第4章 南京事件のあらまし
この章では、南京が陥落したあと12月13日未明以降に、南京城周辺で起きたできごとについて述べる。南京事件の範囲は研究者によって異なる部分もあるが、この章で述べる範囲が南京事件を構成する主要なできごとになる。20万とも3万ともいわれる犠牲者数は、個々のできごとの内容や解釈に依存し、それは研究者により異なる。各節や項の最後には史実派/中間派/否定派それぞれの見解を記した。各派の見解は主として次の文献に基づいている。註41-1
・史実派; 加原十九司:「南京事件」
・中間派; 秦郁彦:「南京事件」
・中間派; 偕行社:「南京戦史」及び「証言による南京戦史」
・否定派; 東中野修道:「南京虐殺の徹底検証」、東中野修道:「再現 南京戦」
4.1 東部・北部における掃討戦
この節では、南京城の東部と北部を担当した京都第16師団(師団長 中島今朝吾中将)の掃蕩戦やその間に獲得した捕虜への対応などについて述べる。
佐々木到一少将率いる歩兵第30旅団は、歩38連隊が紫金山北麓を進んで下関を目指し、歩33連隊は13日朝に紫金山山頂を制して、同じく下関に向った。一方、草場辰巳少将率いる歩兵第19旅団は13日未明に中山門を占領し、城内と紫金山周辺の掃蕩を行った。
図表4.1 陥落直後の東部・北部における事件

(1)紫金山北麓における脱出軍との戦闘 (図表4.1①)
12月12日の夜、中国の第66軍、36師団など総勢1万以上といわれる大部隊が太平門から、紫金山北麓を経て東方への脱出を図ろうとした。この部隊は、13日未明に仙鶴門鎮付近で上海派遣軍の後方部隊である集成騎兵隊と攻城重砲兵隊を攻撃した。「証言による南京戦史」はその模様を次のように伝えている。
{ 敵の大縦隊は無統制のまま夜陰に乗じ、味方の屍を乗り越えて東進をつづけ、わが重砲陣地(・・・)まで乱入した。この激戦は翌13日午前9時ごろまで続き、敵に与えた損害も大きかったが、わが部隊の犠牲も上陸以来の最大に達した。} (「証言による南京戦史(8)」、P10)
この中国軍部隊はその後分裂し、一部は湯水鎮にあった上海派遣軍の司令部を襲撃、わずかな兵力しかない司令部は一瞬「覚悟を決めた」らしいが、中国軍は脱出を優先したため、何とか危機をしのいだ。分裂した他の一部は脱出に成功したものもあったようだが、大部分は歩38連隊などを攻撃(4.1.2項)したあと、(2)で述べるように投降して捕虜となった。
(2)堯化門の捕虜 (図表4.1②)
13日早朝、仙鶴門の日本軍を攻撃した中国軍が、同日夜に再び日本軍を攻撃してきた。その時の状況を「独立攻城重砲兵第二大隊 砲兵少尉沢田正久氏」の証言から要約引用する。
{ 当夜【13日夜】は真っ暗でしたが10時過ぎ、遥か西方から敵の大集団らしい喊声、チャルメラ、迫撃砲の音が聞こえ、 ・・・ やがて仙鶴門鎮付近で夜間戦闘が展開されましたが、数時間の白兵戦のうち、敵の主力は引き返していきました。 ・・・
【翌14日】午前8時ごろ、 ・・・ 敵はチェコ機関銃で盛んに射撃してきました ・・・ やがて、友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃投降してきました。
その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。
俘虜の数は約1万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約8千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言ってきたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。「それも不可能」と断ったら、やっと、「歩兵4コ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い」ということになり、私も中山門近くまで同行しました。} (「証言による南京戦史(5)」、P7)
この捕虜を収容した歩38連隊の戦闘詳報(「南京戦史資料集」、P594)には、俘虜7200人(内将校70人)と記載されている。
(3)捕虜のその後
