思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります。-16 (2017年)

思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります。-16 (2017年)
トランプ大統領の登場で世界は更に混沌として来ました、先が見えない時代となっています、新たな紛争等が起きなければ良いのですが・・
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-01 (98-2002年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-02 (2003年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-03 (2004年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-04 (2005年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-05 (2006年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-06 (2007年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-07 (2008年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-08 (2009年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-09 (2010年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-10 (2011年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-11 (2012年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-12 (2013年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-13 (2014年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-14 (2015年)
思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-15 (2016年)
136・糖質制限 (2018年03月31日)
日本では現在「糖質制限ダイエット」がダイエットの主流になっているようです。長崎ちゃんぽんのチェーン・リンガーハットでは「麺無しチャンポン」」を販売して人気という事で「糖質は体に悪い」が常識となりつつあります。知識としては知っていましたがそれほど関心は無く特に気に掛ける事も無く普通に暮らしていたのですが、眼科で疾患の疑いがあるとの検診結果が出て、眼科医の処方の元で血液検査を行い、それまでの検査では「糖尿病予備軍」と判定を受けていた血糖値が初めて糖尿病が疑われるレベルに上がってしまいました。それまでは真剣に血糖値について考えて来なかったのですが、さすがに心配になりました。知人で糖尿病となり最後は内臓に障害が出て亡くなった方がおり、また学生時代の友人が糖尿病から透析になったなど怖い話を見聞きいました。糖尿病に対する知識としては血糖値を下げる薬を死ぬまで飲み続け、それでも下がらない場合にはインシュリン注射を毎日続けて行かなければならないというものでした。
これは大変な事になったとインターネットで文献そしてユーチューブで色々な番組を見て糖尿病治療には糖質制限が有効という話が多く在り、テレビ番組でもたびたび取り上げられているのを見ました。日本では江部康二医師がいち早く専門医として実践し効果を上げ、その後夏井睦医師が提唱しており、文献やインターネットで出来るだけ情報を収集し、血糖値を下げるには糖質制限が最も有効であると分かりました。この治療法は体重が減るので一般には糖質制限ダイエットとして普及した事も分かりました。
血糖値を上げるのは糖質のみ、これを食べなければ血糖値が上がりようが無い、との事で実践する事にしました。昼は目玉焼きと納豆にサラダ、夜は豚肉の野菜炒めというのが基本的な食事で量は減らさずに砂糖、根菜類、小麦粉(パン・麺)、米を食べない食生活を実践してみました。カロリー不足にならないように糖質を減らした分はタンパク質、脂質で補うよう、またしっかりと動物性たんぱく質を食べるようにとの事でしたので、食べる量は以前と変わらずたっぷりとした食事を摂るようにしました。
昨年7月に始めて8ヶ月が経過しましたが体重は約10キロ減り、メタボ体型が劇的に変化し、血糖値は正常値なりました。一番大きな変化は甘いものを見ても食べたいと思わなくなった事です。また、最近旅行に出かけ、完全な糖質制限を行うのは難しくご飯をいただきましたが、半年ぶりにも関わらず感激も無く、旅行から戻るとまた米抜きの生活に戻しました。血糖値が正常値なり糖尿病の心配は余り無いので元の食生活に戻しても良いはずなのですがスリムになり、胃腸の調子も良いので続けて行くつもりです。
色々と書物も出ていますが「炭水化物が人類を滅ぼす」は名著だと思います。今から5年前の2013年に出された本です。夏井睦医師は傷の治療が専門の医師で糖尿病の専門医ではないのですが、それだからこそ結構大胆な発言をされています。「糖質制限の普及を苦々しく思っている人もいる。日本糖尿病学会のお偉方と糖尿病専門医の方々と製薬会社だ」と述べています。糖尿病治療で最強の治療法が「糖質制限」となると医者も学会も薬も不要となってしまうからであると説明しています。ただ現実には不節制な生活を続け、重度の糖尿病となり治療が必要となる患者が多く存在しているので医師も薬も必要でしょうが、治療法、予防法としては「糖質制限」が一番有効な方法であることは間違いないので将来的には減少するのは間違いないでしょう。この本は新書なのですが、栄養学はいかさまな学問と規定し、生命体の進化には全休凍結が関係していると説き、代謝の進化を説明しています。学生時代生化学特に「代謝」については余り理解出来ていなかったのですが、この説明は分かり易いものでした。農耕・そして穀物に関しても鋭く指摘し「穀物は偽りの神だった」と結論付けています。更に昨年は続編を出されています。
ただ、現在でも日本糖尿病学会のサイトでは何と未だに食事療法に関しては2013年に定めた指針である「炭水化物を50〜60%」と書かれています。夏井医師は、血糖値を下げる必要がある人に対して血糖値を上げる唯一の炭水化物を与えるのはナンセンス、アルコール中毒の患者に毎日酒をたくさん飲ませるのと同じだ」と批判していますが、その通りであると思います。2015年以降は糖質制限に対する批判本が出ず、テレビでにも糖質制限批判の人は出なくなっています。穀物は有害と認めて行くべきなのでしょう。しかしながらもし多くの人が穀物を食べないとなると何か他に食料を求める必要に迫られる事でしょう。本の中で「蛆を無菌状態で育ててタンパク質を取る」というアイデアが書かれていますが生理的に難しいでしょう。穀物で70億もの人口を支えている現代、食に対して抜本的に見直す時期が来ているのかも知れませんね。

