4.5 市民への暴行 ・・・ 事件の推移
陥落後、南京城内外の市民に対して強姦、掠奪、放火や殺人、傷害などの暴行が行われた。暴行は陥落直後から始まり、2月上旬ごろまでがピークだったが、それ以降も散発的な事件は続いた。この節では、次の4つの期間に分けて事件の状況を述べる。
①激震期(12/13~12/26); 占領直後の敗残兵狩りを含めて市民への暴行が最も激しかった
②余震期(12/27~1/23); 暴行事件はやや減少し、難民の帰宅準備が行われた
③反動期(1/24~2/6); 難民の帰宅が始まり、帰宅先での事件が多発した
④終息期(2/7~ ); 暴行事件が減少し、安全区国際委員会の活動も終息していく
図表4.5 市民への暴行

日本軍は市民への強姦や掠奪を厳禁し、兵士たちもそれが罪悪であることを認識していたから、加害者側の記録や証言は少ない。主として、被害者やその近くにいた安全区国際委員会(The International Committee for Nanking Safety Zone)」の外国人の記録から事件の全貌を知ることになる。以下、この節で参照する主な史料を紹介する。
(1)「南京安全区档案」(Document of the Nanking Safety Zone)
日本語訳; 洞富雄:「日中戦争 南京大残虐事件資料集Ⅱ」 (略称 「大残虐事件資料集Ⅱ」)
冨澤繁信:「『南京安全地帯の記録』完訳と研究」 (略称 「安全地帯の記録」)
「南京安全区档案」は、安全区国際委員会(以下、国際委員会と略す)が、日本大使館などに提出した文書を集めたもので、燕京大学教授の徐淑希博士によって編集され、1939年5月に刊行された。南京事件の現場にいた欧米人たちが残した記録であり、貴重な歴史史料である。
「档案」は、広辞苑によれば「中国で、永久保存用の文書・記録」であり、中華民国が公式に保存する文書となっている。否定派のなかには、これは中華民国の「公式文書」であり、ここに書かれた内容が南京事件のすべてである、と主張する人もいるが、もしそうならば東京裁判で被害者数30万人などと主張するはずもなく、誤りである。
「南京安全区档案」に収録されている文書註45-1は、1937年12月14日の第1号から翌年2月19日の第69号まであり、日本大使館へのクレーム・報告・要請、各国大使館への報告・要請などとともに、南京で起きた不法行為の事例が約400件掲載されている。日本へのクレームや要請に対して、日本政府や日本軍が文書で回答した形跡はない。これら文書の一部は日本を含め、各国大使館を通じて政府中枢にも報告されていた。
日本語訳は、洞富雄氏と冨澤繁信氏のものがある。前者は史実派の元祖ともいえる学者、後者は否定派の研究者で、それぞれの主張により翻訳のしかたも微妙に異なる。本レポートでは冨澤氏の著書を正とし、洞氏の著書を副として利用させていただいた。冨澤氏の著書の方が体系的にまとめられているのと、翻訳が直訳に近く原文を想像しやすいからである。
(2)「戦争とは何か」(What War Means: the Japanese terror in China: a documentary record)
日本語訳; 洞富雄:「日中戦争 南京大残虐事件資料集Ⅱ」 (略称 「大残虐事件資料集Ⅱ」)
オーストラリア人でマンチェスター・ガーディアン紙記者のH.J.ティンパリー(Harold John Timperley)が編集したものだが、大半は国際委員会委員で金陵大学歴史学教授のアメリカ人M.S.ベイツ(Miner Searle Bates)と同じく国際委員会のアメリカ人宣教師G.A.フィッチ(George Ashmore Fitch)が執筆しており、「南京安全区档案」の一部も付録として掲載してある。ティンパリーは「華中の会戦だけでも、中国軍の死傷者はすくなくとも30万に及び、一般市民の死傷者も同じぐらいあった」、と書いており、のちの「30万虐殺説」のもとになったとも言われている。ティンパリーは中華民国、宣伝部の顧問であったことから、否定派はこの本を中国の対外宣伝目的で内容は信用ならない、と批判している。
(3)ミニー・ヴォートリンの日記
日本語訳; 岡田良之助、伊原陽子訳:「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 (略称 「ミニー・ヴォートリンの日記」)
ミニー・ヴォートリン(Wilhelmina(Minnie) Vautrin)は、金陵女子文理学院の女性教師でアメリカ人宣教師。日記はアメリカのキリスト教伝道団関係者ならびにアメリカにある金陵女学院の理事会などにたいして、ヴォ―トリンの仕事や中国の状況について報告するために書いたものである。原文はイェール大学神学図書館に保管されている。
(4)ドイツ外交文書
日本語訳; 石田勇治訳:「ドイツ外交官の見た南京事件」 (略称 「ドイツ外交官の見た南京事件」)
編集・翻訳を行った石田勇治氏はあとがきで次のように述べている。{本書に収録した資料の大部分は南京事件当時、中華民国に赴任していたドイツ外交官が作成した公文書である。} 文書の作成者はドイツ外交官ばかりではなく、ラーベなど一般のドイツ人やアメリカ人など様々であるが、「南京安全区档案」と同様、公文書として保管されているものである。
4.5.2 激震期( 12/13~12/26)
(1)陥落直後の安全区
ミニー・ヴォートリンは陥落直後の安全区の様子を次のように日記に記している。掠奪は13日から、強姦は14日の夜から始まったようだ。
{ 12月13日(月) 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。 ・・・ 5時を少し回った頃に起き上がって正門の所へ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過していき、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。 ・・・ 午後4時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。 ・・・ 家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鵞鳥を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。 ・・・ 午後7時30分、・・・ 校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。 ・・・その兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。 ・・・ 今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の広報・無線通信すべてが止まっている。 ・・・