14日昼ごろに収容した捕虜は武装解除され、いったん仙鶴門鎮附近に集められ、翌15日麒麟門の近くにある「工路試験所」に移された。さらに入城式の終った17日午後に中山門を経由して中央刑務所に転送されている。野戦郵便長の佐々木元勝氏は、それらのシーンを次のように記録している。
{ 麒麟門から少し先、右手の工路試験所の広場には、苦力みたいな青服の群がおびただしくうずくまっている。武装解除された4千の支那兵である。道端にもうんといる。ぎょろっとした彼らの眼の何と凄かったことか。} (佐々木元勝:「野戦郵便旗(上)」、P215)
{夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遭う。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。7200名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・} (「証言による南京戦史(9)」、P11)
中央刑務所に収容したあとのことはよくわかっていない。第16師団の中島師団長は12月13日の日記で、{此7,8千人を片付くるには相当大きな壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のケ所に誘きて処理する予定なり}註41-3と処置に困り、「処刑」を決めているようにもみえる。
上海派遣軍の捕虜管理担当だった榊原少佐は、{刑務所に収容した捕虜は4~5千で、半数を上海に移送、残りを南京に残した}(「証言による南京戦史(11)」、P8) と証言しており、もともと“7200人”が過大だったか、一部は殺害又は釈放されたか、実態はわからない。
(4)各派の見解
史実派はこの7200人すべてが殺害されたとみなし、中間派と否定派は収容されたとみなしている。ただし、秦氏は日付と場所を記入せずに歩38連隊関係で2000人の犠牲者あり註41-2としており、一部が殺害されたとみているのかもしれない。
(1)敗残兵との戦闘
佐々木到一少将指揮の第16師団右側支隊(歩38連隊、歩33連隊の一部など)は、下関に向って紫金山の北側を進軍し、12日夜、紫金山北麓の寒村で宿営した。翌13日朝、敗残兵の攻撃を受けた。この敗残兵は仙鶴門で集成騎兵隊などを襲った中国軍の一部とみられ、南京からの脱出を目指していた。このときの様子を佐々木少将は次のように記している。
{ 12日夜は到る処に激烈なる銃声を聞き、後半夜には砲声さえも聞えた。 ・・・
焚火を掻き立てて煤けた寝台に横になり忽ち熟睡、午前8時頃ふと目を醒ませば至近の距離に激烈な銃声がしてゐて、通信手や行李の輜重兵特務兵までが銃を執ってバタバタやってゐる。
「何事だ?」屋外を走りかけた副官に尋ねる。
「いま撃退したところです、紫金山から真っ黒になって降りてきました」
「敗残兵か?」
「チェッコを腰だめで撃ってくるのです。それが何回も何回も五六百一所になって」
「鉄砲を取りあげろ」
「降伏なんかするもんですか、皆殺しです」
くるわ、くるわ、あっちにもこっちにも実に夥しい敵兵である。彼等は紫金山頂に在った教導師【※】の兵で血路を我支隊の間隙に求めて戦線を逆に討って出たものであった。銃声の間に怒号罵声すら聞こえてゐる。家屋に立て籠もっていつ迄も抵抗するもの、いち早く便衣に替へて逃走を計るもの、そして三々五々降伏する者は必ず銃器を池の中に投じ、或は家の中に投げ込んで放火してゐた。} (「南京戦史資料集」、P376-P377)
(2)下関の追撃戦 (図表4.1③)
敗残兵を撃退し、佐々木支隊の先頭が下関に到着したのは午前10時頃であった。下関は、揚子江を渡って対岸に脱出しようとする中国兵で埋めつくされていた。前夜、司令官の唐生智が揚子江を渡って脱出したのち、次々と脱出する兵が舟らしきものは使いはたし、逃げ遅れた兵士たちは即席の筏や木片などにつかまって渡江していた。佐々木支隊はこれに襲いかかった。
{ 軽装甲車中隊午前10時頃、先ず下関に突進し、江岸に蝟集し或は江上を逃れる敗敵を掃射して無慮1万5千発の弾丸を射ち尽した。 ・・・ この日、我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である} (「南京戦史資料集」、P377-P378)
