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08年 日本の原風景を求めて

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08年・夢職のオートバイ日本一周 ( 1/2)

近畿、東北路へ


大阪、岸和田の町並み

紀州街道

 オートバイでの事故から一ヶ月間入院療養し、やがて身体も癒(い)えたので、ことしも全国のふるい町並みをたずねる旅に出る。
 きのうの午後、北九州の新門司から阪九フェリーに乗り、けさ早朝大阪の泉大津についた。
 フェリーから降りると、そこは無機質な倉庫のつらなる埋め立て地の感がする。
 高架になった高速道路の上を、大型トラックが轟音(ごうおん)を発しながら突っ走っている。
 付近に人家はなく、人影もない。
 これはとんでもないところに来たと不安になり、このままフェリーで引き返そうか弱気になった。

 それでも気を取り直し、先日届いたばかりのナビをセットする。
 このナビは、届いて一日だけ試験的に使っただけで、使い方がまだよくわからない。
 去年買ったナビは、使って3日目でフリーズし、まったくものの役に立たなかった。
 まず、行き先を岸和田にセットし、そちらにむかう。
 岸和田といえば、「だんじり」と野球の清原選手の出身地として知られている。
 その岸和田には、大阪と和歌山をむすぶ紀州街道があるはずだ。
 ナビに導かれて、「だんじり会館」のある岸和田市役所前についた。

 本町に歴史的町並みとして紀州街道筋にふるい町並みが600メートルにわたって残っている。
 町並みは、切妻づくり平入りが多く、厨子(つし)二階、虫籠窓(むしこまど)、袖壁もところどころ見られ、江戸後期に建てられたものであることがわかり、その後、部分的に改築がなされながら現在にいたっている。


大阪、富田林(とんだばやし)の町並み

富田林(とんだばやし)の町並み

 大阪の富田林には、伝統的建造物群保存地区に選定されている町並みがある。
 そこは、富田林寺の寺内町(じないまち)である。
 ここは、全国でもめずらしい宗教自治都市として発展をとげた。
 すなわち一向宗興正寺(こうしょうじ)を中心とする自治の宗教都市であった。
 町並みは、切妻づくり、入母屋づくり、平入り、妻入とまちまちで、いずれも白しっくいの壁に板を張った蔵づくりとなっている。
 なかには屋根に煙出しのある町家も多く見られる。
 とにかく町並みは、町割りがすっきりしていてゴミひとつない。

 家の前の道路に水をまいているご婦人がいたので、「きれいな町ですね」と声をかけた。
 すると、その方は「そうですか、ここに住んでいるのできれいと感じませんが」と話した。
 自治や宗教が、住んでいる自分たちの町をきれいにしょうという規範意識になっているのだろう。


奈良、洞泉寺(とうせんどう)遊廓跡

洞泉寺(とうせんどう)遊廓跡

 當麻(とうま)、高取、名柄(ながら)、太子町と奈良をめぐり、きょうの最後は大和郡山。
 ここには郡山の遊廓を代表する洞泉寺(とうせんどう)遊廓跡があるという。
 さっそく、そこをさがす。
 それは、JR郡山駅の裏側にあった。

 洞泉寺(とうせんどう)というお寺の参道がそれである。
 なるほど木造総三階建ての堂々としたそれらしい建物が5棟ほどのこっている。
 いずれも表側は、全面が格子になっている。
 屋根は切妻づくりであったり、入母屋づくりであるが、遊廓特有の唐破風(からはふ)の玄関はない。
 ここらあたりでは元々そういう玄関はなかったのか、それともあったのだが取り壊されたのかはわからない。
 現在ひとが住んでいるので、早急には取り壊されることはないだろうと安堵した。


姫路の池ちゃん

 こんかいの旅で、はじめて会った長距離ライダー。
 かれは、ただいま日本一周中!!

 無事に日本一周が達成できますように。
 いく度か困難にぶつかることもあるだろうが、それにくじけず目的を達成してほしいと思う。
 若いひとは、自分の可能性にどんどんチャレンジしてほしいものだ。


あっ、パンクしている!

