1.5 事件後と事件の原因

(1)事件後の動き

(a)慰安所の設置、軍紀粛正令
以下、秦:「南京事件」より要約する。

{ 1938年1月、南京に慰安所を設置。近代戦史に珍しい慰安婦随伴の日本軍という姿は、南京事件がきっかけになって確立されたといえる。民間人や投降した捕虜への暴行、一般市民・婦女への暴行や掠奪などを戒める「従軍兵士の心得」を作製し、1938年夏までに全軍に配布した。}(P236,P239)

(b)作戦休止と司令官の交代
事件後、松井司令官は召集解除となり、新たに設置された中支那派遣軍の司令官には畑俊六大将が就任した。大本営は当分の間作戦を休止することにしたが、4月になると徐州作戦、8月には漢口作戦を展開し日本軍は拠点の制圧に成功した。しかし、戦争は終結せずゲリラ戦を駆使する中国軍に悩まされた、ドロ沼化していった。

(c)蒋介石を対手(あいて)とせず
1937年11月頃から、ドイツの駐中国大使トラウトマンを通して中国側との和平交渉を実施してきたが、南京攻略により決裂、1938年1月近衛首相は「蒋介石を対手とせず」という声明を発表、これにより交渉相手を失ってドロ沼の戦争に突入していく。

(d)戦後開かれた極東国際軍事裁判(通称「東京裁判」1948年11月4日判決)では、A級戦犯7人が絞首刑になったが、そのうちの一人が松井石根大将であった。松井大将は攻略軍の最高司令官としての監督責任を問われた。これに先立って行われたB,C級戦犯を裁く「南京軍事法廷」では第6師団長の谷寿夫中将、田中軍吉中隊長、百人斬り競争を実施したとされる向井少尉と野田少尉の計4名が死刑に処された。

(e)日中国交回復

{ 中国は第二次大戦終結後、100万を越える敗戦の日本兵と在留邦人にあえて報復せず、故国への引き上げを許した。昭和47年(1972年)の日中国交回復に際し、日本側が予期していた賠償も要求しなかった。}(秦:「南京事件」、P244)

(2)事件の原因

一般に、大きな事件・事故の原因は複数あり、それらが複数からみあっている。南京事件もその例にもれず、たくさんの原因があげられる。そのなかには日本側の問題だけでなく、中国軍側にも問題があったのは間違いない。
以下は、松井司令官ら当時の関係者が残した記録や戦後になって中間派、史実派の研究者らが指摘した事件の原因を筆者なりに分類・整理したものである。(詳しくは8.2節を参照)

(a)直接・間接原因・・・捕虜殺害や市民暴行に直接又は間接的に作用した原因

(b)日本軍の特質註15-1
日本軍が抱えていた次のような特質が上記原因の背景にあった。

日本軍の特質は悪い方向だけに作用するのではなく、良い方向に作用することも少なくない。例えば、戦後の日本発展に寄与した次のような特性もある。


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1.5 節の註釈

註15-1 <日本軍の体質> 

この部分は、「戸部良一他:「失敗の本質 ~日本軍の組織論的研究~」による。(詳しくは8.3節を参照)