12月14日(火) 午前7時30分。昨夜、戸外は平穏だったが、人々の心の中には未知の危険にたいする恐怖があった。 ・・・ 【夕方】 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空地は日本兵で溢れ、校門のすぐ前にも兵士が8人ぐらいいた※。 ・・・ 昨夜の荒くれ兵士に比べると、この兵士たちはまったくおとなしい。
※(筆者注) この兵士たちは掃討を行っていた歩7連隊の兵士たちであろう。
12月15日(水) ・・・ 朝8時30分から夕方6時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。 ・・・ } (「ミニー・ヴォートリンの日記」、P49-P56)
(2)市民を巻き込んだ敗残兵掃蕩
12月13日から日本軍は南京城内・城外で敗残兵の掃蕩を行ったが、中国軍兵士だけでなく市民もその巻き添えで犠牲になった。フィッチが入城した日本軍に遭遇したときの様子を「戦争とは何か」に次のように記している。
{ 13日の午前11時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー2人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民20人を殺したのです。} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P29-P30 <戦争とは何か>)
安全区の掃蕩を担当した歩兵第6旅団の城内掃蕩要領には、逃げる敵や青壮年は敗残兵とみなして逮捕監禁せよ、とある。(4.4.1項) 「逮捕監禁せよ」は、前線の兵士たちには銃殺せよと同じように理解されていたようである註45-2。
ベイツは、「戦争とは何か」に次のように書いており、敗残兵掃蕩で多くの市民が犠牲になった可能性がある。
{ 日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持ちを示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を恐れることはなくりました・・・ しかし、2日すると、たび重なる殺人、掠奪、婦女暴行・・・などによって事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。
市内を見回った外国人はこのとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。・・・死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P24 <戦争とは何か>)
(3)夏淑琴さん事件(新路口事件)
12月13日の朝、城内南部の中華門近く新路口に住んでいた2家族13人が、侵入してきた日本軍の集団に襲われて11人が殺され、うち3人の女性は強姦された。当時8歳だった夏淑琴さんは銃剣で刺されたものの、無傷だった4歳の妹とともに生き延び、近所のおばさんに見つけられた。
この事件について、東中野氏が著書「南京虐殺の徹底検証」などで「夏淑琴の証言は偽りである」と主張したことに対して、2000年に夏淑琴さんは中国の裁判所に名誉棄損の訴訟を起こした。東中野氏は日本の裁判所に反訴したが、2007年東京地裁は「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」註45-3として東中野氏と出版社に400万円の賠償を命じる判決を言い渡した。東京高裁の判決も同様で、2009年最高裁は東中野氏らの上告を棄却し、判決が確定した。
(4)安全区の敗残兵摘出
陥落時の敗残兵掃蕩とともに多くの市民が殺害されたのは、14日から本格的に始まった安全区に潜んだ敗残兵の摘出によるものだった。外国人が目撃したものには司法部事件(4.1.4項)があるが、フィッチは「15日夜、本部近くの収容所で1300人の難民が連行された」註45-4と証言している。また、ミニー・ヴォートリンは1938年1月21日の日記に次のように記している。
{ ここ数日間、悲しみで狂乱状態の女性たちが報告してきたところでは、12月13日以来、夫や息子が行方不明になっている件数は568件(?)※にのぼる。彼女たちは、夫は日本軍のための労務要員として連行されたのだと、いまもそう信じている。しかし、わたしたちの多くは、彼らは黒焦げになった死体に混じって、古林寺からそう遠くない池に放り込まれているか、埋葬されることなく定准門外に堆く積まれた半焦げ死体に紛れ込んでいるのではないかと思っている。12月16日の一日だけで422人が連行されたが、この数は主としてここのキャンパスにいる女性の報告によるものだ。16歳か17歳の若者多数が連行された。} (「ミニー・ヴォートリンの日記」、P128)
※ミニー・ヴォートリンは、行方不明になっている夫や息子などがどのくらいいるか、収容所の難民に調査している。2月3日の日記にはそれらは全部で658人、と記している。
(5)強姦
12月14日頃からは強姦や掠奪など兵士が個人又は小グループ単位で行う暴行が増えていく。「南京安全区档案」にある不法行為の事例で最も多かったのが強姦であった。(4.6.1項参照)
以下は、「南京安全区档案」の事例第58件で、外国人が強姦現場を目撃した数少ない事例のひとつである。冨澤氏の訳文註45-5は直訳風で読みにくいので読みやすく修正した。
{ 12月17日 ・・・ 6時頃ラーベ氏が帰宅すると、2名の日本兵が家に入ってきた。そのうち1名は衣服を脱ぎ、娘を強姦しようとしているところだった。この2名の兵士はラーベ氏に出てゆけと命令され、来たときと同じ塀を越えて姿を消した。} (「安全地帯の記録」、P184)
ミニー・ヴォートリンがいた金陵女子文理学院は女性専用の収容所だったが、14日から日本兵が押し寄せるようになり、15日から1週間くらい、以下のような日々が続いた。
{ 12月17日 7時30分、・・・疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ ・・・ 午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告がありしだい、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆けまわることで時間が過ぎた。 ・・・ ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が3人いま理科棟にいます・・・ 」などと使用人が言ってこない日はない。 ・・・