 国道23号線を静岡に向って北上中、どうも後輪の様子がおかしい。
 パンクして、空気が減ってきたらしい。
 ところが、この道路は片側二車線だが大型トラックが多く、路肩にはガードレールがあってオートバイを押していくには道幅がせますぎる。
 しかたなく、そのまま交差点のあるところまで運転していくしかない。
 やっと脇道があったのでそこでオートバイをとめたら、やはり後輪がパンクしていた。
 道路の少し広いところまで押していき、オートバイをとめ、荷物の入ったパニラケース、コンテナを下ろす。
 パンクの修理をしなければならない。

 まず、後輪を外す。
 この場合、タイヤに刺さった釘をさがすのが先決だろう。
 タイヤの外側を手のひらでなぜながら、慎重に釘をさがしたがどうしても見つからない。
 タイヤを外してチューブを取り出し、タイヤの内側を素手でさぐっても釘がわからない。
 新しいチューブをもってきているので、これと交換する。
 ポンプで空気を入れるが、タイヤの圧があがらない。
 タイヤを組むとき、新しいチューブをタイヤレバーで傷つけてパンクさせたのだろう。
 こんな失敗は、前にもあった。

 ふたたび後輪を外し、ホイールからタイヤを外し、中のチューブを引っ張り出す。
 慎重にパンクの個所をさがすのだが、その個所が見つからない。
 やはり、チューブに空気を入れて水の中に沈めないとパンクの個所をみつけられないようだ。
 ところが洗面器をもってきていないので、水を使ってのパンク個所の発見は無理だ。

 ガソリンスタンドまでオートバイを押してゆく。
 ところが、そのスタンドでは二輪のパンク修理はできないと断られた。
 では、自分でやるほかない。
 スタンドの水を使わせてもらって、水の入った水槽の中に空気の入ったチューブを沈めると空気がもれている個所がわかった。

 同じ所に傷が二個あるところから、これはタイヤを組むときに自分がタイヤレバーで傷つけたことがわかった。
 なんということだ、前の失敗が生かされていない。
 こんなとき、いつも自己嫌悪に陥ってしまう。
 やっとのことパッチを貼ってパンクの修理を終え、タイヤを組み込んだ。
 念のためタイヤに空気を入れて水槽に沈めたら、小さな泡がときどき出ている。
 これは、どこか別にパンクさせている。

 みたびチューブを引き抜き、小さなパンクにもパッチを貼った。
 これでよし。
 ところが、こんどはタイヤがどうしてもはまらない。
 これで、万事休した。
 ホンダロードサービスに電話して助けを求めた。

 駆けつけてきた若い兄ちゃんは、シャフトのカラーを左右逆にしているからだという。
 こっちが逆上していたので、冷静に判断する能力がなくなっていたのだろう。

 その後バイクショップでパンクの修理をしてもらったら、後輪に折れた木綿針がささっていたとそれを見せられた。
 これで、半日棒にふってしまった。
 パンク修理はライダーとして最低限マスターしていなければならない技術で、釘を抜くニッパも必要なことがわかった。


中仙道木曽路−宿場町めぐり−1

大桑村野尻宿

 中仙道木曽路に入った。
 この先、大桑村野尻宿、木祖村薮原宿、木曽福島宿、奈良井(ならい)宿、木曽平沢宿、塩尻本山宿、洗馬(せば)宿、郷原宿、稲荷山(いなりやま)宿をめぐる予定である。

野尻宿の町並

 二階の屋根の庇(ひさし)が長いのが、木曽路の特徴であろう。
 そして下屋庇を二階の庇から吊っている。
 こうやっているのは、庇を下から柱で支えるとなると柱が邪魔になって下屋庇の下の空間の使い勝手がわるくなるからであろう。


木祖村薮原(やぶはら)宿

 下屋庇の屋根は、わいた板で葺いている。
 その板を上から押さえているのは、「猿頭」という垂木(たるき)である。
 その板の重なったところを上から抑えている垂木の格好が、ちょうど猿の頭に似ているところからこういう呼び名が付けられそうである。
 その板は、雨につよく、雨にぬれても腐(くされ)にくい栗の厚板でできている。


木曾福島宿

木曾福島宿の町並み

 いままで何回も木曽路にきているというのに、この宿場町は、はじめての訪問である。
 国道から坂道をのぼった「上の段」という地区が、中仙道の木曽路である。
 坂道があったり、路をわざとまげて枡形(ますがた)をつくっているのは、敵の直進をさまたげ、勢いを削ぐというという軍事上の目的のためにつくられている。
 こういう枡形(ますがた)は、全国にはいくつもみられる。

