4.3 幕府山の捕虜 

幕府山は、南京城の北東にある標高200メートルほどの山で、南京事件当時は中国軍の砲台があった。(※日本では“バクフサン”と読むらしい)

会津若松第13師団の山田支隊(歩103旅団長 山田栴二少将 歩65連隊基幹)が幕府山付近で捕えた捕虜は1万5千とも2万ともいわれており、南京事件で最大の規模である。史料の発掘も進み、活発な議論が行われているが、いまだに不明なところが多い。

図表4.3 幕府山の捕虜   

4.3.1 2つの説

事件の経緯及び認識には2つの説がある。一つは事件の当事者である歩65連隊長 両角業作大佐の手記にもとづく説で、「自衛発砲説」とも言う。もう一つは福島在住の自称「化学労働者」でこの惨劇にかかわった元日本兵たちのインタビューや史料蒐集を行った小野賢二氏とそれを支援した史実派の研究者たちの説である。ここでは、前者を「両角説」、後者を「小野説」と呼ぶことにする。

(1)両角説(自衛発砲説)

両角手記は戦後になって書かれたもので、昭和37年1月中旬、福島民友新聞記者の阿部輝朗氏に貸し与えられたものを筆写し保存していたもの(「南京戦史資料集Ⅱ」P341である。当初はこれが「通説」とされていた。以下は、「南京戦史資料集P339-P341にある「手記」からの要約引用である。

①民間人の釈放
捕虜の数は15,300余。この中には婦女子、老人など南京から落ちのびた市民が多数いたのでこれを解放した。残ったのは約8千人であった。

②火災により半数が逃亡
炊事の途中で火事が発生し、大きな混乱となった。この出火は捕虜による計画的なもので、混乱に乗じて半数が逃亡した。夜なのでよく見えなかったが、少なくとも4千人位は逃げ去ったと思われる。

③「捕虜は処置せよ」との命令に対し「解放せよ」と指示
軍は強引に命令をもって“処置”をせまり、山田少将は涙を飲んで私(両角大佐)に因果を含めた。私は、いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ!」と田山大隊長に「捕虜を夜陰に乗じて舟で対岸に送り解放せよ!」との指示を与えた。

④夕方捕虜の集結が終ったとの報告を受ける
(入城式から)夕刻もどったら、田山大隊長から「俘虜の集結が終った」との報告を受けたが、深夜12時ごろになって、にわかに銃声が起った。

⑤捕虜が騒いだのでやむなく銃殺
軽舟艇に2~300人の捕虜を乗せて長江の中流まで行ったところ、対岸にいた支那兵が日本軍の渡河攻撃と勘違いして発砲してきた。これを見た残りの捕虜は、この銃声を自分たちを銃殺するものと勘違いして騒ぎ出した。やむなく銃火をもって制止に努めたが、大部分は逃亡、銃火に倒れたのはわずかであった。

⑥山田少将も納得
ありのままを少将に報告したところ、少将も安堵し「我が意を得たり」の顔をしていた。

1988年に阿部輝朗氏は、{歩65参戦者約100人の証言をまとめた結果、16日に捕虜の一部(500~2000人)を中国海軍碼頭付近(上元門上流約3キロ)に釈放のため連行(目的は釈放のため)したところ、途中で騒乱状態となったので、暴動鎮圧のため機関銃により暴動集団の主力を射殺した}(「南京戦史」、P325、と両角説を一部修正している。

(2)小野説

小野氏は歩65の元兵士や下級将校に聞き取り調査をおこない、証言総数約200、陣中日記等24冊などを入手し分析した結果、両角説は誤り、としている。小野氏が蒐集した日記等は「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」に収録されている。以下は、「南京大虐殺否定論13のウソ」P140-P156からの要約引用である。    ※以下「13のウソ」と略す

①非戦闘員の解放は行われなかった
14日時点の捕虜数は14,777名、その後も捕虜を獲得し1万7千~1万8千にのぼった。この時、非戦闘員を解放するのを見たという証言はひとつもなく、解放は行われていない。

