5.3 太平洋戦争への道
太平洋戦争は、日中戦争における日本の侵略行為に反発して蒋介石政権への支援を続けるアメリカやイギリスなどと日本との対立がエスカレーションした結果起きた戦争である。南京事件後ドロ沼化した日中戦争がその後どうなったか、簡単に見ておきたい。
図表5.3 太平洋戦争への道
「国民精神総動員委員会」が1939年3月に設置され、ぜいたく禁止、ネオン全廃、男の長髪・女のパーマ禁止、中元歳暮廃止、などが布告され、国民の戦意昂揚のための戦時標語がかかげられた。
{ 「欲しがりません勝つまでは」 「ぜいたくは敵だ!」 「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
「遂げよ聖戦 興せよ東亜」 「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」 「進め一億火の玉だ」
「石油(ガソリン)の一滴、血の一滴」 「全てを戦争へ」 } (Wikipedia:「国民精神総動員」)
1940年になると、 “ラグビー”、“スキー”といった外来語は敵性言葉として使用禁止となり、「産めよ殖やせよ」のキャンペーン、ダンスホールの閉鎖などが行われ、国民全体が軍隊的な生活を強いられるようになってきた。
(2)日米通商条約の破棄
1939年4月、日本の傀儡政権の中国人官吏が天津のイギリス租界内で殺され、その犯人の引き渡しをイギリスが拒否したため、陸軍が租界を封鎖するという「天津租界事件」註53-1が起きた。結局、イギリスが大幅に譲歩して事件は終息したが、日本では反英運動、イギリスでは反日の声が盛り上がった。
和解成立直後の1939年7月26日、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。ハル国務長官は次のような声明を出している。
{ 日本が中国におけるアメリカの権益に対し、勝手なことをしているのに、なぜアメリカは通商条約を維持しなければならないのか、日本のスポークスマンが「東亜の新秩序」とか、「西太平洋の支配権」とか、「イギリスは日本に降参した」とか、日本は「徹底的外交の勝利」を得たとか叫んでいる。今こそ、アメリカがアジア問題に対する態度を再声明する機会が到来した} (半藤一利:「昭和史」、P257)
中国との貿易拡大を望んでいたアメリカは日本を牽制し、日本もアメリカと敵対関係になることを避けてきたが、1938年11月に発表した「東亜新秩序」声明(5.2(5)項参照)はアメリカの強い反発をかい、天津租界事件にいたって、ついに日本への制裁を発動することになった。
アメリカの破棄宣言後、日本は暫定的な通商協定の締結を提案したが、アメリカは受付けず、1940年1月に条約は失効した。このあと、アメリカの日本への経済制裁は徐々に強化されていく。
(3)三国同盟(一次交渉)
1938年夏、ドイツは日本及びイタリアとの三国軍事同盟の締結交渉を始めた。陸軍は三国同盟の推進を主張したが、海軍や有田外相は英米を敵にすることになる、として反対、昭和天皇も反対だった。反対の先頭にたっていた海軍省の山本五十六次官は、次のような質問状を送っている。
{ ①独伊との関係強化は、中国問題の処理上、かえって対英米交渉に不利になるのではないか?
②日独伊ブロックに対して米英仏が経済的圧迫をしてきたときの対策はどうするのか?
③日ソ戦になったとき、ドイツから実質的な援助は期待できるのか?
④この条約を締結すると独伊に中国の権益の一部を譲ることになるのではないか? } (半藤一利:「昭和史」、P246-P247を現代語に要約)
同盟推進派は反対派の山本五十六や海軍を脅迫する註53-2が、両派はにらみあったまま、1939年1月に近衛内閣は総辞職する。後継の平沼内閣註53-3が、ノモンハン事件、天津租界事件などに振り回されているうちに、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、9月にはポーランドに侵攻する。日本は主たる仮想敵をソ連としていたので、三国同盟は対ソ戦略としての意義を失い、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なり・・・」という言葉を残して総辞職し、三国同盟の第一次交渉は頓挫した。
(4)三国同盟締結
(a)ドイツの快進撃と同盟推進論の再燃
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻した直後、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまった。1940年5月、ドイツは大攻勢をかけ、オランダとベルギーをあっという間に降伏させて6月にはパリに入城、8月にはイギリス本土も空襲、という快進撃を遂げた。すると、日本国内には「バスに乗り遅れるな」、「日独伊三国同盟を締結せよ」という声が大きくなる。
(b)米内内閣の倒閣
陸軍は三国同盟を推進するが、1940年1月に天皇の推薦を受けて発足した米内内閣註53-3は、三国同盟には見向きもしなかった。陸軍首脳部は畑俊六陸相に辞任を勧告、畑は7月16日辞表を出す。米内首相は代りの陸相を出すように陸軍に要求するが、陸軍は「協力できる人はいない」と拒否したため、米内内閣は総辞職せざるを得なくなった。
(c)第二次近衛内閣発足
