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脊梁(せきりょう)紀行



脊梁の山
 日本三大急流として有名な熊本県の球磨川の源流部をたずねる。
 この地域は人間の体にたとえると、ちょうど背骨にあたるので脊梁山地ともいわれ、ふところの深いのが特徴である。
 山あいに深くきざまれたひだには、いまなお焼き畑農業など伝統的な農業やふるい習慣がのこっていて興味は尽きることがない。

信仰の山
 まず球磨川の源流である市房山に、正面登山口から登る。
 この山は、信仰の山でもある。
 標高800mの中腹にある市房神社は、縁むすびの神様としても知られ、旧暦の3月15日から翌16日にかけての「お岳さん参り」は、むかしは近郊近在からの善男善女でにぎわったという。
 きのうのはげしかった雨が、けさは嘘のようにやんでいる。
 2羽のキセキレイが、長いしっぽを上下にゆらしながら雨あがりの道路でたわむれていた。
 登山口からみおろすと、眼下の湯前町は白い綿のような雲海におおわれていた。
 脊梁山地は、秋口から冬にかけて雲海のみられるところでもある。

千年杉
 ふもとの市房神社の参道の両側には、杉の巨木がならんでいる。
 目とおしの幹の直径は、大人の背丈の倍ほどもある。
 天に向かって真っすぐのびた幹から水平に枝がでて、上空をおおう。
 英彦山にも「鬼杉」とよばれる杉の大木があるが、ここにはあの鬼杉クラスの大杉がなんぽんも参道にならんでいて壮観である。
 幹の表面には青々とした苔がはえていて、威厳と歴史の重みを感じさせる。
 樹齢は、どのくらいたっているのか想像もつかない。
 案内板には、「樹齢1,000年、幹の周囲10メートル」と書かれている。
 いまから一千年前といえば平安時代にあたり、藤原道長一門が摂政関白につき栄耀栄華をきわめた時代である。
 その時代に植えられた杉の苗が鎌倉、室町時代をへて近世、近代、現在まで悠久の大河をいきぬき、世の中の有為変転をじっとみてきたことになる。
 それにくらべて人間は長生きしても、たかだか70、80年、ここの杉の一割にも満たない。
 いかに人間の存在がちっぽけなことかがわかる。
 2年前、宮崎と大分の県境にそびえる傾山の南側にきざまれたベニガラ谷をさかのぼったとき、「このあたり一帯には、切り口が人の背丈を越える大きな杉やツガの原生林がしげっていた。それが10年かかって切り出された。山の中には小学校の分校もあった。」
 と地元の人から聞いた。
 しかし、そのときはそんな杉の巨木のおいしげる山を想像できなかった。
 いま杉の巨木の並木を目の前にして、やっと大杉の原生林を実感することができる。
 そんな巨木がいまでもあれば、九州でもツキノワグマが生息していてもなんら不思議はない。

相良家の祈願所
 赤松の大木が、たおれていた。
 大型台風でたおれたのだろう。
 ここをすぎてすぐ上の八丁坂に、人吉の藩主・相良家の祈願所があった。
 相良家は、頼朝の命によって地頭職として遠州、いまの静岡からここ人吉に入国し、35代770年つづいた家柄である。
 祈願所の壁には相良家の家紋である梅がえがかれていて、ゆいしょある建物であることがわかる。
 左側の部屋が祈願所で、正面には祭壇がまつられている。
 こんな山の奥に祈願所が建てられていることからも、相良長頼の信仰心がいかにあつかったかがわかる。
 供の者をしたがえた相良の殿様が、祭壇の前で祈願しているすがたを想像した。
 北側の一段高いところに、別棟の市房神社の中宮がある。
 祈願所のとなりの部屋は避難小屋となっていて、登山者に開放されていた。

水場
 6合目の「馬の背越」の岩場の下まできたとき、シュー、シューという音がする。
 何だろう、いぶかりながら岩場を登っていくと、黒いパイプの先から水が噴き出ていた。
 ビニールパイプをひいて、水が飲めるようにしているのである。
 ここで水とは、ありがたい。
 中宮が最後の水場だと思っていただけに、冷たい水にありつけるとは思ってもみなかった。
 この冷たい水で喉をうるおし、顔も洗うと、生き返ったように元気がでた。

山頂
 あとはなだらかな道をたどって、頂上(1,721m)についた。
 頂上は、広場となっている。
 家族づれが、車座になって楽しそうに弁当をひろげていた。
 下界は霧がかかっていて、あす登る予定の向かいの石堂山はみえない。
 暑さをさけて木陰で昼食をとり、しばし休憩した後、来た道をとおって下山した。