「南京戦史」(P362-P363)には、{指揮官日記に書かれた戦果に関する数字は特に誇大な表現のものが多い ・・・ 参戦した歩33の幹部も一様に、「佐々木少将私記に記載の戦果に関する数字は著しく過大である」と証言している。}ので、敵屍1万数千とか2万以上解決という数字はかなり割り引いて見た方がよさそうだ。
(3)海軍艦艇からの掃射 (図表4.1③)
13日は陸軍の南京攻略にあわせて海軍の艦艇も下関方面に向かっていた。以下は、軍艦「保津」の乗組員だった橋本以行氏の証言である。
{ 午後1時38分、保津が南京下流の閉塞線を突破した頃には、既に渡江していた小舟の数は減りつつあるように見受けたが、今度は桟橋用の箱舟や筏が現れた。もう乗る舟がなくなったのであろう。
先頭を進むわが「保津」では主計兵、機関兵まで駆り出し、艦砲、機銃はもちろん、小銃まで持ち出して前後左右に射ちまくった。 ・・・
しばらくして、機銃と八糎砲の残弾少数と伝えてきたので、好目標しか狙わぬこととした。双眼鏡で艦側近くを流れる戸板の上に横たわっている中国兵をみると、顔をシャベルでかくして背後にチェコ機銃を横たえ、死んだようにしている。このように小銃や機銃を大事に携帯していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない。} (「証言による南京戦史(10)」、P29-P30)
(4)各派の見解
犠牲者数については、歩38の戦闘詳報に{渡江中の敵5,6千に徹底的大損害を与え}(「南京戦史資料集」、P585)とあり、歩33の戦闘詳報では{殲滅せし敵2千を下らさるものと判断}(「南京戦史資料集」、P601)とある。海軍の戦果について、秦氏は{3千とも1万とも報告されているが、誇大に過ぎる}(秦郁彦:「南京事件」、P116) と述べている。
中間派と否定派は、この戦闘は合法的なものとして犠牲者数にカウントしていない。史実派は、{戦意を失って必死に逃がれようとする無抵抗の群衆に対する一方的な殺戮}(吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」、P110)、として歩38(5~6千)、歩33(2千)、海軍の戦果(1万)すべてを合計して1万7千~1万8千の犠牲としている。
(1)和平門周辺の捕虜 (図表4.1④)
佐々木少将は下関の追撃戦終了後、南東に下って和平門に進み、その周辺で敗残兵の掃蕩を行った。以下、佐々木少将私記からの引用である。
{ 午後2時頃概して掃蕩を終って背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進和平門に至る。その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも「皆やってしまへ」と云ひ度くなる。} (「南京戦史資料集」、P378)
(2)太平門の捕虜 (図表4.1④)
12月13日朝、歩33は第6中隊を太平門の守備に残して下関に向い、歩38と合流して追撃戦にあたった。一方、太平門の第6中隊は多数の敗残兵に直面するが、その対応について、佐々木少将は{太平門外の大きな外濠が死骸で埋められゆく}(「南京戦史資料集」 P379)、中島師団長の日記には{太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約1300}註41-3、とあるだけで詳しい状況はわからない。南京戦史では次のように記している。
{ 参戦者の回想を要約すると「13日午前9時13分、太平門を占領し、主として城外から城内に遁入しようとする敵に対し、迎撃の態勢をもって城門附近の守備にあたっていたところ、まず白旗を掲げて投降の意思表示をした中国軍大部隊があり、ついで白旗を掲げたに拘らず反抗した約300人ぐらいの中国軍部隊もあった。我が方は反抗した中国軍部隊に対しては断乎として撃滅手段をとった」旨記載されている。しかし投降部隊の総人数、武装解除の処置、収容した捕虜に対する対応等については記述がなく不明である。} (「南京戦史」、P321)
(3)14日の佐々木支隊の掃蕩
14日は、13日に引続き下関と城内北部などの敗残兵掃蕩を行った。その模様を佐々木少将は14日の日記に次のように記す。
{ 到る処に潜伏している敗残兵を引き摺り出す、が武器は殆ど全部抛棄又は隠匿してゐた。5百、千とゆふ大量の俘虜が続々連れられてくる。} (「南京戦史資料集」、P379)
