HOME

日本の原風景を求めて

NEXT

06年・夢職のオートバイ日本一周 ( 1/4 )

九州路をゆく (1/2)


長洲(ながす)

長洲(ながす)の通り

 きょうから九州を時計回りに南下して、鹿児島にむかう。
 出発点は、時計でいえば12時の位置の北九州市である。

 R10号を走る。
 ここは、長洲(ながす)。
 駅館川(やっかんがわ)の河口に発達した港町である。
 この町の海岸べりをめぐる。
 ここも家が建て込んでいて、家と家との間の路地は半間の幅もない。

 堤防に年配のひとがいたので、ふるい町並みの場所をたずねた。
 ここには、ふるい町並みはのこっていないという。
 そこで、港町ならあったはずの遊廓跡をたずねてみた。
 そのひとは、「あった。あった。あそこはむかしはにぎわったものだ」、と昔をなつかしむようにいって遊郭跡を教えてくれた。
 教えてもらったあたりに行ってさがすと、なるほど遊郭跡らしい建物が二軒みつかった。
 建物には、入り口はふたつある。
 ひとつは「飾り窓」であり、もうひとつは客が二階にあがるための入り口である。

 ふるい町並みというと、いまでは宿場町、門前町、港町それにむかし遊郭のあった町だけになってしまったように感じられる。
 とくに旧遊廓の建物は大きすぎて維持管理するのがたいへんになり、そのため解体されたり、改造されたりしてまもなくほろびる運命にある。
 このような町をたずねてまわるのも、団塊の世代が最後になるであろう。
 なくなる前に、写真に写しておきたい衝動になぜかかられる。


「昭和の町」・豊後高田(たかだ)

 つぎに、豊後高田についた。
 ここには、「昭和の町」と銘うって昭和30年代のころの町並みを再現した商店街が再現されている。
 ところが、街灯の飾りつけが派手すぎて興ざめする。ほんとうに昭和30年代もこうだったのか、と疑がわしい。

 全国にある八幡さまの総本社である宇佐神宮のある宇佐からここまでかつて国鉄の「参宮線」があったそうで、終点の高田駅は現在バスセンターになっていた。
 町並みのなかを歩いてまわると、昭和55年ごろの食堂という「大寅屋」があった。表にショーケースがあり、カツ丼、チャンポンなどの見本がならんでいた。値段も当時のままにすえおかれていた。
 当時のカツ丼というのはどんな味がするのかあじわってみたいのだが、時間がはやすぎるため店はまだ開いておらず、食べそこねた。
 また、いつの日か食べに来てみたい。


杵築(きつぎ)

杵築(きつぎ)の武家屋敷

 つぎに杵築をたずねた。
 ここは松平氏の旧城下町であり、「豊後の小京都」ともいわれている。

 ここの地形はV字型となっていて、白壁づくりの市役所のある谷すじをはさんで両側の丘陵に坂の町ができていて、立体感のある町並みを形づくっている。
 その東西に走る谷すじには、なまこ壁に黒瓦をふいた町屋がたちならんでいる。
 その両側の丘の斜面は武家屋敷で、それぞれ北台武家屋敷、南台武家屋敷とよばれている。

 丘の途中にある「酢屋の坂」とよばれる石畳の坂をのぼると、眼下に町家の黒いいらかと、その向こうに南台武家屋敷がのぞめた。
 武家屋敷には瓦をふいた土塀がうねってつづいていて、白しっくいがはげ落ちた土塀は歴史を感じさせる。
 武家屋敷をあるくと、土塀に堂々たる薬医門のある家が多くみられ、その門から母屋の式台をのぞむことができた。
 藩校の門は、いまは小学校の門となって建っていて、杵築の末裔(まつえい)たちの子どもたちを見守っている。


臼杵(うすき)

龍原寺の三重の塔

 つぎは、臼杵。この町も旧城下町である。
 キリシタン大名・大友宗麟(そうりん)が丹生島(にゆうじま)に城をきずき、そこを対外貿易の拠点とした。
 そのため、港には「唐人町」南蛮町」という外国人の住む町もでき、国際都市として大いに繁栄した。

 ここも、地形的には坂の多い町である。日向灘を表にして、裏側は山にかこまれている。
 また、ここは寺の町でもある。これは都市防衛のためと考えられる。
 なぜなら、いくら戦といえども敵方は寺に弓を引くのをためらいがちになるからである。
 このことは、各地の城下町に必ずといっていいほど寺町がつくられていることからもわかる。

 町なかにある龍原寺の境内に、りっぱな三重の塔が建っている。
 「二王座歴史の道」といわれる坂道を歩くと、両側はいたるところ切り石を積んだ石垣となっている。そのことから、このあたりは加工のしやすい凝灰岩が豊富にとれたことがうかがわれた。
 昭和初期の町屋のたちならぶ情緒のある町並みに、明治の女流作家、野上弥生子の生家であるつくり酒屋の小手川家がのこっていた。


細島(ほそじま)

三階建ての旧旅館

 宮崎県の日南市を走っていたら、「細島港」の案内板があった。これに惹かれてこちらのわき道に入る。

 ここは、むかしは漁港であるとともに商港でもあったという。
 この港から参勤交代のため、薩摩藩高鍋藩の大名の乗った船が瀬戸内海を通って兵庫の室津にむかったのである。
 そのため、京の文化もここに運ばれてきた。
 ここにはふるい町並みはのこっていなかったが、ただひとつ木造三階建ての建物があった。

 これは、「高鍋屋」という旧旅館で、高鍋藩の参勤交代のとき殿様が休んだという座敷があった。
 玄関は、みごとな唐破風である。
 現在地に移築されて、いまはふるさと資料館として公開されている。
 この資料館のあたりがかつての町の中心部で、まわりには四軒の旧細島遊廓であったというが、いまはその名残をとどめるものはなにも残っていなかった。


油津(あぶらつ)

油津の運河

 おなじく日南市の油津についた。
 ここは、海に面して運河がひらかれている。
 この運河を利用して、飫肥(おび)杉をいかだに組んでここまで運んできたという。
 飫肥杉は、秋田杉吉野杉とならんで三大杉といわれ、当時から良材として名がとおっていたらしく、この港はその杉の集散地として発展してきた歴史をもつ。
 さらに、ここはマグロの水揚げでもわいた港町である。

 ここにも、木造三階建ての家があった。杉村本店の看板がかかっている。
 緑青のふいた銅板の壁は、油津が栄えたころをいまにつたえる貴重な建築である。
 ここから路地を入ったところが旧油津遊廓で、町並みにはその雰囲気がのこっていて郷愁がただよう。。
 さらに、中央部通路のアーチが大正ロマンを感じさせる河野家の赤レンガ館ものこっていた。

 油津は、「寅さん」のロケにえらばれた場所でもある。
 山田洋二監督は、日本の原風景ののこる町並みに寅さんを派遣して、その原風景のよさを日本人に再認識させようとしたのかもしれない。
 そばに「堀川橋」とよばれる石のアーチ橋があり、この橋は油津のシンボル的存在となっている。


油津の運河 杉村金物店


志布志(しぶし)

洋館建ての東郷医院

 きょうは、朝からあいにくの雨となった。
 それでも、前へ走らなければならない。
 つぎの町の串間にむかう。

 JR串間駅は、外からみると閉鎖しているのかと思った。というのも待合室は電灯が消されていたからである。
 それでも、駅前広場に数台の客待ちのタクシーがとまっているので営業しているのだろう。

