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食
お喰い初めに何を食べたか・・なんて知りませんが、
鯛の尾頭付きにお赤飯だと思います。
オママゴトはアカマンマの草を砂に混ぜてお赤飯に、
青虫をきざんでおかずにしました。
もちろん 食べるマネだけです。
すき焼きは牛肉の脂身しか食べませんでした。
そのうち すき焼きなんて忘れてしまいましたが・・・
防空壕の中でトコロテンを食べました。
食べようとしたときに「敵機来襲」のサイレンが鳴ったから、
なにも持たずにトコロテンだけ持って、
みんなで防空壕に逃げたのです。
暗闇で食べました。おいしかった〜!
美味しいものを食べていれば、死ぬのなんて恐くない。
1945年3月9日 東京大空襲で焼け出され、
翌朝 焼け焦げた死体をまたいで歩き
近くの浜町小学校へ行ってみました。
そこは死体の山でしたので
少し遠くの有馬小学校までいきました。
乾パン少しとひとにぎりほどの金平糖を配っていたので、
並びました。
配っていたのは2階でした。
階段を上っているとき、
私の前は赤ちゃんをおんぶした女の人でした。
目の前に赤ちゃんの足が2本、焼け焦げていました。
髪の毛と肉の焦げた匂いが鼻をつきました。
正気の人はいませんでした。
ほとんどのおとなは火の粉で目をやられ、
ちゃんと見ることはできませんでした。
あの女の人は背中の赤ちゃんが
死んでいることを知っていたのでしょうか。
炊き出しがあったとしてものどは通らなかったでしょう。
軍隊のトラックがきて、
おびただしい死体を積んでいきました。
あの中にまだ生きていた人がいたかもしれない・・・
そんな思いがいまも胸を押し潰し、恐怖でからだが震えます。
焼夷弾に当たって死ぬことよりも、
そのことの方が私は恐ろしい。
上野からやっと汽車に乗れて、茨城県までいきました。
二日間金平糖をときどき口に入れながら歩き続けました。
身体を横たえるところがみつかるまで・・・。
あの可愛い金平糖が
焼け焦げた赤ちゃんの足と人間の焼ける匂いを連想させます。
田舎は初めてでした
母がコウリャンのお団子をつくってくれました。赤いお団子です。
美味しかった〜 食べ過ぎました!
激しい腹痛に襲われた私をリヤカーに乗せて、
医者を捜して走り廻ってくれた人がいます。
お礼をいう機会は与えられませんでした。
畑のさつまいもを生でかじりました。甘くておいしかった。
黄色の絵の具も甘くて美味しかった。
虫食いだらけの乾燥バナナも美味しかった。
駄菓子やさんの柿の皮を干したものも美味しかった。
砂糖きびは最高だった。
お粥はまずかった。
お粥ではない 普通のご飯が食べられるようになってから
お米をつくのが日課になりました。
一升瓶にお米を入れて棒でつくのです、
座って股の間に瓶を挟んで・・。
タバコもつくりました。
吸殻を拾ってほぐして、英語の辞書を破いて、
小さなタバコ巻き器で巻きなおします。
10本人束にして駅に売りにいきます。
もちろん おまわりさんがきたら
一目散に逃げなければいけませんよ。
上野駅あたりで靴磨きや新聞売りをしている
子ども達もタバコを吸っていました。
多分 小学校の2〜3年生位の子ども達です。
タバコを1本吸えば半日食べなくても我慢できましたから・・
大人は血も売りました。「黄色い血」になりました。
夕飯に配給のニシンがでました。
「これ食べたら声がでなくなるから、食べない。」
見ただけで声が出なくなりそうな感じのニシンでした。
「なにバカなこといってんの。食べなさい!」
無理に食べて、声が出なくなりました。
誰も信じてくれませんが、ホントなんです。
翌朝まで声はでませんでした・・
ほんとなんですよ〜!