糖質制限論争は初期人類の食に答えがあった・近・現代人の糖質からの「独立戦争」に迫る:夏井 睦 : 医師・東洋経済)
炭水化物が人類を滅ぼす』の刊行から4年。糖質制限を取り巻く社会の状況は大きく変化した。スーパーや外食チェーンには糖質オフ商品が続々登場。今や糖質制限市場ともいうべき巨大マーケットが形成されている。その続編となる『炭水化物が人類を滅ぼす【最終解答編】植物vs.ヒトの全人類史』では著者の夏井睦氏が「糖質セイゲニスト」の立場から、全人類史を読み直すという新たな試みに挑む。前著『炭水化物が人類を滅ぼす』の冒頭で、私は「50代後半のオッサンが糖質制限半年で11キロの減量に成功し、腹囲も10センチ減った」と書いたが、じつは現在もスリム体型を維持している。本書の執筆中に還暦を迎えたが、体重は12キロ減の58キロのままだし、ジーンズはユニクロの28インチのスリム・スキニーだ(同社のメンズ・ジーンズで一番細いタイプである)。体調は絶好調であり、風邪ひとつひいたことがない(風邪をひいていることに気が付かないほどのバカ、という可能性もゼロではないが)。健康診断の血液検査はどれも異常はなく、特に肝機能は、休肝日なしにもかかわらず完璧に正常値であり、二日酔いになったことは一度もない。そしてこの間、糖質制限を取り巻く社会の状況も大きく変化した。
糖質制限批判派の衰退:私は2011年12月に個人サイト『新しい創傷治療』で糖質制限について書き始めたが、当時、糖質制限は糖尿病の治療法の1つであって、一般にはほとんど知られていなかった(実際、私は2011年11月まで糖質制限という言葉を知らなかった)。しかし、2012年1月頃から、ネットを中心に「メタボ中年オヤジでも短期間で確実に痩せる驚異のダイエット法」と話題になり、糖質制限を実践する人が増え、糖質制限に関するインターネットサイトやブログが一気に増え、情報が飛び交うようになった。同時に、私の糖質制限の師匠である江部康二先生(京都・高雄病院)の著書が爆発的な勢いで売れ始めた。どうやら、糖尿病ではない人がダイエット目的に購入したらしい。そして2013年10月に、前著『炭水化物が人類を滅ぼす』を刊行。2014年1月から、私はテレビのバラエティ番組などに出演するようになったが、その頃から糖質制限という言葉はマスコミでたびたび取り上げられるようになった。それでも、2014年上半期は、糖質制限に批判的、懐疑的なマスコミ記事が多く、「糖質制限は危険」という新刊書も何冊か出版された。しかし同年下半期になると、テレビで糖質制限の討論番組を企画しても、討論相手(=糖質制限批判派)が見つからない、いてもテレビに出たがらない、という状態になった。
2015年になると「ダイエットの基本は糖質(炭水化物)制限」という記事をよく目にするようになり、同時に、糖質制限やローカーボ(低炭水化物食)の解説本、レシピ本は、毎月のように新刊が出版されたが、一方で、新たな糖質制限批判本はほとんど出版されなくなった。この変化に歩調を合わせるように、糖質ゼロの第三のビールや、糖類ゼロの缶酎ハイの新商品が次々と発売されてコンビニやスーパーの定番商品となり、低糖質食品(麺類、パン、スイーツなど)も次々と販売された。消費者の商品選択の基準の1つに「糖質オフ・低糖質」が定着したのだろう。また、低糖質メニューを提供するレストランも次第に増えているし、長崎ちゃんぽん最大手のチェーン店では「麺なしちゃんぽん」が人気商品である。「麺の代わりに豆腐」が選べる「行列のできるラーメン名店」まで登場し、テレビのニュース番組が特集を組むようになった。私が一番最初にテレビのバラエティ番組に出演したのは2014年1月だったが、その際、「これから糖質制限をしてみようという人はいらっしゃいますか」という私の問いかけに、挙手した人は50人中たった数人だったことを思い出すと、まさに隔世の感がある。
痩せるなんて簡単だった:まずは前著の補完的復習である。糖質制限とは何か。読んで字の如く、「糖質」と呼ばれる一群の食物成分の摂取量を減らすことだ。
なぜ、糖質摂取量を減らすのか。理由は、そうするだけで、ほとんどの人は、次に示すように、まるで生まれ変わったかのごとく体調が良くなるからだ。
●大多数の人は短期間で体重が減り、メタボ腹が凹んでスマート体型になる。
●不眠症やうつ症状が治る。
●高血圧、高脂血症が治る。
●肝機能が良くなる。
●歯周病が治る。
●思春期のニキビが治る。
●肌のさまざまな不調(脂漏性皮膚炎、アトピー性皮膚炎など)が改善する。
●花粉症の症状が軽くなる。
●食後の眠気がなくなる。
●頭がスッキリして、脳みそがバージョンアップしたような爽快感が得られる。
●子どもは集中力が増して成績がアップする。
●子どもがキレなくなる。
逆に、糖質制限で体調が悪くなったという人はほとんどいない。糖質制限をしているのになかなか痩せない、という人もいらっしゃるが(残念なことに女性に多いようだ)、そういう人でも体調は確実に良くなるのだ。唯一の予期せぬ副作用は、服がダボダボになって合わなくなり、買い直さざるをえなくなることだ。この出費はちょっと痛いが、「若い頃のスーツがまた着られるようになって嬉しい」と前向きに考えてほしい。そして何より、痩せると、若者向けの低価格ブランドでも格好良く着こなせるようになるのだ。肥満者が安物を着ると貧相に映るが、痩せると安物でもオシャレに見えるのだ。そしてさらに、若者向けピチピチ系ブランドの服も似合うようになる。要するに、糖質制限とは、糖質により損なわれた健康不調から脱却して、本来の健康を取り戻すための健康法・食事法であり、その一環として「体重が本来あるべき値に戻る」と考えるとわかりやすい。ダイエット法は掃いて捨てるほどあるが、それらと比較すると、糖質制限の優位性は明らかだ。糖質制限は努力なしに簡単に行うことができ、糖質制限を続けている限り、体重が元に戻ることもメタボ腹になることもない。つまり、リバウンドがない。
糖質制限では高価なサプリメントは必要ないし、ハードなトレーニングや運動も必要ない。値段の高い食品を買い求めなくてもいいし、それどころか、コンビニで買える食品で今からでもすぐに始められるし、激安系居酒屋チェーン店でも完璧な糖質制限食が食べられる。油っこい揚げ物も食べていいし、糖質が含まれていないお酒なら健康を害さない範囲であればいくら飲んでもいい(糖質制限で肝機能が良くなるから)。ダイエット法としてのハードルの低さにおいては、まさにこれより低いハードルは存在せず、お気楽さと容易さで他の追随を許さないのが糖質制限だ。
問題は、最後の「初期人類(先史人類)の姿」:なぜ、初期人類の研究者でもない私が初期人類について書こうと思ったのか。じつは糖質制限について考えていく上では、初期人類の食は避けて通れない問題だ。だから私は、初期人類についての本を手当たり次第に読んで勉強したが、次第に違和感を感じるようになった。後述するように、初期人類は「糖質摂取ゼロ」生活だったのに、糖質ゼロでは絶対に起こりえない生理現象を大前提にして書いてあるからだ。要するに、糖質を摂取している現代人と、糖質摂取ゼロの初期人類は、全く別物なのだが、過去の初期人類に関する研究書にはこういうおかしな部分が少なくないのである。これに気が付くのは、「糖質制限をしていて、かつ、初期人類についての知識が(多少)ある人間」だけである。となれば、私がしゃしゃり出てもいいだろう。この2つの条件を(一応)満たしているのは、現時点では、世界広しといえども私くらいのものだからだ(……たぶん)。今なら、大風呂敷を広げて大胆な仮説を発表しても、「糖質を食べている初期人類専門家」から反論を食うことはそうそうないだろう。糖質制限をしている人しか知らない事実に基づいて書いているからだ。とはいっても、グズグズしていたら糖質制限はさらに広まり、「糖質制限をしている本物の研究者」が登場しかねない。そうなったら手遅れだ。
136・太陽系の新事実そして宇宙の大きさ (2017年09月24日)
宇宙は非常に大きく未知の事が多く、次々に新しい事実が出て来て驚かされます。宇宙から見れば非常に小さい自分達のこの太陽系ですら新発見が次々に出て来ています。例えば、木星の新衛星、天王星の環、冥王星の5千倍の質量を持つ九番目の惑星の存在など驚く事ばかりです。木星や土星が大きい事は分かっていますが、可視化し、月の位置にあると地球からどのように見えるかという写真がありましたが余りにも大きく飲み込まれそうになりますね。
木星に2つの新衛星を発見、総数69個に
すばる望遠鏡などによる観測から、木星に2つの新衛星が発見された。米・カーネギー研究所のScott Sheppardさんたちの研究チームが、チリ・ラスカンパナス天文台の口径6.5mマゼラン・バーデ望遠鏡や米・ハワイの口径8.2m「すばる望遠鏡」などを用いた観測から、木星に新たに2つの衛星を発見した。それぞれ、S/2016 J 1(2016年に発見された木星(J)の一番目の衛星)およびS/2017 J 1と符号が付けられた新衛星は、いずれも直径1〜2km程度の非常に小さい天体で、明るさは24等級前後だ。S/2016 J 1は木星から平均2070万km離れたところを600日ほどかけて公転しており、S/2017 J 1は2350万km離れたところを約730日かけて公転している(ガリレオ衛星のうち最も外側にあるカリストは木星から約190万km離れている)。また、木星の小衛星の多くと同様に、いずれも木星の自転に対して逆方向に公転している逆行衛星である。
9番目の惑星の存在を示す証拠が発見された
カリフォルニア工科大学(Caltech)の天文学者2人が、太陽系に9番目の惑星が存在する証拠を発見した。確認されれば、われわれの知る太陽系のモデルを変えるものになるかもしれない。提唱された惑星はまだ直接画像化されていないが、他の既体物体に対する重力の影響から、天文学者はその存在を検知し、性質を特定することができる。天文学者らがプラネットナイン[Planet Nine]と呼ぶこの天体は、質量が地球の約10倍で、直径は地球の2〜4倍である。その大きさは、太陽系で5番目に大きい惑星に相当する。この惑星が独特なのは、その大きく引き延ばされた軌道が、太陽系の他の惑星とは異なる方向に「面して」いることだ。軌道は非常に長く、プラネットナインが太陽を一周するには1万年から2万年かかるだろう。発見者の一人である天文学者のMike Brownは、冥王星を惑星から格下げする証拠を提供した「冥王星キラー」として知られている人物であるのが興味深い。Brownによると、新惑星の質量は冥王星の約5000倍だという。冥王星とは異なり、プラネットナインの重力影響は極めて強く、惑星として分類することに疑問の余地はない。
ある方の説明で宇宙の大きさを実感するのに1京分の1のスケール(10のマイナス16乗)すると分かり易いという記述がありました。このスケールですと100億キロメートルが1mmに当たります。太陽系の直径、要するに太陽から冥王星までの距離は60億キロメートルですので、0.6ミリメートルとなります。地球は原子より少々大きい程度というわけです。太陽の直径は約140万キロメートル、すなわち1.4x10の12乗ミリメートルですので、このスケールで計算しますと1.4x10マイナス4乗ミリメートル要するに140ナノ・メートルと1ミクロンよりも小さいことになります。また、同様に計算しますと1メートルがほぼ1光年に当たり分かり易い。光が1年でようやく1メートル進む世界ですね。太陽系から一番近い恒星は4光年先にあるので、4メートル先にあるということになります。太陽系を出て恒星間旅行するというのはかなり難しい・・遠いという事が実感出来ますね。
1万光年はその1万倍ですので、10キロメートル、我々の天の川銀河の直径は10万光年くらいですので、約100キロメートルとなります。日本ですと丁度関東平野というわけです。大きいですね、今まで想像していた以上の大きさだと思います。この銀河には2000億個の恒星があると言われていますが、ミクロン、ナノ単位の大きさのものが数メートルづつ離れて関東平野くらいの広がりにパラパラと散らばっている・・何となく銀河の広がりが実感出来ます。次に隣のアンドロメダ大星雲までは230万光年、直径は20万光年ですので、2300キロ先に200キロの直径という事になります。台湾辺りに台湾より大きな広がりという事になります。最近の研究で銀河同士は衝突合併する事が分かったそうで、アンドロメダと天の川銀河は急速に接近していて、30億年後には衝突するのだそうですが、実際にはまだまだ随分遠いのですね。
そして銀河は銀河群という群れを作っているというのですが、天の川銀河が所属する銀河群は500万光年くらいの直径の中に30くらいの銀河が集まっているという話です。5000キロの直径の中に関東平野とか台湾くらいの大きさのが30在る、これが我々の所属する銀河群ということです。宇宙に銀河は1250億あるそうです。また可視宇宙の直径は930億光年なのだそうです。1億光年と言いますと10万キロメートルそれの930倍という事は9300万キロメートル、太陽までの距離(1億5千万キロ)の半分以上ということになります。ここまで来ますとまた実感が無くなりますね。やはり宇宙は大きい・・・
このスケールの宇宙を遠くから眺めたら綺麗でしょうね。丁度飛行機の高さくらいから銀河を見ると視界一杯に広がる渦を見る事が出来、遥かかなたにアンドロメダが見える・・「天文学的数字」とよく言いますが確かにスケールが大きい。なお、最近テレビを見ていましたら最初この宇宙は10マイナス34乗くらいの大きさで急速に膨張して出来たものなのだそうで、また、宇宙の何も無いと思われていた空間にもエネルギーがあり、その為現在も膨張し続けているという説明があり、将来は各銀河が遠くバラバラに存在する世界になるそうです。また宇宙というのはこの宇宙だけでは無く他にも無数に?あるという説明も聞きました。何でもこの辺の議論になりますともう想像を超えます。この宇宙の創造した主、力は一体何なのでしょうね。

