![]() |
住 出逢ったひとびと 住んでいた家 1940年代〜1960年代 の話 「私の生まれた家」 東京都文京区柳町 というところです 路地の角にあって、 ごくありふれた「しもたや」 (商売をしていない家のことです)でした。 路地を挟んでお醤油工場がありました。 ごく ありふれた家なのに 家具調度品は不似合いな高級品が置いてありました。 テーブルクロスやテーブルセット・机・洋服・帽子・傘・下着に 至るまで舶来品といわれた英国製のものでした。 おまけに何故か部屋にハンモックが吊るされていて、 私はいつもそのハンモックでお昼寝をしていたり、 揺れながら遊んだりしていました。 ポアロが持っていそうな ステッキや誰も打たない鼓までありました。 不似合いなのはそればかりではなく、 通った幼稚園が桁外れでした。 「日独幼稚園」といって 本郷の伝通院の坂を上りきったところの 大きな木のそばにありました。 半分はドイツ人の子どもでした。 戦前の日本はドイツと仲良しだったのです。 その幼稚園は 運転手つきの自家用車で 送迎されてくる子がたくさんいたのです。 戦前に自家用車をもっているなんて、 いま考えると寒気がします。 多分 選ばれた家庭の、 極 限られた子ども達だったのだと思います。 何故そこに私がいたのか今となっては知る術もありません。 戦争が激しくなり、 その幼稚園は1944年(終戦の前年)に閉鎖されました。 「宮坂さんの家」 東京下町の深川に住んでいました。 下町の典型的な しもたや です。 宮坂さんのオジサンとオバサンは子どものいない夫婦でした。 深川のその家はしょっちゅう水浸しになります。 オバサンがよく水を出しっぱなしで出かけてしまうからです。 オバサンは寄席の高座でお三味線を弾いていました。 オジサンは寄席の台本を書いている人でした。 オジサンは兵隊さんの検査の日に 一升瓶のお醤油を全部飲んでいき、 検査で失格になって、戦争に行かないですみました。 オバサンは余ったお菓子をよく持ってきてくれましたが、 それは大抵カビがはえていたり腐っていたりしたので、 母は「もっと早くくれればいいのに!」とぐちっていたものです。 二人が内緒で同棲していた時のエピソード オバサンが「兄です」と紹介したのに、 オジサンがオバサンを「姉さん!」と呼んでしまい バレてしまったそうです。 「○○家のお屋敷」 子どもの頃よく父につれられていく家はどこも大邸宅でした。 門を入ると玄関までの長い道は丸い石が敷き詰められていて いつも清々しく水がうってありました。 お座敷に通されて待つ間はシ〜ンと静まり返っていました。 埃ひとつなくどこを見てもひんやりと冷たい感じがして、 子どもながらに身の引き締まるおもいがしたものです。 そこに住む人たちはとても優しく暖かかった。 「よくきたね〜 おいくつにおなりだい?」 「4さいです。」 「ほ〜もう4才かい!では春から幼稚園だね〜」 私はいつも正座をして 身動きもせず話しかけてくださる方を見つめていました。 「お菓子・・おあがり」とても優しい口調でした。 「ハイ」そうはいっても私は口をつけたことがありません。 帰りにそのお菓子を紙に包んで持たせてくださいます。 凛としたなかに優しさがつまっていました。 「橋の下の家」 リヤカーをひいて廃品回収をしているひとを 「バタ屋さん」とよんでいました。 ゴミ捨て場をあさって目ぼしいものを拾います。 いつもうちの前をご夫婦のバタ屋さんが通ります。 毎日通るので顔見知りになり、 時々うちによってお茶を飲んでいくようになりました。 東京横山町の問屋街を歩くと生地問屋のいらなくなった生地見本が 捨ててあってそれをよく下さいました。 帯・着物・ネクタイなどの生地見本はとても美しく、 その生地で母がパッチワークの袋をつくってくれました。 