 ここは水が豊富で、水をいったん桶にためて出す水場がいくつもある。
 木曾御嶽山系に降った雨が川を満たし、その川の水を引いてきているのである。
 むかしは、この水が各家庭の簡易水道となったり、井戸端会議の場をも提供してきた。
 また旅人の喉(のど)を潤(うるお)したのであろう。


奈良井(ならい)宿の町並み

奈良井(ならい)宿の町並み

 ここは、これで三度目の訪問だ。
 何回きてもここはすばらしいのひとことに尽きる。
 おそらく、文句なしに宿場町では東海道鈴鹿の関宿をおさえてその規模、ふるさ、保存状態からいって日本一だろう。
 ここでは、いつでも水戸黄門の撮影ができる環境にある。

中仙道木曽路、宿場めぐり-2

稲荷山(いなりやま)宿

姨捨(おばすて)から見る千曲平野

 きのうに引きつづき、きょうも中仙道木曽路の宿場町をめぐる。
 きょうの予定は、小布施(おぶせ)宿、茂田井(もたい)宿、望月(もちづき)宿、塩名田(しおなだ)宿、それに善光寺参りをすることである。
 その前に、きのう時間切れになった稲荷山(いなりやま)宿にもどる。

 きのう国道403号線を走って聖湖をへて姨捨(おばすて)の下り坂に差しかかったところで視界がパッと開け、展望のきく場所にでた。
 ここにオートバイをとめてながめると、眼下は千曲川がゆったりと蛇行して北にのび、川面が白く光っていた。
 その川をかこむ平野の眺めは、雄大のひとことにつきる。

 稲荷山宿は、稲荷山郵便局から千曲川にかかる橋までの間の上八日町がメーンストリートである。
 この通りに、呉服商、麹屋(こうじや)、造り酒屋のふるい建物がのこっている。
 これらは、大きな箱棟のあがった屋根で、軒裏まで白しっくいを塗り込んだ数段の蛇腹(じゃばら)軒となっており、重厚な建物である。

 この国道403号線から一歩入ると、しっくいの剥げた繭蔵(まゆくら)が何棟もみられるところから、ここらあたりは養蚕の盛んなところであったことがうかがえる。
 これらは、いまは手を入れるひともなく、荒れるにまかせているようだ。


川上犬

川上犬

 道の駅・浅科(あさしな)に立ち寄った際、小犬をつれているお年寄りに会った。
 この方と話をしているうち、その小犬は「川上犬」ということがわかった。
 川上犬とは、長野県佐久群川上村にふるくから伝わる小型の純粋の日本犬だそうで、そのことを最近新聞で知ったばかりである。
 こちらもイノシシの単独猟をしていた関係で、とくに日本犬の猟犬には興味がわく。
 なんでも川上犬は二ホンオオカミと交配してつくられた、という伝承があるのでなおさらのことである。

 川上犬は中型の日本犬といわれるが、標準体重が10キロといわれるからむしろ小型犬に分類するのが妥当であろう。
 川上犬は一時絶滅しかけたが、保存会ができて保存につとめ、いまでは県の天然記念物に指定されているそうだ。
 この犬は本来は狩猟犬であるも、小型のため数頭をひとつのパックにして猟で使われるとのことであった。

 さらに、このあたり佐久浅科(あさしな)は粘土質の土壌のためおいしい米がとれるという。
 おいしい米の産地のため、ここでは休耕はないとのことであった。
 そういえば、このあたりでは休耕田は見かけなかった。
 しかし、かれは「ことしは昼間の温度が上がらず、米の収穫に影響がなければいいが」と心配そうに話した。


塩名田(しおなだ)宿

塩名田(しおなだ)宿

 この宿場町は、千曲川の右岸に位置し、ここが北佐久郡の中心にあることから交通の要衝として発展をとげた。
 それとともに養蚕工場、呉服商、酒屋などが集まり、しだいに町並みを形づくっていった。
 昭和6年に千曲川にかかる木の橋が鉄の橋に架け替えられた。
 その際、橋の取り付けの地盤がかさ上げされた。
 そこで、宿場町の二階建ての建物が、四階建てに建て増しされ、橋に通じる道路から直接出入りできるようになったのである。
 現在残っている四階建ての建物の多くは、華街であった。
 ここでは、三味線の音が絶えることはなかったそうである。