出会い
 きょうのうちに、あす登る予定の石堂山の登山口までいっておきたい。
 石堂山のメインルートは、上米良バス停から登るルートである。
 このルートは標高差が1,250メートルもあり、4時間を要するロングルートである。
 そこで、もっと短い時間で登れるルートを二万五千分の一の地図でさがした。
 竹原集落から右折して米良椎葉林道をたどって井戸内峠までいけば、半分の時間で登れるはずである。
 そこで、竹原から右折して林道をたどる。
 舗装された道が、どこまでもつづく。
 二俣で「井戸内峠」とかかれた標識にしたがって左折し、しばらくして井戸内峠についた。
 よし、ここまで来ておけば、明日は早い時間に石堂山に登って降りられる。
 今夜のテント場に向かうためUターンしていたとき、福岡ナンバーの車が2台きた。
 車から降りたひとたちは、50歳を越えたひとたちばかりである。
 あいさつをすると、彼らも明日ここから石堂山に登るという。
 旅先で同じ県のひとに会うと、初対面の人でもみょうに親近感がわくから不思議なものである。
 このひとたちは、福岡県古賀市にすむ中藤さんをリーダーとする5人づれ。
 今夜の宿をさがしていると話すと、天包山高原広場の休憩所にいこうと誘われた。
 休憩所の前にテントを張って、いっしょに宴会となった。
 冷たいビールで乾杯をする。
 ビールが、きょう会ったばかりの人とひととの垣根をすぐにとり払ってくれた。
 彼らは、きょうは五木の白髪岳(1,244m)に登ったと話す。
 彼らの山旅は、細かい計画をたてずに、とりあえず旅立ってから行き先を決めるという、いわゆる行きあたりばったりの山の旅らしい。
 旅とは日常からの脱出であり、拘束から解き放たれることだとすれば、このような旅のスタイルこそ旅の本来の姿かもしれない。

旅はみちづれ
 「明日、石堂山に登ったら、椎葉の尾前に懇意にしているひとがいるのでいっしょにいこう」
と中藤さんから熱心に誘われた。
 尾前といえば、わたしにも記憶がある。
 もう4年ほど前になるだろうか、椎葉の鶴富屋敷をたずねての帰り、山あいの尾前の集落をとおった。
 そのとき道路を歩いていた若夫婦が、2台つらなって走る私たちの車にお辞儀をした。
 そのときわたしは後ろの車を運転していたのだが、知らない人にお辞儀をするはずはない、と思って知らん顔をした。
 助手席に座っていた宮崎さんは、これに応えてすばやく会釈をした。
 このとき会釈もできなかった後ろめたさが、旅の終わりまでつきまとったという後味のわるい思い出が尾前にはある。
 あのときの若夫婦に会えるかもしれないという淡い期待もあり、そのうえ気ままな山旅なので、「旅はみちづれ」とばかり、ごいっしょすることにした。

天包山
 暗いうちから起きて、休憩所の近くにある天包山(1,189九m)に登ってご来光をおがむことにした。
 頂上直下に公園があり、西南の役の戦場跡の碑がたっていた。
 すぐうえに「坊主岩」とよばれる丸っこい大岩があり、その表面には直径3センチほどの穴がいくつもあいている。
 弾の痕である。
 ここは、田原坂でやぶれ敗走をつづける薩軍と、これを追う官軍との西南の役最後の激戦地である。
 岩をうがつ弾の痕が、はげしかった攻防戦をいまにつたえている。
 丸太の土どめで整備された、なだらかな登山道が頂上までつづき、頂上には新しい展望台もたてられていた。
 ちょうど山の端から昇ってきた太陽が金色のおごそかな光を放ち、展望台の前を白い霧が流れていく。
 手をあわせてご来光をおがんだ。

