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衣
日常生活は着物でした。
唐子人形の模様の黄色い着物がお気に入りでした。
寝るときはキチンとたたみ枕元におきます。
付紐を2本出して仰向けに寝た左右両脇に置いて、
それにつかまって寝ます。
誰かがたたんでくれたときは、付紐を出すためにたたみなおします。
「折角たたんであげたのに・・変な子だね!」
七五三の三つのお祝いのときは初めて洋服を着ました。
黒いビロードで ズロース・ワンピース・コート・帽子 の
アンサンブルです。
初めてパンツを穿きました。
ワンピースとコートには胸のところに赤いスモック刺繍が施されていました。
帽子には赤いリボンがついていました。
靴は何故か赤と黒の2足ありました。
玄関で母に赤い靴を履くようにいわれましたが、
黒でなければ嫌だと言い張り、
結局 白いソックスに黒い靴で出かけました。
3歳といっても昔は数え年(生まれたときが1歳)ですから、満2才でした。
ビロードの洋服は大きめで手が隠れるほどブカブカでしたが大好きでした。
戦争が激しくなってモンペに防空頭巾、逃げるときは貴重品カバンと
薬のカバンを左右バッテンに肩からかけました。
どんどん激しくなって、毎日友だちの誰かが死ぬようになり、
私たちも1時間後に生きているか死んでいるか分らなくなったとき、
モンペも防空頭巾も止めました。
こんな格好で死にたくなかったから・・・。
毎日 ビロードの黒いワンピースを着て寝ました。
(私のいまある全ての原点です)
大空襲で逃げたとき、コートは着ていませんでした。
帽子もかぶっていませんでした。靴も履いていませんでした。
もちろん 貴重品カバンも薬カバンも肩にかけていませんでした。
火傷をして「くすり くすり 誰かくすりを・・・!」とみんな叫んでいましたが、
薬カバンを持っているひとは一人もいませんでした。
残ったのは着ていたビロードの黒いワンピースだけなのに、
その後も何かをちゃんと着ていられたのがとても不思議です。
どなたかがくださったのでしょうね。母が必死でなんとかしたのでしょうね。
たとえ餓死しても裸で死ぬのは絶対嫌ですからね。
七五三の七つのお祝いは赤い総絞りの着物を着ました。
何故 そんな上等の着物があったのか不思議ですが、
多分 土に埋めておいて焼けなかったのでしょうね。
当時はカチューシャというヘアーバンドが流行っていて、
着物にカチューシャといういでたちでした。
大人は簡単服とかアッパッパーと呼ばれたワンピースに下駄という
「サザエさん」や「意地悪バアサン」にでてくるようなスタイルでした。
親戚が神奈川県の浦和で撞球場(ビリヤード)をやっていました。
お客さまは船乗りばかりです。
台の布にタバコの焼け焦げがついたりすると、全部張り替えます。
その布を貰って、母がズボンを縫ってくれました。
綺麗な緑色で気にいったのですが、裏地がついていなかったので
股が真っ赤になってヒリヒリしました。
母がブルーのデシンでフリルのついたワンピース
を縫ってくれました。
もうひとつ 白のデシンでもフリルいっぱいのワンピースを縫ってくれました。
そのワンピースには赤い巾の広いリボンのベルトがついていました。
中学生になってからは殆んど自分で縫いました。
学校へ着ていく制服代わりの裏付きのジャケットや
ジャンパースカートも自分で縫ったのです。
数少ない既製服のなかで、大のお気に入りだったのは
大きな向日葵の模様で白い襟の着いたエバーグレーズという生地の
夏のワンピースでした。
化繊が出回り、人絹が出回りましたが不人気でした。
ビニールが登場して、リボンや風呂敷が発売されました。
ナイロンができました。
盆踊りのときはお揃いの浴衣をきて、祖母に日本髪を結ってもらいました。
日本髪は新橋銀杏(てこまいの髪型)や、かつら下地(昔役者がカツラをかぶるときに結ったもの)です。
高校のときも制服は自分で縫いました。背広スタイルです。
カバンは赤でした。
コンビの靴が流行っていて、
通学には赤と白のコンビの靴を履いていました。
いつもポニーテールにして
10p位の巾の広いリボンで結んでいたのですが、
カバンも靴もリボンも校則違反だったと卒業してから知りました。
サックドレスが流行っていました。
昭和33年に結婚してからまた着物生活が戻り、
流行の茶羽織を愛用していました。
大阪万博のころはミニスカートが流行り
その後 ミモレ マキシ と流行し
スカートの丈はだんだん様々な長さのスカートを
自由に着るようになりました。
マンボズボンが流行り サブリナパンツが流行り
パンタロンが流行り
ホームパーティーが流行りました。
ホームパーティーで一番流行ったのがパジャマパーティーです。
指定のコスチュームで公共の乗り物を利用しなければいけない
ルールですから、
電車に乗っても恥ずかしくないパジャマがたくさん売り出されました。
ホコテンができてストリートパフォーマンスやマックがでてきました。
竹の子族が流行りました。
原宿のブティック「竹の子」の衣裳を着て
ホコテンで踊っていた若者たちです。
現在札幌で行われている「YOSAKOI」は
カラフルな和洋折衷スタイルで竹の子族にそっくり!
太陽族(石原慎太郎の芥川賞「太陽の季節」から)
みゆき族(東京銀座みゆき通りから)
そして竹の子族 かみなり族
いまも変わらずいろんな「族」が・・・。
パーティー用の普通のドレスは殆んど友だちにあげましたが、
マキシのジャンプスーツは引き取り手がなくて、いまだに持っています。
何故 引き取り手がなかったのかというと
脱がなくてはトイレに行かれなかったからです。
グリーンのラメで、かなり幅広のパンタロンなので片足だけでロングスカートが
一枚とれるほどなのです。シャツスタイルでした。
このドレスには、ピエールカルダンの赤い靴とバッグを使いました。
靴にはシルバーの直径2pほどの玉が着いていてシルバーのバックバンドです。
バッグもシルバーの持ち手でした。いまもまだあります。
チャイナドレスも流行りました。
外出には夏でもレースの手袋をはめました。
ジーパンが流行りはじめてからは日常はジーパンになり、
新しいジーパンははいてお風呂に入りタワシでこすり
乾いたら数日間 はいて寝ました。
そうしてからでないと はいて外へは出ませんでした。
ボタンダウンが好きで ヒップハンガーの赤いステッチの
ブルージーンズがお気に入りでした。
捨てずにとっておけばビンテージものは、今なら高く売れたかもしれません。
シャネルスーツも人気でした。
コートドレスもツイードの千鳥格子でつくりました。
ビロードのワンピース1枚の着の身着のままで
焼け出されたことは忘れていきました。
洋服はほとんど自分でデザインしたものをオーダーしていましたので、
どれも気に入っていて古くなっても捨てられませんでした。
札幌に来てからは着物を全然着ていません。
着物を着る生活から遠のいてしまいました。
70歳に手が届こうとしている今、30年 40年まえのものをまだ着ています。
たまに 「素敵」と褒めるひとがいると冷や汗がでます。
もちろん お世辞だとは思うのですが・・・
着るということは食べることより大切です。
「衣」「食」「住」の順序はゴロがいいだけでなく
ひとが生きる上で正しい順序で並んでいるとつくづく思います。 |

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