すのです、恐ろしい感じがします、トヨタ自動車がそこを読んで、これからの投資先にインドを据えた事は先見の目が有ると感じます。中国は所詮は共産社会の社会主義政権です、中国政府が頭を抱えるほどの上級共産党の幹部と政治責任者が腐敗と汚職と官僚主義に汚染されている事を考えると、資本主義社会を進めるインドがまだこれからの世界で、国民の10%がここ十年先に生活改善、所得倍増したら、これは凄い国となると感じました。今の中国がとても太刀打ちする事は出来ない事です、デリーの高級住宅地で毎朝の出迎えの車を見ると、ホンダのアコード、トヨタのカローラ辺りが普通でした。一般庶民は小型のスズキやTATA、フォード、韓国現代、などの車が売れ筋と感じました。一応日本車は全部走っている感じでしたが、日本で見られる高級車は有りませんでした。

17・インド人と中国人
私がインドを見て中国人を余り見かけない事に驚いたのは、利に敏い中国人を打ち負かす、インド、ボンベイ商人達、特にシーク族はその代表と言われる人々です、酒、タバコ、は一切ダメーー!、かなりのシーク族の掟があり、連帯と結束が固い人達です、中国人が異国で初めて移住して行く行程はクリーとして、昔は奴隷的な労働で出発して居る事を見ると、インド洋の真中に浮かぶモリーシャス諸島で砂糖キビ労働者として先祖が来て、そこで住み付いた中国人が殆どが中国料理屋を開いて、商店なども合わせて持ち、地域社会で這い上がった行程を見れ、インドを治めていた大英帝国がインドで生産した阿片を持って中国の銀を持ち帰った事例を見ても、上には上が居るのです、その中国人もアフリカのモザンビークで見た時も同じ感じで、中国料理屋を経営して、商店を開き、貿易を起して、ここでも底辺からの這い上がりの人種と感じました。しかしインド商人はその上を行っている感じがしてアフリカの有る国で、独裁大統領がインド人を弾圧して押えたら、国家の金庫まで空っぽだった事が事実として有ります。

所詮、中国人は箸で食事をする人種、インド人は手で食べる人種、中国人は全ての動物は象でもクマでも、トラでも、牛でも豚でも食べてしまう民族です、インド人はその反対を行く人種です、どちらが思考的に耐えられるかはインド人を見れば中国人など問題ならないと感じます、昔、底辺に居たインド人は中国人のクリーより耐える力があったと聞いた事が有ります、それは初期のアメリカ開拓でも有った様ですが、特に農業ではカリフォルニアで、日本人やヒリッピン人などの労働者に圧されて居なくなりました。それと生活条件がボーデングハウス(下宿屋)での集団生活で、食生活の格差が大きかった様です、豚肉のベーコンやソーセージ、牛肉のステーキなどを食べる事が普通の労働者でも有り、インド系がはみ出して行ったと感じます。

私が日本に帰国する時にアフリカ経由で帰ってくる船中で、学が有る人が講義してくれましたが、インドを治めていた大英帝国のイギリス人達が使用人として忠実なインド人召使を連れて、アフリカ諸国に行き、その子孫が根を張り。また、インド駐留イギリス軍の弾除けとしてインド人部隊を創設して、各地に駐屯して、そこから根を広げて行ったと話していました。第一次大戦ではインドから出征した兵士が15000名?ぐらい、イギリス軍の弾除けとなって戦死したと聞きました。そんな経歴をたどって、アフリカなどに沢山のインド人が根を張ったと感じます。特に軍隊の下士官はシーク族が多く占めた様です、デリーに有るインド門を警備する、兵士はターバンを巻いた体格の大きなシーク族の兵士が立っています。大英帝国時代にイギリス政府は、南アフリカの植民地開発に沢山のインド人の労働者を利用して鉄道敷設、道路建設、都市開発などをさせたようです、その末裔が現在のインド人として、南アに住んで居ると感じます。

モリーシャス諸島で私が乗船していたオランダ船が2日半ほど停泊した居りに見たモリーシャスはフランス語を話して、又イギリスの占領下でも有った事が有り、その当時の砂糖きび農園での労働者として南部インド人が多数来た様です。当時、日本のマグロ船が港に停泊していて、マグロの塊を差し入れてくれた思いで出が有ります。中国人が経営する中華レストランで食べた料理は本格的で、たしか広東料理の味だったと思います。そこの港から香港まで乗船した中国人は皆、1等か、2等船客で、感じが何か、故郷に錦を飾る感じを受けました。労働者として中国人がパナマ運河の建設で仕事をして、パナマに居ついた事は事実ですし、アメリカ横断鉄道建設に中国人が労働者として仕事をして、カリフォルニアのサンフランシスコにチャイナタウンが出来るほど住み付いています。ハワイの砂糖きび農場でも同じで、日本人が多数ハワイに住む原因となりました。それにしてもインドの人達は世界の各地に、日本人以上に移住した様ですーー! 次回はインドのクリニング屋に付いて書きます。

18・クリーニング
インドで私が見たクリニング屋はだいたい2種類に分れると感じました。一つは、普通の日本で見られるドライクリニングタイプです、これはちゃんとした店構えで、機械も最新式を備えた店です。中には服を自動で動かして取り出す機械を設備した店も見ました。その一方で、住宅街の道路の片隅で、街路樹と塀の間に日除けのテントを張り、塀の下の方には上手くロッカー形式の収納庫を作って有り、そこで長年に、アイロンをかけて仕事をしていると感じました。

最初、私は朝の散歩で見つけました。かなりの老人で、沢山のお得意を持っている感じでした。助手も一人居まして、側で手伝っていましたが、アイロン掛けが済んだら配達して居る様でした。まず、朝早く来てアイロンに炭火を入れなくてはなりません、アイロンは約2キロは有る大型です、一度に200グラムの炭を入れる事が出来ると話していました。それで約半日の仕事が出来るそうです、シャツでしたら60枚はアイロンをかけられると教えてくれました。中々上手い手付きで仕事をしていました。私は興味が有りましたので翌日、朝早く出かけて見る事にしました。まず塀際のロッカーから炭を出して、細かく砕き、それから、ぼろぎれを適当な大きさに切って、それにガソリンを染み込ませて、その上に炭を載せて火を付けます、適当に火が付いたらその上に大きな炭を載せて火を付けます、それが出来たらアイロンに上手く並べて置き、炭を均一にして火が平均に行く様にして、フタ被せていよいよ仕事に掛る様でした。近所から洗濯籠に入れた洗濯物が届けられ、アイロン台がおかれて、霧吹きも大型の真鍮製のかなり年代物が置かれて仕事が始まり、サンダル足で、側にはアイロンに入れた残りの炭火で、小さなコンロでインドチャイを入れるお茶が沸いていました。彼にはそこが仕事場で、生活にも繋がった場所と感じました。畳1枚ぐらいの場所です、並木の下で小さなテントを被せて有り、休み時間には寛ぐための、折りたたみのイスが置いて有り、全てが彼の大切な世界と思いました。アイロンは温度調節も出来ないのでどうするか見ていましたら、ナンとシャツの上に、タオルを置いて、熱過ぎる時はそれで上手く調節している様でした。この様な仕事で生活が成り立つのですから、やはりインドですーー!綺麗にアイロンをかけたシャツが積み上げられ、籠に入れて配達されて行きました。通りを行く近所の奥さんと挨拶しながら悠然と、重い炭火のアイロンをかけていた老人を今でも思い出します。次回はインドの乗り物の話しです。



(写真:アイロン屋)

19・交通事情-01
インドは面白い国です、都会は現代社会が溢れて、田舎では私が子供の頃の50年以上の前の景色と、思い出が一致しました。デリーの首都の国際飛行場に到着して、一番初めの遭遇は両替でした。税関を出て、直ぐに左側に有った店に行きました。とりあえずは少し両替していないと困りますので、交換する事にして店に寄りました。ワイフは先に出迎えの人を探しに行きました。次男が両替は自分の知った所でするからと、余り交換しない様に話していましたので、とりあえず50ドルばかり頼む事にして、両替を始めました。次男の注意も有りましたので、少し用心していました。案の定ー!両替と言っても2%も取り、そしてインドでは破れたお札は使えないので、100ルピーの中に2枚も2センチぐらい穴が開いたお札を混ぜていいましたので、早速に文句を付け、『交換しろ〜!』と怒鳴りました。マーー!英語でしたので『ドスーー!』も効いて、直ぐに交換してくれると思っていたのですが相手は、『両替はお前とは止めたー』と来ました。『ソーーかい!』で終り、お札を投げ返して、ドルを取り返しました。『ぎろり〜!』と睨み、振り向くと、後ろに若い日本人の学生風が2名も青い顔をして、見ていました。『ここはインドだから、注意しな〜!』と言い残して、スタスタと別れましたが、そこからは私が毒気を抜かれた、帰りの飛行機に乗るまで、インド交通戦争に投げ出されました。

今までに経験した一番の凄さです、デリーの首都は地下鉄が有りませんので、バスとタクシー、オート力車が一般市民が乗るバイクやスクーターなどゴチャー混ぜの交通規則などどこえやら、警笛鳴らし放題、割り込みOK,2車線に並んで3台走るなど、仰天の別世界ーー!、アルゼンチンの首都ブエノスなどはインドから見たら、紳士の国の運転と感じます。混雑絶頂の時間帯に、物乞いが走行車線でお仕事中ーー!『あーーー!』これどうなっているのーー、と言いたくなる光景、信号で停車すると、一斉に両側から、窓を『コンコンーー』短い停車時間に新聞売り、雑誌売り、菓子売り、合わせて、物乞い達もこれ負けずに、窓が開いていたら、『スーッ』と手が差しこまれ、『チョイとーーだんな!』と来ます。インド到着8時間ぐらい前に、成田の綺麗な高速道路、ピカピカの高級車や、リムジンバスの豪華さーー!、飛行場近くのホテルから成田出発ターミナルまでの、人気の無い歩道、綺麗な街路樹。しかし現実のインドは街灯も無い暗い道、両側の道に立ち並ぶ屋台。けたたましい警笛の交差。トラック轟音と、ジーゼルの排気ガスの匂い、舞い上がる埃。その中を結構遅い時間にぞろぞろと歩道を歩く人、これは迎えのガイド兼通訳が教えてくれましたが、飛行場の裏側近く、何と〜!モスラムの人達、専用のゲートだそうで、ここからメッカ巡礼の旅に飛行機で出掛ける所と教えてくれました。いやはや、雑多でめちゃめちゃーーな交通マナー。バスの老巧化した車が、警笛を鳴らして、ダンプカーみたいにツ込んで来たのには、驚きの一言〜!鈴なりの乗客を乗せてですよーー!インドに着いたとたんに心臓が『ギュー』との感じで、血圧が上がるのが自分でも感じました。やれやれーー!と思って観念しました。次回もインド交通事情を書きます。

20・交通事情-02
インドの交通ルールや、政府の規制などは有って無い様な印象です、驚きの一言です、次男が話してくれたのでしたが、インドでは弱肉強食の交通ルールと言う感じで、一番は大型トラック、その次はバスなどの大型車、次ぎがバンなどの比較的大型車、それから一般の乗用車など、次ぎがバイクなどが来て、それから自転車などで、最低は人間様が除けて道を通らせてもらう感じです、車が『そこのけーー!そこのけーー!』で人間様を蹴散らして走って行くと言う感じがします。その様に仕付けられて経験して、自分の身にいやと言う感じで焼きついていますから、いざ自分が運転する様になったら、そこはそれ!『どけ〜!車が通るーー!』の感じとなる様です。それにしてもデリーの首都の交通機関は自動車だけで、公共交通は地下鉄も電車も無くて、バスだけです人口900万人以上の大都会で、バスだけでしたらそれは交通戦場と言う感じで、『ヒ〜!』と言う悲鳴になると思います、現在地下鉄工事中で、あと2年ぐらいは掛ると言っていました。誰か冗談ですが『インド人が車を買って運転し出すと、人が変わるとーー!』それも道理と感じます、

