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日本の原風景を求めて

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07年・夢職のオートバイ日本一周 ( 1/4 )

四国から本州、東北路へ


川之石(かわのいし)

 四国に上陸して、いきなりの雨だ。
 最初から今回の旅の前途が思いやられる。
 町のひとから、川之石という町にふるい町並みが残っているときいた。
 しかし、この川之石という地名は、あまりなじみがない。
 とにかく、そこをめざす。

 その川之石というところは、八幡浜の手前にあった。
 ここの地形は、時計でいえば8時のところだけ開口部のある入り江になっている。
 したがって、ここは天然の良港である。
 そのため、ここは船で客や荷物を運ぶ廻漕業(かいそうぎょう)がさかんとなり、このあたりの特産である櫨(はぜ)や蝋(ろう)の積出港として発展し、さらに大峰鉱山の銅の積出港としてにぎわった。

 その廻漕問屋の集中していたところは、雨井という地名の町であった。
 当時の船は発動機も備えた帆船すなわち機帆船であり、船主たちがここ雨井に軒をつらねていたのである。
 いまも、黒しっくいの大きな船主の邸宅がのこっている。
 ところが雨がいちだんとはげしくなったため、カメラを取り出すことができなかった。

 町なかを散策していて、白石和太郎洋館という建物があった。
 総二階建ての洋館は、黒しっくの壁に縦長の窓、その窓の上のアーチの彫刻、さらに柱の頭部には頭飾りがほどこされている。
 この建物は、白石紡績を興し財をなした白石和太郎が贅(ぜい)を尽くして建てた木造洋風建築である。
 戦後は、川之石ドレスメーカー女学院として利用されたという。


姫路の池ちゃん

 こんかいの旅で、はじめて会った長距離ライダー。
 かれは、ただいま日本一周中!!

 無事に日本一周が達成できますように。
 いく度か困難にぶつかることもあるだろうが、それにくじけずに目的を達してほしいとおもう。
 若いひとは、自分の可能性にどんどんチャレンジしてほしいものだ。


甲浦(かんのうら)

白浜の通り

 高知県の甲浦(かんのうら)には、昨年につづき今回もおとずれる。
 港をかこむふるい町並みを歩くと、こころがいやされるような気がするからだ。
 海に面してひしめきあう軒と軒、木造三階建ての旅館、洋館づくりの会社の事務所、水切り瓦のひさしがなん層もついた白壁、つながれた小舟群が旅情をさそう。

 港からR55と並行して走る土佐街道を南にむかうと、両側にむかしながらの街道筋のたたずまいがひっそりと息づいている町並みがあった。
 ここは、高知県安芸郡東洋町白浜である。
 この愛すべき町並みには、「ぶっちょう造り」といわれる建物が今もなん軒か残っている。
 間口4軒、奥行き3.5軒の切妻づくり平入、厨子(つし)二階建て、前面にぶっちょう造りとよばれる仕掛けがほどこされている。

 その仕掛けとは、「上みせ」「下みせ」とよばれる2枚の開閉式になった戸のことである。
 「上みせ」は、上方に跳ねあげれば明かり取りになり、そのうえ風通しもよくなる。
 「下みせ」は、下におろせば脚がでて縁台に早代わりするように細工されており、この上に商品をならべることもでき、イス代わりにして腰かけることもできる。
 つまり、「下みせ」は縁側(えんがわ)になるようにつくられている。


鮎つり名人

 徳島港からフェリーに乗って、紀伊水道を横切り対岸の和歌山へ渡る。
 港で、オートバイに釣竿をくくりつけたライダーがいた。
 かれは、埼玉の野口さん。

 かれは、あちこちの鮎つりで有名な川に友釣りに出かけるそうだ。
 それも、オートバイでだ。
 上には上があるものだと思った。


九度山(くどやま)の町並み

高野山慈尊院

 和歌山県に入った。
 九度山は、高野山の門前町としてさかえた町である。
 高野山とその参詣道ならびに熊野神社とその古道は、世界遺産に登録されている。
 高野山への表参道は、ここ九度山にある慈尊院から高野山大塔までの6里(24km)である。
 この表参道は、空海が開山のおリ木製の卒塔婆を建てて道しるべとした道である。
 それが朽ちたため、町石(ちょうせき)とよばれる高さ3mの石の標柱を1町ごとに建てられている。
 これは、町石道(まちいしみち)とよばれている。
 ちなみに、1町とは60間(109メートル)のことである。

 むかし弘法大師のご母堂様がわが子を慕ってここまできたが、高野山は女人禁制(にょにんきんせい)の聖地であったためここから先へは行けなかった。
 しかし、ここまでは女性でも来られたのである。
 それ以来慈尊院は奈良の室生寺とともに「女人高野」とよばれ、女性たちから親しまれてきた。


高野口(こうやぐち)の町並み

葛城館

 JR高野口駅前には、木造総三階建てのりっぱな旅館がそびえている。
 これは、葛城(かつらぎ)館。
 かつて高野山への参詣者でにぎわった旅館である。
 参詣者は、ここで一泊して翌朝早く高野山をめざしたそうだ。

 駅の売店のおばちゃんの話では、この駅は高野山への参詣者はもちろんのこと、それよりもメリヤス工場など紡績工場につとめる職工さんたちでごった返した時期が長くつづいたという。
 高野口は、かつて紡績の町としてさかえた町でもあったのだ。
 町並みを歩くと、ノコギリ屋根の工場跡がのこっていて、紡績でさかえたころを偲ぶことができた。