 駅にいってみた。蛍光灯が消されて待合室はうす暗い。
 経費節減のためだろうが、これではろくに新聞も読めたものではない。
 お客は、黙って辛抱している。
 ところが、事務室だけは明かりはついている。
 お客のことなど考えない国鉄の時代の考えをそのまま受け継いでいるらしい。

 つぎの町の志布志(しぶし)にいく。
 志布志の武家屋敷は数もすくなく、のこっているのは門と生垣だけであった。  屋敷内にある家屋は、新しいものである。

 ところが、街のなかにふるい町家と医院が1軒ずつのこっていた。
 町屋は、米屋である。明治6年に建てられたというから、もうすでに124年もたっていることになる。
 洋館建ての東郷医院は、大正ロマンの香りをはなつ建物で、町の文化財となっているという。

 この医院のように金持ちなら金持ちらしく、後世に誇れるようなたとえば文化遺産にでもなるような建物を建ててもらいたい。
 そうすれば町の活性化にもなるし、固定資産税も他よりたくさん納めることとなり、それだけ町に貢献することができる。ただ私腹を肥やすのみでは、あまりにもむなしかろう。


倭寇(わこう)の遺構

倭寇(わこう)の遺構

 知覧(ちらん)といえば武家屋敷と特攻会館が有名だが、塩屋の海岸は、東シナ海を越えて、朝鮮半島や中国大陸、さらに南シナ海の南海諸島までをも跳梁(ちょうりょう)した倭寇(わこう)の本拠地のひとつである。
 その倭寇の遺構が、ところどころのこっている。
 倭寇といえば海賊だが、現在暗躍しているインドネシア沖のほんものの海賊とはわけがちがう。
 交易に従事する武装した商人を、倭寇とよんだ。

 海は、「板子一枚下は地獄」といわれる危険きわまりないところである。
 その怒涛(どとう)さかまく東シナ海にこぎだした、海の男たちの勇気をたたえるべきであろう。
 ときには話がこじれて刃傷沙汰になることがあり、明国、李朝側から「倭寇」としておそれられた。
 中国では元をたおした明は、諸外国をおのれの属国とみなして中国皇帝への貢物の献上とそれにたいする褒賞品をあたえるという朝貢貿易のみを許した。つまり海禁令をしいたのである。

 そこでこれに反発して倭寇があらわれ、中国の沿海州をあらしまわるようになった。
 その倭寇の中核をなしたのは、海に生業(なりわい)をもとめた松浦(まつら)党とよばれる九州西海の海の男たちで、中国人、朝鮮人、琉球人も参加していた。
 かれらは国籍をこえた連合をつくり、その大半は中国人であったらしい。

 なかでも王 直、顔 思斎、鄭 成功が倭寇の親分として歴史に名をのこしているが、いずれも中国人である。
 とくに父を中国人、母を日本人として平戸で生まれ7歳までそこで育った鄭 成功は、福建省厦門(かもん)を本拠地とし、明をたおした清に対抗できるまで成長した海上王国をきずいている。
 かれらは、中国の鎮海、五島列島、九州の西海岸の港を本拠地として東シナ海を舞台にわがもの顔にふるまった。
 ここ塩屋も、その倭寇の本拠地のひとつにほかならない。
 海岸ちかくには、東シナ海の交易で財をなしたのであろう蔵の建っている家が多い。なかには、広大な敷地を有しながら門柱だけになった屋敷跡もあった。

 船の便の関係で時間がなくなり、見てまわるのが不十分のまま終わった。
 うしろ髪ひかれる思いだが、沖縄にわたる予定なので先に沖縄にいき、帰りにまたいくつもりである。
 ここは、ロマンあふれる穴場ともいえよう。


海路沖縄へ

名瀬の港

 夕方、沖縄行きのフェリー「あかつき」に乗った。
 朝4時、奄美大島の名瀬についた。
 外は、まだうす暗い。
 しかし、積荷の積みおろしが終わって出港するときには、外はすっかり明るくなっていた。
 それにつれて、ここは大きな町であることがわかった。
 つぎの寄港地は、徳之島となっている。

 やがて、徳之島についた。
 港から、徳洲会の親分の本拠地の病院がみえる。
 毎回はげしい選挙戦を演じることで全国的に有名になった「伊仙町」の道路案内がみえた。

 伊仙町は、日本一はげしい選挙区といっていいだろう。
 町長が代わると、これまでの土木の指定業者もいっぺんに総入れ替えというから業者も町民もそれこそ死活問題となる。
 それだけに、だれもがいっしょう懸命になる。
 なかには親子、兄弟で敵同士になるというから、ことは深刻である。

 1時間おくれで、沖縄本島の本部(もとぶ)の港についた。
 とにかくここは、暑い。
 ここは、すでに夏モードだ。

 R58号を走ると、きのう鹿児島の宮ヶ浜でみた家の形をした墓が道路端にならんでいた。
 沖縄のひとたちは先祖を大事にすることで知られているが、これもそのひとつの表れであろう。


最北の集落 奥

 ゆうべは、あったかいのでテントもはらず、寝袋もつかわずに大地に横になった。
 ところが、ここは真夏である。
 蚊の大群におそわれた。

 それも大勢に無勢である。
 それでもテントを張るのが面倒くさいので、辛抱して寝たふりをつづけた。
 かゆさにたまらず起きあがり、あごをさわると何か所も蚊に刺されて腫(は)れていた。
 とんだ沖縄の蚊の洗礼をうけたものだ。

 南北に長い沖縄を、西海岸ぞいに走るR58号を北にむかって走る。めざすは最北端の辺戸(へど)岬である。
 ここから折り返し右回りに走ると、本島の最北端の集落の「奥」という部落についた。
 ここには、むかしながらの奄美の方形づくりの民家の集落がのこっていた。
 しかし、屋根はセメン瓦と奄美特有の赤瓦とが半々である。
 さらに安田(あだ)のこのあたりの集落には、掘っ立て柱のうえに竹の笹で屋根をふいたシヌグとよばれる神殿が建っている。
 ここは重文に指定されていて、神事がいとなまれる神聖な場所だと地元のひとに教えてもらった。


ヤンバル(山原)の森

 これよりR70号をとおって名護(なご)にむかう。
 この道は東海岸をとおっており、周囲はヤンバルである。
 このヤンバルというのは、本島の北部の国頭(くにがみ)地方をいい、シイ、カシなどの暖帯林におおわれている広大な段丘となっている。
 大木はないが、かん木地帯がつづく。このなかに天然記念物のヤンバルクイナが生息していることで知られる。

 ヤンバルクイナは、全長30センチほどの鳥で走ることはできるが、羽が退化して飛ぶことができない。
 猛毒のハブの駆除のためマングースを移入した。ところが、マングースはヤンバルクイナも食べるので近年ヤンバルクイナが激減したといわれている。
 弱肉強食、自然淘汰といえばそれまでだが、人間の小ざかしい知恵など自然の摂理のまえにはさからえないものらしい。
 このヤンバルのなかを走る道路は、予想していたよりもがながい距離だったのでガソリンの残量を心配しながら走った。


104歳のおばあー

安波(あは)の集落

 沖縄にきて最初に入ったレストランの壁に、むかしの沖縄の集落のポスターがはってあった。
 山の斜面に散在するカヤぶきの民家の集落を写したもので、白黒のその写真に圧倒された。
 沖縄にきて最初に衝撃を受けたのは、このポスターを見たときである。
 もうこのような集落にお目にかかることはないと思ったので、この写真の場所はきかなかった。

