ウイーン-01・旧市街地 (ウイーン市・オーストリア)

ウイーン-01・旧市街地 (ウイーン市・オーストリア)
中欧の大都市 ウイーン
ウイーンという名前を聞きますと名前の柔らかい響き、モーツアルト、ベートーベンなどが活躍した音楽の都、シュトラウス一家のウインナワルツ、ウイーンの森、ウイーン少年合唱団の清らかな響き、ウィンナコーヒーのソフトな味わい、そしてソーセージの中でも可愛らしいウィンナーなど柔らかく、淡く、清楚なイメージがあります。(なお、この中でウィンナーは現地ではフランクフルターと呼ばれているそうです。またウイーンと発音している言語も無いようでドイツ語ではヴィーンです。)市内には国連等の国際機関も多く在り、スイスと同様に中立国、平和国家オーストリアの首都というイメージがあります。名称の語源には諸説ありますが、ケルト語で「森の小川」を意味する「Veduna」が元々の語源という説が有力のようです。
ただこれらのイメージは戦後意図的にウイーン、そしてオーストリアが築き上げて来たもののようです。150年ほど前、日本では幕末の時代に現在のドイツに当たる地域は小国に別れていてオーストリアはそれらの国々を束ねるドイツ連邦の盟主でした。連邦から脱退した新興国プロイセンとオーストリアは開戦(1866年・普墺戦争)、プロイセンのモルトケがあらかじめ鉄道、電信設備を用意するなど作戦面で勝り短期間でプロイセンが勝利し、ドイツはプロイセンを中心に大同合併し、その際にオーストリアは除外される事になり、これが現在に至っている訳です。それでもオーストリアは多民族国家、オーストリア=ハンガリー帝国として大帝国となり、約100年前の第一次世界大戦前には英国、ロシア、ドイツ、フランスと並び欧州五大国の一角を担っていて、この帝国の首都であるウイーンはロンドン、パリなどと同様に大きく発展し大都市となっていました。当時は帝国の西側に位置すしていました。

(地図:オーストリア=ハンガリー帝国の版図)
さて、時代は変わり冷戦が崩壊しEUが成立、シェンゲン条約で国境も無くなりかつての主要な後背地であったチェコ、スロバキア、ハンガリーなどと自由に行き来が出来るようになって来ました。ウイーンを中心に100キロ、300キロ、500キロの円を描いてみます。100キロ以内にスロバキアの首都・ブラチスラバ、300キロ以内にチェコの首都プラハ、ハンガリーの首都ブダペスト、クロアチアの首都ザグレブ、スロベニアの首都リュブリャナと首都がここまでで何と5都市も在ります。ただこの全ての国で別の言語が使われているという多様性もあり、またこれらの都市全てが元共産国家で冷戦時には鉄のカーテンで自由に行き来が出来なかったという事実もあります。更に500キロくらいにはドイツのベルリン、ポーランドのワルシャワ、セルビアのベオグラード、ボスニアのサラエボがあります。国土の西端も大体この位の距離にあります。東京から同じような同心円を描いて比較しますと300キロ地点に名古屋、仙台、500キロに岡山、盛岡が位置しています。名古屋位までの距離の中に言語も文化も異なる他国の首都が5つも在るというのはなかなかすごいものがあります。
ウイーンの中心部は20世紀の初頭には世界有数の大都市であった事を物語る立派なもので、当時はロンドン、パリと肩を並べる大都会であったのですが、他の大都市はその後大きな発展を遂げて周辺に広がり一千万を超える都市になっていますが、ウイーンはそのままで現在でも人口二百万程です。元の後背地と自由に交流が出来るようになり、ようやくこれからウイーンの発展が始まるのではないかと見ています。文化、民度の高さ、インフラも近隣諸国とは相当の差があるように思います。これから文化も言語も異なる周辺諸国から人が集まり再び国際都市として大きく発展するのではないかと思います。
なお、二度の大戦で敗北し、かつての領土をソビエトの衛星国にされ、オーストリアはドイツと同様に連合国に分割され、ウイーンもベルリンと同様に分割統治されました。オーストリアは賢く立ち回りドイツとは違う事を強調し東西冷戦の中央に位置する事を利用して平和国家に変身し、1955年に分割は終わり最終的には分割されずに中立国という立場ではありますが西側に残る事が出来ました。ただ、かつて大帝国の首都ウイーンを支えていた後背地はほぼ全てソビエト陣営に属しウイーンの直ぐ東側には越えられない壁が出来てしまい西側の狭いチロルまでの国土が残されただけでした。大帝国の西側に位置していたウイーンが小国の一番東の端になってしまった訳でこの時代ウイーンは大きな発展を遂げる事無く人口も停滞し、20世紀を通じて人口が減少した稀有な大都市と言えます。

(地図:1955年までの分割統治・オーストリア)

(地図:1955年までの分割統治・ウイーン)
なお、日本の分割統治案もあり、実施される可能性があったと言われています。もしソビエトが北海道まで乗り込んで来ていたらどうなっていたか分かりませんね、米国の単独占領となったのは良かったのかも知れません。

(地図:日本分割統治案)

(地図:ウイーンから100キロ、300キロ、500キロ)

(地図:東京から100キロ、300キロ、500キロ)
なお、アスンシオンからも同じように100キロ、300キロ、500キロの円を描いてみました、隣国の首都ブラジリア、ブエノスアイレス、ラパスが遙かかなたである事が理解出来ます。如何に南米が欧州と比較して大きいのかよく理解出来ます。