インドでは車は高価で車庫に車を入れると、何か階級のシンボルとしての象徴と感じます。しかしインドです、一度郊外の道を走ると、ラクダや、ラバに引かれた荷車が、ゴロゴロとのんびりと走っています、日本ではだいぶ昔に終りとなった光景です。田舎の国道をサリーを着た婦人達が列を作って頭に何か載せて歩いているのを見ると、廻りは人家もまばらな所、どこまでテクテク歩くのか、こちらが心配するくらいでした。しかし歩いている人が沢山居ます、自転車も見るのですが、旧式の40年前の日本で良く走っていた感じの、ゴツイ感じがするタイプが殆どでした。私も注意して見ていたのでしたが、サイクリングの、ドロップハンドルが付いた自転車は一度だけでしたが、毎朝物売りに来る人達が乗っていた自転車は全員同じ感じのゴツイ自転車でした。私が一番感心して、驚いたのは、自転車の荷台に箱を取り付けて、カギを陳列して、ハンドルの前には工具など一式入れた物をぶら下げて、『カギ屋〜!ご用は御座いませんか〜!』と怒鳴って走っていたのには感心しました。話しによると合い鍵などは直ぐに作ってくれると言っていました。私達、夫婦がデリー滞在中はオート力車を良く利用しました。近所に行く時はこれが一番手軽で便利でした。パタパタと小回りが効き、狭い所でもスイスイです、人力のリキシャーはのろくて、どうも運転している人が貧弱であれば、何か安心して乗ってはいられない感じでした。

それにしても、タクシーを一日8時間借り切っても600ルピーでした。チップを入れて15ドルぐらいです、出かける時は借り切りで出かけましたが便利で店やレストランの前まで行け、ちゃんと待ってくれるので良く使いました。でもシートベルトなどは一切無くて驚きました。そんなインドの交通戦場で一度も救急車がサイレンを鳴らして、飛んで行くのを見なかったのは不思議でした。しかしどこか軽くぶつけて、喧嘩している現場な何度も見ました。私がインドで一番感心したのは、インド国民車と言われるアンベスターの車種を役所と官庁は殆ど全部ぐらい使っていた事です、きちんとワックスで磨かれたカローラぐらいの大きさの車ですが、背広をきちんと着た人が後ろの座席に座り2〜3台列を作って走っているのを見て、先日TVで中国政府の役人がベンツの高級車でふんぞり返って北京市内を走る情景を写しているのを見て、何と差が有るのかと感じました。次回は気候に付いて書きます、



(写真:街の雑踏)

21・気候-01
インドは暑いか?これを書いている横で、ワイフがのたまわくーー!、良くかけるね〜!と言っています、前は2階の娘の部屋にパソコンを置いていましたが、ワイアレス接続で電波の状況が悪くて時々切れますので、下の私の書斎に引っ越して来ました。前は2階のワイフに『お腹が空いた〜!』とE−Mailを出していましたが、今では側の手が届く所にパソコンが有り、何か分らない時は、『チョイト〜!』と来ます、ボケかかった頭でも、日記を30年も付けている根気と、昔、学生時代に熱帯作物研究室で栽培記録を丹念に記録した経験が有りますから、そこはそれ!まだ現役です!インドの気候を考えると、住む場所で決まると感じます。

デリーの夏は暑いそうですーー、しかし湿気が少なくカラリとして日本の夏の様に、ベトベトした暑さではないから、耐えられると話していました。デリの首都はかなり密集地域で、レンガ作りの2階から4階ぐらいの建物が立ち並んで居ますから、それが真夏にヒートしたらかなりの暑さに感じると思います、それと地下鉄も電車も無い都市構造です、車が密集して走行するほかに、交通手段が無い都市では吐き出される炭酸ガスの層が都市を覆い、熱気として傘となると感じます、東京も同じで真夏のヒートは熱帯夜となり、大都会の宿命です。去年アルゼンチンのブエノスで2月の初めでしたが、飛行機から着陸する時見たブエノスの街がスッポリとスモグに覆われて居たのには驚きました。まったく76年にカリフォルニアのLAで見たのと同じです、飛行場に着陸する時に見た其のままの感じでした。大都市の過密は気象にも影響を与えると感じました。デリーではだいぶ前にデリー市内を走り回るバスは全部、ジーゼルエンジンで、凄いスモッグだったと話してくれました。現在はLPガスの燃料で、エンジンを切り替えて走っているのでだいぶ綺麗になったと教えてくれましたが、夏同じ40℃では比較しても、都会と田舎では体感する気温が違うと感じます、デリー市内の勤務でオフイスビルの中で、一日冷房が効いた中で仕事をして、たまに外に出るとそれこそーー、『ぎゃ〜!』の暑さの感じとなると思います。私が住んで居ますSF郊外でも時々、夏に40℃になりますが、そんなに感じる事は有りません、そんな事で、インドに住む人達はそこに何千年前から住んで居るのですから、暑いと言って、逃げ出す人も居ない様です、次男が南部インドを900kmもサイクリングして、体感として2月の気候を話してくれたのでしたが、バナナやパパイヤも成っている場所で、スイカも買って食べたと話していますから、同じインドの春と言っても、気候はどえらい違いと感じます、北部インドから来た日本人そっくりさんが話してくれたのでしたが、『インドは広いよ〜!私が住んでいた北部インドでは山に雪も積もるとーー!』そんな事でインドの気候は我々の想像する以上の幅が有ると思います。次回もインドの気候に付いて書きます、

22・気候-02
私がインドの気候を書くと、何か巨大なインド象の尻尾の先を握って、これがインドの気候ですと話している様なもので、チョイと、様に成りませんが、全体を概略で書いて置きます。それからデリーの地下鉄は全然動いていないわけでは無く、一部分がやっと開通して、試験的と言う感じで動いています、全線開通はあと2年以上はかかると聞きました。人口900万人以上の大都会では、残された空間は地下だけですから、デリー市内を見物中はあちこちで地下鉄工事の現場に行き合わせました。デリー市民も早く開通して欲しいと話していましたが、それだけ首都交通が混雑しているからと感じます。

特に北部インドは、3月末から6月頃の雨季に入るまでが一年で一番気温が上がり、暑くなると聞きました。その頃はデリーでも40℃台は珍しくは無いとの事、何せ暑い感じです。北西部の砂漠地帯では50℃も上がる気温が珍しくはないとー!恐れ入ります〜!インドでは11月から2月までが乾季で、快晴が続き旅行には快適と感じます、雨季は6月から10月頃までが雨降りに時期で、時にはモンスーンの影響で大雨が降るようです、大英帝国植民地時代のイギリス人達は暑さに弱く、避暑地として開発した、東インドのダージリンや、北インドの山岳部、南インドではウーチィなどが有名です。しかし昔のイギリス植民地のインドに派遣された英国官使も熱帯医学など、それから予防医学などが無かった時代、灼熱のインドの気候で多くのイギリス人達がインドの土に成っています、ムンバイ(ボンベイ)の町の片隅の墓で、イギリス人達が寄り添う様に並んでいる写真を見ました。沢山の子供の墓が有り、幼い子供が犠牲になったと感じます。この事はアメリカでも、ボストンの町外れのボストン河口の港町で見ました。私は昔、『バンカー.ヒルの戦いー!』と良く形容された事の意味が分りませんでした。ボルトン河口の港を見下ろす墓地の丘が『バンカー.ヒル』と言う名前の丘でした。私の娘が案内してくれたのですが、夕方の小雨が降りそそうな時間で静かな墓地に、簡単な名前と年月日を鉄平石に刻んだ墓石が寒々と並んで、1750年台の昔のイギリス人達が故郷から到着した港を見下ろす丘に眠っているのを見て、インドでも同じく故郷から到着した港の近くに眠っていると感じました。ボストンの墓場でも子供達、幼児の墓が多かったのを覚えています。インドでは暑さと、慣れない気候で疫病に掛り、話ではマラリアや、赤痢など日常で、コレラなども時には大発生したと聞きました。次回は象のタクシーに付いて書きます、

23・象のタクシー
乗車した事が有りますか?デリーの首都から270km南西に行った所の、ジャイプルの町に行きました。『プル』とは城壁に囲まれた町の意味です、ですからインドでも他に同じ名前が有ります、ジャイプルは7つの門に囲まれた旧市街が有ります、そこは砂漠の入り口の乾燥地帯で、空気が乾いていました。そこから11kmの、アンベール城に見学に行きました。前から聞いていたのですが、象のタクシーがあるとの事、一度乗ってみたいと思っていました。象は触った事は有りますが、乗象した事は有りません、ガイドさんに『象さんに乗った事は有りますか?』と聞かれて、ワクワクしていました。城の下に到着して、直ぐに『プーン〜!』と家畜のおしっこの匂いがしました。どでかいウンチも『ぼたり〜!』とこんもりと盛り上がり、道に落ちています。ガイドにせかされて、並んでいましたが、30分も乗象するとの事、道路を隔てた有料トイレに駆け込みましたが、ワイフと二人で10ルピーとの事、何と〜!床に丸い穴がぽっかり開いたトイレでした。ドアは有りましたが、多分ワイフは飛び上がって驚いていると想像していました。男はかまいませんが多分ワイフはコンクリートの床にポッカリと開いた穴めがけては、難しいと想像していましたが、案の定ーー!出てくるなり目を丸くしてご報告でした。

『ご苦労さまーー!』どこから象乗するかと言うと、かなり高い塀の上からでした。四名乗れますーー!、御者は首の所に乗って上手く象を操り、出発しました。次男も同行して旅に来ていましたので、丁度良い人数でした。ガイドが一緒に乗りまして、説明してくれましたが、私は前に乗り、前方を見ていました。坂をゆったりと登って行きます、象もこれまで何度も朝から登り降りしている様で、しきりと鼻から水滴を流していました。ガイドさんがいわく、少し暑いからだとーー!、象を観察していると、坂道の石畳の所どころにいる、物売りを見ている様でした。小さなお目がキラリと光った感じを受けました。若い男が手に何か持って『これ買ってー!』と差し出した瞬間〜!『パーン』と象の耳は大きく動き、『お見事ーー!』吹き飛ばしてしまいました。通行人や、女性の物売りは何もしませんが、だいぶ登った所に居た、若い男がまた何か差し出そうとすると、驚く無かれーー!象は身体をその男の方にちかずけて、こすらんばかりに胴を寄せました。男は坂道の石壁に『ぺたり』とへばり付き、商売どころでは無く、青い顔をしていました。御者は慌てて象を動かしましたが、1トン以上も有る、象からこすられたら、『はいーーそれまで〜!』となると感じました。ハハーン〜!象さん退屈にイタズラしていると感じ、前を歩いている象と連携して歩調も同じ感じで、『ちんたら〜!ちんたら〜!』と言う感じがしました。小さなお目ですが、あれでも中々鋭い感じです、30分ぐらい象に乗った時間ですが、城内に入り昔、王様が象に乗降した場所で降りました。片側の2名を降ろすと、くるりと廻り、反対側の2名を降ろす動作は慣れたもので、『やれやれ〜!一丁上がりーー!』と言う感じがしました。象のタクシー乗車賃は、ガイドが話してくれましたが、お一人様、50ルピーとの事、アンベール城の見学は親子3人で歩き、ガイドさんが無駄なく説明してくれ、楽しいひとときでした。
次回はインドのトイレ話しを書きます、