歩33連隊機関銃中隊の島田勝巳中隊長は獅子山(城内北部)で140~150名の敗残兵を殺害したと記録している。
{ 太平門のあたりでは、多くの敗残兵を捕えたが、“ヤッテシマエ”と襲いかかるケースが多かった。城内掃蕩中でも、獅子山付近で百4,5十名の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した。
中国兵は、小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた。紛戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理を振り返ってみると、「敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される」という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である。} (「証言による南京戦史(9)」、P5)
秦氏は、そのほかにも次のような敗残兵殺害の証言をあげている。要約して引用する。
歩33西田上等兵の日記; {11時30分入城、【挹江門】広場において我小隊は敗残兵370名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケッツを取って着る。面白いことこのうへなし。自動車、オートバイ等も多数捕獲す。各自乗りまはせり、8時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す} (秦:「南京事件」、P120)
歩38志水一枝軍曹の日記; {【挹江門の】開門を施す傍ら横行せる敗残兵を捕捉殲滅す。一部降りて和する者ありしが行動不穏の為92名を刺殺せり・・・} (秦:「南京事件」、P120-P121)
佐々木支隊長は、14日朝に第30旅団命令として「各隊は師団の指示あるまで俘虜を受付くるを許さず」などを出した。中島師団長は13日の日記に、{大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる・・・}註41-3と書いており、この命令は中島師団長の方針に沿ったものであるとみられる。
この方針は心ある将校にとってはショックだったようで、歩38連隊副官の児玉義雄氏は次のように述べている。
{ 連隊の第一線が、南京城1,2キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックをうけた。
師団長、中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましいお人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。 ・・・ 命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。} (「証言による南京戦史(5)」、P7)
南京戦史は次のように弁明している。
{・・・下関に向う急進戦闘間、大量の投降兵を武装解除して収容しようとすれば戦機を逸し、退路遮断の任務を放棄することになる。加えて捕虜として収容監視するに足る予備の兵力もなく、また釈放すれば、12日夜(13日未明)仙鶴門鎮でおきたような我が後方部隊の襲撃事件を招くことになる。} (「南京戦史」、P321)
捕虜殺害の問題については6.5節で詳述するが、第一線にいる将兵の問題というより、日本軍が抱える根元的な問題である。
(5)12月16~17日の城外掃蕩(和平門~復興橋/江岸) (図表4.1⑤)
中島師団長の命により、第30旅団は紫金山北側一帯の掃蕩を行った。歩38は和平門~復興橋間、歩33は和平門~揚子江岸間を掃蕩しているが、その戦果は戦闘詳報などには記載されていない。佐々木少将私記には、{獲物少しとは云え両連隊ともに数百の敗兵を引き摺り出して処分した。} (「南京戦史資料集」、P380)とある。
南京戦史はこの犠牲者を400人とみているが、他の研究者はこれを犠牲者にはカウントしていない。
(6)各派の見解
歩33の戦闘詳報(12月10日~14日)(「南京戦史資料集」、P605)には、3096人(うち将校14人)の捕虜を得て、それを「処断」したことが記載されている。その内訳は不明だが、下関や太平門、和平門、獅子山などで収容した捕虜を殺害したものであろう。
