HOME

日本の原風景を求めて

NEXT

05年・夢職のオートバイ日本一周 ( 1/6 )


旅に出かける前に

 旅行に行ってその旅先からブログの更新をするには、どうすればいいのだろう?
 ホームページなら初歩的なことはわかるのだが、プログの書きかたがまったくわからない。
 訂正のしかたさえもわからないのだから往生する。
 ホームページと同じように書いていいのだろうか。
 とりあえず、なにか入力してみる。
 同じ写真を使い、ああでもない、こうでもないといろいろ使い回してみた。
 習うより慣れろだろう。
 要は何回もやってみることだろう、と自分を納得させる。


オートバイを

XR230

 つぎに、乗っていくオートバイが必要になる。
 旅行につかう馬、そう、現在の馬こそオートバイである。
 これを選ばなければならない。

 ホンダの店で展示しているXR230にまたがってみる。
 これなら足が地面にとどくのでよさそうだ。
 この車種のひとつうえのクラスのXR250も足はとどくのだが、余裕がなくて踏ん張りがきかない。
 いざというとき、本能的にどうしても足をついて態勢を立てなおそうとするから、足つきのいいほうがいいだろう。
 そこでXR230を買うことにきめた。

 またまた、旅の途中でブログの旅日記を更新するにはどうすればいいのだろう? と考え込んでしまう。
 それと、いま公開しているホームページも時間があったら旅先で更新をしたいのだが…
 そのためにはなにとなにを準備すればいいのかわからない。

 まず、旅先から通信するにはパソコンにつなぐ air-H がいるときいたのだが、どのタイプにすればいいのだろう。
 それも、機種が多すぎて迷ってしまう。
 ちなみに、写真をアップして、練習してみる。


身辺整理

 旅の準備もすこしずつ整いつつあるので、出るまえに身のまわりをきれいにしておく。
 税金と年金の払い込みを銀行の自動引き落としにした。
 小泉純ちゃんや福田康夫のように、年金もおさめなかった苦しい言い訳をする醜態をさらしたくないためである。


オートバイを買いに

 ホンダのオートバイを売っている店に、オートバイを買いにいった。
 店員が、商談カードとやらに販売条件を書き込む。

 見ると、組付・整備費用欄に、12,600円と書いてある。
 いったいなんのことかときいたら、バッテリーの組み込み代と車両の整備代とのことだという。
 「待ってよ、そんなものとるの?」
 「はい、そうなっています」
と平気な顔でいう。
 おかしなこともあるものだ。

 今まで何台も自動車を買ったが、そんな費用はとられたためしがない。
 新車なら、整備済みの車をわたすはずである。
 欠陥車をわたすのは、三菱自動車だけでたくさんだ。
 工場から整備済みの車両が出荷されるはずだから、あらためて販売店が整備することもあるまい。
 それとも、なにか? お客には元々バッテリーなしの車を引きわたすとでもいうのか。
 そんな話しは、きいたこともない。

 いまどき、こんなあくどい商売をするバイク屋があるとはおどろいた。
 この店もホンダの認定業者になっているが、「世界のホンダ」の末端はどうなっているのだろう。
 いまだに、お客が泣かされている。
 ほかの店にいったら、そんな費用の請求はまったくなかったので、気持ちよくその場で注文した。


ツーリングテント

 いままで登山でつかっていたテントは、4人から5人用のダンロップの山岳用のドーム型のテントである。
 このテントは、北アルプスの槍ヶ岳から大キレットを越えて穂高まで縦走したときもいっしょだった思い出のつまったテントである。

 あのときは連れがひとりいたし、全行程テント泊だったのでそのテントが活躍した。
 若かったので、1週間分の食料をつめこんだ重さ22キロのザックを背負って大キレットを越えた。
 このテントを見るたびに、なつかしい青春の1ページがあざやかによみがえる。
 しかし、こんどはオートバイによるひとり旅である。

 きょうは東にあすは西、風のふくまま気の向くまま、写真を撮りながらの放浪の旅となる。
 そうであるならば、大きなこのテントは必要ないし、重いし、そのうえかさばるので具合がわるい。
 そこでツーリング用の軽量テントを買いもとめた。


通信手段は?

 ブログの更新を、どの通信手段をつかってやればいいのかまだ迷う。
 プロバイダーとの接続には、PHSでやる方法と通信カードでおこなうふたとおりの方法があるからである。
 PHS方式は、「ケーブルが細いのでホームページの更新に役立たない」という記事を読んだことがある。
 そこで、通信カード方式をえらんだ。

 つぎにどの通信カードをえらんだらよいのかがわからない。
 いろいろ検討した結局、AH-F401UをつかってのWILLCOMの「1Xつなぎ放題」コースを1年間契約した。
 旅というものは、本来目にみえない拘束から解き放たれることこそがその醍醐味というものであろう。
 だから、ケイタイなどは持ちたくない。
 こちらからの連絡は公衆電話からでもできる、しかし緊急の連絡をうける手段は必要だろう。
 とりあえず、ケイタイを持っていくことにする。


ナンバーを

 オートバイのナンバープレートの交付をうけるため、小倉南区の軽自動車協会というところに行った。
 受付とその事務は、国交省の外郭団体であるこの協会がおこなっている。
 必要な書類は、
  @譲渡証明書
  A自賠責証明書
  B住民票
  C重量税の印紙
  D印鑑
である。

 申請書の書きかたは、わかりにくい。
 どこのお役所もそうだが、お上の書類というものは、わざとわかりにくくしている。
 いまだに「民に知らしむべからず」と思っているのだろう。
 愚民思想のうえにあぐらをかいているように思われる。
 個人に対し「手続きがむずかしい、どう書いていいかわからない」と困らせて、しまいには業者にまかせるようにしむけるためである。
 外郭団体の職員の多くは天下りであり、外郭団体と業者はグルなのである。

 すなわち、業者を保護するためである。
 これによって、業者はうるおう。
 その見返りとして業者は、政治献金をする。
 このようにして、金をすいあげるしくみと、お役所を退職したお役人が協会に役職として天下りする構図ができあがっている。

 しかし、申請というものは、車をつかう個人がするのが筋というものであろう。
 さすがに書きかたはわかりにくかったが、個人で書いて書けないほどむつかしいものではない。
 手続きをはじめて10分ほどで、ナンバーをうけることができた。