②火災は発生したが、捕虜は逃亡していない
元兵士たちの日記や証言によれば、火災が発生したのは夜ではなく、16日の昼ごろで捕虜の逃亡もそれに対する銃撃もなかった。

③16日夜一部の捕虜が銃殺された
軍命令により、長江岸の魚雷営で2~3千人が(試験的に?)銃殺され、死体はその夜のうちに長江に流された。

④17日に残りの捕虜を銃殺
上元門から約2キロ下流の大湾子で銃殺が行われた。銃殺は18日の朝がたまで続き、死体処理には18,19日の2日間かかった。

⑤「自衛発砲説(=両角説)」は作り話
これまでの調査で、「捕虜を解放するために連行したが、捕虜が暴動を起こしたのでやむなく銃殺した」という「自衛発砲説」は作り話であり、殺害の意図をもって江岸に連行し「虐殺」したものである。

(3)両角説に沿った証言・・・平林貞治氏の証言

平林氏は事件当時歩65の連隊砲中隊小隊長(少尉)であり、両角説に近い証言をしている。否定派の元祖とも言うべき鈴木明氏のヒアリングによる証言を以下に引用する。(「 」で囲んだ部分が平林氏の発言部分である)

{ 「大量の捕虜を収容した。たしか2日目に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは憶えていません。もっとも、逃げようと思えば簡単に逃げられそうな竹がこいでしたから・・・それより問題は給食でした。・・・」
 平林氏は「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」ときいていた}という。・・・
「・・・出発は昼間だったが、わずか数キロ(2キロくらい?)のところを歩くのに何時間もかかりました。とにかく、江岸に集結したのは夜でした。・・・舟がなかなか来ない。考えてみればわずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのははじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙にわれわれに向ってワッと押し寄せてきた感じでした。殺された者、逃げた者、水に飛び込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ真っ暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。次の日、全員で死体の始末をしました。・・・ 我が軍の戦死者が少なかったのは、彼らの目的が、日本軍を“殺す”ことではなく、“逃げる”ことだったからでしょうね。向こうの死体の数ですか?さあ、千なんてものじゃなかったでしょうね。3千ぐらいあったんじゃないでしょうか・・・」}(鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」、P220-P222

この証言の4年後、否定派の研究者である田中正明氏のヒアリングで再び証言しているが、その内容は大きく変化し、ほとんど両角説と同じになっている。以下はその主な相違点であるが、本質的な部分が違っており、証言の信頼性が疑われる。田中ヒアリングの証言内容は43-1を参照されたい。

・鈴木ヒアリングではなかった「非戦闘員の釈放」が田中ヒアリングでは追加されている。

・火事により「逃げたかどうかは憶えていない」が、「半数が逃亡」になっている。

・鈴木ヒアリングでは、「捕虜は鎮江に送り返す」と述べているが、田中ヒアリングでは解放先は述べていない。(→鎮江は南京から50km以上離れており、送り返す場所としてふさわしくない)

・騒動が始まったのは、鈴木ヒアリングでは夜で舟を待っているとき、田中ヒアリングでは薄暮で列の最後尾がまだ行進しているとき。(→銃殺現場にいたならばこんなことを間違えるはずがない)

・死体の数は、鈴木ヒアリングで「3千ぐらいあったでしょうね」が、田中ヒアリングでは「千~3千人ぐらいと言われ」と他人が言っているような表現に変っている。

(4)史料の信頼性

南京戦史資料集Ⅱは、両角手記について、

{ 『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない}(「南京戦史資料集Ⅱ」、資料解説P12

としているが、捕虜獲得後の民間人解放や火事による捕虜逃亡は現場にいた将兵の日記には記載されていない、など不審な点が多い。

 一方、小野氏が蒐集した日記等は事件現場で書いたものであり、現場で起きたことについては信頼性が高いが、下級将校以下のものなので、大局的な見方はできていない、うわさ話や憶測も多い、という点に注意が必要。「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(以下、「・・・皇軍兵士たち」と略す)には18件の日記と1件の手紙が掲載されているが、非難、中傷などを受ける恐れがあるため、本人の希望がある16件は仮名になっている。 

4.3.2 捕虜の収容

(1)捕虜の収容

山田支隊は12月12日夕方鎮江を出発、13日烏龍山砲台を占拠、14日朝に幕府山砲台を占領した。捕虜獲得の様子を歩65連隊本部通信班の斉藤次郎輜重特務兵は次のように記す。

{ 14日 午前4時起床、5時出発する。・・・行軍約半里にして手榴弾位の爆音が前方30間の処で聞こえる。・・・戦友5名が重傷した。・・・第一大隊の捕虜にした残敵を見る。其数5~6百名はある。前進するに従ひ、我部隊に白旗を掲げて降伏するもの数知れず。午後5時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す。若い者は12才位より長年者は50の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思われる。山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば1万4千余名が我が軍に降った。} (小野賢二他:「・・・皇軍兵士たち」、P17