(写真:象のタクシー)

24・トイレ
インドに到着して飛行場での入国審査を待っていた時です、近くのトイレに行きました。かなりくたびれた施設で、でも綺麗に掃除はされていました。しかし私の目的とする場所は日本人の胴長短足のサイズでは、かなり高い位置に有りまして、少し驚きました。アメリカでは子供サイズが有りまして、余り苦労はないのですがインドでは全部大人用ばかり、誰が設計したかは知りませんが、不公平です。しかしインドであちこちと利用して近代的な近年に建てられたビルやホテルは全部私がアメリカでお目に掛かるタイプのトイレです、終ると自動で水が出て来て、洗浄しています、アメリカや日本と何の違和感も有りませんでした。しかし、田舎に行くとドライブ.インのレストランはかなり旧式な設備でしたが男女別、2名もトイレ係がいまして、終って手を洗うと、直ぐにペーパータオルを出してくれました。5ルピーぐらいのチップを上げていましたが、何か長閑な感じがして手洗いの水が流れる近くに、季節のお花が綺麗に咲いていたのに感心しました。

私が旅行して歩いた場所では、どこも綺麗なトイレが有り、困る事は有りませんでしたが、わが息子、次男のアパートではトイレに入ると紙が有りません、ギョ〜!として聞くと、トイレの便座の横に小さなパイプが来て、終ると水で洗う様になっていました。次男が言うには、『紙資源がもったいないーー、流せば下水パイプが詰まるーー、この方が慣れると気持ちがいいーー』と言って用が済んで、横の蛇口をひねるとシャーと水が出て来て、日本の今ではどこの家庭も有る、温風まで出てくる様な高価な物では有りません、単にお水が出るだけです、『フムフムーー!』お鼻の先で聞いていました。いざ実行すると、冷たい水が心地よく後はタオルでふいていました。ワイフは終って意気良いよく水を出して『びしゃーー!』とおつりを貰って、濡れてしまい、ぶつくさ言っていました。ジャイプルの町で泊まったホテルはかなり高い建物で、下を朝早く見ていたら、近所の工事現場の草原で、幾人かの人がしゃがんでいます、『ハハーン〜!』とピンと感じましたので参考の為に見ていましたら、やはりそう〜で、朝の用たしでした。インドの田舎の工事現場では、日本やアメリカの様に簡易トイレが設置されていなくて、草原での用たしとなっていたと感じます、でも朝早くホテルの窓から見下ろしていたなんぞーー、チョイと笑いがこみ上げて来ました。何せインドは人口が多いと感じます、デリー市内で次男も話していたのですが、公衆トイレが少なくて、歩道の人目が少ない所は注意してと教えてくれました。やはりそのとうりでした。それと沢山ブラブラ歩いている、お牛様が排泄される物で、グチャーとやりかねないので、いくら神聖な牛でも用心していました。やはりインドです、絶対に東京では体験することが出来ない事です。次回はデリーの清掃とゴミに付いて書きます。

25・清掃とゴミ
インドのデリーに滞在している時に朝、良く散歩に出かけました。私が滞在していた所は、デフェンス.コロニーと呼ばれた、かなり環境が良い所ででした。碁盤の目の様に道路も交差して小さな川の近くで、川の横が道路となって、歩道も綺麗な街路樹が有り時々物売りの声がするくらいでした。8時頃には迎えの車も出発してしまい、それまでは何台かの車の運転手が車を掃除したり、ワックスをかけたりして、並んでいましたがその後は、近所のお手伝いさんが家の前を掃除を始めます、手箒で集めた落ち葉や、ゴミを丹念に袋やバケツに入れてそれを持って、近くの立派なゴミの集積所に投げ入れてくる様でした。

私も散歩のついでに観察すると、かなろ大きなコンクリートで出来た建物でした。川岸に建てられて外観もタイルなどはめ込まれて、近所の環形も崩しては居ません、かなり大きな投げ込み窓が有り、そこから投げ入れる様です。中は雑多なゴミが投げ入れて有りましたが、そこにはちゃんと〜!先客がいてお仕事中でした。ちゃんとダンボールや、紙など資源回収をしていましたが、プラスチックもきちんと集められて、野菜くずは牛ちゃんが食べていました。見ると野菜くずなどはちゃんと食べられる様に外に出してあり、神聖な牛達のご馳走の様でした。見ていると、牛達の河原に出入り出来る通路も狭い物でしたが、有りましたが、そこの集積所の横でした。中々考えて造っていると感じました。牛達はそこから川に水も飲みに行く感じでした。そのゴミは制服を着た収集人が、大型トラックで回収していました。まず、大きなバケツ型のプラスチックの車輪の付いた箱にシャベルで入れて、トラックの後ろで自動的に引っ掛けて積み込みしていました。私が観察していて、中々上手いやり方だと感じました。各自が集積所まで責任持って運んでいます、大抵はお手伝いさんの仕事の様でした。だから家の前など、どこにもゴミが無かったのです、私の観察はインドのほんのごく一部分ですから、まして首都のデリーの高級住宅街でしたから、これがインドの全体とは、とても言えませんが、良い参考となりました。私達がドライブしている途中で、道をリヤカーを引いて、3人ばかりがが手箒を持って道路をのんびりト掃除している傍らで、牛ちゃんが道に寝そべり、ラクダが引く荷車がごとごとと走って居る様は、まさにインドと言う情景でした。次男が居たアパートの下に住んで居た大家さんの若いお手伝いさんが、何か歌でも唄いながら手箒で家の前を掃除して居たのを見て、その箒が50年以上も前に日本の田舎に住んで居た頃、箒草と言う物で作った同じ感じの箒でしたので、懐かしく見ていました。次回は物乞いさん達に付いて書きます、

26・物乞い
インドでは人口が多いので、首都に田舎から仕事を探しに出てくる人が沢山います、仕事も中々見つからず、ホームレスとなる人も多いと聞きました。オールド.デリーの市街を見物に行った時です、沢山の若い働き盛りの感じがする人が、ブラブラとモスクの寺院の近くに居ました。彼等はお昼時間でランチに有り付こうとナンを焼いている店の前で、しゃがんで邪魔のなら無い様にして並んでいました。ナンを焼いている傍らには、カレーを煮た鍋が有り、ナンを買い、カレーも買ってお昼のランチとする様でした。店の主人はモスラムの様で、頭にはきちんと手編みの帽子をかぶり仕事をしていました。少し焼け過ぎのナンが有ると、それを切って、素焼きの小さな皿にカレーを入れてナンと渡していました。男達は奪い合うようにして食べていました。モスラムの宗教の教義として、『施しーー!』と言う事は重要な事で、施しが出来る人は、施しを請う人に分け与える事が義務として有ると話しを聞きました。

仏教でも『哀れみと施しーー』と仏様は説いています。宗教心が有ればその人の道徳的なバック.ボーンとしての、心が有り、共産主義の社会主義社会では、『宗教は阿片ーー!』と決めつけて、人の心の道徳心の支えとなる物を破壊して、弾圧して無視していました。近年になり、ロシアのプーチンもそれを見直した様に、たとえ社会主義の世界でも、宗教心は必要と感じます、現在の中国が『万元家主義社会の共産国』と言われて、汚職と賄賂に悩む事は道徳的な心が無い人が多く育ったと感じます。昔、中国が社会主義を達成して、『こじきと餓死者が無くなったが、自由と宗教心が同じく無くなった』と批判した人が居ました。インドではまだ施しの精神が有る人が沢山居ます、私もそう感じます。あれだけ沢山の物乞いする人を目にして、それに施しを与える人も居ると感じました。施しを受けて、授けた人に合掌して感謝して、『貴方に神様の祝福が有ります様にーー!』と言う物乞いに、見苦しい感じはしませんでした。インド人のバック.ボーンとなっている宗教は決して、無意味な教えでは無いと心に感じたしだいです。
次回はインド人の数学に付いて書きます、

27・数学
インドに付いてだいぶ書きましたが、この事は必ず書かないとインドのこれからの将来を決める教育を、最重要の課題としているインド政府の教育方針を聞きましたので、インド人からの話ですから我々が想像する以上の奥深いものが有りました。教育の原点はインドでも日本でも同じ子供の教育に関連して、どう教育して育てるかと言うのが原点と思います。インド人の有識者はかなりの高学歴の方が世界のトップに位置して活躍されています。私の仕事に関連した知り合いが話してくれた事ですが、インド人は数学に関しては、世界で一番適した思考が出来ると話していました。彼は大学で講座を持って教えている人で、知り合いのインド人の教授も居るからと話していましたが、インド哲学も少し勉強した事が有り、その原点を掴んで居るようでした。

私の様に以前百姓では中々思考的な難しさで、一度ぐらい聞いても理解は出来ません。IT産業のソフトの原点は数字だと話してくれましたが、その理論的構成と関連した、指数化したソフト作成は今ではインドで沢山作成されています。それは優秀なレベルのソフト.エンジニーヤ達が沢山育っているからと感じます。それと世界的にインドの給料指数が低いので、アメリカなどからしたら4分の一のコストで作成出来るからと感じます。驚く事にも、280年も前のインドの王様が建造した、マハーラージャの天文台です。ジャイプルの城下町の中に、今でも沢山の観光客を集めている所ですが、一見して近代美術館と言う感じがする天文台です、日時計は驚く無かれ、20秒しか誤差は無いとの事、聞いてびっくりでした。ガイドが言う事には、『これ全てがインド人の思考と、それに関連して数学的思考の結び付いたものーー!』と説明してくれましたが、さも有らんと感じました。それを建設した王様が残した、計算をした本を博物館で見ましたが、小さな電話帳ぐらいは厚みが有る本で、細かな数字の羅列で、その書かれたのが280年も前とはーー!見た瞬間に『恐れ入りました!』と心に感じたしだいです。電子計算機もない時代どんな思考をして、推理して、計算して、実証して、建設したか頭が下がる思いでした。きっと数学の天才的な才能が有ったと思います。ジャイ.スイン2世が発明し、考案した数々の観測機はまさに驚きの体験でした。今も感じる事は『インド人が数学を思考するのは凄い』と思います。次回は、私が感じた、つれずれのインドの思いを書きます。

28・性愛の神様
インドの話しに、あの話しがまだ出ませんので、今日はここで書いておきます。インドではなぜ人口が多いか?知っていますか?、と私が聞くと、『何だろう〜!』となりますが、私が旅行中にガイドが話してくれましたが、性愛の神様が有り、そこの本山の寺院では48手の壁画がこれ見よがしに掲げてあり、大層な信心を集めていると話してくれました。特にヨーロッパからの観光客は、必ず訪れる所だとか、それからしたら日本人は淡白か知りませんが殆どのツワー行程には入っていないとの事、おかしい現象です。さも有らんーー!日本人の出生率が世界最低だとーー、私も話しの中で聞いたので、どこかは聞きそびれましたが、そんな寺院も有るとか、いやはやインドとは雑多で多くの寺院があると感じます。インドのシーク族は酒、タバコ、女、賭博などかなりの禁止事項があるとの事、しかし、戒律は厳しく、また激しく守って居る様ですがそこは人間です。綺麗なサリーを着た若い女性が通ると、サリーの隙間からチラリとお腹の生の部分が見えます。今、流行のヘソ出しスタイルなどはズボンか、ジーパンでは色気も消えます、しかしインドで見た、サリーの間から見える生の肌はセクシーです!シーク族と言えども、チラリと見ているのを捉えました。見たぞーー!見たぞーー!やはり人間は性悪かもしれません。ジャイプルの町のホテルに泊まった時に、そこの土産物屋のおやじがさんが日本語で、『綺麗な女の子がいる、マッサージパーラーが有りますがーー!』と来ました。ワイフには隠れててです。良く見て話せと言いたいぐらいでしたが、そこはそれーー、冷やかしです。私も日本語で気が有る様に『どんな女性ーー?』と聞きますと、『全部若い子ばかりーー!』『へーー!驚いた〜!』と言うとシャーシャーと『奥さん部屋においてきたら案内しますーー』と驚きました。インドにもちゃんと有るのですーー!。あんなインドの田舎町でも商売が出来ると感心しました。次回も同じ題材で色々な話題を書きます。