1940年7月22日、米内内閣の後をついで第二次近衛内閣が発足する。外相には三国同盟に反対だった有田八郎にかわって、松岡洋右註53-4が就任した。松岡は米国西海岸のオレゴン大学に学び、元来は自由主義的政策が持論であったようだが、外相に就任すると三国同盟推進を唱え、軍部の傀儡というより軍部を引っ張っていくようになる。松岡は日独伊にソ連を加えた4国が結べば、英米に対抗できる、と主張した。しかし、当時のアメリカは民主主義を守るため4国協商となろうともナチス・ドイツと徹底的に戦う覚悟を決めていた註53-5。
(d)ドイツとの交渉
9月7日、ドイツの特使としてシュターマーが来日し、三国同盟の協議を始める。シュターマーは、松岡が主張する4国同盟に対して、{ 3国同盟締結後、ソ連も加盟させるように取りはからう }(重光葵:「昭和の動乱(下)」、P23) と答え、松岡や陸軍を喜ばせ、交渉はとんとん拍子に進んだ。9月12日、首相、外相、陸相、海相の4相が意思決定の会談をしたが、海相は態度を保留した。
(e)海軍の対応
海軍は第一次交渉のとき、三国同盟に反対したが、山本五十六が連合艦隊司令長官として中央から離れると条約推進派が急速に台頭してきていた。12日の4相会談をうけて、海軍幹部は対応策を検討し、積極的賛成ではないものの条約締結には賛成することになった。
9月15日、海軍は東京に幹部を集めて首脳会議を開く。山本五十六も出席して「アメリカと衝突したらどうするのか?」註53-6などと質問するが、軍令部伏見宮総長の「ここまできたら仕方がないね」の一言で賛成することが決定された。
(f)条約締結
海軍が賛成にまわったことで、9月19日の御前会議で三国同盟の条約締結が決定された。天皇や枢密院の元老の多くは締結に反対だった註53-7が、近衛内閣は「三国同盟は戦争回避が目的であり、同盟を結ばなければ日米開戦の危険が大きくなる」と説明していた。ドイツがイギリスに勝利すれば、アメリカは手を出せなくなる、というのがその前提であったが、9月15日に行われたイギリスへの大規模空爆でドイツは大きな損害を被り、イギリスへの上陸作戦をあきらめざるをえなかった。
三国同盟は、アメリカを敵とみなす、と宣言したに等しく、日米開戦に向って大きく前進してしまった。
(5)北部仏印進駐 ※仏印は、現在のベトナム、ラオス、カンボジア
北部仏印(現在のベトナム北部)は、蒋介石に援助物資を送る援蒋ルートのひとつだった。フランスがドイツに降伏すると日本は仏印総督に援蒋ルートの遮断と軍隊の駐在を申し入れた。9月22日に協定が成立し、23日から進駐が開始されたが、交渉が長引いたことなどに憤慨した日本軍は仏印軍を攻撃してしまい、無用の血を流す結果になった。
アメリカはこの進駐に対して屑鉄の輸出全面禁止の措置をとった。
(6)日ソ中立条約
松岡外相は、独伊との連携強化及びソ連の同盟参加促進を目的に、1941年3月から4月にかけてヒトラーとスターリンに会いにヨーロッパを訪問する。ドイツで大歓迎を受け、ヒトラーからはシンガポールを攻撃するよう要請された後、モスクワに向かう。モスクワではスターリンと会談し、あっという間に日ソ中立条約が調印されてしまった。スターリンはまもなく開始されるであろうドイツのソ連侵攻にそなえて東の安全を確保したかったのであるが、松岡は有頂天になって日本に凱旋した。
1941年6月、ドイツはソ連に侵攻註53-8し、松岡が夢見た日独伊ソ4国同盟の可能性はなくなった。
1941年4月1日、元外相で海軍大将の野村吉三郎が駐米大使に任命され、ワシントンに赴任した。野村大使は、前年秋から日米の民間人ベースで検討されてきた「日米国交打開策」をもとに「日米諒解案」をつくり、これを日本政府が了解すればルーズベルト大統領と近衛首相が会談することをハル国務長官と合意する。
4月17日、「日米諒解案」を日本に送り、近衛首相も陸軍・海軍もこの案の主旨に同意したが、近衛首相はドイツ・ソ連を訪問中だった松岡外相の意見を聞いた上で決断する、と自らのリーダーシップを発揮しなかった。数日後、日ソ中立条約締結という大きなお土産をもって帰国した松岡外相は自分が関与しないところで進められたこの案に反発、5月に入ってアメリカに対案を提示するが、それは「日米諒解案」とはかけはなれ、しかも「陸海軍案より更に強硬」であった。
これに対して6月21日にアメリカ政府案が提示される。この案はいわゆるハル4原則――①すべての国の主権尊重、②他国の内政不干渉、③機会均等の原則尊重、④太平洋方面における現状維持――に沿ったもので、日本側にとっては非常に厳しい内容だった。
(8)南部仏印(ベトナム南部)進駐
(a)南進を決定・・・「日米開戦を辞さず!」
独ソ戦が始まると、ドイツとともにソ連を攻撃しようという北進論と南方に進出して資源を確保しようという南進論が議論されたが、南進論が優勢になり、7月2日の御前会議で次のように決められた。
{ 帝国は大東亜共栄圏を建設し・・・支那事変処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩を進め、また情勢の推移に応じ、北方問題を解決す。 ・・・ 本目的達成のために対英米戦を辞せず。} (半藤一利:「昭和史」、P350)
この方針は各国の大使館などに打電されたが、アメリカはすでに日本の外交文書の暗号解読に成功しており、これらの機密情報は筒抜けだった。
(b)進駐の背景と目的