 そのポスターの写真の場所が、いま目の前にある安波(あは)の集落である。
 この集落を人目みて、あの写真の場所だとすぐわかった。
 しかし、ここ場所がほんとうにポスターに写っていたあの場所かと、その様変わりにおどろかされた。
 安波川をはさんだ向こうの山すそには数軒むかしながらの民家がのこっているだけで、戸数も大幅に減っているし、コンクリートの家に建て変わっている家もあるからである。
 集落にあるただ一軒の購買会でそれをたしかめると、確かにここにはむかし民家がたくさん建っていて、「沖縄の原風景」として有名であったところだという。

 この集落に、104歳のおばあーがひとりで住んでいるときいた。
 104歳!
 ときどき息子さんが顔をみせているが、ちょうどいま息子さんが牛乳を買っておばあーのうちへ行ったと聞いたので、そこをたずねた。
 おばあーは元気で、いまもひとりでここで生活しているという。
 おばあーは沖縄にむかしから伝わることばで話すので、こちらにはちんぷんかんぷん。息子さんの通訳がいった。
 そういえば、沖縄は全国一の長寿県である。


Keiちゃんと再会

 道の駅「許田(きょだ)」に立ち寄ったら、見たことのあるオートバイがあった。
 荷台のサイドケースに、見おぼえがある。
 去年の夏、函館から本州最北端の大間行きのフェリーでいっしょになり、話しを交わしたKeiちゃんのオートバイのパニアケースに似ている。
 パニアケース装備のバイクの旅行者は、ほとんど見かけないからである。

 そこへ、Keiちゃんが店からでてきた。
 やっぱり、Keiちゃんか!
 思わず抱き合い、背中をたたく。
 8ヶ月ぶりの再会である。

 かれの話しによると、こちらが新潟の庄内平野でいっしょになった福岡出身の谷口君も南の島にきていて、いまかれは宮古島だという。
 ふしぎなこともあるものだ。
 東北、北海道であった旅人が、南の島でまためぐり会うとは…。
 日本は南北にながいので、放浪者はどこかでまためぐり会うことがあるのだろう。


海洋博ふるさと村

海洋博当時の民家

 いまから30年前に開かれた「沖縄海洋博」は、沖縄振興の起爆剤として期待された。
 ところが、日本最南端という地理的ハンディキャップからか、協会が予想したほどの入場者はなかった。
 口のわるい連中からは、起爆剤どころか自爆剤ともいわれた。

 その跡地は、海洋博公園として第二のいのちをつないでいる。
 そこには、沖縄周辺の先島(さきしま)、奄美の島々の民家も移築されている。

 元々この場所に建っていた民家は会場建設のため買収され、住んでいたひとたちは代替地にうつった。
 そのとき、この場所に建っていたという民家も移築されている。
 それは、カヤを組んだ壁、カヤの屋根、細い竹を編んだだけの床の小屋である。
 家具などは、ほとんどない。
 東南アジアにみる原住民の民家とおなじである。
 ほんの30年前には、日本でもこの地方ではこのような貧しい生活をしていたことを知ってつよい衝撃をうけた。

 母屋の裏に、石造りのトイレがある家もあった。
 便器は、水洗便所のような形をしており汚物は斜めになっている溝をつたって下に落ちる。
 すなわち、そこから一段下の豚小屋に落ちる仕掛けとなっている。
 それを、豚が食べる。
 そして、大きくなった豚を人間が食べる。
 これは食の連鎖であり、これこそリサイクルの極みといえるであろう。


石垣島

18番街の通り

 ゆうべ石垣行きのフェリー「飛龍」のなかでライダーの浜松の金丸さんという方と知り合い、ふたりで情報交換をした。
 かれも、これから石垣島にいくという。

 ふたりともしっかりした計画もないので、島についたらとりあえずふたりで走りだすことに話がきまった。
 「旅は道づれ世はなさけ」、というからひとり旅もいいものだが、連れがあるのもまたそれはそれでいい。
 石垣港についた。

 ここは雨がふっていたが、石垣港はたいへんな人出でにぎわっていた。
 ツアーのお客たちが、小旗をかかげたガイドに引率されてつぎつぎに高速艇に乗りこんでいく。
 この港から、竹富、西表(いりおもて)、与那国、波照間行きの高速艇がつぎつぎに出ていく。ここがそれら南の島への玄関口になっていることをはじめて知った。

 ふたりとも雨具を着ての出発となった。
 それから、30分も北にむかって走った。
 ふりしきる雨は、しだいに雨脚がはげしくなった。
 この雨のなかでは、とてもキャンプできる状態ではなくなった。
 ふたりとも、民宿に逃げこんだ。

 荷物を部屋に運んで一息つき、午後からひとりでふるい町をさがしにでかけた。
 石垣にはふるい町はなく、わずかにのこっているといえば「18番街」とよばれる色町だけだという。
 そこに行ってみたら旧18番街はコンクリートの家が多く、ふるい建物はなかなか見つからない。

 石垣ではふるい町並みを見つけることができないと、あきらめかけたときにそれはあった。
 二階建ての建物がならんでいる。
 うち一棟は二階の窓にはすべて板をうっているところから、いまは空き家となっているのだろう。
 通りがかったひとにきくと、ここは「料亭」だったという。
 料亭? 
 そのひとは年配のご婦人であったので、遠慮してこういったのだろう。


石垣島をめぐる

 石垣島をめぐる。
 きょうも、小雨がふっている。
 寒い、雨具は着たままである。

 まず、石垣島の最北端の平久保崎にいく。
 途中、小さな橋のところでヤンバルクイナが2羽、道の端にでていた。黒地にあざやかな赤色の斑点がめだつ鳥である。
 岬の先端に灯台が建っている。灯台の根元にたつと、風がまともに顔に当たってながく立っていられない。
 遠浅の海のいろは、うすい緑、エメラルドグリーン、青の順に海岸から色分けされて遠くへひろがっていた。


川平(かびら)

 川平(かびら)の町を散策する。
 川平は石垣島ではふるい歴史のある町であり、むかしながらの奄美独特の赤瓦の方形づくりの民家が何軒かみられたが。町並みというには数がすくなすぎる。
 しかし、川平公園の海岸はしろい砂浜がどこまでもつづき、沖縄を代表する景勝地となっている。
 海辺に遊覧船が何隻も浮かんでいて、修学旅行の生徒たちが歓声をあげて乗りこんでいた。

 ここらあたりは台風銀座なのでしかたがないのだろう、ほとんどの家がコンクリートの家に建て代わっている。
 どの家の庭先にも、ブーゲンビリアとハイビルカスのあかい花が咲いていた。
 ここは四季というものがないため年がら年中、これらの花が咲いているという。
 常夏、常春といわれる土地柄だからだろう。

 夜は、民宿で顔合わせの宴会となった。
 この民宿で長期に滞在しているのは、初老の男性、初老の女性それに若い女性の計3人である。
 初老の女性は関西弁で話す。彼女は、ここは物価がやすいので暮らしやすいと話した。
 ここの豆腐は、かたいのが特徴である。そのためチャンプルという炒め料理にも豆腐はつかわれる。かたいので形くずれしないのである。
 それに酒は泡盛。「八重泉」という銘柄がここではいちばん人気だという。


日本最南端・波照間島

日本最南端・波照間島の海

 波照間島行きの高速船に乗る。
 この島に行くのにフェリーがないので、バイクは持ちこめない。
 また、バイクを持ちこむまでもない小さな島なのできょうは日帰りする。
 この船は、時速70キロほどの速さで突っ走る。
 波の上をバタン、バタンと海面を叩きながらすすむので上下運動がはげしい。

 そのためだろう40分ほどで船酔いしたらしく、気分がわるくなってきた。
 ムカムカしてきた、戻しそうだ。
 帰りもこの高速艇に乗るのかとおもうと、気がおもくなった。
 やがて、波照間島がみえてきた。
 この島には、山は見えない。ということは海の上に皿を伏せたような形をしている島なのである。

 波照間島についた。
 2年前、本土からここに移り住んできた若夫婦がいた。
 ふたりは、民家を借りてレンタルバイク、レンタルサイクルの営業をしている。
 この若いふたりに乾杯!