(写真:輪を持つ天王星)

(写真:九番目の惑星)

(写真:もし木星が月の位置にあると地球からどのように見えるか)
135・英国のEU離脱・BREXIT 交渉開始 (2017年06月24日)
「国王は君臨すれども統治せず」これが日本の政治体制のお手本ともなっている英国議会制民主主義の原則です。国王・女王といえども政治的な発言をしないというのが建前であると考えられています。ただ意向を忖度しそれを明確するにし、影響を与える事があります。スコットランド独立の是非を問う国民投票でも女王の影響は大きかったように思います。EU離脱の国民投票の際には、一部に女王は離脱に賛成しているとの報道があり、少なからず影響があったように思います。
さて、今回の国会の開会、王冠に礼服という出で立ちでは無く普通に服を着て登場し、規定通りEU離脱交渉を滞りなく進めて行くというメイ政権による所信演説を読み上げました。服を見ますと色はEUの旗の色、丁寧に帽子には星が付けられており、どこから見てもEUの旗そのものでした。色々と屁理屈を付ける人も居るかも知れません、確かに政治的な発言をしていませんし、服もたまたまと言い逃れる事は可能でしょう、これは明確にEU支持を示したものでしょう。
メイ政権の保守党は解散総選挙に打って出ましたが裏目に出て過半数を割り込む惨敗を喫しました。離脱交渉もEU側の強い態度に対して英国側が望むような通商交渉は後回しとなってしまいました。英国内ではもう離脱そのものの決定には従おうという雰囲気になっていると言われていますが、実際のデメリットが出て来ますと女王陛下の意向がEUと共に進む事であるのが明確である以上再度の逆転もあるのかも知れませんね。

女王の帽子はEUの旗? 女王演説(BBC)
冒頭の項目は英国の欧州連合(EU)離脱、つまりブレグジットだった。女王は、EU離脱に備えて複数の新しい国内法を提案した。政府が用意した演説を女王が読み上げるのをテレビ中継で見ながら、ソーシャルメディアでは大勢が、女王の帽子に注目していた。ツイッター利用者の一人は、「あまりくだらないことを言うつもりもないけど、女王の帽子は欧州連合の旗に似てる」と書き、ほかにも大勢が同様の感想を書き込んだ。女王の演説朗読が続くなか、「#QueensSpeech(女王演説)」というハッシュタグを使った投稿が8万以上続き、「女王がEUの旗の格好をしてるのはいいね」と書く人もいた。欧州でも、女王の帽子は注目された。欧州議会のブレグジット交渉担当、ベルギー元首相のヒー・フェルホフスタット氏は、「明らかに今でも英国には、EUをインスピレーションとする人もいるようだ」とツイートした。昨年5月18日の女王演説と比べて、議事堂への入場や女王の衣装などが地味に行われた。女王の公式誕生日を祝う閲兵式が17日に行われたばかりで、王室騎兵隊が準備する間がなかったからだという。議会開会にあたって国王や女王は、馬車で議会に向かうのが慣例となっているが、エリザベス女王は今回、乗用車を使った。服装も礼装ではなく、王冠もかぶらなかった。貴族院本会議場への行進もなかった。簡素な儀式となったのは、1974年以来。当時は保守党政権による解散・総選挙で、労働党のハロルド・ウィルソン党首が僅差で勝利した。通常の礼装姿だったなら、今回ほどその服装が注目されることはなかったかもしれない。ツイッター利用者の一人は、「女王の服装は常に、効果や意味合いが慎重に計算されている。絶対に偶然じゃない」と主張した。別の利用者も、「偶然のわけがない。女王は頭の切れる人だ。何か言われたら、ロイヤルブルーで王冠の代わりに金色があしらってあるのだと言えばいいわけだし」と書いた。
134・ハンガリー・ブダペスト (2017年03月11日)
ハンガリーというのは英語の名称でスペイン語ではウングリア、現地の言葉では国名をマジャルと呼んでいるのだそうです。多分ジャパンと日本みたいな関係でしょう。ハンガリーという国の名前はよく知っていて学校の社会科でハンガリーは特殊な言語であると習い、歴史ではオーストリア=ハンガリー帝国、ハンガリー動乱等と欧州史の中でも結構出て来ます。音楽の世界でもハンガリー出身の有名な作曲家としてはリスト、バルトークなどが挙げられます、またブラームス作曲の「ハンガリー舞曲」はお馴染みの曲です。
ただ人口約1千万人のこの国は観光に出掛ける人はそこそこ居ても余り深くは知られていないように思います。調べてみますと日本でハンガリー語の専攻がある大学は大阪大学外国語学部のみそれも定員僅か15名、また外務省のページをみますとハンガリー語の専門家の紹介があり、入省の際に第五志望にも入っていない言語だったと書かれていました。名前を知っている、観光に行く人は結構いて「ドナウの真珠」と称される景色を見る人は多いのでしょうが、実は余りよく分からない国というのが実情のようです。
ハンガリーの歴史は複雑で理解するのが大変です。まずは国旗について調べてみますと色々なものが出て来ます。時代順に並べようと思いましたがよく分かりません。現在はシンプルな三色旗ですが、旧国旗で調べますと色々と出て来ます。赤白緑の後ろの配色は変わりませんが中の紋章はかなり変化しています。