29・シーク教徒
インド人を見ると、ターバンとサリーを先ず感じますが、ターバンはシーク族が必ず頭に巻いています。髪の毛もひげも生涯剃り、切りませんので綺麗に髪を巻いて、6mあるターバンで包んでいます。私達を案内してくれたガイドは、デリー大学の日本語科の大学院に在籍してる、生徒さんのアルバイトでした。彼はシーク族でしたのでかなり詳しく教えてくれました。ひげも朝は布できちんと顎を吊る様にして、アイロンをかけていました。彼が話してくれたのでしたが、毎日、30分は掛かると言っていました。それと身に必ず、お守りのナイフを持っている事を宗教義務として守っていました。挨拶は必ず、両手を合わせて、合掌する様にして挨拶します、勿論握手もします、しかし右手だけです。教義をきちんと守って生活しています。インドですーー、お守りのナイフを持っていてもシーク族は検査をナイフを持ったまま通過させていました。シーク族だけが認められていると話していました。彼はどこから見てもシーク族です、紳士の気品が有る感じの良いインド人です。我々をガイドしてくれて、警察と兵士が居るゲートでの関門所で、彼は守りナイフを持って何事もなく通過して行きました。

インド人が宗教を生活の中で、その生活の一部として暮らしている事は、現代の日本人からしたら、少し奇妙な感じになると思います。現代の日本人が少し忘れかけた、宗教を背骨に入れた道徳を彼等は今だに持ち続けて居ると感じました。それからしたら、中国の現代社会がいかに偏見と差別を湾曲の解釈で教え込み、教授して、政治の道具と活用している厚顔ぶりは、『宗教は阿片なりーー!』の共産主義社会の世界で、道徳も持ちあわせていないと感じます。その彼がインド独立運動家チャンドラ.ボースの事を話して、彼が台湾の飛行場で事故死しなかったらインドの独立はまた、違った行き方をしたと話した事は、興味がありました。かれらインド人が、私が見た限りでは親日の人が多いと感じました。次回も色々な話題で書きます。

30・タバコ
インドで感心したのは、余り肥った人が居ない事でした。アメリカでは余りに肥満人がぞろぞろと居ますので、チョイ不思議な感じでした。カリフォルニアでは、人口の半分は肥満とTVや、新聞が報道していました。
間接的な医療費の損失は250億ぐらい年間出ているそうで、これは巨額な損失です。それとタバコを吸っている人が極端に少なく、歩きタバコを見たのは、ほんの数回でした。そんな事で、お酒を聞いたら、お店は全部公営だそうです。一般のお店では買えません。一部レストランや、食堂などは別です、勿論自動販売機などは有りませんでした。何か健康嗜好の国と感じます。宗教の関係も有りますがー!シーク族は酒、タバコはご法度です、モスラムの人もお酒は禁止となっていますから、かなりの人が日常生活での生活習慣病と無縁の生活をしている感じます。しかしびんろうの実を何かに包んで、くちゃーくちゃーと噛んで居ますので、これがタバコの代りと感じました。一度もレストランなどでタバコの煙りに悩まされる事もなくて助かりました。それからしたらまだまだ日本は喫煙天国と感じます、成田の出国待合室で、いまだに喫煙ルームがあり、今は完全に密閉して外に煙りが出ない様になったので助かりますが、昔は煙りでヒー!と悲鳴を上げていました。日本ではタバコを吸う人が50歳以上では60%近い数字ですが、カリフォルニア、当地の私が住んで居る所では、11%ぐらいです。つい最近の新聞に出ていました。そんな事でインド旅行の大きな印象となって残っています。次回も色々な話題に付いて書きます。

31・ガンジー翁
インドに滞在していて一番感激したのは、ガンジー翁の火葬場の跡を記念碑とした所でした。私が子供の頃に白黒のニユース映画で、ガンジー翁が火葬される所を見ました。その当時は彼が非暴力主義で、サンダルと杖でインドの国民服をまとって、田舎を廻りインド独立を説いていた精神に敬服していました。子供心に何か白黒の映画から天に立ち上る煙を見ていつかインドに行ったら、必ずや訪れて祈りを捧げたいと思っていました。ガンジー翁のお墓は有りません、遺骨はガンジス河に流してしまい、そこの火葬をした現場がインド建国の父としての霊廟として綺麗な公園として造られて、その中央に祭壇として飾られていました。幾千のお花で飾られた台は、人が踏まない様にとの事からでした。私が訪れた時に、どこかの外国の賓客がきて花輪を献花してありました。それと北部インドから来た多数のインド人が参拝に来ていました。バスで遠くから来たみたいでした。霊廟は靴足厳禁ですから皆さんは靴はバスに置いて来ている様でした。裸足で歩いて来ていました。

私はしばらくガイドの話しを聞いてから、感慨に耽っていました。ガンジー翁が若い頃に南アフリカでの滞在で、仕事をして大英帝国の暴虐ぶりを肌で感じていたと思います、しかし彼は非暴力主義を掲げて、空拳で、説法での民族自結を推し進めた事に、いつも心震へる様に感じていました。私も南アフリカでの経験が有ります、その頃は血気にはやり、『矢でも鉄砲でも持って来いーー!』の勢いが有りました。しかしガンジー翁が試みたその非暴力主義は,私にしては驚異でした。私の若い頃は『目には目を、歯には歯をーー!』の精神で、やられたらやり返すの心構えでいつもいましたので、殴り合いなど良い方で、狂犬の様に何人居ても武器を持って噛みついて行きました。早い話が、殺し合い寸前まで行きました。それはいつも拳銃を隠し持ち、『なめるん〜じゃネーー!』と言う心構えと、暴力を肯定していたからと思います、ガンジー翁の生涯を書いた本を読んで、心染みまして、いつの日か霊前に額ずいて、お参りしたいと言う気持ちは消す事が出来ませんでした。晴れた空の青さと綺麗なお花のコントラストを見ている内に、何時の間にか膝を折り、廟の祭壇の前で土下座する様にして頭を下げていました。納得して、気が付くまで頭を下げていました。私は感極まって泣いていました。脳裡に浮ぶ、白黒の映画の画面が横切り、彼を暗殺した暴力の無残さを感じました。私も歳を取り、歳月が全てを流していたのか、ただ涙が出ました。気が付いて廻りを見ると、何人かのインド人が目を見開き、驚異の眼差しで私を見ているのを感じ、中には涙している人も居ました。北部インドはガンジー翁の出身地だからです、彼等が崇拝する建国の父の前で異国の参拝者が土下座している事は、彼等にも何か感ずる事が有ったと思います。帰りに振り返ってもう一度、祭壇のお花の色を心のカメラが『パチリ〜!』と写していました。次回はインド訪問の結論を書きたいと思っています。

ガンジー翁の言動 Words of Gandhi

Thruth is God and Dod is truth
真実は神であり、神は真実だ

Where there is love, there is life; hatred leads to destruction.
愛あるとこに生があり憎しみは破壊に通じる

Satisfaction lies the effort, not in the attainment.
満足は努力の中にあって結果にあるものではない

Cowwards csn never be moral.
臆病者は決して道徳的にはなれない。

Honest differences are often a healthy sign of progress.
率直な意志の相違は進歩を示す健全な兆候だ

Nonviolence is the greatest force at the disposal of mankind.It is mightier than the mightiest weapon of destruction devised by the ingenuity of man.
非暴力は人間に与えられた最大の武器であり、人間が発明した最強の武器よりも強い力を持つ

Strength does not come from physical capacity. It comes from an indomitable will.
力は肉体的能力から来るものではない、それは不屈の意志から湧き出るものだ

An nation that is capable of limitless sacrifice is capable of rising to limitless heights. The purer the sacrifice the quicker the progress.
限りない犠牲に耐えることで国家は反映することができる

Non-cooperation is a protest against an unwitting and unwilling participation in evil.
非協力運動は無意識のうちに 悪に加担してきたことに対する抗議だ

You will eat not satsfy your palate but your hunger. Aselfindulgent man lives to eat; a selfrestrained man eats to live.
人間は生きるために食べるべきであって味覚を楽しむために食べてはならない

Love is the strongest force the world possesses, and yet it is the humblest imaginable.
愛はこの世でもっとも効果的な力だ にもかかわらずこっとも謙虚である

It does not require money to be neat, clean and dignified.
尊厳を保つためには金は必ずしも必要ではない

To forget how to dig the earth and tend the soil is to forget ourdelves.
土を耕すのを忘れるということは、自分自身を忘れることだ
 
七つの社会的罪 Seven Social Sins:ラージガートにきざまれているガンジーの碑文より
理念なき政治 Politics without Principles
労働なき富 Wealth without Work
良心なき快楽 Pleasure without Conscience
人格なき学識 Knowledge without Character
道徳なき商業 Commerece without Morality
人間性なき科学 Science without Humanity
献身なき信仰  Worship without Sacrifice
ガンジーのこの箴言は、人類への普遍的な問いかけである。 



(写真:祭壇)

32・インドにはまる
インドを旅して、心感じる事は大陸と言う雄大さです、ここからヨーロッパまで歩いても行けると言う、地続きの大陸と言う大きさを感じる事が出来ました。雄大な時間的テンポを我々島国で育った日本人的感覚からしたら、どこか、はみ出した気分になります。良く日本人がインドに『はまるーー!』と言う形容を使うのですが、それは端的に短い言葉で適切な表現と感じます。現代と古代とその中間の中世の生き方がまるで、タイムスリップした感じを味わえると思います。現代社会に疲れ、傷つき、逃れる様に旅に出てきた若者が、道端のインドチャイの店で、1杯十円なりのチャイを飲みながら、道端に腰を下ろして、時間に逆らう事無く、ひもすがらガンジス河の流れを見ている若者が、現代社会の俗世のアカを河に流して、心深く傷ついた競争社会の造反した自分の良心に鬱積したアカをを落として、癒していると想像しても何も可笑しい事は無いと確信します。薄汚れたジーンズとTシャツで、汚れた足にサンダルを履いて、日焼けした顔は生気に溢れて不精ひげは長旅の行程と認める勲章に感じ、若者が現代社会で忘れていた何かを掴む事が出来る旅かもしれません。宗教に無縁の若者で、英国のビートルズの一員で、ロックスターが全てを投げ打ってインドを旅して、心癒し、精気を養い、これからの将来と希望と、その迷いの世界を解き放った様に、インドには妖怪のごとく若者の魂を虜にする不思議な世界と、その迷える魂を吸引する癒しの天国が存在すると感じます。カネや太鼓を打ち鳴らして『ホーリークリスナーー!』と天に向かって叫び、眉間に神の朱色を塗り、信じる神に酔いしれた白人や東洋人が、麻薬に酔いしれた様に踊り狂う様は、俗人として下界をさ迷う我々には到底理解と、共感は出来ない事なれど、しかし我々も若かったら、引かれ、惑わされ、狂い、信じて現代社会の癒しと贖罪の為に、同じ様に踊り狂ったかもしれませんーー!。『惑える子羊達に祝福あれーー!』なむあみだぶつ〜!



