5.4 東京裁判

この節では、南京事件が東京裁判と南京軍事法廷でどのように裁かれたかについて述べる。主たる出典元は、洞富雄:「日中戦争南京大残虐事件資料集第1巻」であるが、文書名は「大残虐事件資料集Ⅰ」と略す。            

   図表5.4 東京裁判  

 

5.4.1 東京裁判

(1)東京裁判とは・・

東京裁判は、正式名称を「極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)といい、太平洋戦争における日本の「A級戦犯」を対象に行われた裁判である。A級戦犯とは、平和の罪、すなわち侵略戦争などを計画、準備、遂行した罪を問われた者であり、B級戦犯は戦争犯罪、C級戦犯は人道に対する罪で訴追された者である。C級はドイツのホロコーストを対象に設定されたカテゴリーであり、日本ではC級で罰せられた者はいない。太平洋戦争におけるBC級戦犯は、日本のほか、中国、フィリピンなど戦場になった各国の軍事法廷で裁かれた。

東京裁判は、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校で1946年5月3日に開廷し、1948年11月12日に判決の言い渡しが終了した。裁判の基準とされたのは、1945年8月8日に制定された「国際軍事裁判所憲章」をもとに1946年1月19日に作成された「極東軍事裁判所憲章」であるために、事後法での裁判と批判された。また、勝利した国の問題は問われず、東京裁判は「勝者の敗者に対する裁判」であることは間違いない。

被告として訴追されたのは28人、うち3人は裁判途中で病死するなどしたため免訴となり、残った25人全員は有罪とされた。死刑になったのは7人である。被告名及び量刑については54-1を参照。

     図表5.5 東京裁判の被告

 

軍人

政治家

右翼

合計

陸軍

海軍

起訴

15人

3人

9人

1人

28人

判決

死刑

6人

1人

7人

終身禁錮

9人

2人

5人

 

16人

禁錮

 

2人

 

2人

免訴

死亡

 

1人

1人

 

2人

精神異常

 

 

 

1人

1人

判事11人中、アメリカ、イギリス、中国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの判事6人は判決に賛成したが、5人は個別の意見を述べている。フィリピンのハラニーニャ判事は判決には同意するが「刑が一部寛大すぎる」、オーストラリアのウェッブ裁判長は「天皇の戦争責任を踏まえて被告の減刑を考慮すべき」と述べた。以下の3人は判決に反対の意見書を出している。インドのパール判事は「事後法で裁くことはできないので全員無罪」などの意見を長大な意見書で発表、フランスのベルナール判事は「日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、平和に対する罪で被告を有罪にすることはできない」とし、オランダのレーリンク判事は「平和に対する罪は事後法であり、これだけで死刑にすることには反対、広田は南京事件に責任はないので無罪」などとしている。

裁判は次のような手順で進められた。

①検察側立証(1946年6月~)

②弁護側反証(1947年2月~)

③検察側反証(1948年1月)

④検察側最終論告(1948年2月)

⑤弁護側最終弁論(1948年3月~4月)

⑥判決(1948年11月)

(2)検察側

(a)検察側立証

南京事件の検察側立証には非常に多くの証人と資料が提示された。安全区国際委員会の6人が宣誓口供書を提出し、うちベイツら4人が証言台にのぼった。中国人の被害者、目撃者として許伝音(紅卍会)ら5人が証言し、他に宣誓口供書を提出した者が10数人いた。
証拠資料として、安全区国際委員会の報告書が収録された「南京安全区档案」、スマイスが作成した「南京地区における戦争被害」、紅卍会と崇善堂の死体埋葬記録、アメリカやドイツ大使館が発信した公文書、などが提出された。

(b)検察側最終論告

東京裁判速記録(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P339-P341)より、要約する。

・法廷に提出された証拠から、数万の中国人が殺害され、数千の女性が凌辱され、掠奪や放火が行われたことに疑問の余地はない。(犠牲者数については、地方裁判所検事から278.586人という報告があることが述べられている)

・松井は12月17日南京に入城した際、憲兵隊より残虐行為について報告を受け、南京領事館員からも話を聞き、部下の将校たちを召集して紀律維持につき訓令したが、その訓令が確実に遂行されるように努力しなかった。