 ここで自転車をかりて、島を散策する。
 この島は、集落が島の中央部にかたまっているだけで海岸付近には民家はない。海岸にあるのは船着場だけである。
 むかし、高波で海岸付近の建物はすべて波にさらわれるという災害に遭ったという。
 それ以来、集落は台地となっている島の中央部にだけ建てられたという。この島は、災害から住宅の立地条件を学んでいる。
 むかしながらの赤瓦の民家は、さんご礁の石をつみあげた塀にかこまれている。
 ここは台風銀座なので、石の塀は風除けのためにつくられたものらしい。
 石垣の門から先に、これも石垣のみじかい塀が必ずあるのがこのあたりの民家の特徴といえる。
 これは、目隠しだという。

 ここには、ゆっくりとした時間がながれている。
 おばあーたちが、道端にすわりこんで草をとっていた。
 その草とりの道具が、めずらしい。
 なが年使い込まれたその「てこ」とよばれる道具は、手になじむように指にあたる部分がすり減っている。
 そして、手の脂(あぶら)がしみこんで、ひかっていた。

 そのおばあーたちに聞いてみると、むかしはこの島でも米をつくっていたという。
 ところが、島には山がないので谷から水を引くということができない。もっぱら水は天からのもらい水の雨頼みだった。そこで日照がつづくと稲は枯れてしまって凶作となる年があった。
 そこで、雨に頼らないですむ畑作に切り替えた。そこで浮上したのが砂糖の原料となるサトウキビである。
 いまでは、この島の基幹産業はいうまでもなくサトウキビである。

 赤瓦の屋根に、めずらしいシーサーが乗っていた。
 どこにもあるシーサーは、狛犬のように前足をきちんとそろえて座っているのがふつうだが、そのシーサーは、両手で腹をかかえ、口を大きくあけて笑っている。
 シーサーの哄笑(こうしょう)がきこえるようだ。


西表島(いりおもてじま)

由布島の馬車

 きょうは石垣港から貨客船に乗って、西表島の上原港にいく。
 この航路には、フェリーはなく、貨客船があるだけである。
 フェリーに乗るようなお客がいないので、採算が合わないのだろう。
 西表島がみえてきた。この島は高い山がそびえている。

 あとでわかったのだが、上原港は西表島の最北端に位置する。島に渡ったらどうせ島を一周するのだから南の端の大原港行きに乗ればよかった。
 そうすれば所要時間もみじかく、それだけ船賃も安くてすんだからである。

 R40号を走っていて、前の車が急にハンドルを切ってなにかを避けた。
 道路の左側になにかいたのだろう。
 傍をとおりすぎるときみると、道路左端に大きなへびがいた。
 それは、青大将よりひとまわりもふたまわりも大きく、ながいヤツである。
 おお、ハブだ!

 ハブは、コブラとならぶ猛毒のへびである。
 よし、これを獲る。
 バイクをとめるのももどかしく、ガードレールを飛び越し、道路下に飛び降り、なにか道具をさがす。
 さいわい、棒ぎれがあった。
 ところが、こちらはハブより低いところにあるので、この形勢はこちらのほうが不利である。
 用心しながら、道路の端のコンクリートをたたいてハブを道路中央へ追いやる。

 ハブが、道路の反対方向をむいた。
 しめた! ハブが道路の中央部に寄った。
 こうなれば、こちらのものだ。

 ハブは棒にむかって鎌首をもちあげ、ピンク色の口を大きくあけて威嚇する。
 こちらは棒を持っているので、間合いはとれる。
 狙いをさだめてハブの頭をたたく。
 こちらもへっぴり腰なので、ハブの頭に命中しない。
 それでも何回目かに、ハブの頭にあたった手ごたえがした。
 ダメ押しに、ハブの頭が平たくなるまでたたいてとどめをさした。
 それでも、ハブの体はくねくねと動いている。

 前を走っていた車の運転手も駆けつけてきた。
 ハブを入れる物がないかときくと、土嚢(どのう)袋があるという。
 このなかにハブをいれ、口をくくってバイクのうしろに乗せ、キャンプ場へ急いだ。

 これも現地に行ってわかったのだが、西表島は島を一周する道路はできていなかった。
 島を時計にたとえれば、6時から9時までの間は道路が開かれていない。
 高い山が、開発をはばんでいるのだろう。
 それだけにこの島は、亜熱帯の自然がまだのこされているといえよう。


ふたたび石垣島へ

御神崎(おがんざき)灯台

 ミトレアキャンプ場で寝ていて、朝方テントを雨がたたく。
 きのうしとめたハブを、遠火で素焼きにする。
 こうすれば、保存がきく。
 雨がやまず、しかたなく雨のふるなかでテントをたたんだ。

 大原の港を午後1時30分発の石垣行きのフェリーにのる。
 このフェリーは、「かりゆし号」という貨客船である。
 貨物の運送が主で、乗客はおまけである。

 乗客は、甲板のうえの屋根だけある縁台にすわる。
 ところが、途中から豪雨になり、しかも風もでてきて、横なぐりの雨がふりこむ。
 とうとう壁ぎわまでしりぞいて雨をさける。
 しかも、海上は霧がでて、のろのろ運転を強(し)いられている。

 ようやく石垣についた。
 予定より、2時間も遅れている。
 このあたりの海上運航は、海の荒れぐあいで1時間2時間の遅れはいつものことらしい。

 石垣について、市役所の軒下でHPの更新をしたが、写真のアップができない。それでも文章だけはなんとかアップできた。
 スーパーで白ごはんを買ったが、ぱさぱさしていてとても食べられるものではなかった。
 外米(がいまい)かとおもった。

 暗くなるまでに、時間があるので御神崎(おがんざき)という岬にいった。
 岬のてっぺんに白い灯台が建っていて、そこに立つと眼下はみどりの草原とむき出しの荒々しい岩肌、その先にひろがるあおい海原、雄大な景色である。
 灯台の足元には野生のしろい鉄砲ユリが咲き乱れ、沖のほうは航路になっているらしく、とまっているような走りのしろい船体の大型船がみえた。


再会

 朝いちばんの船で沖縄にわたるので、金丸さんとふたりで港にいった。
 あとからツーリストのオートバイが2台きた。
 石垣から沖縄の那覇にむかうフェリー「飛龍21」に乗った。途中、このフェリーは宮古島に寄航した。
 船のうえから港をみおろすと、ライダーがふたり乗り込むのがみえた。
 ひとりの若者は、真っ黒に見事に日焼けしている。

 フェリーでは航行中は甲板に降りられないので、このさい甲板に置いているバイクの荷台のパソコンをとりだすために、階段を降りていく。
 その途中踊り場で、宮古から乗ってきたその日焼けした若者に会った。
 彼とすれちがうとき、以前どこかで一度会ったことあるとわかったが、それがだれだかとっさには思い出せなかった。

 去年の夏、オートバイで日本一周の旅の途中、新潟の「道の駅」で福岡県在住のライダーに会った。
 そのときの彼だ!
 名前は? 名前は本田君だったか? 
 エレベーターで上にのぼっていくかれに下から「本田君?」と声をかけたが、返事がなかったところから人ちがいだったのか。