4時から6時までの間に大勢の婦女子の2グループを引率して行った。何と悲痛な光景だろう。怯えている少女たち、疲れきった女性たちが子どもを連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼと歩いて行く。彼女たちについていってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の掠奪品を抱えて家から家へと移動していくところに出くわしたからだ。・・・} (「ミニー・ヴォートリンの日記」、P61)
笠原氏は、{強姦は軍法規で厳禁されていたので、憲兵その他に知られまいとして、犯した後に殺害してしまうことも多かった}(「南京難民区の百日」、P48) と述べている。
(6)軍医が調査した強姦の生理
上海第一兵站病院に勤務していた早尾逓雄陸軍軍医中尉は、上海戦、南京戦で頻発した兵士の犯罪について調査した結果を報告書にまとめている。その一部を笠原氏の著作から再引用する。
{・・・人間は恐怖、疲労困憊のもとには性欲発揮することなし。これは睾丸の組織検査にも表れたり。戦闘休止し精神に余裕を生じ休養の効果表れるとともに睾丸の組織は常態に復旧す。ここにさらに精神の緊張失わるるをもって、性欲勃然として起こるは当然なり。餓鬼とならざるを得ず、これ強姦の流行せし所以なり。これをあえてせざるはその人の修養のあつきを物語るものとす(「軍医官の戦場報告書意見集」44頁)。} (「南京難民区の百日」、P48-49)
「南京安全区档案」にある不法行為の事例で強姦の次に多かったのが掠奪(強盗及び窃盗)であった。(4.6.1項参照) 入城当初、掠奪の主たる対象は食糧だったが、しだいにあらゆるものが対象となった。掠奪品を取引する闇マーケットがあり、そこで換金することができたようである。以下は、「南京安全区档案」に掲載された事例第6件であるが、敗残兵掃蕩の際にも掠奪が行われている。
{ 12月14日、はっきりした統率者なしの日本兵約30名が大学病院と看護寮を捜索した。病院の職員は徹底的に掠奪された。取られたのは万年筆6本、金180ドル、時計4、病院包帯2、懐中電灯2、手袋2組、セーター1であった。} (「安全地帯の記録」、P152)
日本軍は外国人の家などには近づかないよう命令を出していたが、多くの外国人の家が掠奪にあった。掠奪されたのは中国人や外国人だけでない。16師団の師団長中島今朝吾中将は12月19日の日記に次のように記している。
{ ・・・師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすっかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持って往く。} (「南京戦史資料集」、P332)
第13師団歩兵第103旅団長の山田栴二少将も12月24日の日記に次のように記す。
{ 徴発の不仕鱈は、結局与ふべきものを与へざりし悪習慣なり 徴発に依りて、自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食ふに食なしの状を呈す ・・・ 兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか 旅団司令部にてもぼやぼやして居れば何でも無くなる、持って行かる、馬まで獲られたり} (「南京戦史資料集2」、P335-P336)
強姦・掠奪以外に、殺人、傷害、放火、脅迫などがあるが、いずれも強姦・掠奪が関係する場合が多い。
(8)国際委員会の活動
この時期の国際委員会の活動は、多発する強姦や掠奪、殺人、傷害などへの抗議と治安維持に向けた要望に終始する。
・12月14日; 第1号~第3号文書で国際委員会の役割やメンバーなどの紹介を行い、国際委員会が武装解除した敗残兵の寛大な処置を依頼。
・12月15日; 日本軍特務機関長と面談。特務機関長が一方的に次のようなことを言明した。
{①市内の中国兵を捜索しなければならない、②安全区の入口各所に衛兵をたてる、③住民はできるだけ速やかに帰宅すべきである、④武装解除された中国兵の取扱いについては、日本軍の人道的態度を信用されよ。 ・・・ }(要約) (「安全地帯の記録」、P147 <第6号文書>)
・12月16~18日; 長文の抗議と治安回復のための提案を行っている。提案には、憲兵隊の組織、中国人警官の活用、消防部の再編、都市行政の専門家による市民生活管理、日本兵の夜間徘徊対策、難民収容所への歩哨設置、日本語の布告文掲出、など多岐にわたっている。
・12月19~26日; この期間は不法行為の事例報告が主になる。放火や不法行為の中止のほか、乏しくなりつつあった食糧と燃料の補給の要望が初めて出てくる。そして、26日の第24号文書では「事件が減りつつあり、状況は随分よくなったと報告できることを嬉しく思う」と述べている。
(9)日本軍の対応
日本軍もこうした不法行為が存在することを認識して、対策をとっている。
(a)慰安所の設置
上海派遣軍飯沼参謀長の日記によれば、12月19日、慰安所設置準備のため長勇参謀を上海に派遣している。長勇参謀は12月25日に南京に戻り、飯沼参謀長は日記に「年末には開業できる段取りとなった」註45-6、と記している。
ミニー・ヴォートリンは、12月18日の日記に、「日本大使館の田中氏が憲兵2名に夜間の警備をさせる、と言ってくれた」註45-7とあるが、その後も強姦は続き、12月20日に{夕食のすぐあと、今夜の警備要員として憲兵25名がキャンパスに派遣されてきた。}(「ミニー・ヴォートリンの日記」、P70)、12月22日に{ ・・・昨夜は何事もなく平穏だった。}(同上、P75)となって、やっと少し落ち着いてきたようだ。
フィッチも12月19日の日記に{最近、憲兵が17名到着したので、彼らは秩序を回復するのを助けるだろう・・・ 5万余りもの軍隊にたいしてたったの17人!}(「大残虐事件資料集Ⅱ」、P35<戦争とは何か>) と書いている。フィッチが書いている通り、憲兵の数は非常に少なく、取締りはほとんどできなかったであろう。
憲兵が増員されるのは1月初めになってからで定員約400名の中支那方面軍憲兵隊が編成され、監視網も強化された註45-8。
(c)兵団長会議(12月24日)
上海派遣軍の兵団長会議では、多くの師団、旅団から軍紀の問題に関する発言があった。12月24日の飯沼日記にその様子が記述されているが、秦氏の要約を引用する。