・松井は自分には軍紀風紀について直接命令する権限はなかったというが、軍紀粛正を将校に訓示したことは、軍紀を励行する権限が彼にあることを示すものである。

・このような犯罪に対する彼の責任は東京の政府首脳及び軍高級将校とともに負うべきものであるが、彼らは残虐行為を知りながらそれを終息させるための行動をとらなかった。

(3)弁護側 

(a)弁護側反証

弁護側証人は、外務省関係が日高参事官、石射東亜局長、軍関係は上海派遣軍の飯沼参謀長、第16師団の中沢参謀長のほか、小隊長クラスまで10人近くが証言した。大半は虐殺行為はまったくないか、わずかしかなかった、と証言したが、石射だけは現地領事館から「南京アトローシティズ」の報告を受け、外相経由で陸軍に厳重注意を申し入れた、と証言した。

証言は「松井はいい人だ」風の人格擁護の証言が多く、検察側の立証に対する有力な反証はほとんどできなかった。

(b)松井被告の証言

松井は南京事件について宣誓口供書で{ 興奮せる一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行ひたる者ありたるならむ}(同上P275 と述べ、一部に暴行があったことを認めており、証言台でも「この忌むべき暴行」というのは何でしたか?という検察官の質問に、「強姦、奪掠、殺人などである」と答えている。そこで、検察官の質問は、松井がこの事件をどのようにして知り、どのような対策を講じたか、責任はどこにあったのか、の3点に集中した。以下、3点のエッセンスになった質疑を記す。
①いつ誰から事件を聞いたか・・・

{ 検察官: あなたが南京の暴行事件について初めて聴いたのは12月17日、南京入城後、憲兵隊の指令官から聴いたと言っております。・・・憲兵隊以外のほかの人から報告を受けたことがありますか。

松井: 日本の領事館に行きましたときに、日本領事からもそういう話を聴きました。

検察官: なぜあなたはただいま言ったことを宣誓口供書に入れなかったのですか。

松井: それは公式に報告を受けたわけではなく、話を聴いたということだけでしたから書きませんでした } (P283)

口供書に書いていないと事実を隠そうとした、と思われることがある。ここでまず1本とられた。

②どのような対策を講じたか・・・

{ 検察官: あなたはこういうふうな残虐行為の報告を聴いて、各部隊に命じて即時厳重なる調査・処罰をなさしめたと言っております。これらの各部隊はあなたが命令しましたところの調査の結果をまたあなたに報告してきましたか。

松井: 先刻から申すように、各部隊は直接私に報告をする関係にありません。 ・・・

検察官: ・・・ あなたの部下の2人の軍司令官からどういう報告が来ましたか。

松井: それは私が翌年2月、上海を離任するまでは何等の報告を受けておりません。

検察官: あなたのところに報告せよというふうにあなかたら要請したことはありますか。

松井: ありました。

検察官: その答えに何と言って来ましたか。

松井: 調査中、せっかく調査をしておりますから、調査の上で報告するということでありました。 }P285

これでは対策が不十分と思われてもしかたがない。

③責任の所在は・・・

{ 松井: 私は方面軍司令官として、部下の各軍の作戦指揮権を与えられておりますけれども、その各軍の内部の軍隊の軍紀・風紀を直接監督する責任はもっておりませんでした。 ・・・

検察官: あなたはまさか、あなたの当時占めておりましたところの司令官という職務そのものの中に、軍紀・風紀を維持するところの権限が含まれていなかった、と言おうとしているのではありますまいね。

松井: 私は方面軍司令官として、部下を率いて南京を攻略するに際して起ったすべての事件に対して、責任を回避するものではありませんけれども、しかし、各軍隊の将兵の軍紀・風紀の直接責任者は、私ではないということを申したにすぎません } P292

(c)弁護側最終弁論

東京裁判速記録(「大残虐事件資料集Ⅰ」、P360-P367)より、要約する。

・南京で若干の不祥事件が発生したが、それは軍事行動の際には何時でも発生するものである。

・検察側の証言/証拠には次のような問題があり、事件は巧妙にして誇大な宣伝によるものである。

ü 証言は伝聞にもとづくもの、場所など詳細が不明確なもの、などが多く信頼性に欠ける

ü 事件の中には中国軍民による犯行も含まれる

ü 当時の南京の人口は20万人前後であり、集団虐殺20余万はありえない

ü 埋葬者数には不自然な記録もあり、信用できない

・中支那派遣軍司令官の職務は作戦指揮にあり、将兵を直接に統督管理する機能はない。軍紀・風紀の弛廃による責任も師団長が負担すべきものである。

・彼が南京で起ったことを指図したり、奨励したり、知っていたり、承認したり、黙認したりしたことを示す証拠はひとつも提出されていない。

(4)判決

1948年11月12日、松井被告に死刑判決が言い渡された。以下は判決文の一部である。

{ ・・・ この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日にこの都市が占拠されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6,7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。 ・・・ 本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという十分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても効果のあることは何もしなかった。 ・・・ かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。・・・} (「大残虐事件資料集Ⅰ」、P398-P399