蘭印(現在のインドネシア)は、当時オランダの植民地で本国オランダはドイツに占領されたが、政権はロンドンに逃れ、蘭印もその政権の管轄下にあった。前年から石油などの資源輸入量を増やす交渉を行っていたが、ドイツの同盟国となった日本への供給をしぶる蘭印側は逆に供給量を減らそうとし、6月には事実上の交渉決裂となった。これに圧力をかけ、資源を確保するとともにいざというときには蘭印に軍事進出する足掛かりをつくることが目的だったが、公式の目的は「仏印を他国の侵略から共同で防衛すること」であった。
(c)南部仏印進駐
1941年7月23日、サイゴン及びその周辺への進駐作戦が決まり、{ 日本の輸送船団は25日、海南島を出港、28日~31日に上陸したが、北部仏印進駐の場合と異なり、陸海軍の協調も保たれ、日仏間の軍事紛争も起らなかった。} (大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P29)
(d)石油禁輸
7月25日、アメリカは日本の在米資産をすべて凍結することを発表し、8月1日には石油の全面禁輸に踏み切った。南進によりアメリカが経済制裁を強化するリスクは、松岡外相などが指摘していたが、「仏印だけで蘭印に手をつけなければ米国は動かないだろう」という希望的観測のもとに強硬派の意見が採用された。
(f)ルーズベルトの仏印中立化提案
石油禁輸の発表に先立ってルーズベルト大統領は、7月24日、野村大使に「仏印から日本軍が撤兵すれば、仏印は中立化し日本の物資調達にも協力する」と、仏印の中立化提案註53-9を行った。これは、日米交渉を通して唯一といってよいアメリカからの建設的提案であり、提案に同意すれば日米開戦を避けられる可能性もあった。
近衛首相は提案に乗気であったが、陸軍が「撤兵は南進方針をくつがえすことになる」と強硬に反対したため、8月6日に拒否の回答をしている。
強硬派の代表のような存在であった参謀本部作戦部長の田中新一中将は、{ ・・・ 「平和か戦争かではない、屈服か戦争かである」という立場に固執して対米妥協を拒否し、東條や杉山の陰にあって彼らを主戦の方向に動かした・・・ }(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」、P416) という。
(9)日米首脳会談
近衛首相はルーズベルト大統領との首脳会談を決意し、8月8日野村駐米大使経由でアメリカ側に申し入れた。ルーズベルト大統領は乗り気でアラスカでやったらどうか、などと野村大使に語っていたが、ハル国務長官は8月28日、「事前に日米間の基本問題について合意が成立しない限り首脳会談はできない」と回答してきた。日本側はその後、「基本問題」についての合意をとるべく交渉したが、両者の主張の溝は大きく、首脳会談を開くことはできなかった。軍部には、首脳会談が実現すれば日本はアメリカに妥協するのではないか、という懸念もあった註53-10。
(10)開戦準備
(a)9月6日御前会議 ・・・ 戦争を準備!
石油その他の物資の輸入ができなくなり、このままいけば日本の国力は失われていく、坐して死を待つより戦って資源を入手すればアメリカとの長期戦にも耐えられる、という「ジリ貧説」が軍部の間で主張されるようになる。9月3日、大本営政府連絡会議で「外交手段を尽すが10月上旬頃までに決着の見通しがつかなければ開戦を決意する」という方針註53-11を採択し、9月6日の御前会議で承認された。
(b)天皇の御下問
天皇は御前会議に先立ち、近衛首相、杉山参謀総長などから、事前の説明を受けた。
{ 天皇:「日米に事が起れば、陸軍としてはどれくらいの期間で片づける確信があるのか?」
杉山:「南方方面だけは3カ月で片づけるつもりであります」
天皇:「杉山は支那事変勃発当時の陸軍大臣だぞ。あの時、陸軍大臣として、事変は1カ月くらいにて片付く、と言ったように私は記憶している。しかしながら4カ年の長きにわたりまだ片付いていないではないか」
杉山:「支那は奥地が開けており、予定通り作戦がうまくゆかなかったのであります」
天皇:「なに?支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信があって3カ月と申すのか」
これには杉山はすっかり弱ってしまい、頭を下げたままで答えられませんでした } (半藤一利:「昭和史」、P360)
(c)戦争の見通し
9月6日御前会議の質疑応答資料には次のように記されており、ドイツの勝利や米国の継戦意志喪失による戦争終結を期待するだけで、自力での勝利のあてなく戦争に突入するのであった。
{ 「対英米戦争は長期大持久戦に移行すべく、戦争の終末を予想すること甚だ困難にして、とくに米国の屈服を求むることは先ず不可能と判断せらるるも、我が南方作戦の成果大なるか、英国の屈服等に起因する米国世論の大転換により、戦争終末の到来必ずしも絶無にはあらざるべし」} (大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P82)
(d)東條陸相の思い
東條陸相は9月7日の東久邇宮との会談で開戦への思いを次のように語っている。
{ 米国の日本に対する要求はせんじつめれば、日本が独伊枢軸から離脱して英米の方に入れということである。もしそうしたら英米はドイツを撃破した後に、日本打倒に向ってくるに違いない。さらに米国は日本に対し、中国全土から撤退して日中戦争以前の状態に戻すことなどを要求しているが、このような条件は、戦争で生命を捧げた尊い英霊に対して絶対に認められない。 ・・・
