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1945 1941年12月8日 太平洋戦争勃発 1945年 3月10日 東京大空襲 1945年 8月15日 降伏 終戦 写真を見る勇気のある人は下記をクリック 戦災直後の写真を最後まできちんと見てください。 (http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html) {2008・8・15 ↑このサイトが無くなっています。 3月にはまだあったのに・・・ 敢えて削除せずにおきます。 代わりにこちらを↓ http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html 同じものです。} 焼け焦げた死体 川に浮かぶ死体 写真をまともに見ることができましたか? 私は写真では無く、この目で見たのです 人間の焼ける匂いを嗅いだのです この記憶は生涯消えないでしょう 私はこのサイトを掲載した後で、上記リンク↑のサイトをみつけました。 私が跨いだという死体がどんなものだったか、 コンクリート製の防火用水桶がどんなものか、 一目瞭然なので、このサイトをトップに持ってきました。 参考にしてください。 そして、いまはまだこのような体験をした人が生きていますが、 そのうちいなくなって、その後は この世に戦争を知っている人が1人もいなくなることを祈りましょう! 上記↑にリンクしましたサイトの写真をお撮りになった 石川光陽氏をモデルにしたドラマをテレビで放送しました。 偶然です! 2008年3月10日 21:00〜 HBC 『東京大空襲 語られなかった33枚の写真』 石川光陽氏役は仲村トオルでした。 石川さんが使っていたカメラと同じ [ライカ] が我が家にもあります。 1939年2月生まれの私の3年8ヵ月 もの言えば唇さむし・・という時代に 私の耳にはたくさんの言葉が入ってきました。それは、 私がこどもだったが故に周りのおとなが警戒しなかったからです。 もの心ついた頃父の姿はもうみえませんでした。 早朝から軍需工場に駆り出されていたからです。 父は舶来ものといわれていた洋品を扱っていたのですが、 畑違いの鉄砲の弾づくりをやらされていたようです。 父は戦争が好きでした。 戦地に行きたくて、赤紙がくるのを首を長くして待っていました。 昭和19年やっと待ちに待った赤紙がきました。 出征の朝 親戚や町内の方々が集まって 「バンザイ!バンザイ!バンザイ!」と賑やかに・・ 父は蜜柑箱のような台に乗って、皆さんに挨拶をしました。 自分の名を名乗り「お国の為に・・・・・では、行きます!」 生きて帰ってくるのはご法度なので「いってきます」 という言葉は使ってはいけないのです。行って死ぬのです。 私はどうしても「バンザイ」はできませんでした。 出征する人の家族は千人針を集めます。 街角に立ち寅年の人に晒しに一針づつ縫ってもらいます。 虎は千里行って千里戻る 「武運長久」ですって!ただ帰ってきてほしいだけです。 私も母と街角に立ち、頭を下げました。 「寅年じゃないけど・・・いいかしら?」 そう言って一針縫ってくださった方も・・。 その晒しを巻いて、 父は喜び勇んで出征していきました。 誰もが陰でいいました。 「30歳を過ぎたものに赤紙がくるようじゃ、日本ももう終わりだね。」 言った後で「しーっ!」と唇に人差し指を立て あたりを見回します。 「ケイ子ちゃん 言うんじゃないよ!」 分かっています。 うっかり口をすべらせて、特高警察に連れて行かれたひとを 見ました。 連れて行かれた人の家族が泣き叫ぶ姿を 見ました。 おとなに何か訊かれたら「知らない」というのが一番良い ということを知っていました。 本は隠れて読まなければいけません。 大切なものは土に埋めておかなければいけません。 そして、何も言いません。 それでも、こども達は毎日元気に遊びました。 すきっ腹をかかえて。 夕方お友だちとさよならするときは、 「生きてたら、また遊ぼうね〜!」 おとな達の挨拶も同じでした。 「お互い生きてたら、またお会いしましょう!」 「お元気でね〜!」とか「御機嫌よう!」 というような別れの挨拶は使われなくなりました。 「生きてたら、またね〜。」 全ての再会が貴重でした。 うちの裏にジゲチャンという朝鮮の子がいました。 私よりもっとお腹を空かせていました。 ジゲチャンがくると、私は家にある ありったけの食べ物を全部あげました。 母は「戸棚の中の食べ物どうしたの?」とききます。 「ジゲチャンにあげたよ」と私 そして「あなたも食べたの?」