秦氏は次のように述べている。

{ 大筋はあっさり認めて、個別・具体的な反証を持ち出して争っていたら、のちに30万、40万という規模の“大虐殺”論争に発展することもなく、松井も死一等を減じられた可能性がある ・・・ 拙劣な法廷戦術が死命を制した } (秦:「南京事件」、P44)

なお、松井のほかに広田弘毅も南京事件で残虐行為を止めなかった不作為の責任を問われて、死刑判決を受けている。この判決については政治的な要素が大きいとの意見がある註54-2

(5)処刑

死刑は判決の翌月、12月23日に巣鴨拘置所で執行された。教誨師の花山信勝に松井が語った言葉を引用する。

{ 「南京事件はお恥ずかしい限りです。 ・・・ 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。 従って、私だけでもこういう結果になるという意味でたいへんに嬉しい ・・・ (花山信勝「平和の発見」のち「永遠への道」にも同文を記載)
いくら達観しているように見えても、松井の心中には沸々とたぎるものがあったのだろう。法廷ではかろうじて抑えた松井も、服従しない部下の罪を代りに背負わされ、それを察知しながら監督責任を問う勝者の裁きに痛恨の情をもらさずにはいられなかったのであろう } (秦:「南京事件」、P45-P46

(6)東京裁判の性格

以下は、日暮(ひぐらし)吉延:「東京裁判」、P29P40をもとにしている。

東京裁判には、「文明の裁き」論と「勝者の裁き論」がある。前者は「日本の侵略と残虐行為を文明的な裁判方式で追及したことを評価する肯定論」であり、後者は「勝者による政治的報復に過ぎないという否定論」である。この二つは着眼点や立場が違うだけで、どちらにも見える。つまり、東京裁判はその両面をあわせもつ「国際政治」であった。

「文明の裁き論」の目的は、戦争を犯罪として処罰することにより、安全な国際秩序を形成することにあり、「勝者の裁き論」は戦争責任をドイツや日本にあると裁判で確定することにより、連合国側の正当性を確定することにある。(むろん、国際関係において一方が絶対に正しくて他方が全部間違っているということはない) 日本人に「日本の戦争」が「犯罪」だったと認識させて再教育を施すことにより、戦勝国と協調しうる平和国家に変える、ことも目的であった。そのために、日本国民を被害者と位置付け、極端な軍国主義者だけを処罰する、一罰百戒の「教育」的論理が採用された。

二つの論理をつなぐ鍵は何か、というと、それは「安全保障」である。日独の裁判を「戦争の罪悪」のシンボルとして操作し、敗戦国民の心理に影響をおよぼして「無害化」を図ることにより、戦後の国際秩序を安定化しようと考えたのである。

 

5.4.2 中国における戦犯裁判

この項は(1)以外は、笠原十九司・吉田裕編:「現代歴史学と南京事件」の第3章「中国国民政府の日本戦犯処罰方針の展開」(伊香俊哉)に依拠している。

(1)日中戦争の終結

1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して太平洋戦争と日中戦争が終結した。同じ8月15日、蒋介石は「以徳報怨(怨に報いるに徳を以てせよ)」の放送演説を行い、中国に残る軍人や残留邦人に対して寛大な態度で接するよう国民に呼びかけた。終戦時に中国大陸の部隊を統括する支那派遣軍(兵力105万)の司令官だった岡村寧次大将は、次のように記している。