バタ屋さんは隅田川にかかる「新大橋」の下の橋げたに小屋を建てて 住んでいました。台風がくると私は橋の下を見にいきました。 バタ屋さんはいつも早々とどこかに避難していました。 バタ屋さんはうちでお茶を飲んでいるときに 涙をこぼしたことがあります。 「みんな 汚いものを見るように私たちを避けて通るのに・・・ 」 私 橋の下のおうちに遊びに行ったとき不思議なものがいっぱいあって とても楽しかった! 「おセンちゃんの家」 ビルが立ち並ぶその隙間におセンちゃんの家はありました。 6畳一間の掘っ立て小屋です。 おセンちゃんは、弱視で殆んど目が見えないお母さんと おばあちゃんと3人暮らしでした。 昔は看板屋さんでしたが戦争で お父さんもおじいちゃんも死んでしまいました。 おセンちゃんの家にはしょっちゅう遊びにいきました。 私がいっているとおセンちゃんが穏やかなので、 おばあちゃんが迎えにくるからです。 おセンちゃんはときどきキレて暴れます。痩せて小さな女の子です。 おセンちゃんは暴れた後、 おばあちゃんとお母さんを外に追い出して閉じこもります。 二人は外でおろおろして、そして中学生の私を呼びにきます。 私は外から必死でおセンちゃんの説得にあたります。 おセンちゃんが家の戸を開けたときは、まるで天岩戸が開いたようで 中から後光が射しているようでした! 「どいさんの家」 どいさんは船上生活者でした。 どいさんの家に遊びにいくのはとてもスリルがありました。 まず その舟から川岸まで巾30cmほどの長い板を渡してそれを 渡らなければなりません。 歩く度に板がしなって揺れるのです。 足を滑らせたら川に落ちます。 いつも恐くて息を止めすごいスピードで走り抜けました。 板はなおさら大きくしなって揺れました。 舟の家は外から見ると狭そうなのに、中に入ると思ったよりずっと広くて なんでも揃っていました。 トイレもちゃんとありました。 帰るとき舟が流されて場所が変わっていることがありました。 おまけに又あの板を渡らなければなりません。スリル満点です! でも 何回も遊びにいきました。 ご飯もご馳走になりました。釣ったばかりのお魚で・・・ 「テコちゃんの家」 うちの2階からテコちゃんの家のプールが見えます。 60年前の話です。 テコちゃんちはお隣です。 プールに面した居間は20畳位ありました。 フローリングです。 学校から帰るとすぐ、友だちを5〜6人誘ってテコちゃんちに 遊びにいきます。 広い居間でみんなは次から次と童謡を歌って 私が振付けた踊りを踊ります。 私は知っている歌 ほとんどに踊りをつけました。 振り付けをしてはみんなに教え、みんなで踊りました。 夏は踊りで汗をかいたあと、プールに飛び込みます。 テコちゃんのお父さんは頭も顔もヤケにてかてか光ったかたで 優しいバリトンで話をします。 今思うと 60年も前にプールがあった家なんて・・・ 今更 びっくりです! 「父の生家」 東京都中央区日本橋茅場町です 八丁堀のとなりです 「宮銀」という宮屋をしていました。 ちなみに父の名前は銀一で、シロカズと読みます。 職人さんが大勢いて、釘を口いっぱいにほうばりながら器械のように トンカチで釘をうちます。 みんな体じゅうに綺麗な刺青をしていました。くりからもんもんです。 お神輿や神棚をつくっていました。 2階が住まいでした。 おじいちゃんと木場へ材木をみにいくと 丸太が筏になって川を埋めていました。 家の周りも材木で囲まれていたので、 2階にいても木の匂いでいっぱいです。 各部屋は襖で仕切られていて欄間に見事な彫刻が施されていました。 それを眺めるのが好きで飽きずに眺めていたものです。 小唄のお師匠さんが出稽古にみえると八畳の床の間つきの部屋で 叔父と叔母が交代で小唄や端唄を習います。 いつも欄間から聞こえるお師匠さんの唄を聞いて私の方が先に 覚え「舟に船頭」や「奴さん」などを唄ってウケていたものです。 