オートバイの取り扱い

 備えつけの取扱説明書を見ながら、オートバイ操作の確認をする。
 そこで、気づいたのは、
 @届出済証と自賠責書の保管は、座席の下となっている。
 それはいいのだが、座席をはずすには六角レンチがいるので、これらの書類をすぐには取りだすことができない。
 事故のとき以外は書類をすぐにとりだす必要もないので、これでもいいか。

 A携帯工具入れが、極端に小さいので、うまくおさめないと工具が入らないし、蓋も閉まらない。
 B最大の難点は、オプションとしてキャリアがまだ発売されていないことである。
 これを自分でつくるとなると、これはことだ。


HPとブログのリンク

 ネズミ肘症の術後の経過を診てもらうため、病院に行った。
 小指のしびれはまだ残っているが、手術前ほどのしびれは感じない。
 医師の診立(みた)てでは、経過は上々らしい。
 後は時間をかけて気長に、小指の根元の筋肉が回復するのを待つだけだという。

 若いときから柔道とボクシングをしすぎて、両肘に痛みを感じるようになり、そのうちに右肘ははげしい痛みがでだしたので、手術をうけた。
 その後10年ほどして、こんどは左手の小指にしびれを感じるようになった。
 冷たい水に手をつけると、しびれはいっそうはげしくなるので今回思いきって病院に行った。
 検査の結果、軟骨がもりあがり神経を圧迫していることがわかり、この神経を圧迫している骨をけずる手術をうけたのである。
 これでやっと、無罪放免といえよう。
 これで足かせがとれ、晴れて自由の身になったような気がする。


パソコンの設定

モバイル

 注文していたモバイルパソコンが、とどいた。
 ディスプレーは12インチ、全体の大きさはB5よりわずかに大きいが、重さは1キロと軽い。
 これなら、持ち運ぶのにつごうがよい。
 まず、Windowを設定する。
 これはうまくいったが、問題は通信カードの設定である。

 これは、簡単には問屋がおろすまい。
 「プロバイダー簡単設定マニュアル」をみながら、そのとおり慎重にやる。
 最初のうちはうまくいっていたのだが、プロバイダーをえらぶ段階になってつまずいた。
 「プロバイダー一覧表」のなかに、自分の契約している業者の名前が見当たらないのである。
 はて困った、どうしたものか。

 マニュアルをよく読むと、「該当するプロバイダーがないときは、ご自身で設定してください」と書いてある。
 ここにきて、相手は一筋縄ではいかない曲者の本性をあらわしたようである。
 設定というものは1回やればそれで終了するので、おぼえられない。
 こちらとしてはマニュアルどおりやっているつもりでも、マニュアルどおりの画面が出てこないことが多い。
 もちろん、原因は、こちらのやり方がまちがっているのであるが。

 それにしても、あの分厚いマニュアルは「わかりにくい」と、以前からよくいわれている。
 もっとも、マニュアル本がわかりやすいものであれば、パソコン教室は軒なみ閉鎖に追い込まれて困ることになるだろう。
 マニュアル本のなかには、英語を直訳したままというひどいものもある。
 しかしネットの書き込みの感想を読むと、そのほとんどが「設定は簡単だった」とある。
 なるほど、ゲームボーイ世代にとっては、設定もゲーム感覚でやってしまうのだろうが、団塊の世代のこちらにとっては、マニュアル本は難敵であり、手ごわい相手である。

 にっちもさっちも行かないので、Willcomのサポートセンターに助けを求めた。
 いわれるままに入力しているつもりだが、どうしてもうまくいかない。
 ユーザーIDか、パスワードのいずれか、それとも両方がエラーと表示される。
 入力ミスかもしれないと、もう一度復唱しながら入力しなおした。
 それでも、前と同じようにエラーと表示される。
 さすがのコール嬢もとうとうヒスを起こし、「プロバイダーに問い合わせてユーザーIDとパスワードを確認してください」という。

 しかたなく、契約しているプロバイダーに泣きついた。
 この場合のユーザーIDというのは、ユーザーIDのことではなく、コンテンツIDであるという。
 そのコンテンツIDというのが、わからない。
 これだから、設定はややこしい。
 結局、このコンテンツIDの入力ミスが接続できない原因だとわかった。
 それでも、やっと接続できたときには、飛びあがらんばかりにうれしくなった。
 それにしても画面の動きは、いまはやりの超スローライフである。


メールの設定

 さてつぎの難問は、メールをどのようにするかである。
 いまメールアドレスはあるが、モバイルでもつかえるようにするには、新たなアドレスをとる必要があるのだろうか?
 というのも旅先で、モバイルでメール機能をつかいたいからである。
 受信は自宅とモバイルの両方に入ってくるように設定し、送信もどちらからでもできるようにしたい。
 取扱説明書を読むと、「webmail」 なるものがつかえる、と書いてある。そこでこれを試験的にやってみた。

 これはうまく設定できたのだが、動作がおそく、とてもこんなものにつきあっておれない。
 これでやっていては、それこそ日が暮れてしまう。
 そのうえ、通信記録が保存できないのが致命的である。
 もっともCCで自分宛にもだせば、この点のカバーはできるというが、扱いにくいことには変わりはない。

 そこで業者に問い合わせた。
 その結果、メールソフトである一般的な  Internet Explorer がつかえるとのことである。
 そんなことなら、あれこれ悩む必要はなかった。
 やはり餅(もち)は餅屋、専門にはかなわない。
 しかし、webmail なるものがある以上、それ独自のメリットがあるはずだが、果たしてどんなメリットがあるのだろう?


荷台の製作

荷台

 朝、クマゼミの初鳴きをきき、いよいよ夏がきたと実感した。
 荷台の上に、荷物入れのコンテナをのせたい。
 蓋のあるコンテナであれば、雨が降っても濡れる心配がない。
 特にパソコンは、水に弱い。

 コンテナの大きさを確認するため、ホームセンターに行った。
 ホームセンターには、いろいろなコンテナがならんでいる。
 気に入ったものがあり、このコンテの容量は60リットルである。
 これが最適だと思った。

 帰って、段ポールでこのコンテナの実寸大の箱をつくって荷台に乗せてみた。
 背丈が高すぎて、コンテナのなかのものを取り出すのがたいへんである。
 せめて、コンテナの高さは40センチ以内におさえたい。
 そこで、容量40リットルのコンテナにきめた。

 荷台の骨格が、なかなかきまらない。
 荷台をとめる座席の下の支点と尾灯側に新たにつくった支点、さらにもう一つの支点を左右のステップのうえにとり、全部で支点は3点とする。
 このステップのうえの支点から水平にうしろにのばした線と、座席の支点から垂直に降ろした線の交点の高さが左右でちがっている。
 したがって、うしろタイヤの後部をまわるバンバーが水平にならない。
 左側のほうが低くなっている。
 なぜこんなアンバランスになったのだろう。