{ 第3師団:「ご訓示の任務に努むると共に訓練、将兵の精神教育をなす」 第13師団:「軍紀風紀、皇軍精神より見て工合悪き略奪行はる。特務兵(注.短期教育の輜重兵)特に多し、断乎として振作を図らんとす。江北に独立作戦後、放火が殆どなく気分やや之に向ひつつあり」 第16師団:「軍紀風紀は概して良好なるも一般に粗放なるもの少なからず、更に一段の緊縮を期せんとす・・・ 天谷支隊:「軍紀風紀十分ならざるも放火は無くなれり」
兵団長クラスの上長への報告は、一種の勤務評定の場でもあるから、不名誉な話は出さず、当たり障りのない内容になるのが通例なのに、この報告内容は逆である。軍紀・風紀の乱れが日常化していて、百年河清を待つ気分だったととれる。あるいは、少しでも改善の方向に向かっている、と司令部を安心させる発言だったのかもしれない。」 (秦:「南京事件」、P163)
(d)松井総司令官の認識
松井総司令官も不法行為の報告は受けたようだが、この時点では「やむなきもの」、と認識している註45-9。
クリスマスを過ぎると、陥落直後に比べれば安全区とその周辺での市民への暴行は減少したものの、兵民分離で市民が殺害され、強姦や掠奪などの事件があい変らず続いた。その中で日本軍は南京市民による「自治委員会」を設置し、安全区国際委員会の業務を引き継がせようとした。
(1)難民登録(兵民分離)
12月22日の国際委員会第23号文書には、「良民登録」に関する日本軍の布告が掲載されている。
{ 12月24日から良民証を発給するので、日本軍の発給事務所へ出頭すること。この調査後、良民証を持たないものの城内居住は許されない} (「安全地帯の記録」、P208-P209<要約>)
これは4.4.4項に記した兵民分離であるが、敗残兵に混ざって多くの市民が摘出、処刑された様子が第50号文書に詳細に書かれている。(4.4.4(3)項に引用) この文書の報告者ベイツは生き残った数人の被害者から証言を聞いており、ベイツの思いが詰まっている最後の部分を要約引用する。
{ この事件は2週間にわたって行われた難民登録の一つにすぎず、これより多くの人を巻き込んだ事件もある。ここで捕虜の殺害に関する議論をするつもりはないし、日本軍が主張する「復讐」について議論するつもりもない。私が関心を抱くのは、ひとつは話合いの条件が大きく裏切られ多くの人々が殺されたことであり、もうひとつは我々の資産や職員、難民が密接に関係していることである。註45-10 ・・・ この事件の殺害方法、場所、時刻等の証拠のすべてが他の事件より豊富で、大学から連行された男たちの大多数はその夜殺され、一部は他の場所からのグループと一緒にされてから殺されたのであった。} (「安全地帯の記録」、P275-P276)
(2)自治委員会発足
1938年1月1日、日本軍は中国人による南京自治委員会を発足させ、国際委員会が行っていた難民への食糧供給などのサービスを自治委員会に移管しようとした。国際委員会も公式には移管に賛同したものの、保有していた資金や物資を譲ることは拒否した。ラーベは日記に次のように書いている。
{ 1月6日 ・・・午後5時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、食糧などの蓄えや資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。・・・「仕事を譲ることに関しては異存ありませんが、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。 ・・・ 日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。どうやら狙いは我々の金だけらしい。} (「南京の真実」、P192)
国際委員会は1月7日の第34号文書では、自治委員会に対して正常状態に復帰させるための4つの課題を提示している。それは、①安全地帯外の治安確保、②住民の帰還を地区単位で順次行う場合の方法、③経済生活(商店、銀行、郵便・電話などの生活インフラ)の回復、④火災の停止、である。
(3)食糧問題
陥落直前に国際委員会が確保した米や燃料などが底をつきはじめたため、食糧確保のための依頼文書が多数発行された。1月13日には上海から食糧を調達するてはずを整え、日本大使館に輸送の許可を求めたが、日本側から明確な回答がないまま時間が過ぎていく。国際委員会は1月10日頃に南京に戻ってきたアメリカ、イギリス、ドイツの大使館関係者に手紙を送って支援を依頼しているが、結局、この要望は却下された。
南京城の東北東約20キロにある棲霞山(せいかざん)にも難民キャンプがあった。そこにいる中国人から国際委員会にあてた手紙が第60号文書として残されている。その一部を引用する。
{ 南京陥落後より、毎日何百人の避難民が本院に避難所と援護を求めてやってきました。本状を書いている現在(1月25日)、既に約2万4千人もの人々を我々はこの寺の屋根の下に抱えており、そのほとんどが婦人と子どもであります。男は撃たれたか日本軍への重労働のために捕われているのです。
(筆者註)このあと、1月4日から20日頃までの強姦や掠奪の事例が記載されているが、15日の分だけ引用する。
1月15日 多数の日本兵がやってきて若い娘を全部狩り出し10人を選び出し、寺院の一室で強姦した。同日その後、一人の泥酔した日本兵がやって来て、或る部屋に入り込み酒と女を要求した。酒は提供されたが、娘は与えられなかった。怒り狂った兵士は銃を乱射しはじめ、少年二人を殺して立ち去った。彼は持ち場に帰る途中1軒の家に入り込み、70歳の老農婦を殺し、驢馬を盗み、家に放火した。 ・・・
我々住民を助けてくれるよう切に貴下にお願いするものです。} (「安全地帯の記録」、P313-P315)
(5)外務省石射東亜局長の回想
南京での日本軍の非行は南京大使館員を通じて日本の外務省にも早い時期に伝わっていた。外務省東亜局長だった石射猪太郎氏は回想録で次のように述べている。
{ 南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井(淳)領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆(ガイタン)させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取り締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危ないとさえ報ぜられた。 ・・・
私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員会なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和13年1月末、数日間のできごととして、70余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、殆ど読むに耐えないものであった。} (石射猪太郎:「外交官の一生」、P298)