蒋介石のこの演説を、当時ソ連のスターリンが「日露戦争の仇を討った」と声明したのに較べてみれば、まるで較べものにならない高邁寛容な思想と言わねばなるまい。この思想、この大方針が後述するように接収において降伏手続きにおいて、戦犯問題において、すべて中国側官民の日本人に対する態度の基礎になったのだと思う。この大方針は大体に於て遵守せられたが、抹消軍民に於いては徹底を欠き小トラブルの起きたのも少なくなかった。地方雑軍の中には、ほしいままに武器を要求したり、金銭物品の提供を強要したり、無実の罪を造って拘禁するなど、非行を敢えてするものもあった。 ・・・ 
しかし、大観すれば、他方面に較べ比較的多量の物品を携行して、200万軍民が一年ならずして内地に引揚げることができたのは前述の蒋委員長の方針に基づく中国官民の好意ある態度に因るところ至大であると思わざるをえないのである。} (「岡村寧次大将資料(上)」、P12-P13

岡村寧次大将も戦犯容疑で拘束されたが、南京軍事法廷で無罪とされ1949年、復員している。

(2)中国による戦犯情報収集(戦時中)

連合軍による戦争犯罪調査は1944年1月に「連合国戦争犯罪調査委員会(UNWCC)」が発足してから本格的に始まったが、中国ではそれ以前の1941年頃から日本の戦争犯罪に関する調査を始めていた、とされる。当初は日本軍の資料などは入手できず、徐淑希の編纂した被害調査やティンパレーの“The Japanese Terror in China”、軍関係からの資料、新聞記事などしかなかった。調査の方針は、根拠もなく報復的に処罰するのではなく、証拠資料に基づいて処罰することであった。

1943年の初めから戦争犯罪の調査表を作成し、軍の司令官や各省政府に配布して調査を行った。1945年5月の報告では2300件を越える調査表が回収されたが、その大多数は容疑者の情報や証拠など調査項目の記入が不十分であった。

44年に入って調査は本格化し、当時中国にいたスマイスやフィッチなどと面談し、ベイツやリッグスへも協力要請して証拠資料のとりまとめを開始した。

(3)中国による戦犯情報収集(戦後)

終戦後、戦争犯罪調査は進展したものの、事件発生から長い時間がたち正確な情報の収集は困難をきわめた。1946年4月から6月まで、アメリカと合同で中国各地(上海、広州、桂林、衡陽、漢口、北平(北京)、など)の戦争犯罪の証拠調査を実施した。

戦犯の検挙は中央や地方当局が行うだけでなく、人民による告発も重視された。人民により告発された事件は、上海方面で30,638件、広州方面で1万件あまりであった。桂林方面では毒ガスの使用も1件報告され、衡陽方面では4万5千軒の家屋のうち無傷なのは5軒だけ、人的被害は14万人うち強姦による死者は6万人、武漢方面では未精製阿片約78kgが接収された。こうした大量の事件を戦後直後の混乱の中で調査し、証拠をもとに処罰することはきわめて困難な状況になっていた。

(4)戦犯処理方針

1946年10月、戦犯処理政策についての会議がもたれ、「以徳報怨」の精神に基づき、重要な戦犯に絞り込み一般の戦犯は寛大に対処する「懲一戒百(1人を罰して衆人の戒めとする)」の方針と、戦犯裁判の早期終結方針が決定された。この方針は、46年7月に国共両党が本格的な内戦に突入したことの影響を受けている可能性もある。

(5)裁判の性格

「懲一戒百」は、満州事変以来15年にわたる日本の侵略で国土の大半を蹂躙され、1100万を越える犠牲者(日本は日中戦争と太平洋戦争の犠牲者300万人)を出したことを考えると処罰の小ささを嘆く声もあったが、「教育的効果」すなわち日本人が中国全土で繰り広げた戦争犯罪について自ら戒めとすることに期待するしかなかった。

また、中国での戦犯裁判は人民からの告発を重視したことから、「勝者の裁き」というよりも「被害者の裁き」という性格を見出させるものであろう。

(6)南京軍事法廷で裁かれた4人

南京事件のBC級戦犯は、1946年2月から開かれた南京軍事法廷で裁かれた。南京軍事法廷の判決では、南京事件の犠牲者数について次のように述べ、これがのちの中国側主張である30万人のもとになっている。

{ ・・・捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など19万人余りに達する。このほか個別の虐殺で、遺体を慈善団体が埋葬したものが、15万体余りある。被害者総数は30万人以上に達する} (「南京事件資料集Ⅱ」、P298

裁かれたのは次の4人でいずれも死刑の判決を受け、谷は1947年4月、他の3人は1948年1月に雨花台において銃殺の刑に処せられた。(以下、秦:「南京事件」、P48-P49による)