 よく見ると、左右のステップの支点の高さがもともとちがっている。
 鉄パイプをまげて、ようやく左右の支点の高さをあわせた。
 手づくりで荷台をつくるのは、たいへんな手間である。
 メーカーも、この車種にツーリング用の荷台をつける変わり者も少ないと踏んで、ツーリング用の荷台をつくらないのだろう。
 つまり、売れないので開発しても商売ベースにのらないのである。

 よし、それなら、メーカーもつくれないような、すばらしい荷台をつくるとするか。
 夕方になって、ようやく荷台の枠組みができあがった。
 車体に、座席シート、サイドカバーをとりつけ、最後に荷台をとりつけようとしたら、入らない。
 そこで、まず荷台を乗せ、つぎに座席シート、サイドカバーの順にとりつけなければならないことがわかった。

 なんとかとりつけたものの、荷台がシートのうえに直接乗っかかっている。
 これはまずい。
 というのは、これでは座席シートの脱着ができないし、座席シートに負荷はかけられないからである。
 ものづくりは、なかなか思いどおりにいかないものである。


不備を修正

完成した荷台

 カーコンビニに行き、こちらの希望をつたえ、座席シートに乗っている荷台の鉄パイプ部分を切断してもらう。
 そこに、橋を架けるように鉄パイプを乗せ、両側を溶接する。
 そうすれば、切断した鉄パイプ一本分だけ、シートの上に空間ができることになる。
 そうすれば、座席シートの脱着が可能となるはずである。
 その場合の溶接は、鉄パイプの肉厚がうすいのでアセチレン溶接ではパイプに穴が開いてしまう。
 そうなると使うガスは、炭酸ガスということになる。

 溶接が終わった。さっそく荷台を乗せてみた。
 すき間ができている。
 これで、座席シートに負荷がかかることはない。
 したがって、座席シートの脱着が可能となる。
 これで一応荷台が完成したといえる。
 後は、塗装をするだけ。
 もちろん、これで完璧とはいえないだろう。
 走ってみて、不都合なことがあれば、そのつど修正していくつもりである。


荷台の塗装

 荷台に塗装をする。
 さて、色はなに色がいいだろう。
 車体は、赤と黒の精悍な色彩だが、躯体がシルバーなので荷台も無難なシルバーにする。
 ラッカーのスプレー缶を買ってきた。

 スプレー缶をよくふって、パイプにまんべんなくふりかける。
 それでも、強くかけすぎると気泡ができてしまう。
 まあ、素人だから、それもご愛嬌といえよう。
 塗装がかわくのが待ち遠しい。

 その間に、後輪の両サイドの荷物乗せ場をつくる。
 板が、3枚いる。
 1枚は荷物が車輪に巻きこまれるのを防ぐため、あとの2枚は荷物を乗せ用となる。
 板をパイプの枠にそってカットする。
 板にも、シルバーのラッカーで塗装をほどこした。

 板をパイプに結びつけるため、ドリルで穴を開ける。
 板をパイプに、配線をたばねるインシュロックという塩化ポリエチレンでとめた。
 ためしに、荷物のカバンを両サイドに乗せてみた。
 どこかで見たようなバイクとなった。

 そういえばこどもの時分、牛乳配達のおじさんが荷台に牛乳の箱を積み、さらにテント生地でできた袋をその両側にさげていた。
 あの、バイクを思い出した。
 牛乳ビンのぶつかるガチャガチャと鳴る音は、子どもころの目覚まし時計代わりだった。
 近ごろは、あの音をとんと聞かなくなってしまった。


コンテナのなかはガソリン漬け

 何年ぶりだろう、このコンロを使うのは。
 このコンロは、ウィスパーライトというガソリンを燃料とする携帯用のコンロである。
 このコンロのよいところは、軽くてコンパクト、燃料にレギュラーガソリンがつかえること、さらにメンテナンスが容易なことである。
 燃料入れのボトルにガソリンを半分以上入れ、コンロ部分をセットした。
 これをコンテナのなかに入れた。

 しばらくしてコンテナを開けたら、コンテナの中がガソリンの臭いがする。
 コンテナの底に、ガソリンがたまっている。
 燃料ボトルからガソリンが漏れたのだ。
 燃料ボトルをさかさにしたら、ボトルの首のとこからガソリンがにじみ、そこから垂れる。

コンロのオーバホール

 そこで、コンロのオーバーホールをした。
 パッキンが劣化し、亀裂が入っていた。
 点検もしないで安易につかおうとしたことの罰をうけたようだ。
 しかし、ここで故障がみつかってよかった。
 これが旅先なら、コンロはつかえないところだったから。


試運転

 実際にツーリングに必要なものをリストアップし、チェックしながらパッキングする。
 コンテナには、パソコン、インバーター、アダプター、CD、カメラ、レンズ、電池、充電器、下着など雨にぬれたら具合のわるいものを入れる。
 両サイドには、工具、テント、寝袋、マット、コンロ、食器、雨具、キャップランプ、水筒、ナイフ、スリッパなどを振り分けて入れる。
 ところが、パッキングがどうもうまくいかない。
 テントと寝袋がかさばるのである。

 登山をしていたときには、40リットルのザックをつかっていた。
 そのなかにテント、寝袋、マット、衣類のほかに食料も入れていた。
 これだけのものが40リットルのザックに収まったものだと、いつも感心していた。
 今回は食料を持っていかないので持ち物は少ないはずなのに、それでもパッキングに苦労する。
 なんとか荷物を3つにふりわけ、乗せてみた。

 この状態で、実際にあたりを走ってみた。
 点検したら、サイドの板をとめていたインシュロックが、5本切れていた。
 そこで、太いインシュロックにとりかえた。
 それでもだめなら、針金でとめればいい。

 日本地図を、パソコンに取り込んだ。
 この地図のうえに、その日移動した距離だけ赤線を入れる。
 そうすることにより、現在地ときょう1日の行動がわかるようにするためである。
 これで、いつでも出発できる準備はととのった。


四国路をゆく



はじめての四国路

 日本全国をめぐる前に、まずオートバイで四国をめぐってみて装備に必要なもの、いらないもの、改良が必要なものなどをテストしてみる。
 大分の佐賀関から国道九四フェリーに乗って70分で、愛媛は佐田岬の三崎港についた。
 オートバイでは、はじめての四国路となる。
 ここから山道に入り、松山方向にむかう。
 途中、先日の豪雨でがけ崩れがあっており、迂回をさせられた。