(写真:夕暮れ時)

33・インドと中国
インドを総括して旅のまとめを書くと、インドの動き、すなわち政治に突き当たる感じがします。インドの国内情勢は連動して世界の情勢に反映されて来ます。インドと中国を合わせると世界が見えて来ると言った人がいます、それはこれからのエネルギーや食料供給問題、社会の発展にからむ公害問題、資源問題、世界が大きく動き出した中で、最近の中国とインドの接近が有ります。両国は互いに国境を接している隣同士の国です、昔に国境線問題で、中印戦争まで引き起こした事が有るのです。その昔の犬猿の仲がここに来て急接近している事は、注意しなければなりません。お互いに世界に向かって動き出した国が手を握ると言う事は、何か魂胆が有ると考えることが正解と思います。特筆されなければならない事は、インドを訪問した、温家宝中国首相が今月の11日にデリーで会談して『戦略的関係』を認めて「戦略的パートナーシップ」の樹立で合意して、チベット問題は中国の内政問題と合意した事はこれからの、パキスタン問題でも何かの魂胆と憶測を秘めていると取れます。それは1960年代から続いた両国の国境問題について、双方とも原則合意をもとに、国境の確定交渉を進める事を双方で確認している事は、パキスタンとの国境問題を狙って布石とした観は拭えません。パキスタンとインドは今月の7日に57年ぶりにカシミールまでのバス運行を認め、2週間に一度、相互家族訪問を認めています。1947年より印パ戦争は、3回も衝突を繰り返して、宗教問題も抱えて現在もなお混迷の中にさ迷う感じで、政治が動いていますが、その中での中国のインドに急接近は何か目が離せない感じがして来ます。カシミールも観光名所が沢山有ります、それと1500万人の住民が住んで居る場所であると言う、認識を持たなければなりません。もし世界で核戦争が起こるとしたら、インドとパキスタンが一番の危険性をはらんだ場所です。次回もこの続きを書きます。

34・インドと中国の比較研究
私が個人的は研究課題としてきたのは、名付けてアメリカの『穀物戦略』の世界的戦略展開から感じて、中国の日本に対する『蔬菜戦略』の研究でした。この中国が国家を動員しての蔬菜戦略は、日本が開発した特許の種子をコピーして、日本市場で売れる野菜農産物を大量にかつ安価に持続的に日本の市場の送り込む戦略は日本の近郊蔬菜栽培農家と集団蔬菜栽培農家を危機に追いこみ、破壊して、次期の農村後継者まで失わせる事になりかねない事態を引き起こしています。このような事態を政府は長い間放置して。一部は完全に生産停止した物も有ります、畳表に使うイグサがそうです。それから椎茸やネギなども一度は危機的な価格破壊が起きて、農家が生産原価を切って、まったく採算が取れない事態になった事が有ります、日本の10分の1の生産単価では所詮の価格の比較が、なりたたない事態です。一度これに危機感を抱いた政府が輸入制限をしたら、トラックなどの大型車両の中国市場の輸入制限を引いて、対抗してきましたが、ごり押しの中国政府の政策は何か日本の食料生産を阻害する、魂胆を秘めている感じがしてきます。これとインドの農業生産の形態を比較して見る機会が、今回のインド訪問からだいぶ得る事が有りました。次回はこの問題の精査をして、これからの日本の農政の展望を見たいと心思う所存です。インドと中国の比較をして見ると、少しこれからの世界が見えます。なにせ2カ国で世界人口の半分を占めますからーー!   


              インド              中国
核兵器所持、      所持              所持
ICBMミサイル、     中距離ミサイル      大陸弾道ミサイル
石油自給        35〜40%         推定で70%以下、

穀物自給率       ほぼ自給        主力穀物大豆、小麦
         一部少量大豆輸入開始    トウモロコシ、大量に輸入

IT教育水準、      世界レベル         一部ハイレベルのみ
資本主義?       自由経済       社会主義統制経済

国の経済活動      好調上向き      一部過熱、内陸部衰退
              一部農村部停滞     農村部格差拡大

宗教活動         自由          制限と、監視下での自由
個人財産の自由?   自由財産制      制限下での一部分のみ

主要な点を比較して、これからの自由経済下の20年先、50年先を見るとどこかで、これから大きな差が出てくると感じます。北京オリンピックを境に、中国経済と政治が破綻すると予測する人が多くいますが、中国社会が宗教的な道徳観が無い人間社会の、多民族的な集まりであれば、一部指導者が軍と公安警察の裏打ちを無くせば簡単に崩壊となると予測出来ます。インド社会を見て、多民族ながら内部紛争も抱えているが、彼等のインド式テンポでの前進はゆっくりとした中で、確実に動いている様子が見えます。傍観者の立場になる我々外国人からしたら、インドを理解するには、そこに住んで、手でカレーを食べ、左手で用便後の始末を出来るようになったら正解が出せると話した人が、これ本筋を言い当てていると感じます。中国はいかにせん、近年に年/1280万トン近くの大豆を輸入しているし、石油の2030年の消費量は、全世界の消費量の約4分の1を占める米国の現在の消費量にほぼ追いつくと予想されて、これからの世界資源の分布からしたら、インドより先に人口増と急成長の万元家社会主義が破綻する事はアメリカの穀物戦略からしても、何か予測が出来る様に感じます。次回で、『もと百姓が見たインド』を終了致します。

35・終わりに
インドの旅の総括を書いている内に、そのインドの政治を見た時に、観光旅行と言えども、政治が密接に関係している事が分りました。タージマハルの訪問でインド軍の兵士が警備している事は、インドの国宝と言われる施設を、隣国のパキスタンとの関係悪化で、テロを受けない様に、完全な所持品検査を受けなければなりません。それからカシミールに行く道路では、関門と通行制限が行なわれて一部外国人の立ち入り禁止区域が存在します。私がインドを精査する内に気が付いた事は、中国の国際戦略がこれからの社会主義を維持、発展させる為にあらゆる方策を採って中国の学校教育から、中国に対しての投資開発の推進、維持となりふりかまわない政策が行なわれている事を、インドを通して見る事が出来ました。同じ大国でも、これからの両国の動きではかなりの国際的影響は免れません、一番のエネルギー源の石油と核燃料の供給です。インドで感じたことはチャイナ.マネーの石油資源への投資です、スーダン復興支援も石油産出を見当てにアメリカが17億5300万ドルと巨額な支援を表明しているのに、日本は当初1000万ドルを検討したが、中国を睨み最終的には10倍もの資金を支援に積み上げたが、中国は30年先を見ているのか、スーダン石油の開発の97年から本格参入して、石油鉱区の第1、2、4鉱区から日量30万バレルも生産され、今年の終わりには50万バレルとなると予測されるが、全輸入量の4.7%を現在スーダン石油が賄っている。スーダン石油に中国が支払う代金は推定で年間、60億ドルとなる事を考えると、インドが中東からの石油の最短コースを握り、安定供給を国家計画の柱にして居る事を考えて、国内生産拡大と消費拡大をバランスを取りつつも、中国を視野に入れた国内産業開発は、過熱する事無く、長期に経済発展をするのでは無いかと考えます。現在上海だけで約4000社の日本企業が進出して、約、3,4000人の日本人が滞在している事は、駐在員を人質に取られ、企業秘密や特許を盗み取られ、コピーされ、知的財産を侵害されて生産ノウハウまでを全てをむさぼられている現状は、知的インド人からしたら、はなはだ日本の知的財産的、社会的な損失となっていると話していた。その支えのスローガンがただ『日中友好親善』と、何の保障も無い言葉で支えられ踊らされ、日本の国力が失われ、消え去っていく事はインド人から言われ無くとも、もっと真剣に日本人は考えなければ、ならないと思います。

インドを旅して、いまだに牛のフンを乾燥させて燃料とし、木の枝1本も大切にして燃料とする国民性と、アメリカに住んで、慣れて、それがあたり前になった生活からすると、質素で食べる物も総体に量が少なく、動物タンパクの摂取過多の生活習慣からも、ほど遠いインドの生活を見ると、これからの30年、50年先はインドが生き残って繁栄しているかもしれません。

終り。




2007年の再訪の記録です。



(写真:ミニ・タージマハル)

01・インド再訪
今回のインド再訪問は半月もの行脚でした。次男が今年の5月で、インド、ニュー・デリーの仕事も切り上げると言う事で、丁度、次男の彼女もイギリスから来る事になり、其れに併せて仏教遺跡の訪問を計画いたしました。キリスト教徒がエルサレムを巡礼訪問し、モスラム達がメッカ巡礼をする様に仏教徒がインドの釈迦の仏教遺跡を巡礼する事は意にかなった事と思いお寺出身の先祖を思えば一度訪ね歩きたい場所でした。450年前に先祖が戦いに敗れて家族と家臣を連れ、福岡、八女地方で髪を落とし、寺を建設し村を起こして居付いた時から、私で15代目の末裔となりその先祖の志を持って仏教遺跡の巡礼の道を歩きました。 しかし仏教遺跡を歩いて心感じる事は、偉大な宗教心とその執念と実行力です、インドのあの辺鄙な場所から経典を肩に担ぎ、シルクロードを歩き、日本まで、仏教の経典を持ち帰った三蔵法師の、その偉業を心感じました。今回はインドの経済成長に目を見張り、その巨大なエネルギーを感じました。去年のTV二ユースで日本の企業へのアンケートに、これからの投資と企業の展望としての国は何処かと言う答えが全部『インド』でした。 それはデリーの飛行場に降り立った時から、湧き上がるエネルギーとして、喧騒の町を肌で感じ、3年前に建設していた道路や建物が出来上がり、また新たな工事が展開されている事を自分の目で見て、これからのインドが巨象として動き出した感じが致します。これから農村地帯を実際に歩いて見て、感じた事も書いてみたいと思っています、時代は動き、変化して、変貌する様は、実感として体感する現実の現場を持って計る事が真実を秤り、それから世界に動き出したインドを予測する事にも成ると感じます。今回のインド訪問に関連して掲載する写真は、以下のYahooで見る事が出来ます。今回の写真はタージマハルが出来て50年ばかり後に、コピーで建築されたミニのタージマハルです。大理石ではなくて漆喰を二重に塗り固めて壁が建築されています。南に下がったアウランガーバードと言う都市に所在致します。