ジリ貧になるより、思い切って戦争をやれば、勝利の公算は2分の一である。危険ではあるが、このままで滅亡するよりよいと思う } (大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P90-P91<要約>)
(11)開戦を決意(11月)
(a)日米交渉の行き詰まり
「日米諒解案」に基ずく交渉が頓挫したあとも、首脳会談の事前打ち合わせとして交渉は継続されたが、双方は譲らず膠着状態になった。主な争点は次の3点であった。
①仏印および中国からの撤兵 ・・・ 米国は全面撤兵を要求
②三国同盟 ・・・ 米国は事実上の廃棄を要求
③東亜における日本の権益 ・・・ 米国は無差別通商を主張
(b)近衛内閣崩壊
近衛首相は10月12日、外相、陸相、海相を集めて「荻外荘(てきがいそう)会談」とよばれる会談を行った。近衛首相と外相は「一部譲歩して交渉継続」を主張したが、東條陸相は「開戦を決意すべき」と主張、海相は「総理に一任」で、意見の一致を見ず、近衛内閣は「閣内不一致」を理由に10月16日総辞職した。
(c)東條内閣発足
近衛と東條は次の首相に和平派の東久邇宮を推薦したが、木戸幸一内大臣は皇族内閣が戦争開始を決めるのは好ましくない、として天皇に忠実な東條を指名、天皇もこれを認め註53-12東條が次の首相に決定した。天皇は東條に大命を下すにあたって、9月6日御前会議を白紙撤回し、国策を再検討するよう指示した。
(d)11月5日御前会議 ・・・ 米英戦争を決意!
国策の再検討は、10月23日から11月2日まで連日深夜に至るまで行われ、「11月末までに対米交渉がまとまらなければ、12月初旬に開戦する」ことを決定した。
日米戦の中心となる海軍は山本五十六など開戦反対派が多く、軍令部の永野総長もはじめは開戦に消極的だったが、「海軍が戦えないといえば、海軍の存在が問われる」ことを心配し、「両国の軍事力バランスからは今、開戦することが望ましい註53-13、時がたてばアメリカの軍事力はどんどん強大になる」と述べ、即刻開戦を主張した。
(e)総力戦に関する研究
陸軍参謀本部は40年6月、「秋丸機関」とよばれる研究チームを作り、日米英の国力を資源、経済、政治など多方面から分析したが、その結論は「日本が英米と戦争しても1年か2年で日本の戦力は尽きる」であった。(大杉一雄:「日米戦争への道(下)」、P143-P144<要約>)
また、40年9月には内閣直属の機関として「総力戦研究所」が設立され、政府及び軍の若手エリートを集めて「総力戦机上演習」として日米戦争のシミュレーションが行われた。結果は開戦すべきでない、開戦した場合は敗ける、というものであった。シミュレーションは各部署が保有する資料をもとにしており、客観的かつ合理的な結論とみてよい。(大杉一雄:「日米戦争への道(下)」、P144-P147<要約>)
(12)開戦決定
(a)最後の交渉
日本政府はアメリカとの交渉のために2つの案を用意した。一つは、これまでの提案からさらに譲歩した「甲案」、もう一つは暫定案ではあるが南部仏印からの撤兵を謳った乙案である。11月7日、野村大使はまず甲案をハルに提示した。すでに外交電報を解読して日本の開戦決意を知っていたハルは甲案にさしたる興味を示さず具体的な交渉に入る気配はなかった註53-14。
11月15日には前独大使の来栖三郎が派遣され、野村とともにハルやルーズベルトとも交渉したが進展はなく、20日に提示した乙案にもハルは難色を示した。その後も野村・来栖は連日ハルを訪問して交渉を続けたがアメリカ側の姿勢は変わらなかった。
(b)ハル・ノート
アメリカも暫定案を検討しており、基礎協定案とセットで日本側に回答する予定でイギリスや中国などとの調整作業を進めていたが、26日朝ハルは暫定案を提示しないことを関係者に連絡した。なぜ、暫定案を提示しないことになったかについては諸説あるが、ルーズベルトの判断という説が有力のようである。
米国時間11月26日夕方(日本時間27日早朝)、いわゆるハル・ノート註53-15といわれる米国案が野村大使らに提示されたが、米国の主張する原理原則を一方的に述べたもので、とても日本が呑めるものではなかった。
(c)開戦決定
ハル・ノートは11月27日の大本営政府連絡会に提示された。アメリカからの回答にわずかな期待を寄せていた出席者はその厳しい内容に唖然とし、日本が受諾できないことを知って通知してきた最後通牒と受け取った。
12月1日、全閣僚が出席して御前会議が開催され、開戦が決定された。天皇は開戦決定について、「拒否すればクーデターが発生する恐れがあった」と戦後、告白している註53-16。
(d)宣戦布告
1941年12月8日未明(日本時間、ハワイ時間では7日午前8時)、真珠湾が攻撃され太平洋戦争が始まった。
日本では12月8日午前7時にラジオ放送が開戦を告げ、昼には開戦の詔勅が発表された。この詔勅には日清・日露戦争と異なり、「国際法の遵守」が明記されていなかった。
(13)日米開戦に関する異説
これまで述べてきたのは、多くの歴史学者が指示する「通説」をベースにしているが、以下はこの戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ人たちが主張する説の一部である。
(a)ハル・ノートはソ連のスパイが作った!?