二重帝国成立から、帝国崩壊まで用いられた国旗

(国旗:1867年 - 1918年)

(国旗:1867年 - 1918年・二重帝国)

(国旗:1918年から1919年)
1949年から56年の「ハンガリー動乱」までのハンガリーの国旗
(国旗:1949年から56年)
マジャル人は、ウラル山脈〜アゾフ海(クリミア半島の北東にある海。黒海の一部)あたりからやってきたといわれている民族なのだそうです。当時は遊牧を営んでいたといわれています。ハンガリーの建国は896年とされています。
その後、君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国し、その後国土を広げ大国に発展しました。ブダペストの街を歩いていると建国の王であるイシュトヴァーン1世の名前を目にします。王国はその後も「聖イシュトヴァーンの王冠の地」とされていて、その後の他国による支配の際にも栄光の時代があった事を心の拠り所にしていたのかも知れません。1241年にモンゴル軍が侵攻しハンガリーは占領され多大な損害が生じました。モンゴル軍は次の目標であるウイーンを目指す時にオゴタイが亡くなり、ハンガリーを放棄して引き上げて行きました、やられ損でした。
1526年にはオスマンが侵攻し国王が戦死する敗北を喫し、国土の大部分はオスマンの直轄地となり、国土の内、西側の一部はハプスブルク家の管轄、ブラチスラヴァを首都とする王領ハンガリーとなり分割されてしまいました。分裂は約150年続き、ブダペストはイスラム教徒が増えキリスト教徒は数える程になったそうです。今でもブダペストの街を歩きますとプラハ、ウイーン、ブラチスラヴァとは異なる雰囲気、スペインと同様に何となくイスラムの影響を感じます。オスマンによる第二次ウイーン包囲でオスマンが敗戦した事によりハンガリーのほぼ全域がハプスブルク領となり、それに不満を持つハンガリー貴族が抵抗を試みるも1711年までに鎮圧されてしまい、ハプスブルク領となりました。

(地図:1530年から1541年の攻防)
19世紀も末になるとオーストリア帝国内部で民族紛争が起き、ハプスブルク家はハンガリー貴族と結び150年前の日本では幕末明治維新の時代、パラグアイが三国戦争に負けてブラジルにアスンシオンを占領された年、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立しました。ハンガリーでは独自の内閣や議会も出来、1896年にはハンガリー建国千年記念行事が盛大に開催され、記念博覧会も行われました。現在市民公園となっている場所で市内中心部から地下鉄も敷設され、美しい国会議事堂も建設されるなど現在でもその栄光の時代を窺い知る事が出来ます。日本の昭和15年に盛大に開催された皇紀二千年祝賀のようなものなのでしょう、なお、建国の年、896年といのは日本では平安時代、中国は唐代で驚くほど昔ではありませんね。
第一次世界大戦後1918年に帝国は解体され、、カーロイ・ミハーイの主導によりハンガリー民主共和国が二重帝国から独立しました(第一共和制)。しかし軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアをルーマニアに、北ハンガリー(スロバキア・カルパティア・ルテニア)は突如出て来た「チェコスロバキア主義」の旗印の元、チェコスロバキアとして占領されてしまいました。共和制は間もなく崩壊し、これに代わりハンガリー社会主義連邦評議会共和国が誕生、これはロシア革命後に欧州で初めて出来た共産主義国家でしたがハンガリー・ルーマニア戦争が起き、ルーマニア軍がブダペストを占領し崩壊、1920年にはハンガリー王国が成立、、ハプスブルク家の者は王位に就けず、王の居ない王国としてずっと空位で摂政が統治する形でした。
第二次世界大戦ではドイツ側で参戦、ソビエトと交戦するも敗退し、連合国側と交渉するも逆にドイツに占領されてしまいました。その後もソビエトと戦うも1945年にブダペストは陥落、ソビエトはハンガリー全土を占領しました。ハンガリーは戦災とソ連軍の略奪によって40%の国家資産を失い、その上でソ連軍の駐留費用と賠償を支払わなければなりませんでした、また戦時中にはハンガリーは完全にドイツの経済圏に組み込まれていたため、ドイツの経済はハンガリーの経済をも崩壊させました。
第二次世界大戦後、1946年にハンガリー第二共和国となり、自由選挙が行われ小地主党が過半数の得票を獲得、共産党は17%の得票に過ぎませんでした。しかしながら次第にソビエトの影響が強まり、小地主党を壊滅させられ、次に有力政党であった社会民主党を事実上吸収し共産党の一党独裁が確立しました。そして民主化は封じ込まれ1949年にスターリン率いるソビエトの衛星国であるハンガリー人民共和国が成立し、ライバルの粛清そして秘密警察の暗躍があり、ラーコシ・マーチャーシュがミニ・スターリンとして君臨し、個人崇拝を推し進め恐怖政治で人々を抑え付けました。
スターリンの死後、ポーランドでの民主化運動に連動し1956年にソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起が起きました。(ハンガリー動乱)ナジ首相は中立化を宣言し共産圏からの離脱を目指しますが逆にソビエト軍の介入を招き、数千人の市民が殺害され、ナジ首相など500人を超える人がが処刑され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡する事態となりました。動乱の後は徹底的な調査が行われ多くの市民が粛清され、その後30年にわたりこの事件について語る事は禁じされ、多分この時代、ソビエトの衛星国の中でも特に重苦しい雰囲気であった事でしょう。
それでも1961年にはカーダール政権は融和的新路線を打ち出し穏健な政治路線を踏み出し、プラハの春の影響もあったのでしょう、1968年には新経済メカニズムと称する経済改革が行われ、市場経済が導入されました。これ以降のハンガリーの政治体制はグヤーシュ共産主義(グヤーシュとはハンガリーの代表的な煮込み料理)であると呼ばれ、他の東欧諸国に比べて経済状態は良好であったのですが、それも次第に停滞して行きました。
なお、現在ではハンガリー動乱の際にハンガリーの市民が政府に対して蜂起した10月23日は祝日になっています。
1989年にソビエトの変化にいち早く反応し、ハンガリーは改革に着手し、オーストリアとの間の「鉄のカーテン」を撤去し、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック事件」を起こし東欧の共産主義諸国にも大きな影響を与え、東欧革命を急速に促し、ベルリンの壁崩壊およびドイツ再統一、ソ連崩壊など一連の冷戦終焉に向かう流れを生みました、ただ他の国に先行して改革を進め先着の利益を得ようと考えていたようですが、その目論見は外れたようです。
1996年にはOECD・経済協力開発機構、1999年にNATO・北大西洋条約機構、2004年にEU・ヨーロッパ連合に加盟し、2007年にはシェンゲン条約を施行し名実ともにヨーロッパの一員になっています。モンゴル、オスマン、オーストリア、ルーマニア、ドイツ、そしてソビエトと色々な国外の勢力による侵攻、占領、支配を受けて来ましたがようやく本来の独立国家として歩み出したところというのが今の姿なのでしょう。
この数年、シリア等の西アジアからの難民が押し寄せ、EUは各国で難民を分担する案を出し理解を求めましたが、国民投票を行い圧倒的な多数で反対の意志を示しました、これはマジャール人による国民国家の様相が濃いことと、EUという外の勢力に決められる事への反発もあるのでしょう、自分達の事は自分達で決めるという意志を示したかったのだと思います。1699年までと割合近い時代までオスマンに占領されていて、近くのバルカンでは宗教対立から内戦に陥りまだ完全には解決していない現状からイスラムに対して強い拒否感があるのでしょう。最近ではロシアのプーチン大統領が訪問しロシアとの関係強化を模索する等、独自の路線を歩んでおり、今後どのような方向に進むのか注目しています。
150年間の年表
1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立、ハンガリーの自治が大幅に拡大
1896年 建国千年記念行事が盛大に執り行われる。
1918年 第一次世界大戦の終結、オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体、ハンガリー民主共和国の成立(第一共和制)
1919年 共産主義国家、ハンガリー社会主義連邦評議会共和国の成立、ハンガリー・ルーマニア戦争で敗戦
1920年 ハンガリー王国成立、王は決まらず空位
1941年 ドイツ側に付きユーゴスラビア侵攻、以降第二次世界大戦ではドイツなどの枢軸側として参戦
1944年 ソビエトによる占領
1946年 ハンガリー共和国(第二共和制)が成立
1949年 ソビエトの衛星国であるハンガリー人民共和国が成立、スターリン主義国家
1956年 ハンガリー動乱
1968年 プラハの春の年、経済改革が行われ、市場経済が導入。これ以降のハンガリーの政治体制はグヤーシュ共産主義と呼ばれる
1989年 ハンガリー共和国(第三共和制)が成立、共産主義の終焉
1996年 OECD・経済協力開発機構に加盟
1999年 NATO・北大西洋条約機構に加盟
2004年 EU・ヨーロッパ連合に加盟
2007年 シェンゲン条約を施行し名実ともにヨーロッパの一員に