お稽古が終わると控えの間と八畳間との境の襖をあけて お師匠さんを囲んでみんなでお茶にします。 お師匠さんが見えるときはいつも上等の和菓子でした。 父は跡を継がず叔父が引き継いで戦後は木工所になりました。 「母の生家」 東京都中央区日本橋浜町 隅田川に架かる「新大橋」(両国橋の隣) のたもとで「鮒正」(ふなしょう)という佃煮屋をしていました。 店先には帳場があるだけで佃煮は奥の板の間の周囲に 瀬戸のかめに入って並んでいました。 その板の間は黒光りしていました。 さらに奥にいくと石川五右衛門がゆでられたような、 佃煮を煮る大きな釜が二つ並んでいました。 醤油の滲みこんだその釜で沸かした茶色のお湯で いつも行水をしていました。 佃煮が入っていたかめは戦争中に 土の中に埋めておいたので無事でした。 その一つは今も私の手元にあります。 あとは全て灰になりました。 「お料理の先生の家」 和食は赤堀全子さんに習いました。 フランス料理とお菓子は幡ヶ谷の先生の家にいきました。 なぜかお名前をどうしても思い出せません。 いつも幡ヶ谷の先生と呼んでいたからです。 おまけにお玄関も居間も思い出せないんです。 キッチンしか記憶にありません。 キッチンのことは隅々まで覚えています。 オーブンの50cmほど左隣に布巾がたくさんかかっていました。 「お料理のときはタオルを使わずに布巾で手を拭いてくださいね」 その先生の言葉は今も守っています。 難しいフランス料理をたくさん習いましたが、シンプルなミモザサラダ が忘れられません。 サラダにまぶしたゆでたまごの黄身の裏ごしをミモザにみたてたものです。 そのキッチンの匂いも思い出すことができます。 夏は暑くなく 冬は寒くなく いつも身体の芯からほっこりするような居心地のいいキッチンでした。 いま私はほとんど料理をしません。 お魚を煮たり焼いたりする程度です。 「長谷川町子さんの家」 実家はずーっと朝日新聞でした。 4コマ漫画はブロンディーとサザエさんがお馴染みです。 ダグウッドサンドはブロンディーが作るサンドウイッチで 夫の名前をとったものです。漫画で有名になりました。 私は子どもの頃サザエさんを描くのが得意でした。 父が長谷川町子さんに見せにいこうというので私は絵を持って 父と長谷川町子さんの家に行きました。 彼女は結核で漫画はよくお休みになりました。 その時も具合が悪くて新聞の漫画を休んでいらっしゃいました。 父は私の絵にかこつけてお見舞いをしたかったのです。 玄関の引き戸をあけてご本人がでていらっしゃいました。 応接間に通されて私の絵をお見せしました。 長谷川町子さんは笑ってホンモノのサザエさんを描いてくださいました。 帰宅すると父は得意げにその絵をみせびらかして、手ぬぐいにその絵を 印刷屋さんに頼んで印刷してもらい、翌年 お年賀にその手ぬぐいを 配りました。 長谷川町子さんの家は下町っぽい玄関に洋風の応接間で 暗かった印象があります。 後にテレビドラマで見た家とダブってしまったような気がします。 「原さんの家」 間口二間の4枚引き戸の玄関でした。 その前をなんどいったりきたりしたことか! 小学校4年生のときです 原さんは頭がよくて可愛い男の子です。 親友に打ち明けました。 「私 原さんのお嫁さんになる!」 親友は言いました。 「私が 原さんのお嫁さんになるのよ!」 それから 親友と取っ組み合いの喧嘩になりました。 家に帰って握り締めていた手を開くと髪の毛がいっぱいでした。 原さんが風邪をひいて学校を休みました。 親友と二人で林檎とお花を持ってお見舞いにいきました。 どちらが原さんのお家の引き戸を開けるかでもめていたら 妹さんがでてきたので、林檎とお花を押し付けるように渡して 二人で息が切れるまで走って帰りました。 