 しばらくして右手に海がみえてきた。
 おかしい? 四国を時計回りにまわっているつもりだから、右手は常に陸地でなくてはならないはずなのに…。
 道の駅があったのでここに立ち寄り、観光案内図で確認したら、東西に長い佐田半島をまだ東にむかって進んでいることがわかって得心がいった。

 やっと佐田半島をぬけ、八幡浜から山間部に入って快調にエンジンをふかせていたら、道路工事のための通行止めにあった。
 ここは、50分間工事をして10分間休憩するそうである。
 その休憩の10分間だけ、車は通ることができる。
 したがって、最もながく待たされる車は50分待つことになる。

 わたしの前に、すでに一台車がとまって待っていた。
 この人は白い法被(はっぴ)を着ておリ、四国88ケ所霊場めぐりをするひとだとわかった。
 かれは岡山にすんでいる65歳の男性で、こんかいで4度めの遍路めぐりだという。
 りっぱな納経帳なるものには、巡礼をしたことの証しである各寺の朱印が押されていた。
 この納経帳をみれば、そのひとが何回遍路めぐりをしたかが一目でわかるしくみになっている。


一日お遍路体験

お遍路めぐり

 この方が、巡礼の作法、巡礼に必要な携帯品などをことこまかに教えてくれた。
 せっかく四国にきたのだから、88ケ所の霊場めぐりも体験してみたいと思い、このひとを先達にいまから一日お遍路体験をする。

 まず44番札所・大宝寺をおとずれる。
 このお寺は山深い幽谷の地にあり、杉の大木がそびえたっていて、霊場のふんいきがただよっていた。
 日ごろ信仰心のないこちらも、このような境内に入ると気分がひきしまる思いがする。
 旅の安全と、家族の無病息災をお祈りした。

 つぎは、45番札所・岩屋寺である。
 ジグザグに参道をのぼっていく。
 すぐに、汗まみれになった。
 20分ものぼると、その名のとおり岩屋の下にお寺が建てられている。
 社務所では、納経帳に押した朱印をかわかすためにドライヤーをつかったり、うちわであおいだりといそがしい。
 いかに商売とはいえ、効率を優先するためにはこんなことまでするのかと思うと、おかしくなった。
 後から、老若男女が汗を拭きながらのぼってくる。

 46番から先は松山市内もあるので、市内まで行く。
 46番札所・浄瑠璃寺についた。
 つぎの47番八坂寺、さらにつぎの48番の西林寺と案内された。
 これらの3つの寺は、比較的ちかくにかたまって建っている。
 しかし、お遍路めぐりがはじめてのひとは、土地鑑がないとお寺の場所をさがしあてるのは骨の折れることであろう。
 そのうえ町中の寺は俗化されていて、さきほどめぐった45番、46番のようなお寺では寺本来のもつ厳粛なふんいきは期待すべくもない。

 ここで午後5時になった。
 午後5時以降は、社務所の受付が終わるらしい。
 したがって、納経帳に朱印をもらってまわるお遍路さんは、午後5時がその日の打ち止めとなる。
 先達の岡山の男性も、「きょうはここまで」という。
 こんばんの宿は、健康センターに泊まるとのことであった。
 きょうの案内のお礼をのべ、お互いの道中の安全を祈念してわかれた。

 わたしは朱印を求めないし、日が暮れるまでには時間もあるのでこの先のお遍路のつづきを試みる。
 49番の浄土寺は、すぐわかった。
 ところが、50番の繁多寺というのがわからない。
 はげしい交通渋滞に巻きこまれ、50番の繁多寺の標識を見落としたらしい。
 51番の石手寺も、わからない。
 これでは連番とならない。
 四国88ヵ所めぐりは、一日にしてあっさりと挫折してしまった。


ちんちん電車

 気をとりなおし、松山市内を走る。
 松山市内は、新婚旅行以来の町である。
 「坊ちゃん」のふるさとは、ちんちん電車がいまなお健在である。
 日本の都市には、どこの町もチンチン電車が走り、市民の足としてなが年親しまれてきた。
 ところが、「パリもロンドンも市内電車はないよ」という声にせかされて、レールをはがした。
 しかし、排ガスもなく環境にやさしい面から、いままたチンチン電車のよさがみなおされてきているらしい。


とんこつ味

 市内観光も、こう渋滞がひどくては身動きがとれない。
 松山市内で道にまよい、自分がどこに向かっているのかわからなくなった。
 バイクをとめて、道をたずねる。
 おかげでやっと松山市内を抜けだすことができ、国道11号に乗って鳴門の方向に向かって走る。

 四国にきて、「豚太郎」というラーメンの看板をたくさんみてきた。
 また「豚太郎」という看板のラーメン店をまたみつけたので、そこに入った。
 「豚太郎」というのでてっきり、とんこつ味だと思ったら、とんこつ味はないという。
 それはないだろう、豚の文字をつかって客をつっておきながら、とんこつ味がないとは…。
 そう思いながらも、しかたなくみそ味を注文した。
 まあまあの味だった。
 それにしても、あのこってりとしたとんこつラーメンが食べたくなった。
 どこか、とんこつを食わせるラーメン屋はないものか。


青天井

 もう、まわりはうす暗くなった。
 さて、行き暮れれば寝るだけである。
 広い駐車場があったので、ここに銀マットをしき、靴をぬいで横になる。
 星空を見ながらの青天井である。
 この天気なら、雨の心配はない。
 したがってテントも張らない。
 少々蚊がきても、血を吸いたければ吸うがいい。
 そのまま眠りについた。


高校野球のメッカ

 きょうも朝から晴れている。
 ガソリンを入れるため、川之江のスタンドに入った。
 若い店員は、ホースで水をまいておリ、まだ開店準備中であった。
 四国のここらあたりの高校は、どこでも野球では全国のトップレベルの実力校ぞろいである。
 なかでも、松山商業、高松商業、西条、今治西、観音寺と高校野球の古豪、強豪がひしめき合っている。

 「ことしの西条はどうですか」
  ときくと、店員はこちらのバイクのナンバーをいつの間にみたのか
 「東筑紫はつよいですね。新聞によく名前がでてますよ」
  と北九州の高校の名前をあげていう。
 このあたりがいくら高校野球の本場といっても、夏の甲子園大会の全国の予選の情報を一瞬のうちに口にするのは、至難のわざである。
 それをこの若い店員は、当たりまえのように言ってのけた。