 甲板に降りると、福岡県ナンバー400ccのヤマハSRがあった。
 やっぱり、かれだ。
 名前は? たしか谷口君といっていた。

 荷物をもって階段をかけのぼり、さらにエレベーターに乗ってのぼるとエレベーターの終点のところにかれが待っていた。
 かれも、こちらを思い出したようだ。
 がっちりと握手をかわす。8ヶ月ぶりの再会である。
 8ヶ月まえは、ほんとうに弱々しい感じの若者だったが、いまは自信にあふれたたくましい青年に成長している。
 かれの成長ぶりに目を見張った。旅がかれを成長させたのだろう。


男性天国

那覇市内辻町

 朝、沖縄に着いて金丸さんと別れた。
 早朝、那覇市内を散策する。
 那覇市内の辻町というところは、ソープランドが軒をならべている。ここは一大聖地である。
 その辻町を散策していたら、朝早いのに客引きにキャッチされた。
 どうやらここは、24時間営業しているらしい。
 遊郭跡は、数軒しかのこっていなかった。




ひめゆり祈念館

ひめゆりの塔

 ここに、「ひめゆりの塔」が建っている。
 塔といっても背丈ほどもない自然石がたっていて、その奥にガマの入口がみえる。
 ガマというのは、ほら穴である。沖縄はサンゴ礁が隆起してできた島なので、そのサンゴ礁が雨で侵蝕されると洞穴ができる。そのほら穴がガマとよばれている。
 そのガマが、戦争中は住民の避難場所になっていた。

 いよいよ日本の敗戦がこくなった昭和20年3月、日本は、本土決戦の準備をする時間をかせぐため沖縄を「捨石(すていし)」とした。
 つまり、沖縄は軍隊はもとより非戦闘員である住民も全滅しても仕方がないと決めたのである。
 いよいよ米軍のいっせい上陸が目の前にせまった。
 軍は、ガマに避難している島民をそこから追い出し、自分たちが居ずわるという暴挙にでた。

 沖縄も、国民総動員である。
 師範女子部と第1高女の生徒は、「ひめゆり隊」として看護婦の仕事をたすけた場所が、いま目のまえにあるガマの第三外科壕(ごう)である。
 本島に砲弾がとびかい、ひめゆり隊に解散命令がだされた。
 これは、ひめゆり隊は砲弾のとびかう戦場に放りだされたことを意味する。

 軍は、沖縄守備隊に対し米軍に降伏することを禁じ、最後まで徹底抗戦せよと命じた。
 住民にも一億火の玉となって米軍とたたかうことを命じ、投降することを禁じた。
 無責任きわまりないのは、この軍の体質にある。
 それまで住民を斥侯(せっこう)として使い、防空壕をつくるのに使役としてこきつかいながら、用がなくなれば戦場にほったらかし、守ろうとしないのである。

 沖縄に上陸した米軍のガス弾によって、このガマに残って負傷兵の手当てにあたっていたひめゆり隊80名が犠牲になった。
 これでわかるとおり、軍隊は国民をまもるものでない。
 軍隊は、軍隊をまもるだけである。
 米軍が上陸すると男たちは皆殺しにされ、若いおんなは胤(たね)をつけられると住民たちは軍から教育されていた。
 そして住民には、区長を介して軍からひとり2個ずつ手投げ弾を配られた。ひとつは敵にあったときこれで敵を攻撃するもので、のこるひとつは自決するとき使うものである。

 手投げ弾がまわってこず、母と妹と弟を手にかけたというひともいたというから、この世の地獄をみるおもいがする。
 これが、沖縄戦の集団自決といわれるものである。
 陳列されている写真のなかに、首に白い布をまいた幼いおんなの子がいる。これは集団自決で親に鎌で首を傷つけられときにできた傷である。
 さすがにわが子を手にかけるのをためらったのであろう、傷はあさく一命をとりとめている。
 しかし、親は死んでいる。

 さらに、くぼみで集団自決の写真があるが、凝視するに耐えないむごいものである。
 飛行隊員の腰に大きなコンクリートがロープでくくりつけられている写真がある。
 これは、途中で飛行機が落ちても、かならず溺れ死ぬようにしているのである。
 生きのこることは許されず、生きのこることはすなわち悪であった。
 死ぬことこそが、目的であった。
 まさに狂気の沙汰(さた)である。
 戦争は人間から人間性を奪い取ってしまい、あとは狂気が支配するというがそのとおりである。
 首里城付近の写真があるが、石垣とデイゴの幹だけがのこり、いちめんはまったくの焼け野原となっている。

 それでもこの戦争を主導したA級戦犯も英霊として靖国神社にまつられ、いまでも歴代首相に参拝させ、侵略されたアジア諸国の抗議をうけている。
 人間は戦争というものからなにも教訓を受けないのだろう。いまでも世界のどこかで不毛で、おろかな戦争をつづけている。
 ほんとうに、人類は進化したのだろうか?
 犠牲者の御霊(みたま)の安かれと祈らずにはいられなかった。


土帝君(どていくん)

土地の神様・土帝君(どていくん)

 土帝君とは、沖縄では土地の神さまのことをさす。
 ここ沖縄本島の西部に、瀬底島という小さな島がある。
 この島に、規模も大きく保存状態のいい土帝君がのこっていた。

 サンゴ礁を積みあげた塀にかこまれた神殿は二段になっていて、一段目に拝殿、二段目に本殿が建っている。
 建物の壁は白しっくいで、いかにも手づくりらしく、壁の縦の線は垂直ではなく、いくぶんまがっている。
 屋根は、奄美独特の方形づくり、赤い瓦の本葺きとなっている。
 毎年四月に一族がここにつどい、土地の神さまにお祈りの儀式をして、お互いの親睦と結束をふかめるのが慣わしになっているそうである。

 本部からフェリーに乗って、鹿児島にむかう。
 途中、徳之島からKeiちゃんが乗ってきて、奄美大島でおりた。
 かれは日本全国の性神をたずねる旅の途中で、これから奄美大島をたずねるという。


パンク修理の師匠は中学1年生

裕也君

 フェリーで鹿児島の新港についた。
 走りだした途端に後輪がガクンとパンクした。
 オートバイをとめてみると、大きな角の金属片が突きささっていた。
 さいわい、そんなに遠くないところにバイク屋さんがあるというので、そこまで押していく。

 ところが、あいにく店のご主人は、息子さんがオートバイのレースに出るため長野県までいっしょに遠征しているとのことで不在。
 それに、きょうは日曜日なのでどこのバイク屋も閉まっているだろう。
 こうなったら、自分でやるよりしかたがない。
 パンク修理については、自転車ではやったことがあるが、オートバイについてはしたことがない。
 自転車のときと同じようにすればいいと思ってとりかかかったら、この店の息子さんの裕也君という中学1年生がきていろいろ教えてくれた。

 かれのいうままに、まず後輪をはずす。
 そこへ奥さんがダンボールを持ってきて、その場に敷いてくれた。
 そのうえにはずした後輪をのせ、タイヤの部分を足でふんでビードを落とそうとすると、かれはそんなに強くふむとディスクローターが曲がってしまうという。
 なるほど、ディスクローターが曲がっては厄介なことにたいへんなことになる。

 つぎにタイヤレバーを差しこんでタイヤをはずそうとするが、これがうまくいかない。
 何回もやっているうち、なんとかタイヤがはずれた。
 チューブを引っ張りだすと、チューブが傷ついていた。