(地図:アスンシオンから100キロ、300キロ、500キロ)
もう少し細かく見る為に今度はウイーンの中心部と東京・皇居から20キロ、40、60キロで同心円を描いてみます。東京の場合60キロで土浦、古河、平塚等でこれ等の街は都心への通勤圏として認識されています。ウイーンの場合にはスロバキアの首都ブラチスラバが丁度成田くらいの距離で60キロ行きますと北は既に一部がチェコ領、南はベルリンの壁崩壊に繋がったヨーロッパ・ピクニックの舞台となったハンガリー領のシェブロンに達します。冷戦の時代これが簡単には越える事が出来ない東西の境界となっていたのですからウイーンは西側の孤立した都市であった事が推測出来ます。現在この境は全てシェンゲン条約で無くなっていますので今後はウイーンが拡大しますと大都市圏が国境を越えて行く事でしょう。ブラチスラバは東京から成田か鎌倉くらいの距離ですので高速鉄道で結ぶと30分程度で行く事が出来るようになるでしょう。今はまだ経済格差が大きいのでお互い刺激を避けているのでしょうが、これも大きく変化する事でしょう。

(地図:ウイーン中心部から20キロ、40キロ、60キロ)

(地図:東京中心部(皇居)から20キロ、40キロ、60キロ)
オスマン帝国の再襲に備えるため、防衛上の観点から城壁周辺に空き地(「グラシ」と称される)を設けた。市壁に砲撃を試みる場合はこの空き地(グラシ)に陣を構えることになるため、市壁から彼らを一斉射撃できるようになったのである。一連のウイーン改造は17世紀後半まで続き、1680年までにほぼ完了した。第2次ウイーン包囲は1683年で、間に合いオスマンの来襲を防ぐことが出来たわけです。現在の地図と見比べますとこの広い空地後には緑地と大きな建造物が整然と建設された事が分かります。

(地図:市の中心部・現在と1790年)
日本では幕末の時代、1858年に城壁が撤去されたのですが、その当時の地図を見ますと中心部を取り囲むように空地があり、その外に市街地が拡大しているのが分かります。この空地であった場所に緑地や大きな建造物が建ち並び現在の威厳ある都市が出来た訳です。1840年には約40万人だったウイーン市の人口は1860年には80万人弱となり、次々に郊外を呑みこんで1890年には人口130万を数え、1905年には187万、第一次世界大戦末には220万人に膨れ上がりました、当時の東京の人口は190万人ですのでその繁栄ぶりが想像出来ます、当時ウイーンはオーストリア・ハンガリー帝国の帝都として都市圏人口でも世界で7位(ヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンに次いで4位)、世界的な大都会になっていた訳です。なお、現在は180万人程度です。

(地図:1858年)
市中心部の繁華街・シュテファン大聖堂付近 (2017年 1月)
市の中心部は繁華街になっています。大聖堂の近くは重厚な建築物が並び綺麗なお店が並んでいて、如何にもヨーロッパという雰囲気です。人口の割には観光客が多いのか中心部は活気がありました。

(写真:繁華街-01)

(写真:繁華街-02)

(写真:繁華街-03)

(写真:繁華街-04)

(写真:繁華街-05)

(写真:繁華街-06)

(写真:繁華街-07)

(写真:繁華街-08)

(写真:繁華街-09)

(写真:繁華街-10)

(写真:繁華街-11)

(写真:繁華街-12)

(写真:繁華街-13)
日が暮れて一層綺麗になります。

(写真:繁華街-14)

(写真:繁華街-15)

(写真:繁華街-16)

(写真:繁華街-17)

(写真:繁華街-18)

(写真:繁華街-19)

(写真:繁華街-20)

(写真:繁華街-21)

(写真:繁華街-22)

(写真:繁華街-23)

(写真:繁華街-24)

(写真:繁華街-25)

(写真:繁華街-26)

(写真:繁華街-27)

(写真:繁華街-28)

(写真:繁華街-29)
市中心部かつての城壁内側 (2017年 1月)
市内中心部かつての城壁内部はかなり入り組んで道幅も狭く如何にも中世以来の街という印象で、歴史と文化を感じます。

(写真:かつての城壁の内部-01)

(写真:かつての城壁の内部-02)

(写真:かつての城壁の内部-03)

(写真:かつての城壁の内部-04)

(写真:かつての城壁の内部-05)

(写真:かつての城壁の内部-06)

(写真:かつての城壁の内部-07)

(写真:かつての城壁の内部-08)

(写真:かつての城壁の内部-09)

(写真:かつての城壁の内部-10)

(写真:かつての城壁の内部-11)

(写真:かつての城壁の内部-12)

(写真:かつての城壁の内部-13)
かつての城壁並びに空地 (2017年 1月)
1858年に城壁並びにそれを囲むように存在していた空地は道路、緑地、そして大きな建造物に変わりました。現在この環状道路を散策しますと往時のウイーンの繁栄ぶりが偲ばれます。

(写真:環状道路-01)

(写真:環状道路-02)

(写真:環状道路-03)

(写真:環状道路-04)

(写真:威厳ある街並み-01)

(写真:威厳ある街並み-02)

(写真:威厳ある街並み-03)

(写真:威厳ある街並み-04)

(写真:威厳ある街並み-05)

(写真:威厳ある街並み-06)

(写真:威厳ある街並み-07)

(写真:威厳ある街並み-08)

(写真:威厳ある街並み-09)

(写真:威厳ある街並み-10)

(写真:威厳ある街並み-11)

(写真:威厳ある街並み-12)

(写真:威厳ある街並み-13)

(写真:威厳ある街並み-14)
1873年皇帝フランツ ヨーゼフ I 世の時代に建てられたオーストリアの国会議事堂です、何だかギリシア風ですね。

(写真:国会議事堂-01)

(写真:国会議事堂-02)
緑地の一部はアイススケート場になっていました。

(写真:緑地-01)

(写真:緑地-02)

(写真:モニュメント)