山田支隊長の14日の日記でも大量の捕虜に困惑している。

{ 幕府山は先遣隊により午前8時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり。捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門の学校に収容せし所、14,777名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり} (「南京戦史資料集Ⅱ」、P331

(2)民間人の解放

「・・・皇軍兵士たち」に掲載されている19件の日記等のどれにも捕虜獲得直後に民間人を解放したという記録もそのような形跡もなく、小野氏が得た約200の証言にもない、という。

また、上記証言にもあるように捕虜は雑多な服装をしていたようだが、その大半は民兵や雑兵(物資輸送、軍事施設建設、その他の雑用などを担当)とそれらの家族でなかったか、と思われる。後述の栗原利一氏のご子息は父親から聞いた話として、{捕虜の中には家族持ちの捕虜が200人くらいで、その人達の奥さんや子供なども捕虜には含まれていた}43-4と述べている。

(3)軍の命令

(a)山田栴二少将の日記

{ 12月15日; 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す、皆殺せとのことなり、各隊食糧なく困却す
12月16日; 相田中佐をに派遣し、捕虜の仕末其他にて打合せをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊長大役なり・・・} (南京戦史資料Ⅱ、P331-P332

使者の派遣先を15日は「南京」、16日を「軍」と記している。「軍」は上海派遣軍であろうが、「南京」がどこを指すのか不明、山田少将はどこからどのような指示又は命令をうけたのかわからない。

(b)長勇(ちょう いさむ)中佐の独断指示?

山田少将にヒアリングした鈴木明氏は、15日に「皆殺せ」を言ったのは上海派遣軍参謀(中支那方面軍参謀も兼務)長勇中佐だったのではないか、と推測している(鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」、P215。秦氏も{命令違反や捕虜虐殺も、彼を知る人の間では「長ならやりかねない」とうなずく人が多い。}(秦:「南京事件」、P144と長中佐が指示した可能性を否定していない。ただ、それは長中佐の独断で出した「指示」であって、軍としての「命令」ではない。

(c)南京戦史の見解

南京戦史では次のように述べ、軍の方針は「収容する」であったと思われる、としている。

{ これら大量の捕虜取扱いについて軍司令部と山田支隊間の交渉経緯なかんずく軍として支隊に与えた指示も明らかでなく、(飯沼日記43-2では)「15日・・・とりあえず16D(16師団)に接収せしむ」とあるのみでその結果も明らかでない。しかし、12月21日の(飯沼)日記に「上海に送りて労役に就かせしむる為・・・」とあるところを見ると、軍としては「捕虜を収容する」方針であったように思われる} (「南京戦史」、P326

(d)否定派(東中野氏)の見解

「南京虐殺の徹底検証」(P130-P131では、山田旅団が所属する第13師団の命令、としていたが、この当時13師団は揚子江北岸で別の任務についており南京附近にはいなかった。そこで、「再現 南京戦」では、南京に司令部があった16師団に本間少尉を派遣し“意見”を聞いたところ「皆殺せ」と言われたが、これは意見であって命令ではない、と解釈を変更している。わざわざ他の師団に“意見”を聞きに行くとは思えないが・・・

(e)史実派の見解

{ 参謀一人の独断命令や山田支隊単独の判断で捕虜約2万人の大量虐殺など実行できるわけがなく、軍命令によって計画的・組織的に行われた。軍命令であったことは陣中日記にも記載されている}(「13のウソ」、P145

(f)別の見解

「南京事件の真実」というサイトを運営する“タラリ”氏が提示する見解は、史料との整合性がある見解である。以下、著者なりに要約させていただいた。詳細は、ココを参照

15日の山田少将の日記では「本間騎兵少尉を南京に派遣し・・・」となっているが、当時、上海派遣軍の司令部は南京郊外の湯水鎮にあった。南京市内に司令部があったのは第16師団である。飯沼日記の「16師団に接収せしむ」は16師団に捕虜を引き取らせようとしたと考えられる。そこで、山田少将は捕虜の引き渡し方法などについて16師団と相談するために本間少尉を派遣したが、16師団は捕虜の引き取りを断り「皆殺せ」と言った。山田少将は翌16日に相田中佐を(上海派遣)に派遣し、16師団の回答を伝えて善処を要望したが、軍は16師団を説得しようとはせず、「何とかせい」と突っ返した。山田少将は19日に揚子江を渡って第13師団に合流する命令を受けていたから、捕虜は殺害するしかなくなった。

※鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」に掲載されている“山田メモ”には「本間少尉を師団に派遣せしところ『始末せよ』との命を受く」とある。

(4)収容所の場所

捕虜の収容所の場所については3つほどの説がある。(図4.3照)  前述の“タラリ”氏は、収容所はひとつではなく、2つあった、と主張する。詳細は  

4.3.3 収容所の火事

(1)兵士たちの証言

「・・・皇軍兵士たち」に掲載の日記で16日に火災があったことを記しているのは4名いるが、いずれも発生時刻は正午頃であり、火災に紛れての逃走、それに対する銃撃を記したものは1件もない。

宮本省吾少尉;{午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり3分の1程延焼す、午後3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す} (「・・・皇軍兵士たち」、P134

遠藤高明少尉;{午后零時30分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同3時帰還す、・・・ 捕虜総数1万7千25名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出Ⅰ(第一大隊)に於いて射殺す。一日2合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し} (「・・・皇軍兵士たち」、P219

この2人は「16日の夕刻、捕虜の一部を射殺した」と記しているが、その模様を記した日記もある。

黒須忠信上等兵;{2,3日前捕虜せし支那兵の一部約5千名を揚子江の沿岸に連れだし機関銃を以て射殺す、その後銃剣にて思う存分に突刺す、自分もこの時ばかりと憎き支那兵30人も突刺した事であろう。山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力いっぱい突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった。}(「・・・皇軍兵士たち」、P350-P351

福島民友新聞の阿部輝朗氏は、「この日の夕方、捕虜の一部を釈放のため連行したが、騒がれたので射殺した」(4.3.1(1)参照)としているが、上記の日記からは「釈放のため」とか「騒がれたので」といった状況は読み取れない。

(2)東中野氏の見解

東中野氏は、{捕虜の放火にたいする「最後の取るべき手段」、すなわち関係者処刑の軍命令が出て、4千人のうちの「約3千」もしくは「3分の1」を処刑し、残るは2千名前後となった。}(「再現 南京戦」、P164としている。

4千から3千又は3分の1を引くとなぜ2千になってしまうのかはさておき、「捕虜の放火にたいする最後の取るべき手段」とは、放火計画に参加した者たちを処罰するためか、単に見せしめのためなのか、わからない。前者だとすれば、犯人を選り分ける作業と裁判が必要だと思うが、4千人から2千人を選別するのが数時間でできるはずがないし、見せしめのための殺害が合法であるはずもない。そもそもこの放火が計画的である、ということは両角手記にも書いてあり、東中野氏もそれを踏襲しているが、計画的と判断する根拠は何も示していない。  

4.3.4 残った捕虜の殺害

(1)栗原利一氏の証言

栗原氏は歩65連隊第2中隊伍長でこの捕虜銃殺に参加し、約1年後に漢口攻略の途中で負傷して療養中に当時の状況をスケッチブックに絵入りで描いていた。1984年8月の毎日新聞にその時の状況をスケッチブック43-3に基づいて証言した記事が掲載された。その直後に本多勝一氏がインタビューした記事が朝日ジャーナルに掲載され、「南京への道」にも転載された。以下は、「南京への道」からの要約引用である。