お砂糖がないのでズルチンとかサッカリンを
使いましたが後味の悪いものでした。
人造バターもつくられました。いまのマーガリンです。
私が小学2年生のとき、父が戦争から帰ってきました。
物心ついた頃は父は早朝から軍需工場へ強制的にいかされ、
その内 戦争に行ってしまったので、
帰ってきた父は他所のおじさんという感じでした。
父が亡くなるまで、その状態は続き
父に対してはずっと敬語で話していました。
父はマラリヤに罹っていたので、
震える父の上に乗って押さえました。
その父と一度博物館へ行ったことがあります、
母のつくったお弁当を一緒に食べました。
ご飯が2段に分かれていて、
間に焼きのりをはさみ上に炒り玉子をのせ、
端にワカサギの佃煮が入っていました。
博物館の休憩室で二人で黙って食べました。
ポン煎餅やカルメ焼きが流行りました。
パン焼き器が流行りました。
焼きあがって包丁を差し込んだら、
電源を切っていなかったのでビリッときました。
このパンを食べたら感電するといって誰も食べませんでした。
友だちの家で甘いバターをぬったパンをご馳走になりました。
母に甘いバターが食べたいと言いましたが、一笑にふされました。
後に分ったことですが、
甘いバターはケーキ用のバタークリームでした。
給食はララ物資のパンとミルクでした。
パンはコッペパン
ミルクは砂だらけなので、
カップの中で砂が沈んだころ静かに飲みました。
そのミルクはお味噌汁にも入っていました。
みんな 鼻をつまんで目を閉じて 飲みました。
窓から捨てる子もいました。
給食の時に肝油が配られます。
ゼリー状で甘くお菓子のようでした。
私の食事が終わらないうちに5時間目が始まり、
先生が「食事をいったん
しまって教科書をだしなさい」といいます。
私は5時間目が終わると、また食事を続けました。
パンは配給なので券をもってパン屋さんにいきます。
1斤の食パンを6枚切にした2枚を1食と呼んでいました。
中学生のころの私の大好物は
食パン1食に餡子を挟み、
1食はカレーを挟み、1食はジャムを挟んだものです。
学校から帰るとそれを全部 1斤のパンをたいらげました。
その頃のパンは、
はさむものをパン屋さんで選んで好きなものをパンにぬるのです。
カレー・バター・ジャム・ピーナッツバター
・餡子・コロッケ・メンチカツ・とんかつ など
50年以上前の話です。
近所に「ねずみ仙人」と呼ばれているおじさんがいました。
戦時中に食べたネズミがやみつきになって、
戦後もネズミを食べて生きていました。
捕ったネズミを持っていくと、1匹10円で買ってくれました。
風邪をひくと母が葛湯をつくってくれました。
冬の夜は「そばがき」をつくり、
おやつには「むぎこがし」をよく食べました。
「むぎこがし」は関西では「はったいこ」といっていたようです。
毎日 銭湯へいきました。
冬はおミカン一つと人形町の甘酒横丁で買っておいた
芋羊羹を1本持っていきます。
湯船につかっているときにおミカンを食べます。
お風呂からあがって、芋羊羹を齧りながら帰ります。
夏はアイスキャンディーをなめながら帰ります。
日本橋浜町の我が家の近くに
三ツ矢サイダーの会社がありました。
サイダーにチョコレートを入れて飲むのが
マイブームになったことがあります。
チューブ入りのチョコレートが売り出されたからです。
中学校の家庭科のお料理の時間にコロッケをつくったとき、
同じグループの一人がマヨネーズを持ってきました。
私はそのとき生まれて初めてマヨネーズを食べたのです。
こんな美味しいものがこの世にあったなんて・・・!
それ以来 マヨラーです。
夜10時をまわるころ、
シナそば屋さんのチャルメラの音が聞こえてきます。
弟はその音が恐くてふるえていたものです。
東京下町の朝は賑やかです
5時には物売りの声が聞こえます。
サマータイムがありましたから
夏は4時ごろだったのかもしれません。
お豆腐やさんのラッパ・・・トーフィー ナマアゲ ガンモドキ〜〜〜
納豆やさん ・・・なっと なっと〜 なっとっ
アサリやさん ・・・アッサ〜リ シジミ〜〜〜 ハマグリッ
(私たちは「あっさ〜り 死んじめ〜」とはやしたてました)
ドジョウやさん・・・どじょう〜 どじょっ 夏だけですけれど・・
あさりやさ〜ん! とか おとうふやさ〜ん!
と呼び止めて朝食のお味噌汁の具を買います。
朝6時にはお掃除は済み、6時半には朝食も済みます。
学校へ行くまでの時間を1時間位サイクリングしてつぶします。
朝 8時から 夜 8時までは自転車通行止めになるので、
8時までに帰らなければなりません。
それから8時30分までに学校へ行きます。
朝のサイクリングのとき 日比谷を走っていて
MPに銃を向けられました。
ふざけたのだと思いますが、
銃口が私に向けられてぴたっと止まったときは、
身がすくんで息が止まりました。
終戦から6年も経っていたのに・・。
お昼は自宅へ戻って食べました。
中学校は給食がありませんでした。
お弁当を持っていくときもありました。
パンと牛乳を買いなさいと50円渡されることもありました。
中学生のときのデートはいつも国会議事堂でした。
昔は自由に入れたのです。
国会議事堂の食堂はとっても安くて、
トーストにミルクなら20円位でしたので
中学生のお小遣いで充分足りました。
中学生のときは小学生の家庭教師をしていました。
受験のためです。ひとり合格したら人気ものになってしまい・・
