南京事件全体の犠牲者数に関する正確な史料はなく、各研究者がそれぞれの方法で推定している。この節では中間派の秦郁彦氏、板倉由明氏、南京戦史(偕行社)の3氏と史実派の笠原十九司氏の推定、、及び中国の主張について述べる。なお、現在の否定派は不法行為による犠牲者はほとんどないか、あっても通常の戦争であり得る範囲、としているので、この節の対象外とする。

(1)南京事件の範囲
東京裁判において南京事件関連の判決は、事件そのものに対するものと松井被告に対するものがあった。いずれも犠牲者数を確定することが目的ではないものの、事件の範囲や犠牲者数に触れている註47-1。
この判決で述べられているように、南京事件の期間は「占領後6~7週間」、地理的範囲は「南京(城)とその周辺」とするのが日本でも中国でも一般的であるが、笠原氏ら史実派はこれより期間も地理的範囲も広げて推定している。
(2)犠牲者数の推定方法
中間派の研究者はいずれも以下の方法で犠牲者数を推定している。史実派も少し異なる部分があるものの、ほぼ同様の方法であるが、中国側はまったく異なる方法(4.7.6項参照)で推定している。

①捕虜殺害などの事件ごとの犠牲者数を日本軍の公式記録や関係者の証言などから推定する。
②中国軍の総兵力とその行方(戦死、脱出、捕虜など)を中国側資料などから推定し、①で算出した犠牲者数との整合性を確認する。
③中間派は、主としてスマイス報告をもとに市民の犠牲者数を推定する。なお、「軍関係」には便衣兵として殺害された市民の犠牲者も含まれるが、その重複がどのくらいかはわかっていない。
④史実派はスマイス報告を参考にしつつも他の情報、特に埋葬者数を重視して犠牲者総数を推定している。(市民の犠牲者数は明示していない) 中間派は埋葬者数を犠牲者数の推定に使用していない。
(3)各説の特徴
(a)板倉説 ・・・ 出典は板倉由明:「本当はこうだった南京事件」,P181-P200
板倉氏は南京戦史の編集委員なので、南京戦史の推定値を最大値として実態値を推定している。南京戦史が示した「最大値」から、不法殺害にあたるものは軍関係で2分の1から3分の2、市民で3分の1から2分の1に絞り込み、不法殺害の数はおよそ1万から2万であった、と主張する。(P200)
不法殺害に絞り込むのは、次の理由による。
(b)南京戦史説
個別事件の犠牲者数は戦闘詳報や主として指揮官・上級将校の記録などから、実態に近いと思われる数字を推定し、捕虜や敗残兵を「処断」した実数を合計1万6千人としているが、これらは不法殺害の実数ではなく、不法殺害の最大値が1万6千人である、とする。
市民については、スマイス報告の都市部調査と南京市が含まれる江寧県の農村部調査から15,760人を犠牲者としているが、これは最大値で実態はもっと少ない、と述べている。
(c)秦説 ・・・ 出典は、秦:「南京事件」,P207-P215
戦闘詳報や下級兵士も含む関係者の証言などから個別事件の犠牲者数を推定する。戦闘詳報などの数字は実態の2~3倍の数字を書くこともあるというが、秦氏はそのまま積上げている。また、収容されたと記述のある捕虜でも独自の判断で処断されたとみなしている場合もある。
市民については、スマイス報告の都市部調査と農村部調査の4.5県全部の死者数など約3万3千を採用するが、板倉氏と同様の意味と思われる「不法殺害としての割引」などを行って、8千から12千にまで絞り込んでいる。その理由などは明確にしていない。
なお、秦氏は「増補版あとがき」で次のように述べている。{ 旧版では特記しなかったが、この計数は新史料の出現などを予期し、余裕を持たせたいわば最高限の数字であった。この20年、事情変更をもたらすような新史料は出現せず、今後もなさそうだと見きわめがついたので、あらためて4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい } (同上,P317-P318)
(d)笠原説 ・・・ 出典は、笠原:「南京事件」,P214-P228 による
笠原氏は南京事件の範囲を、南京城区と近郊6県を合わせた南京特別市全域、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日前後から3月28日の中華民国維新政府の成立時まで、と定義している。
また、{ 陥落後の中国軍は完全に崩壊しており、人道的に保護するために投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在であるにもかかわらず、徹底した殲滅戦を行ったのはハーグ陸戦条約に違反する不法行為である