{ 収容されてからの捕虜たちの生活は悲惨だった。一日に小さな茶碗に飯1杯だけ、水さえ支給されないので小便を飲む捕虜もいた。
捕虜群を処理したのは入城式の17日であった。捕虜たちにはその日の朝「長江の長洲八卦州】へ収容所を移す」と説明した。全員をうしろ手に縛って出発したときは午後になっていた。4列縦隊の長蛇の列は、丘陵を西から迂回して長江側にまわり、4キロか5キロ、長くても6キロ以下の道のりを歩いた。行列から突然飛び出してクリークに飛び込んだ者が2人いたが、ただちに射殺された。
捕虜の大群はこうして長江の河岸に集められた。分流の彼方に八卦州が見え、小型の舟も2隻ほど見えた。捕虜の列の先頭が着いてから3時間か4時間たつころ、捕虜たちもおかしいと気付いた。移送する船など見えないし、川岸にそのための準備らしい気配もない。それどころか、捕虜が集められた周囲は日本軍に半円形状にかこまれ、たくさんの機関銃が銃口を向けている。
あたりが暗くなりかけたころ、「少尉が刀を奪われて殺されたらしい、気をつけよ」との警告があり、それからまもなくして一斉射撃の命令が出た。機関銃が捕虜の大集団に一挙に集中砲火をあびせる。逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めて巨大な人柱ができた。水平撃ちの銃弾を避けるために次々と倒れる人体を足場に必死に駆け登ろうとしたのだろう。一斉射撃は1時間ほど続き、立っている者は一人もいなくなった。それから夜明けまでかけて死体の山に放火し、動いている者を銃剣で刺殺した。 ・・・ 捕虜以外の一般人の無差別虐殺は全くしなかった。} (本多勝一「南京への道」、P310-P318

(2)証言のあと・・前言の訂正

毎日新聞や本多勝一氏への証言は、当時主流だった両角説をくつがえす内容であったため、栗原氏のもとには脅迫めいた電話や手紙、戦友や上官から証言を取り消すべきといった“忠告”などが殺到した、と栗原氏のご子息は述べている43-4

その後、否定派の研究者である畠中秀夫氏(現在のペンネームは阿羅健一)の聞き取りに対して、栗原氏は、「30万人虐殺に抗議するつもりだったのが、逆にそれを肯定するような記事になってしまった、捕虜殺害は戦闘として行ったもので虐殺ではない、殺害したのは1万3千余ではなく4~5千である」など当初の証言を変えた。

栗原氏のご子息は毎日新聞/本多勝一に話した方が正しい、と述べているが、真相はわからない。栗原氏は、証言することにした動機は{事実は事実としてはっきり認め、その代り中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしい} (「南京への道」、P310と、述べている。

南京戦史(P766)に掲載されている栗原証言は、変更後の証言に基づいているが、銃殺状況に関する事実関係は、本多勝一氏がヒアリングしたものとほぼ同じで、違うのは次の3点くらいである。

・「全員をうしろ手に縛って」は、「形だけだが手を縛り」となっている。

・「4列縦隊で出発したが、揚子江側に回り込んでからは道が狭く4列では歩けなかった」が追記され、キロの記述はなくかわりに所要時間が2時間くらい(訂正前は3~4時間)、となっている。

・最後に次の文章が追加されている。「これは『虐殺』ではなく、『戦闘』として行ったもので、その時は『戦友の仇討ち』という気持ちであり、我が方も9名が戦死した」

(3)死体の始末

多くの兵士が死体の始末にかりだされ、その様子を記録している。

遠藤高明少尉;{18日 午前1時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同3時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、同8時30分完了・・・午後2時より同7時30分まで処刑場死体一万有余取り片付けのため兵25名出動せしむ。  19日 前日に引き続き死体取り片付けの為、午前8時より兵15名差出す} (「・・・皇軍兵士たち」、P220

大寺隆上等兵;{19日 午前7時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかかり作業を終る。} (「・・・皇軍兵士たち」、P197)

(4)殺害場所

17日の殺害場所については上元門と観音門の中間点とする説と観音門に近い地点とする説がある。(図4.3照)  

4.3.5 各派の主張

この事件に関する論争の焦点は、次の2点である。以下、この2点を中心に各派の主張を整理する。

・釈放(=解放)が目的だったのか・・

・犠牲者数はどのくらいか・・

なお、この項では「南京事件―日中戦争 小さな資料集」というサイトを運営する“ゆう“氏の調査結果を参考にさせていただいた。詳細ココ参照

(1)史実派

「・・・皇軍兵士たち」や「栗原証言」」など主として現場にいた将兵たちの証言を根拠に、{山田支隊の約2万人の大量捕虜は軍命令により、命令に忠実な兵士たちによって非戦闘員を含む全員が虐殺され、長江に流された}(「13のウソ」、P155としている。

犠牲者数を2万としたのは、捕虜を収容した14日の時点ですでに14,777名がカウントされ、その後も続々と投降する者がいた、「・・・皇軍兵士たち」で証言している多くの将兵が捕虜は2万人以上としている、などだと思われる。(※証言者18人中9人が2万人、2人が2万5千人としている)

(2)中間派(秦氏)