石堂山
 井戸口峠に車をおき、ここから民間の林道を2キロ歩いて、メインルートの5合目と合流した。
 すぐに尾根道は急登となり、木材切り出しのワイヤーの巻かれた赤松の大木のある尾根についた。
 ところが登山道の赤土の表面に、こうもり傘の先でつついたような穴が無数にあいているのに気づいた。
 どうも、ストックというスキーのとき使う杖のようなもので刺した跡らしい。
 それも団体さんが登った跡らしく、おびただしい数におよぶ。
 最近、この折りたたみ式のストックをもった登山者をよく見かけるようになった。
 テレビの「中高年の登山教室」のなかで、司会の山内賢がストックを使っていた。
 それも、ごていねいに両手にも持っていた。
 ひとりで使うぶんには登山道の荒れも少ないが、それも多人数ともなると話しは別である。
 それに岩場でのストックの使用は、ストックがすべってかえって危険をまねく。
 テレビをみていて、これを注意しない講師にも苦々しく思ったものである。
 どうしても杖が欲しい方は、木か竹の杖を使えばいいだろう。
 ここから木の間越しに、石堂山が左手にみえたが、あいにく石堂山の頂上は雲がかかってみえない。
 なだらかな道となった。
 また急登となってここを越えると、左の堺谷から登ってきた林道にであい、林道を100メートルほど歩いてまた左の登山道にのると、まもなく8合目の標識があった。
 これから石堂山の手前の尻張坂にかかる。
 地図をみると、両側に毛虫マークが4センチつづき、典型的なやせ尾根をあらわしている。
 直線距離にして1キロ、標高差300メートルである。
 行く先々に、より高いピークがつぎつぎにあらわれる。
 左から霧を含んだ風がふいて、汗ばんだ肌には心地よい。
 ピークの上り下りを繰りかえし、足が棒のようになって疲れ果てたころ、やっと石堂山(1,547m)頂上についた。
 頂上には霧島六社権現がまつられ、槍の穂先がおさめられていた。
 あいにく山頂からの展望はだめである。
 まだお盆というのに、ナナカマドの木に赤く紅葉している一枝があって、やがて訪れる秋を感じさせた。

百メートル滝
 尻張坂をくだる途中、展望のきく露岩があったので展望をかねて休憩した。
 きのう頂にたった市房山の中腹に、白いものがみえる。
 目をこらすと、それは滝のようだ。
 滝の表面がキラキラとひかり、ゆらいで見える。
 あれは落下する水の動きである。
 その滝が、山の口谷で最大の大滝「百メートル滝」とすぐわかった。
 あの沢を、森さんとふたりで遡行したことが、きのうのことのようによみがえった。

キレンゲショウマ
 予定より早く下山できたので、キレンゲショウマというめずらしい花が咲く白鳥山を中藤さんが案内するという。
 登山口には、「御池登山口」と書かれた標識があった。
 地元のひとは、白鳥山を「御池」とよぶそうである。
 登山口付近一帯の斜面に、黄色い花が咲いていた。
 この黄色い花がキレンゲショウマで、漢字では「黄蓮華升麻」と書く、と教えてもらった。
 80センチほどの背丈の先に、親指ほどの大きさの砲丸の形をした花穂が三、四個横を向いて咲いている。
 花の形がハスの花に似ているところから、レンゲショウマという名前がついたという。  いままで見たこともない花である。
 まだ時期が少し早すぎたらしく、蕾みはかたい。
 花弁をつかむと、肉厚でスポンジのように弾力があった。

平清経住居跡
 涸れた沢をたどって登る。
 尾根筋に出て平らになっているところに、「平家残党左中将平清経住居跡」の標識がたっていた。
 源平合戦の最後の戦い・壇の浦で、平家は義経の軍隊にやぶれ、8歳の安徳天皇は仁位尼に抱かれて入水。
 いっしょに入水した母・徳子は、源氏の熊手にかかり引き上げられ、若くして出家して「建礼院門」と名をあらため、洛北の寂光院で一生わが子安徳天皇の供養につとめた。
 今ぞしる みもすそ川の御ながれ 波の下にも みやこありとは
 と詠われた句が、盛者必衰のことわり、世の無常をさそう。
 この戦いで、平家一門は海の藻くずと消えた。
 生きのびた平家の残党たちは各地に落ちのびていったが、平清経も山奥いこの地に逃れ、72年間、孫の代までかくれ住んだといわれている。

ドリーネ
 近くにあるドリーネといわれる窪地に案内された。
 山口の秋吉台や、小倉の平尾台にもみられるドリーネである。
 石灰岩が長い年月、雨水の浸食によってできた窪地をドリーネというが、縦5メートル横15メートル深さ5メートルのドリーネのなかに、苔むした高さ3メートルほどの石碑のような岩がならんでたっていて、周囲の静寂とあいまって不思議な空間をかもしだしていた。
 石灰岩は、古生代にサンゴ、貝類など石灰質の骨格や殻をもった動物の遺骸が水底に堆積し、これが固まって岩石になったものといわれている。
 したがって、数億年前ここは沖縄のようなサンゴのそだつ浅い海の底であったことになる。
 それが隆起して陸地となったものらしい。
 「白鳥山、白岩山、白髪山など『白』という字のつく山は、どこも石灰岩でできている山だ」と中藤さんから教えられた。
 そういえば白岩山の頂上も、石灰岩が露出していたのを思い出した。