}(同上P222)として、下関での追撃戦も犠牲者数(不法殺害者数)に含めている。
さらに、幕府山事件の犠牲者は2万人とし、堯化門の捕虜など公式記録では収容したとされる捕虜も殺害されたとみなし、個別事件の犠牲者数合計は8万人とみる。
市民については、スマイス報告やラーベの推定註47-2を参考にしつつも、犠牲者数は明示せずに、{ 南京事件の全体状況を総合すれば、10数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される } (同上,P227-P228) と幅の広い推定をしている。
(e)<参考>洞富雄氏の推定 ・・・ 出典は、洞:「決定版 南京大虐殺」,P135-P155
南京事件研究のパイオニアで史実派の元祖でもある洞富雄氏は、1982年12月発行の上記著書において、{ 南京城内外で死んだ中国軍民は20万人をくだらなかったであろうと推測される。・・・これには戦死者が相当含まれているはずである。}と述べている。洞氏は東京裁判の判決や埋葬記録、中国軍の規模などをもとにしているが、スマイス報告は調査方法に問題あり、として採用していない。史実派はこの洞氏の数字を踏襲しているとみられる。
図表4.15は捕虜や敗残兵殺害の犠牲者数を個別の事件ごとに整理したものである。
(1)板倉氏; 出典:「ゼンボウ」昭和60年4月号(秦:「南京事件」,P210より引用)、板倉由明:「本当はこうだった「南京事件」,P199-P200
犠牲者数合計は南京戦史と同じだが、内訳は少し異なる。板倉氏は合計を出したあと、そのうちの2分の1から3分の2を「不法殺害者数」としている。殺害時の状況によっては合法の場合もあるから、ということで論理的におかしくはないが、2分の1とか3分の2という数字は感覚的なもので明確な根拠があるわけではない。
(2)南京戦史; 出典:「南京戦史」,P360-P364
ひとつひとつの事件を丹念に精査し、犠牲者数を推定している。偕行社の性格上、公式資料や指揮官クラスの記録などが優先されるのはしかたないか・・・
(3)秦氏; 出典:秦:「南京事件」,P210(表5),他
記録や証言で戦果が増幅されているのを知りつつ、史料通りの数字をそのまま置いている。実態の値を合理的に説明することは困難なので、こうした方が国際的な説得力を持つことは確かである。
犠牲者数が千人未満の事件を別表にあげているが、積算には加えていない。かわりにかどうかわからないが、No.8,19,20のように内容が本文に記載されていない事件を入れている。
(4)笠原氏; 出典:笠原:「南京事件」、P224-P225(表1)、他
笠原氏は、日本軍側の資料から師団別事件別に捕虜、敗残兵などの殺害者数を<表1>としてリストアップし、その合計が8万を越えることなどから、中国軍総数15万人のうち8万人が「捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺された」と推定している。しかし、この<表1>は下記のように粗雑なところがある。

(1)中国軍の兵力推定
中国軍の兵力については、図表4.16に示す2つの中国側史料――「譚道平の推定」と「档案・回憶」――が有力な史料である。南京戦史や板倉氏は中国側の戦闘詳報なども参考にしている。譚道平は南京事件当時の南京衛戍司令長官部参謀処第一科長で、1946年に刊行された「南京衛戍戦史話」で兵力を推定している。「档案・回憶」は、秦郁彦氏が「南京事件」(P208)で言う「台湾の公刊戦史」を指すものと思われる。
中国軍の兵力推定を難しくしている理由のひとつに“雑兵”がある。板倉氏によれば、{ 雑兵は武器を持たず後方支援の輜重や雑役に使われる兵隊で、普通は兵力に数えないといわれる。南京戦では、上海からついてきた雑役兵や、陣地構築に多くの民兵が使われたといわれるが、学生義勇兵や少年兵などもこの雑兵であろう
} (板倉由明:「本当はこうだった南京事件」,P183)
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、南京防衛軍兵力を5万と推定しているが、これは譚道平参謀の戦闘兵合計4万9千に近い。

※1 ” 譚道平の推定“及び”档案・回憶“は、板倉:「本当はこうだった南京事件」,P182の表10から引用、板倉氏の推定値は同書P184-P191の文章から拾い上げ、南京戦史は「南京戦史」P60から引用した。
