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薩摩路をゆく


知覧の武家屋敷
 知覧の武家屋敷の町並みには、人影もなく、ひっそりしている。
 道路脇に、時代劇でよくみかける常夜灯が整然とならんでいた。
 ここは無粋な電柱などはなく、町がひろく感じられる。
 美観を保つために電線は地下にうめられ、高い建物は建てることが規制されているのだろう、「薩摩の小京都」の名にふさわしい景観をつくっている。
 いずれの武家屋敷も、庭のみどりが濃く、目にまぶしいほどである。

特攻会館
 つぎに、お目当ての知覧特攻平和会館をたずねる。
 ここには、太平洋戦争末期、沖縄決戦において飛行機もろとも敵の軍艦に体当たりし、南の海に若くして散った特攻隊員1,026人の遺影、はがき、手紙などが多数展示されているという。
 一度はおとずれてみたいと、前々から思っていたところである。
 観音堂前の広場は、きれいに掃き清められ、2日後の毎年5月3日にとりおこなわれる慰霊祭をひかえて天幕が張られ、折りたたみ椅子が整然とならべられていた。
 まず、資料室を見学する。
 軍服、飛行帽、サーベル、寄せ書きなどの遺品が多数展示されている。
 軍服、飛行服、雑納などは、粗末なものである。
 そのなかにあって、もんぺ姿のマスコット人形がいじらしい。
 母親からのお守りか、それとも恋人から送られたものなのか。

遺書
 つぎに、英霊コーナーを見学した。
 ここには、出撃の期ごとに遺影が壁いちめんに貼られている。
 写真の隊員はみんな若く、なかにはあどけなさの残る16.17歳と思われる者もたくさんいる。
 遺影の欠けているところが、ところどころある。
 それは隊員の遺族と連絡がとれず、遺影が届かないものだという。
 うす暗い館内は静まり返っていて、食い入るようにじっと写真をみる人、そっとハンカチを目にあてる人があり、鼻をすする音だけがきこえる。
 隊員たちの遺書や、手紙をひとつひとつ読んでいく。
 まず、達筆が多いのにおどろく。
 遺書、手紙のなかには、親不孝をわびるもの、若い妻をたのむというもの、出撃のことを母上様には知らせないでほしいという父親宛の手紙などがあった。

 相花伸夫少尉(18歳)がノート2枚にペンで書いた「母を慕いて」という継母に宛てた遺書に、くぎづけになった。
 母上、お元気ですか
 永い間本当に有り難うございました
 我六歳の時より育て下されし母
 継母とはいえ、世の中の此の種の女にある如き
 不祥事は一度たりともなく
 慈しみ育て下されし母
 有り難い母、有り難い母
 俺は、幸福だった
 遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
 幾度か思い切って呼ばんとしたが
 何と意志薄弱な俺だったろう
 母上お許し下さい
 さぞ淋しかったでしょう
 今こそ大声で呼ばして頂きます
 お母さん、お母さん、お母さんと

 さらに、軍の指定食堂であった「富屋食堂」の女将で、隊員たちから「おかあさん」と慕われていた鳥浜とめさんの、生前のビデオが放映されていた。
 その話のなかから一部を紹介すると
 宮川三郎軍曹(20歳)は、出撃の前の晩、別れのあいさつにやってきた。
 「明朝出撃する。帰ってきたら、帰ってきたかと喜んで下さい」という。
 片道だけの燃料しか積んでないのに、「どうやって帰ってくるの」ときくと、
 「蛍になって帰ってくる」という。
 約束の時間に大きな蛍が飛んできて、白い花にとまった。
 「サブちゃんが帰ってきたよ」と食堂に集まっていた隊員たちに告げ、その蛍を見ながらみんなで『同期の桜』を歌った。
とある。
 攻撃機「飛燕」にのる隊員たちの屈託のない明るい顔。
 出撃前、子犬と無邪気にたわむれる隊員の顔には、まだ幼さがのこっている。
 死に向かう者が、どうしてあんな明るい表情をしていられるか不思議でならない。