五條の町並み

橋本の町並み

 R24を北上して奈良県橋本市をおとずれた。
 ここは、高野山の参詣者が宿泊した町としてさかえたが、いまはふるい町並みは残っていないという。
 しかし、この先の五條に行けばふるいむかしながらの町並みが残っているときいた。
 そこで、さっそくその五條をめざす。

 五條は、伊勢街道と熊野街道の交差する交通の要衝である。
 現在は、R370とR168がここ五條で交差している。
 五條の新町というところに、江戸後期の町並みがそっくり残っていた。
 この通りは、新町通りとよばれている。

 通りの両側には、切妻づくりの本瓦葺き、厨子(つし)二階建て平入の建物がならんでおり、白しっくいの壁に額縁(がくぶち)のある虫籠窓(むしこまど)が多い。
 そのなかに、黒しっくいの壁に二重うだつのあがった建物もある。
 蓮子(れんじ)格子のある家が多く、犬が入ることを防ぐため竹で編んだ犬矢来(いぬやらい)のあるうちもある。
 とにかく、ここは江戸後期の町並みの意匠が凝縮されているようだ。

 町並みの中にある山田旅館という看板のかかった旅館で話をきいた。
 この通りの南側を流れる吉野川は、むかしは舟運(しょううん)のため多くの船が往来した川で、この宿はむかしは「筏宿(いかだやど)」であったという。
 銘木である吉野杉を筏(いかだ)に組んで、筏師がたくみに操りながら吉野川を下ってきたのであろう。
 そしてかれらが泊ったのが、ここ五條にあった筏宿である。
 もちろん、ここが商談の場であり、商談がまとまればおきまりの宴会がはじまったのである。

 ある日突然、この旅館に映画監督がおとずれ、この旅館が映画のイメージにぴったりなのでぜひお借りしたいと申し込んできたという。
 こちらに断る理由もないので貸したが、その間大忙しの一ヶ月であったとおかみさんはうれしそうに話す。
 その映画とは、「花影(はなかげ)」で、監督は河合勇人監督だという。
 当時のスナップ写真が、壁中いっぱいに貼られていた。

 町並みのはずれたところに、高架の鉄道と橋脚がのこっていた。
 地元のひとにきくと、五新鉄道の夢の跡だという。
 その鉄道とは、ここ五條から和歌山の新宮までを鉄道でむすぶという壮大な計画で、五條と新宮の頭文字をとって五新鉄道と名づけられた。
 その鉄道の建設がはじまったが、戦争のため一時中断をよぎなくされ、戦後再開されたものの、その後中止されてのままになっているという経緯がある。
 いわば、まぼろしの五新鉄道といえよう。

 五條市役所の建っているところに、五條代官所跡の碑が建っていた。
 この代官所を襲撃したのが天誅(てんちゅう)組であり、この事件は「天誅組の変」とよばれている。

 浦賀沖にペリーが黒船でやってきて、開国を求めるという有史以来最大の外圧があった。
 これが、日本人の民族意識にめざめるきっかけとなっていったのもうなづけることである。
 それによって「外敵を討つ」と意気込む攘夷(じょうい)か、それとも開国かをめぐり、保守派の佐幕派と改革派の倒幕派との間の主導権争いとも複雑にからんで対立が鮮明になっていった。

 大老となった彦根藩主・井伊直弼は、反対派の幕臣や諸藩士それに勤皇の志士たちの精神的支柱となっていた吉田松陰らを大量に処刑するという「安政の大獄」を断行した。
 これへの報復として水戸、薩摩藩士たちによる井伊直弼の暗殺事件いわゆる「桜田門外の変」へと発展し、血で血をあらう権力抗争が果てしなくくりひろげられていった。
 この桜田門外の変は、皮肉にも幕府の弱体化を露呈するところとなり、尊皇攘夷運動が日増しにはげしさをましていった。

 これに危機感をいだいた幕府は、幕藩体制の再建をはかるため公武合体策をうちだし、皇女・和宮をして将軍家への降嫁を朝廷へ申し立てた。
 当時朝廷では攘夷派が多数をしめており、攘夷祈願のため孝明(こうめい)天皇の大和行幸(ぎょうこう)をきめた。

 これに先だって天誅組の志士・吉村寅太郎、那須信吾らの土佐藩を脱藩した浪士たちは、幕府の直轄地であった大和五條の代官所を襲って代官を殺害し、ここに五條新政府をうちたて、倒幕ののろしをあげたのである。
 ところが、孝明天皇の大和行幸を事前に察知した薩摩、会津藩は、京都御所を包囲して武力で実権を掌握し、御所から長州藩を追放した。
 それとともに、尊攘派公卿(くぎょう)の急先鋒であった三条実美(さねとみ)ら七公卿も失脚し、京都を追われた。世にいう「七卿都落ち」である。
 これが、いわゆる「文久の政変」といわれるものである。

 文久の政変により、天誅組は大義名分を失うことになり、援軍として駆けつけてきた和歌山の十津川郷士とともに敗退をつづけ、とうとう東吉野にて全員討ち死にして果てた。
 これも明治維新の魁(さきがけ)となった事件であり、産みの苦しみのひとつといえよう。

 さらに翌7月、御所を追われた長州藩が形勢挽回のため京都に出兵、これを京都守護職の薩摩、会津連合が迎え撃ち、ふたたび長州勢を京都から追放した。
 これが、「蛤御門の変」である。
 これで長州藩は、朝廷への反逆者すなわち「朝敵」の汚名をかぶる事態になっていった。