 ここらあたりのひとは、それだけ高校野球につよい関心を持っているようだ。
 それともこの店員さんが高校野球について特別の関心を持っているのかはわからない。
 いずれにしても、四国の高校の野球チームのつよさの秘密の一端を知らされた気がした。


オイルの交換

 バイクの走行距離が1,000キロを超えたので、これよりホンダウイング店をさがし、オイル交換をする。
 きのうは、一日だけで400キロも走っている。
 高松駅前の繁華街を、ホンダウイングの看板をさがしながら走る。
 こういうときにかぎってその看板はみつからず、ライバル社の看板だけが目につく。
 ホンダなら、全国どこへいってもホンダウイング店があると思っていたのに。
 ようやくみつけたが、開店は午前10時だと書いてある。

 時間があるので高松港フェリーののりばに行き、そこの待合室でグログの更新をした。
 まわりの人たちがあつまってきて、めずらしそうにながめていた。
 更新は数行の文章と、写真1枚だけなので10分ほどで終わった。

 さきほどのホンダウイング店に行き、オイルの交換をお願いした。
 旅に出る前に点検したときには、きれいな色のオイルだったのに、きょうオイルパンからこぼれ落ちるオイルは黒く汚れている。
 たった一日でこんなに変色したのか。
 社員の応対は、さすがにホンダのデーラー店だけあって、礼儀正しく好感の持てるものであった。
 社員たちの見送りをうけて、鳴門方向にむかう。


86番札・所志度寺

 国道11号を走っていて、86番札所・志度寺の案内表示をみた。
 86番ということは、最終の88番のふたつ手前である。
 これはいよいよ終盤の札所を意味するので、お遍路さんには不謹慎と思いながら、ついでに立ち寄る。
 あすの日曜日に夏の大祭があるらしく、おおぜいの的屋(てきや)が屋台の組み立てなど開店準備におおわらわだった。

さぬきうどん

さぬきうどん

 さぬきの国へ来たからには、さぬきうどんは食べていかねばなるまい。
 「津田の松原」という道の駅があったので、ここで食事タイムとする。

 ここに、さぬきうどんの小さな構えの店があった。
 客の出入りをみていると、工員や年寄り、若者が、ひっきりなしに入っていく。
 客の回転がはやい。
 ときには店の入り口に、2,3人の行列ができるほどである。
 ということは、この店はおいしいのだろう。
 この店に入った。

 かけうどんと、いなり2個を注文した。
 かけうどんは190円、いなりは2個で180円、全部で370円と安い。
 天カスとネギ、カツオ節を適量入れて、食べる。
 特別おいしい、とは感じられなかった。

 地元のひとは、そばを食べるように冷やしうどんにつゆをつけて食べている。
 それも、ほとんどが大盛である。
 こちらは、とてもあんなには食べられない。
 こちらにとって「特別うまい」とは感じなかったが、これだけのお客が出入りするからには繁盛店にはまちがいない。
 小さいときから食べつけたものが、その人にとっていちばんおいしいのだろう、と感じた。


1番札所・霊山寺

 ここ霊山寺は、四国88ヵ所霊場めぐりの出発点である。
 受付があり、「装束を授けます」と張り紙がしてある。
 さすがに立派なお寺さんで、庭の手入れもゆきとどいている
 庭には、墓のようなかたちをした立派な太子堂が建っていた。


阿波の土柱(どちゅう)

阿波の土柱

 鳴門市から右折し、「四国三郎」とよばれるあばれ川の吉野川にそって大歩危(おおぼけ)、小歩危(こぼけ)方面に進路をとる。
 途中にあるという「阿波の土柱」を見学するためである。

 土柱とは、山の斜面が雨によって浸食され、ちょうど土の柱のようになったものらしい。
 写真でみたことがあり、中世の洞窟修道院が多くのこっていることで有名なトルコのカッパドキアを連想させる。
 そのスケールの大きさから一度はみてみたいと思っていたところである。

 ところが想像していたものとは異なりスケールの小さいもので、土柱は去年いくども日本を襲った大型台風でこわれていて、がっかりさせられた。


落人伝説

 吉野川の対岸のうえのほうは、勾配のきつい山となっている。
 それはあまりに勾配がきついので、屏風を立てかけたようにみえる。
 その山の中腹に、ぽつんぽつんとトタンをかぶせた民家がみえる。
 あんな高いところまで、民家があるのか。

 源氏の那須の大八と平家の鶴富姫の悲恋の伝説をうたう、ひえつき節で有名な宮崎の椎葉の里の風景にここはよく似ている。
 耕地がない、きびしい生活環境である。
 それゆえ都の高貴な身分の末裔であることを心のよりどころとしなければ、生きていくことができなかったのであろう。


大歩危(おおぼけ)、小歩(こぼけ)

 これより高校野球で一躍有名になった池田の町をとおって大歩危、小歩危をおとずれる。
 吉野川の左岸をさかのぼる。
 左下に、吉野川の渓谷がみえはじめた。
 急流が両側の大岩を食(は)みながら、白い泡となってかけくだっていく。
 四国三郎の名に恥じない、はやい流れである。

 道路の右手には、がけ下を徳島本線がとおっている。
 こっちの線路のほうが、がけ崩れのおそれがあってよけい危ない。
 というのは線路のうえは、がけが迫っているからである。
 ところどころ、トンネルをうがっている。
 鉄道は、吉野川に鉄橋を架けてななめにわたっていっている。


空中駅

空中駅

 道路の対岸に、駅の標識がみえた。
 橋をわたると、そこはちいさな広場となっている。
 駅舎は、吉野川のうえに張りだして建てられている。
 土地がないので、駅は空中に造らざるをえなかったのであろう。
 この広場は、学童用のマイクロバスの停留場ともなっている。
 広場に支流が右岸から流れこんでおり、その支流ぞいには集落があるのだろう道路が上っている。

 ここにマットを敷いて横になる。
 ここはひとの通りもなく、清流のせせらぎの音と、カジカのきれいな鳴き声をききながらの青天井は、ぜいたくな寝床になった。


四国のへそ

 ジャリジャリという車が入ってきた音で、目がさめた。
 何時だろう、午前5時か。
 もう夜が明けている。

 地図で確認すると、ここは四国のほぼ真ん中に位置する。いわば、四国のへそともいえる場所である。
 標高が高いので、さすがに明け方は冷えこんだ。
 たまらず、寝袋を引っ張りだし、ミノムシのようにもぐりこんで眠ったのだった。
 きょうのすばらしい旅路を約束するかのように、飛行機雲が大空を真っぷたつに切り裂いていた。