御池
 つぎに湿原に案内された。
 草地のところどころに、浅く水が張っている。
 この山が地元の人から「御池」とよばれるのは、頂上付近にこの池があるからだろう。
 足を踏み入れると、ジトーッと水がしみ出てきた。
 平清経もこの水に恵まれたからこそ、孫の代までかくれ住むことができたのであろう。
 まさに水こそ命をつなぐ糸である。

山の寺
 夕方、大藤さんに案内されて尾前のお寺をおとずれた。
 本堂では和尚さんの法話があっていたので、私たちも末席にならんでこれを聴いた。
 いまは関東にうつり住んでいるが、尾前にあるご先祖様をだいじにしているひとの話をされた。
 集まったひとたちも、熱心に話に聞き入っていた。
 法話が終わって、庫裏(くり)に招き入れられた。
 そこには、宴会の準備ができていた。
 食卓には焼き豆腐、焼きタケノコ、干しダイコン、シイタケなどの煮付け、鮒の洗いやタケノコ、シイタケ、ダイコン、ラッキョ、ゴボウの漬物など山の幸が大皿に盛られ、食卓いっぱいにならんでいた。
 本堂では、2年に1度開かれる「いとこ寄り」がはじまっていて、笑い声がここまで聞こえる。
 道路の下の小学校のグランドで開かれているカラオケ大会の会場から、マイクをとおして歌が聞こえる。
 土地柄、ご当地ソングの「稗つき節」が聞こえる。
 午後9時から花火大会もあるという。  こんな山深いところで、花火大会に行きあわせるという幸運に感謝した。

花火大会
 花火見物のため、寺の下の道路に降りた。
 道路いっぱいに浴衣姿のひとがあふれている。
 この日が、尾前が一年中でいちばんにぎわう日だという。
 小学校のグランドに特設ステージが設けられ、カラオケ大会がはじまっている。
 ステージの前の青ビニールに、村人が座って聞き入っていた。
 校舎の前にテントが張られ、夜店も出て祭り気分を盛りあげている。
 村の青年団による、かき氷や水ヨーヨーも売られ、金魚すくいもあって郷愁をそそられた。
 「ヒュー、パンパーンババババー」と突然、破裂音が空中ではじけ、山あいの空気をゆさぶった。
 花火大会のはじまりをつげる花火らしい。
 夜店の前に集まっていた人だかりが、花火をみようといっせいに運動場へと動く。
 つづいて夜空に赤い大輪の花が咲き、ドーンと音がした。
 ワーという歓声と、ため息があがった。
 山あいのため、破裂音が直接胸にあたって胸板をビビーとふるわす。
 花火は、中心から四方八方にひかりの尾をひいてひろがり、消える。
 消えても一瞬残像となって宙に浮いた。
 つづいて、黄色い火の玉がネズミ花火のようにヒステリックに迷走する花火があがった。
 はじけて飛び散った赤いひかりが、柳の枝のように落下し、消えた瞬間青い閃光を発する花火もあった。
 つぎからつぎへ花火が連発して打ちあげられクライマックスとなり、ことしの夏の終わりをつげている。
 花火は、もう少し夜空に残っていてほしいとも思う。
 そうかといって、ネオンのようにつきっぱなしでは、興ざめだろう。
 やはり花火は、はかなさこそ持ち味かもしれない。

稗つき節
 再び庫裏にもどって、宴会のつづきとなった。
 和尚さんが、片膝をついて
  「♪にわのさんしゅーのーきー……」
 と稗つき節を歌いだし、右手で、握った左手の甲、ひじ、胸の順にたたき、つぎに左手で右手の甲、ひじ、胸を前と同じようにしてたたいて調子をとる。
 稗つき節とは、平家の残党の討伐隊の頭としてこの奥地におもむいた源氏の那須大八郎と、平家の鶴富姫の悲恋ものがたりをうたった民謡である。
 さすがに本場のひとだけあって堂に入っている。
 かれの表情には恍惚感さえ感じられ、「稗つき節」が自分たちの歌であり、自分たちは平家の公達の末裔であることに誇りをもっていることが、旅人のわたしたちにもわかる。
 本堂の方から、歌声や笑い声が聞こえる。