新町通りの町並み 五新鉄道の夢の跡


橿原(かしはら)今井町の町並み

橿原今井町の町並み

 奈良県今井町は、一向宗本願寺の今井氏がひらいた寺内町(じないまち)である。
 寺内町とは、寺院の境内地にきずかれた集落をいい、これに対し寺町は城下町を防衛する目的で城下町の一画に寺を集中させたものをさす。
 ここは称念寺を中心として町割りがされ、町家が軒をならべている。

 今井町は、集落全体がまわりをぐるっと掘りにかこまれたいわゆる環濠集落で、東西600メートル南北310メートルもある城郭都市となっている。
 集落には9つの門があり、掘りにかかった木の橋で外部と通じている。
 この都市に、江戸時代には1,100軒、4千数百人が住んでおり、たいへんの賑わいだったという。
 幕府から「今井札」の発行が許可され、大名に貸しつけたというから豪商も出ていることがわかる。
 かつて「大和の金は今井に7分」と、はやりうたに歌われるほどの繁栄ぶりから寺内町と商業都市の性格をもあわせ持っていたことがうかがわれる。

 寺内町の性格上、自治が認められていた。
 すなわち、惣年寄のもとに六人の町年寄がおり、これらの合議制による自治が支配していたのである。

 今回西口から今井町に入ったのだが、その西口には今西家という城砦(じょうさい)のような建物がそびえていた。
 本瓦葺きに白しっくり壁の大きな建物は、筆頭惣年寄の役柄にふさわしい建物であろう。
 町並みは東西南北に道路が何本も通っているが、一本として集落をまっすぐに貫く道はない。
 これは、都市防衛のため、つまり、見通し、矢・鉄砲の射通しを防ぐためである。
 この集落の規模の大きさには、びっくりさせられた。


東海道五三次 島田宿

島田宿の町並み

 きょうは、浜松三ケ日のライダー金丸さんに案内してもらう。
 ここは、東海道五三次のひとつ島田宿である。
 島田宿にある大井川は、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれた東海道一の難所である。
 幕府は、江戸をまもるため大井川に橋をかけることを禁じ、わざと交通を遮断させたのである。
 特に「入り鉄砲に出女」をきびしく取り締まった。
 女とは、江戸に人質にとった大名たちの妻女たちのことである。
 この妻女たちに逃げ帰られては、江戸屋敷に大名たちの妻女を住まわせた意味がなくなり、謀反を起されるおそれがあるからである。
 このため幕府は主街道に関所をもうけて旅人を取り締まり、東海道の大井川にはあえて橋をかけさせなかった。

 ここには、大井川川越遺跡として川会所、札場、2番宿、3番宿などがのこっている。
 この川会所というのは川越業務を管理運営するもので、川庄屋のもとに年行事、添役、待川越、川越小頭などの役を置いていた。
 毎朝待川越が大井川に入り、水深を計ってその日の川越運賃をきめていたそうである。
 その運賃は水深によって決められ、客は川札というものを買ってそれを川越人足にわたす仕組みであった。
 東海道膝栗毛のなかには、弥次さん北さんがこの大井川を無事に渡りおえてお祝いをしたとあリ、当時の川越がいかに難儀であったかを知ることができる。
 芭蕉の
   さみだれの 空吹きおとせ 大井川
   馬方は しらじ時雨の 大井川
の句がのこされている。


秋葉(あきは)街道

秋葉神社の狛犬

 さらに、秋葉(あきは)街道をたどる。
 秋葉街道とは、火防(ひよけ)・火伏せの神の総本宮のある秋葉神社への参詣道である。
 街道は、南は掛川または浜松から北上し、天竜、佐久間、南信濃、飯田をへて高遠(たかとう)まで通じている。

 ここに鎮座している狛犬(こまいぬ)は、これまで各地で見てきた狛犬とはちょっとちがっている。
 まず素材が石でなく青銅できており、狛犬の足と首が長いのが特徴である。
 首を高くのばして周囲を睥睨(へいげい)する姿に、威厳というものが感じられる。


大平宿(おおだいらしゅく)

小大平宿の町並み

 大平宿は、今回の旅の目玉のひとつである。
 いつかテレビが、廃村になった宿場町のことを放映していたのを憶えている。
 それは、思い出せば大平宿のことであった。
 それで、ことしはぜひこの宿場をおとずれたいとおもっていた。

 木曽谷と伊那谷をむすぶのが、旧大平街道である。
 すなわち木曽路の妻籠宿と伊那街道の飯田をむすぶ旧大平街道の現在のR256の先で分かれて県道8号線を東進して飯田にむかっていったところに、大平宿という旧宿場があった。
 当時のここのなりわいは炭焼きだったが、生活様式の変化にともなって炭の需要がへり、それとともに山の中の村がどこでもかかえている過疎化の問題で、とうとう昭和45年廃村になっている。

 集落は、かつて37軒あったそうだが、2000年の大火などで建物は22軒にへっている。
 切妻づくりで平入、妻入が半々であり、いずれも勾配のゆるい柾目板(まさめいた)葺き、石置き屋根の堂々としたつくりである。
 外部からは二階建てのように見えるが、いずれも平屋で、内部は吹き抜けとなっている。
 その二階建ての床のように見えるのは、桁(けた)が梁(はり)の外側に飛び出ているからで、このような造りは「出桁造り」とよばれている。
 どの家も表側に前土間があり、いちどになん人もが床に腰掛けて靴を脱ぐことができるようになっている。
 建築年代は、明治中期と書いてあった。

