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陸軍第3師団(中区、北区他)グーグル地図

 当時名古屋にいた陸軍第3師団の様子です。写真後ろに見えているのは焼失前の名古屋城(民間戦争遺跡)です。西南戦争を始めに日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満州事変、日華事変、太平洋戦争等日本が関係したすべての戦争に参加し、南京大虐殺があったと言われる南京攻略では主力部隊の一つとなりました。

 師団司令部、歩兵第6連隊(歩く兵隊)、野砲兵第3連隊(大砲を撃つ兵隊)、輜重兵第3連隊(資材を運ぶ兵隊)、名古屋衛戍病院(陸軍の病院、『なごやえいじゅびょういん』と読む)などが名古屋城の内外にありました。

 陸軍第3師団騎兵第3連隊も当初名古屋城内にありましたが1928(昭和3)年守山区に移転しました。1945(昭和20)年2月20日に名古屋の警備・補給を任務とする名古屋師管区司令部が千種区の昭和塾堂に移転し、その跡地に関西地方から分離して東海地方の警備、補給を任務とする東海軍管区司令部ができ、さらに敗戦間近爆撃を避けるため東海軍管区司令部を守山区に移転する計画が出て東海軍管区司令部地下壕を掘っている途中で敗戦になりました。

 現在名古屋城内外に司令部の煉瓦塀と乃木倉庫が残っていますし、歩兵第6連隊・騎兵第3連隊・野砲兵第3連隊・輜重兵第3連隊の各跡碑や軍馬軍犬慰霊碑などがあり、歩兵第6連隊の兵舎と名古屋衛戍病院の建物は明治村に移されて残っています。

 乃木倉庫は名古屋城の観覧料が必要なので、見に行く時には空襲で焼けてひびが入った名古屋城(民間戦争遺跡)の石垣も一緒に見て下さい。


陸軍第3師団騎兵第3連隊(守山区守山三丁目)グーグル地図

 陸軍第3師団の一部で馬に乗る兵隊です。今は陸上自衛隊守山駐屯地(現在は?)になっています。名鉄瀬戸線守山自衛隊前駅も昔は「聯隊(連隊)前」という名前でした。

 門の右側にある楠の木は「防人の楠」グーグル地図と呼ばれて第3騎兵連隊当時から生えていますし、建物もかなり残っています。


東海軍管区司令部地下壕(守山区吉根階子田)グーグル地図

 1945(昭和20)年2月20日、東海地方の警備・補給を任務とする東海軍管区司令部が関西から独立して名古屋城内にできましたが、後に空襲の危険が大きいため守山へ移転する計画が立てられ、壕を掘りましたが途中で敗戦になりました。縦2m、横2m、長さが32mと24mの2本の壕が残っているそうです。私有地のため一般見学が出来ませんが、見学に行った人の写真が2005年の戦争展で展示されました。
 当時、強制連行の朝鮮人も働かせたそうです。


小幡ヶ原演習場(守山区小幡)

 陸軍が射撃、陣地作りなどの練習をするところです。名鉄瀬戸線喜多山駅の北側は何軒か家があってすぐ演習場だったそうですし、緑ヶ丘商業高校のある場所も含まれていたとのことです。

 

 演習場のさかいめを示す「陸軍省所轄地」と書いた石の柱グーグル地図が守山区役所向かいの喫茶店敷地内に残っています(写真右端に写っている2つの石のうち奥、手前の「南無観世音菩薩」と書いてある石は笠寺道という古い道にあった標識)。

 長塚古墳グーグル地図は演習場の中で築城や陣地攻撃の目標に使われ、実弾演習の際には立入禁止を示す赤旗が立てられました。

 99年の調査で判明したことですが、1945(昭和20)年5月14日の名古屋爆撃の際撃墜されたB−29の乗組員11人を同年7月12日この演習場で処刑し演習場敷地内に埋めていました。敗戦後の同年8月20日頃軍事裁判を恐れて死体を掘り出し火葬にし直したそうですが、この処刑の責任者伊藤法務少佐は極東軍事裁判で死刑(後に終身刑)になりました。
 戦後は食糧不足からほとんど芋畑にされました。今は学校や住宅地ですが、
陸上自衛隊訓練場(現在は?)陸上自衛隊官舎(現在は?)陸上自衛隊通信所(現在は?)として残っている場所もあります。

 小幡ヶ原演習場で行われた名古屋市自衛団の機関銃射撃訓練の様子です。


小幡ヶ原飛行場/名古屋飛行学校(守山区小幡五丁目他)グーグル地図

 名古屋飛行学校は飛行士を養成するための学校で、300m程の滑走路がありました。全国から生徒が集まったので周囲には下宿街ができていました。民間の設備ですが敷地は小幡ヶ原演習場の一部、先生は軍人、生徒もそのほとんどは軍人になって行きました。

 戦後しばらく飛行学校の建物は守山中学校の校舎として、格納庫は講堂として使われていたそうです。


八竜演習場(守山区大森二丁目)

 軍隊が練習をするところです。大森の人は区別していますが、小幡ヶ原演習場の一部かも知れません。

 山なので井戸を掘っても水が出ず、兵隊が水をもらいに名鉄瀬戸線大森金城学院前駅(当時は大森駅)の近くの家に来ることがよくありました。実弾演習中は山の頂上に立入禁止を示す赤旗が立てられました。
 今は金城学院大学他になっています。