(6)軍紀紊乱に関する日本軍の対応
陸軍中央は南京での非行を止めないとこれ以上の作戦展開は無理と判断し、12月28日、参謀総長名と陸軍大臣名で松井総司令官に「国際関係に関する件」と題した要望電を送った。続いて1月4日には大本営陸軍部幕僚長名の「軍紀風紀に関する件」という文書を送付している。秦氏はこれを「戒告に相当するもの」註45-11と述べている。
(b)軍紀引締めの通達
「参謀総長戒告」を受けて上海派遣軍は12月30日に軍紀引締めに関する指示を出している。
{ 12月30日 ・・・ 午後1・30より、南京及附近宿営部隊副官等を集め軍紀風紀殊に外国公館に対する非違に就き厳に注意をなす} (「南京戦史資料集」、P229<飯沼日記>)
この指示は兵士たちにも伝えられたらしい。
{ 歩9連隊の一兵士は、12月31日の日記に次のように書きとめている。「本日左の如く命令が会報に出た。良民を殺さぬようにすること、良民たちの家屋内に無断で立ち入ることを禁ず、良民たちの物品又は其他の品々を領収することを禁ず」(外賀関次日記)} (秦:「南京事件」、P174-P175)
(c)陸軍省人事局長の視察
陸軍省人事局長の阿南惟幾少将は、勲功調査と軍紀風紀の状況調査のため、1月2日南京を訪問し、関係者と面談した。中島師団長との面談の様子を秦氏は次のように記している。
{阿南人事局長一行が中島師団長をなじると、「捕虜を殺すぐらい何だ」(稲田正純氏談)と反論されているし、4日にやってきた青木企画院次長一行に、やはり中島が平然と、「略奪、強姦は軍の常だよ」と語るので、文官の手前、恥ずかしくなった、と案内役の岡田芳政大尉は回想している。} (秦:「南京事件」、P174)
1月21日をもって、南京警備は16師団から11師団の天谷支隊に交代することになった。中島師団長は22日南京をたって上海に向い、23日には松井大将と面談しているが、この二人の関係はすでに冷えきっており、二人の日記には埋めようがない溝があることが窺える。
中島日記; {1月23日 松井大将に面会して隷下を離るるの申告をした、・・・ 話中かっぱらいの話あり、・・・この男案外つまらぬ杓子定規のことを気にする人物と見えたり 次に国民政府の中のかっぱらいの主人は方面軍の幕僚なりと突っ込みたるに、是はさすがにしらばくれて居りたり 家具の問題も何だかけちけちしたことをぐずぐず言いおりたれば、国を取り人命を取るものに家具位を師団が持ちかえる位が何かあらん・・・} (「南京戦史資料集」、P352-P353)
松井日記; {1月24日 第16師団長北支に転進の為め着滬す。言動例に依り面白からす、殊に奪掠等の事に関し甚た平気の言あるは、遺憾とする所、由て厳に命して転送荷物を再検査せしめ鹵獲、奪掠品の輸送を禁する事に取計ふ} (「南京戦史資料集」、P33)
(1)アリソン事件 ・・・ 事件の推移
1月上旬になると各国の外交官が南京に戻ってきた。アリソン(J.M.Allison)は南京アメリカ大使館の3等書記官で、1月26日にアメリカ人の施設を調査のために訪問した際、日本兵に殴られる事件が発生、これがアリソン事件と呼ばれる事件である。事件の概要をアリソン氏本人が書き残した記録から要約引用する。
{ 1月24日の夜11時頃、武装した日本兵たちがアメリカ人施設である金陵大学農学院の作業所に侵入し、女性一人を連れ去った。その女性はアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連れていかれ、同邸を占領していた日本兵に3回強姦されて、2時間後にもどってきた。
1月26日の午後、私とリッグス氏は日本の領事館警察一人と憲兵複数名とともに、その女性が連行された場所へ行った。憲兵の一人が敷地内へ入っていき、リッグス氏と私もついて行った。すると日本兵が血相を変えて突進してきて、「バック、バック」と英語で叫ぶと同時に、門まで私を押し返した。私はゆっくりと下がったが、その日本兵は私の頬にビンタをくれ、それからリッグス氏にも同じことをやった。さらに、われわれがアメリカ人と聞くやいなやその兵士は激昂して、リッグス氏に再度襲いかかろうとした。憲兵らがそれを止めようとしたが、彼はリッグス氏の衿を引き裂き、シャツのボタンをいくつか引きちぎった。} (「南京事件資料集Ⅰ」、P234)
{ アメリカ政府はグルー駐日大使をとおして強硬に抗議し、日本政府はすぐに謝罪して賠償を約束し、外交的には一応決着をみた。しかしアメリカのマスコミではパナイ号撃沈事件に続いてアリソン事件を大々的に報道した。・・・アメリカ国民のあいだに高まりつつあった日本軍への反感がさらに煽られる結果になった。} (「南京難民区の百日」、P345)
(2)アリソン事件 ・・・ 日本側の調査
この事件を日本側で調査した結果について、秦氏は次のように記している。
{ この事件に立ち会った派遣軍司令部の本郷忠夫参謀と石倉軍二伍長の回想を照合するとなぜアリソンが赤ら顔の大男に力ずくで追い出されたか、理由がはっきりする。問題の家屋は天野郷三予備中尉(歩33連隊第8中隊長)と十数名の兵士の宿泊所で、かけつけた本郷大尉が天野の室に入ろうとすると、兵士たちが押しとどめる。無理に入ってみると、天野が女と寝台に寝ていて、隣室にも3,4人の女がいた。
問いただすと、天野は連日あちこちから女を連行しては、部下とともに強姦していたことがわかった。 ・・・ 結局、天野以下の12名は軍法会議へ送致されることになり、1月29日、ほかの数件とともに軍司令官の決済を終った・・・ *天野は禁錮刑を課せられ、旅順軍刑務所へ送られた。戦後、弁護士を再開、昭和39年没した。} (秦:「南京事件」、P178)
(3)アリソン事件 ・・・ 日本軍の見解
この事件に対する日本軍の見解は「アリソン氏が軍の制止を振り切って侵入したことがきっかけ」としており、東中野氏はその見解を採用して次のように述べている。
{ アリソン領事が天野中尉の買春事件を聞きつけて、天野中尉の宿舎に入ろうとした。日本軍兵士が制止したが、それを振り切って強引に日本軍の宿舎に踏み込もうとしたため、領事は殴打されてしまった。 ・・・ アメリカ領事といえども、軍の制止を振り切って侵入することは、軍の指示を無視する不遜な行為であった。事件の翌日、逸早く深堀報道班長がアリソン領事の「検察官的不遜の態度」、つまりアリソン領事の越権行為について発表すると、それが「殆ど全世界の輿論を制してしまった」ため、この事件が大きな問題に発展することはなかった。ただ、殴打にかんしてのみ、日本軍はアリソン領事に陳謝している。} (「再現 南京戦」、P334-P335)