大平宿の町並み 大平宿の町並み


秋葉街道 市野瀬

 金丸さんに別れを告げて、これからR152号を北上する。
 この街道を通っていて、市野瀬という集落にでた。
 この集落は、どの家もいずれもりっぱな蔵を持っている。
 その蔵の造りから、ここは養蚕がさかんな土地柄であったとすぐわかった。
 母屋も、りっぱなつくりである。
 とにかく、ここは豊かな集落であることがわかる。

 土地のひとから家に招き入れられた。
 その家で、自慢の大黒柱を見せてくれた。
 それは、1尺1寸もある黒光りのするケヤキの柱であった。
 信州伊那谷を旅して感じるのは、伊那谷は豊かな生活をしている土地であることである。
 そのひとは、ここのひとたちは文化も高いと話した。
 たとえば、集落のひとたちは食器でも高級なものを使っているという。

 ここ2,3日、右手の手首がはれて痛む。
 アクセルをひらくとき、手首をこねるからだろう。
 どうも腱鞘炎のようだ。


三州街道 小野宿

小野宿の町並み

 ここは、信州の三州街道にある小野宿である。
 小野宿は、R53号ぞいにある。
 この街道は、むかしは三河と信州松本をむすぶ三州街道、あるいは中馬街道、伊那街道ともよばれた。

 その中馬街道にそって流れる川は、「暴れ天竜」の異名をもつ天竜川である。
 天竜川は、その名前のとおり急流のため舟運(しょううん)の発達をこばんできた。
 そのため、もっぱら陸路を馬の背で荷物を運んだところから「中馬街道」とよばれるようになった。
 その荷役の仕事をしたのは、沿道の農民であった。

 もっとも、中馬になるには持ち馬の数が3頭以上など厳格な要件があり、だれでも中馬の仕事にありつけるわけではなかった。
 馬方ひとりが牛を5、6頭から10頭つれ、自分も数貫の荷を背中にかついで歩いたそうだ。
 駅宿から駅宿の間の荷物を運ぶのは継ぎ馬とよばれ、それから先はつぎの駅宿の馬が用いられた。
 これに対し、牛は忍耐づよい動物のため出発地から目的地まで通しで荷物を運んだ。
 長旅では牛を泊めるための牛小屋のある宿が必要になり、しだいに「牛宿」とよばれる牛も泊れる宿ができるようになった。

 現在、小野宿にはみごとな本棟造りの堂々たる建物が何軒ものこっている。
 目の前の建物は、この辺りの名主をつとめた民家で、本陣もかねていたという。
 間口10間半、奥行き8間もある切妻づくり妻入りで、石置き屋根の勾配が極端にゆるやかなのが特徴である。
 一階と二階部分の窓は出格子、太い胴差しと梁(はり)が化粧となっている。
 それをささえる束(つか)が、アクセントとなっている。
 破風の交わるところに、みごとな彫刻のほどこされた懸魚(げぎょ)がかかっている。
 そして、その上の棟の先端に大きな「すずめおどし」がのっていて、周囲を圧している。


高田の町並み

ガンギのある高田の町並み)

 越後高田は、北国街道の宿場町としてさかえた町である。
 北国街道は中仙道と北陸道をむすぶ街道で、中仙道の追分宿からわかれて小諸(こもろ)、上田、善光寺、越後高田をへて直江津で北陸道に合流する。
 ここ高田は、高田城の城下町としてもさかえている。
 駅前は、近代的なビルが建ちならび大きな地方都市の感じがする。

 高田は、さすがに豪雪地帯だけあってガンギのある町である。
 それに、家々には二階の屋根に上がるためのハシゴが一階の屋根に備えつけられている。
 あのハシゴをのぼって、二階の屋根にあがり、雪下ろしをするのだろう。
 雪国の生活というものは、こちらが想像するよりきびしいことを知る。

ガンギのある町並み ハシゴの見える町並み


荻の島(おぎのしま)

荻の島(おぎのしま)

 荻の島は、水田を取り囲むようにかやぶきの民家が建っている。
 その水田のひろさは、直径は200メートルくらいある。
 かやぶきの民家は、いずれも大型民家の曲り家で、寄棟づくりである。
 なかに空き家もあり、管理もたいへんだろうとおもえた。


カーナビ

 カーナビの調子が、いまいちよくない。
 パソコンでいうフリーズしてしまうのである。
 画面をタッピングしても、うんともすんともいわない。
 カーナビは、完全にコンピューターである。
 フリーズしたとき、パソコンならリセットボタンを押せば初期設定に戻るはずなのに、それが戻らない。

 どうしようもなく、クラリオンのお客様相談室に電話した。
 オンオフボタンを長く押せばいいというので、そのとおり長く押したらリセットできた。
 ところが、きょうは音声案内の途中、ブーという連続音が出てとまらない。
 オンオフを長く押して、やっと消えた。
 ところが、こんどはナビがでない。
「致命的な故障が…」という、メッセージが出た。
 なん回押しても、このメッセージが出る。
 これは、完全にソフトが重大なダメージを受けている。