(地図:12世紀のハンガリー王国)

(地図:オーストリア・ハンガリー二重帝国)
ハンガリー語(マジャル語)ですが、ハンガリー全土とスロバキアそしてルーマニアの一部に話者がいます。他の欧州諸国のほとんどはラテン、スラブ、ゲルマン等の語族に別れていますが、インド・ヨーロッパ語族の言語の場合、旅行してもまだ何となく見当が付きますがハンガリー語はウラル語族の言語で全く異質で看板も電車の案内も全く分からずお手上げです。元々マジャル人はウラル山脈を起源とし、フィンランド語、エストニア語等と同様にウラル語族の言語になっているとの事ですが中央ヨーロッパの国家で周囲のインドヨーロッパ語族の言語に吸収されず残ったのは不思議な気がします。周辺の国家はスラブ系もしくはゲルマン系の言語ですが近隣諸国と言語が近いので親近感も湧くでしょうがマジャル人は多分よりかなり閉鎖的であった事でしょう。現在でもスロバキアの国民の10%はハンガリー系でマジャル語話者ですが、現在の政権はスロバキア語の国語化を図り反発が広がっています。今後はハンガリー国外のマジャル語話者は少なくなって行くのでしょうね。

(地図:ハンガリー語(マジャル語)話者)
ブダペストから200キロ、400キロ、600キロの円を描いてみます。200キロ以内にハンガリーとスロバキアのほぼ全域が入ります。ブダペストの中心部からスロバキア国境まで僅か37キロの距離で、スロバキアは第一次世界大戦前までは北ハンガリーという位置付けであったのが納得出来ます。国土の面積は北海道より少し大きい程度、韓国とほぼ同じですが7ヶ国と国境を接しています。オーストリア、スロバキア、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロベニアです。バルカン諸国と国境を接しており、トルコやシリア等の西アジアにも近い位置にあります。

(地図:ブダペストから 200キロ、400キロ 600キロ)
1000キロでイスタンブール、1500キロでロンドン、モスクワ、チェニスなどがあり、欧州のほぼ全域に行く事が出来ます。

(地図:ブダペストから 500キロ、1000キロ 1500キロ)
比較する為にアスンシオンからも同様に円を描いてみました。1000キロでブエノスアイレス、サンパウロ、サンタクルスなど、1500キロでようやく隣国の首都、ラパス、ブラジリア、そしてサンティアゴに達します。某欧州の国はアスンシオンでの領事業務を全てブエノスアイレスに移管しましたが欧州での隣国の距離感で簡単に考えているのではないかと疑っています。

(地図:アスンシオンから 500キロ、1000キロ 1500キロ)
1848年にハンガリーの首都はブラチスラヴァからペストに移され、1867年アウスグライヒ政策、丁度明治維新の年にハンガリーはオーストリアと二重帝国となり、1873年にブダと古いブダを意味するオーブダそして対岸のペストが合併してブダペストとなり、首都になったのだそうです。現在でも、ハンガリーでは、ブダペストを単にペストと呼ぶことが多いそうでブダの方はおまけ的な位置づけのようです。元の政治の中心のブダと商業が発達したペストの合併、福岡と博多の合併みたいですね。大都市圏人口は330万人となっています。ハンガリーの人口が大体1千万ですので約1/3が都市圏に住んでいる事になります。
ブダペストを観光してみて感じたのはハプスブルク帝国のハンガリーの存在が大きくなり1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国となりウイーンと共にブダペストが帝国の中で中心的な都市となり、1896年に挙行された建国千年記念行事に合わせて多くの建造物、地下鉄の建設、市民公園等の整備が進みました。現在観光地となっているのはほとんどこの時代の遺産と言えます。ただその後1918年の第一世界大戦の敗戦からは良い事が無く1989年にソビエトの衛星国から解放されるまで暗黒の歴史を歩んで来ています。過去の素晴らしい栄光の遺産だけを見てブダペストは綺麗な都市と言うのは簡単ですが、百年間苦労を重ねて来ている事を感じながら街を散策しました。過去の栄光の都市から未来に向かう発展性の高い街への変身はまだこれからという印象を抱きました。
写真はブダ王宮とドナウ川沿いの市街地
中央ヨーロッパ散策・ハンガリー