秦氏はその著書「南京事件」で、朝日新聞記事、鈴木明氏の山田旅団長ヒアリング、栗原伍長証言、その他史料をもとに事件の経緯などを解説したあと、{山田支隊関係者の多くはハプニング説をとるが、もし釈放するのならなぜ昼間に連れ出さなかったのか、後手にしばった捕虜が反乱を起こせるのか、について納得の行く説明はない}(「南京事件」、P148 と書き、釈放説に疑問を呈している。

犠牲者数については、{端数までついているので、正確にカウントしたかに思えるが、実数は8千ぐらい(『ふくしま・戦争と人間 Ⅰ白虎篇』)との説もある}(同P141、として8千人と推定している。

(3)中間派(南京戦史)

南京戦史資料Ⅱで「幕府山附近での捕虜処分について――その総合的観察」として、「その全体像を描くことは困難である」として、その理由を次のように述べている。以下要約して引用する。

{1.戦闘詳報、陣中日記など公的記録が発見されていないので、捕虜処分が目的なのか、解放目的で連行中の突発事故なのか断定できない。

2.連行前に捕虜に「解放する」と告げたことは事実と思われるが、第一次資料であっても南京戦後60年に近い現在、その真偽を断ずることは不可能に近い。

3.16,17日の2回事件のあったことが察せられるが、山田、両角日記、栗原証言、いずれにもそれを窺わせる記述はない。3者とも触れていない理由は何だったのか?

4.当初の捕虜数は1万4~5千と記されているが、我に10倍近い捕虜を収容し、監視し、連行しそのことごとくを射殺するなど果たして可能であったのか。脱出した数が多かったことは飯沼・上村日記からも察せられるが、収容数、処分数などの実数は不明である。2千に足らぬ連隊員が「大虐殺」のために忙殺されている様子は窺えない。} (「南京戦史資料Ⅱ」、資料解説P13

犠牲者数については、南京城北方に取り残された中国軍将兵の数(推定値)をもとに、{捕虜の総数は14日降伏当初においても6~8千人程度であろう}(「南京戦史」、P327とし、このうち半数が逃亡、半数が処断されたとみて、犠牲者数を3千人としている。

幹部の日記はある程度信頼しているようだが、下級将校や兵士の日記などはほとんど信頼していないようだ。偕行社という団体の性格からすればやむをえないだろう。しかし、次のような疑問がある。

(a)3千もの逃亡者があるのに、それを目撃した者が一人もいないというのはどうみても不自然。

(b)死体の始末に丸2日もかかっているが、3千体を河に流すのにそんなにかかるだろうか。

(4)否定派(東中野氏)

東中野氏は、1998年の「南京虐殺の徹底検証」、2007年の「再現 南京戦」のいずれも両角説をもとに一部捕虜殺害を認めているがそれは合法的なものであった、と主張している。「再現・・・」の内容をもとにそのシナリオをまとめれば、「捕虜は当初1万5千余いたが、民間人を解放して8千になり、火事で逃亡して残り4千になり、うち2千を16日に処罰(4.3.3項参照)、17日に残りを解放しようとしたが一部は逃亡、一部は射殺した、となる。

17日の「処刑」が解放目的であることの根拠について、「徹底検証」では秦氏の指摘(なぜ昼間でないのか)や「・・・皇軍兵士たち」の証言への反論43-5などを根拠にしているが、「再現」では更に多くの状況証拠をあげている。以下、その主なものを記す。

①夜間に草鞋州(注.八卦洲の別名)に解放したのは日本軍と衝突する危険を避けたからである (「再現 南京戦」、P167
小野氏は虐殺が夜間に行われた理由として{虐殺の準備・捕虜の連行・虐殺の実施という全過程の秘密保持のためである}(「13のウソ」、P150と述べているが、これは秦氏の指摘と同じ趣旨で、他人に見られたくないことは夜やる、のである。
また、両角手記では夕方に集結終了の報告を受けたのに、銃殺を開始したのが深夜12時となっており、東中野氏もそのシナリオに乗っているが、兵士らの証言によれば深夜12時は銃殺が終り刺殺を行っていた時間なのである。

②日本軍の兵士が死んだのは味方の銃弾によるもので、処刑が目的であれば起きえなかった (「再現 南京戦」、P172)
→目的が何であれ、不慮の事故は起きる。小野氏によれば次のような証言がある。{なんらかの事情で何名かの整理兵が鉄条網の外に出られず、捕虜とともに銃殺された。死者の一人である少尉は銃撃のあと、軍刀で捕虜の試し斬りを始めたところ、捕虜に刀を奪われ殺されたという} (「13のウソ」、P151-P152