男の友情
 本堂から、和尚さんをよびにきた。
 「お宅たちも、どうぞ」というので、わたしたちも本堂のいとこ寄りに入れてもらう。
 本堂では、30人ほどの人たちが宴会をしていた。
 「和尚さん、どんひとたちかの?」
 とわたしたちを何者かと聞いている。
 和尚さんが、中藤さんみんなにを紹介した。
 それによると、和尚さんの長男の生まれた年のいまから28年前、民謡を習いにこの寺をおとずれた中藤さんを、和尚さんが
 「お前も礼儀知らずの町の人間だろー」
 と一喝した。
 いきなりの一喝に中藤さんが怒りだし、そこでふたりは口論になったが、そのうち意気投合した。
 この奇妙な出会いが縁で、それからおつき合いがはじまった。
 やがて、ふたりは義兄弟のちぎりを結ぶまでになった。
 中藤さんは、和尚さんの4人の子どもさんたちの入学、卒業のお祝いを欠かしたことがないというから、律義なひとである。
 いまどき浪花節に出てくるような男の友情ものがたりが、ここにはまだあったのか。
 胸の熱くなるのをおぼえた。
 中藤さんのおかげで、連れのわたしたちもみなさんに受け入れられたようである。
 「飲まんの」といって焼酎がつがれた。
 ひとなつっこいひとたちである。

正調稗つき節
 長さ1メートルほどの青竹と箸を持って中央にでた人が、左手で胸の前にさげた青竹を箸でたたいて踊る。
 ここで歌われる稗つき節は、4分の3拍子から4分の2拍子に変わって、テンポが早くなっている。
 またひとりが青竹を持って立ちあがり、同じように踊る。
 さらにまたひとりが青竹を持って立ちあがり、いよいよ踊り手は3人になった。
 そのうち、3人が向きあって片膝をついて稗をつく動作をはじめた。
 月でウサギが餅をついているという、あの動作である。
 踊り手のなかでも小夜子さんとよばれるご婦人は、踊りに腰が入っていて際立ってうまい。
 後で聞いたのだが、彼女はこのあたりでは稗つき節のいちばんの踊り手だそうだ。
 歌い手が交替してまた稗つき節を歌う。
 踊り手もまた交替する。
 ここではみんなのこころがひとつになって、稗つき節と踊りをこころから楽しんでいる。
 いとこ寄りだから、さすがに似た顔の人が多く、ひとなつっこい顔をしたひとが多い。
 私の隣に座っているおじいさんの兄さんを座のなかからすぐみつけだしたし、向こう側に座っている若い人が、このおじいさんの息子さんだととすぐわかった。

ドジョウすくい
 このおじいさんが、頬かぶりをして登場した。
 どじょうすくいでお馴染みの安来節のスタイルをしている。
 ショウケという竹で編んだザルを脇に抱えている。
 足でどじょうをこのショウケのなかへ追い込むという寸法である。
 つるつるすべる、どじょうをにぎるひょうきんな仕草に爆笑がわき起こった。
 おしっこをした跡に両手で水をかけて流すところなど、なかなか芸が細かく、爆笑の連続となった。
 久しぶりに腹の底から笑いころげた。
 和尚さんの奥方がこれまた美人で、そのうえ歌がじょうずときている。
 張りのある声で、稗つき節を堂々と歌う。
 奥方の歌に合わせて踊る和尚さんの稗つき節は、夫婦だけに息もぴったり合って、みんなをうらやましがらせた。

指人形
 世界一の水車があるという湯前町からきたという男性が、指人形を手にして登場した。
 ハンカチを左手にかぶせ、顔の絵をかいた卵の殻をハンカチの上から人差し指にのせている。
 ハンカチの左右の裾を人形の両手にみたて、これを割り箸の両端にくくりつけている。
 稗つき節の曲にあわせて、人形が踊る。
 すると、表情のないはずの人形に表情があらわれた。
 人形がまるで生きているようにみえるから不思議である。
 リクエストされた「露営の歌」の曲に合わせて
 「♪かってーくるぞーといさまーしく……」
 と、いがぐり頭の指人形がはつらつと動く。
 腰に弁当をくくりつけた学生が行進する神宮外苑での学徒出陣のシーンを思い出し、はつらつとした人形の動作とは裏腹になぜかせつなさがこみあげてきた。
 尾前の夜は、本堂のにぎわいをよそに静かにふけていった。

あつき人情
 翌朝、朝食をごちそうになり、竹の皮につつんだおむすび弁当をいただいた。
 「尾前の人たちは旅人がたずねてくれば、まずお茶と漬物を出して落ち着かせ、風呂をわかし、夕食をふるまい、泊める。翌朝は竹の皮につつんだおむすびと漬物を必ず持たせる」と中藤さんから聞いていた。
 尾前というところは山深いところなので、旅の人が行き暮れれば泊め、翌日は行き倒れにならないようにと、おむすびを持たせるのが古くからの習わしとなっているという。
 人がたずねてくればこころからもてなす、この習慣が現在も綿々と受け継がれていることに深い感銘を受けた。(完)


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