4.4 安全区の掃蕩
城内に取り残された敗残兵は、軍服を脱ぎ捨て便衣(市民の服)に着替えて、安全区に潜んだ。その数は6千とも1万とも言われている。日本軍は治安確保のためにこの敗残兵を摘出し、下関などに連行して処刑した。担当したのは金沢第9師団歩7連隊である。敗残兵の摘出は12月14日から本格的に開始され17日の入城式を控えた16日がピークとなったが、敗残兵の摘出や処刑は城内にいた安全区国際委員会の外国人や外国新聞記者に目撃され、アメリカの新聞などで報道された。
図表4.4 安全区の掃蕩
(1)城内掃蕩命令
12月13日夕刻、第9師団第6旅団の歩7連隊などは中山門から入城して中山東路及び中山路の周辺を掃蕩したが、敗残兵と銃火を交えることもなく終了した。13日、第6旅団は城内掃蕩命令と掃蕩要領を下達したが、その要点は次のようなものであった。
{・城内の残敵掃蕩に関しては、【中支那方面軍の】「入城に関する注意事項」を厳守すること
・遁走する敵は、敗残兵の可能性が高いので、疑いがある者は悉く検挙し、適宜「監禁」すること
・青壮年はすべて敗残兵とみなし、すべてこれを逮捕監禁せよ }註44-1
日本軍に「監禁」する体制が存在しない状態で、怪しい者や青壮年はすべて処刑せよ、と解釈されてもおかしくない命令であった。
(2)安全区の便衣兵摘出の様子(日本兵の日記より)
まず、歩7連隊第一中隊の水谷荘一等兵の日記を紹介する。
{13日 ・・・ 引き続いて市内の残敵掃蕩に移る。市内といっても大都市南京、ほんの一部分の取り付いた附近の小範囲に過ぎないが、夥しい若者を狩り出してくる。色々の角度から調べて、敵の軍人らしい者21名を残し、後は全部放免する。
14日 ・・・ 昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩に当り、若い男子の殆どの、大勢の人員が狩り出されて来る。靴擦れのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目付きの鋭い者、等よく検討して残した。昨日の21名と共に射殺する。
15日 ・・・ 広い道路はぎっしり路面を覆い尽くして、逃走の際脱ぎ捨てられたものの如く、支那軍の軍装で埋め尽くされていた。弾薬等も多数放置され散乱してはいたが、兵器の類はその割合に少なく感じられた。行けども行けども、何処歩いても衣服は道路を埋め尽くし、これを踏みつけては歩き通した。よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。
16日 ・・・ 目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行して来る。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められる者は直ぐ帰して、36名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。} (「南京戦史資料集」、P501-P502)
次は、同じ歩7第二中隊の井家(いのいえ)又一上等兵の日記である。
{15日 ・・・ 道路では早くも店を張っている。食料品がおもであり、散髪を大道でやっているのやら、立って喰っているの、家屋やら大道には人の鈴成りであり、40余名の敗残兵を突殺してしまふ。 ・・・ 敗残兵の脱捨て衣服が到るところに捨てられている。外人の家屋に9人の敗残兵が入っていて避難民9名居住宅と堂々と掲げてあるのも笑止の至りである。
16日 ・・・ 若い奴を335名を捕えて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。全くこの中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。 ・・・ 揚子江付近にこの敗残兵335名を連れて他の兵が射殺に行った。・・・} (「南京戦史資料集」、P475-P476)
(3)国際委員会の申し入れ