3人教えたらいっぱいいっぱいで、後はお断りしました。
生徒たちの親はバイト料の他によくお食事につれていってくれました。
いまはありませんが、
日本橋白木屋(デパート)の食堂のハンバーグは最高でした。
二葉亭四迷の小説にもでてくる銀座竹葉のうなぎも美味しかった。
高校生のときは中学生の家庭教師をしました。
冬は 「ねぎま」「深川なべ」が好物でした。
夏は さよりの干物・どじょう鍋・
おつゆ(だしのきいたお醤油味のおつゆを冷たく冷やし
冷たいごはんにかけて食べる)
朝ごはん(6時)・・・おみおつけ・納豆・焼きのり・畳いわし・生卵・お新香 など。
十時のおやつ・・・和菓子・ケーキ など
お昼(12時)・・・焼き魚・お新香
三時のおやつ・・・お寿司・うなぎ・ざるそば などの
出前かおみやげの肉まんなど。
夕飯(6時)・・・魚、肉のメーンの他 煮物・酢の物・お新香・お吸い物
我が家は変な献立でしたので、
カレーライスのときにブリの照り焼きがでたりしました。
これが我が家の食生活でした。
今でもお寿司やうなぎお蕎麦などは食事という感じがしません。
学校がある日はおやつの時間が無いので、
3時間目に何か食べるようにしました。怒る先生もいましたが・
先生の怒る理由が分りませんでした。当たり前の習慣でしたので・・
魚屋さんは勧進帳とよばれていたお品書きを持って御用聞きにきます。
八百屋さんは車で売りにきました。
パン屋さん 酒屋さん も御用聞きがきました。
いつのまにか食べるものの無かった
戦争中のことは忘れられていきました。
高校生の頃は食べ盛り
持って言ったお弁当は3時間目にみんなで回しながら食べます。
お昼は近くのお店に食べに行きます。
学校帰りは先生にせがんで、お寿司やラーメンをご馳走になります。
先生のふところがさみしいときはミルクホールか喫茶店にいきます。
一応 学校帰りに喫茶店によるのは禁止されていたらしい。
ラーメンは30円でした。
先生にお寿司をゴチになりながら、
ロシア民謡やフォスターの歌を教えてもらいました。
最近 ゴチとかマジという言葉を若者が使いますが、
私の祖父母がよく使っていた言葉です。
高校生出入り禁止の喫茶店はよく行ったくせに、
もんじゃ焼きのお店には
不良の集まるところだからと、一度も行ったことがありません。
何を考えていたんでしょうね〜。
先輩とデートして、銀座でお寿司を食べビールを飲み、
昼間から赤い顔でみゆき通りを歩いていて、
体育のスパルタ教師にパッタリ出くわしてしまいました。
翌日はどきどきして学校へ行きましたが廊下で出会った先生は、
ただ、ニヤッとしただけでした。ホッ
上野に「みつばち」という甘味処がありました。
女性専用なのでデートにはつかえません。
そこのキャッチフレーズは「甘過ぎてすみません」
甘味が欠乏している時代でした。
上野風月堂の並びにあったパスタ屋さんは
サービスにグラスワインがつきました。
高校生のとき お昼にそこのスパゲティーを食べ
ワインを飲んで学校に戻り、
午後の授業まで顔が赤くて困りました。
新宿高野のフルーツパーラーも女性専用でした。
パフェーが贅沢でした。
家庭のコーヒーは自分で豆を挽いてドリップで入れていました。
喫茶店ではインスタントを使っていました。
インスタントが珍しくて喫茶店で分けてもらっていました。
MJBのインスタントコーヒーが売り出されたとき
1ビン800円位で買ったものが、
その後輸入の統制が外れて税金が安くなり、半額以下になりました。
現在はインスタントを使う喫茶店なんてありませんよね〜。
1959年 女性週刊誌「女性自身」が創刊されました。
本郷のルノアールという店のサーモンフライを食べながら
買ってきたばかりの
「女性自身」をみました。
日比谷 インドネシア料理「ラヤ」 のアラカルト
神田 ロシア料理「バラライカ」 のシャシリック
神田のケーキ屋さん 「エス・ワイル」 のすみれのタルト
神田「みやじま」のカツサンド
神田精養軒のクロワッサン
人形町ぜいたく煎餅(重盛)の人形焼
深川伊勢喜のどじょう
銀座キムラヤのあんぱん
銀座資生堂の生牡蛎
浅草梅園の粟ぜんざい
日本橋紅花のポークチャップ
日本橋クイーンビーのカレーライス
渋谷 くじら屋のくじら料理 とろのルイベは最高
新宿に京王プラザホテルが出来たときに
レストランで食べた海老のコクテールは忘れられない。
その時のショ−はベッツィ&クリスでした。
以上 お気に入りの食べものでした。
日本経済の急成長のなかで、どんどん贅沢になり
食べきれないほど動物を殺し 獲れすぎた野菜を捨て 魚を捨てる
食べ歩き 食べ放題 飲み放題
ラーメン屋の亭主は威張り ホテルのレストランは庶民に媚びる
食事を通しての文化は消えていった
7番目の芸術 といわれた料理に芸術性は薄らいだ
安物のダシでひとくち目で驚かし
コケ脅かしの食材で気を奪い
贋の飾り葉で目を奪う
本物は極々 限られた人のものになっていった
テレビをつければ どこも 温泉に入っているか 食べているか・・
インテリごっこ
セレブごっこ
カントリーごっこ
レトロごっこ
空想ごっこ
マンガごっこ
選挙ごっこ
どれもおとなのおままごと
やまほど種類の揃った人生ゲーム よりどりみどり
どんなに種類があったとしても
選べるのは一つだけ
今日も私は余った食べ物を捨てました。 |

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