少なくとも「全世界の輿論を制した」ことはなく、この事件がきっかけになって、アメリカで日本製シルクの不買運動が起き、外務省が陳謝してようやく収まっている。
(4)難民への帰宅指示
国際委員会の第56号文書によれば、日本軍特務機関は1月28日の自治委員会において、2月4日までにすべての難民は自宅に帰るよう指示した。
難民は1月中旬から自宅の下見などのために一時帰宅する者もあったが、この指示が出た後、帰宅者は増加した。しかし、帰宅先で掠奪や強姦などにあい、再び安全区に戻ってくる者もおり、中には家財を持ち込む者もいた。
ラーベは2月2日の日記に次のように書いている。
{ 今日、上海日本大使館の日高信六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の暴行はこの3日間だけでなんと88件もある。・・・日高氏はまったく困ったものだとつぶやいて、部隊が交代するときには往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけした。「前の部隊※は評判が悪く、1月28日に離任させられたんですが、撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」
この手の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、いま報告されている強姦などの事件が実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。
難民が2月4日に力ずくで追い立てられるというのは本当かと聞くと、自分が知る限りでは、ぜったいにそんなことはないと日高氏は言った。 ・・・ 私は念を押した。「近いうちに我々も収容所を解散したいと考えています。ですからなおのこと、いくども難民に家へ帰るようすすめました。けれどもそのためには、一にも二にも安全であることが条件になります」日高氏は、強制執行しないということは中国人には黙っていてくれといった。すんなりいかないと困るというのだ。私は約束した。} (「南京の真実」、P252) ※「前の部隊」は、第16師団歩30旅団。アリソン事件の天野中尉もここの所属。
日本軍はこの時点になっても将兵の非行の状況を正しく把握できていなかったようだ。秦氏は次のように書いている。
{アリソン書記官が2月12日上海派遣軍へ、1月28日から2月1日の間に89件の略奪・強姦があったと抗議してきた。そこで飯沼参謀長が憲兵隊に調べさせると、該当の事実は数件しか見つからなかった。憲兵隊が把握しうる非行は、依然として氷山の一角にすぎなかったのである。} (秦:「南京事件」、P182)
(5)収容所の一部閉鎖と帰宅状況
以下は、ミニー.ヴォートリンの2月4日の日記である。
{午前中、5人の若い女性が聖経師資培訓学校〔聖書講師養成学校〕からやってきて、きのうそこの収容所が閉鎖されたこと、彼女たちがそれぞれの家に帰ったこと、夜間、兵士たちが侵入してきたこと、彼女たちが家の塀をよじ登って聖経師資培訓学校に逃げ戻ったことを話した。・・・わたしたちは彼女らを受け入れることを決めた。
午後5時30分、救援計画について相談するためプラマーがやってきて、どの収容所でも強制退去は行われていない旨を述べた。午後5時、若い女性200人ほどがやってきて頭を地面にこすりつけ、ここにいさせてくれと懇願した。彼女たちを強制的に帰宅させることは考えていなかった・・・} (「ミニー・ヴォートリンの日記」、P153-P154)
ラーベは2月5日の日記に、ある収容所の責任者である中国人からの手紙をのせている。その人によればそこの中学では5000人だった難民が8000人に増えたそうだ。
{ 金陵大学付属中学からの手紙 1938年2月5日 拝啓ラーベ様 ・・・保護を求めて戻ってくる難民の数は増える一方です。 ・・・ 娘を出せと言われ、言うことをきかなければ殺すと脅迫されるのです。 ・・・ 自治委員会には日本に対する影響力はまったくありません。委員会から、難民を助けることのできるのは国際委員会だけだと言われました。自治委員会の妻たちでさえ、一般民と同じように強姦されているありさまなのです。・・・} (「南京の真実」,P256-P257)
2月4日以降、一部の収容所は閉鎖され、難民も少しずつ自宅に戻っていったが、まだ半分以上の難民が安全区にとどまっていた。以下は、2月14日付けのベイツのメモである。
{ 12月後半の難民キャンプの人口は最高時に25キャンプに69,406人であった。1月25日には60,000人であった。今現在、24キャンプに35,334人収容している。 ・・・ 日本当局による自宅帰宅者の登録の報告に基づけば、1月に25万人であったのに対して、現在は15万人が安全区に残っている。・・・} (「南京事件資料集Ⅰ」、P173)
(6)本間少将の宴会
現地視察に訪れた参謀本部第2部長の本間少将は、南京で2月1日、各国外交官を招いて大宴会を催した。参加したドイツ大使館のローゼン書記官は次のような報告書をベルリンに送っている。
{ 宴会はわれわれの異議や苦情を封じ込めようとするあからさまな下心をもって開かれた。・・・愛くるしい芸者たちが、杯を飲み干す間も与えず酒の酌をし、将校たちはほどなく軍服の襟のボタンをはずし、歌才に恵まれた者も、そうでない者も歌に興じ始めた。芸者たちは、手もなくわれわれ一同の膝の上に腰を下ろし、この甘美な重荷から解放されるには、グラモフォンの楽曲にあわせたダンスに彼女たちを誘うしかなかった。} (「ドイツ外交官の見た南京事件」,P143-P144)
ローゼン書記官は日本軍には批判的だったので厳しく批判しているが、他の外交官がどう感じたかはわからない。日本側はこの宴会に外国人は満足した、と受け取ったようだ。上海派遣軍参謀副長の上村利道大佐は2月1日の日記に次のように記している。
{ 夜大使館に英、米、独等の領事を招待し、晩餐会談、大に彼等の心境を軟らけ大の効果ありし如く観察せらる。今後の成果果して如何?} (「南京戦史資料集2」、P279)
(7)天谷司令官のティーパーティ
2月5日、新任の南京警備司令官天谷少将が各国の外交官を招いてティーパーティを開催した。以下、出席したローゼン書記官がベルリンに送った報告を要約して引用する。
{ 少将は原稿を手に長々と演説をし、福田担当官がたどたどしく英語に通訳した。まず少将は、日本軍は厳しい軍紀で世界に名高いが、中国でこのような事態が起きた原因は中国にある。日本兵は進軍中に食糧と必要物資にありつけずその怒りを住民にぶちまけたのだ。天谷少将は中国側を激しく叱責した。中国軍は日本人将校を狙った、中国人スパイは日本軍司令部の位置を発火信号などで知らせ攻撃させた・・・!