12月13日、安全区国際委員会(以下、“国際委員会“と略す)のラーベ委員長らは、日本軍と出会った後、安全区内にいた中国兵数百名を武装解除して安全区内の建物に収容した。12月14日及び15日の文書でこれらの中国兵への寛大な処置を求めている。
{ 昨日午後、多数の中国兵が市内北部に追いつめられた時、不測の事態が発生しました。 ・・・ 私どもはこれらの兵士全員を武装解除し、安全区内の建物に収容しました。これらの人々が望んでいる平穏な市民生活に戻れるよう、貴軍の慈悲深い許可をお願いします。・・・} (「安全地帯の記録」、P139 <国際委員会第1号文書(12月14日)>)
{ 13日に中国軍兵士数百名が北側境界から安全区に入って来て、私どもに助けを求めました。国際委員会は兵士たちに保護できないとはっきりと言いました。しかし、もし彼らが武器を捨て日本軍に対する一切の抵抗を止めて武器を捨てるなら、日本軍は温情ある扱いをするであろうと思うと言いました。 ・・・
国際委員会は兵士と確認された者たちを、法的資格を満たした戦争捕虜であると完全に認めるものです。しかし、それらの武装解除された兵士の取扱いにおいて、国際委員会は日本軍が一般市民を巻き込むことのないよう最善の注意を払われるよう希望します。さらに、捕虜にかんして認められている戦争法規にしたがい、また人道上の理由から寛大な処置をこれらの元兵士にとられるよう希望します。} (同上、P144-P145 <国際委員会第4号文書(12月15日)>)
国際委員会は敗残兵の掃蕩について、12月17日の9号文書で警官が連行されたことなどへの抗議、18日には司法部事件(4.1.4項)への抗議を行っており、18日の第10号文書では、{今はこの地帯に武装解除された中国兵のグループはまったくいないと確実に保障することができます。貴国の捜索隊が彼らの全部を多くの民間人と道連れに連行しつくしたのです。}(同上、P165) と述べている。
「南京戦史」は国際委員会の対応に不満を述べている。
{ ・・・敗走した中国兵が安全区に遁入し、安全区の中立性が犯され、便衣を着用した敗残兵と一般市民が混淆してその後の掃蕩を著しく困難にしたことが悲劇の因ともなった。 ・・・
国際法にもとづく捕虜とするためには、国際委員会としては、積極的に中国兵を集めて武装解除を確認し、日本軍に投降の意思表示をさせる必要があるが、そのような統制力はなく、またその努力をした形跡も認められない。日本軍は中国敗残兵(便衣兵)に対する掃蕩戦として行動した。} (「南京戦史」、P329-P330)
国際委員会の使命は難民の保護であり、敗残兵の救済ではないが、いきがかかり上、敗残兵に武装解除をすすめてしまったことが問題をややこしくした。しかし、もし国際委員会が何もせず、敗残兵が抵抗したら、掃蕩に時間がかかるだけでなく、難民や日本兵にも多数の犠牲が出た可能性がある。日本軍が敗残兵を処刑せずに捕虜として収容していれば、国際委員会も協力したであろう。
(4)敗残兵の殺害(日本軍関係者の証言)
摘出された敗残兵は少人数の場合は近くの空地や池、河などで銃殺又は刺殺されたようだが、人数が多い場合は下関周辺に連行されて処刑された。処刑の模様を隠すつもりはなかったのか、多くの人が目撃している。まずは、野戦郵便長佐々木元勝氏の12月16日の日記の一部である。
{ 南京で俘虜は4万2千とか。揚子江河岸からの帰り、続々と夥しい行列をなして兵に連れられて行く、苦力の大群(俘虜)は3組あり、警戒の兵にトラックの窓から聞くと、皆殺してしまうのだと答えた。便衣に変装して避難しているのを、一網打尽にされたので、日の丸の腕章をつけたのが多く、15,6歳の給仕みたいのもいた。月が蒼白くのぼり、此宵一夜の命の俘虜の群れは、歴史的悲劇には違いない。 ・・・ 碼頭の局に行った運転手の兵等が、大部遅くなってからドヤドヤ帰ってきたが、碼頭で2千名の俘虜を銃殺したという話。手を縛り、河に追い込み銃で射ち殺す。逃げようとするのは機関銃でやる。3人4人づつ追い立て、刺しても斬っても御自由というわけで、運転手の兵も15名は撃ったという。} (「証言による南京戦史(9)」、P10)