取っ組み合いの喧嘩をするほど好きだったのに、 二人とも原さんのお家の玄関を開ける勇気がなかったのです。 「ろくさんの家」 東京 日本橋浜町に明治座があります その横に小さな公園と大きな大きな公園があります 大きな公園は「浜町公園」です 戦後 国技館が焼失して この公園で大相撲をやったことがあります。 プロレスの力道山が相撲の十両だった頃です。 公園の中にプールと弓道場がありました。 弓道場は大空襲のとき焼け残りました。 小山があって、 その小山に上って交代で進駐軍のジープが来るのを見張ります。 「来たぞ〜〜〜っ!」の声に皆 ジープが走ってくる30m道路に向かいます。 車道にでてジープを止めて「ギミー! ギミー!」と叫びます。 GIのポケットは魔法のポケットです。 出てくるものは缶詰・たばこ・チョコレート・チューインガム etc. チューインガムを初めて食べました。そう食べたのです・・ 呑み込めなくて苦労しました! その小山の近くにろくさんの小屋が建っていました。 公園の中の小屋は違法なので、 よく役所の人がきて立ち退きを迫りました。 でもろくさんは町にとってとても大切な人だったので、 住民のほとんどが「おおめにみてあげて下さい」とお願いしました。 いつも町をぶらぶら歩き回り、空き巣や泥棒をつかまえてくれたのです。 小屋の中は警察署からもらった感謝状がいっぱい貼ってありました。 私が中学生になったある日、ろくさんが警察につれていかれました。 自転車を盗んだのだそうです。 あのろくさんが・・・! ろくさんの小屋は取り壊されました。 私の他に、ろくさんを覚えている人がこの世にまだいるでしょうか・・・ 「浜野さんの家」 高校生のときです。 友人の浜野さんの家は緞帳屋さんです。 劇場の緞帳(どんちょう)をつくっていました。 玄関を入るとすぐに仕事場で、 緞帳が広げられる広さですから体育館並です。 そこに職人さんが大勢緞帳を囲んで座り、 みんなで刺繍をしていました。 おじさんはあぐらをかいた右膝のところに土瓶を置き、 ときどき湯飲み茶碗に注いで飲んでいました。 土瓶の中身はお酒です。 お兄さんの子がいたので 私達は高校生なのに「オバチャン」と呼ばれていました。 遊びに行くと夕飯をご馳走になりお風呂に入って帰ってきました。 お風呂場がとても広くて銭湯のようでした。 ひとりでのんびりではなく、 次から次と入れ替わり立ち代り誰か入ってきます。 私は男の人が入ってきたらどうしようといつもどきどきしていましたが、 そういうことは一度もありませんでした。 ホントに銭湯のようでした。 洗面所も蛇口が5つ位並んでいました。 友人は8人兄弟で3世帯プラス職人さん達ですから、 それはそれは大所帯です。 一人くらい増えてもなんということはないので、 とても気楽なお家でした。 「美津子さんの家」 東京 荻窪にあった美津子さんの家にはよく泊まりました。 私は美津子さんとダブルベッドに寝て夜中までおしゃべりしました。 寝付いたころ、「朝だよ〜! 朝だよ〜!」と隣の部屋で寝ていた 美津子さんの夫が掃除機をかけ始めて私たちを起こします。 東京の家は雨戸を閉めると昼間でもまっくら、 雨戸を開けないと明るさが分りません。 でもそれは大抵 夜中の2時か3時なのです。 「まただわ〜〜〜!」と私たちは布団をかぶるのですが、 ひとりおきざりにされた美津子さんの夫は いつもそうやって私たちを起すのです。 美津子さんの家にはいつもセキセイインコがいました。 行く度に違うインコでした。 洗濯機に落ちて死んだインコ ソファーにいるインコに気付かず腰掛けてつぶされたインコ 足を骨折して動けなかったので百合の葉をあげたら死んじゃったインコ 「こんどのインコは長生きできますように!」 美津子さんのところから帰るときはいつもそう祈っていました。 