開聞岳
 きょうは、開聞岳(922m)にのぼる。
 朝から、こぬか雨が降るあいにくの天気となっている。
 開聞岳は、薩摩半島の最南端に位置する山で、その山容が富士山に似ているところから「薩摩富士」ともよばれて地元のひとから親しまれている山である。
 アラカシ、ウバメガシなどの常緑広葉樹のなかのくぼんだ道が、登山道となっている。
 軽石を踏み砕いたような砂礫の道は、足元でぎしぎしと音をたてる。
 しかし、水はけがよく、雨が降ってもべとべとにならず歩きやすい。
 ときおり木の枝からしずくが落ちてくるだけで、雨はあがってきた。
 だんだん高度があがると、カシ、タブノキなどの常緑広葉樹帯にかわった。  ハイノキの枝先に、びっしりと小さな白い花が咲いていて、ちょうど粉雪が積もったようにみえた。
 登山道は、それまでのじゃりじゃりとした火山礫の道から、安山岩のごつごつした道に一変した。
 白い綿毛をかぶったゼンマイが、登山道の脇に顔をだし、スミレが紫の小さな花を咲かせ、春の訪れを告げている。
 ショウジョウバカマは長い花茎をのばし、その先に遠慮がちにみどりの小さな花をつけていた。
 登山道は、時計と同じ方向にまわって登っている。
 したがって、左側が東シナ海とわかるのだが霧のため海面は望めない。
 頂上付近になって、熔岩が固まった岩山になった。  頂上の直下に、枚聞(ひらきき)神社の奥宮が祭ってあり、頂上には皇太子のお立ち所の記念盤が置かれていた。
 ここでも視界はきかない。
 そのうちひとり、ふたりと登山者が登ってきた。
 これ以上待っても霧が晴れる様子もないので、下山することにした。
 登山口近くまで降りてきて、スピーカーの音が聞こえる。
 登ってくる登山者にきいてみると、町営の草スキー場のマイクの音だろという。
 自然の中に、スピーカーの音楽はあまりにも耳ざわりである。
 自然の風の音こそが音楽なのに、スピーカーで大音響を出すのがサービスだと思っているらしい。

鰻(うなぎ)温泉
 これから山川港に向かい、フェリーに乗って錦江湾をよこぎり大隅半島にわたる計画である。
 海岸沿いの国道226号線を走っていると、「砂むし温泉」の看板が目についた。
 先を急ぐ旅でもないので、温泉に入っていこうということになった。
 「砂むし温泉」は、海岸まで歩いていかなくてはならない。
 それも面倒なので、ここをパス。
 近くに温泉がないかと注意しながら走る。
 ちょうど「鰻温泉」の看板が目に入ったので、ここに行くことにした。
 鰻池は、火口に水がたまってできた湖である。
 温泉の前に「地獄」の案内板があったので、これに導かれて見学にいった。
 「ゴボゴボ」と不気味な音とともに、お湯が湧き出ていて、地球の鼓動を感じた。
 そばの案内板に、「この温泉は、征韓論でやぶれた西郷隆盛が静養した湯」と書かれていた。
 この温泉は、卵型の浴槽が2つならんだ区営の共同浴場である。
 どちらも熱い。
 特に左側の湯は、熱くてとても入れない。
 恐るおそる右側の浴槽に入った。
 浴槽は深いので、しゃがむ姿勢でないと口にお湯が入ってしまう。
 西郷さんもこのようにしてこの温泉に入ったのか、と頭にタオルをのせ維新のむかしに思いをはせていると、年配の土地の人がふたり入ってきた。
 世間話を聞くともなしに聞いていたが、会話の内容はちんぷんかんぷんでわからない。
 鹿児島は、かつて島津藩といわれていたころ、幕府隠密の目をかわすため、薩摩弁を奨励したともいわれている。
 その名残が今でもつよく残っているのだろう、早口で聞き取りにくいというのは確かなようだ。