※2 孫宅巍氏は、板倉氏によれば次のような方法で推定している。すなわち、档案・回憶に記述がない部隊(第2軍団など)の兵数を、記述がある兵数と譚道平推定値との比率(1.85)を譚道平の推定値に掛け算して求める。 1.85=96,458/52,000 52,000=81,000-18,000(第2軍)-5,500(83軍)-3000(159師の想定値)-2500(112師の想定値) 第2軍団の兵力=18.0×1.85=33.3 以下、上表のピンク色網掛け部分はこの方法で算出した。
※3 板倉氏、南京戦史の合計値は各師団の人数の合計と一致しない。師団の積上げ値より合計をやや多くしているためである。
(2)中国軍の行方
前項での兵力をもとに、中国軍が戦闘の結果どのようになったかを推定したのが、図表4.17である。日本の各研究者ともに個別事件の殺害者合計(図表4.15)が、捕虜(処断)の人数と一致している。

※1 出典; 孫宅巍→秦:「南京事件」,P312、 笠原→笠原:「南京事件」,P223,P226
秦→秦:「南京事件」,P312、 南京戦史→「南京戦史」,P35-P366、
板倉→板倉由明:「本当はこうだった南京事件」,P198-P199
※2 南京戦史の脱出成功者数及び戦死者数は中国軍の戦闘詳報から分析しているので、合計が兵力数より多くなっている。これは、逃亡・釈放と脱出成功、戦死傷と捕虜などで重複があるからである。
(1)スマイス報告とは・・・
スマイス報告は正式名称を「南京地区における戦争被害・1937年12月~1938年3月・都市及び農村調査」(War Damage In the Nanking Area December,1937 to March,1938 Urban and Rural Surveys)といい、安全区国際委員会委員で金陵大学社会学教授のルイス・S・C・スマイス(Lewis Strong Casey Smythe)博士らが行なった戦争被害調査の報告書である。この調査の目的は、戦争で被害を受けた市民の復興のため、人的被害及び経済的被害の正確な実態を調べることにある。
調査は都市部と農村部に分けて、一定の比率でサンプリングした住民にヒアリングを行い、全体を統計的に推定したもので、精度の高い調査といわれている。南京事件が市民に与えた被害を調査した唯一かつ信頼できる史料といえ、多くの研究者がこれを参考にしている。
調査を実施したのは、1938年3月上旬から4月上旬にかけてで、報告書は「安全区国際救済委員会」の名前で同年6月に刊行された。
(2)都市部調査
南京城内及びその周辺(下関、中華門外、など)の集落を対象に人が居住している建物50軒につき1軒の割合でヒアリングを行い、その結果を50倍して全体を算出している。実際に調査したのは949世帯で、調査項目は、家族構成、死傷者や拉致者、職業、建物や財産の被害状況、などである。
図表4.18は都市部における死傷など人的被害をまとめたものである。表によれば、南京城内とその周辺での市民の死者は3,400人、うち2,400人が兵士の暴行によるものである。拉致者の大半はそのまま殺されたとみて、2,400+4,200=6,600人を城内とその周辺での死者とする研究者が多い。
放火・掠奪された建物も調査している。放火された建物は城内では13%ほどだが、城外では61%にもなる。これには中国軍が空室清野作戦で放火したものも含まれる。安全区で放火、略奪された建物は圧倒的に少なく、他地域と比べて治安状況が良かったことがうかがえる。
※1 原文のTable11から城内、安全区、城外だけを抽出した。
※2 *: {安全区では0.2%の建物が砲弾を受けたが、3月時点の調査では被害は認められない}
(3)農村部調査
南京市と近郊4.5県の農村地域を対象に次のようにして調査対象家族を決めた。すなわち、2人の調査員はその地域の主要道路を進んだ後、8の字を描きながら道路を横切ってジグザグに戻ってくる。その途中で3つに1つの割合で農村を選び、さらにその農村で10家族に1家族の割合でヒアリング調査を行う。調査した家族数は905家族になり、別の調査で判明している家族数186千に対して206家族に1家族という抽出率になる。農村調査では、人的被害のほか、建物や家畜、農機具、種苗類などの損失額も調査された。
南京市は江寧県にあるので“城内とその周辺”以外の地区(郷区と呼ぶ)の被害者数は江寧県に含まれることになる。

(注)見やすくするため、表示項目の順番を原文の表とは変えてある。
(4)スマイスの総括 ・・・ 「大残虐事件資料集Ⅱ」,P222-P224 より抽出
(5)板倉氏及び南京戦史の見解
