戦争展展示前文(トップ) 軍事施設 造兵廠 補給廠 軍需工場 民間戦争遺跡 現在は? グーグル地図 Q&A
1945(昭和20)年05/14の爆撃で墜落した飛行機に乗っていて虐殺されたアメリカ軍のパイロットのお墓がありましたが、戦後しばらくしてアメリカ軍が持って帰ったので、今はありません。
「守山区は田舎なので虐殺したのが誰か今でもわかってしまうため虐殺したことまでは書かない方が良い」との意見もありましたが、虐殺した本人を責めるのではなく、普通の人が戦争では残酷になるのだということを伝えたいと思います。もちろん虐殺した人に責任がないわけではないでしょうが、それは本人が反省すべき点であって戦争を経験していない人間からどうこう言う性質のものではないでしょう。
墜落した飛行機に乗っていたパイロットは墜落で生き残っても日本人住民に虐殺された例が多いようです。また戦後その事実を隠すために、後で葬式の写真を作ったり墓を立てたりしました。

すでに亡くなられましたが、ここの鈴木恒俊住職は「平和のための戦争展・守山」の実行委員で、実行委員会も主にここで行われていました。
馬の像がありましたが、金属不足から供出(没収)されました。今ある馬の像は、戦争が終わってから以前あった像に似せて作られたものだそうです。
徳川時代初期の1661年に尾張徳川家二代徳川光友(家康の孫)がその母のために建てた由緒ある寺です。
ここの梵鐘も供出されました。1949(昭和24)年にまた新しく作りましたが、以前と比べると音が悪くなったと言います。供出しなくても構わない基準は「製造から300年以上経過」だったそうなので、大森寺に限らずほとんどのお寺で梵鐘を供出したはずです。
中国に侵略を始めて最初の頃は戦死した人も少なかったので、大森の町を挙げて小学校でお葬式をしました。
運動場の大きな榎グーグル地図に、学校で飼ってみんなでかわいがっていた牛がつないでありましたが、アメリカ軍のグラマン戦闘機に撃たれて殺されてしまいました。榎は今でもそのままの位置に立っています。
戦闘機が地上の人や物をひまつぶしに狙うことはよくあったようで、狙われた経験のある人がたくさんいます。
小幡から多治見に向かう途中、コクヨ配送センターの手前から南に登る坂です。1945(昭和20)年3月24日深夜陸軍造兵廠鳥居松製造所(造兵廠)を目標とする大爆撃の時、この坂に21発の爆弾が落ちて12人が死亡したのでこの名前がつき、地元では今もこの名前で呼ばれています。

分かりにくい写真ですが、志段味にあるコクヨを北側から見ています。爆弾坂はコクヨの敷地の右側を登って行く道です。

爆弾坂にある民家に、爆弾の破片で出来た傷が現在も残っています。
昔小学校には天皇の写真があって「ご真影」と呼ばれ、教員の命より大事にされていました。この写真のために奉安殿という写真用の建物を作り、学校で一番神聖な場所とし、教員生徒に最敬礼を強制しました。
奉安殿は1945(昭和20)年10月22日にマッカッサーが発表した「日本教育制度に対する管理政策」により撤去されましたが、この神社には奉安殿グーグル地図が現存します。守山小学校から移転したものだとのことで、本来石垣の上にあるものなのにここのにはなぜか石垣がありません。名古屋に2つしか現存しないと言われるうちの1つで貴重な遺跡です。

奉安殿は左の小さい建物です。右は神明社の本殿です。
一番下の鳥居グーグル地図は爆撃によって傷がつき、それをコンクリートで直してあります。その鳥居の右手前に、「城山八幡宮」と書いた大きな石柱が立っていますが、これは古い石柱が爆撃で壊れたので新しく作ったものです。壊れた古い石柱グーグル地図は本殿西側の森の中に置いてあります(文字は「八幡社」)。

本殿手前の道を東に下ると茶室の前を通ってそのまた少し降りた西側(この道と正面参道の間)森の中には防空壕が残っていて入り口に木の柵がしてあります。

左の写真に写っている鳥居は爆撃によって傷がついています。右の写真は壊れた古い石柱です。
城山八幡宮の階段を上がり切った西側に昭和塾堂(軍事施設)があります。
アメリカ空軍では「ウオーナー・リスト」という文化財のリストを作って爆撃を禁止しており東海地方では名古屋城と熱田神宮が載っていたそうですが、1945(昭和20)年5月14日名古屋北部の大空襲で焼けてしまいました。この時の炎の熱でひびが入った石垣が今でも残っているそうです。観覧料が必要なので陸軍第3師団(軍事施設)の乃木倉庫も一緒に見て下さい。

写真は焼失前の名古屋城です。今の名古屋城は、戦争が終わって14年経った1959(昭和34)年10月市政施行70周年を記念し、昔の建築方法を無視して再建された鉄筋コンクリート製です。
下の写真は焼失中の名古屋城。夜のように見えますが昼です。
1945(昭和20)年5月14日の大空襲でほとんどのお堂は燃えてしまい、門も焦げました。
ここの鳥居は下の方が石、上の方が木の鳥居でしたが、1945(昭和20)年5月14日の大空襲で上の木の部分がす燃えてしまい下の方の石の土台だけが残っています。
戦争中、飛行機からわかりにくいように建物を黒く塗りました。戦後ほとんどの場所を再び塗り直しましたが一部塗り残しがあり、5階屋上から庁舎内側を見ると黒く塗られたままの場所があるそうです。