イッシー
 温泉の横のよろずやに入り、店のおばさんと話をする。
 旅先でその土地土地の人と話をすることも、旅の大きな楽しみのひとつでもある。
 鰻池というので、大ウナギが棲息しているのはこの池か思ったら、大ウナギのいるのはここからさらに北に行った池田湖だという。
 店先に鉢植えの西洋アマリリスが、大輪の花を咲かせていた。
 池田湖は、「イッシー」という英国のネス湖の「ネッシー」と似た恐竜がいるといわれている湖である。
 いかにも夢があって、遊び感覚の楽しい話ではないか。
 かつて、金にあかせてハイテク機械を現地に持ち込み、ネッシー生捕作戦の隊長になった日本の政治屋がいたが、「イッシー、隠れろ! 捕まるな! 」と応援したことを思い出した。
 あの政治屋は、そのご環境庁長官までなったが、ネッシーを売って金儲けでもする算段だったのか、それとも自分の名を売るつもりだったのか。
 その政治屋は、その後東京都知事になった。

山川港
 温泉にも入ったので、みんなの顔はテカテカに光っている。
 気分も上機嫌で、ルンルン気分で旅をつづける。
 これから山川港に向かう。
 そこからフェリーで錦江湾をわたり、対岸の大根占町にいく。
 フェリー乗り場では、フェリーに乗る車が駐車場からあふれ、道路にも長い列をつくっていた。
 雨が、どしゃぶりになった。
 雨具を着た職員が、番号札をつぎつぎにウインドに貼っていく。
 私たちの番号は67番。
 かれは、「ちょうど、この車あたりで乗れるかどうか微妙なところです」と気の毒そうにいう。
 フェリーは、錦江湾をわたるのに40分かかる。
 ここはピストン運航なので、一便乗りそびれると1時間30分以上も待たされることになる。
 ドラが鳴りひびき、フェリーが着いた。
 ハッチがゆっくり降ろされ、大型の観光バスが何台も連なって降りてくる。
 バイクのツーリンググループの若者たちが、雨の中をものともせず、つぎつぎに飛び出していく。
 好きなことだから、雨にもめげずにできるのだろう。

船の旅
 今度は、私たちが乗る番である。
 つぎからつぎへと乗っていく。
 私たちの2台前の軽四輪自動車が乗った。
 この車を数人の職員がかかえて横にずらし、スペースをつくった。
 このスペースに私たちの前の乗用車が乗り込み、これで満杯となった。
 ハッチが、カリカリと音を立ててゆっくり上がりだした。
 あーあー積み残されたか。
 しかたがない、こうなったら待つよりほかに手はない。
 どうせ急ぐ旅でもないと、昼食のむすびをほおばる。
 雨脚がいちだんとはげしくなり、ボンネットで水しぶきがはねる。
 ラジオの音量をあげ、音楽でも聴きながら気長に待つとするか。
 午後3時45分、ドラがなってフェリーが戻ってきた。
 一番目に乗り、2階の甲板に上がった。
 強い雨が横なぐりに降り込む。
 いつものことだが、船旅では旅情をさそわれ、つい感傷的になってしまう。
 振り返ると、鉛色の海面に白い航跡がくっきり水平線のかなたまでつづいている。
 雨が小降りになったので、てすりから海面をのぞき込む。
 ドドーと船首が海面を切り開き、白い波が舷先でつぎからつぎに渦巻く。
 見ていて飽きることがない。
 それが航跡となって、かなたまでつづいている。
 左舷の方向に、白い物が見えてきた。
 速い速い、見るみる間にそれは船の形になった。
 水煙をあげて海面を走ってくる。
 水中翼船である。
 すぐに私たちの乗ったフェリーの航跡と直角に交差し、たちまち姿が見えなくなった。
 あれは錦江湾を縦断して屋久島などへいく船だという。
 いつの日か沖永良部などの南の島をめぐってみたい、と夢は早くもつぎの旅に大きく膨らむ。
 ほどなくして大根占町についた。
 ここから大隈半島を北上しながら、さらに山旅をつづける。(完)


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