{ ・・・ ハル国務長官とは全く関係のないところから別案を持ってきた人物が現われます。米財務長官次官補のハリー・ホワイトという男です。 ・・・ 当時アメリカ国務省関係のところで、300人ものアメリカ人がソ連のスパイとして活動しており、その一人がスターリンの命を受けたハリー・ホワイトという共産党員であったということです。そのハリー・ホワイトが書いた案は、満州およびシナからの即時全面撤兵、シナ政府は蒋介石政権以外に認めない、など日本が絶対に呑めるわけもない内容でした。これを通称「ハル・ノート」と言っているわけですが・・・ } (渡部昇一、田母神俊雄:「誇りある日本の歴史を取り戻せ」、P141-P142)
⇒{ アメリカ政府はホワイトがスパイだったとは断定していない。しかもホワイトは日本語を読めないんです。対日専門家になり得ないですよ} (秦郁彦:「田母神現象と『昭和史論争』」、WILL2009年8月号、P323)
{ ハル・ノートとモーゲンソー※案が別なものであることは両者を比べてみれば明らかで、ハル・ノートは間違いなく国務省極東部で作られたものなのである} (秦郁彦:「陰謀史観」、P193 )
※ “モーゲンソー”はハリーの上司で財務長官。ハリーが書いた(?)ものはモーゲンソー案としてハルに提示された。
(b)アメリカは先制攻撃を仕掛けようとした!?
{ 1945年9月の段階で、ルーズベルトは ・・・ 日本に先制攻撃を仕掛けようとしていました。当時アメリカの統合参謀本部が出したいくつかの案の中にシナ大陸に数百機の飛行機を持っていき、そこから日本を爆撃するという一案がありましたが、それにルーズベルトはゴーサインを出していたのです。もしこれが実行されていれば、日米開戦は9月何日かにアメリカから仕掛けたことになっていたはずですが、そうはなりませんでした。シナに持っていくつもりの飛行機がヨーロッパで必要になったからです。・・・ ] (「誇りある日本の歴史を取り戻せ」、P143)
⇒{ 蒋介石に依頼されて ・・・ 武器貸与法の枠で数百機の戦闘機や爆撃機を ・・・ 中国へ送り込み、11月1日以後に東京や大阪空襲が可能な体制を整備する ・・・ 大統領の署名ももらった。だが、・・・ 爆撃機は優先度の高い対英援助に転用されてしまい、届いたのはフライング・タイガースと命名された約100機のP40戦闘機だけ、それもビルマで訓練中に日米開戦を迎え、・・・ 私には最初から「絵に描いた」餅も同然としか見えない。なぜなら、供与予定のロッキード・ハドソン軽爆撃機の航続距離は3400キロ、発信予定基地の珠州から東京まで2660キロ、往復爆撃は不可能と言ってよいからである} (「陰謀史観」、P189)
(c)「大東亜戦争」は東南アジアを解放した!?