都市部調査の「兵士による暴行死」2,400人、「拉致」4,200人、及び農村部調査の江寧県の暴行死9,160人の合計15,760人を採用する。都市部調査は城内と周辺の市街地だけで南京市内の農村地帯(郷区と呼ばれる)は江寧県の調査に含まれるからである。南京戦史はこの約16千人を“最大値”とするが、板倉氏はこの中から不法殺害は3分の1から2分の1であるとして、5~8千人と推定する。
南京戦史は、スマイス報告について、{ 日本軍は埒外におかれ、協力もしないが圧力をかけたこともない }(「南京戦史」,P373)と述べ、次のように評価している。
{ 中国官民総がかりの大々的調査の行われた4ケ月後の南京で書かれた東京裁判の宣誓口供書の中で、スマイス氏は8年前の調査書について訂正の意思表示をしていないのは、その精度に十分の自信があったからであろう。もし、その意思があればこの時点で、占領日本軍の調査妨害があったことを口実に、いかようにも調査書記載数字の訂正が可能であったと思う。} (「南京戦史」,P370)
一方で次のような問題点も指摘している。
{ この調査の特徴は「戦争被害調査」であって、その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない点である。ただ「前書き」において、ベイツ氏は次のように述べている。「城壁に接する市街部と東南部郊外の焼き払いは中国軍、城内と近郊農村の焼き払いの多くは日本軍、略奪と暴行は日本軍、1月下旬以降中国人による略奪と強盗、後に建物の破壊、農村部での深刻な強盗の増加(日本軍に匹敵、時にこれを凌ぐ)」
また、農業調査付属の調査地図における被害分布と、本書で解明した日本軍の作戦行動とは必ずしも一致せず、中国軍による堅壁清野戦術や敗残兵の逃走時の行為と推察されるものもかなり多い。おそらく人的被害に於いても同様であると思われる・・・
} (「南京戦史」,P371)
(6)秦氏の見解
秦氏は、{日本兵の暴行による死者と拉致者(ほとんど行方不明)の計は市街地で6,600人、農村部で26,870人である}(秦:「南京事件」,P212) とした上で、{ スマイス調査(修正)による一般人の死者2.3万、捕われてから殺害された兵士3万を基数としたい。不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(1/2か1/3)すべきだと考える。}(秦:「南京事件」,P212) とし、市民の犠牲者数は8千から1万2千とする。
なぜ、「スマイス調査(修正)」で、6,600+26,870=33,470が、2万3千になるのかは明らかにしていないが、病死率の補正及び軍関係犠牲者数と重複する部分を排除したためと考えることもできる註47-3。
(7)笠原氏の見解
笠原氏はスマイス調査を尊重しつつも、犠牲者数には採用せず、調査結果はミニマムの数字であること、民間人の犠牲者は城内より近郊農村の方が多かった、ということに着目している。
{ この調査は、38年3月段階で自分の家にもどった家族を市部で50軒に1軒、農村で10軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時おこなわれた唯一の被害調査であり、犠牲者数はまちがいなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。} (笠原:「南京事件」,P227)
{ 帰村していない農民の中に、避難先で日本軍に殺害されたり連行されたりして消息不明になっていたものも多数いたと推定される。調査対象は帰村している農家のみであり、誰も帰宅していない農家は、家族全員が殺害されていた可能性もある。これらの事実を勘案すれば南京近郊区4.5県の農民の死者は3万人を超えると推定される }(要約) (「南京難民区の百日」,P387)
東京裁判の判決では、埋葬者数を犠牲者数推定の重要な傍証としている。
{ ・・・これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている }(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P396、<南京暴虐事件に対する判決>)
史実派および中国側は埋葬者数を重視して犠牲者数を推定しているが、中間派は参考程度にしかみていない。
(1)埋葬者数の時系列的分析