 また、クラリオンのお客様相談室に電話した。
 相談室のチーフの湯本さんが相談に出てくれた。
 きのうの相手も湯本さんだった。
 症状を話すと、かれは同梱のDVDを入れて、情報を書き直せばいいという。
 ところが、こちらは旅先までDVDを持ってきていない。
 こちらの行き先である福島県のクラリオン営業所でソフトを入れなおしてもらいたいとお願いした。

 30分ほどして、かれから電話があった。
 郡山営業所で、新品と交換するように話がついたという。
 ソフトに、パグといわれる不具合はつきものである。
 世界一のマイクロソフトのソフトでもバグがあるのだから。
 問題は、その不具合にどう対処するかであろう。
 こちらが全国を旅している点を考慮して、こんかいの交換という措置になったのだろう。
 お客を第一に考えるクラリオンの対応は、豚肉を牛肉といつわって平気で売るご時世、その誠実な応対は感動ものである。


勢至堂(せいしどう)峠下の町並み

勢至堂峠下の通り

 勢至堂峠は、会津戦争のとき官軍が会津藩を攻めるため通った歴史の道である。
 ところが、その勢至堂峠にはむかしの町並みは残っていなかった。
 その峠の下の集落に、むかしながらの街道すじの面影をのこす町並みがあった。
 ここは、会津から茨城に通じる茨城街道の宿場町である。
 現在は、ルート294となっている。

 集落の町並みは曲り家の中門造りので、いずれも大型の民家である。
 切妻づくりの母屋に、直角に妻入りの玄関部が接続している堂々たる造りの民家群といえる。
 屋敷うちに大きな土蔵があり、このあたりも豊かな農村であることが伺われる。
 地元のお年寄りにきいたら、ここらあたりはみな負けず嫌いで、競って大きな家を建てたという。
 ここらあたりのひとは、見栄っ張りなのかもしれない。

 会津藩主・松平容保(かたもり)は、京都守護職として愚直なまでに幕府を最後まで守ってきた。
 ところが、最後の将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還すると、「勝てば官軍負ければ賊軍(ぞくぐん)」といわれるとおり会津藩は「賊軍」の汚名をきせられることとなった。
 奥州諸藩の「会津救解嘆願」もいれられず、新政府の武力制圧一辺倒のそのかたくなな態度に対する反感がいっそうたかまり、奥州越列藩同盟の結成へと発展し、内戦の様相を呈してきた。
 この勢至堂峠は、征討軍をむかえうつ会津軍の南の防御線であった。

 北越戦争で長岡藩をうちやぶったは征討軍、周辺の藩に対し兵力と軍費の供出を強(し)い、兵力をだんだん肥大させながら会津をめざして北進したのである。
 そして征討軍は会津藩の裏をかいて猪苗代湖の北東部から会津若松にせまり、母成峠(ぼなりとうげ)ではげしい攻防戦がつづいた。
 やがてこの防衛線を突破した征討軍は、会津城下に押し寄せた。
 このときまだ年端(としは)もいかない少年たちで結成された白虎隊は、援軍の要請を受けて南の戸ノ口原に出陣したが破れ、敗走して飯盛山(いいもりやま)に結集した。
 かれらは、城下にあがる白煙をみて城が落ちたと思い込み、もはやこれまでと自刃している。

 会津藩家老・西郷頼母(たのも)邸では、「これ以上戦いの手足まといになってなりませぬ」と一族の婦女子21人が自刃している。
 さらに、泰雲寺に避難していた内藤介右衛門と上田八郎右衛門のふた家族のすべて28人も集団自決している。
 そのとき幼い児の口には、お菓子が含まれていたという。
 なにも知らずにこのまま死んでいくわが子を不憫(ふびん)に思う親が、せめてお菓子をと子どもの口に含ませ、手にかけたのである。

 会津藩士の家庭の「ならぬものはならぬものです」という「什(じゅう)の掟(おきて)」とよばれる子弟の教育は、厳格であったことはいまでも語り草になっている。
 この「什(じゅう)の掟(おきて)」とは、
 1 年長者(としうえのひと)の言うことに背いてはなりませぬ
 2 年長者(としうえのひと)には御辞儀(おじぎ)をしなければなりませぬ
 3 虚言(うそ)をいう事はなりませぬ
 4 卑怯な振舞(ふるまい)をしてはなりませぬ
 5 弱い者をいじめてはなりませぬ
 6 戸外で物を食べてはなりませぬ
 7 戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
という厳格なもので、この教えから白虎隊がうまれたのも納得がいく。
 この掟は、いまでも十分に通用するものであり、むしろ新鮮ささえ感じられる。
 こういう厳格な教育が、いまの日本ではほとんどみられなくなった。
 いいわるいは別にして、親と子が友だちのような家庭が標準的な家庭になってしまった。

 昨今では、「なぜ、なぜね?」と理由を聞くのが当たり前になっている。
 しかし、これは人間の長い間の経験則からみちびかれた生活の知恵、処世訓で、理屈抜きにダメなのである。
 酒屋に立ち寄ったとき、そこに「ならむものはなりません」という銘柄の酒が売られているのをみて、思わず苦笑を誘われた。
 元社会党の委員長・土井たか子氏は「ダメのものはダメ」というのが口癖だったが、はたして会津の出だったのか?