群馬県、信州姫街道

南牧村観能

 空模様がおかしいが、これより国道254号線を通って群馬県に入る。
 内山トンネルに近づくと、道路が濡れていた。
 たぶん、県境越えは雨だろう。
 それでも行かねばならないのが、旅人のつらいといえばつらいところだ。
 予想どおり、峠の手前で雨になった。
 そこで、雨合羽をはおる。
 そばを大型トラックが水しぶきをあげて通り過ぎていく。

 群馬県に入って最初におとずれたのは、下仁田本宿(ほんじゅく)である。
 雨にけむる宿場町は、黒色を基調としたしずかなたたずまいをしていた。
 町並みに、大きな商家はないようである。
 それでも、ここらあたりの特徴である出し梁(はり)づくりの建物が目につく。
 バルコニーのある民家もあって、養蚕のさかんなところであったことを伝えている。

 ここは、「信州姫街道」。
 信州姫街道は、中仙道本庄宿から分かれて上州の藤岡から、富岡、下仁田、南牧村と縫って信州にいたる脇街道である。
 姫街道といえば、東海道の浜松の浜名湖の北岸を通るルートもこういう名前のつく街道であった。
そこと区別するため、ここは「信州姫街道」とよばれるのだろう。

 「姫街道」とよばれるのは、主として婦女子が好んで通ったからこういう名前がついた。
 この街道が「姫街道」と呼ばれるようになったのは、ひとつには中仙道横川宿が「入り鉄砲に出女」といわれるように鉄砲と女人の取締りがとくにきびしかったこと、ここは碓氷峠(うすいとうげ)のように道がけわしくなかったこと、さらにこの街道は善光寺参りの女性たちに人気があったからである。

 下仁田から県道45号線、県道33号線と雨のなかを行く。
 ここらあたりは、群馬県南牧(なんもく)村。
 南牧川に沿った県道はやがて細くなり、砥沢宿、つぎに観能(かんのう)の集落があり、 いちばん奧の長野県との県境の集落が馬坂の集落である。

 砥沢宿は、戸数の少ない谷間のちいさな集落である。
 したがって宿場町としては規模もちいさく、宿場町としての面影もあまりのこっていないようだ。

 つぎの観能(かんのう)の集落は、南牧川をはさんで向こう岸の左岸に雛壇(ひなだん)状にバルコニー式の建物が建っている。
 このバルコニー式の建物は、養蚕の名残である。

 ここらあたりは、水田はまったくない。
 山のふもとに、家のまわりに少しだけ段々畑があるだけである。
 そこで村のひとたちは養蚕に生活の糧(かて)をもとめ、さかんに養蚕を行なったようである。
 政府も、これを富国強兵政策の重要な柱として奨励した。
 生産された生糸は、欧米に輸出されて外貨獲得におおいに貢献したのである。
 その獲得した外貨で、日本は軍備を拡張し、やがて大陸侵攻へと突っ走った。

 馬坂の集落は、いちばん奧の集落である。
 ここも養蚕の集落である。
 南牧川をはさんで、両側に集落がつくられ、各々の建物は大きな切妻づくりで、屋根に煙出しがのっていて、工場のようにもみえる。
 しかし、生糸はナイロンや人絹という化学繊維の開発によってやがてすたれていった。
 これらの山奥の建物群は、時代の生き証人として当時を雄弁に物語っている。


雨中強行突破

 きのうから降りつづく雨は、なおはげしくなるばかりである。
 いつまで経(た)っても雨はやまないので、意を決して飛び出す。
 国道292号線を北へむかう。

 途中、道の駅で雨宿(あまやど)りしていたら、雨のなかをライダーが到着した。
 かれは、新潟から木島平を通ってきたという。
 かれから、この先の道の様子をきく。
 とくに志賀高原は視界が10メートルで、中央線をひろいながら走ったので40キロ走るのに一日分走ったくらい疲れたと話す。
 こちらは、そんな冒険はまっぴらだ。
 かれは、これから静岡まで走るといって雨のなかを飛び出していった。

 かれのいわれたように志賀高原は大荒れの天気で、時おり横殴りの雨がはげしく雨具をたたく。
 それでも、その雨のなかを白根山火口の見学者たちが傘をさし、列をつくって登っていた。
 天気さえよければ高原の景色を楽しめるのに、きょうは本当に残念でならない。
 途中、火山性有毒ガスの硫化水素が出るところがあり、「ここで立ち止まらないように」との警告板があったので、息をとめて走った。

