春うらら
「悲しいときー」
私はゆっくりと息をはきだした。そして言葉も。
「とっても楽しみにしていた映画を当日見れなくなったときー」
そこで1拍おいて、
「悲しいときー」
また言葉を繰り返す。
「…?」
「しかもそれがバスの時間を間違えたという初歩的な原因だったとき」
よびかけられたがそれをきれいに無視して続ける。
「悲しいときー」
…なんか本当に悲しくなってきた。
「それに気付いて走っては見たけど、目の前をそのバスが通り過ぎていったときー」
だから私たちはまだバス停にいた。
私はバス停に備え付けられているベンチに座っていた。不機嫌に不満そうに。
「本当にすまん」
隣にはさっきから何度も同じことを繰り返す無涯。
目の前を何台もの車が通り過ぎていく。赤い車、白い車、大きな車、小さな車…。
「きっと今頃私たちはバスの中で、今日見る予定だった映画の話をしていたんだわ」
作文を読み上げるように、しっかりと発音をする。無涯がそれにうっと黙るのを横目で確認しながら、言葉を続ける。
「きっとそれで私は『楽しみね』って笑っていって、無涯も――まあそれなりに?――、『そうだな』って答えたんだわ」
なのに今無涯は隣で私にかける言葉を探しているし、私は不機嫌になってわざとらしいオンナノコ言葉で恨み言をはいている。
とどのつまり、私は怒っていた。昨日時間を確認したのだ。バスの時間、これで本当に大丈夫?と。それに無涯は笑って――きっとバスに乗っているときにしていただろうやわらかい笑みだ――大丈夫だといったのだ。
「で、結局こうなるのよ」
時間の間違いに気付いたのが、発車する7分前、距離にして約1キロ。体育の授業ならいざしらず私服で――しかもかかとのある靴なんて履いた日には――その距離を走るのは無理があった。
「本当にすまん」
そのせいで今日の予定はほとんど崩れてしまった。午前中に楽しみにしていた映画を見る。それについての感想をいいながら、昼食。午後は買い物。
それは多分今日行われることはないだろう。時間ではなく気持ちの問題として。
それほどまでに楽しみにしていた映画だったのに。楽しみにしていた無涯との外出だったのに。お互いにどうにか時間を見つけた外出だったのに。
「。あのな」
映画の内容を反芻しながら無涯の言葉に返答する。
「なに」
無涯の言葉を待つ。それだって目をわずかに動かすくらいの動作しかしない。
「…何か、飲むか?」無涯のそれに、
「そういうもので釣る姿勢はいけないと思う」ぴしゃりという。
「……すまん」
そこで自ずとおとづれる沈黙。
ちらりと腕時計を見る。きっと今頃は予定通りだったらバスは映画間の前のバス停についていただろう。 上機嫌な私たち。これから見る今話題の映画。 なのに今は言葉を捜している無涯と、その原因となり――逆にだんだん気まずくなってきた――私がバス停にいた。しかし話題に上るものなんかもう何もない。
沈黙はますますきまずいものとなってきた。気にしないようにすればするほど段々と空気は重たくなっていく。 どうしよう。と思っていたら、風が小さくふいた。小さく、それでも確かにふいた。 そして。
「あのね」
そういったのは私だった。
「性格の悪い私はバスにのってもう映画館についた無涯にこういうのかもしれないわ」
風がふいていた。まだふいていた。やわらかい春の風と春のにおい。
無涯はわずかにこっちに顔を向ける。我ながらなんて芝居じみた台詞なんだろうと思う。
「でも残念。私は映画を見るより、バス停の横の桜が舞うのを見たかったわって」
でもきっとこういうときにはこれくらいがいいのかもしれないとも思う。
こんな時、こんな景色の中でなら。
今、そのバス停の横の桜の木からは花びらがはらはらと舞っていた。雪のように、白く、厳かに。走っていく車が気にならないほどの、桜の花びら。
私は腕時計をみて、そしてぽかんとしている無涯を、みた。わずかなぽかん。でもいまや私は無涯のどんな動作すらみのがさない自負があった。口元をにやりとあげる。あと五分でバスがくるから、紅茶急いでね。語尾をあげながらいう。
無涯はゆっくりと時間を取り戻し、
「…わかった」
神妙に頷いた。そこで二人して笑う。それでも緊張がわずかに入った笑いだったけれど。無涯のミルク?レモン?のやわらかな問いに、ミルクと勤めてほがらかに返す。
まだはらはら舞う桜たちと、その中で自販機に走っていく無涯を見ながら、私は静かに伸びをした。