このあと、次々と「状況証拠」をあげる。

③両角連隊長の言葉「解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう」とは、両角部隊が捕虜を解放したという事実がなければ、発せない言葉である。(「再現 南京戦」、P172

④捕虜収容時、日本軍は「皇軍はお前たちを殺さぬ」と捕虜に向って宣言している(同上、P174

⑤殺害しようとしているのならば捕虜のために必死になって食糧を調達するはずがない(同上、P175

⑥もし不法な殺害だったならば、逃げた捕虜が政府に実態を伝え、国民党宣伝部は格好の宣伝材料として利用したはずだが、その形跡はない(同上、P178

そして最後にこうしめくくる。{命令があったという確証はなかった。組織的な不法殺害という明確な証拠もなかった。にもかかわらず、一つの短い記述だけを以て、虐殺の証拠と判断することは速断にすぎよう}(同上、P179 

確かに「組織的な不法殺害」という明確な証拠はない。しかし、東中野氏があげている状況証拠だけで、目的は「解放」であったと断言するのも「速断」にすぎよう。次のような疑問は、この事件が限りなくクロ、つまり不法殺害である可能性を示唆している。

(a)「銃殺」に参加した多くの兵士たちは、機関銃掃射後に死体に火をつけ、動く者を刺殺したと証言している。解放しようとしたのであれば、そんなことをする必要はないはずである。

(b)東中野説によれば、17日の時点ですでに1万1千人もの捕虜が逃亡している。残りの2千人をわざわざ危険で面倒な移動をさせるまでもなくその場で解放すれば済むことではないか。

(c)捕虜を渡すための舟が十分な数だけ用意できたという証言はない。捕虜を舟に乗せた、という証言もない。栗原氏は「舟は遠ざけて」と証言している。

(d)死体を運ぶために使用したレの字型に切った木の枝を、あらかじめ用意していた可能性が高い。詳細は43-6を参照。

(e)2千人――逃亡者もいたのでもっと少ないはず――の死体始末に丸2日もかかるとは思えない

仮に釈放目的で連行し騒動が起きたので殺害したとしても、いったん収容した捕虜を適切に管理する責任があるはずで、100%無罪ということはありえないのではないだろうか。  

 


 

                    

  


 4.3節の註釈

43-  <田中正明ヒアリングによる平林貞治氏の証言>  「南京事件の総括」、P59-P61

田中氏は証言の内容を「概要」として箇条書きにしている

{① <省略>

②上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず、やはり疲れていた。山田旅団長命令で非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した

③2日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ほっとした ・・・

④・・・捕虜は約4千、監視兵は千人足らず、・・・出発したのは正午すぎ、列の長さ約4キロ、私は最後尾にいた

⑤騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険阻となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた

⑥最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一杯であった

⑦ <省略>

⑧翌朝私は将校集会所で、先頭附近にいた一人の将校が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵6名が死亡、10数名が重軽傷を負った旨を知らされた。

⑨その翌日全員又使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終ったと記憶する。中国側の死者千~3千人ぐらいと言われ、葦の中に身を隠す者を多く見た・・・」 }

43-2  <12月15日と21日の飯沼日記>  「南京戦史資料集」、P216P222

{15日 ・・・ 山田支隊の俘虜東部上元門付近に1万5~6千あり、尚増加の見込みと、依て取り敢へす16Dに接収せしむ・・・}

{21日 ・・・ 山田支隊の捕虜1万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしはこの不始末の為なるへし}

43-3  <栗原利一氏のスケッチブック>

幕府山事件に関連するスケッチは次の3枚ある。著作権があるので画像は掲載できないが、スケッチブック中にある文章(『 』の部分)の一部を引用する。(「南京戦史資料集」 P768--P770

・スケッチ1; 行進する捕虜と武器の山を廃棄する様子

『第一大隊兵長以下135名であった。 ・・・ 我分隊は最後尾で武器に石油をかけて使用不能にした。 ・・・ 50mおきに兵をつけて南京兵舎向けて連行するところ。 ・・・ これは13,500名余の武器弾薬の山である。栗原はこの処理を命ぜられ最後尾にて部下と四方から一斉に火をつけてもした。・・・ 』