 志賀高原をすぎて湯田中温泉郷まで降りたときには、ほっとした。
 国道117号線を北上中、道の駅で地元のライダーと話しているうち、新潟から国道49号線を内陸部へ入ったところに「津川」というふるい町並みがあるという耳よりな話をきいた。
 この津川というのは、今回のこちらの予定にはなかった町である。
 また、あした楽しみがひとつふえた。


新潟県、栃尾の町並み

栃尾の町並み

 きのう、地元のライダーから津川というふるい町並みが残っていると教えられた。
 そこで、きょうはその津川にむかう。
 その途中、行き当てたのが新潟県の栃尾の町である。
 この町並みは、黒色を基調にした情緒のある町並みで、むかしながらの木の雁木(がんぎ)のあるのが特徴である。

 ここは、まったくのノーマークの町であった。
 日本海沿岸は、もちろん雪が多く降るが風があるぶん積もりにくい、しかし、内陸部はそれこそしんしんと雪が積もると地元のおかみさんが話した。
 地元のひとの話だけに、説得力がある。
 その積もった雪のなかでも、雁木(がんぎ)があればその下は雪が積もらず、楽に歩くことができるという雪国ならではの、むかしからの生活の知恵である。
 現在、このような木製の雁木のある町としては、新潟県上越の高田、青森の黒石のこみせ通りくらいであった。

 町なかに直角の曲がり角、つまり枡形(ますがた)があり、これは敵の進撃の力をそぐ役割を果たしのであろう。
 町並みは、妻入と平入りが混在しており、どちらかというと妻入りが多い。
 この町は、あぶら揚げが名物らしく、早朝から何軒ものあぶら揚屋が天ぷらの匂いを街中に振りまいていた。


福島県、津川の町並み

津川の町並み

 ここは、西会津の玄関口として、会津地方でとれた米、木材、薪炭を陸路でここまで運び、ここから先は船に積み込んで阿賀野川をくだり新潟まで運び、帰りの船で、塩、海産物など積んで戻った。
 とくに塩は、内陸部の人たちにとって長い冬の間の食料となる漬物を漬けるときや味噌や醤油をつくるのに不可欠なものである。
 そのため、ここには川湊(かわみなと)ができ、物資の中継地として発展をみたのである。

 町並みには、ここも枡形(ますがた)があり、木の雁木(がんぎ)がある。
 雁木のことを、ここでは「とんぼ」という愛称でよんでいる。
 やはり、沿岸部よりこのような内陸部のほうが積雪が多いのであろう。

 ここは、「狐のお嫁入り行列」があるとのことで、それで売り出し中だという。
 それというのは、津川の町並みの対岸の麒麟(きりん)山に狐火(きつねび)がみえるそうである。
 どうして狐火がでるのかは解明されていないらしが、自然現象として条件が揃えば発火がみられるとの説明であった。
 それにヒントを得て、11年前から「狐のお嫁入り行列」をはじめたそうだ。


秋田の河原毛(かわらげ)温泉


河原毛(かわらげ)温泉

 秋田を通るときには、必ず河原毛(かわらげ)温泉に入ることにきめている。
 この温泉は川がそのまま温泉になっているもので、昨年地元のひとから教えられ、はじめて入って大いに気にいった。

 河原毛(かわらげ)という荒涼とした地獄があり、そこは硫黄の噴火孔がヒューという不気味な音を出しながら噴煙をあげている。
 その下の谷川がお湯となって流れているので、適当な場所を見つけて入るのである。

 もちろん、番人もいなければ湯守りもいない仙境の露天風呂といえよう。
 一度行って、いっぺんにここが気にいった。
 その理由は、湯の温度が42℃か43℃と適温であること、お湯が豊富なこと、水がきれいなこと、お客が少ないことに尽きるだろう。
 ところが、今回はここのところ天気のわるい日がつづいたせいか、湯の温度が低い。
 先に手を入れて湯の温度を確かめることを怠り、いきなり入ったのがいけなかった。
 これでは、体が温まらないので出るに出られない。
 たいがいのところで手を打って出た。