史実派の井上久士氏などによれば、埋葬を行った団体は6つほどある註47-5が、そのうち笠原氏が埋葬者数の推定に使用したみられる4団体(紅卍会、崇善堂、紅十字会、南京市自治委員会<市衛生局>)の記録を時系列的に整理したのが図表4.21である。(出典は、「南京事件資料集Ⅱ」,P262-P276<遺体埋葬記録>)
このうち紅卍会のデータは比較的信頼度が高いといわれているが、崇善堂の埋葬数は4月分10万体が不自然で信頼度は低いとする研究者が多い。

(注)市衛生局の1938年1~4月の月別データはない。
(2)埋葬者数の地理的分析図表4.22は、遺体を収容した地域別に集計したものである。市衛生局のデータには収容場所が記載されていないので全件「不明」としている。
東部、南部、西部の埋葬者数は合計で12万余になる。この地区は陥落時に激戦が行われたので戦死者が多いと思われるが、戦死者は笠原氏の推定では2万である。捕虜などの大量殺害は図表4.15の笠原氏推定によれば、堯化門の捕虜殺害や安全区掃蕩すべてを含めても2万2千ほどにしかならない。残りの8万近くは兵士の個別的な暴行による殺害なのか、それとも数百・数千規模の民間人の集団殺害がいまだに多数埋もれているのか、この地域の埋葬量が多い崇善堂の埋葬記録が不信に思われるもう一つの理由でもある。
ただし、東部と南部では崇善堂以外の埋葬者数は少ないので、崇善堂がこの地域でそれなりの死体数を埋葬したのは間違いなさそうである。

※地域は次のように定義した。
・北部; 幕府山周辺、下関、八卦洲、江心洲等、三叉河手前まで
・東部; 概ね大平門~光華門より東側、紫金山、馬群あたりまで
・西部; 三叉河、上新河、漢西門、水西門付近
・南部; 中華門、通済門付近から雨花台、花神廟、方山附近まで
(追記)紅卍会の埋葬記録には遺体の収容場所と埋葬場所の両方が記載されている。水間政憲氏の著作「完結 南京事件」では、城内埋葬数1793体(うち女性8体、子供26体)で、民間人は34人しかいないとされ、これが南京事件はなかったことの決定的証拠のひとつとしている。しかし、1793体(原表は集計計算が誤っており正しくは1795体)は城内に埋葬された数であり、城内で収容された遺体は4758体(うち女性78体、子供46体)である。
(3)埋葬記録と犠牲者数
埋葬者数には、戦死者、病死者、なども含まれるし、記録に残っていない埋葬や揚子江に流してしまった遺体などもあり、埋葬者数だけから犠牲者数を推定することはできない。
理論的には死者数と埋葬者数は一致するが、両方とも確定的な値はないのでズレが生じる。埋葬者数にはダブリもあるが、記録のない処分が多数あるので、通常は死者数の方が埋葬者数より多くなる。
図表4.23は各研究者が推定した死者数と埋葬者数を比較したものである。板倉氏と南京戦史は埋葬者数にふれていないが、秦氏によれば板倉氏は埋葬者数を約4万人と推定註47-4しているので、その数字を置いてみた。評価結果については下記(4)(5)で述べる。

※1 処断及び殺害には、合法的なものも含む。軍人の死者数は表4.17の数字を採用。市民の殺害者数は4.7.4項(5)(6)を参照。
※2 病死等は、スマイス調査(農村部)における病死率(=3.8人/千人)に南京周辺の人口(中間派は30~50万人)、笠原氏は50万人を掛けて算出。
※3 板倉氏、南京戦史の埋葬者数は板倉氏の推定値による。(註47-4) 笠原氏は下記(5)を参照
※4 評価 ○; 死者数>埋葬者数 △; 死者数<埋葬者数 の可能性あり、又は評価できない
(4)中間派の埋葬記録と犠牲者数の評価
中間派は、崇善堂の1ケ月で10万体という埋葬はあり得ない、として、南京戦史や板倉氏は犠牲者数推定に埋葬者数は使っていない。秦氏も埋葬者数の下限値として4万という数字を目安にしている程度である。
中間派の各研究者は死者数が埋葬者数より十分に大きいので、揚子江に流してしまった死体や他の記録が残っていない埋葬を考慮しても論理的には辻褄があう。
(5)史実派の埋葬記録と犠牲者数の評価
一方、史実派は埋葬者数を重要な記録として、調査・研究を行っており、埋葬を行った団体は前述の2団体以外にも、紅十字会(紅卍会とは異なる)、南京市自治委員会<市衛生局>、同善堂、イスラム教埋葬隊など多くの団体註47-5が関与していることを指摘している。そして笠原氏は{ 南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は188,674体になる }(笠原:「南京事件」,P227) とする。
