第1章 概要

この章では、本レポート全体を概説する。この章を読めば、南京事件がどのような事件で否定/肯定の議論の概要はどのようなものかを知ることができる。

南京事件とは・・・
 南京事件は、1937年(昭和12年)12月に日本軍が中国の南京市を攻略した際に発生した捕虜や投降兵の不法殺害と、強姦・掠奪・放火や殺傷など市民への暴行のことをいう。南京市は、上海の西約300kmにあり、当時は中華民国の首都だった。
同年7月には盧溝橋事件があり、続いて8月に第2次上海事変が発生、首都南京を攻略することにより中国は屈服するはず、と見た日本軍の思惑ははずれ、蒋介石は首都を内陸の重慶に移して抗日戦を継続、日中戦争はドロ沼化した。なお、日中戦争は双方が宣戦布告をせずに戦ったため「戦争」とは呼ばずに日本では「支那事変」と呼んでいた。
 初期の論争ではこの事件を「南京大虐殺」又は「南京虐殺」という呼ぶ人たちもいたが、最近は「南京事件」を使うのが一般的になっている。「南京事件」と呼ぶようになったのは、犠牲者数がさほど多くないことがわかってきたせいではないか、と言う有名キャスターもいるが、30万人ならば「大虐殺」で1万人ならば「大虐殺」ではない、というのもおかしなことである。呼称が変わった理由は、「大虐殺」や「虐殺」の定義を共有することが困難なこと、「虐殺」だけでなく強姦や掠奪なども含まれること、「大虐殺」=30万人説のような印象があること、などであろう。なお、中国では「南京大屠殺」と呼び、英語では「南京アトローシティ(Atrocity)」と呼ぶのが一般的のようだ。

1.1 背景・経緯

(1)日中戦争開戦

満州事変(1931年(昭和6年))以降、日本軍は華北(中国北部)に進出し、1935年(昭和10年)傀儡政権(冀東防共自治委員会)を設立した。一方、中国は国民党が本土統一をほぼ果たしたが、日本の進出に対して排日・抗日運動が活発化していった。日中関係が緊迫する中で、1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が起き、同年8月13日には上海に駐留する日本の海軍陸戦隊を中国軍が攻撃して、全面戦争へと拡大した。日本政府は8月15日松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成し、8月23日上海北部に上陸したが、中国軍の精鋭に阻まれ、苦戦を強いられた。数回にわたって援軍を追加派遣し、11月上旬になってようやく上海全域の掌握に成功、中国軍は退却した。

(2)上海から南京へ

上海に派遣された軍の使命は上海から中国軍を追い払うことであったが、軍の一部が独断で南京を目指して進撃を始めた。もともと南京攻略すべし、との考えを持っていた松井司令官もこれに同調し、軍中央部に南京攻撃を認めるよう具申した。軍中央および政府もこれを追認することになり、12月1日、正式な南京攻略命令が松井司令官のもとに届いた。
松井司令官らは、首都南京を落とせば中国は屈服するという希望的観測を持っていたが、11月20日、蒋介石は首都を重慶に移し、徹底抗戦の決意を示した。

 図表1.1 中国全図

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