とききます。 「ううん 私は食べてない」 「全部 あげちゃったの・・・?」 母はいつも途方にくれていたようでした。 食料は全部配給でしたから、ぎりぎりだったのです。 近所の人達は洗濯物を外に干すと朝鮮人に盗まれる と言っていました。 うちはいつも外に洗濯物を干していたけど 盗まれたことなんてありません。 留守中に雨が降ってきたりすると ジゲチャンのおうちの人がとりこんでおいてくれました。 とっても良い人達でした。 でも、おとなになって思うことですが・・ 私たちよりずっと苦労をしていたと思います。 その年、私は 「日独幼稚園」に通っていました。 東京・本郷の伝通院(でんづいん)の坂を上がったところにあって 日本人とドイツ人が半分づついました。 戦況は日増しに烈しくなり、幼稚園は閉鎖されました。 他府県に故郷があるひとは故郷へ帰りました。 田舎に親戚・知人のあるひとは疎開しました。 学校に通う児童は集団疎開をしました。 代々江戸っ子の我が家は東京が故郷です。 こどもの私でさえ、 東京で死ぬ覚悟はできていました。 父が戦地に行く前に千葉県佐倉の連隊の父を尋ねました。 父は軍服を着ていて知らない人のように見え、 私は一言も話しをしませんでした。 黙って一緒にお弁当を食べました。 父が戦地にいき、残された母と私と1歳の妹は 昭和20年のお正月に母の実家である日本橋・浜町へ引越しました。 私たちの住んでいた本郷には近くにお醤油工場がありましたので、 工場があるとB29に爆撃されやすいから・・・という理由でした。 浜町は新大橋の袂です。 両国橋・新大橋・清洲橋のかかる隅田川を挟んで 新大橋を渡って向こう岸は江東区深川 浜町は色町で料亭や置屋さん(芸者さんを派遣するところ)ばかり、 母の実家は佃煮やです。 祖父は釣り船の船頭から佃煮屋になったのです。 新大橋の袂には大きな防空壕がありました。 家の前の歩道には町内会で掘った少し小さい防空壕がありました。 家の縁の下にも小さな防空壕がありました。 歩道の防空壕の近くに穴を掘って、 佃煮をいれていたかめ・食器・本など大切なものを埋めました。 毎日 防空演習があります。 貴重品カバンと薬カバンをばってんに交差させて肩にかけます。 それから、両手の指で耳・目・鼻をいっぺんに塞ぐ練習です。 爆音で鼓膜が破れないように親指を両耳に入れます。 光で目をやられないように人差し指と中指で目を塞ぎます。 毒ガスを吸い込まないように薬指と薬指で鼻を押さえます。 それで口を結んでいたら、どうやって息をするのでしょうね? 馬鹿なことをやっていたものです。 なんせ防毒面は一家に一つしかありませんでしたから・・ こんなことでもしなければ・・・ということでしょうか。 バケツリレーだの火ばたきだのといっている段階ではありませんでした。 窓のガラスは爆音で割れないように海軍の旗のように紙テープを貼り、 電燈は光が外に漏れないように黒い布で覆いました。 少しでも光が漏れていると「○○さ〜ん 光が漏れてますよ〜!」 と注意されます。 B29の音が聞えたらすぐ防空壕に。 あちこちで空襲があります。 ラジオは「日本は勝っています」と放送していましたが、 それを信じる人はもういなかったと思います。 爆撃の無さそうな時をねらって銭湯へいきます。 銭湯はごった返し 「芋のこを洗うような」と表現しました。 そんなときでもB29が飛んでくることがあります。 メガホンの「警戒警報発令」の声が響きます。 もっと危険になったら 「空襲警報発令」と声が響きます。 そして「敵機来襲!」 濡れたからだを拭くまもなく身支度をしてB29が通り過ぎるのを待ちます。 「生めよ増やせよ」なんていっていましたが、 多くの女性の生理は止まっていたそうです。 それに、もう若い男性もいませんでした。 橋を落とされる 工場が狙われる 夜はタバコの火でも空から見える 「ひゅー」っと音が聞えたら、爆弾は自分には当たらない 体に火がついたらゴロゴロ転がる 空から降るビラは拾っては駄目 これくらいのことは、こどもでも知っていました。 家の前は都電の停留所でした。 電車通りを渡った向こうに銭湯と小学校がありました。 家の裏のほうには「浜町公園」という大きな公園があり、 公園の中に弓道場がありました。 各家の玄関前にはこどもが2人位入るようなコンクリートの 「防火用水桶」があり、いつも水がいっぱい入っています。 毎日着のみ着のままで寝ました。 枕元に薬と貴重品のカバンを置いて・・・。 熟睡したことはありません。 「空襲警報!」の声に飛び起きました。 母は妹を背負い、私と3人で家の中の防空壕に入りました。 