海軍の従軍画家である住谷磐根氏は処刑を間近で見ている。
{ 若い中尉(名前は忘れた)が、家宝の銘刀を軍刀に仕込んだのを握って「今晩一つ試してみたいのです。未だ一度も使っていないから」と力んで士官室を出て行かれた。夕食がすんで大分たってからである。
私も中尉に従って士官室を出て舷門を降り、下関碼頭を左の方へ行って、江岸の鉄の垣根(手すりの低い柵)のところへ行った。道路の右側に捕虜が5人ずつ縛られて、ずっと遠くまで並んでいるようだが、夜の暗がりでよく見極められない。陸軍の兵士が、その5人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江に面して手すりに向こう向きに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともには見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。私が懐中電灯で照らすので「その電灯は離れないと返り血を浴びる」と陸軍兵に言われたので、これを潮時に中尉と二人で安宅※に帰った。夕方、暗いなかを陸軍兵に連れられてきた中国人捕虜の数は約千人足らずと見た。} (「証言による南京戦史(10)」、P32)
※安宅; 住谷氏が乗船していた日本海軍の軍艦
(5)敗残兵の殺害(外国人の記録)
12月15日、海軍に撃沈されたパナイ号の乗員を救助したアメリカの砲艦「オアフ号」が南京の下関埠頭に着いた。日本大使館は南京に残っていたアメリカ人全員を安全のため、この船で上海に送りたいと申し出た。新聞記者は南京陥落の記事を送るため、この船に乗船した。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、オアフ号に乗船する際、敗残兵の殺害を見て次のような記事を送っている。
{ 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンド【埠頭】で200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵はぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。・・・} (「南京事件資料集Ⅰ」、P418 <12月18日ニューヨーク・タイムズ>)
「シカゴ・デイリー・ニューズ」のスティール記者も同様の記事を書いている。
{ 南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた} (「南京事件資料集Ⅰ」、P466 <12月15日 シカゴ・デイリー・ニューズ>)
(6)16日の掃蕩強化
17日の入城式には上海派遣軍司令官の朝香宮も参加する。皇族にもしものことがあってはならぬ、と歩7連隊は次のような命令を出して安全区の徹底的な掃蕩を指示した。
{1.本15日迄捕獲したる俘虜を調査せし所に依れは殆と下士官兵のみにて将校は認められさる情況なり・・・
2.連隊は明16日全力を難民区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす 憲兵隊は連隊に協力する筈
3.・・・(以下省略) } (「南京戦史資料集」、P622)
歩7連隊は戦車第一中隊などの応援も得て、文字通り全力をあげて掃蕩にあたった。その成果を歩7連隊長の伊佐大佐は、16日の日記に「3日間にわたる掃蕩にて約6500を厳重処分す」と記している。
(1)史実派、中間派
史実派も中間派も市民の服に着替えた将兵を何の手続きもなしに処刑することは不法行為としている。
以下は、捕虜などの処刑に関する主な研究者の見解である。(a)~(e)いずれも、「再現 南京戦」、P343-P344から引用している。
{(a)北村稔「南京事件の探求」、2001年、P101
筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文運用に関する当時の法解釈に基づく限り日本軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる。
