日本を旅行した外国人読者は蓬髪弊衣で、大きな杖或いは本を抱え、 世俗的なことには全く関わりがないという様子で大道を闊歩している 若者を見た事があるにちがいない。
 彼は「書生」である。彼にとっては地球はあまりにも狭すぎる。 天とて決して高くはない。彼は宇宙と人生について、独特の理論を有している。 彼はまた空中に漂う楼閣に身をおき、幽玄な知識の言葉を食んで生きている。 彼の眼中には大志の炎が輝き、その心は知識を求めてやまない。貧窮は 彼の意欲をさらにあおる刺激にすぎず、彼の目から見ると、世俗的な財産は 彼の人格にとっては束縛とさえなるのである。彼は忠君愛国の権化である。 彼は自らに国家の栄誉の万人であると言う役目を課している。
 書生とは、その美点も欠点も、まさに武士道の最後の残滓でなくて何であろう。

〜武士道〜
新渡戸稲造


 僕は最後に振り返ってその小屋を見る。それは先までしっかりと実在していたのに、 今では何となく架空のもののように感じられる。ほんの数歩歩いただけで、 そこにあった物事はたちまち現実感を失っていく。そしてさっきまでそこに いたはずの僕自身さえ架空のもののように思えてくる。
〜海辺のカフカ 上〜
村上春樹


「そのとおりです。それを抱えている事がどんなに苦しくても、生きている限り 私はその記憶を手放したいとは思いません。それが私の生きてきたことの 唯一の意味であり証でした」 ナカタさんは黙ってうなずいた。
〜海辺のカフカ 下〜
村上春樹


 僕たちはもう一度黙り込んだ。僕達が共有しているものは、ずっと昔に死んで しまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい思いのいくらかは、 古い光のように僕の心のなかを今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、 再び無の坩堝に放り込むまでのつかの間の時を、僕はその光と共に歩むだろう。
〜1973年のピンボール〜
村上春樹


30分ばかりしてから急に誰かに会いたくなった。海ばかり見ていると人に会いたくなるし、 人ばかり見ていると海を見たくなる。変なもんさ。
〜風の歌を聴け〜
村上春樹


 そして彼は黙った。僕も黙っていた。蝉だけがまだ鳴いていた。庭の樹木が夕暮れ近くの風に 葉をさらさらとすりあわせていた。家の中はあいかわらずしんとしていた。まるで防ぎようのない 伝染病のように死の粒子が家中に漂っていた。僕は先生の頭の中の草原を思い浮かべてみた。 草は枯れ、羊の逃げ出したあとの茫漠とした草原。
〜羊をめぐる冒険 上〜
村上春樹


 僕は川に沿って河口まで歩き、最後に残された五十メートルの砂浜に腰を下ろし、二時間泣いた。 そんなに泣いたのは生まれて初めてだった。二時間泣いてからやっと立ち上がる事ができた。 どこに行けばいいのかは分からなかったけれど、とにかく僕は立ち上がり、ズボンについた細かい砂を 払った。  日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。
〜羊をめぐる冒険 下〜
村上春樹


 どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。 どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人間がこの世界に生きていて、 それぞれに他者の中に何かを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで弧絶しなくてはならないのだ。 何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。
〜スプートニクの恋人〜
村上春樹


 「心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める。」  彼女は頭の中でその言葉を繰り返した。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める。 それから体を丸めて、束の間の、しかし深い眠りに落ちた。
〜短編集、神のこどもたちはみな踊るよりアイロンのある風景〜
村上春樹


そうやって、なしくずしに活力を失くし、次には生まれて五ヶ月目の息子が死んだジュネーヴ へ戻ってくる。だが、そのあと、どこへ行くのです?もう思い出の地はどこもない。なぜなら、 きみという人間のカレンダーは、あるところから新しい日付を刻まなかったからだ。 新しい思い出を自ら放棄して、過去へ過去へと逃げ続けたからです。
〜葡萄と郷愁〜
宮本輝


 シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞こえました。
 自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、白兎の子でした。ぴょんぴょんと 部屋中を、はね回り、親子はそれを追っていました。 (幸福なんだ、この人たちは。自分と言う馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに ふたりを滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような 者の祈りでも聞いてくれるのなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)  自分は、そこにうずくまって合掌したい気持ちでした。そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、 それっきり、そのアパートには帰りませんでした。
〜人間失格〜
太宰治


暗黙知という言葉がある。言語化しにくいけれども何となく体で分かっているような事柄は、私達の生活には 数多い。むしろそうした暗黙知や身体知が、氷山で言うと水面の下に巨大にあり、その氷山の一角が明確 言語化されて表面に出ている、という方がリアリティに即しているだろう。本を読む事で、この暗黙知や 身体知の世界がはっきりと浮かび上がってくる。自分では言葉にして表現しにくかった事柄が、優れた作者の 言葉によってはっきりと言語化される。こうした文章を読むと共感を覚え、線を引きたくなる。
〜読書力 岩波新書〜
齋藤孝


 書くという行為は、そのまま放っておけばエントロピー(無秩序状態)が増大していき、ますます退屈で 無意味な世界になる日常の中に、意味という構築物を打ち立てていく作業なのだ。
〜原稿用紙10枚を書く力〜
齋藤孝


 九月の第二週に、僕は大学教育というのはまったく無意味だと結論に達した。そして僕はそれを退屈さに 耐える訓練期間として捉える事に決めた。今ここで大学を辞めたところで社会に出て何かとくにやりたいことが あるわけではないのだ。僕は毎日大学に行って講義に出てノートをとり、あいた時間には図書館で本を読んだり 調べものをしたりした。
〜ノルウェイの森 上〜
村上春樹


「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけれど、お前も相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。 ひとつ忠告していいかな、俺から」 「いいですよ」 「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のすることだ」 「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界へ、 僕は自分のぬかるみへと戻っていった。
〜ノルウェイの森 下〜
村上春樹


最近、気分転換のために、工事現場の日雇いのような事を始めたそうじゃないか。なんとなく落ち着くというのなら、 それもいいだろう。
 ズボンのポケットの中に上田敏の訳詩集をねじこんでいるというが、それをぼくはきみのせいぜい生きていく技術と見た。 つまり、「日雇い+上田敏」という化学合成によって出来上がる「美」がきみには必要なんだ。君には日雇いの仕事をしながらも、 そういう合成作用が必要なんだ。それは君がくず折れないために自分で見つけた技術だと思うよ。
 僕達は攻した小さな技術を刻々と自らの体に刻み込まないと生きていけない人種だ。君の技術は僕の言葉に翻訳すると、 「美しい敗者」になるための技術だ。敗者なら敗者なりに美しくなければならない。これは、僕の若い頃の至上命令だったよ。 敗者の最後の砦は美しいことだ。美しい成功者はありえないのだから。
〜カイン〜
中島義道


 感情と愛情とをもって家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならければならないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ。
 こういう空虚な、そして安らかな瞑想状態のうちにある彼の耳に、教会の塔から朝の三時を打つ時計の音が聞こえてきた。窓の外がいったいに薄明るくなり始めたのもまだぼんやりとわかっていたが、ふと首がひとりでにがくんと下へさがった。そして鼻孔からは最後の息がかすかに漏れ流れた。
〜変身〜
カフカ


 白熱灯の光を頭上から受けて、彼の体は黄金色に輝いている。刈り揃えられた頭髪の下で地肌が生々しく光を反射している。纏った舎房衣は袈裟のようにしなやかに彼を包み込み、あらゆるカルマから彼を自由にりだつさせているような柔らかさを放っていた。視線はほんの行の上を走り、そこに封じ込められていた世界の意味を黙読していた。真一文字に結ばれた口許は、しかし同時に力が自然と抜けきっており、固さと柔らかさが共存していた。その頭の先から方を通り、組んだ両足の膝に至るまでの、宇宙の循環と合体したようなしなやかなフォルムに、私は思わず固唾を飲むほかなかった。
〜海峡の光〜
辻仁成