「しろちゃんの家」 お向かいのお家にしろちゃんという女の人がいました。 家から一歩も出たことがありません。 家族はお母さんとお兄さんの3人暮らし。 お兄さんは戦争中 捕虜でシベリアに抑留され、 共産党に洗脳されて帰ってきました。 その後「あいつは 赤だ!」と世間から後ろ指を指されて 家にいつかなくなったので、殆んどお母さんと二人暮らしでした。 お兄さんは世間の風当たりが弱くなった頃帰ってきて、 クリーニング屋さんを始めて お母さんとしろちゃんの生活を支えました。 しろちゃんとしろちゃんのお母さんは 二人暮らしのあいだ「製本」をして暮らしていました。 印刷された紙のページとページの数字を合わせて二つに折り、 ヘラでスッとこすります。 しろちゃんはそれを目にも留まらぬ速さでやります。 しろちゃんは精神薄弱児でした。(いまは別の云い方をするのでしょうか?) 世間にみっともないからと外に出してもらえなかったのです。 玄関のあがりがまちの障子を開けると、 しろちゃんが製本している姿が目に入ります。 しろちゃんにやり方を教わって隣でお手伝いしました。 玄関の隣の窓を開ければ外からものぞけましたが、 しろちゃんのお母さんは窓を開けません。 お母さんが留守のとき外から「しろちゃ〜ん!」と声をかけると しろちゃんは窓を開けてくれます。 お母さんが帰る頃に慌てて閉めます。叱られるから・・・。 本名をしりません。 外に出ないしろちゃんは肌が真っ白でした。 あだ名だったのかもしれません。 私はしろちゃんにリリアンの編み方も教わりました。 リリアンを見ると、しろちゃんと閉まった窓を思い出します。 「ピリの家」 ピリ(ピリカメノコからとりました)はアイヌ犬(北海道犬)の雌です。 東京で飼っていました。 3畳ほどの犬舎の中に小屋が置いてあって、それがピリの家でした 大雪の降った朝 ピリがいません。小屋は空っぽで傾いていました。 リードのチェーンを手繰ると・・・・・なんと! 小屋の真下に深さ1m位の穴を掘ってその中で寝ていました。 その上に雪が積ってチェーンも見えなかったのです。 それで小屋が傾いていたのです。 びっくりしたり感心したり・・野性味を感じてやけに頼もしくみえました! 「傾いた家」 1945年3月10日 東京の大空襲にあいました。 代々江戸っ子の我が家は故郷がありません。 疎開するところがありません。 焼け出されても行くところがありません。 僅かな伝手を頼って やっとこさで上野から常磐線に乗って 茨城県まで行きました。 稲敷郡長竿村というところでした。 水戸で乗り換えたような気がします。 やっとみつけた知人の家で 一晩だけでも・・とお願いしましたが、断られました。 母と母の背に2才の妹 6才の私。 歩き続けました。黙って黙々と・・・ 灯りをみつけては、泊めてくださいとお願いしました。 どこの家でも首を横に振られました。 そのうち一軒の家で提灯をくださいました。 でもろうそくはありません・・ 真っ暗な夜道をなおも歩き続けました。 灯りを見つけては戸を叩きました・・ ・・とある家で短くなった 使いさしのろうそくをくださいました。 ろうそくに灯をともすと、ほんの一瞬幸せが訪れました。 提灯の灯りを見つめながら 黙々と ただ黙々と歩きました。 空が白み、夜が明けてきて、 美しい紫色の筑波山をみました。 その紫は私の胸の奥深く・・・ いまでも 胸の奥深く・・・ そして小屋をみつけたのです。 傾いていて丸太でつっかえ棒がしてありました。 土間と6畳位の畳がありました。 神さま あのときは ありがとう いまでも感謝しています 私の住まい(1939年から2007年まで) 冒頭と一部ダブりますが・・ 生まれたのは東京都中央区日本橋蛎殻町の病院です。 蛎殻町は桃やののり佃煮で有名です。 住んでいたのは東京都文京区小石川柳町。 路地の角にありました。 