史実派は佐々木少将私記などをもとに、12月13日の「敗残兵殺害」1万数千、「投降捕虜殺害」数千、太平門における捕虜殺害1300、を犠牲者数とみなしている。
中間派の板倉氏と秦氏は戦闘詳報記載の3千を採用、南京戦史はこの3千を2千と見るかわりに獅子山の200人を別にカウントしている。
否定派は、敗残兵の殺害は戦闘行為、捕虜の殺害は「反抗したので殺害」であり、すべて合法としている。しかし、敗残兵殺害はさておき、戦闘詳報という公式資料に「捕虜処断」と書いてある以上、それらがどこでどのような状況で行われ、「万止むを得ざる状況」であったことを示さない限り、合法と言い切るのは無理がある。
(1)城内掃蕩
13日未明に中山門を占領した第19旅団(歩9、歩20)は、引続き城内東部の掃蕩を行なったが、目立った戦果はなかったようである。
{ 12月13日、19旅団の主力は中山門から城内に入り、城内東側の掃蕩を行ったが敵はほとんどおらず銃弾を使うことなく掃蕩は終った。14日は城内および城外の紫金山南部の掃蕩を実施したが、この地域にいた敵は少なく、目立った戦果はなかった。16日、17日にも紫金山南麓を掃蕩したが、敗残兵は見当らなかった。} (「南京戦史」、P166-P169<要約>)
(2)司法部の敗残兵 (図表4.1⑦)
12月14日、歩20連隊第4中隊は城内の掃蕩を行ったが、その陣中日誌には、敗残兵328名を銃殺し埋葬す、とある。これは、中山路にある司法部と思われる建物から便衣に着がえた敗残兵を摘出し殺害したもので、その敗残兵の摘出と銃殺に携わった増田六助上等兵の手記を要約引用する。
{ 明れば14日、難民区に掃蕩に行く。・・・ 大きな建物に入ると、数百名の敗残兵が便衣に着がえつつあるところを見つけた。傍らには小銃、拳銃、青竜刀等が山ほど積んである。 ・・・ 片端から引っ張り出して裸にして持物の検査をし、電線でジュズつなぎにする。木の枝や電線で力まかせにしばき付けながら「きさま達のために俺たちはこんな苦労をしているんだエイッ」ピシャン「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲になっているかも知れんのじゃエイ」ピシリ。・・・しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも300人くらいはいる。多すぎて始末に困った。
委員会の腕章をつけた支那人に「你支那兵有没有」と聞くと、向こうの建物を指差して「多々的有」と言うので、入ってみると一杯の避難民だ。そのなかから怪しそうな1千人ばかりを1室に入れ、さらに300人を選り出した。夕闇せまるころ、600人近くの敗残兵を引き立て玄武門に至り、その近くで銃殺した。} (「南京難民区の百日」、P221-P222<要約>)
(3)司法部の敗残兵・・続き (図表4.4①)
2日後の16日、再び日本軍の掃蕩があり、「司法部にいた警察官や民間人を含めた総計2000余人を捕え、漢中門外で殺害した」註41-4とこの事件の生き残りである伍長徳氏は証言している。
16日の安全区掃蕩は第9師団の歩7連隊が担当していたので、16師団ではなく9師団の可能性がある。このとき、日本軍将校はその場にいた安全区国際委員会のアメリカ人に暴行を働き、抗議を受けている。安全区国際委員会から日本大使館にあてた抗議文書を以下に要約して引用する。
{12月16日朝、将校1名に引率された日本兵の一隊が司法部へやって来て、そこの人々の大部分を銃殺すべく連行するといった。・・・
12月14日、将校1名が司法部へ来てそこの人々の半数を取調べ、そのうち2~300人を元中国兵として逮捕・連行し、330名は民間人と認めて残した。そのときの取り調べは大変注意深く行われた。残りの半数は15日に調べると言ったが、15日には将校は来なかった。16日になってある将校が来て、「14日にすべての兵を連行したが、16日にこのグループに中国兵が発見されたのは、警察と我々が中国兵を潜りこませたのだ」と主張した。我々がこのグループに加えたのは日本兵により他の家から追い出された民間人を加えただけだった。16日に中国兵が発見されたのは、15日に日本軍がグループの半数を取り調べなかったためである。