→捕虜が4列で行進し、50m毎に両側に1名ずつ兵がついている絵である。前後1m間隔とすると50mで200人、兵1名あたり100人になる。兵135名で護送したので捕虜の数は13,500人、これが13,500人の根拠であろう。

・スケッチ2; 収容した兵舎の絵

・スケッチ3; 銃殺現場の絵・・・岸辺に長円形が描かれ13500と記載、その周囲を半円形に機関銃が取り囲んでいる、江上に2隻の舟が浮かんでいる
ここの中央の島に一時やるためと言って、船を川の中程において集めて、船は遠ざけて、4方から一斉に攻撃して処理したのである。この時の撃たれまいと人から人へと登り集まるさま、即ち人柱は丈余になってはくずれ、なってはくずれした。』
『その夜は片はしから突き殺して、夜明けまでその処に石油をかけてもし、柳の枝をかぎにして一人一人ひきじって川の流れに流したのである。・・・ 』

なお、スケッチブックは栗原氏のご子息が管理するサイト)で公開されている。 上記スケッチ1~3は、このサイトではNO.2728になる。

43-4  <栗原氏のご子息の述懐>

ご子息が「証言に関する諸事情」として寄せたメッセージが下記サイトにある。

「南京事件資料集」 (<部隊別資料/山田支隊> → <付記:ご子息である核心氏の証言> の順に進む)

註43-5  <東中野氏の「徹底検証における主張」

(1)なぜ夜間に処刑したのか・・・  「徹底検証」、P139P140から要約引用

{・師団から「皆殺せ」の命令が出ている中で追放策を敢行するのは命令無視であり、事は極秘に運ぶ必要があった。
・明るい日中に解放すれば、解放した捕虜が日本軍に発見されやすい、「夜陰に乗じて逃げよ」――その配慮が働いていた。
・この頃、日本軍は戦時国際法違反の兵士を揚子江岸で白昼堂々と処刑していた。処刑の方針であったのならば、明るい日中に断行していたであろう。}

(2)兵士の陣中日記   同上、P143-から要約引用

{経緯を知る者は作戦に関与したごく一部の将校に限られていた。ましてや兵士たちは、正確な事態の推移を知らなかったし、知ろうともしなかった。そのため、陣中日記には処刑という最終的な結末のみが記されることとなった。遠藤高明少尉の日記はまさにこのケースで日記に記された「処刑」という結末だけが記載された。
宮本省吾少尉は両角連隊長の指示を受けた田山大隊長の指揮下にあり、連行の目的を聞かされていなかったとは考えられない。宮本少尉が日記に「追放」と書かなかったのは、追放策が失敗に終り友軍にも死傷者が出た、と書くと作戦批判になってしまうため、「追放」のために連行したが、「射殺」に終ったという意味で「処分」と記されたのであろう。}

→考え過ぎ・・・

43-6  <死体の運搬に使った木の枝>
栗原利一氏は、スケッチ3の説明文に「・・・柳の枝をかぎにして一人一人ひきじって川の流れに流した」と書いている。(註43-3参照) レの字又はY字型にした枝を死体にひっかけて引きずったのであろう。この枝をあらかじめ用意した、という証言が日本側、中国側それぞれからある。

歩65機関銃中隊 箭内亭三郎准尉の証言

{確か南京入城式のあった日でしたが、 ・・・ 機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、4キロか5キロほど歩いて河川敷に出かけたのです。 ・・・ ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。 ・・・ 逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。・・・切り倒した柳の木や雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。}(阿部輝朗:「南京の氷雨」,P98-P99 →捕虜はこの木や枝を拾って暴動を起こした、と箭内氏は述べているが、万が一のために機関銃まで用意したのに、凶器になるおそれがある木や枝を捕虜の手の届く場所に放置したというのは考えられない。

釼先銘(中国軍工兵大隊長)の手記

釼先銘氏は南京陥落後僧に変装して幕府山下揚子江岸にあった寺に隠れて、日本軍の行動を見ていた。その様子を「還俗記」として刊行している。

{3日目の夕方、数十名の日本兵が来て、石榴園の樹枝をすべて切って持ち去っていった。なんのためであろうか。・・・石榴園の樹枝は大叉子を作って死体を江流に押し流すために切っていったのだった }(阿部輝朗「南京の氷雨」、P124-P125