天谷少将は、外国人とくに「ある国」の人間が不遜にも裁判官の役目を果たそうとしている、外国人が介入しなければ、日中関係はうまくいったはず、中国人を抗日運動に仕向けたのは外国人だ!
最後に少将は、何か意見はあるかと尋ねた。私はこの「演説」に反感を覚えたが、発言は断念した。米国人のアリソン氏が原稿の写しを求めたが、演説は即興的なものだと返答された。いましがた少将が原稿を読み上げていたのに・・・
天谷少将の演説からは、中国人の抵抗が日本軍をかなり動揺させたことがわかる。屈辱を経験した民族がついには外国の侵略に抗して立ち上がるということは、祖国愛の強い日本人には自明のことであったはずである。
たしかに日本軍の怒りは理解できる。なぜなら、中国の日本軍はこれまで世論を閉め出して行動することができたのに、ここ南京では細かな点まですべて白日の下にさらされてしまったからである。秩序なき中国に日本軍が光明と秩序をもたらす、という説はこれで台なしになった。} (「ドイツ外交官の見た南京事件」、P147-P152)
(1)松井総司令官の涙の訓示
2月7日、南京で慰霊祭が行われ、松井総司令官はいわゆる「涙の訓示」を行った。それは次のようなものであった。
{ 松井最高指揮官が、つと立ち上がり、朝香宮をはじめ参列者一同に対し、説教のような演説をはじめた。・・・「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった」という叱責のことばだ。しかも、老将軍は泣きながらも凛として将兵らを叱っている。「何たることを、おまえたちはしてくれたのか。皇軍としてあるまじきことではないか。おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。それがまた戦傷病者への供養となるであろう」云々と、切々たる訓戒のことばであった。} (松本重治:「上海時代(下)」、P371)註45-12
松井総司令官の前日の日記をみると難民の帰還問題や軍紀の問題に悩んでいる姿が見える。以下は現代文に要約したものである。
{ 中国人の帰宅が進まない要因の一つに日本軍への恐れがあるが、それを理解していない守備隊が多い。軍紀風紀の弛緩は回復せず、幹部は情実や姑息な手段に逃げている。軍自らが住民の宣撫工作【住民を安心させるための活動】を行うのは無理があるかもしれない。夜、朝香宮殿下と会食した。殿下は、軍紀風紀の問題は16師団長以下の言動によるところが多いと言われたが、自分も同感だ。}註45-13
(2)中支那方面軍の改組
陸軍参謀本部は2月上旬に持久戦になるという肚を決め、新たな作戦をせずに、軍の再編、軍紀粛正に専念することを決めた。参謀本部の河邉虎四朗作戦課長は次のように語っている。
{ 私達の方針として8月まで絶対に新作戦をしないと云ふのを原則として此方の態勢を固める為に専ら兵団の整理、軍紀粛正をしなければならない。南京あたりで変な事が出来た後でありますから其の悪い連中を帰して独立混成旅団が4つか5つか出来て来るからさうしたら之等を入れ替へて新鮮なはつきりした軍隊を8月迄に作り直すのだと云ふつもりで・・・} (「南京戦史資料集2」<河邉虎四朗少将回想応答録>、P222)
2月14日、中支那方面軍は中支那派遣軍に改組され、軍司令官も畑俊六大将に交代、松井総司令官は解任され召集解除となった。以下は、畑俊六大将の1月29日の日記である。
{ 支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く頽廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれば、此際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、又軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。此意見を大臣に進言致しをきたるが、・・・意外にも2月5日夕青森に到着したる処本部長より特使あり書状携帯、それによれば次官、軍務局長は余を松井の后任に推薦し、余の后任は西尾を可とする意見なりとの内報に接し聊か面喰ひたる次第なるが、・・・} (「南京戦史資料集2」<畑俊六日誌>、P189)
改組、異動の通知を受けた松井総司令官は日記に不満をもらしている。
{ 2月10日 東京より使者来着、新中支那派遣軍司令部編成要領と人事の書類を持ち来る。畑大将新司令官に、川辺少将※参謀長に予定せられ、其他は現在方面軍及両軍のものを適宜充当せるものなり。予の離任は、実際自負に非るも時機尚早なる事は、万人の認むる所なるへきも、中央陸軍部の妄、如此ては、予か徒に留任するも其効果少く、寧ろ帰朝して各方面と接衝して今後の対支那政治と軍事政策を根本的に立直す事緊要なりと考へ、寧ろ喜て離任の覚悟を定めたり} (「南京戦史資料集」<松井日記>、P41) ※河辺虎四朗作戦課長の兄、河辺正三のこと
(3)安全区国際委員会の終息
2月18日、安全区国際委員会は以後その活動を「南京国際救済委員会」の名においてすることに決定し、関係大使館などに通知した。この通知文書が「南京安全区档案」に掲載された最後の文書となった。名称変更した理由については、「その方が我々の現在の職務にふさわしいから」とだけしか言っていない。
委員長のラーベもシーメンス社の指示により、2月23日に南京を去る。「南京国際救済委員会」の委員長は引き続きラーベが務めるものの、実質的にはミルズがその役割を担うことになった。
上海まで行く申請を日本大使館に出したあと、釘をさされたことがラーベの日記に書かれている。
{ 2月10日 昨日の夕方、福井氏【南京領事】が訪ねてきた。・・・なんと、氏は脅しをかけてきた。「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」} (ジョン・ラーベ:「南京の真実」、P274-P275)
ラーベが南京を去るにあたって、多くの中国人から感謝の言葉が寄せられ、2月21日には盛大な送別会が催された。 ラーベがこのあと、南京に戻ることはなかった。
(4)その後の南京
(a)中華民国維新政府の成立
{ 3月28日、中支那派遣軍の工作により中華民国維新政府が南京に成立した。これにより、南京自治委員会は解散となり、南京市政公署に改編された。} (「南京難民区の百日」、P372)
(b)安全区の閉鎖
{ 日本軍当局が、残っていたいくつかの難民収容所をふくめて最終的に南京難民区を閉鎖したのは1938年5月末であった。} (「南京難民区の百日」、P375)