喜多方(きたかた)

 雨のため、道の駅・「喜多の郷」に立ち寄った。
 ここで、横浜からきた男性と知り合った。
 かれは、気に入った風景を見つけるとそこにとどまって、スケッチして回っているという。
 その作品の一部を見せてもらったら、なかなかの腕前で、とくに右手に高くそびえる崖を描いた絵は圧巻ものであった。
 なかには、淡彩をほどこしたものも数枚あった。

 さらに、自分がたずねた場所をもとにして地図をつくっていた。
 これは手づくりの地図で、本人にとっても宝物になるだろう。
 雨が、この御仁にめぐりあわせてくれた。
 会うということは、時間と場所を同一にすることである。
 このようにひとは、偶然に会い、必然に別れていくのだろう。

 かれは、以前はデザイン関係の仕事をしていたが職場にコンピューターが導入されて、手書きのデザインが使えなくなってやめたという。
 いわば、コンピューターに駆逐された格好だ。
 かれは、「自分はアナログ人間だ」と自嘲的にいった。
 そのせいだろう、携帯電話も持っていないという。


八十里越、叶津(かのうづ)番所跡

八十里越、叶津番所跡

 ここは、会津叶津(かのうづ)にある叶津番所跡である。
 カヤぶき、中門造りの曲り家で、建てられたのは寛政10年(1643)というからすでに365年もたっていることになる。
 間口14.35軒、奥行き10.15軒もある堂々とした造りで、代々名主を勤めてきた長谷部家の住宅であったという。

 ここは、越後と南会津をむすぶ八十里越ただひとつの番所である。
 峠道は正確には八里の道程だが、そのけわしさからいつのまにか実際の十倍の「八十里越」とよばれるようになったという。
 ここにも、維新動乱期の足跡をみることができる。
 それは、風雲急を告げる「会津戦争」前である。
 新政府は、政府に素直にしたがう意思をあらわす藩に対しては兵隊と戦費の供出を強(し)い、反対や不服の意思をあらわす藩に対しては容赦なく武力で叩きつぶしていった。

 越後の小さな藩である長岡藩の家老・河井継之助(つぐのすけ)は、豪胆にも目付けと家来をひとりずつ連れただけで小千谷(おじや)にある征討軍の本営・慈眼寺をたずね、征討軍の軍監・岩村精一郎と会見した。
 かれは戦火から長岡をまもるため戦いを避けることを嘆願したが、岩村はかれを小藩の家老とあなどり、これを一蹴(いっしゅう)、会談は決裂した。
 かれは戦争は避けられないと判断し、奥州越列藩同盟に加盟するとともに藩主・水野忠計を八十里越で会津に避難させた。

 周辺の藩を制圧して兵力を肥大させながら北上する征討軍の前に、長岡城はついに陥落した。
 長岡城奪回に燃える継之助は、有事に備えて日本には3台しかないガトリング砲ではげしく反撃をしかけ、7月25日未明ついに城を奪い返した。
 ガトリング砲とは、円筒形にたばねた多数の銃身を回転させながら連続して弾丸を発射させることができる新式の機関銃である。
 ところが、この戦いでかれは足に銃弾をうけることになった。

 さらに征討軍には海と陸から援軍がきて、一気に猛反撃をかけてきたのである。
 とうとう城は持ちこたえられなくなり、かれは会津に向かったのである。
 このとき通ったのが、ここ八十里越である。
 かれは戸板に乗せられて峠を越え、「八十里越 腰抜け武士の 越す峠」と詠んで自分のふがいなさを軽蔑しあざ笑っている。
 かれは、この番所で一泊している。
 そして、かれはこのけがのためこの先の塩沢で亡くなっている。


新遠路の町並み

新遠路の町並み

 南会津郡をめぐると、いずれの農村も日本の原風景を見ているようで、すっかり会津の景色に魅入られてしまった。
 途中、雨に降られながら疾走中、はっとするような風景にめぐりあった。
 赤や青い鋼板の屋根の民家が、かたまってひとつの集落をつくっている。

 傾斜のある土地に山を背にして棚田とともに民家がひな壇状に数軒建っている。
 その立体的な景観は、現在の日本人が忘れてしまった風景のひとつだろう。
 その景色をながめていると、日本の原風景をみているようでなつかしさがこみ上げてきた。
 こんかいの旅でここはノーマークだったが、ここまでのところもっともすばらしい景色だとおもった。
 そばに「新遠路」という金山バスのバス停があり、ここは大沼郡金山町とわかった。


蔵の町・杉山の町並み

杉山の町並み

 喜多方の北方に、杉山という蔵の町があった。
 ふつう蔵というと、日本建築では防火の最たるもので、貴重品などは蔵の中に保管していた。
 ところがここ杉山の蔵は、「座敷蔵」といってお客の接待に使うための蔵も数棟ある。
 この蔵は、母屋に接続しており、道路側は堂々とした兜つくりとなっている。

 集落の長老の話によると、むかしはどのうちも見栄を張るのが当たり前で、競って大きな蔵を建てたという。
 今では、どこの家の蔵もたいてい入れるものがなく空っぽだという。
 それに蔵は課税評価額が高いので、若い者は泣いているとも言った。
 このあたりのひとは、見栄っ張りが多いのか、それとも競争心がつよいのか、おそらく両方だろう。


羽州街道 楢下宿(ならげしゅく)

七ヶ宿街道 楢下宿(ならげしゅく)

 この楢下宿(ならげしゅく)は、昭和35年ごろから全国的に吹き荒れた「生活改善運動」によって大半が壊された。
 その生活改善運動では、まず牛や馬が駆逐されていった。
 つぎに、台所の改善である。
 さらに、母屋の改築とつづいた。
 それによって、ことごとくふるい建物はとり壊されていった。
 ふるいものはすべて悪、とされたのである。