{ 大東亜戦争という言い方は、「大東亜共栄圏」、すなわち欧米から切り離した形でのアジア経済圏をつくる目的の戦争を意味しています。つまり、石油まで止められた以上、日本という国は黙っていては死を選ぶしかない。もはや生きていくためには、自衛手段としての戦いを挑むしかないのだという意味合いを、この言葉に込めたのです。
不戦条約の発案者のアメリカの国務長官自身、侵略戦争を定義して「国境を越えて攻め込むのみならず、重大な経済的不利を与える行為」と言っています。・・・日本を経済封鎖したのは、アメリカの日本に対する侵略戦争でした。
実際、日米開戦が始まると日本は、大東亜戦争の名前通りタイを除き白人国家の植民地となっていた東南アジアの国々に次々に乗り込んで白人と戦い、白人を追い払います。 ・・・ 日本は東南アジアを白人の手から解放したのです。 } (「誇りある日本の歴史を取り戻せ」、P153-P154)
⇒{ 侵略か、自衛かの国際法上の定義は不明確であり、不戦条約ではそれを決定するのは当事国(自己解釈権)という前提にたっていたから、すべての戦争は自衛戦争となり得るので、この角度からみることは適切ではない。 ・・・ むしろ実態に即した判断、すなわち武力をもって外国における権益の獲得あるいは既得権益の拡大を謀ったものを侵略とする方がわかりやすい} (大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P347)
{ 日本にアジア解放の思想があったことは事実だが、開戦経緯をみれば、資源確保以外に他国のことを顧みる余裕などはまったくない状況に追い込まれていたことが判然としよう。開戦の詔勅にもアジア解放などの文言はまったくない。 ・・・
かりに日本による民族解放が実現したとしても、アジア諸民族は日本に従属しその支配下にとどまるだけであり、真の独立から遠いものだったであろう。 ・・・ 一方、この戦争が契機となり、結果として、アジア諸民族の独立が促進されたことも事実なのである。} (同上、P348-P349)
5.3節の註釈
註53-1 <天津租界事件>
1939年4月、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府が任命した海関(税関)監督が天津のイギリス租界内で殺害された。日本はその容疑者の引き渡しをイギリスに要求したがイギリスは拒否、北支那方面軍の山下奉文参謀長と武藤章副参謀長が乗り出してきて、6月にはイギリス租界を隔離してしまった。 { 境界に陸軍部隊が立ち、電流を通した鉄条網を張り、いちいち身体検査など検問を行い、男女とも出入りする人を時には民衆の面前で素っ裸にして調べあげるというような強硬なものでした }(半藤一利:「昭和史」、P253) 日本側の要求は容疑者の引き渡しにとどまらず、イギリスの援蒋政策の見直しや東亜新秩序建設への協力にも広がった。
1939年7月、東京で有田外相とクレーギー英大使との交渉が行われ、7月24日イギリス側が大幅に譲歩することで合意が成立した。この事件を日本の新聞は大きく書きたて、街には反英の看板が並び、世論は反英で沸き立った。一方、英国でもこの事件は報道され、英国人への侮辱的扱いなどが非難されて反日世論が盛り上がった。
事件の経緯などについては、外務省:「日本外交文書 日中戦争 本巻の概要」 が詳しい。
註53-2 <三国同盟反対の山本五十六や海軍を脅迫>
陸軍とそれを支持する国粋主義者らは、三国同盟を締結するために強硬な手段をとった。
(a)山本五十六; 第一次交渉で山本五十六が公然と反対を唱えたとき、同盟推進派は山本を中傷する宣伝を行い、暗殺の風評を流した。山本は遺書をしたため、死を覚悟で反対運動を続けた。平沼内閣の次の阿部内閣の海相には山本、という声もあったが、米内光政は山本が暗殺される可能性を危惧して海軍中央から遠ざけ、連合艦隊司令長官とした。(Wikipedia:「山本五十六」)
(b)海軍への脅迫; { 陸軍は、脅迫的に海軍省前で部隊演習を行った。海軍も「向こうがその気なら」とばかりに省内に兵器、弾薬、食糧をはじめ、自家発電装置まで備え ・・・ } (半藤一利:「昭和史」、P251)
註53-3 1939年~1941年の内閣と主要閣僚 首相欄のカッコ内は前職
期間 首相 外相 陸相 海相 1937/6/4 近衛文麿<第1次> 広田弘毅 →宇垣一成 →有田八郎 杉山元 →板垣征四郎 米内光政 1939/1/5 ~1939/8/30 平沼騏一郎 有田八郎 板垣征四郎 米内光政 1939/8/30 ~1940/1/16 阿部信行 (陸軍大将) <首相兼任> →野村吉三郎 畑俊六 吉田善吾 1940/1/16 ~1940/7/22 米内光政 (海軍大将) 有田八郎 畑俊六 吉田善吾 1940/7/22 ~1941/7/18 近衛文麿<第2次> 松岡洋右 東條英機 吉田善吾 →及川古志郎 1941/7/18 ~1941/10/18 近衛文麿<第3次> 豊田貞次郎 東條英機 及川古志郎 1941/10/18 ~1944/7/22 東條英機 (陸軍大将) 東郷茂徳 →谷正之 →重光葵 <首相兼任> 嶋田繁太郎 →野村直邦
~1939/1/5
(貴族院議長)
(枢密院議長)
{ 米国西海岸のオレゴン大学に学んだ、米国仕込みの政治家であって、 ・・・ 満州問題については、強硬意見を表示したが、支那問題については、元来自由主義的穏健政策の持主であったことは、第一次上海戦争の時に日支の停戦交渉成立を援助して活動した、ことからでも明らかである。
彼は、外相就任後間もなく、支那及び東亜問題について、無賠償、無併合及び主権尊重の政策を公表したくらいで、記者※等は、欧州の一角から、今度こそ、いずれも自由主義を解する近衛、松岡の連繋によって、軍部の力を押さえ、日本を正道に引き戻すようになるのではないかと、一時はひそかに期待した次第である }
※「記者」は重光葵のこと、重光は当時駐英大使だった。
註53-5 <アメリカの対独戦覚悟> 大杉一雄:「日米開戦への道(上)」、P292
{ 松岡外交の核心は、毅然たる態度で三国同盟を結べば、米国は譲歩してくる。米国をして日本の既成事実と大東亜共栄圏を承認させ得るというところにあった。しかしそれは米国を最もよく知っているつもりの松岡の大誤算であった。 ・・・