4.5節の註釈
註45-1 <「南京安全区档案」の序文> 「安全地帯の記録」、P131
編者の徐淑希博士が序文(以下に引用)で書いているように国際委員会が作成した文書はこれだけではない。不法行為の事例も委員会のメンバーが確認できたものだけであり、実態はこの数倍もしくは数十倍あると思われる。
{ 本書に収めた記録は南京安全地帯が保有している文書の全てではなく、国際問題研究所※が幸い入手したものだけである。この他、それらの文書の一部は編者の「日人戦争行為(The War Conduct of the Japanese)」にも出ているし、また、重要なものの大部分を含む多数のものがH.J.ティンパリー(H.J. Timperley)氏の「戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐(What War Means: the Japanese Terror in China)」の付録にも入っている。しかし、歴史と国際法の研究の材料として、かつ公共精神に充ちた一群の男女の気高い行為の証拠としての重要性に鑑みれば、これらの記録を独自にできるだけ完璧に別個の資料編として出版する事は有意義であると思われる・・}
※(筆者註)「国際問題研究所(The Council of International Affairs)は中華民国の公的機関で「南京安全区档案」の監修を担当した。
註45-2 <逃げる者は射殺> 牧原信夫日記 3.3(4)項、註33-4参照
{・・・自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する} (「京都師団資料集」)
註45-3 <新路口事件判決> 判決文は、Wikipedia:「夏淑琴」より引用
註45-4 <フィッチによる敗残兵連行目撃談>
「大残虐事件資料集Ⅱ」、P32 <戦争とは何か> より要約引用。
{ 15日の夜、職員の会議中に本部の近くにある収容所で1300人の難民を兵士たちが連れ出して銃殺しようとしている、という知らせがあった。我々はその中に多数の元兵士がいることを知っていたが、この日の午後、ラーベに対してある将校が彼らの生命は助けてやる、と約束したばかりでした。男たちは100人ぐらいずつ数珠つなぎにされ、刑場へ行進して行くのを見た。}
註45-5 <強姦事例・・・南京安全区档案 事例第58件> 「安全地帯の記録」、P184
{12月17日 ・・・ 2名の日本兵が6時頃ラーベ氏が家に戻ったとき入って来た。彼は、兵士の一人が一人の少女を強姦するため服を一部脱いでいるところを見つけた。この2名の兵士は出てゆけと命令されて、来たときと同じく塀を越えて姿を消した。}
註45-6 <慰安所の開設・・・飯沼日記> 「南京戦史資料集」、P220、P226
{12月19日 ・・・迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す}
{12月25日 ・・・長中佐上海より帰る。青幇(チンパン)の大親分黄金栄に面会上海市政府建設等の打合せを為し先方も大乗気、又女郎の処置も内地人、支那人共に招致募集の手筈整ひ年末には開業せしめ得る段取りとなれり}
註45-7 <ミニー・ヴォートリン12月18日の日記>
{ 田中氏は物わかりのよい人で、心を痛めていただけに、自らも出向いて、憲兵2名に夜間の警備をさせるつもりだ、と言ってくれた。}
註45-8 <憲兵体制の強化> 秦:「南京事件」、P178
註45-9 <松井総司令官の認識> 「南京戦史資料集」、P22
12月20日の日記に次のように記している。
{ 尚、聞く所、城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしか、我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なり}
註45-10 <第50号文書でベイツが「関心を抱く」こと>
①話合いの条件が裏切られたこと; 日本軍は「兵士だったことを名乗りでれば殺さない」と言っておきながら、殺してしまったことをベイツは「裏切られた」と言っている。
②我々の資産や職員、難民が密接に関係; 敗残兵の選別はアメリカが設立に関係した金陵大学で行われ、職員や難民も事件に巻き込まれたことを指すものと思われる。
註45-11 <軍紀・風紀に関する件> 秦:「南京事件」、P173
{ 要望の内容は、国際関係もあり、軍紀風紀の乱れを正すよう望んだものだが、天皇から親補された出征軍の最高指揮官が、天皇の幕僚長からこの種の要望を受けたのは異例で、事実上の「戒告」に相当すると言ってよいだろう。}
註45-12 <涙の訓示>
松本重治氏はこの松井総司令官の訓示は12月18日の慰霊祭で行われたと書いているが、2月7日の誤りである。2月7日、同氏は南京にいた形跡はないので、この話は部下の記者から聞いて書いたものかもしれない。飯沼日記にも次のように記載されている。
{ 2月7日 ・・・ 1・30より派遣軍慰霊祭、終て松井軍司令官より隊長全部に対し次の要旨の訓示あり。南京入城の時は誇らしき気持ちにて其翌日の慰霊祭亦其気分なりしも本日は悲しみの気持のみなり。其れは此五十日間に幾多の忌はしき事件を起し、戦没将士の樹てたる功を半減するに至りたれはなり、何を以て此英霊に見へんやと言ふに在り。殿下亦御列席=殿下に対し奉り誠に申訳なき気持にて帰来早速御断を申上く} (「南京戦史資料集」、P246)
註45-13 <松井総司令官 2月6日の日記(原文)> 「南京戦史資料集」、P38-P39
{ 2月6日 朝8時出発汽車にて南京行。 ・・・ 支那人民の我軍に対する恐怖心去らす、寒気と家なき為め帰来の遅るる事固とより其主因なるも、我軍に対する反抗と云うよりも恐怖・不安の念の去らさる事其重要なる原因なるへしと察せらる。
即各地守備隊に付其心持を聞くに、到底予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論、本事件の根本の理解と覚悟なきに因るもの多く、一面軍紀風紀の弛緩か完全に恢復せす、各幹部亦兎角に情実に流れ又は姑息に陥り、軍自らをして地方宣撫に当らしむることの寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至りなり。
6時南京着、直ちに大使館に投し、夜朝香宮殿下の御招宴に列す。 ・・・ 尚軍紀風紀問題に就而は、矢張第16師団長以下の言動宜しからさるに起因するもの多き旨語られ、全く従来予の観察と同様なり。}