http://photos.yahoo.co.jp/bigbluesky7jp

2・仏教巡礼の旅

前回、05年に訪れた時は2月でしたが、今回は年末から、1月の半ばまで滞在いたしましたが、田舎に行けば稲刈りが終わり、綿の収穫も済んでいました。広々と広がるインド平原の中を、車を走らせましたが、どこまでも広がる青々とした麦畑には感心致しました。まだ10cmぐらいでしたが、食料自給が出来る体制には農民の熱意が染み込んでいると思います。今回のインド訪問は次男の招待で決意いたしましたが、内心は歳を積み重ねるごとに心感じていた、インドの仏教遺跡への巡礼訪問でした。仏教聖地の巡礼は多くのインド隣国、ブータン、ネパールなどと、チベットからも来ている多くの仏教徒を目にして、その信仰心の情熱を心感じました。デリーの国際飛行場でも、近隣国から来た僧侶が仏衣をまとい、僅かな手荷物で巡礼の旅に出る様は、インドが仏教の聖地として存在する事を改めて感じさせられ、行く先々でその様な僧侶が仏陀のゆかりの聖地でひれ伏して祈り、座禅を組み、瞑想している姿を見ることが出来ました。また、ブータンからはるばるバスで訪問して来た若い僧侶の集団が、引率の老いた僧侶に従い、仏陀の前でお経を唱えている姿が印象的でした。法衣の片袖から腕を出して、キャンデーを出して食べている童顔の若い僧侶達が、道路わきの小道を並んで宿坊に帰る姿は今もこのまぶたに残っています。デリー国際飛行場も大改革が進められ、あちこちが工事中でした。3年前は古いトイレで、古式なスタイルに驚きながら使用いたしましたが、今回はその場所も増えて、まったく新しい様式で最新な設備を設置してあり、安心して使用することが出来ました。しかし、現地式と洋式とがあり、現地式は例の水洗ですが自分の手であそこを洗うという、昔からの伝統のやり方でした。勿論の事に跨いでする、日本の田舎家庭にどこでも有ったやり方です。良く観察すると、1mばかりのホースが側に有り、それで散水先が付いていますので、チョロチョロと水を出して洗う様でした。次男のアパートでは便座の後ろから細かなパイプがあり、側の水道口を捻ると水が出る仕組みでした。これは洋式便座ですからその方が便利で簡単でしたが慣れると紙を使用するより資源の節約、下水管の保護と次男の説明と合致いたしました。それと普通に家庭で使用する、トイレのロール紙が4個で150ルピーも致します。現在1ドルが38ルピーですから、インドではかなり高額な値段となります。紙質も私達がアメリカで使用する物よりかなり落ちますので、お尻水洗が最上と感じました。田舎では水の入った壷を脇に置いて、しゃがんでいる人を沢山見ましたが、中にはお尻が丸見えの人も居まして、のどかでした。しかし、現実にインドの12億近い人口がトイレット・ペーパーを使用したら、年間どれだけの森林資源が必要か、驚きに値すると思います。一人の人間が一生で使うトイレの紙は、パルプ材にして30cmの直径で5mの長さを1本半分もになると聞いた事が有ります。このこ事に関してもインドは世界経済にも有利に成ると感じます。

03・フライト
今回のフライトはチャイナ・エアーラインに搭乗いたしましたが、先ずは合格の飛行でした。台北経由で、そこまでサンフランシスコから直行で飛びますのでかなりの搭乗時間でした。季節の気流の状態によりますが13時間は確実に掛かります、先ず出発カウンターで8割までがインド人と思いし人が並んでいます。年の瀬も押し迫った30日です。出発が12時15分とか真夜中の搭乗となりましたが、チックインで並んでいる周りのインド人に聞いたら、親戚の結婚式で帰省するのが一番多いようでした。前に居た家族連れもインドのパンジャブ州に帰ると話して居ましたが、同じく結婚式に参加すると言っていました。到着して、デリーから6時間もバスで走ると言う事で、小型バスを貸切って家族と大きな荷物を載せて帰宅すると話していましたが、アメリカに33年も住んでいると言う事で、インドには遊びに帰るだけと話していました。もうインドには帰れないし、生活も無理だと言っていましたが、到着して私の妻が荷物が出て来るまで、近くのトイレに奥さんと入った所が、インド生まれなのに、これがインドを実感させると話していた様です。アメリカに永住すると話していましたが、今では医者、IT関係や多くの技術者がアメリカで働いていますので、これからますます、アメリカに腰を落ち着けて彼等が伸びていくと感じます。荷物がベルトコンベアーで出て来るときに、思わず驚いたのは荷物の巨大なトランクとその数です、重量制限と考えていましたが、ズンズンと搭乗手続きが済んで載せていましたので、改めて流れ出て来るその荷物の多さに驚いて居ました。私達夫婦は僅かな手荷物と1個の大き目のトランクだけです、簡単に受け取りまして外に出ました。そこには次男と彼女が迎えに来ていましたのであれよ・・言う間にスズキの軽ワゴン使用のタクシーに乗り込みアパートに急ぎました。驚いた事にプロパンガスのエンジンで走っていましたが、軽の自動車ですから振動と音がうるさくて、それがチョロチョロと道を走りますので、次男のアパートに到着するまでドキドキでした。途中で乗り合いバスがバス停に割り込まれた車で、止まることが出来ずに道路の真ん中で停車してお客を乗降させていたのには驚きでした。それでも何事もなくお客が歩道まで歩いて、スイスイと車を縫う様に事を済ませて居るのには、このくらいでインドの交通事情に仰天していたら、私の心臓が止まるか、悪くなると感じます。例の如くその車の僅かな空間で芸をして小金を要求する子供達が居たのにはもっと驚きました、なにせ、その芸と言うには二人が太鼓を叩いて、一人がトンボ返りを見せるという離れ業です、いつ車がドーッと動き出すか分からない状態ですから、ヒヤヒヤで見ていました。それにしても道はいくらか良くなったと感じますが、なにせ増え過ぎた車両がひしめき合い、怒鳴り合い、警笛鳴らしっぱなしで、我勝ちに突進する様は交通ルールなどお構いなく、そこに3輪のパタパタやオートバイが我勝ちにその隙間に割り込んで来ますので、目が丸くなるより先に、埃と排気ガスを避ける為に、タオルで顔を隠すようにして呆然としていました。今回も最初から、これがインドと言う事をしみじみと実感させられました。

04・息子の自宅へ
暮の押し迫った31日にインドのデリーに到着して、飛行場からタクシーで、次男のアパートにまで軽自動車に揺られて40分ばかりでした。アパートではメイドがインド料理でランチを作って待っていました。彼女はすでに帰宅していましたが、料理がテーブルに並んでいました。通いのメイドの様で毎日、朝来て掃除洗濯をして、次男の夕食の料理を作ってから帰るそうですが、その労賃は聞いて驚きでした。1600ルピー(約40ドル程度)の労賃です、洗濯も毎日来ると直ぐに洗濯カゴから出してバケツのお湯に洗剤と漬けて、それから部屋の掃除が始まりました。掃除が終わると洗濯をして、料理が始まるようですが、何せその仕事のテキパキして速い事です、サリーを着てサンダル足ですが、それが仕事スタイルの様でした。面白いことにメイドもインドでは階級があり、それもカーストから来る仕事の役割の様でした。 メイドの彼女は絶対に便所の掃除はしない様でしたが、それは別に便所専用を雇用しなくてはならないそうです。おかしなカースト制度と感じます。到着した日のランチは次男のアパートで、メイドが調理して作ったインド食でしたが、味は辛めで、豆が多く使われ、米は勿論のことに、長粒米でポソポソのお米でしたがインド料理には合う感じでした。次男の彼女もインド滞在が長いので片手で機用に食べていました。ナンとチヤパティーも有り、それぞれに味のある物に加工してありました。次男にはアメリカの我が家から『梅干入りのおにぎり』を土産に持って来て居ましたので、これも持参のインスタント味噌汁を作り、海苔を巻いてバリバリと、美味しそうに次男が食べていました。しばらくぶりに食べる我が家の胚芽米のおにぎりの味が良いのか、美味しいと言いながら、ぺロリと食べていました。まさか、おにぎりの土産とは驚いて居たようでした。メイドの作るインド食に次男は慣れて、日曜日には必ず大きなインド式のランチ・オムレツを作って貰うそうですが、ケチャツプを掛けて食べるのが大好きと話していました。ランチの後は少し長旅の疲れを癒す為に私達はそろって昼寝をしていました、日曜日はランチを作りそれで帰るそうですが、10時ごろ来て1時頃には全てを済ませて早仕舞いの様でした。それにしてもアパート前の道路の凄さまじさと形容したのが一番適切と感じます。車の警笛にオートバイのグ・・!と言うエンジンの響き、物売りの良く響く声、近所のビルの工事の音、アパート前の道の混雑はまさに驚きの凄まじさ、デリーの下町でも本物で、すげー!と思うばかりで、チョイと話しても信じてもらえませんでした。狭い通りに両側駐車、屋台や引き売りなどゾロゾロ・・、そこにリキシャがノロノロと割り込み、自転車やオートバイがビビ・・、と騒音のすれ違い、私が『うるさくない・・・?』と聞くと『慣れて感じない・・!』との返事でした。先ず論より証拠写真です、アルバムを見れば納得すると思います。



(写真:渋滞)



(写真:雑然とした下町)

05・大晦日の夜
急激に人口増のデリーの市内では、かなりレント代が高騰している様で、次男も前は、デフェンス・コロニーの高級住宅街に住んでいましたが、家賃が半値近い下町に引っ越して来たようでした。家賃は2ベットに洗面所が二つ有り、台所とリビングルームが付いて、入り口はかなり広いバルコニーが有りました。温水器も2台付いていました。そこは洗濯干し場に使われていましたが、どこの家でも洗濯物が見事に干して有りました。ドライヤーなどは使う事が無いと言っていました。インドでは洗濯も使用人か、通いのメイドにさせますので、洗濯機など必要ないと次男が話していましたが、それでまた沢山の仕事場が増えると言う事のようでした。次男もアイロン掛けは時々は専門の街頭のアイロン屋に頼むそうですがシャツなど、かなりの枚数をアイロン掛けて業者が持って来ましたので、聞くと、15ルピーだそうでした。50円もしない値段です。ジャガイモ1kgが20ルピーだそうですから、インドの貨幣価値が分かります、まだまだインドでは人を使った方が安いという事かも知れません。大晦日の夜は合気道関係者とでデフェンス・コロニーのクラブで新年会に行き、そこで10時過ぎまで食事をしながら音楽を聞いて、わいわいと話していました。日本からも年末に合気道の関係者が来ていましたのでお話をする事が出来まして楽しい一時でした。早目に帰宅して、道路の前を通る賑やかな楽隊やパレードを見ていました。零時近くなると花火で上がり、警笛がビー!と鳴らされ、子供達がゾロゾロと歩きながら『ハッピーニューイヤー!』と大声で叫びながら歩いていました。初めてインドの大晦日と新年を見ましたが、どこの国でも同じと感じました。我々はグラスにスコッチ・ウイスキーの20年物を注いで乾杯致しましたが、異国での新年を改めて肌に感じました。それにしても街頭のご近所さん達、牛や野良犬達は昼間はどこにでも姿が見られましたが、今夜は花火や車の警笛などの影響か、通リを見ていても、どこにもその姿は有りませんでした。それにしてもデリーの下町の活気の凄さは、人口密集もさることながら、これがインドの現実と体感で学びました。元旦の1時頃に、まだ通りのざわつきを耳にしながらベッドに入りましたが、直ぐにウイスキーの酔いも有り、夢路に就きました。