(b)中村粲「敵兵への武士道」(「興亜観音」第24号、平成18年)
軍司令官には無断で万余の捕虜が銃刺殺された。それを「便衣の兵は交戦法規違反である」と強弁してはならず、率直に戦時国際法違反であり、何より武士道にもとる行為であったことを認めねばならぬ。
(c)原剛(「板倉由明「本当はこうだった南京事件」推薦の言葉」、1991年、P8-P9)
・・・本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきものであって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。
(d)秦郁彦(坂本多加雄・秦郁彦他「昭和史の論点」、2000年、P96-P97)
南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのがいけないんです。・・・その人間が銃殺に値するかどうかを調べもせず、面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なんです。
(e)吉田裕「現代歴史学と南京事件」、2006年、P70
もちろん、正規軍の場合でもこの4条件※の遵守が求められており、それに違反して行われる敵対行為は、国際法上の「戦時重罪」(戦争犯罪)を構成する。しかし、そうした国際法違反の行為が仮にあったとしても、その処罰には軍事裁判(軍律法定)の手続きが必要不可欠であり、南京事件の場合、軍事裁判の手続きをまったく省略したままで、正規軍兵士の集団処刑を強行した所に大きな問題がはらまれていた。} ※交戦者の資格4条件・・・(2)参照
(2)否定派(一般)
田中正明氏ら否定派がよく主張するのは、次のような法解釈である。
{戦時国際法によると、便衣兵は交戦資格を有しないものとされている。交戦資格を有するのはつぎの4条件をすべて満足している者である。
①責任を負う統率者がいる
②遠方から認識できる固有の標章(軍服など)を有する
③公然と兵器を携行している
④戦争の法規及び慣例に従って行動している
軍服を脱ぎ捨てた便衣兵は交戦資格を有するものではなく、交戦資格を有しないものが軍事行動に従事する場合には捕えられても捕虜としの待遇は与えられず、戦時重犯罪人として死刑もしくは死刑に近い重刑に処せられるのが慣例である。} (「南京事件の総括」、P153-P154 <要約>)
これに対して、史実派の吉田裕氏や中間派の秦郁彦氏などは「捕虜としての権利がないからといって、市民と区分けする裁判などの手続きを経ないで処刑してしまうことはできない」としている。便衣兵を即決で処刑できるのは現行犯のときだけである。
常識的に考えても、何の手続きもしないで「便衣兵だ!」として摘出してそのまま処刑されることが許されるはずがない。それが通用するのであれば、一般市民を勝手につかまえて「お前は便衣兵だ!」と一方的に宣言して処刑しても何の問題もないことになってしまう。
捕虜の法的扱いについては、第6章で詳しく述べる。
(3)否定派(東中野氏)
東中野氏の主張は上記とは異なり、吉田裕氏との議論の結果として次のように主張する。かなりわかりにくいので、簡略化して紹介する。詳しくは6.5.2項を参照。
{(ⅰ)戦時重罪(=戦争犯罪)で顕著なものは次の5つである。
(甲)軍人により行はるる交戦法規違反の行為
(乙)軍人以外の者により行はるる敵対行為
(丙)敵地における有害行為など
(丁)間諜
(戊)戦時反逆等
(ⅱ)戦時重罪としてあげられている5項目には、交戦者の資格条件のうち、④戦争法規の遵守、は含まれているが、①統率者、②固有の標章、③兵器の公然携行、の3条件は含まれていない。
(ⅲ)含まれていないのはこの3条件が戦争を行う上での鉄則であり、戦時重罪以上の大罪だったからで、助命や裁判にかんする「いかなる権利」も有しなかったのである。} (「再現 南京戦」、P345-P346)