小路を挟んで大きなお醤油工場がありました。 工場は「B29」の標的になりやすいからと、 日本橋浜町の母の実家に引っ越してすぐ、 大空襲にあい 丸焼けになりました。 柳町の家は空襲にあいませんでした。 住むところを探して茨城県まで行きました。 傾いた小屋をみつけて6ヶ月住みました。 3月12日から終戦の8月15日まで・・・。 知り合いの家に転々と居候したので、毎年転校していました。 ひどいときは1年に2回転校しました。 やっと焼け跡にバラック小屋を建てました。 夜寝るとトタン屋根の穴が星のようでした。 ドラム缶のお風呂に入りました。 叔母が火を焚きつけながら、紫式部の話をしてくれました。 お風呂にくべる薪は後楽園に拾いにいきました。 日比谷公園できっちり8枚に分れている八つ手の葉をみつけて 取って帰り、お風呂に入れました。 皮膚病に効くというおまじないです。 みんな栄養失調で皮膚病に悩まされていたのです。 終戦から4年経ってやっとまともな家が建ちました。 玄関の軒が広く1畳位ありました。 その軒は磨きこまれた銘木2本で支えられていて、 まるで小唄のお師匠さんの家のようでした。 そこで結婚するまで住みました。 日本橋浜町 隅田川のほとりです。 結婚して最初は世田谷の笹塚のアパート、 家賃は1畳1,000円が相場でした。 高卒初任給が6,000円の時代です。 そこに大映のニューフェースが住んでいました。 エキゾチックでとても素敵な女性でした。 いま女優で着物コンサルタントで CMでも活躍している市田ひろみさんです。 つぎに住んだのは、文京区本郷西片町 で、東大の近くです。 つぎが浜町の実家を2世帯住宅にして、そこに住みました。 高速道路ができるため立ち退きになり、府中市に家を建てました。 美容室を経営していて濃紺のブルーバードに乗っていたので 黒っぽい車で逃走 という3億円強奪犯人捜査の刑事がきました。 東京オリンピックのためにカラーテレビを買いました。 26歳位のときです。 府中市も新しい道路ができることになり立ち退き。 国立に住み、そこで娘が生まれました。 結婚して17年後のことです。 そのつぎが北海道 札幌市です。 最初は豊平 転勤で来たため社宅に その後 東京に戻ることになったが 札幌を離れるのが嫌で夫に退職してもらい 札幌に骨をうずめることにしたのです。 中央区一条橋のそばにマンションを買いました。 40年近く美津濃スポーツに勤務した夫は、 スポーツ品以外のことは分りません。 自営でスポーツ品の卸をはじめました。順調でした。 ところが 小売屋さんがばたばたと倒産しはじめたのです。 3年間で10件ほどつぶれました。 とうとう うちも持ちこたえられませんでした。 倒産です。 マンションも東京の持ち家も売却。そして夜逃げ同然で西区へ・・ 全て決着がつくまで、 1ヶ月ほど桑園のホテルのスイートルームで娘とふたり 一見豪華なホテル暮らしでした。 札幌市西区にきてから宮の沢は一戸建てでしたが、 山の手・発寒は賃貸マンションです。 戦中戦後の転々としたところも含めると 数え切れないほどの引越しです。 多分 忘れている所もあります。 私 とうとう 引越し魔の家なき子になってしまいました。 賃貸は気軽に引越しができて最高です。 ヤドカリ生活も悪くない。負け惜しみ?・・ですね! そろそろ引っ越したいと思うのですが、 初詣のおみくじに 「転居 よき所なし まて」 とありました。 |
![]() 「私の生まれた家」 「宮坂さんの家」 「○○家のお屋敷」 「橋の下の家」 「おセンちゃんの家」 「どいさんの家」 「テコちゃんの家」 「父の生家」 「母の生家」 「お料理の先生の家」 「長谷川町子さんの家」 「原さんの家」 「ろくさんの家」 「濱野さんの家」 「美津子さんの家」 「しろちゃんの家」 「ピリの家」 「傾いた家」 私の住まい |