133・スロバキア・ブラチスラヴァ (2017年03月05日)
現在はスロバキアの首都として知られるようになったブラチスラヴァですが、この地域は中世には北ハンガリーと呼ばれていて1536年から1784年までハンガリー王国の首都で1563年から1830年まではハンガリー国王・女王の戴冠式がここの聖マルチン大聖堂で行なわれたのだそうです。今から100年位前のハプスブルク帝国の頃にはこの街は非常に国際的でドイツ語やハンガリー語がスロバキア語に勝っていた程だったそうです。チェコの首都プラハが長い間神聖ローマ帝国そしてハプスブルク家の王都であったのはかなり違う歴史を歩んでいます。1918年第一次世界大戦終了後にこの二つのスラブ人国家は一つの国家「チェコスロバキア」として独立しました、まだ100年経っていないのですね。
一つ疑問があります。子供の頃に「チェコスロバキア」として学んだので一つの単語で二つの名前を繋げているとは思っていませんでした。確かにチェコ人とスロバキア人は人種的に近いものがあり、また言語も相互で理解可能な程度の違いとの事ですが、100年前まではチェコのプラハは神聖ローマ帝国の王都として君臨しその後はハプスブルク家がウイーンに拠点を移すまでプラハが中心でした。一方のスロバキア、首都ブラチスラヴァはオスマン帝国がブダペストなどを支配した後には王領ハンガリーの王都でした。ほぼ別の道を歩んで来た両民族ですがどうやら大モラヴィア王国の存在が一つの鍵のようです。スヴァトプルク1世 (871年?894年)の版図は最大となり、その中核となったのはチェコとスロバキアの地域で「繁栄を誇った大帝国の時代我々は一緒だったではないか」との思いがあったので心理的にチェコとスロバキア一体の国家に抵抗が無かったのでしょう。
第一次世界大戦の結果、オーストリア=ハンガリー帝国が解体される際にそれまでチェコとスロバキアは別の民族とされていたにもかかわらず、突如「チェコスロバキア主義」が登場しました。帝国末期に独立運動を行い国を追われワシントンDCに居た指導者トマーシュ・マサリクが1918年にチェコスロバキア独立を宣言し、その際にはチェコスロバキア民族とだけ記され、チェコスロバキアは一つの民族とされました。これはマサリクが父はスロバキア人、母はモラヴィア人であったことが大きかったのでしょう。
一番大きかったのは独立直後の人種調査ではチェコスロバキアの民族構成において恣意的に一つの民族として計算され、チェコスロバキア人は62%であり、実に1/3以上が他民族で構成されていて、国を治める上で一つの民族であるとして、数的優位を内外に示す必要であった為と想像します。もし従来通りチェコ人とスロバキア人を別々に扱っていたならば多民族国家という事になり、新たな国家をまとめて行くのは相当難しかった事でしょう。また元々チェコ人自体もボヘミア、モラヴィア、シレジアの3地域から構成されていて、その上にスロバキアを加えても良いのではという考えであったのでしょう。モラヴィアにはボヘミアのプラハのような中心となる都市が無く地域差が大きく統一したモラヴィア人という意識も希薄であり、またシレジアの場合は多くはポーランド領となり一部がチェコ領となっている事からチェコの一部になる事に余り抵抗が無かったのかも知れません。
要するにチェコスロバキア主義というのは「チェコ(ボヘミア+モラヴィア+シレジア)+スロバキア」でまとめて一つの民族という事だったのでしょう。ご都合主義で生まれた「チェコスロバキア主義」は国民の意志で生まれたものでは無く、為政者と国際社会の都合で作られたものであったのでビロード革命の後、あらゆる束縛から解放さえた時点で終わりとなったのは当然の事なのかも知れません。

(地図:大モラヴィア王国最大版図)
1968年に起きた所謂「プラハの春」を指導した政治家ドプチェク氏はスロバキアの出身でソビエトを中心とするワルシャワ機構軍の介入で頓挫しましたが、この時にチェコとスロバキアの連邦制に移行したのだそうです。1989年ようやく冷戦が終わりソビエトの衛星国家としての歴史は終わりましたが、チェコとスロバキアの連邦制存続に対して反対する意見が出て1993年平和裏に連邦を解消しスロバキアは独立しました。その後両国ともEUに加盟し、また2007年にはシェンゲン条約に加盟し両国そして歴史的に繋がりの深いハンガリー、オーストリアとの障害も取り払われました。
ブラチスラヴァはウイーンから直線距離で55キロほどして離れておらず、シェンゲン条約並びにユーロ通貨の使用という条件で今後は改めてウイーンとの繋がりをどのようにしてするのか問われる事になりると思います。ブラチスラヴァからウイーン、そしてブダペストの距離は大体東京からですと平塚そして静岡の距離に当たります。もしウイーンと高速鉄道で結べば30分程で行く事が出来るようなり通勤圏と言えます。シェンゲン条約で往来が自由化されてまだ10年、これからその効果、影響が出て来る事でしょう。
長い歴史でハンガリー、ポーランド、オーストリア、チェコ等の周辺諸国に翻弄された歴史ですが、この百年を振り返ってみたいと思います。100年前は1917年、第一次世界大戦の末期、オーストリア・ハンガリー二重帝国は敗色濃厚となっていました。スロバキアは二重帝国の中でハンガリー帝国に属していました。当時ブラチスラヴァではドイツ系、ハンガリー系の人達が主導権を握り、スロバキア人の民族運動が高まってきたいた時期になります、それでも街全体でスロバキア人は15パーセント程であったと言います。翌2018年に第一世界大戦の戦後処理が行われチェコと共に独立国家となります。
1918年 チェコスロバキア共和国の成立を宣言
1939年 スロバキアはドイツの保護のもとで独立
1944年 スロバキア蜂起始まる ソ連軍、スロバキア領国境を越える
1945年 第二次世界大戦の終結によってチェコスロバキア再建
1948年 共産党の支配が確立し、ソ連の衛星国
1968年 スロバキア人・アレクサンデル・ドゥプチェク・チェコスロバキア共産党中央委員書記長による改革(プラハの春)、ワルシャワ機構軍による侵攻と占領
1989年 ビロード革命として知られる一連の抗議運動が始まり、チェコスロバキアでの共産党支配の終焉
1993年 チェコスロバキア解体、チェコ共和国とスロバキア共和国に別れる
2000年 経済協力開発機構 (OECD) 加盟
2004年 北大西洋条約機構 (NATO) 加盟 欧州連合 (EU) に加盟
2007年 シェンゲン条約施行
2009年 EUで16カ国目、ユーロを導入
ドナウ川が一部はオーストリアとの国境となっていますがブラチスラヴァ付近は両岸ともスロバキア領でブラチスラヴァの市街地は反対側に広がっています。またハンガリーとの国境も市内にあり、珍しく三国国境がある首都となっています。スロバキアは東北よりは小さく九州よりは広い面積4万9千平方キロ、人口は5百5十万人程の国家です。チェコが周囲をシェンゲン条約国に囲まれているのとは異なり東はウクライナと接しています。冷戦時代以前はソビエト領でここから第二次世界大戦、そしてプラハの春の時にソビエト軍がやって来ました。
さて、ブラチスラヴァ、東京、アスンシオンから100キロ、200キロ、300キロの円を描いてみました。ブラチスラヴァから100キロ以内にウイーンがあり、ハンガリー領、チェコ領の一部も入ります。200キロ以内でブダペスト、オーストリア南部の中心都市グラーツ、チェコ南部の中心都市ブルノがあり、ポーランド、スロベニア、クロアチアの一部が含まれます。200キロで外国六ヶ国に行けるというのもすごいですね。300キロ以内にはチェコのプラハがあります、チェコスロバキア時代の首都であるプラハよりもウイーン、ブダペストの方がずっと近く今後はオーストリア、ハンガリーとの結びつきが強まるのでしょう。同じようにアスンシオンを中心に100キロ、200キロ、300キロの円を描いてみました。周囲三ヶ国の首都、ブエノスアイレス、ブラジリア、ラパスが入るような地図にしてみましたが遙かかなたです。

(地図:ブラチスラヴァから100キロ、200キロ、300キロ)

(地図:東京から100キロ、200キロ、300キロ)