06・大晦日の夜
元旦はゆっくりと寝ていました。外の通りも昨夜が遅かったのか、目が覚めた時は、まだ静かで昨夜の雑踏の喧騒は有りませんでした。朝は次男がコーヒーを入れてくれ、それからアメリカより持参した赤飯をお湯で暖めて、インスタント味噌汁と沢庵で祝いました。赤飯はパック入りで簡単に温める事が出来まして、熱々の赤飯をインドの正月に食べるなど、二度と無いと箸を付けながら思いました。午後にはムンバイ(昔のボンベイ)に飛行機で2時間で飛び、そこからまた、45分程度飛んでAurangabad(アウランガーバード)に到着致しました。45分と言っても、汽車でしたらムンバイから7時間半も掛かります。デリーからムンバイまでは飛行機では2時間でも、特急列車ではかなりの時間を要しますので、丸一日掛けて、それも寝台列車で揺られて行くなど、とてもでは若い次男と付き合いきれませんので、飛行機を選択いたしました。ムンバイ行きに飛行機を選択したのはそれが正解でした。時間的、体力的にも楽チンで、デリーでゆっくり元旦を祝って家族4人で午後から飛行場にタクシーで行きました。次男の彼女も同行しましたのですが、4名でしたら車に乗るにも都合が良く、旅は殆ど貸切の車を使いましたが、快適で早く、便利でした。搭乗いたしましたのがインド国内便のエアー・インディアでしたが、サービスも良くてサリー姿の乗務員が印象的でした。私もマジで至近距離で見たのですが、サリーの中間辺りのお腹がチラリー!と見えるのです、JALでは考えられませんので、インドではサリーの制服はセクシーと感じました。飛行機はムンバイ行きですから7割方はビジネス客と言う感じの背広姿が多くて、他は観光客が多かったと思います。中に初めて飛行機に搭乗するかと思われる中年の男性を見ましたが、どことなく、おどおどとしていて、通路を隔てて座っていましたが、見ていて何か笑いがこみ上げて来ました。飛行機が離陸する時に、何かお祈りをしている感じで、目を見開き、身体を硬直させ、飛行機が安定飛行に入るまで、そのままの感じでした。ランチが配られる時も、テーブルを乗務員がセットしてランチをそこに載せて居ました。その方もランチが終わってからは、飛行機の窓に額を付けてムンバイに到着するまで見ていました。私も44年前に、南米で双発プロペラ機のDC3に搭乗した時に、同じ格好をしていたと思います。その時は降下兵用の輸送機改造機でしたが、座席がキャンバス製の簡易シートでした。アメリカの国内便では搭乗時間が2時間ぐらいでしたらランチは無しで、欲しい人はサンドイッチなどを買う事になります。それからしたらインドでは正式なトレーに載せた美味しいランチも出ました。勿論の事にインドですから菜食主義者の方が多いので2種類有りました。私が食べたのは鶏肉のカレー煮でしたが、横にライスも付いて味も美味しい物でした。アウランガーバード飛行場に到着して、外に出ると手配していた車が待っていました。その車で泊まるホテルまで行きましたが市内を通過して、20分ばかりで田舎の3星クラスの宿でしたが、日本人もかなり泊まって居るようでした。到着したその夜はどこも行かずにシャワーを浴びて、食べ放だいの南インド料理を食べに行きました。そこの町でも有名なラストランでしたが、座ると大きなステンレスの大皿が出てきてそこの中に8種類ばかりの料理が小皿に入れてあり、その一つでも食べ終わるとすかさずまた料理を注いでくれました。ボーイが小型の鍋を提げてテーブルを廻って居ますので、手で皿を隠さないと、ポィー!と入れてくれます。ナンとチヤパティーも食べ放題でドンドン持ってきます。隣では音楽が賑やかに鳴り、沢山その町のローカルの方々が来ていました。家族でレストランの食事を楽しんで外に出たら、隣に韓国現代電気の新しい電化製品展示場が有り、こんな田舎と思いましたが、大型スクリーンのTVが並び、これからのインドの先を見て、先行投資と感じました。その店だけが大きなガラス窓のショールームで輝いていました。内心は心の中で、『韓国も味なビジネスをやるな・・・!』と思っていました。

07・南インドにて
南インド料理のレストランの帰りに、運転手が市内を少しドライブしてくれました。時間的にも早いので、田舎町といえどもインドです、かなりの人が街頭を歩いていました。ニュー・デリーは車が多かったのですが、そこはオートバイの数が凄いのには驚きました。市内だけですが、それに3輪のパタパタが走り廻り、喧騒の街中で綺麗なビルが有りましたので聞くと、私立の病院で長期滞在型の外国人向けの病院と聞いて驚きました。アメリカ人も来ていると話していましたが、ヨーロッパ人が多い様でした。それにしても、インド人がハイテク技術や医療関係でアメリカ国内でも多くの人が働いています。医療関係などで、医者はインド国内で医者の免許を習得したら、アメリカでもう一度、医者の免許試験にパスすればアメリカ国内で仕事が出来るので、英語での教育を受けてきたインド人からしたら、難しくはないと感じます。二ユーヨークでは40%近い率で医者がインド人と聞いたことが有ります。アメリカからインドに戻り、病院を開業している人も沢山居ると次男が話してくれましたが、次男が合気道の練習中に指の筋を切り、その手術をしてくれた医者もアメリカ帰りと言っていました。そのレベルも高く、最新の医療施設で応対してくれ、完全に次男の指も完治しています。私もテレビで見たのですが、キューバでもその様な患者を受け入れていると見た事が有りますが、インドで、それも田舎の都市で、同じ様な病院を開業していたとは少し驚きました。そこの病院を見てからインド・サリーの服地製造の仕事場を見に寄りました。早く言えば製造販売の直営店でしたが、時間的に遅かったので年寄りの老人が一人で絹地に模様を入れながら機を織っていました。細かな繊細な仕事です、手間の掛かる仕事は1ヶ月も織ると話していました。丹念に見せてくれましたので、帰りにチップを20ルピー握らせると、機を織る手を休めて、布地を広げて見せてくれましたが、薄暗い電球の下で、金糸がキラメク様に光っていました。おそらく金持達しか購入出来ない価格と思いますが、優雅な模様のサリーを着れるご婦人の姿は、さぞかし素晴らしいものと考えていました。インドでは階級差と貧困の差が極端ですが、その下で働く多くのインド人がインドの下支えとなり、現在の発展するインドを作り出したと感じます。帰り道に街道に出ると、TATAの大型トラックが隊列を組んで何台も荷物満載で通過して行きました。南インド地方で収穫が終わった綿の梱包が見られ、何処かの港まで運ばれていくと思いました。その夜は明日の早起きを考えて、直ぐにシャワーを浴びてベッドに入りました。

08・アジャンター窟院群-01
正月2日は朝、6時半には起きて仏教遺跡見学に行く用意をしていました。車が7時半に迎えに来ると言うので、それまでに朝食も済ませていました。私達が泊まったホテルは3星程度のホテルでしたが、日本人も二組会いました。いずれも女性で一組はすでに昨日、遺跡見学をして来たと話していましたが、バスがオンボロで、とても寒かったと話していました。私達が新車のトヨタSUVの車で、運転手付きで行くと話したら、羨ましいと話して居ました。インド相場で1日、100ドル程度です、4人でしたら完全に安くなります、彼女達はバスで住復20ドルほど掛かったと話していましたので貸切でしたら4名が便利で安く、楽チンに旅行できると思いました。トイレも声を掛けると直ぐに綺麗で便利な場所に止めてくれ、アウランガバードからアジャンター窟院群の遺跡に行くまで、一台も追い越されなかったのには驚いた、若い運転手でインドのローカル音楽をCDで聞かせてくれたが、何かその旋律までが、街道に綿クズが所々にちらかる田舎の風景とマッチして、南インドの光景を見た感じでした。その地域では綿の収穫が終わり、その綿を満載で走るトラックと行き交い、道端には砂糖キビの山を積み上げた牛車が並んで、それをトラックに積んでいました。田舎の街道を走ると牛車とヤギと、ラクダが引く荷馬車が交差する道脇で、工事が行われていましたが、光ファイバー・ケーブルの埋没作業でした。最先端のケーブル事業と日本では当の昔に消えて見られなくなった光景が共存して、インドならでの光景を作り出していました。余り人影も無い地帯を通過する時に、サリーを着てサンダルを履いて頭に荷物を載せて歩いている婦人を見ましたが、よく見ると近くにケーブル工事の飯場らしきテント小屋が有り、資材のケーブルの山が有りました。その黄色や赤や緑のパイプの原色の色合いが、何かインド風な景色にマッチして、サリーを着た婦人が同じ色合いの模様を着ていたので、ふと・・、見入っていました。車は11時前には到着しましたが、途中峠を超える時に、山間の坂で大型トラックが綿の梱包を満載して崖に転落していたのが見えました。アジャンター窟院群は世界遺産に登録され、世界中の人々が見学に来ていますが、その価値は十分に有り、仏教寺院遺跡の中でも5世紀半ば頃にインド文明が開花した時期に、その当時の最高技術を用いて、造営されたアジャンター仏教石窟群は世界遺産として自分の目で見て、改めてその素晴らしさを心感じました。子供の頃に図書館で見た仏教遺跡の写真を思い出して、我が手に触れて、おそらく二度と来る事は無いこの遺跡に、過去の重いと重なり、石窟の中に作られた仏の石像を見て、手を合わせて祈る我が姿に、思いは『よく念願が、かなって来た・・・』と言う幸せでした。またこの様な石窟を緻密に細工に彫り上げた執念は、ただただ驚くだけで、宗教に対する思いが、人々の心をいかに情熱の火に駆り立てるか思い知った感じでした。遺跡の中には特定のバスでしか入る事が出来ませんが、乗ってきた車を降りて家族で身軽ないでたちで見学に行きました。各自、ボトルの水も持参で、かなり歩きますが先ずは遺跡の入り口に立って、体から興奮の震えがこみ上げて来ました。

09・アジャンター窟院群-02
場内を歩き出してその壮大さ、規模の大きさが分かりました。かなりの年月を経て建築された遺跡です、当時は機械と言う便利な物は少なかったと思います。精巧に刻まれた石肌の彫刻とその模様がライトに照らされて幻想的な模様を作り出している様子が覗えます。1500年の時間を経て現在時間に再現されて我々の前で見る事が出来ますが、このアジャンター石窟群の中に有る、代10窟の石柱にこの遺跡を発見して世に広めたイギリス人の落書きが残っています。案内人の懐中電灯で、それを目視することが出来ました。彼の名前はJohn Smith氏で彼はベンガル虎の狩猟に来て、河を伝って案内人と歩いて来て発見したと記録されています。落書きの様子は『ジョン・スミス、第28騎兵隊、1819年、4月28日』と書かれている、当時は薄暗い洞窟の中に1,5mもの土が堆積して居たと言うことで、石柱のかなり上部にサインが見えました。私は入り口でガイドを個人的に雇いましたが、その説明が無ければとても探して見ることは不可能だったと思います。第1窟は釈迦の本尊を中心にかなりの色彩画と彫刻が左右のかなり大きな部屋の両側に見られ、両側の壁の中に作られた小部屋は僧侶達の寝起きする部屋だったと説明を受けましたが、畳2程度の小部屋で石の寝台が両側に有るだけでその当時の僧侶の厳しい修行の姿が感じられました。紀元前1世紀頃の前期石窟と後期の紀元5世紀頃の石窟とに分かれますが、全部で30有ると言われる石窟の中で、前期は5つの質素な石窟です、後期と比較するとそれが一目瞭然と分かります。ガイドの説明を聞いてその時代的な差と、仏教のテーマとする石窟を飾る詳細な壁画とも関連して、5世紀頃にインド文明が花開いた黄金時期と重なり、後期石窟の壮大さ華麗さが見る者の心に圧倒的な印象を与えてくれます。本で読んだ事が頭によみがえり、これだけ栄えた仏教文明の石窟群がブァーカータカ帝国の崩壊と共に、この巨大な遺跡が放棄されて時代の闇に眠ることになった事は、いまだに謎とされています。多くの学者が推測を語っていますが、多くの僧侶達や、職人、工事関係者などが一度に消えてしまった事はブァーカータカ帝国の崩壊と共に起きた戦乱が原因と言われ、その後、寺院窟は千年の眠りで、ワーグラー河の河畔でジャングルの中でひっそりと隠れていたのです。その密林の中からイギリス帝国植民地軍の兵士により発見されるまで、歴史が止まっていたのでした。世界遺産として現在は世界中の人々が訪れる場所ですが、歴史をこれだけ感じさせる場所は余り無いと思います。