つまり、軍服を着ていないことや指揮官がいないことは、あえて法規に明記する必要もないほど、重大な犯罪と通用していたものだ、ということらしいが、(ⅰ)であげているのは例であって、東中野氏が含まれていないとする3条件は、当然のことながら戦時重罪に該当するのである。戦時重罪の処罰にあたって軍事裁判の手続きは必要不可欠である。
(1)時期尚早だった入城式
12月14日、松井総司令官は17日に入城式を挙行することを決定し、関係者に通知させた。しかし、上海派遣軍及び16師団の参謀たちは、掃蕩が完了しないことを理由に早くても18日、できれば20日以降にするよう進言したが、松井総司令官は予定を変更することはなかった。
そのため、特に安全区の掃蕩が杜撰で荒っぽくなったことは否めない。
(2)入城式の模様
入城式は航空機も参加して盛大に行われた。笠原氏の著書「南京難民区の百日」より引用する。
{ 12月17日は快晴で暖かな日中となった。午後1時半に南京入城式が定刻どおりに開始された。この式には南京攻略戦に参加した全戦闘部隊の3分の一が代表部隊として入城し、中山門から国民政府の庁舎まで3キロにわたり、中山東路両側に整列した。最前列に戦死兵の遺骨箱を首からさげて参列している部隊もあった。
ラッパ手の吹く「海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草生す(むす)屍 ・・・」のメロディーが流れる中を、馬にまたがった中支那方面軍司令官・松井石根大将が中山門から先頭で入城、右うしろに上海派遣軍司令官・朝香宮中将、左うしろに第10軍司令官・柳川平助中将がつづき、しばらく間をおいて馬上に4列縦隊になった200名の高級指揮官の隊列がつづく。
・・・ おりしも、海軍航空部隊と陸軍航空部隊の戦闘機が数十機の編隊を組み、紫金山の上空をかすめて式場の上空を飛来して分列行進をおこない、地上部隊の行進とあいまって一大絵巻を繰りひろげた。
午後2時半からは陸海軍の高級指揮官が参列して、国民政府庁舎の正面内庭で入城式典が挙行された。君が代のラッパが響きわたるなか、大きな日章旗が正門の楼上の旗棹に掲げられた。一同は東の方、東京の皇居に向かって列を正し、脱帽して最敬礼をしたあと、松井司令官が音頭をとって「天皇陛下万歳ッ!」と叫ぶと。「万歳ッ!」「万歳ッ!」「万歳ッ!」と参列の将兵一同によって万歳三唱がとなえられた。このあと大殿堂内に急設された祝宴場に会場をうつし、海軍長谷川司令長官の音頭でふたたび皇居遥拝をおこない、万歳を三唱して乾杯、3時半に入城祝賀式典は終了した。} (「南京難民区の百日」、P167)
入城式の模様は日本の新聞が大々的に報道した。
(1)16師団による南京警備
南京周辺の掃蕩戦は17日の入城式までにピークを越え、19日以降、16師団以外の部隊は次々と南京を去って、次の戦場に転進していった。以下は、主な転進先である。(「南京戦史」、P383)
・第3師団; 司令部、直轄部隊などは鎮江、その他は無錫、江陰、常州など
・第9師団; 司令部、直轄部隊などは蘇州、その他は昆山、常熟、福山など
・第13師団; 涂県、六合地区など
・第6師団; 太平府、蕪湖、寧国に沿う地区
・その他の第10軍; 杭州周辺
12月21日、16師団は南京警備を命ぜられた。南京城内を含む西部地区警備司令官には第30旅団長の佐々木到一少将が任ぜられ、湯水鎮、句容などの東部地区警備は第19旅団が担当することになった。
(2)敗残兵によるゲリラ活動
陥落後も日本軍は敗残兵によるゲリラ活動に苦しんでいた。
{ 南京陥落後も城内で激しいゲリラ戦活動があり、日本軍はどこからか襲ってくる中国人のゲリラを恐れていたという。日本兵は単独行動を絶対とらず、集団で行動し、ゲリラに対処した。それでも市内のあちこちで日本兵は被害にあった。彼らはピストルで撃たれたのではなく、刺し殺されたという。安全区に残り最後まで負傷兵の救援にあたっていた中国人軍医蒋公殻は、「近頃、わが遊撃隊は城壁まで接近した。猛烈な反撃で夜でも砲声が聞こえてくる。私たちは砲声の大きさによって遊撃隊がどこにいるのか見当をつけたものだ」と、1938年1月5日付けの日記のなかで、陥落から半月以上たったあとも市内でゲリラ戦があったことを記述している。} (滝谷二郎:「目撃者の南京事件」、P42)