笠原氏は近郊6県を含む犠牲者数を「10数万以上、それも20万近いかそれ以上」と推定しているが、南京城周辺を対象にした埋葬者数が約18万9千とすると、近郊6県を含めた犠牲者数が20万を下まわることはありえない。詳しくは註47-6に記したが、犠牲者数10数万が成立するのは埋葬記録のダブリが30%以上、埋葬記録のない遺体が1万5千以下になる場合であるが、ダブリが30%もあるというのは記録の信頼度が疑われるし、記録にない遺体数1万5千は笠原氏が裏付けとする軍人の犠牲者数を前提にすると極めて小さな数字である。例えば、幕府山での捕虜殺害は2万人と推定しているが、その大半は揚子江に流されている。海軍が渡江中に殺害したとする1万人も埋葬記録外になるであろう。
筆者は10数万や20万を否定するつもりはないが、明確な根拠が示されていないので上記のような不整合の疑念は解消されない。
(1)推定方法
中国側は、下記のように大規模な「集団虐殺」と中小規模の「散発的虐殺」から犠牲者数30万人を主張する。根拠とするものは被害者などの証言と埋葬記録である。
①集団虐殺; 千人以上の大規模な事件が10回あり、その犠牲者合計はおよそ19万人である
②散発的虐殺; 数百人以下の規模の事件で殺害されたみられる遺体が8万4千体確認されている
③それ以外にも記録されない事件や埋葬があるので総計は30万人以上になる
(2)集団虐殺
図表4.24は、中国側が主張する「集団虐殺」の一覧である。南京市分史資料研究会(「証言・南京大虐殺」が翻訳本)と孫宅巍氏で、犠牲者数合計は同じだが、対象とする事件が異なる上に、日本側記録との対応がつきにくいものが少なくない。犠牲者数などは、事件の被害者もしくは目撃者の証言に依存しており、全般に日本側記録より大きくなっている。

※1 南京市分史資料研究会編、加々美光行、姫田光義訳:「証言・南京大虐殺」,P16-P34
※2 孫宅巍氏が、「南京事件をどう見るか」、P78-81<南京大虐殺の規模を論じる>で主張しているもの
(3)埋葬者数
埋葬者数については、「南京事件をどうみるか」より引用する。中国が主張する犠牲者数30万人の有力な根拠が埋葬者数である。
{ 南京大虐殺の犠牲者の遺体は、大体5つのルートで埋葬、処理された。
①安全区の国際委員会
同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の極東国際軍事裁判で証言したとき、南京陥落後72時間以内に「国際委員会の雇った労働者」が埋葬した軍人、市民の遺体は3万体に達した」と語っている。
②慈善団体によるもの
これらの団体が収容・埋葬した遺体は18万5千体あまり、うち、紅卍会43,123体、崇善堂112,267体、中国赤十字社南京支社22,683体、同善堂7000体あまり。
③市民埋葬隊によるもの
彼らは合計36,000体あまりを埋葬。うち湖南の材木商盛世征、昌開運が出資して行った水西門外の遺体収容が28,730体、城南市民の芮芳縁、張鴻儒、楊広才が難民を組織して、中華門外の7000体あまりを収容、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した回教徒の遺体は400体あまり。
④傀儡政権によるもの
傀儡南京市政府の市、区の両級機関の協同組織が7400体を収容・埋葬。うち、傀儡第一区役場が1938年2月に同区の所轄内で1233体を収容、傀儡南京市政公署の監督官高冠吾が1938年12月から39年の春にかけて衛生局に命じて収容した中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3000体あまりを収容。
⑤南京進駐日本軍によるもの
日本軍捕虜の太田寿男の供述によると、日本軍は部隊を動員して合計15万体を焼却・処理した。うち南京停泊場の司令部の安達少佐と太田寿男が率いた部隊は10万体を長江に投げ捨てたり、江北に運んで焼却・土中に埋めた。南京に侵攻した部隊の処理したのは5万体。
上述した遺体収容・埋葬処理のデータは、単に加算すると40万体前後にのぼる。しかし、上述した遺体収容・処理には重複が避けられないし、交戦中に戦死した中国軍兵士の遺体は控除することを考慮すると南京大虐殺の犠牲者数は“30万人以上”としか限定できないが、これには疑問の余地はない。 ・・・ 研究の結果、南京陥落直前の住民の人口、駐留軍人および流動人口の総計は60万~70万人と証明されている。しかし、大虐殺を経た1938年の春の生存人口は約30万人でしかなかった。死者の数を故意に少なくしても、故意に多くしても、いずれも実状に符合しないということをこの事実が証明する。} (藤原彰編:「南京事件をどう見るか」,P79-P81)
(4)30万は政治的数字?