本地ヶ原演習場/飛行場(守山区、尾張旭市)

 軍隊が練習をするところです。最初は四軒家の北東に始まってだんだん東に広げられました。瀬戸市井戸金町の人が「自分の家の前まで演習場だった」と証言していますので、敗戦時には瀬戸市西端まで広がっていたことになります。
 1945(昭和20)年アメリカ軍が上陸した時に備え、特攻機(爆弾を積んでアメリカ軍の船に体当たりする)が発進するため、本地ヶ原演習場内に飛行場が作られました。今本地ヶ原小学校がある辺りです。
 当時、強制連行の朝鮮人も働かせたそうです。
 戦後作られた本地ヶ原神社の境内に、演習場のさかいめを示す「陸軍省所轄地」と書いた石の柱が残っています。


猫洞演習場/射爆場(千種区)

 戦争の練習をするところで、陸軍航空隊の爆撃の練習にも使っていたそうです。

 下写真の左下端、猫洞演習場のさかいめを示す「陸軍(省所轄地)」と書いた石の柱が民家の塀に塗り込められて残っており(下の方は地面に埋まって読めません)、演習場はここから東に広がっていたと思われます。右上奥に写っているのは宮前橋から南に行って日泰寺の近くの坂を登りきった所にある歩道橋です。

 余談ですが、ここは古い街道である「ほうろく街道」と「四観音道(竜泉寺←→笠寺、守山区内では笠寺道と呼ぶ)」の交差点でもあり、この標柱の向かい(この写真を撮っている背中側)にはその道案内の石の標識があります。

 演習場の南端と思われる場所にも「陸軍省所轄地」と書いた石の柱が残っているそうです。

 戦後演習場の一部は平和公園になり、出来町公園にあった陸軍墓地など市内にあった多数の墓地がここに移されました。平和公園の中には第7代尾張藩主徳川宗春の墓など移転前に爆撃で破損した墓もあります。


昭和塾堂(千種区城山町)グーグル地図

 城山八幡宮(民間戦争遺跡)の階段を上がり切った西側に昭和塾堂の建物が残っています。1928(昭和3)年に建てられた陸軍の施設で、名古屋市公会堂にあった高射第2師団の一部が入り、敗戦間近の1945(昭和20)年2月20日には名古屋師管区司令部が移転して来ました。

 今は愛知学院大学大学院の建物になっています。


高射第2師団高射砲第125連隊(千種区揚羽町)

 昭和区の名古屋市公会堂にあった高射第2師団司令部の指揮下で名古屋北部を担当し、侵入した敵の飛行機を撃ち落とす高射砲陣地や飛行機に光を当てて高射砲の射撃を助ける照空陣地の指揮をします。
 ここの命令に従っていた陣地のうち守山区にあった分を挙げると、高射砲陣地は翠松園陣地(第1大隊第1中隊、守山区大字小幡北山)、竜泉寺陣地(第1大隊第2中隊、守山区大字牛牧長根)、森孝陣地(第1大隊第3中隊、守山区森孝)があり、照空陣地は大森陣地(第3大隊、第4大隊第17中隊、守山区大森弁天洞)がありました。
 アメリカの爆撃機が思っていたより低く飛んで来たり、弾薬不足で撃っていい弾の数に制限があったりして、あまり当たらなかったようです。また名古屋が焼け野原になった後はまだ空襲を受けていない都市に移転されました。
 司令部は茶屋ヶ坂公園や住宅地になってしまって跡形もありませんが、竜泉寺陣地には兵舎跡と砲台跡、翠松園陣地には砲台跡が残っているそうです。


名古屋陸軍幼年学校(小牧市下末)

 陸軍の偉い人を育てるための学校です。元は東区白壁2丁目にありましたが一度廃校となり、1936(昭和11)年この場所に復活しました。

 陸軍幼年学校跡地は現在中部管区警察学校になっています。この正門から右に塀伝いに回りを行くと当時の東門跡がありますが、表札がはがされているので言われないとそれとはわかりません。また構内には工作講堂が残っていて倉庫として使われているそうです。


陸軍小牧飛行場(豊山町/春日井市)グーグル地図

 ここは青山新田というたんぼでしたが、1941(昭和16)年陸軍が接収して(取り上げて)飛行場を作りました。飛行場ができたのは1944年とする資料もあります。

 当時、強制連行の朝鮮人も働かせたそうです。

 今は名古屋空港・航空自衛隊小牧基地(現在は?)になっています。


サイパン島現地営農隊集結地(守山区小六町)グーグル地図

 戦争で占領した場所で食料が足りなくなった軍は現地で生産することにし、長栄住宅の場所にあった紡績工場に全国から退役予備役の軍人を集めて食料生産部隊を編成しました。軍より先にサイパンに渡り、サイパン玉砕でほぼ全員亡くなったと思われます。

 99年の研究で、軍隊用防寒オーバーを作っていた名古屋毛織という会社が守山区小六町にあったのがわかりましたので、その跡地が使われたのではないかと思います。この敷地は現在長栄住宅になっています。