室戸岬へ

室戸岬

 きょうは、まず徳島の室戸岬にむかう。
 途中、道の駅「やす」があったので、ここで一息入れる。
 ここには乗用車が数台とまっており、みなさん車のなかで寝たらしい。
 すっぴんのご婦人たちが、ベンチでくつろいでいた。
 車のなかに、スポンジ入りの寝ござを敷いているひともいる。
 みなさん、いずれもリタイヤ組のようである。

 観光案内をながめていたら、「つぎの町の赤岡町というところで、きょうまで『絵金まつり』があっています。一見の価値はありますよ」と、きのうここで泊まったひとが教えてくれた。
 絵には興味はあるのだが、あいにく、ひとごみが苦手ときている。
 いきおい、ひとのいない山奥、僻地(へきち)辺境をめぐる旅になってしまう。

 これより室戸岬をめざす。
 海岸線にでた。
 ここから左折して、室戸の方向に進路をとる。

 右手は、土佐湾である。
 これが黒潮か
 1メートルほどの高さの波が、白い泡となって砂浜に打ちよせる。
 大山というちいさな峠にさしかかったとき、黒潮が岩礁にぶちあたり、大きく波しぶきをはねあげる荒々しさに、思わず「ホッ、ホッ」という歓声と驚きの入りまじった声が口をついてでてきた。
 力づよさと躍動感にあふれる黒潮が、迎えてくれた気がした。
 いよいよ、めざした室戸岬についた。

 写真を撮っていたら、岬の喫茶店のマスターが表にでてきた。
 「おはようございます。きょうは波が荒いですね」。
 「いや、きょうはなぎのほうですよ。去年の台風のときは、道路いちめんが海岸の小石で埋まり、通行止めが2、3日つづきましたから」
 という。

 そういえば、室戸台風という名前だけは知っている。
 昭和9年、ここに上陸した台風は伊勢湾台風につぐ甚大な被害をもたらし、死者は2,702名となったとマスターが教えてくれた。
 その室戸台風が上陸したのが、ここ室戸岬のこのあたりにほかならない。

 モーニングサービスを注文した。
 パソコンを出してHPの更新を試みたが、ここは通信カードの圏外だった。
 マスターが、「ここはケイタイが入りません」、と気の毒そうにいった。


吉良川(きらがわ)の町並み

吉良川の町並み

 室戸岬からひきかえし、行く途中にみつけていた重要伝統的建造物群保存地区に選定されている、吉良川の町並みをこれから散策する。
 せまい旧道の両側に、ふるい建物が軒をつらねている。
 この旧道は、旧土佐街道である。
 この土佐街道の海側にバイパスが通ったため、この町並みがのこったのである。

 町並みを歩くと、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚におちいる。
 いずれの家も軒先はひくく、手をのばせば指先が届く。

 町並みの資料館として提供されている大きな商家があり、その前を地元のおばあちゃんが手押し車をおして通りかかった。
 このおばあちゃんに、きく。
 「このおうちは米屋と遠洋漁業を営んでいた武井さんの家です。いまはこのとおり資料館として提供してもらっています」
 「ここらあたりは台風の通り道で、台風と雨から建物をまもるのがこの水切りの役目ですよ」
 と指さす先は、しっくいの壁にとりつけられた黒い瓦のひさしである。

 しっくいの白壁に、「水切り瓦」とよばれる瓦一枚分の短いひさしが四層もついている。
 白いしっくい壁に黒い水切り瓦のコントラストは、その機能性と芸術性がみごとに一致しているこの吉良川独特のものであろう。

 この吉良川は、炭の原料になるウバメガシが大量にとれるところから質のよい備長炭の産地として発展した町だという。
 ここでとれた備長炭を京都や大阪に船ではこび、帰りの便で日用品を積みこんで帰ってきた。
 その際、京都や大阪の最新の情報・文化もいっしょにもって帰ったのである。
 この武井家の妻壁は、当時としてはハイカラな赤レンガが積まれており、大阪の影響をうけていることを物語っている。

 水切り瓦は、その水切りという本来の機能はもちろんのこと、財力の象徴でもあった。
 というのは、水切りをほどこすには相当な手間がかかるからである。
 富を誇るため、財産家はきそってこの水切り瓦をつけたのであろう。
 しかし、最近はここも住民の高齢化と過疎化がすすみ、伝統的家並みも空き家がめだち、荒れるにまかせた家屋もところどころみられ、保存対策が急がれるところである。


とろむの足湯

 国道55号線を高知市にむかって走っていたら、道の駅ならぬ海の駅があった。
 ここに立ち寄ると、「とろむの足湯」というものがあったので、さっそく足湯につかる。
 ここ2日間、風呂に入っていない。
 ズボンをたくしあげ、ふくらはぎまでお湯にひたす。
 これで、足の疲れもとれるだろう。
 10分ほどつかった。

 となりの仮設の舞台では、そろいの法被(はっぴ)をきた小学生の踊りがあっていた。
 地元のひとが、「こんばん花火大会があります」という。
 まだ、朝の9時前である。
 いかに急ぐ旅でもないといっても、夜まで待てないし、人ごみはごめんこうむりたいので先を行く。


はりまや橋

はりまや橋

 高知市内に入った。
 ここも市内電車が健在で、幼なじみにあったようにうれしくなった。
 ペギー葉山がうたって爆発的なヒットとなったご当地ソングの「南国土佐を後にして」の舞台となった、はりまや橋をたずねる。

1 南国土佐を 後にして
  都へ来てから 幾歳(いくとせ)ぞ
  思い出します 故郷の友が
  門出に歌った よさこい節を
  土佐の高知の ハリマヤ橋で
  坊(ぼん)さんかんざし 買うをみた

2 月の浜辺で 焚火を囲み
  しばしの娯楽の 一時を
  わたしも自慢の 声張り上げて
  歌うよ土佐の よさこい節を
  みませ見せましょ 浦戸をあけて
  月の名所は 桂浜

 いまは暗渠(あんきょ)となって川面はみえないが、みかげ石のりっぱな橋の欄干が保存されている。
 そばに観光用の、朱塗りの木の太鼓橋もサービスでつくられている。
 両手に男の子と女の子の孫の手をひいて太鼓橋をわたる若いおじいちゃんが、照れながらビデオにおさまっていた。
 ほほえましい光景である。