(地図:アスンシオンから100キロ、200キロ、300キロ)
どのくらいオーストリアとハンガリーが近いのかと言いますと皇居からの距離と比較してみると分かり易いと思います。オーストリアまでは4キロ、皇居からですと新宿、ハンガリーまでは16キロくらい、皇居からですと大田区と川崎市の県境くらいの距離になります。スロバキアはスロバキア人の国で西スラブ語のスロバキア語、オーストリアはゲルマン系のドイツ人でドイツ語、ハンガリーはハンガリー人で言語はウラル語族のマジャール語と全く異なる人たちが住んでいます。特にオーストリアとの国境は冷戦の時代には所謂「鉄のカーテン」の一部であった訳です。現在はシェンゲン条約に加盟していますので国境には何の障害も無く意識しないで越える事が出来るのですが一体となった経済圏、生活圏を形成するにはもう少し時間がかかるのかも知れません。

(地図:ブラチスラヴ中心部から5キロ、10キロ、15キロ)

(地図:皇居から5キロ、10キロ、15キロ)
中央ヨーロッパ散策・ブラチスラヴァ
下の写真は旧市街地とブラチスラヴァ城です。


132・中東欧の共産主義国家 (2017年01月30日)
かつて中東欧はソビエト連邦の衛星国家で共産主義の体制でした。1989年今から28年前にビロード革命という形で崩壊し欧州の共産圏は消滅し現在は多くの国がEUに加盟し欧州の一員になっています。第二次世界大戦で連合国側の勝利が見えて来た時に戦後の処理を話し合う為に黒海沿いの保養地・ヤルタでソビエト・スターリン、英国・チャーチル、米国・ルーズベルトが集まり戦後欧州の線引きについて話し合いました。ルーズベルトはスターリンよりはチャーチルを警戒していたと言われており、ソビエトに余り警戒心を持っておらず、非常に楽観的な見通しを持っていたと言います。ソビエトが占領してもその後の自由な選挙で民主的な政権が生まれるとでも思っていたのだと思います。スターリンにポーランドを西に動かされ、本来は西欧と深い繋がりのあったチェコスロバキア、ハンガリーまで取り込まれてしまいました、要するにラテン系、ゲルマン系で無いスラブ家の国は全て囲い込まれてしまいました。鉄のカーテンを下された時には米国はしまったと思った事でしょう。
第二次世界大戦の終戦が1945年、中東欧の共産政権が打倒されたいわゆるビロード革命が1989年という事はその間は約45年間です。この年に全てのソビエト衛星国では政権が交代しました。そこからは西側へ急接近し、ハンガリー、チェコスロバキアなどではEU加盟、シェンゲン条約の加盟と進み10年前には国境管理が無くなりました。ただ89年までは共産国であり、教育も国家体制に沿ったものだったでしょう、当時12歳の人は現在40歳、要するにかなり多くの人は昔を引きずりながら生活をしている事でしょう。突然、資本主義の中に投げ込まれ、国境も消え、「はいどうぞ」と言われても価値観を変えるのは容易な事ではなく、言葉も文化も違う人と一緒にビジネスを進めて行くのは大変な事ででしょう。
鉄のカーテンは消え去り、街はモダンに西欧化しても実際にはまだまだ西欧諸国との本当の一体化までには至っていないのかも知れません。チェコの首都プラハからウィーン、ベルリン共に僅か300キロしか離れていません以。シェンゲン条約に加盟して10年経過していますのでドイツ、オーストリア等とかなり一体化が進んでいるかと思っていましたが実際にはようやくこれからという感じです。物理的な変更は簡単ですが人々の意識を変えるには時間と若い世代が育つのを待つ必要があるのだと思います。鉄のカーテンがどこにあったのか分からなるまでにはもう少し時間がかかるように思います。
チェコ共産党年表
1945年 ナチス・ドイツの敗走の結果、ソ連軍によって国土の大半が「解放」される。
1946年 選挙で共産党が第1党になるが、単独で過半数を得るには至らなかった
1947年 マーシャル・プランへの参加を表明するが、ソ連の圧力で撤回する事態が生じた。
1948年 共産党と社会民主党左派からなる政権が成立し、チェコスロヴァキアにおいて共産化が完了した、大統領に共産党の指導者クレメント・ゴットワルト
1953年 ヨシフ・スターリンの葬式から帰国したゴットワルトがその後を追うように死去。
1968年 ノヴォトニーに代わって、アレクサンデル・ドゥプチェクが党第一書記に就任。プラハの春とチェコ事件
1969年 ドゥプチェクは党第一書記を解任され、代わってグスターフ・フサークによる「正常化体制」
1977年 哲学者ヤン・パトチカや劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルなどが憲章77を発表し、政府の人権抑圧に抗議する運動を起こす。
1989年 ビロード革命により共産党体制が崩壊した。
1945-1948 ナチスの敗北から共産政権樹立 (3年間)
1948-1968 共産化の推進からプラハの春 (20年間)
1969-1989 再度共産体制から崩壊 (20年間)
この共産主義博物館は本当に小さいものでそれも目立たない建物の奥にひっそりとありました、共産政権崩壊から28年が経過しましたがまだ「過去」になっていないように見えます。40年間に及ぶ共産主義の時代の丁度真ん中にプラハの春とチェコ事件があるのですね。無抵抗の市民とソビエト軍を中心とするワルシャワ機構の戦車、軍事介入後は一層厳しい管理体制がひかれて抑圧されたようです。特にチェコ事件以降、弾圧された人、体制側に付いて特権を持っていた人などがまだ普通に生活している訳です。
プラハ共産主義博物館・書店


131・中欧の大都市 ウィーンの復活 (2017年01月28日)
ウィーンという名前を聞きますとその柔らかい響き、モーツアルト、ベートーベンなどが活躍した音楽の都、シュトラウス一家のウインナワルツ、ウィーンの森、ウィーン少年合唱団の清らかな響き、ウィンナコーヒーのソフトな味わい、そしてソーセージの中でも可愛らしいウィンナーなど柔らかく、淡く、清楚なイメージがあります。なお、この中でウィンナーは現地ではフランクフルターと呼ばれているそうです。市内には国連等の国際機関も多く在り、スイスと同様に中立国、平和国家オーストリアの首都というイメージがあります。
ただこれらのイメージは戦後意図的にウィーン、そしてオーストリアが築き上げて来たもののようです。150年ほど前、日本では幕末の時代にドイツは小国に別れていてオーストリアはドイツ連邦の盟主でした。連邦から脱退したプロイセンとオーストリアは開戦(1866年・普墺戦争)、プロイセンのモルトケがあらかじめ鉄道、電信設備を用意するなど作戦面で勝り短期間でプロイセンが勝利し、ドイツはプロイセンを中心に大同合併し、オーストリアは除外される事になり、これが現在に至っている訳です。それでもオーストリアは多民族国家として大帝国となり、約100年前の第一次世界大戦前には英国、ロシア、ドイツ、フランスと並び欧州五大国の一角を担っていました。この帝国の首都であるウィーンはロンドン、パリなどと同様に大きく発展し大都市となっていました。
二度の大戦で敗北し、かつての領土をソビエトの衛星国にされ、オーストリアはドイツと同様に連合国に分割され、ウィーンもベルリンと同様に分割統治されました。オーストリアは賢く立ち回りドイツとは違う事を強調し東西冷戦の中央に位置する事を利用して平和国家に変身し、分割されずに西側に残る事が出来ました。ただ、かつて大帝国の首都ウィーンを支えていた後背地はほぼ全てソビエト側に属しウィーンの直ぐ東側には越えられない壁が出来てしまい西側の狭いチロルまでの国土が残されただけでした。大帝国の西側に位置していたウィーンが国の一番東の端になってしまった訳でこの時代ウィーンは大きな発展を遂げる事無く人口も停滞し、20世紀を通じて人口が減少した稀有な大都市と言えます。
さて、時代は変わり冷戦が崩壊しEUが成立、シェンゲン条約で国境も無くなりかつての主要な後背地であったチェコ、スロバキア、ハンガリーなどと自由に行き来が出来るようになって来ました。ウィーンを中心に100キロ、300キロ、500キロの円を描いてみます。100キロ以内にスロバキアの首都・ブラチスラバ、300キロ以内にチェコの首都プラハ、ハンガリーの首都ブダペスト、クロアチアの首都ザグレブ、スロベニアの首都リュブリャナと首都がここまでで何と5都市も在ります。ただこの全ての国で別の言語が使われているという多様性もあり、またこれらの都市全てが元共産国家で冷戦時には鉄のカーテンで行き来が出来なかったという事実もあります。更に500キロくらいにはドイツのベルリン、ポーランドのワルシャワ、セルビアのベオグラード、ボスニアのサラエボがあります。国土の西端も大体この位の距離にあります。東京から同じような同心円を描いて比較しますと300キロ地点に名古屋、仙台、500キロに岡山、盛岡が位置しています。名古屋位までの距離の中に言語も文化も異なる他国の首都が5つも在るというのはなかなかすごいものがあります。
ウィーンの中心部は20世紀の初頭には世界の大都市であった事を物語る立派なもので当時はロンドン、パリと肩を並べる大都会であった事が分かります。他の大都市は大きな発展を遂げて周辺に広がり一千万を超える都市になっていますが、ウィーンはそのままで現在でも人口二百万程です。元の後背地と自由に交流が出来るようになり、ようやくこれからウィーンの発展が始まるのではないかと見ています。文化、民度の高さ、インフラも近隣諸国とは相当の差があるように思います。これから文化も言語も異なる周辺諸国から人が集まり再び国際都市として大きく発展するのではないかと思います。