その致命的な誤りは、当時の米国政府首脳が日本に対してはともかく、ナチス・ドイツを民主主義の敵と見なしてともに天を戴かず、決して宥和せず、機会を捉えてこれに参戦しこれを絶滅しようとする覚悟であることに気づかなかったことにある。 ・・・ かりに日独伊ソの4国協商なるものが成立しても、米国は屈せず、民主主義対全体主義の闘争を戦い抜いたであろう }
註53-6 <海軍幹部会議> 半藤一利:「昭和史」、P292-P293
{ これまでの経緯を阿部軍務局長が説明したあと、及川大臣が言いました。「もし、海軍があくまで三国同盟に反対すれば、近衛内閣は総辞職のほかはなく、海軍としては内閣崩壊の責任はとれないから、この際は同盟条約にご賛成願いたい」すると軍令部総長の伏見宮がすぐに口を開きました。「ここまで来たらしかたがないね」 ・・・
山本五十六が静かに立ち上がって言いました。「現状では航空兵力が不足し、とくに戦闘機や陸上攻撃機を2倍にせねばならないのであります。しかし、条約を結べば英米勢力圏の資材を必然的に失うことになります。増産にストップがかかります。ならば、その不足を補うためどういう計画変更をやられたか、この点をお聞かせいただきたい。連合艦隊長官としてそれでなくては安心して任務を遂行できないのです」 この発言を豊田次官は完全に無視し、こう言いました。「いろいろご意見もありましょうが、大かたのご意見が賛成という次第ですから」 ・・・ }
註53-7 <三国同盟反対論> 大杉一雄:「日米開戦への道(上)」、P289<要約>
{ 天皇のほか、西園寺はじめ宮廷上層部はもちろん、重光葵英大使など在外有力外交官をはじめ、知英・親米派の人々は同盟に反対であった。8月29日、前駐英大使吉田茂はドイツの英本土上陸は困難で、究極の勝利も疑わしいと述べ、 ・・・ さらに9月17日付近衛宛書簡で、「其特使(シュターマー)特派の事実こそドイツが勝利に自信をもっていない証拠」と指摘している。 ・・・
しかし、表立って反対するものはなく、9月14日、連絡会議下打合せ会における松岡の「英米に結ぶも手で全然不可能とは考えぬ。併しそのためには支那事変は米の言う通り処理し、東亜新秩序等の望みはやめ少なくとも半世紀の間は英米に頭を下げるならいい。それで国民は納得するか。10万の英霊満足できるか」という強硬発言にリードされたのである。}
註53-8 <松岡外相は独ソ関係悪化を知っていた>
{ ドイツ首脳との会談によって、・・・独ソ対立の現実を目撃した松岡の心理は複雑であったろう。すでにヒットラーからソビエト攻撃を暗示されていた大島駐独大使は、国境まで見送った際、松岡に対し日ソ中立条約を締結しないよう進言したが、彼は考えようと返事したという}(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」、P324-P330)
{ 松岡君は、三国同盟締結当時の形勢とは全然異なった情勢の欧州に、乗り込んで行ったのである。日本側の欧州事情の判断は、表面的の現象のみを追って希望的にまたは感情的に、材料を取捨するがために、何時も見方に半年1年の食い違いが起る。日本人の国際情勢に関する感覚は遅鈍である。ドイツがすでに断念したときに、今にも英本土上陸作戦が行われるように思ったり(ドイツの宣伝を信じ)、ドイツがソ連と戦うことを決心したときに、前にソ連との親善を説いたドイツをそのままに見ようとする} (重光葵:「昭和の動乱(上)」、P40)
註53-9 <仏印中立化提案> 大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P34-P35
{ 8月4日、ウェルズ国務次官より若杉公使に次のような追加説明があった(8月5日野村電)
「日本の仏印進駐は、一は英支連合(多分米をも加えならんと附言す)の脅威に対する防衛と称し、二は原料資源を獲得する為なる由を以て、大統領は日本が撤兵するに於ては日米英支(あらかじめ蘭を加え)に於いて、各国共仏印に脅威を及ぼさざる協定をなし、同地を中立とする時は、日本側の第一理由は満足せらるべく、・・・又原料資源の獲得については、仏印の物資を以て日本の需要を満たし得べしとは信ぜざるも、右の協定叶ならば、大統領に於いて関係諸国(蘭支を含むという)をして均等の基礎に於いて日本の要望に応ぜしむるの覚悟ありと明言し、この提案に対し日本側の回答を期待し(ている)」 ウェルズのいうことは、日本が大統領提案に応じれば、米国は経済封鎖を解くと言っているのに等しいのである }
註53-10 <首脳会談に対する軍部の見通し> (大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P70」
{ 軍部内では佐藤賢了軍務課長が「アメリカも間抜けだわい、無条件に会えば万事彼らの都合通りにいくのに」と語り、石井軍務課員も「会談の随員の内命を受けたとき、実に悲しいやるせない思いをした。近衛『ル』会談する。近衛頑張る、『ル』容れず、近衛は東京に向けこれ以上は出来ません電報する。三宅坂(陸軍省)が突っ張る。しかし陛下が御裁定になり、陸軍に優諚が下る。万事窮する。というのが私の政治的見通しであった」という(『石井回想録』) }
註53-11 <9月3日「帝国国策遂行要領」> 大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P80
{ 1.自存自衛のため、対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとに、10月下旬を目処に戦争を準備
2.それと並行して、米英に対し外交の手段を尽し、別紙のような要求の貫徹に努める
3.10月上旬頃までに要求を貫徹し得る目処なき場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する }
註53-12 <東條首相の誕生> 寺崎英成編:「昭和天皇独白録」、P80-P81
昭和天皇は東條首相選任の経緯について次のように述べている。