12月16日のこの事件は、マッカラム氏とリッグス氏の目撃するところであった。この過程で、将校は刀で3度にわたってリッグス氏を脅し、ついには彼の胸を拳で2度も強打した。} (「安全地帯の記録」、P168-P170 <国際委員会第11号文書「司法部における事件に関する覚書」>)
(4)各派の見解
史実派と中間派はともに不法行為と認定している。
否定派は、{敵弾が西方より飛んでくる中で中国兵と遭遇し、そのまま追撃して328名を捕え、銃殺したものと思われる。}(「再現 南京戦」、P228) として、この事件は合法と主張している。しかし、建物の中にいた兵士らしきものを選別してから銃殺、という静的な状況で殺害していることは明確であり、敵弾がビュンビュン飛んでくるような緊迫した状況ではない。詳細は註41-5を参照。
(5)第16師団入城式
12月15日、全軍の入城式に先だち16師団は入城式を行った。中島師団長は日記に次のように記している。
{ 既に一部掃蕩隊が入城しありたるも此日新たに入城式の形式を以て南京占領の一段落をつくることとせり。各隊は事後処理の任務遂行に差支なき範囲に於て代表部隊を堵列せり師団司令部各部隊長陪従の上大元帥陛下の万歳を三唱し、今日こそ真に樽酒に口つけ飲まんということにして祝盃を挙げたり。} (「南京戦史資料集」、P328)
(1)馬群における捕虜殺害 (図表4.1⑥)
12月14日、歩20の第12中隊は、紫金山南麓の馬群で輜重隊を襲った敗残兵の掃蕩に向い約300名の捕虜を得たが、その日のうちに全員を銃殺した。この銃殺に加わった牧原信夫上等兵(歩20連隊第3機関銃中隊)の12月14日の日記には次のように書かれている。
{ 残敵が食うに食が無い為ふらふらと出て来たそうで直ちに自動車にて出発す。而し到着したときには小銃中隊にて310名位の敵の武装解除をやり待って居たとの事、早速行って全部銃殺して帰ってきた。昨夜は此地の小行李を夜襲し、小行李も6名戦死して居た。} (「南京戦史資料集」、P511)
この捕虜の様子を佐々木元勝郵便長の部下が目撃している。以下は、佐々木元勝氏の野戦郵便長日記(12月16日)からの引用である。
{ これは吉川君が実見したのであるが、わが兵7名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を振り、意気地なくも弾薬集積所に護送されてきた。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。殺すときは、全部背後から刺し、2度突き刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が1名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中3人は水溜りに自ら飛び込み、射殺された。} (「証言による南京戦史(9)」、P11)
(2)紫金山周辺で800名殺害 ・・・ 歩20連隊第3機関銃中隊 北山与上等兵の日記
{ (12月14日)午後2時、戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時すぎ掃蕩からかえる。800名ほど武装解除したらしい。みんな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなぞと想っていまい。学生が主力らしく大学生なぞたくさんいたという。生かしておけばずいぶん世界文化の発展に貢献する人もあるだろうが、惜しいものだ。尊い生命がなんの(ちゅうちょ)もなく失われていく。戦争の酷裂[烈]な姿をつくづく感じる。} (「南京難民区の百日」、P261 原典は京都師団関係資料集P71)
(3)岔呂口付近での焼死体 ・・・ 歩20連隊第3機関銃中隊 牧原信夫上等兵の日記
{ 【12月14日】 岔呂口手前1里半のところで9中隊は1ケ分隊の兵力で約1800名からの支那軍を連れて帰るのに出会った。 ・・・ 鉄道線路すぐ岐れ目の所には百余りもの支那軍が友軍の騎兵の夜襲を受け、全滅していた。 ・・・ 亦6名の敗残兵を捕えて銃殺す。直に部落の掃蕩をやったが、唯の1名も居なかった。 ・・・ 今一つ異風景は或る部落の車庫に敵が150~160名油をかけられて焼かれて死んで居た。} (「南京戦史資料集」、P511-P512)
(4)各派の見解