祖母が防空壕に蓋をして、蓋が飛ばないように 上に物を載せたので、防空壕からでられなくなり、 不安になった母は必死で叫びました。 「おばあちゃん 開けて〜!」 祖母が防空壕の蓋を開けたときは、 もうきな臭い匂いが立ち込めていました。 外へでると遠くが真っ赤です。 祖母が大切な玉子を取りに家に入ると 2階のもの干し場が崩れてきたので、諦めました。 祖父は病気で寝たきりになっていましたが、 玄関の「あがりがまち」に胡坐をかいて座り、腕組みをし、 「俺はここで死ぬっ!お前達は逃げろっ!」 と毅然とした態度でいいました。 町内会の方が駆けつけて祖父を担架に乗せて逃げでくれました。 祖母は祖父と一緒に逃げたようでしたが、 火の手が迫り、見届けるゆとりもなく、 あっという間にはぐれてしまいました。 「俺はここで死ぬっ!」と言った祖父の声がいつまでも耳に残っていました。 気がつくと、 隣の釣竿屋の一つ年上のあっこちゃんが私の手をしっかり握っています。 母は必死で叫びました 「あっこちゃん!おかあちゃんのそばにいきなさいっ!」 「やだっ!ケイ子ちゃんと一緒でなきゃやだ〜っ!」 とうとうあっこちゃんは家族とはぐれてしまいました。 私たちは歩道の防空壕に逃げ込もうとしたのですが、 もうそこは満員で入れません。 新大橋の袂まで逃げて大きな防空壕に入ろうとしたとき、 焼夷弾が雨のように降ってきました。 橋は落とされると分かっていても、逃げ場は橋の上しかありません。 猛火に追われて橋の真ん中まで行ったところで、 川向こうをみるとそこも火の海でした。 火に挟まれ橋の真ん中から動けなくなりました。 火が風を呼び、後に伝え聞いたところによると 風速30mだったそうです。 おとなは立って歩けません。 布団を被って這って逃げる人もいました。 船が転覆して油がこぼれ、川も燃えています。 その燃えている川に飛び込む人もありました。 浜町は火の海 川向こうの深川も火の海 橋の上は私たちと黄色い風呂敷包みを持った男の人だけでした。 あっこちゃんはもういませんでした。 あとで母が「あっこちゃんはご両親と会えたのよ」といっていましたが・・ 黄色い風呂敷包みを真ん中にして、 私たちは輪になってしゃがみ込み、 男の人はずっと「南無阿弥陀仏」を唱えていました。 後で思ったことですが・・ その方はお坊様だったのではなかったかと・・ 焼夷弾の雨が降る度に私たちは伏せました。 音が静まって顔を上げる度に、家々が舐めたように無くなり 紅一色の世界のあまりの美しさに呆然となりました。 朝がきたときには、きな臭い匂いがあたり一面に漂い、 もうなにもかもが無くなっていました。 橋は落とされませんでした。 家の方に向かって歩く途中、いくつもの死体をまたぎました。 近所のおばさんが、防火用水桶の中で 手を合わせて亡くなっていました。 家族とはぐれて死体の顔をのぞき込みながら捜し求める声 「薬を・・」と泣き叫ぶ声 祖父と祖母には浜町公園で逢えました。 焼け残った弓道場にいたのです。 祖父母は神奈川県の横須賀にいる祖母の妹の家にいきました。 私達はとりあえず炊き出しでもあるかもしれないと、 小学校に行きました。 そこは焼死体でいっぱいでした。 浜町公園の隣にある明治座は電気シャッターが壊れて 中に逃げ込んだ人達が蒸し焼き状態で亡くなっていました。 ただ呆然と歩いていると、軍のトラックがきて たくさんの死体を拾って積んでいきました。 1945年3月10日 これが私のみた東京の大空襲です。 着のみ着のまま 裸足で逃げました。 貴重品カバンや薬カバンは誰も持っていませんでした。 火傷や怪我をしていても薬は誰も持っていませんでした。 髪の毛は焼け焦げ、火の粉で目も見えず、 みんな自分が生きているのか死んでいるのか きっと分かっていなかったと思います。 私達は夢遊病者のように電車に乗り、歩き やっと茨城県までたどり着き 「住」のページに載せた「傾いた家」を見つけて住んだのです。 東京では「B29」と聞いただけで、防空壕に飛び込んでいたのに、 茨城県では「B29」が飛んできても誰も逃げませんでした。 「あ、B29だ!」といってのんびり見上げていました。 防空壕もありません。 とても不思議な気分になりました。 私のなかで戦争が終わりました。 茨城県へきても変らなかったのは 毎日 出征していく兵隊さんを駅にお見送りにいくことです。 東京と違うのはお見送りに行くとお赤飯のおにぎりが貰えることでした。 お赤飯はもらいましたが、絶対「バンザイ」をしなかったので、 しまいには「バンザイをしない子には、おにぎりをあげないよ!」 と言われましたが、断固「バンザイ」はしませんでした。 