3.2 安全区
図表3.2 安全区(Safety Zone)

(1)安全区の設立と委員
裕福な市民はすでに南京市内から脱出し、残されたのは貧しい人たちばかりであった。これらの難民を救うため、アメリカ人が中心になって安全地帯(Safety Zone)を作る活動が11月20日頃から始まった。モデルとなったのは、上海戦時にフランス人のジャキノ神父が設定した難民キャンプである。11月29日にドイツ人ジョン・ラーベを委員長とする南京安全区国際委員会が正式に発足した。委員は16人(陥落後まで残ったのは10人・・下記)。註32-1
・ジョン・H・D・ラーベ(独); 委員長、ジーメンス社南京支社支配人、ナチス党員
・ルイス・S・C・スマイス(米); 書記、金陵大学社会学教授、「南京地区における戦争被害」を作成
・P・H・マンロ=フォール(英); 亜細亜火油公司
・ジョン・マギー(米); アメリカ聖公会伝道団宣教師、南京国際赤十字委員会委員長
・エドゥアルト・シュペアリング(独); ドイツ資本の保険会社南京支店長、ナチス党員
・M・S・ベイツ(米); 金陵大学歴史学教授、日本大使館への抗議交渉を担当、知日派
・W・P・ミルズ(米); 長老派教会伝道団
・C・S・トリマー(米); 鼓楼病院
・クリスティアン・クレーガー(独); カルロヴィッツ・南京(礼和洋行)
・ジョージ・フィッチ(米); YMCA国際委員会書記、中国蘇州生まれで中国語が堪能
(2)地理
南京城内にあり、東西約2キロ、南北約3キロ、面積3.86平方キロ(皇居<1.15平方キロ>のおよそ3.35倍)註32-2で、南京城内の面積約40平方キロの10%ほどである。領域内には各国大使館、領事館、国民政府の官公庁、大学、などがある。安全区の境界には標識や旗などが立てられたが、ジャキノ神父が上海に作った安全区のように、武装兵士を完全に締め出すことはできなかった。
(3)市政の移管
11月29日、南京市の馬市長が正式に安全区の発足を発表、蒋介石は10万ドルの寄付を申し出、馬市長は米と小麦粉の提供を約束、警察官も残すと約束。ラーベはヒトラーへの上申書で次のように述べている。
{ 市役所の業務全部、南京市長の職務すべてを、事実上私たちが引き継いだようなものだと当時の新聞が報道したのも、あながち冗談ではなかった。}(「南京の真実」、P340)
(4)難民の収容
安全区への難民収容は12月1日頃から始まった。安全区には学校などを利用した収容所が20カ所あったが、そこに入りきれない人たちがたくさんいた。12月8日のラーベの日記にはこう書かれている。
{ 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和のときよりも活気を帯びている。・・・まだ、泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。}(「南京の真実」、P101)
(5)安全区の人口
12月13日日本軍入城時には、「一般市民のほとんどが安全区に集まっており、その数は20万人」とする国際委員会の公式文書がある。また、1月14日の文書には25万人から30万人、という記録註32-3があるが、いずれも確実な調査の結果ではなく、推測値である。
(6)安全の確保(中国軍の排除)
安全区から中国軍を排除することが、安全確保のためには必須であったが、中国軍は最後まで安全区から退去しなかった。安全区の南西には高射砲陣地があり、12月9日になっても空爆に来た日本軍機を砲撃していた。司令官唐生智の別宅も安全地区内にあり、最後まで安全区から中国兵を追い出すことはできなかった。ラーベは、12月10日の日記に{残念ながら、まだ軍人が大ぜい安全区に留まっている}(「南京の真実」、P107)と書いている。
(7)安全の確保(日本軍への要求)
日本軍に対して、安全区の安全確保を求めたが、中国軍が退去しない以上、日本軍としても安全を保障することはできない。日本から次のような回答を得てラーベは満足している。
{ 「日本政府は安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう努力する所存です」 ・・・ 結びの一文「当該地区を尊重するよう努力する所存」は、ひじょうに満足のいくものだ。}(「南京の真実」、P88)
日本軍は安全区への攻撃は手控え、誤爆が1回あったが、それ以外戦闘行為は行われていない。
(8)停戦協定の提案
安全区国際委員会は12月9日、日本軍と中国軍に対して3日間の停戦を提案した。その内容は、{南京近郊のすべての軍隊に対して3日間の休戦を提案する。その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する。}(「南京の真実」、P105)
国際委員会の提案は、同じ日に日本軍が行った開城勧告と実質的には同じ投降勧告であった。唐生智は「蒋介石が了解すればOK」と答えたが、蒋介石は了解せず、停戦は実現しなかった。
(9)陥落直前の様子 ・・・ ラーベの日記から引用註32-4
12月10日深夜2時半; {服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまじい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起った。火は何時間も燃え続け、あたりを赤あかと照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、ふたたび床についた。というより、うとうとした。こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。}
12月11日9時; {ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。}
12月12日; {日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の8時に、再び砲撃が始まった。}
12月12日18時半; {紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。あたりいちめん、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南部から逃げてくる人たちが安全区を通って家へ急ぐのが見える。その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのを見ればわかる。}
12月12日20時; {榴弾がうなる。爆弾はますます間近に降ってくる。南の方角は一面火の海だ。轟音がやまない。}
{真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。北部では交通部のりっぱな建物が燃えている。}
(10)陥落後の安全区
南京陥落後、日本軍による敗残兵の掃蕩が行われ、敗残兵と誤認された市民が多数処刑された。また、掠奪、強姦、放火などが行われた。(詳細は4.4節、4.5節を参照)
3.2節の註釈
註32-1 <安全区国際委員会メンバー> 「南京の真実」 P84-P85
職業などは、「南京難民区の百日」も参照。委員会設立時は、アメリカ6人、イギリス5人、ドイツ4人、デンマーク1人、計16人。資料により15人とする資料もあるがラーベの著書にしたがった。
註32-2 <安全区の面積> 板倉由明:「本当はこうだった 南京事件」 P68
皇居の面積は宮内庁キッズページ(http://www.kunaicho.go.jp/kids/kokyo/)による。
註32-3 <安全区の人口> 「安全地帯の記録」
安全区国際委員会から日本大使館へ宛てた第9号文書(12月17日)には、次のように書かれている。{・・・貴軍が入城した13日、私どもは市民のほぼ全員を安全区内に集めていたが、・・・}(P157)、{日本兵の間に規律が即刻戻らない限り、20万中国人市民の多くに襲い来る餓死をどうやって防ぐのか、見当はつけにくい)(P161)
また、1月14日の第41号文書(福田氏※への手紙)では、{・・・貴軍が10才以下の子ども及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しています。すると、当市の人口は多分25万から30万ということになります}(P247)
※日本大使館員の福田篤泰氏
註32-4 <陥落直前の様子> 「南京の真実」
・12月10日深夜2時半: P110
・12月11日9時: P111
・12月12日 : P115
・12月12日18時半: P117
・12月12日20時: P119、P120