 「南国土佐を後にして」のなかの「坊さん、かんざし買ぐを見た…」とは、いかにも意味深長なフレーズだが、僧侶とて所詮(しょせん)生身の人間である。
 感情もあれば、消すに消せない煩悩もあるだろう。
 聖人になれないのが、人間の性(さが)かもしれない。
 かえってこのお坊さんの人間臭さに、共感をおぼえるのはこちらひとりではあるまい。


名物・カツオのたたき

 道の駅「かわうその里・すさき」があったので、ここに入る。
 この道の駅は、大繁盛している。
 ここには、ふたりの銀マットを積んだライダーがいた。
 ふたりとも福岡からきたと話し、きょうがツーリングの二日めだという。

 店内では、カツオのたたきの実演と販売があっていた。
 かまどのなかで稾(わら)すべを燃やすと、ボーと勢いよく炎が立ちあがる。
 その炎のなかに、カツオを乗せた網をさし入れ、表面に焦がれめのつくほど焼く。

 昼には早いが、カツオのたたきの実演をみて食べたくなってきた。
 カツオのたたきと、カツオめしをいただく。
 カツオめしのほうは大したことはなかったが、たたきのほうはさすがに本場だけにおいしい。
 やはり名物というものは、地元で食べるにかぎるのか。


足摺(あしずり)岬へ

 四万十川の河口の町・中村市というのはそれなりに知名度があったはずだが、平成の大合併によって四万十市にかわっていた。
 最後の清流といわれる四万十川は、川幅もひろく、ゆったりとながれ、しずかに太平洋にそそいでいた。
 吉野川が「四国三郎」とよばれる男性的なあばれ川であるのにくらべ、ここは女性的な大河といえよう。
 土手の草むらに仰向けに寝ころび、しばし休憩する。
 草いきれが、鼻をついた。

 この川に架かる橋をわたって、左折して四国最南端の足摺岬にむかう。
 川にそって国道321号を一路南下する。
 水島というところまできたら、数人の若者たちが海をみていた。
 ここでバイクをとめ、いっしょに海をながめる。

 沖に夫婦岩のようなふたつの岩があり、その岩にぶつかった波がくだけて高く飛沫をあげている。
 道路は、海岸のうえにせりだしておリ、しかも海岸から30メートルほどの高さがある。
 眼下に、鋭い突起のある岩の列が規則正しくならんでいた。
 かたい岩場が、ながい年月黒潮に侵食されてできた奇岩群だろう。
 宮崎県の青島の「鬼の洗濯岩」を思いだした。

 地図で確認すると、足摺岬の入口を見落し、かなり行きすぎていることがわかったのでここから引き返す。
 足摺半島を先端にむかう。
 このあたりになるとこれまでとは植生が変わり、亜熱帯樹林がしげり、みどりがいちだんと濃くなった。
 ほどなくして、半島の先端についた。


38番札所・金剛福寺

金剛福寺

 ここに38番札所・金剛福寺があった。
 ソテツのしげる寺は、いままでの札所とは一種おもむきを異にしている。
 いかにも亜熱帯にある札所にふさわしく、おとひめ様のすむという竜宮城というものはこのようなものかと思わせる。
 観光バスが何台もつらなって到着し、そのつど参拝客を多くの吐きだした。


ジョン万次郎

 岬の広場に、ジョン万次郎こと中浜 万次郎の銅像がたっている。
 かれの顔は、太平洋をむいている。
 万次郎は14歳のとき漁にでて遭難し、無人島の鳥島に流れつき、そこでひとりで生活をはじめた。
 まさに日本版ロビンソン・クルーソーである。

 幸運にも通りかかったアメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカにわたる。
 かれの不屈の精神は、すぐに英語をマスターしたことである。
 また、かれの持ち前の闊達(かったす)さは船長が気に入るところとなり、彼の養子にむかえられ、それから10年後日本に帰国をはたした。

 やがて嘉永6年(1853)浦賀にペリーの黒船があらわれ、世のなかは騒然となってきた。
 かれの卓越した英語と、アメリカ通が役だつ時がきたのである。
 やがて幕府にむかえられ、政策に参画して活躍するというまさに波乱万丈の人生を送っている。
 かれが向いている先は、命の恩人である船長のねむるアメリカであろう。


黒潮

 足摺岬の先端に立つ。
 眼下は、いちめん白い泡がうずまく。
 岸壁にあたった黒潮が、くだける際に大量の空気を含み白くにごる。
 黒潮はちいさな岩礁を呑みこんでしまい、しばらくして岩礁の頭が海のなかから姿をあらわし、頭から筋となって海水が流れ落ちる。

 その白い泡がおさまる間もなく、つぎの黒潮がまた岩場を呑みこむ。
 このくりかえしである。
 ここには、黒潮の悠久の営みがつづいている。
 坂本竜馬、ジョン万次郎しかり、かれらはこの黒潮のエネルギーを吸収して自分のものにしたのではないか。

 黒潮をみてエネルギーをもらう者、反対につよすぎる黒潮のエネルギーに負けてしおれる者、人間にはふたつのタイプがあるのかもしれない。
 坂本竜馬、ジョン万次郎など傑出した土佐っ子は、前者のタイプにちがいない。
 黒潮こそ、土佐っ子のパワーのみなもとであり、「イゴッソウ」といわれる土佐県人の気質は、この黒潮がもたらしたものであると確信した。


八幡浜へ

 これから八幡浜の方にむかう。
 途中で、行き暮れた。
 ちょうど都合よく、道の駅「すくも」があった。
 トラックが数台とまっており、バイクの若者もひとりいた。
 かれは岡山からきており、今夜はここにテントを張って寝るとのことである。
 今夜も星をながめながらの青天井である。
 銀マットの上に横になった。

 きょうは八幡浜まで走り、そこから別府行きのフェリーにのる。
 きょうは走る距離がみじかいので、気分的に楽である。
 早朝の国道56号線は貸し切り状態で、前にもうしろにも車の姿はない。
 半袖では、肌寒く感じる。

 ちいさな峠を越えると、内海にたくさんのいかだが浮いている。
 真珠の養殖いかだであろう。
 国道ぞいの店の看板に「サンゴ」「真珠」の文字が目だって多くなり、このあたりはサンゴや真珠の産地であることがわかった。


宇和島城

 宇和島市内に入った。
 宇和島というひびきには、なじみがある。
 というのは、小学校の同級生のひとりの本籍が宇和島であり、彼の口から「宇和島」という地名を小さいころからよく耳にしていたからである。
 ここには、たしか宇和島城があるはずである。
 案内表示にそって走ると、右手に青々とした森があった。
 あれが、宇和島城だろう。