 これに反し、いまは商店街風になっているが、中仙道木曽路の妻籠(つまご)宿を保存するため立ち上がったひとたちは先見の目があったといわざるを得ない。
 妻籠宿は、現在では外国人が「ふるい時代の日本」を見るためにおおぜい押し寄せている。
 通りがかった地元のお年よりは、この宿場町ではふるい建物を修復しようにも、その元となる建物さえない、とこの楢下宿が保存されなかったことをくやしがっていた。

 写真を撮っていたら、原付に乗った主婦が追いかけてきて「九州からご苦労様です」と、わざわざお礼を言って、ビニールに入った夏みかんを持たせてくれた。
 こちらは好きでやっているだけで、なにもお礼を言われるようなことはしていない。
 しかし、よそから見に来てくれるのが、地元のひとにとってそれだけでもうれしいのだろう。


羽州街道 上山(かみのやま)

上山(かみのやま)宿のふるい旅館

 羽州街道の上山は、むかしは奥州を旅する人たちにとって桃源郷であったという。
 というのは、ここには温泉場があって、旅籠(はたご)の前で湯女(ゆな)が旅人の袖(そで)を引いたからである。

 その上山温泉をたずねた。
 市内には、足湯が3ヶ所ほどある。
 上山温泉発祥の地にある「鶴の休石」という足湯は、そのうちのひとつである。
 傷ついた鶴がこの温泉で脚の傷をいやしているのを村人が見つけて、温泉を発見したといわれている。

 市内と歩くと、ふるい旅館がのこっている。
 建てられたのは、二階の天井の丈から推(お)しはかって江戸の後期だと思われる。
 この旅館の前に立つと、湯女たちが旅人の袖をひくようすを想像したりもした。

 上山城の山手には、中門造りの曲り家の中級武士の屋敷がならんだ武家屋敷通りがある。
 また、その一角には藩校であった「明新館」の跡地がある。
 そこの案内板には、上山藩が藩士の子弟のほか庶民の子にも入学を許したと書かれており、藩の進取の気風が感じられた。
 下町はこぢんまりとした風情で、むかしの温泉場の面影をよくのこしていた。


バイキング料理

人気のバイキング料理

 山形県の道の駅・「村山」に立ち寄ると、角館からきたという秋田の旅人がいた。
 そこで、かれと旅の情報交換をする。
 知らないひとと道づれになり、お国自慢に花を咲かせるのも旅の楽しみにひとつである。

 かれは、全国の道の駅のスタンプラリーと城めぐりをしているという。
 そこへ地元のひとも加わって、話が盛り上がった。
 地元のひともこちらも同年輩で、お互い話があう。
 とくに地元のひとは、正義感のつよい御仁とお見受けした。

 ここの道の駅は、バイキング料理が大人気で、昼どきには行列ができるという。
 このバイキング料理というのは朝食もあり、小皿は350円で大皿は500円だという。
 ところが、ごはんを別の皿に盛るとこれは別料金になる。
 そこで350円の小皿にご飯を敷いて、おかずをその上にならべるのがコツだと地元の人が教えてくれた。
 なるほど、カレー方式で、おかずをならべるという奥の手を使うのだ。

 7時開店なので、それまで待って7時の開店と同時に入った。
 生来、食い意地が張っているので、教えられたとおりご飯を敷いて、そのうえにオカズをならべていく。
 おかずを、かなり盛った。
 これでは、食べすぎる。
 たぶん、昼飯は食べられないだろう。

 ここの店員さんは背の高い方で、175センチもあろうスタイルのいい方だった。
 彼女は、山形美人である。
 美人とご馳走は、相性がいい。
 みんなで彼女をひやかしながら、バイキング料理をおいしくいただいた。
 復路も、立ち寄らせてもらいたい。


自転車で日本一周

 自転車で日本一周の旅をしている男性にあった。
 かれは、東京に住んでいるひとで、東京から一路太平洋側を北上し、北海道をぐるりとまわっていま本州を日本海ぞいに南下しているという。

 年齢をおたずねすると、66歳だというから、たまげた。
 そのうえ、テントもなく寝袋ひとつで寝るというから筋金入りの剛の者である。
 こちらとは、根性がハナからちがう。
 かれに比べれば、バイクの旅など遊びだろう。


リンゴの王様「ふじ」のふるさと

藤崎の町並み

 弘前をすぎてR7を北上していたら、道路の左側にひときわ人目をひく大きな家があった。
 それは、入母屋造り、赤い鋼板屋根の大きな三階建である。
 すぐに左折してオートバイをとめる。
 それにしても大きな商家で、敷地に大きな土蔵も構えている。

 写真を撮っていて気づいたのだが、近所にもりっぱな土蔵が幾棟も建っている。
 どのうちも、土蔵を備えている。
 それに、いずれも敷地は一反くらいの広さがある。
 ここも、裕福な土地柄だとすぐわかった。

 地元のひとにきいてみると、ここらあたりはほとんどがリンゴ農家だという。
 リンゴの王様「ふじ」は、ここが発祥の地だと話す。
「ふじ」という銘柄は、ここ「藤崎」の藤をとって「ふじ」にしたにちがいない。
 応対に出た上品なご婦人は、ご息子が鹿児島に転勤になり、そこへ尋ねていったことがありますと言う。
 こちらが九州からきたというので、九州には特別な親しみを持っているのであろう。