 その部分を紙やすりでこすって、ゴムのりをつけ、パッチを貼った。
 そのうえから、タイヤレバーの背でこすって圧を加えた。
 そこへ、この店の常連さんがきた。この方もいろいろ教えてくれ、加勢をしてくれた。
 つぎは、空気を入れタイヤにチューブをおさめる段になって、空気を入れるバルブがリムの孔に入らない。
 もう、汗だくである。
 それでもなんとか、はいった。

 最終段階であるタイヤを取りつけるのが、これまた慣れないとひと仕事である。
 ディスクローターがブレーキパットに当たったり、中心のカラーがはずれたりと、失敗の連続である。
 右足の甲にタイヤを乗せ、なんとかセットし、シャフトをとおして、後はチェーンの張り具合の調整である。
 かれは、チェーンの下から指でもちあげて、チェーンの張りぐあいを調べてくれた。
 父親のすることをみて、学んだのだろう。


廃村・小杉谷

小杉谷の軌道

 鹿児島からフェリーにのって、屋久島の宮之浦港についた。
 屋久島はほぼ円形をした島で、宮之浦港は時計でいえばちょうど1時のところにある。
 ここから時計回りに走ると3時のところに空港があり、そのちかくにライダーハウス「とまり木」があったので、ここを屋久島での活動の拠点とする。

 ゆうべ女将さんに頼んでいたにぎりめしを受けとって、小杉谷にむかう。
 50分ほど走って、荒川の登山口についた。ここはこの島の最高峰・宮之浦岳への登山口でもある。
 ここからトロッコの軌道をあるいていく。

 軌道の枕木の間隔に歩幅をあわせながら1時間ほどあるいて、鉄橋を渡って小杉谷についた。
 小杉谷は、大正12年に国が屋久杉の伐採の前線基地として事業所がひらいた。
 その後昭和28年、営林署の事業所として発足した。
 昭和35年ごろには、ここに商店、郵便局、共同浴場、支所の出張所、床屋もあり、133所帯、人口は540人もいたというから、ちょっとした村である。
 しかし、昭和45年に事業所が閉鎖となり、それとともに村も廃村となった。

 現在は、小杉谷小学校の校門、社宅跡の石垣、炊事場が当時の名残をとどめている。
 当時も走っていた営林署のトロッコと軌道は、現在も使われている。
 ここは、こんかいの旅でぜひおとずれたいとおもっていた所だけに、この地に立つと感慨もひとしおであった。

小杉谷小学校の校門 小杉谷橋


縄文杉

屋久島のシンボル・縄文杉

 きょうは、縄文杉に会いにいく。
 きのうきた小杉谷をすぎて、さらにトロッコ軌道を奥に歩き、分岐から屋久杉をめざして森のなかの急な上り坂をのぼる。

 途中、大きな杉を何本もみた。
 ここでは樹齢が1,000年を超えない杉は屋久杉とよばないというから、樹齢の尺度がちがうのだろう。
 やがて、展望台がこしらえられた下についた。
 木の階段をのぼると、縄文杉は傲然(ごうぜん)とわたしたちを見おろしていた。

 やや右斜めに立つ太い幹に、無数のこぶがあり、圧倒的迫力でこちらにせまってくる。
 樹齢は、2,500年とも7,000年ともいわれている。
 屋久島はひと月に40日も雨が降るといわれている雨の多いところである。その雨と気温が高いことが杉の成長を促すのだろう。
 その間、縄文杉は世のなかの有為転変をみてきたのか。

 縄文杉は、このこぶのため建築材に適さない。
 そのため切られずに生きのこり、現在では世界自然遺産・屋久島のシンボルとなっている。
 なにがさいわいし、なにが災いするかわからないのがこの世の中といえよう。


屋久島灯台

白亜の屋久島灯台

 雨のため、山登りをあきらめ、屋久島を一周する。
 島の時計でいえば9時のところにある白亜の灯台は、屋久島灯台である。

 切り石とレンガでできている。その形は、スペースシャトル・エンデバーに似ている。
 両脇に翼のあるロケットの形をした、左右対称の端正な建物である。
 そのロケットの翼にあたる部分は屋根であり、半円柱形になっている。
 だれが設計したのか、その造形美がすばらしい。

 島を一周していたら、野生のサルの群れが道路にでていた。
 ボス猿は、自分の群れを守るためだろう、みんなに体当たりして群れを人間から遠ざけた。
 そして、自分ひとりガードレールの上にすわってこちらを威嚇する。
 その毅然(きぜん)とした態度に、野性というものの本性をみる思いがした。

 サルの社会では、オスは女と子どもを外敵から守るということは太古の昔から遺伝子のなかに刷(す)り込まれてきているのだろう。それにひきかえ、人間はほんとうに進化したのだろうか?と考えさせられた。


太鼓岩(たいこいわ)

幻想的な屋久杉

 白谷雲水峡に入る。
 雨あがりの渓谷は、いちめんが白い霧におおわれていて幻想的なふんいきにつつまれていた。

 とにかくここの沢の岩は、とてつもなく大きな石灰岩である。
 巨岩の間の樋(とい)状の斜め滝を、奔流が音をたてて駆けくだっていく。

 頂上に近づくにつれて、霧もしだいに晴れてきた。
 樹林の間の登山道は、縦横無尽に露出した根の階段となっている。
 まるで生きもののようだ。
 それを手でつかみながら、のぼる。

 太鼓岩の露岩にのぼると、ここからのながめは絶景のひとことにつきる。
 眼下は、芽ぶきのはじまった太古の森。
 向こうの稜線に、双耳峰の宮之浦岳がそびえ、そのとなりに岩峰の翁岳もみえる。
 盟主・宮之浦岳の谷に、雪渓が午後のひかりを射返していた。


太忠岳

靴にとまって戯れるヤマガラ

 きのうのぼった太鼓岩から、向かいの山の稜線にローソクのような岩が立っているのがみえた。
 それが、太忠岳の頂上の巨岩だそうである。

 きょうは、その太忠岳に金丸さんとふたりで挑戦する。
 ヤクシマランドから太古の森に入って、巨木の杉のなかをのぼっていると、どこから飛んできたのか一羽のヤマガラが舞い降りてきて、こちらとたわむれはじめた。
 金丸さんが手にした杖にとまったり、あげくはこちらの肩に、靴にとまったりする。

 ヤマガラは、縁日でおみくじをひいていたあの小鳥である。
 この小鳥は好奇心がつよいので、いろいろ芸を仕込むとよくおぼえる。そのせいかむかしから飼い鳥として好まれてきた。
 おみくじをひくのも、その芸のひとつである。

 こんな山深いところで、これだけひとを怖がらないヤマガラがいるのかとおもうと、登山者がこの小鳥をいじめることがないことを願うだけである。
 ヤマガラは、こちらの靴の先にとまって首をかしげる。
 そのしぐさが、なんとも愛らしい。

 山の稜線に、キューピーの頭の形をした岩が立っていた。
 背面は、縦にスパッと切れ落ちている。
 その下に、その割れた片割れと思われる大岩が横たわっている。
 とても、自然のなした所作とはおもわれない。
 人工的に造ったかのようだ。


別れ

 金丸氏とは、沖縄発の石垣島行きのフェリーのなかで知り合った。
 石垣島では、相部屋となり5日間すごした。
 もちろん、お互い行きたいところはちがうし、趣味もちがうので日中は別々の行動をとる。
 お互い、他人の行動を拘束してはならない。
 そして、きょういっしょに沖縄にもどり、同じ宿に泊まった。
 その翌朝、かれと別れた。