10・アジャンター窟院群-03
アジャンター石窟群を歩き始めて、最初に気が付いた事は、かなり気温が高く、暑いと言う事でした。太陽に焼け付く岩盤の照り返しと、熱を吸収した石盤の壁と床が、ヒートしている事を足の裏に感じました。それは石窟に入る時は下足して入場となるからでした。靴を脱ぐと直ぐに床の岩盤が熱して暑くなっている事を体感して、これが真夏でしたら、45度近く上昇すると言う温度では、まさに飲料水を持参していないと悲鳴を上げるという説明を納得いたしました。地元インド人の方々は素足にサンダルで来ていた方々が殆どでしたが、小学生や中学生達の見学集団は殆どが制服でした。女子生徒は綺麗なサリーを色鮮やかに着流して、賑やかな列で通リ過ぎていました。子供達はどこの国でも、好奇心が強くて話しかけて来ます、私もカメラとビデオ撮影で友達になりましたが、写したばかりのビデオをモニター画面で見せると、それこそ、ドド・・と言わんばかりに集まって、先生が『危ない』と止めていました。それと面白い事に、インド人の方々からよくボールペンを売れと言われて驚いた事が有ります。次男が言う事は、『余り品質が良くないから・・』と言う理由でした。ワイフなどは、絵葉書を売り付けられ、娘から貰った宣伝用の会社名を書いたボールペンと物々交換していました。アジャンターの石窟群をガイドと家族で歩き始めて第2窟に来て、その中の色彩壁画が今でも色鮮やかに残って、その仏教菩薩の画像が鮮明に歴史的な順序で描かれていました。その本堂両側には仏の一千仏が壁一面に細かく表情豊かに描かれていたのには驚きました。薄暗い天井にも装飾壁画があり、私が想像したのですがこれが完成した当時は絢爛たる壁画に囲まれた石窟ではなかったかと思いをはせていました。薄暗い石窟場内はひんやりとして冷気を感じます、薄暗い石窟から急に外に出ると、まぶしい南インドの太陽が1月とは言え、暑く輝いていました。気が付くと所々に水道の水飲場が有りましたが、我々にはガイドも飲まない様にと注意してくれました。1リッタの水を抱えて来たので安心でしたが、現地のインド人の方々は平気でガブガブと飲んでいました。お腹の中身が少し違うと思います、先祖よりこの地に生きて、その水を飲んで生きて来たのですから、我々とは比較できないと思います。それにしても沢山の人出ですが、中には4名で担ぐカゴで場内を見物する人がいました。足の悪い見学者達です、入り口でカゴを準備して声を掛けていましたが、なるほどと感じました。かなり年配の白人の男性がカゴの上で揺られながら、カメラを構えて撮影していましたが、担ぎ人達もお客がカメラを構えると、少し停止して撮影に協力していましたが、私も心の中で『あれは弱者用の便利な乗り物』と感じました。



(写真:見事な石像)



(写真:高い位置に在る石像)

11・アジャンター窟院群-04
アジャンタ石窟群を歩き始めて、各洞窟内部の装飾と、そこに祭られた仏陀の像の姿が各窟毎に違う事でした。昔の完成した当時は絢爛たる色彩で輝いていたと想像できる壁画もありました。私が驚いた事に、中の一つの壁画に中国人の女性の装飾で描かれた壁画が残っていたからでした。日本の飛鳥の壁画に残って居るような服装で描かれていました。ガイドが照す懐中電灯で見える、薄暗い光の中に浮き上げって居ました。遥か遠い中国からの影響です。シルクロードを超えてきた影響と思います。16窟の前には強大な象が岸壁に刻まれていました。そこの仏陀は自然に両足を床に当てた状態で座して居る仏像でした。他の多くは座禅を組んで、手は座禅の様式で手を組んでいる姿でした。間接照明の光の中で静かに幾多の年月を座しているのを見ると。これからも天変地変が起きない限り、永遠にその姿で世の中を見詰めていると思いました。日が上がり暑くなりましたが、暑さなど気にならないほど心が高ぶっていました。各石窟の中に入ると、ひんやりとした冷気が感じられ、見学者が途切れた静寂の中で、自分が一瞬にして千年の昔に飛んで過去の歴史に、タイムマシーンで歩いている幻想を持ちました。特に第24窟の中では完成前に放棄された石窟ですが、今にもその工事人夫達がゾロゾロと戻って来るのではないかという思いが致しました。その現場を見ると、いかにして石窟が掘られたかと言う事が一目で分かります。先ず天井部分から完成させられ、ついでに内部の50cmもある大きな石柱も上部から掘られたと言う事が分かります。石窟の内部は出口に向かってゆるい傾斜となり、手押しの車などで、簡単に重い石クズを運び出す事が出来たと想像いたします。内部の状況からして一度に大勢の人達で工事していた状況が分かり、その工法もかなり専門的な知識と測量方法で掘り進められたと感じました。その近くで日本人らしき方に出会いました。それは先ず直ぐに感じたのは色が白いと言う事と、暑いので腰に手ぬぐいをぶら下げていたからでしたが、何と大学の先生でした。なにやら図面を書いて、その石窟の内部の間取りを研究し、その大きさや高さ、幅や模様の飾り石柱などの数も調べて居たようでした。緻密な間取りです、その図面を見せていただきましたが、よくもマー!という感じの精密な間取り絵図でした。アメリカにも留学されたその道の専門家と言う事でした。おかげで学問的な専門話し
をお伺いする事が出来ました。そのお話で・・、あれー!と驚くような現場を案内して、見せて頂きました。昔の人も、そそっかしい人が居たのですね!

12・アジャンター窟院群-05
大学の先生の案内で、あれー!と驚くような現場を案内して、見せて頂きました。昔の人も、そそっかしい人が居たのですね!と言うのは私達では先ず探してみる事は出来ない場所でしたが・・・、これは貴重な現場です、狭い作りかけの石窟の小部屋の壁が、ぽっかりと20cmぐらい穴が開いているでは有りませんかー!中に入り、そこからお隣の石窟を覗くと、お昼の照りつく太陽に照らされて、外の様子が見えました。さぞかしその小穴をぶち抜いた職人は腰を抜かしたと思います。何世紀も前のハプニングですが、硬い石です、まさに昨日の様にそのままの状態でした。私も貴重な現場をカメラで撮影しておきましたが、そこの穴から見える石壁に刻まれた仏様の姿が綺麗で心に焼きついています。何となく体の曲線とバランス良く刻まれたお姿が京都などの寺院で見る仏像の姿と一致して、感慨に耽っていました。私も30窟もある石窟で2ヶ所有ると言う事で、両方とも見せていただきましたが、貴重な現場でした。大学の先生に感謝する、我々にも分かる説明で、いっそう詳しく理解する事が出来ました。やはり英語のガイドより、日本人の専門家が、日本語で分かりやすく説明してくれるのですから、これは貴重で、滅多にない現場講義と感じました。これだけの遺跡です、その数も多い事ながら、それを研究する対象として生涯の時間を必要とする史跡として、インドの歴史的背景、民族的流れと南インドの政治的背景、色々な石壁に刻まれた仏像とその関連する幾多の彫刻、色彩壁画、時代時代に変化する模様と緻密に歴史的な物語を語る壁画と彫り物、全てがアジャンターの遺跡の石窟群を飾る世界に誇る物なのです。ここを研究題材とした人が『人生を賭けても計り知れない大きな歴史の流れを感じる』と言う言葉こそが、アジャンター遺跡の大きさと規模の素晴らしさを感じさせるのでした。特に第1窟の奥、中央に鎮座される釈迦像は遠く日本の法隆寺金堂内陣の装飾にも関連した、そのオリジナル的な存在があると学問的に立証されている事は、第1窟の天井にペルシャからの使節をを接待する壁画が残っていることから、シルク・ロードを経て日本までその釈迦像の影響があったと思うので有ります。歴史を見て、日本から現在の世界でも遥か遠い南インドのアジャンター遺跡です、昔の時代からしたら、気が遠くなる距離ではなかったかと考えて感慨に耽っていました。

13・アジャンター窟院群-06
大学の先生のおかげで、石窟見学が後半で楽しくなりました。専門的な調査分野での、視点で見ておられるその歴史的な流れから、前を流れる河の状況まで、過去と現在の状態を教えて頂きました。今でこそ世界遺産に登録され、国立公園としての管理もされていますので、昔の密林のジャングルと言う感じはどこにも有りませんでしたが、私が聞いた洞窟の発掘作業で出た石材のクズは、巨大な量で有ったと想像いたしますが、それがどこにも見当たらないのです、先生のお説では、河の岸に捨てられて、洪水の時期に流されたと言うお話でした。見ると川底は硬い岩盤です、狭い川の峡谷から一気に流れ出す激流は全ての工事石材のクズをまで流し去ったと考えられます。下流の穏やかな川岸には沢山の大きな石がゴロゴロとしていますので、河の流れが緩くなった時点で、石材クズが残されたと感じました。お昼近くなっても沢山の小学生や中学生クラスの見学者が並んで来ていました。制服有り、私服のTシャツの姿有りで賑やかでしたが、中には職場の慰安旅行と言った感じの中年の現地人と見られる労働者の感じがするインド人達に会いました。場内はトイレが有りませんので、必ず入り口にあるトイレで用事を済ませてくる様にと注意書きが有りましたが、中には先ほどの慰安旅行の感じがする労働者の一人が物陰の岩場で、ジャー!とやりだしたのには驚きました。どうりで少し匂うところがあると思っていました。けしからん・・・!と、この様な世界遺産の貴重な石仏が安置して有る所と感じましたが、崖下で茂みの花の肥料と思えば余り気になりませんでした。水道は所々有りましたが、トイレは本当に入り口だけでした。河の対岸、丘の頂上展望台まで行きたかったのですが、往復1時間はたっぷりと聞いて残念でしたがこの歳ではあきらめました。午後も遅くなり、お腹も空いて来ましたので、見学も満足して、トイレも行かなくてはなりませんので戻る事に致しました。大学の先生にお礼を言ってお別れいたしましたが、頭が下がりました。帰り道は足取りも軽く、もう一度見たい場所を軽く見て周り、満足の付け足しをして出口に来ると、それー!とトイレに走りました。そこは有料でチップ程度の小金を渡します。水も出ますし、ペーパータオルらしき物も1枚頂きましたが、やれやれ・・!でした。ランチは直ぐ側の公園内のゲストハウスのレストランで食べることに致しました。中は沢山の外国人観光客も座っていました。南インド風の定食を注文して隣を見ると、先ほどの団体旅行の労働者風グループが2つのテーブルを合わせて座り、早速にビールの注文でした。幹事らしき人が注文していましたが、ビールを各自がラッパ飲みして賑やかでした。そこでゆっくりとランチを食べて休憩して、バス停まで行き、シャトルバスで直ぐのパーキング場に行きましたが、運転手が待っていて、乗り込むとそれこそ、アッと言う間にスピードを上げて街道に出て疾走始めました。私が僅かな時間にお土産として買ったのは、10cmぐらいの菩提樹の木で彫られた仏像でした。最初の言い値が1500ルピーで、最後に車に乗り込む時は300ルピーまで値が下がっていました。



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