(写真:中欧の大都市・ウィーン)

(地図:ウィーンから100キロ、300キロ、500キロ)

(地図:東京から100キロ、300キロ、500キロ)
なお、アスンシオンからも同じように100キロ、300キロ、500キロの円を描いてみました、隣国の首都ブラジリア、ブエノスアイレス、ラパスが遙かかなたである事が理解出来ます。如何に南米が欧州と比較して大きいのかよく理解出来ます。

(地図:アスンシオンから100キロ、300キロ、500キロ)
もう少し細かく見る為に今度はウィーンの中心部と東京・皇居から20キロ、40、60キロで同心円を描いてみます。東京の場合60キロで土浦、古河、平塚等でこれ等の街は都心への通勤圏として認識されています。ウィーンの場合にはスロバキアの首都ブラチスラバが丁度成田くらいの距離で60キロ行きますと北は既に一部がチェコ領、南はベルリンの壁崩壊に繋がったヨーロッパ・ピクニックの舞台となったハンガリー領のシェブロンに達します。冷戦の時代これが簡単には越える事が出来ない東西の境界となっていたのですからウィーンは西側の孤立した都市であった事が推測出来ます。現在この境は全てシェンゲン条約で無くなっていますので今後はウィーンが拡大しますと大都市圏が国境を越えて行く事でしょう。ブラチスラバは東京から成田か鎌倉くらいの距離ですので高速鉄道で結ぶと30分程度で行く事が出来るようになるでしょう。今はまだ経済格差が大きいのでお互い刺激を避けているのでしょうが、これも大きく変化する事でしょう。


130・チェコ語の言語事情 (2017年 2月 3日)
昔からチェコ、特にボヘミアの中心都市であるプラハでは言語がどうなっているのか興味がありました。中世の時代、ドイツ民族がまだ大分裂していてそれを束ねる形で存在していた神聖ローマ帝国、その首都が長い間ここプラハにありました。地理的にもドイツに近くドイツに食い込むように在るのがこのチェコで歴史的にも長い間ドイツの影響下にありました。現在国民全員がドイツ語話者であるの国はドイツとオーストリアですが、その両方の首都まで300キロ以内に位置しており、地理的にはドイツの中に存在すると言っても良い程です。
一億人近い経済力の在るドイツ語圏の中に在るので学生時代にはここはドイツ語が主役もしくは二ヶ国語が併用して使われているのではないかとではないかと想像していました。大人になり色々と調べると西スラブ語のチェコ語が公用語でドイツ語が全く使用されていない事が分かりました。以前ルクセンブルクに行った際に民族的にドイツに近いのでドイツが使われている、想像していたのですが、実際には主要言語はフランス語でドイツ語は嫌われているようにも感じました。
ドイツ語はその影響力と長年支配者として君臨していたので排斥され忌避されたのかも知れませんね。1910年のドイツ語圏の地図がありますが、プラハの在るボヘミアがドイツ語圏の中に丸く抜けているのが分かります。圧倒的なドイツ語話者に周囲を囲まれて、ハプスブルクそしてナチスの圧力の中で民族の言語を死守するのは容易ではなかった事でしょう、現在チェコ人の言語への思いは相当強いものがあると拝察します。
ハプスブルク君主国の統治下にあった19世紀半ばのチェコでは,ドイツ語が優勢であり,チェコ語は「下層民の言葉」と見なされていたそうで、教育、特に高等教育はドイツ語で行われていたそうです。チェコの国民的な音楽家であるスメタナもドイツ語で教育を受け、30歳を過ぎて初めて書いたチェコ語の手紙には自分のチェコ語の知識が不十分である事を告白しています。この状況は日本統治下の朝鮮と似ていますね。

(地図:1910年のドイツ語圏)
プラハ共産主義博物館・書店
129・トランプ大統領誕生 (2017年01月28日)
アメリカ合州国でトランプ新大統領が誕生して世界で大きな話題となっています。日本ではその言動に大きな戸惑いを感じている様子ですが個人的には余り違和感無く受け止めています。よく考えてみますとこのトランプ大統領は我々が住んでいるラテンアメリカの大統領にはよく居るタイプだからで、例えばパラグアイの現在の大統領カルテス氏も政治経験が無い実業家の金持ちです。行動パターンなどはこれらのラテンアメリカの大統領によく似ていますが世界への影響力が全く違うので主に先進国で対応に苦慮しているのでしょう。
相手の話、主張には耳を傾けず、論理的な説明は受け付けず自分の考え方を押し通す姿はラテンアメリカではよくあるタイプですね。南米に長い間住んでいて各国の大統領選挙をみていてどうして俺様タイプの人ばかりなのだろう、それと比較して米国では知的でセンスの良い人が候補者となり、羨ましい、米国人は自国の大統領選挙が上手く機能しているのでラテンアメリカ諸国に自国のような大統領制の民主主義制度を押し付けて来ているのだろうと考えていました。俺様タイプで持論が正しいとして、大衆迎合の政策というよりはプロパガンダを繰り返し唱えて当選、一国の代表としてふさわしいかどうかで選んでいないので大統領になると政府が余り機能しないというパターンです。世界を見回してみますと韓国などでも同じような現象が起き、どの候補者も支持率を上げる為にとにかく反日を唱えているのをみますともはや世界的な傾向なのかも知れませんね。
誰でもある年齢になると投票出来る仕組みが元凶なのは分かっていますが、国民が平等という原則を外す訳にはいかず解決はなかなか難しいように思います。このまま放置していますと、どの社会でも格差が広がりつつあり、多くの市民が先鋭化している中では極端な大衆迎合型の大統領が生まれ続ける危険性が高いと危惧しています。現代社会を支えている資本主義と民主主義、人類が作ったフィクションの中でも傑作であり、現代社会では社会の根幹を為しているのですが両方とも行き詰まりつつあり、実現には相当の時間と知恵と新しい発想が必要になるでしょうが、お金の無い、選挙も政府も国境も無いような新たな新時代を模索し始める必要があるのかも知れませんね。