(3)兵民分離
敗残兵を摘出する一方で、市民には安居証と呼ばれる身分証明書を発行した。安全区の避難民を含む南京市民全員を対象に、敗残兵と市民を分別する「査問」が12月24日から1月5日まで行われた。
査問のやり方について秦氏は次のように述べている。
{ 中沢第16師団参謀長は東京裁判に提出した口供書で、「日支人合同で委員会を構成し、日支人立会の上、一人宛審問し又は検査し、委員が合議の上、敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した」と述べているが、師団副官宮本四朗大尉によると「一人ずつ連れ出して真の避難民か、逃亡兵かを見分ける。多勢であるので書類づくり等は一切しない。兵隊は短ズボンか制服なので太股に日焼けの跡がある――紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる」とニュアンスが変る。見分け方の基準も太股の線ばかりでなく手のタコ、軍帽でひたいにできる日焼けの線、坊主刈りなどで判定した場合もあったようだ。そのかわり婦女子が泣きついて、近所の住人だと証言したり、日本人新聞記者が、使用人の親族だからともらいさげを頼むと、放免する例もないわけではなかった。第9師団の査問に比べると、査問委員会を作って師団参謀や司令部将校を当て、歩38を中心とする選抜チームに補助させるなど、多少の改善は見られるが、識別法はあい変らず杜撰なものであった。} (秦:「南京事件」、P166-P167)
(4)外国人の目撃した兵民分離
安全区国際委員会のM.S.ベイツ(金陵大学教授)は、この「査問」の状況を目撃し国際委員会の第50号文書に記しているが、その要約を笠原氏の著書から引用する。
{ 12月26日に金陵大学のスワジイ記念堂の下にあるテニスコートに、およそ3000人の男性が集められた。日本軍将校の指揮下にある中国人によって何度か繰りかえして演説がなされた。その趣旨は、「以前に兵隊であった者、または強制労働をやった者はみな後尾に移れ、もしお前たちが進んで自首するなら生命は助けてやるし、仕事を与えてやるが、そうでなくて検査でみつかったならば銃殺される」というものだった。・・・その演説に応えて2~300人の男が進み出た。ベイツが知るかぎりでは、彼らの多くがかつて一度も兵隊になったことのない者であることは確実であった。なぜ、名乗り出たのか、その場にいた中国人にたずねると、恐怖にかられたか、強制労働という言葉を誤解したかであろう、とのことだった。
ところが、夕方近くになると、ひどく粗野で愚鈍な感じの憲兵隊長が現われ自首した2~300人の男性を連行していかせたのである。その夜、彼らは数グループに分けられ、難民区の西に隣接する五台山と漢中門外の運河に連れていかれ、刺殺また銃殺されたのである。
翌朝、その生き残りが鼓楼病院に救護をもとめて逃げ帰ってきた。彼は下関の電話会社の職員だった。彼は、銃剣刺殺の練習台にさせられたが、傷はさいわい急所をはずれていた。} (「南京難民区の百日」、P319-P320)
(5)安居証の発行
安居証は約16万人分が発行された。国際委員会の第41号文書に次のように記載されている。
{ 我々は、貴軍が10才以下の子ども及びいくつかの地区では老人の女性※を含めないで、16万人を登録したと理解しています。すると、当市の人口は多分25万から30万ということになります} (「安全地帯の記録」、P247) ※老人の女性;洞富雄氏の訳では“年とった婦人”となっている
(6)犠牲者数と各派の見解
佐々木到一少将の1月5日の私記には摘出した敗残兵約2000名を旧外交部に捕虜として収容、ほかに外国宣教師の管理下にあった負傷兵(約500名)も同様に捕虜として収容した、とある。