だって明日死んじゃうかもしれないのに・・ 母は時々東京へ戻り、土に埋めておいたものを持って来て (主に着物や帯でしたが)農家の人にそれとお米を交換してもらいました。 母は「ひとの足元を見てっ!」と怒っていました。 高価な帯がほんのひとにぎりのお米にしかならなかったからです。 母は死ぬまで「茨城のひとはコスッカライ!」といい続けました。 私は畑のさやえんどうを取って泥棒呼ばわりされ、 さつまいもを取ってかじっていたときも泥棒呼ばわりされました。 けれど畑が個人の所有だということを知らなかったので、 「ふん!」という態度で、気にも留めませんでした。 おかげで近所のこども達は私を見かけると 「ドロボー ドロボー」と囃し立てました。 私は毎日箒を振りかざして、囃し立てるこども達を追い掛け回しました。 そのうち友だちがたくさんできて、トンボや蛙の取り方や 梅のつけ方やヨモギの見つけ方や、丸木橋の渡り方や 通学路の近道を教えてくれたりするようになりました。 「これオライのダッペよ」(これ私のでしょ) 「オドとオッカー イッペか?」(お父さんとお母さんいるかな?) 「ゼニ もってこ」(お金持っといで) すっかり茨城弁になりました。 毎日のように芽のでたじゃがいもを食べました。 そして4月 国民学校1年生 名簿に私の名前はありませんでした。 それでも学校は楽しかった! 裸足の通学です。 雨の日は校舎に入る前に井戸端で足を洗いました。 たまに警戒警報のサイレンがなると、家にとんで帰りました。 傾いた家へ お風呂は近所の家にもらいにいきました。 トイレは畑の肥料のために外にありました。 夜は恐くて行かれません。 母はオマルを手にいれてくれて、家の中に置いてくれました。 母も恐かったのかもしれません。 寝ると必ず逃げる夢を見ました。 とても早く痛快に逃げるのです。 この夢は中学生位まで続いたのです。 夏の暑いある日 戦争は終わりました。 1945年8月15日 なんの感動もなく、ぼんやりと受け止めました。 負けたという悔しさも、悲しさも無く 終わったというはっきりした意識も無く 安堵感は時間をかけてじわじわとやってきました。 東京へ帰れる・・・ とりあえず東京へ戻りました。 東京は焼け野原 焼け跡には連絡先を書いた立て札が・・。 「こういう人を見かけませんでしたか〜?」 「こういう人を知りませんか〜?」 あちこちで声を嗄らして家族を探しています。 口をぱっくり開けた猫の死骸に蛆虫がいっぱいわいていました。 隅田川の上に富士山が見えました。 親戚・知人の家を転々と居候。 祖父は終戦の声とともに親戚の家で亡くなりました。 「畳の上で死ねて良かったね。」 焼け跡の自分の敷地にみんなが杭を打ち始めました。 放っておいたら自分の土地が無くなります。 慌てて焼け跡にトタン屋根のバラック小屋を建て、 祖母を呼び戻し、母と妹そして私の4人暮らしが始まりました。 叔父(父の弟)が復員してきて、私達を訪ねてくれました。 痩せ細った私を見た若い叔父は握った拳を震わせて 泣きました。 大声で絶叫するように泣きました。 男の人が泣くのを見たのはそれが最初で最後です。 父が帰って来たのはそれから1年後でした。 夜は無数に開いたトタン屋根の穴が素敵なプラネタリュームでした。 平和です。 大正生まれの母はこの土地で関東大震災と 東京大空襲の2度の大きな不幸にみまわれました。 1946年冬 敗戦の子ら 小学2年生 ![]() 戦災で破壊された校舎の屋上 みんな洋服がきつくて丸々太って見えるでしょ? だって、 あのときこれを着て逃げたのよ・・ 2年経ってこんなにつんつるてんになっちゃって〜 靴や靴下でさえ無かったのに・・ だって 裸足で逃げたんですもの コートなんてとんでもありません 靴を履いている子が一、二、、、 下駄を履いている子が一、二、三、、、 裸足の子が一、、、、 後ろの子達は何を履いていたのかなぁ。。。 みんな お腹が空いていて みんな 虱がいっぱいたかっていて おとうさんもおかあさんも死んじゃった子もいて お風呂に入れない子もいて 先生は毎週土曜日の帰りに10円渡していました。 「これでお風呂に入っておいで」って。 銭湯が10円だったから・・・ なのにみんな仲良しでした なのにみんなこんなに笑っています みんな 優しかった みんな 幸せを感じていました 戦争が終わったから 世界のあちこちで戦争が続いているけれど 私は今 笑顔で「御機嫌よう!」といってます ごきげんよう(^_^)/~ (私は後列右から4番目です) |
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