秋田県仙北町西木門屋の町並み


秋田県仙北町西木門屋の町並み

 尋ねたずねしてやっとたどり着いたのが、秋田県仙北町西木門屋の町並みである。
 ここは、カヤぶきの民家が4軒ほどのこっている農村である。
 日本列島も4回めぐると、町並みで感動するということが少なくなってきた。
 はじめの年は、伝統的建造物郡保存地区を重点的にめぐったので、興奮と感動の連続であった。
 これをAランクとすると、つぎの年はAランクに準ずるものかBランクとなる。そして、つぎの年はCランク…と、ランク付けが落ちてくるのは致し方ないことである。
 それだけに中仙道木曽路の奈良井宿、東海道の関宿、それに蝋で栄えた四国お遍路(へんろ)の内子(うちこ)の町並みのすばらしさがきわだってきて、よくぞ残ったものだと感慨がふかくなる。
 この三つの町並みは、日本を代表する町並みといっても過言ではないと自信をもって言い切れる。


前沢ー摺沢(すりさわ)−大原

前沢の町並み

 きょうは、岩手県の土蔵づくりのいわゆる店蔵(みせぐら)の点在する町並みをたずねる。
 そこは、岩手県気仙沼から西に位置する今泉街道である。
 本来は列島を北上中のはずなのだが、一筆書きはむずかしく、ときにはこのように大きくユーターンして太平洋側まで行くことになる。

 この今泉街道というのは、一関から、摺沢(すりさわ)、大原を経由して陸前高田の今泉にいたる内陸部と海岸部をむすぶ街道である。
 この陸前とよばれた地区には、胆沢(いさわ)、前沢、水沢、摺沢(すりさわ)、猿沢、藤沢と沢のつく地名が多いがどうしてだろう。
 ここらあたりの町並みの特徴は、店蔵(みせぐら)、なまこ壁、置屋根である。
 このうち、猿沢、大原は二年前の夏、偶然通りがかって歩いたことがある。

 まず、前沢に行く。
 町並みを歩いていて、二階建て妻入りの妻の部分に大きな屋根をかけた「本家」と浮き彫りされた看板が目に入った。
 その看板をおおう屋根が豪華で、看板の上と下に彫刻がしつらえている。
 屋根はお寺の屋根のように下から段々により長い挿肘木(さしひじき)を積み重ねた天竺様刳形(てんじくようくりがた)となっている。
 彫刻は、看板の上の部分には下を見おろす龍、下の部分には荒海に浮かぶ亀が上をむいている姿である。

 この家のひとに尋ねると、「これは、屋根看板です」といい、奧からパンフレットを持ってこられた。
 このみごとな屋根看板に惹(ひ)かれ、ときどきアマチュアカメラマンがたずねてくるのでパンプレットを用意しているという。
 その人は、「これは江戸中期の名匠といわれた高橋勘次郎というひとの作品で、屋根の下には今は「本家」と彫られた看板が見えていますが、それは観音開きの閉まった状態だからです。戸を開くと「金命丸」の看板が正面になります」と説明してくれた。


摺沢(すりさわ

摺沢の町並み

 つぎは、摺沢。  ここは、かつて南部馬、牛の市でにぎわったところだという。
 町の繁栄を裏付けるのは、各店蔵が中庭をもっており、その奧には置屋根になまこ壁の装飾のある土蔵をもっていることである。
 各店蔵の敷地は、間口はそうでもないが、奥行きがひろく、いちばん奥にりっぱな土蔵をもっているのである。
 したがって、ここはいまでこそ賑わいはないものの、当時は相当にさかえた町であることがうかがえる。


大原

大原の町並み

 ここは、これで二度目の訪問となった。
 大原は、かつて和泉街道の宿場町で、この地方の政治、経済の中心であったところ。
 それを裏付けるように、大きな店蔵、それになまこ壁の装飾のある土蔵が街道すじに多数のこっている。
 同じ土蔵でも、しっくいで上塗りしていない素朴な蔵が散見されるのもこの地方の大きな特徴といえるだろう。


みたび黒石

黒石の町並み

 みたび黒石をおとずれた。
 それだけ、この町はこちらを惹きつけるものがある。
 この町並みの雁木(がんぎ)は、「こみせ」とよばれている。
 町並みの屋根は、ほとんどが赤色の鋼板で葺(ふ)かれている。
 そしてその屋根の勾配がゆるいのが、ここの特徴である。

 「こみせ」があるくらいだから、ここは雪がふかいのだろう。
 雪がふかければ、建物の屋根の勾配は急なほうが雪が積もりにくいのでは? と思われる。
 しかし、雪は積もるにまかせ、積もったら屋根にあがって雪下ろし作業をする。
 その雪下ろし作業には、屋根の勾配が急であっては足元があぶない。
 そのため、屋根の勾配をゆるくしたのであろう。
 そこに、雪国のひとたちの上手な雪との折り合いのつけ方、しなやかさをみる思いがする。