 帰りしな、「旅の無事を祈って」といって、ちょうどいま自宅の前の八幡様のお祭りがあっているそうで、御神酒(ごじんしゅ)、リンゴジュース、お餅(もち)を差し入れしていただいた。
 たまたま立ち寄った行きずりの旅人に、親切にしてくれる。
 豊かな土地柄は、ひとをしてこころも豊かにするのだろうか。

 この集落をまわると、各戸とも敷地内に土蔵と自前の大きな選果場を持っている。
 家並みは、切妻づくりあり、むかしながらの赤い鋼板屋根の寄棟あり、とまちまちである。
 この集落をすぎると、いちめんはリンゴの畑である。
 なかには、すでに袋かけの終わった畑もあった。

♪リンゴーのふるさとはー北国ーの果てー
 うらうらとー山だにー抱かれーてー夢をみーたー
 あのころのー思い出ああーいまいずーこにー
 リンゴーのふるさとはー北国ーのー果てー

 美空ひばりの「津軽のふるさと」を口ずさんだ。


カッチョのある風景

カッチョのある風景

 カッチョというのは、つよい風を防ぐための板塀である。
 津軽半島の日本海側の磯松の家々は、そのカッチョにかこまれている。
 とにかく、ここは日本海から吹く風がつよい。
 それで、「風の町」ともいわれているくらいだ。


ゴールドウインのおふたり

 ゴールドウインに乗ったふたりが現れた。
 ふたりは、三河からきたライダーたち。
 うち一台は、三輪オートバイである。
 ふたりともオートバイに、無線のアンテナをつけている。
 お互い、走行中に連絡をしあうという。
 このふたりから、無線の操作のしかたについて指導を受けた。


天下の景勝・仏ヶ浦

仏ヶ浦

 風で浸食された、荒々しい白い岩肌の巨岩が聳(そび)え立つ。
 ここは、下北半島の日本海側。その名も、仏ヶ浦。
 冥界(めいかい)を髣髴(ほうふつ)とさせる特異な景観がつづく。

 自然のつくりだす力の前に、ただただおそれいる。
 ひとはこのような景色をみると、おのずから自然に対して謙虚な気持ちになるのかもしれない。

 ここは、水上勉の小説・「飢餓(きが)海峡」の舞台のひとつになっている。
「飢餓海峡」は、水上文学の最高峰だといっていいだろう。
 犯人役に三国錬太郎、これを追う刑事役に伴淳三郎、その他に高倉健、左幸子、沢村貞子というくせのある脇役をそろえた豪華キャストで映画化された。

 昭和22年、台風が青函連絡船・層雲丸をおそい、連絡船はあえなく転覆、多数の死者をだすという未曾有(みぞう)の海難事故となった。
 その晩、函館の質屋に強盗に入った三人組が寝ていた家人の三人を殺し金品を奪うという強盗殺人事件が発生した。

 連絡船の転覆という混乱に乗じて、ボートで津軽海峡をわたる犯人の三人組。
 そのうちのひとりが、仲間ふたりをころして大金を独り占めにする。

 その奪った大金で京都で会社をおこし、その事業で成功し、いまは篤志家(とくしか)になった犯人。
 その事件を執拗に追うひとりの老刑事。
 第二の殺人事件の発生。
 事件を追う刑事は、青森の下北半島や東京へ飛ぶ。
 スリリングに展開する筋には、息をもつかせない緊迫感がある。
 その小説をなん回も読み返したことを思い出す。

 ここが、その舞台か。
 犯人は、漕いできたボートをここの岩場で砕き、燃やしているのだ。
 こうやって奇岩を仰ぎ見ると、感慨もひとしおなものがある。


大間のおんなたち

昆布拾いをするおんなたち

 大間は、巨大マグロの一本釣り漁の町として、毎年正月番組に登場して全国にその名をとどろかせている。
 とくに、ことしは渡哲也が主演して、マグロ漁師になった番組が話題になった。

 朝はやく海岸を散策すると、大間のおんなたちが海に腰まで入って、流れてきたコンブ、テングサ採りをしていた。
 胸のところまである胴長のズボンをはき、手にゴム手袋をし、麦わら帽子をかぶってその上からスカーフを巻いている。
 ことしは、トコロテンになるテングサが豊作だという。

 ここのところ、風がつよく海がシケて漁に出られないそうだ。
 そのかわり、シケたおかげでコンブ、テングサが浜に流れつく。
 それを拾って、乾かすのである。

 しかし、お盆をすぎると、大間はもう寒くなるという。
 そのときは、潮が引けば夜間、明かりをもってタコを獲るという。
 おんなのひとりが、「あったけえところさ、住みてえ」といった。
 しかし、もうひとりが「ここも住めば都だベ」と笑いながらいった。
 とにかく、大間のおんなは朝早くからよく働く。

 こどもたちは、都会へ出て行ったそうだ。
 「じいちゃん、ばあちゃんしかいねが、海さへえればなにか採れで、食っていくには困らね」
 と本音とも気休めともとれることを話した。
 いずこも、すめば都なのだろう。


宮崎の夫婦

 宮崎ナンバーのキャンピングカーとあったので、声をかけた。
 ふたりは宮崎県のご夫婦で、北海道には1ヶ月ほど滞在したという。
 これから南下するのだそうだ。
 そこで、ふたりに北海道の旅の情報をきく。
 情報は、新しいものほどよく、それも体験したひとから直接きくにかぎる。

(つづく)

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