秦氏は次のように述べている。
{ 2007年1月に東京財団の招きで中国から来日した二人の南京事件研究者(程兆奇、張連紅)が公開講演で、犠牲者30万は「政治的数字」で「正確な人数は確定できない」と述べたことが新聞報道された。30万の数字は中国の金科玉条と受けとめられていただけに、関係者の間では、波紋を呼んだ。著者も会談する機会があり、両人が実証主義を強調していたのが印象的だった。} (秦:「南京事件」,P324)
秦氏はこのあと、(中国でも){ 南京事件が歴史研究の領域に編入される日は遠くないと思われる }と期待しているが、10年たった今でも変わっていない、どころか、国家による統制は強まっているようにみえる。
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註47-1 東京裁判判決における犠牲者数; 「大残虐事件資料集Ⅰ)
「南京暴虐事件」に関する判決(1948年11月11日朗読)では、次のように述べている。
{ 後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。}(P396)
また、松井石根被告への判決(1948年11月12日朗読)は次のようになっている。
{ この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日にこの都市が占拠されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6,7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。}(P397)
註47-2 <ラーベの犠牲者数推定> 「南京の真実」,P362
ラーベは、“ヒットラーへの手紙”の中で次のように述べている。
{ 中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万とみています }
本件は、「南京事件―日中戦争 小さな資料集」というサイトを運営する“ゆう”氏の検討結果による。“ゆう”氏は次のように述べている。
{ ・・・板倉氏は、「スマイス調査」における「1000人あたりの病死者数」が少ないことに着目し、「病死」の一部まで「暴行」として報告されているのではないか、という疑問を提出しています。農業調査については、暴行死:26,870人(住民千人あたり25人)、病死:4,080人(住民千人あたり3.8人)、合計:30,950人(住民千人あたり28.8人)、と報告されています。
板倉氏は、バック教授の「中国における土地利用」の調査結果により、「病死」は「住民千人あたり7.4人」が正常値である、とします。 この数字を前提に、上の数字を修正し、「修正計算を合計欄で行うと、殺されたものの総数は約23,000人となる」と主張します。板倉氏は明記していませんが、具体的には次の数式になると思われます。
修正「暴行」死者数=30,950人×(28.8人-7.4人)/28.8人=22,998人
仮にそうだとすれば、秦氏は大きな「見落とし」をしています。そう、これは「農業調査」のみの数字であり、「市部調査」による「6,600人」がカウントされていないのです。「市部調査」の「割引率」を秦氏がどのように考えるかはわかりませんが、秦氏の数字はこの分だけ「上方修正」される、ということになりそうです。}
筆者はこの見解を支持するが、2~3追加コメントを述べたい。
①バック教授の病死率には、南京戦史も触れている。
{バックは「土地利用」において、住民千人当たりの年平均死亡者数として27.1人をあげている。同じ割合を100日間にしてみれば、千人当たり7.4人となる}
(「南京戦史」,P372)
②正確な計算式は次のようになる
26,870-((1,078,000/1000×7.4)-4,080)=22,972.8 <1,078,000は対象地域の人口)
③「見落とした」6,600人は、捕虜や敗残兵殺害と重複していると見なしたのではないだろうか。
・拉致された4,200人は安全区掃蕩や兵民分離などの際に摘出・連行されたケースがほとんどとみられるが、これらは捕虜・敗残兵殺害の人数としてカウントされている。
・残りの2,400人の中には日本兵の暴行で殺害された人たちも含まれるだろうが、多くは上記と同様、捕虜・敗残兵の市民混入分として差し引いたのではないだろうか。
④スマイスも、病死者が暴行による死者に混ざっている可能性はあるが、それはわずかである、と述べている。
{(病気による死亡は)100日間で1000人当たり3.8人になる。これは報告数がきわめて少ないように見える。たとえば5才以下のものについては一人も病死者として回答されていない。 ・・・ この混同による限界は平時の死亡率と比較して検べてみれば殺害された者として回答のあった数に著しく影響するほど大きくはありえない。この100日間は2年続きの豊作に続く、例になく温和で天候の良い季節であった。疫病や変わった病気が全然なかったことは明らかである。}
(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P239)
註47-4 <板倉氏の埋葬者数推定> 秦:「「南京事件」,P212-213
{ 埋葬死体数は両団体あわせて計15万5千体という数字が良く引用される。この数字は、一般住民の戦闘、病気による死者に、おそらく戦死した兵士も含むが、記録の正確性に疑問があり、板倉氏はそれを加減して39、859体と算出した。}