 ところが屋久島の民宿にいるとき、一日遅れでかれもこの宿にやってきた。
 ここで、また5日間いっしょであった。
 そのうえ、太忠岳にもいっしょに登った。
 いわば、転戦してまわる「戦友」ともいえる。

 合計10間もいっしょにいると、情が移ってしまう。
 きょうは、こちらは朝方種子島にわたり、かれは午後から鹿児島にわたる。
 フェリーの出航前に、かれが見送りにきた。

 船が宮之浦港の岸壁をはなれるとき、涙がにじんできた。
 涙をみられないように、こちらはカメラをかまえ、風景を写すふりをした。
 かれの姿がみえなくなると、涙がでてきた。

 わかれの涙をながしたのは、いつ以来だろう。
 会者定離(えしゃじょうり)は平家物語のむかしから世のならいとはいえ、切ないものである。
 しかし、かれが夏には北海道で秘湯めぐりの案内をしてくれるというので、その日をたのしみにしている。


船どめ

 フェリー「太陽」が、種子島の玄関口・島間(しまま)港についた。
 どうもデジカメのコンパクトフラッシュを、ライダーハウスで落としてきてしまったようだ。
 いま乗ってきたフェリーは、一日一便なので船はあすしか来ない。
 フェリーの受付の女性にきくと、「船どめ」という制度があると教えてくれた。
 この「船どめ」というのは、屋久島からフェリーで運ばれてきた荷をこちらの受付があずかってくれるという仕組みだという。

 この受付の女性をみていると、相手の顔をみて誠実に話しをしている。
 相手の顔をみて話しをするというのは接客にかぎらず会話の基本であろうが、この基本ができない者が多いのが昨今である。
 この女性に、ふたりの小学生が寄り添っている。
 この親子、仲がいい。
 そこで、屋久島のライダーハウスに電話して、コンパクトフラッシュを船どめにしてもらうようお願いした。


スケボーの天才少年!

スケボーの天才少年!

 種子島にわたって種子島の第一印象は、意外と水田が多く、しかもひろいということである。
 この島は、沖縄と同じようにサンゴ礁が隆起してできた島で、特別高い山がないので早くから水田がひらかれたのであろう。
 それに亜熱帯という気候が稲作には適しており、二期作ができるのである。つまり、一年に2回稲刈りができるのである。
 田植えの終わった田んぼでは、株わかれした稲田が風に波うっていた。

 ゆるい下り坂をのんびりと走っていたら、スケボーがまえを走っていく。
 乗っているのは幼児のようである。
 ひざを曲げ、腰もまげて横向きになってじょうずにすべっていく。
 先のほうに、父親らしいひとが待っている。
 そこにつくと、幼児はくるっと反転してピタッととまった。
 とまりかたもマスターしている。
 きけば、この幼児はまだ4歳になったばかりだという。
 末おそろしいスケボー少年だ!


鉄砲伝来の地

 種子島といえば、鉄砲伝来の地として有名である。
 まず、その地である門倉岬にいってみる。
 この岬は種子島の最南端の地にあり、ここにはこの海岸に漂着したポルトガル船の実寸大のコンクリートの船が建っていた。
 ここは、展望台にもなっている。

 ここに立つと、南国の青い大海原がどこまでもひろがっている。
 この海岸に、ポルトガル船が漂着したのか。
 この漂着が、その後の日本の歴史を変えるとはだれが予想できたであろう。

 この漂着船のポルトガル人により、はじめて日本に鉄砲がつたわった。
 それは、従来の刀、槍それに弓をつかっての戦いを、個人戦から鉄砲をつかっての団体戦の時代への幕開けを告げるものであった。
 鉄砲の製造技術が、種子島から大阪堺へと伝わっていくことになった。
 これにいち早く目をつけたのが、織田信長である。
 信長は、この鉄砲で天下を統一した。
 つまり、鉄砲がその後の日本の歴史を変えていくことになったのである。


里親里子

仲のいい里子と里親

 屋久島のライダーハウス「とまり木」に、デジカメのコンパクトフラッシュを忘れてきたが、きょうは、そのコンパクトフラッシュが届く日である。
 その時間にフェリーの受付にいくと、きのうと同じようにふたりの小学生が受付の女性に寄り添っていた。
 船着場の男性が、「荷物がきょう届きますよ」という。
 よく、こちらのことを知っている。

 船がつくと、受付の女性と船着場の男性がフェリーから投げられたもやいロープを受けとり、もやいにかける仕事をする。
 そうか、ふたりは夫婦か。
 先ほどのふたりの小学生にきくと、宮崎県と兵庫県からきて山村留学生としてこの夫婦の里子になっているという。

 女性にきくと、自分たち夫婦の子どもは中1になったので山村留学生のふたりの小学生の里親をしているという。
 いま時分は、自分の子どもさえまともに育てることができない親が多い。
 それなのにひとさまの子をあずかり、育てることなど、なかなかまねのできることではない。
 いまどき、見あげた心がけである。

 それにしても、このふたりの小学生は、いい里親に恵まれたものである。
 来年の春、別れがつらいだろう。


トビウオ漁乗船

 湊という集落にある一軒のよろずやに立ち寄る。
 ここの主人がトビウオ漁にでるというので、いっしょに船に乗せてもらうことになった。
 漁場は、岸から100メートルほどの沖合。

 夕方7時、夜の帳(とばり)がおりるころ、深さ3メートル、長さ150メートルほどの建て網を船の艫(とも)から徐々に海に入れていく。
 網の張りかたは、岸と平行である。
 網の両端には、目印のため点滅するライトが浮き子につけている。

 一回目は失敗、獲物なし。
 2回目網をあげたら、9匹のトビウオがかかっていた。
 3回目には、2匹かかっていた。

 ここらあたりで、こちらは船酔いになった。
 気分がわるくなり、生あくびが何回もでる。気づかれないように、あくびをかみ殺す。
 引きあげる途中、船の集魚灯の明かりで海面すれすれに泳ぐトビウオのしろい姿が数匹みえた。
 すかさず網を入れたが、これはだめだった。
 大漁のときには、1回に400匹も獲れるときもあるという。
 しかし、そんなことはまれだそうだ。

 スーパーにいけば、簡単に魚を買うことができる。
 しかし、漁の現場のきびしさはあまり知られていない。
 生の漁の現場を見学することができ、貴重な体験をさせていただいた。


種子島の上庄司浦

上庄司浦の集落

 種子島を一周して、やっとふるい町並みをみつけた。
 ここは、島の東側にある上庄司浦の漁港の集落である。

 このふるい町並みの海側に、海を埋め立ててあらたに道路が開通している。
 そのため、旧道は開発からまぬがれた。
 窓には、板の雨戸が閉められている。
 外壁の板壁が風雨にさらされて、味わいのある色をしている。

 この風景は、北海道の礼文島や青森の龍飛の漁村風景に似ている。
 まったく人影はなく、ひっそりと静まり返った沈黙の世界がたたずんでいた。
 ときたま、イソヒヨドリのさえずりがひびいた。


北海道で出会ったライダー

 屋久島からフェリー「はいびすかす」に乗って、鹿児島新港についた。
 五月の連休には屋久島にどのくらいのライダーたちが行くのだろう? 
 フェリーの乗り場のある鹿児島南港の埠頭にいったら、バイクが10台ほど集まっていた。
 そのなかの若いライダーから声をかけられた。