{ そこで後継首相の人選であるが、9月6日の御前会議の内容を知った者でなければならぬし、且又陸軍を抑え得る力のある者であることを必要とした。 ・・・ 内容を知った者と云へば、会議に出席した者の中から選ばねばならぬ。東條、及川、豊田が候補に上ったが海軍は首相を出す事に絶対反対であったので東條が首相に選ばれる事になったのである。
東條という人物は、 ・・・ 克く陸軍部内の人心を把握したのでこの男ならば、組閣の際に、条件をさへ付けておけば、陸軍を抑へて順調に事を運んで行くだらうと思った。
それで東條に組閣の大命を下すに当り、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事及時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事を特に付け加へた。
時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事は、9月6日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になる様、極力尽力せよと云ふ事なのだが、之は木戸をして東條に説明させた。 ・・・
近衛の手記に、東久邇宮を総理大臣に奉戴云々の記事があるが、之は陸軍が推薦したもので、私は皇族が政治の責任者となる事はよくないと思った。尤も軍が絶対的に平和保持の方針で進むと云ふなら、必ずしも拒否すべきではないと考へ、木戸をして軍に相談させた処、東條の話に依れば、絶対に平和になるとは限らぬと云ふ事であった。
それで若し皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思ったし又東久邇宮も之を欲して居なかったので、陸軍の要求を退けて東條に組閣させた次第である }
註53-13 <海軍の主張する最適開戦時期> 半藤一利:「昭和史」、P369
{ さまざまな研究や演習の結果、アメリカに対して7割の海軍力があればなんとか頑張れるとされていました。 ・・・ 対米比率が7割になるのはいつかということになります。それが、昭和16(1941)年12月なんですね。 ・・・ 日本海軍の艦艇数235隻、総トン数97万5793トンに対して、アメリカは345隻、138万2026トン、つまり日本の対米比率は70.6%です。 ・・・ 昭和17年、18年になれば、6割、5割となってしまいます }
註53-14 <最後の日米交渉・・・野村大使の報告> 大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P196<要約>
野村大使は11月14日電で次のように本国政府に報告している。
{ (1)米国は、その信条たる政治的根本原則を譲り妥協するくらいならば、戦争を辞せざる覚悟である
(2)三国同盟は日本政府当局の政策により、いかようにも運用されるから安心できないと主張
(3)米国が大西洋に忙殺されるようになれば、太平洋では多少妥協するだろうと予想していたが、現在の米国内は対独参戦より対日参戦の方が反対が少なく、太平洋から参戦する可能性がある。
(4)日本国内の政情が逼迫していることは承知しているが、結論を急がず世界戦の状況が判明するまで辛抱するのが得策と考える }
註53-15 <ハル・ノート>
{ ハル・ノートは正式名称を「合衆国及日本国間協定の基礎概略(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)」といい、冒頭に「厳秘 一時的且拘束力なし」 (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)との記載がある。
1.政策に関する相互宣言案
「4原則」と無差別待遇を中心とする国際経済関係の原則
2.日米両国政府のとるべき措置
①日米英ソ蘭中タイ国間の相互不可侵条約締結
②仏印の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等
③中国及び仏印よりの日本軍の全面撤兵
④中国における蒋介石政権以外の政権を支持しない
⑤英国その他諸国の中国における治外法権及び租界の撤廃
⑥最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約締結
⑦日米相互凍結令解除
⑧円ドル為替安定資金の同額出資
⑨日米両国が第三国との間に締結した如何なる協定も、本協定及び太平洋平和維持の目的に反するものと解釈しない(三国同盟の実質廃棄)
⑩本協定内容の両国による推進 } (Wikipedia:「ハル・ノート」<要約>)
これを手交した時のハルは、{ さすがにばつの悪そうな様子であったとみえて、日本側の指摘、質問にはまともに答えず、もっぱら世論に配慮せざるを得なかったと縷々述べ、弁明にこれ努める風であった } という。(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」、P248)
註53-16 <天皇の開戦決意> 寺崎英成編:「昭和天皇独白録」、P159-P160
昭和天皇は開戦を決意した時の心境を次のように述べている。
{ 開戦の際東條内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下に於る立憲君主としてやむを得ぬ事である。若し己が好むところは裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なる所はない。 ・・・
今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起った位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。 ・・・
私が若し開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨時が行はれ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びる事になったであらうと思ふ } ※ベトー:veto 拒否権