註47-5 <埋葬を行った団体> 洞他編:「南京大虐殺の現場へ」,P50-P76<井上久士:「遺体埋葬からみた南京事件犠牲者数」>
井上氏は埋葬を行った団体として次のような団体をあげている。この中には他の団体の下請けとして活動したものも含まれる。(団体名のあとのカッコ内は埋葬者数概数)
①紅卍会(43千余); 「道院」という新興宗教団体の社会事業実行機関。南京では日本軍の支援も受けて遺体の埋葬にあたり、埋葬記録は最も信頼できる、と言われている。
②崇善堂(11万余); 中国にあった「善堂」とよばれる一種の慈善団体のひとつ。崇善堂が東京裁判に出した埋葬記録によれば、12月から3月までが月に1000体から2500体であるのに、4月1ケ月で10万体以上を処理していることになっていることから、信頼性を疑われている。
③紅十字会(22千余); 紅十字会は日本の赤十字にあたる組織で、国際委員会に協力して難民収容所で粥を提供したりしてきた。1月に日本軍の許可を得て埋葬活動をはじめた。
④南京市自治委員会<市衛生局>(9千余); 1938年1月に日本軍が設立した自治委員会も埋葬活動をした。多くは紅卍会と一緒に活動していたが、衛生局埋葬隊だけは独自に活動していたらしい。
⑤同善堂(7千余); 崇善堂とおなじく南京にあった「善堂」のひとつ。1946年の南京軍事法廷で7、000余体を埋葬した、と証言したが真偽のほどは定かでない。
⑥イスラム教埋葬隊(100余); 南京には約4万人のイスラム教徒がおり、それら教徒の犠牲者を埋葬するために埋葬隊が組織された。
⑦その他、個人で埋葬したと証言する者が数人いた。
⑧日本軍による死体処理(数量不明); 南京陥落後、日本軍も中国軍の遺棄死体や処断した死体の処理を行った。処理のしかたは塹壕などに埋めたり、焼却したり、あるいは揚子江に流したり、様々である。当時南京碇泊場司令部所属だった太田寿男少佐は、「南京事件で処理した死体総数は、碇泊場司令部が担当したもの約10万、進攻部隊が処理したもの約5万の計15万であった」と、戦後の裁判で証言しているようだが、史実派の井上氏もこの証言には疑問がある、と述べている。
下の表は、史実派の主張する犠牲者数を南京城周辺と近郊県とのバランスから検証したものである。南京城周辺の犠牲者数を、理論的に埋葬者数=死者数となることをもとにして、埋葬者数のダブリ補正値と記録外埋葬者数を変数とし、その他の数値を笠原氏が犠牲者数推定に使っている数字を使って試算した。
その結果、笠原氏が主張する近郊県を含めて「10数万」と言う数字が成立するのは、試算5のケースだけである。これは、埋葬記録のダブリが30%以上あり、記録外埋葬者数が1万5千人以下でないと、近郊県を含めた犠牲者数10数万はありえない、ということを示している。

注1)戦死<A>及び処断<B>の数値は、笠原:「南京事件」,P223,P226による
注2)病死等<C>は、スマイス報告(農村部調査)における病死率千人あたり3.8人に南京城周辺の人口50万(笠原:「南京事件」,P220)を掛けて求めた。
注3)市民の殺害者数<D>は、死者数合計<E>=埋葬者者数合計<Z>、とした上で、死者数合計<E>から戦死<A>、処断<B>、病死等<C>を差し引いた数とした。
注4)埋葬記録<W>は、笠原:「南京事件」,P227による。
注5)ダブリ補正<X>は、遺体の埋め直しや埋葬団体間でのダブリなど。実数は不明。
注6)記録外埋葬者数<Y>は、長江に流した遺体など埋葬団体の記録に残っていない埋葬数。上表では、以下により推定した。笠原氏の事件別犠牲者数(笠原:「南京事件」,P224-P225表1)のうち、長江に流された可能性のあるものを、幕府山捕虜殺害(約2万)、長江渡江中殺戮<海軍>(約1万)、長江渡江中殺戮<陸軍>7~8千、佐々木支隊敗残兵殺戮など(2万超)の合計約6万とし、うち実際に流された数を4分の1(1万5千)と半分(3万)の2種類について試算した。(この数が多いと南京城周辺での殺害者数はさらに増加する)
注7)犠牲者数(近郊県)は、笠原氏が{ 南京近郊区4.5県の農民の死者は3万人を超えると推定される }(「南京難民区の百日」,P387)と述べていることによる。
註47-7 <魯甦の証言に関する小野賢二氏のコメント> 「南京事件をどう見るか」,P66-P70
{ 魯甦証言は極東国際軍事裁判に検察側より提出された。
『敵軍入城後、将に退却せんとする国軍及び男女老幼合計57,418人を幕府山付近の四、五箇所村に閉込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。1937年12月16日の夜に到り、生残せる者は鉄線を以て一つに縛り4列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追ひやる。然る後、機銃を以て悉くこれを掃射し、更に銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて之を焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり』
捕虜の置かれた状況や、虐殺状況は山田支隊の捕虜の状況と酷似している。だが、問題は「日付」と「捕虜を収容した場所」と「捕虜の数」である。 ・・・ 山田支隊の捕虜虐殺と魯甦証言は虐殺日も、捕虜収容所の位置も決定的なちがいがある。【山田支隊の記録では虐殺日は17日】 ・・・ 魯甦証言の「57,418人」については加害者側からの調査が進まないかぎり明確にはならないのではないだろうか。
}