 去年の8月、北海道の糠平(ぬかひら)温泉のライダーハウス「湯元館」という足湯でこちらと会ったという。
 こちらのバイクを見てすぐわかったのだ、と話す。
 これで、去年来再会したライダーは少なくとも3人となった。
 これでは、バイクに積んでいるコンテナの日本地図のトレードマークは変えられないことになりそうだ。


バイクの整備

 走行距離が、前のオイル交換から3,000キロを越えた。
 そこで、オイルを買ってきて、自分でオイル交換にチャレンジする。
 2リットル入りのペットボトル1個を用意し、四角の面のうち上になる面をカッターで切って開ける。
 これを廃油の受け皿にする。

 まず、廃油で地面を汚さないように新聞紙を二重に敷く。
 オイルのドレンナットをゆるめ、先につくったペットボトルの受け皿を下にすけて廃油をこのなかに落とす。
 廃油がたれるのがとまると、ドレンコックを締め、上から新しいオイルを注ぐ。
 最後に、廃油をオイルが入っていた缶に移し入れ、これはガソリンを入れるときガソリンスタンドにわたす。
 オイル交換すると、エンジン音まで、きれいになった気がする。

 わが家に帰るまで、これでオイル交換はもう必要ないだろう。
 数年先のアメリカ大陸横断決行まで、パンクの修理、オイル交換、チェーンの調整、タイヤ交換などバイクの基本的な修理、メンテナンスはマスターしておかなければならない。


Keiちゃんと待ち合わせ

じゅん坊

 鹿児島港に入港する船に奄美大島から乗ったKeiちゃんが乗っている。
 これから鹿児島新港にかれを迎えに行く。
 定刻に、フェリーはついた。

 かれに会うのは、4月21日以来である。
 ふたりで鹿児島中央駅前の朝市のテントのなかの鶏飯屋にいき、定食を食べながら台湾行きの計画を練った。
 台湾の旅行のベストシーズンは、4月か5月ごろだという。
 それでは、ことしは時機を逃がしてしまったことになる。
 台風シーズンだが、ことしの秋ごろに決行することをひとまず決めた。

 この鶏飯屋には、これで三度通ったことになる。
 知らない土地では、勝手知った店のほうが食べやすい。
 というのも、はじめての店では何を注文していいかわからないし、注文したものが口にあうとはかぎらないからだ。
 もっとも勝手知ったといっても、この店にかようのは今回の旅がはじめてである。
 店の奥の厨房では、風呂釜ほどもある大きさの蒸気釜で30羽という数の鶏がぐつぐつと煮られていた。


パンク修理用品の買い揃え

 Keiちゃんといっしょに鹿児島の南海部品にいき、パンク修理のときに必要な補助スタンド、空気入れを買った。
 さらに、あらたに予備のチューブも買った。
 これで、パンク修理に必要なものはすべて揃ったことになる。

 あとは、パンク修理の経験をつむことだろう。
 前回のパンクのとき、パッチを貼り終わり、チューブをおさめる段になってレバーでチューブを傷つけてまたパンクをさせてしまった。
 この失敗を繰り返してはならない。


枕崎

 これより、枕崎、坊津(ぼうのつ)をめざして出発した。
 枕崎は、かつお節の一大産地である。
 そこで、まず漁港にいってみる。

 時間が遅かったので、漁港の魚市場のせりは終わっていた。
 つぎに、かつお節をつくる町工場をたずねた。
 ゴム長にゴムの前かけをかけたおばちゃんたちが、水を打った工場でいそがしそうに立ち働いていた。
 こういう規模のちいさいかつお節工場が、ここには何軒もあるという。
 この工場の前には、サツマイモでつくる焼酎の工場もあった。ここはサツマイモの本場であり、いも焼酎の産地でもある。


坊津(ぼうのつ)

 坊津は、かつて中国との玄関口としてさかえた港町である。
 坊津のあるリアス式海岸は琉球、南方諸国にちかく、ふるくから伊勢の津、博多の那の津とならんで日本三津(さんしん)といわれた貿易港であった。
 ふるく飛鳥時代には、ここは遣唐使の発着港であったという。

 ところが時代が下がって江戸時代に入ると、幕府の鎖国政策により大陸との貿易は長崎の出島ひとつになった。
 その結果、坊津は歴史の表舞台から去っていった。
 これは表向きのことで、そのあともこの港を本拠地として大陸との密貿易がつづけられたのである。
 この私貿易は、倭寇としておそれられた。
 中国の明政府も、国是として自国の商人に対し私貿易を禁じていた。
 しかし、中国にも海りょう(かいりょう)という私貿易をおこなう商人がいたのである。
 したがって、東シナ海を舞台として倭寇とその海りょうがときに敵対し、ときに連繋(れんけい)したという。

 現在のこっている森 吉兵衛屋敷は、その造りの複雑なところから「密貿易屋敷」と伝えられている。
 森家は、代々「吉兵衛」を名のっており、なまこ壁の蔵とブロック大の切り石を積んだ塀から、抜け荷で活躍した当時をしのぶことができた。
 また、ここは唐の学僧、鑑真(がんじん)が上陸したところでもある。
 港に面した商店の前で、おとしよりが3人のんびりとひなたぼっこをしていた。

森 吉兵衛屋敷玄関 坊津の全景

ラジオに生出演

 午前7時、Keiちゃんとふたりでいるとき地元民放ラジオ「ポニーメイツ」のインタビューを受けた。
 日本一周中のふたりの、これからの行き先をめいめいが話す。

 この番組のなかで、クロマチックハーモニカで五輪真弓の「恋人よ」を生演奏した。
 バスツアーでは、こんな経験はできない。
 これも、また旅である。
 Keiちゃんとは、ここで北と南の生き別れとなった。

 かれとは、今年の秋に台湾を一周する計画をいまから練っている。
 台湾でバイクの旅をするには、どうも国際免許ではダメなようで、台湾独自の免許がいるみたいである。
 そのあたりのことを、もっと調べなければならない。
 知恵をあつめれば、きっとたのしいおもしろい旅ができることだろう。


ここが拉致(らち)現場だ!

拉致(らち)現場

 ここは、鹿児島県の吹上浜。
 ご存知、北朝鮮の拉致の現場である。

 吹上浜キャンプ場の行き止まりは海岸の松林のなかにあり、ロータリーになっている。
ここで市川修一さん(当時23歳)と増元るみ子さん(当時24歳)のふたりが、北朝鮮によって拉致された。

 ここにたたずむと、背筋がぞーとする。
 「現場100回」ということがよくいわれるが、現場に足をはこばないと実感はわきにくい。
 いまでも松林の木の陰に、北朝鮮の工作員が潜んでいるのでは? と感じられた。
 ここから海岸まで距離にして100メートル。
 夜陰にまぎれてゴムボートをこいできた工作員はここに上陸し、ふたりを麻の袋のなかに入れ、かついで海岸のボムボートに乗せたのであろう。

 このキャンプ場で寝袋に寝ていたら、そのまま担いで運ばれることだろう。
 工作員にとっては、人間を麻袋に入れる手間がはぶける。
 まさに猫に鰹節だ!

 海岸は、文字通りの白砂青松の浜が延々とつづき、波とたわむれるひと、釣りをするひとの姿がみえた。
 いまの若いひとは、こんな卑劣な国家犯罪がおこなわれたことも知らないのだろう。
 日本がアメリカと戦争したことさえ、「え、うそー」という者があるというからあきれかえる。
 どんなにむごい事件でも、歳月はこれを風化してしまい、ひとびとの記憶から消し去ってしまう。
 南国の太陽のもと、何ごともなかったように、白い砂浜に小波がよせては返していた。

(つづく)

HOMEに戻る 次回へ