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三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場(東区、千種区)グーグル地図
軍用飛行機の発動機(エンジン)や部品を作っていた日本最大級の飛行機工場です。陸海軍管理工場になっており、JR中央線大曽根駅から三菱電機名古屋製作所の南を通って線路が引かれていました。戦争が激しくなるに連れて西に広げられ、最終的に敷地面積37万坪、東西方向2.5kmに達したといいます。
日本の飛行機エンジンのだいたい半分をここで作っていたので、名古屋初の本格爆撃である1944(昭和19)年12月13日の爆撃から最優先の爆撃目標になりました。たくさんの爆弾が落とされ、外れた爆弾は守山区内にも多数落ちてそこら中穴だらけになりました。
当初軍隊は生産能率を下げないため工場の外への避難を禁止しており、働いていた人達が爆撃でたくさん死にました。どこの工場でもそうなのですが男の大人は兵隊にされているので、働かされていたのは女の子も含め中学生や高校生が多く、当然被害者にもそういう若い人達が多くいました。爆撃の後、守山公民館や守山小学校にも手足や首がない死体、手足だけ、人の肉のかたまりがたくさん運ばれて来たそうです。
後に爆撃を避けるため、疎開といって犬山や岐阜や長野?に設備を移転しましたが生産能率は上がりませんでした。

名古屋ドームができたところは工場の西端で、一番たくさん爆弾を落とされた場所です。名古屋市東区大幸南1丁目の周辺地図(1/8000)を見ると分かるのですが、名古屋ドームからアピタ千代田橋まで学校、工場、集合住宅、公園など大きな敷地を必要とする施設が続いています。以前から存在した鍋谷上野浄水場を除いてこれらはほぼ全て旧敷地です。
工場のあった清明山に戦後家を建てた人の話によると、厚さ30cm程もあるコンクリートの地盤が残っていて、それを壊してどかさなければ家を建てられず、非常にお金がかかったそうです。
当時、工場沿いの矢田川の護岸工事(つまり守山区と反対岸)に強制連行の朝鮮人も働かせたそうです。また疎開先の犬山の楽田地下工場、岐阜の久々利地下工場と平牧地下工場の建設にも強制連行の朝鮮人を働かせています。
三菱重工業は朝鮮から女性を挺身隊として港区の道徳工場に強制連行し働かせましたが給料を払いませんでした。さらに戦後も挺身隊にいたというと慰安婦だったと誤解されることも多く、二重の被害を受けました。今彼女達たちは連行の事実を認め謝罪し給料支払いすることを求め名古屋地裁で裁判をやっており、「平和のための戦争展・守山」の実行委員の一人であった岩月浩二弁護士も弁護を担当しています。
爆撃を受けて炎上しています。隣の鍋谷上野の浄水場も破壊され、周囲は水浸しになりました。

戦後は廃墟になっていました。
JR中央線大曽根駅のすぐ東に今も三菱電機名古屋製作所(現在は?)としてそのままあります。

ここは計器・無線機器の生産をしていた陸軍監督工場で、しかも三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場とはすぐ近くで、米軍の爆撃目標番号もつけられており爆撃した記録もありますが、実際に働いていた人によるとなぜかあまり爆撃を受けなかったそうです。
愛知航空機は愛知時計電機の航空機部門が独立した会社で海軍管理工場です。熱田区に船方工場、港区に永徳工場がありましたが、1945(昭和20)年06/09いわゆる熱田空襲でめちゃめちゃにされてしまったので岐阜・北陸・瀬戸に設備を移転(疎開)しました。
水野地下工場では爆撃を受けないよう5カ所に穴を掘って地下に工場を作り、飛行機の羽根などを作っていました。崩れたり土砂をとってなくなったりして、現在は瀬戸市民公園に地下壕入口と水槽が残っているのみですが、戦後アメリカ軍が調査したところによればトンネルの長さは5カ所合わせて4kmもあったとされています。
1999年の調査でA地区5番入口とA地区6番入口の入口、B地区1番入口を確認しました(地区名、入口番号は戦後アメリカ軍調査でつけられた仮称)。
当時、強制連行の朝鮮人も働かせました。
本社も東区東新町(今の東桜1丁目)にあり当時名古屋の代表的なホテルであった万平(まんぺい)ホテルに疎開していました。愛知時計電機は戦後また軍需産業に参入しています。
愛知航空機は愛知時計電機の航空機部門が独立した会社で海軍管理工場です。熱田区に船方工場、港区に永徳工場がありましたが、1945(昭和20)年06/09いわゆる熱田空襲でめちゃめちゃにされてしまったので岐阜・北陸・瀬戸に設備を移転(疎開)しました。
菱野の工場は骨組みを作った工場の上に土をかぶせて飛行機から見えにくくしました。
今の瀬戸西高校の北側で、菱野団地などになっています。
JR中央線守山駅の近くに大きなガスタンクがありますが、これは最初、戦争中に軍隊の物を作る工場(陸軍造兵廠鳥居松製造所(造兵廠)との説あり)にガスを供給するために作られたものだそうです。その頃守山区の普通の家にはガスは来ていませんでした。今は東邦ガスの守山供給所になっています。
戦争が激しくなって金属が不足したので、手榴弾、地雷、缶詰など金属で作っていたものを陶器で作るようになりました。ここはそういう代用品を作っていた工場です。

今は守山荘病院になっています。
小島萬治さんがこの会社でデザインし製造した陶器製手榴弾が守山コーナーに展示してあります(会場)。瀬戸市瘤木町にも工場があり、作った缶詰の缶と手榴弾が瀬戸市の民俗資料館にあるそうです。
名鉄瀬戸線小幡駅の南にあったKYタイルだと思います。KYタイルの会社名は少し前まで山田タイルで名前が全く同じですし、昔の住所が守山町小幡栗木なので間違いないでしょう。最近KYタイルの工場はなくなり、マンションになりました。
飛行機用プラグを製造していました。
名鉄瀬戸線矢田駅の近くで守山区から大曽根に降りて行く坂の下のT字路の北側にあり、陸軍管理工場でした。現在は尾張精機(現在は?)です。