{ 1月5日 査問会打切、此日までに城内より摘出せし敗兵約2千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。} (「南京戦史資料集」、P382)
南京戦史は、上記佐々木私記のとおり、2500名を捕虜として収容、としているが、秦氏は{便衣兵と判定された中国人たちは、下関などで処刑された・・・}(秦:「南京事件」、P167)として、この時機の処刑風景の目撃証言を掲げ、2000名を犠牲者数にカウントしている。
史実派は4.4.5項の城外掃蕩も含めて、{年末から新年にかけて実施された「敗残兵狩り」によって、少なくとも数千の男子、それも元兵士の嫌疑をかけられた一般市民が多く虐殺された}(笠原:「南京事件」、P206-P207)と述べている。
否定派(東中野氏)は読売新聞の記事を根拠に敗残兵は釈放された、としている。
{ 昭和13年1月10日の読売新聞は・・・《敗残兵一掃のため行はれた難民調査は暮から始められて7日漸く一段落を告げて、敗残兵1600名とその他の者は安民居住の証を与へられ、今では大手を振って城内を歩けるやうになった》と記している。佐々木旅団が旧外交部に収容したという約2千名の中国兵は『読売新聞』の言う敗残兵1600名のことであったろう。彼らは安居の証を与えられ、市民生活に復帰していたのである。} (「再現 南京戦」、P324)
「兵民分離」と併行して、南京城外の再掃討も行われたが、その成果を佐々木少将私記は次のように記す。
{1月5日 ・・・ 城外近郊に在って不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕獲、下関に於て処分せるもの数千に達す。} (「南京戦史資料集」、P382)
この時期の城外掃蕩について詳しい史料は乏しいが、笠原氏は中国側資料からいくつか事例をあげている。農民や難民がまきぞえをくらった可能性もある。
{〔江浦県〕 12月27日、日本軍40人が村々を捜索してまわり、農民や難民17人を殺害、婦女6人を強姦(「江浦県誌」)
〔江寧県〕 12月下旬、上坊で婦女10名が強姦され、陰部に鉄棒を刺して殺害される。38年1月8日、陸朗村で県城から避難していた市民が、「敗残兵狩り」で100余人殺害される。その時婦女8人が輪姦され、腹を割かれて殺害される。岔呂郷では ・・・ 日本兵が「花姑娘(ホアクーニャン)探し」のために頻繁に襲来、婦女250余人が強姦され、多くは殺害された。・・・(「江寧県誌」) ・・・ } (笠原:「南京事件」、P207)
中間派(南京戦史及び秦氏)は、2000を犠牲者数としてカウントしている。
史実派は「兵民分離」で「処刑」されたものも含めて、数千としている。
否定派(東中野氏)は、佐々木私記に記載のとおり、「不逞行為を働いた中国兵の処刑」であり合法としている。(「再現 南京戦」、P325)
4.4節の註釈
註44-1 <第6旅団の城内掃蕩要領>(13日午前10時発令) 「南京戦史資料集」、P550-P551」
南京城内の掃蕩要領
(1)城内の残敵を掃蕩す
(2)掃蕩に関しては入城に関する注意事項を厳守す 但し、敵の抵抗する地帯は此の限に非す
(3)敵の抵抗せる場合に於ける家屋の焼却には特別の注意を払ひ 却て部隊の交通を遮断するか如き事無き様注意す ・・・ 遁走する敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるを以って其の疑ある者は悉く之を検挙し、適宜の位置に監禁す ・・・ (以下略)
掃蕩実施に関する注意事項
(1)軍司令官注意事項を一兵に至る迄徹底せしめたる上、掃蕩を実施すへし
(2)外国権益の建物を敵が之を利用しある場合の外立入を厳禁す 重要なる箇所には歩哨を配置すへし
(3)掃蕩隊は残敵掃蕩を任とし、必ず将校(准尉を含む)の指揮する部隊をもって実施し、下士官以下各個の行動を絶対に禁ずる
(4)青壮年は凡て敗残兵又は便衣兵と見做し、凡て之を逮捕監禁すへし 青壮年以外の敵意なき支那人民、特に老幼婦女に対しては、寛容之に接し、彼等をして皇軍の威風に敬仰せしむへし
(5) ・・・ (以下略)