 石の乱積みの階段をのぼる
 ラジオ体操の老人たちが、うえから降りてきた。
 戦国時代、鎧兜(よろいかぶと)に身をかためた武者たちが上り下りしたであろうこの石段は、いまはせみしぐれに包まれている。
 こぢんまりとした天守閣の前に、屋敷跡の礎石だけがのこっていた。


自転車で日本一周

 宇和島市内をでてしばらくしたら、道路の左側に自転車がとまっていた。
 その自転車には、「日本一周」の手書きのプレートがあったのに気づいた。
 「同志だ!」。
 あわててUーターンする。
 先方もこちらに気づいた。
 わたしが銀マットを積んでいるので、相手もこちらを「同志」と認めたのだろう、親しみを込めてあいさつをしてくれる。
 この若者に、話しかける。

 「兄ちゃん、どこから?」
 「大阪です。(日本一周を)2回に分けてやっていくつもりです」
 「大阪を出てどのくらい?」
 「1ヶ月以上になります」
 「どこに泊まっているの?」
 「橋の下とか、道の駅で寝ています」
 日焼けした顔と両の腕が、たくましい青年である。
 ポケットから紙幣をだして
 「これを昼飯代の足しにでもしてくれ」
  とさしだす。
 「いえ、受けとらないようにしています」
  という。

 この若者の、ひとからほどこしを受けないいさぎよさにも脱帽である。
 自分がやれなかったことを、この若者はしている。
 自分と重ねあわせてみる。
 あまり長話も迷惑と思い、
 「じゃあね、がんばってね」
  とエールを送り、彼とわかれた。

 最初はこの若者のように自転車で日本一周をしようと思い、いろいろ考えたが荷物のこと、時間のことがあり断念し、バイクに軌道修正してしまったうしろめたさがこちらにはある。
 これから先、暑さはますますきびしくなるだろう。
 事故にあわずに無事に目的を遂げるよう、こころのなかで応援した。


43番札所・明石寺

 西予市に入り、43番札所・明石寺の案内表示をみた。
 ここは、山のふもとのしずかなお寺である。
 数人のお遍路さんが手を合わせ、般若心経をとなえていた。
 そばの大師堂で、こちらも手を合わせる。

 お寺に行ったらいつも疑問におもうのは、お寺の裳腰(もこし)にどうして日本に生息していないゾウの彫刻があることである。
 このお堂の裳腰には、ゾウ以外にも牛、へび、ニワトリの彫刻も施されている。
 境内を高箒(ほうき)で掃(は)いている寺男にたずねる。
 「おはようございます。見事な彫刻ですね」
 「これだけの彫りものをしたお寺は、四国88ヶ所でもほかにないですよ」
 という。

 「彫りものは、十二支すべてあります」
  といって、箒(ほうき)の柄(え)で示しながら、
 「ほら、子(ね)丑(うし)寅(とら)でしょ、卯(う)辰(たつ)己(み)牛(うし)未(ひつじ)…」
  と干支のひとつひとつを丁寧に説明してくれた。
 彼のいうには、この寺は市内から離れているため参拝するのはお遍路さんだけで、観光の客はこないという。
 それだけに、本来のお遍路にたちかえることができる寺でもある。

 駐車場に戻ると、車がついて夫婦づれが降りてきた。
 「これから、どちらにいかれますか?」と聞く。
 88ヵ所をまわりたかったのだが、はじめての土地で札所の場所がわからず、ほとんど飛ばしたと話すと、
 「1週間もあれば十分ですよ」
  という。
 「そうですか、タクシーでめぐっても最低10日間はかかるといわれたので、はじめての者にはそれ以上かかると思っていました」
 「場所がわからないほうがいい、ひとに聞くからそれだけ出会いもあります。すんなり回れると大師様のありがたさはないですよ」
  という。

 そういえば、この旅の途中、あちこちで何人かのお遍路さんをみかけた。
 カートを引きながら歩く若い男性、白装束で歩く中年男性などがいた。
 みなさんこの暑いなかを、黙々と歩いていた。
 軟弱者のこちらは、これら先達たちには頭のさがるおもいがする。


八幡−別府フェリー

 八幡浜についた。
 これよりフェリーで別府にわたる。
 そこに女性ライダーが登場した。
 彼女は、この3連休を利用して四国の石鎚スカイライン、黒潮ライン、四国カルスト台地を走ったと話す。
 娘の身で、しかもひとりで走るとは見あげた根性だ。


上腕部に火ぶくれ

 3泊4日の四国一周の旅を終えて、けさは久しぶりに朝寝坊をした。
 旅の空とちがい、わが家にいると緊張感というものがなくなる。
 四国をめぐる旅の一日めこそ、長袖を着ていたものの、あまりの暑さにそれを脱いだ。
 半袖すがたで風を切ると、快適そのものであった。

 2日めに、両手の上腕部がひりひりと痛みだした。
 それでも走っているときは、そのことを忘れてしまう。
 ところが信号停車になると、直射日光があたってまたひりひりする。
 こどものころ、皮膚が一皮むけることは夏のいつものことであったので、今回もほったらかしにしたのである。

 ところが、きのうの晩あたりから、ちいさな水ぶくれがぽつぽつとでてきた。
 きょうになって、腕に濡れたビニールをかぶせたようになっている。
 ところどころ水泡が破れて、汁がでている。
 あわててアロエをもいできて、その液を塗った。
 むかしから、やけどにはアロエ、といわれてきたからである。

 とうとう皮がむけた。
 腕が何かにさわるたびに、皮がむける。
 引っかき傷のようになり、赤くなった。
 寝ていて、痒(かゆ)くなる。
 この状態も、皮が乾くとなおるだろう。


「日本一周中」の表示

日本一周の表示

 荷台のうえのコンテナに、「日本一周中」と表示する。
 旅先で、だれとでも気軽にコミュニケーションをとりやすくするためである。
 これを見たひとは、このバイクはどこからきて、何をしているのか、がすぐわかるようにしたいのである。

 まず日本地図を拡大コピーして、コンテナの大きさに合わせる。
 全部が入るように、地図の角度をやや右に寝かす。
 カッターで地図の輪郭を切りぬき、のりをつけてコンテナに貼りつけ、その上からラッカーを吹きつけた。
 ラッカーが乾いてから、紙をはぎとった。

 ところが、紙がきれいにコンテナにくっついていなかったらしく、用紙のすき間からラッカーがもれて、仕上がりがよくない。
 これもご愛嬌だ、と笑ってすます。
 いちばん下にホームページのアドレスを入れた。(つづく)


HOMEに戻る 次回へ