 町なかにある消防分団の格納庫は、二階建てで屋根の上にさらに二階建ての火の見櫓(やぐら)を乗せている。
 そのユニークな建物は、黒石ではほかにもあった。
 全国的にも、めずらしいものだろう。
 町並みのなかに、大きな松の木が軒をつらぬく大きな建物があった。
 注意してみると、ガラス戸に「松の湯」とペンキで書かれた字が読みとれた。
 この大きな建物は、銭湯であったのか?
 現在とちがって各家庭に内風呂をもてない時代、表通りにあるこの大きな銭湯はにぎわったにちがいない。
 江戸の時代の「浮世風呂」を連想させられた。


浅虫温泉

浅虫温泉の町並み

 下北半島の薬研温泉へ行くにも、北海道に渡るときには必ず青森にある浅虫温泉を通る。
 しかし、ここは素通りするだけで町なかを歩いたことはない。
 そこで、きょうはじっくりと歩いてみることにした。

 そもそも浅虫温泉とは、奇妙な名前である。
 浅虫とは、むかし布の原料である麻(あさ)を温泉で蒸したことから「麻蒸し」、これがいつの間にか「浅虫」となったらしい。
 JR浅虫温泉には、足湯があり、旅のものには助かる。

 ここはふるくから聞こえた温泉町で、国道4号線に沿って高層ホテルがならんでいる。
 そのホテル街から一歩入ったところには、和風の旅館街もある。
 なかには廃業した旅館もみられる。
 その中に、ケヤキの一枚板を使った戸袋、玄関の柱、破風もケヤキという贅沢なつくりの建物もみられた。
 それにうれしいのは、「松乃湯」という350円で入れる銭湯があることだ。


下北半島、奧薬研(おくやげん)温泉 「元祖かっぱの湯」

奧薬研(おくやげん)温泉

 浅虫温泉から下北半島を野辺地(のへじ)をへて、国道278号線を一路北へと進路をとる。
 左側は、波しずかな陸奥(むつ)湾。
 国道278号線は大湊線と、もつれるように進んでいるので、何回も踏み切りを横切る。
 横浜という町があるが、ここは横浜からの入植者がふるさとを偲(しの)んでつけた名前であろう。
 そこから先は、「はまなすライン」とよばれる陸奥湾に沿った一本道である。

 やがて、むつ市。
 道は、ここから時計回りと反時計回りに二手に分かれる。
 今回は、反時計回りにすすみ、大畑から内陸部に入り込む。
 恐山との分岐で右手に進めば、めざす奧薬研(おくやげん)温泉である。

 今回、奧薬研にあるという露天風呂に来たのだが、その場所がわからない。
 湯ノ股橋をわたってすぐの右手の「夫婦かっぱの湯」という管理人の常駐する露天風呂には入ったことはあるのだが、その近くの川岸に大畑町が管理する「元祖かっぱの湯」という無料の露天風呂があると聞いてきたのだ。

 注意しながら進むが、それらしい露天風呂が見つからない。
 そのうち道は舗装が消え、ダートになった。
 雨降りのあとのダートは、ぬかるんでべとべとだ。
 とうとう4キロ進んだところで、あきらめてUターンする。

 オートバイも雨具のズボンも、泥だらけだ。
 「夫婦カッパの湯」でバケツを借り、水を何杯もオートバイに投げつけてへばりついた泥を落とす。

 きれいになったところで、先ほどの湯ノ股橋の欄干からヤマベがいるかと川をながめると、右岸に石垣を積んだ露天風呂の縁(へり)が見えた。
 あそこだ!
 さっそく、広場に行く。
 広場にかっぱの湯の由来が書かれた案内板があり、そこを数メートル歩くと階段がつけられ、川の右岸に露天風呂が見えた。
 そこは、広さが15畳くらいの広々として露天風呂で、脱衣場もある。

 さっそく入る。
 ここが「元祖かっぱの湯」で、名前のとおりお湯にかっぱの像が座っている。
 紅葉した葉がはらはらと舞って風流である。
 湯加減といい、湯の深さといい申し分ない。
 風呂の縁(へり)に両腕を投げ出し、縁に顎(あご)をあずけ、渓谷の流れをぼんやりとながめる。
 これこそ、至福のひとときだ。

(つづく)

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