史実派は(1)~(3)の事件をすべて犠牲者数のカウント対象にしている。中間派は、馬群の事件のみ対象にしている。秦氏と板倉氏は対象事件の一覧表には掲載していないが、本文で触れている。
否定派は、{逃走の中国兵集団を撃退したあと、被拘束兵を捕虜として受け入れずに銃殺に処している。}(「再現 南京戦」、P118) と、述べているが、牧原日記には「武装解除をやり待っていた」と書かれており、佐々木郵便長の日記を見ても捕虜として受け入れていることは明白である。詳細は註41-6を参照。
4.1節の註釈
註41-2 <歩38の2000人の犠牲者> 秦:「南京事件」、P210
(表5 捕われて殺害された中国兵の推計)の表で期間と場所が空欄のまま、歩38で2000人の犠牲をリストアップしている。
註41-3 <中島今朝吾日記(12月13日)> 偕行社:「南京戦史資料集」、P322-P326
捕虜に関連する部分を以下に引用する。捕虜の試し斬りは師団長自らやらせていたことがわかる。有名な「大体捕虜はせぬ方針なれば・・・」については、6.5節で詳しく述べる。
{12月13日 天気晴朗
一.本日正午高山剣士来着す。 捕虜7名あり直に試斬を為さしむ。 時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸二つを見事斬りたり ・・・
一.大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くるとなしたれ共千5千1万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひゾロゾロついて来るから安全なるものの、之が一旦騒擾せば始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり・・・
一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約1万5千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約1300 其仙鶴門附近に集結したるもの約7,8千人あり尚続々投降し来る
一、この7,8千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百2百に分割したる後適当カ処にて誘きて処理する予定なり }
註41-4 <伍長徳氏の証言> 「証言・南京大虐殺」、P22
{1937年12月15日※、日本軍は司法院難民収容所において、制服着用の警察官百余人と軍服を脱ぎ換えていた者3百余人、ほかに軍民千余人、総計2千余人を捜索のうえ捕え、全員を室外に追い立て、4列縦隊に並ぶよう命令し、漢中門外まで押送してのち、機関銃で掃射し、さらにたきぎとガソリンで焼却した。}
※15日は16日の誤り
東中野氏は、歩20第4中隊の戦闘詳報「・・・敗残兵328名を銃殺し埋葬す」を引用した後、増田六助日記や国際委員会の文書には触れずに、{たまたま【歩20の】掃蕩区域において中国兵と遭遇し、そのまま追撃して【他の部隊の】掃蕩区域に入ったのであろう。そしてそこで328名を捕え、銃殺したものと思われる。・・・これはすでに見たように・・・「敵弾は西方より来る中を」の状況と同じ状況のことであったようだ。} と述べている。中山路の安全区側にある司法部は歩20の担当区域外で、それを説明するのを兼ねてこのような論理を展開したようだが、南京戦史では{第4中隊の掃蕩区域は一部安全区内を含んでいた}(P328)としており、担当区域外かどうかは無関係である。
増田日記や国際委員会文書を見ればとても「追撃して銃殺」といった状況でないことは明確である。
東中野氏は、牧原信夫日記を引用した後、{・・・16師団は拘束した逃走兵から手榴弾を投げられ、収拾のつかない苦い経験をしていた。これらのことが原因となって、・・・ 被拘束兵を捕虜として受け入れずに銃殺に処している}と述べている。引用した牧原日記には{小銃中隊にて310名位の敵の武装解除をやり待っていた}と記録されているが、「武装解除」したのを無視して、「捕虜として受け入れず」と断定している。しかし、同じ「再現 南京戦」の堯化門の捕虜に関する記述(P120)では{「武装解除しました」とある以上、京都16師団はこの時点で彼らを「捕虜」にしていたことになる}と述べており、矛盾している。