・谷寿夫中将(第6師団長); 雨花台から中華門内外で起きた不法殺人などを問われ、本人は「中華門付近でそのような虐殺はない、南京大虐殺は中島部隊の方面での出来事」と主張したが容れられなかった。

・田中軍吉大尉(第6師団中隊長); 1940年に刊行された「皇兵」という本の中に「300人も斬った隊長(田中)の愛刀助広」と紹介され、この本が証拠とされた。

・向井敏明少尉、野田毅少尉(いずれも第16師団歩9連隊); 1937年12月の東京日日新聞に掲載された「百人斬り」の記事が有力な証拠とされた。

この裁判は、笠原氏や秦氏が述べているようにきわめて政治的な裁判であったといえよう。

{ 谷寿夫にとって不運だったのは、第16師団中島今朝吾と第10軍司令官柳川平助が敗戦後すぐに他界し、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王は皇族ゆえに免訴されたことがあって・・・ } (笠原:「南京事件」、P234

【起訴者が少なかった理由のひとつは】8年前の事件容疑者を探し出し、確認する技術的困難性である。 ・・・ 生き残りの被害者はみつかっても、加害者の氏名や所属部隊を特定するのはまず無理だった。} 秦:「南京事件」、P47)  {この3人(田中、向井、野田)はマスコミの戦時宣伝による不運な犠牲者というべき特異例であろう } (同上:P49

 

<参考>事件関係者のその後

中支那方面軍主要幹部のその後を以下に示す。(名前の後の階級、役職は南京戦当時のもの

松井石根大将: 中支那方面軍司令官

 1938年2月   予備役

 1948年12月  死刑執行(70歳)

塚田攻少将: 中支那方面軍参謀長

 1938年12月  第8師団長

 1940年11月  参謀次長

 1941年11月  第11軍司令官

 1942年12月  飛行機事故により殉職(56歳)

 

武藤章大佐: 中支那方面軍参謀副長

 1939年9月  陸軍省軍務局長(少将)

 1942年4月  近衛師団長(中将)

 1944年10月 第14方面軍(フィリピン)参謀長

 1948年12月 死刑執行(56歳)

朝香宮鳩彦王中将: 上海派遣軍司令官

 1938年3月  軍事審議官

 1947年10月 皇籍離脱

 1981年4月  死去(93歳)

飯沼守少将: 上海派遣軍参謀長

 1938年3月  予科士官学校幹事

 1942年2月  予備役

 1978年3月  死去(89歳)  

 

長勇中佐: 上海派遣軍参謀

 1938年3月  歩74連隊長

 1944年7月  第32軍(沖縄)参謀長(少将)

 1945年6月  沖縄で自決(50歳)

中島今朝吾中将: 第16師団長

 1938年7月  第4軍司令官

 1939年9月  予備役

 1945年10月  死去(64歳)

佐々木到一少将:第16師団歩30旅団長

 1938年9月  北支憲兵司令官(中将)

 1939年     第10師団長  1941年 予備役

 1955年5月  死去(69歳)

吉住良輔中将: 第9師団長

 1939年12月  予備役

 1963年2月   死去(78歳)

山田栴二少将:第13師団歩103旅団長

 1939年     中将、予備役

 1944年11月 仙台幼年学校校長

 1977年11月 死去(90歳)

柳川平助中将: 第10軍司令官

 1938年3月  予備役

 1940年4月  司法大臣

 1945年1月  死去(65歳)

 

谷寿夫中将:第6師団長

 1937年12月 (本土)中部防衛司令官

 1939年8月  予備役

 1947年4月  死刑執行(64歳)

牛島満少将:第6師団歩36旅団長

 1939年3月  陸軍予科士官学校長

 1944年8月  第32軍司令官(中将)

 1945年6月  沖縄で自決(57歳)

 

 


♪余話 ... 東京裁判の目的

終戦後、戦犯をどのように裁くかについて、連合国側でも様々な意見があった。イギリスは少数の主要戦犯を即決処刑して、それ以外の戦犯は各国ごとにやればいい、と言う意見であったが、アメリカはあくまでも裁判を行うことにこだわった。結局、いわゆるA級戦犯はアメリカが主導する国際裁判で裁き、BC級戦犯は各国ごとに裁判することに決定した。

A級戦犯を裁く東京裁判は、アメリカの占領政策の中核をなす重要なイベントであり、その目的は次の2点にあったと考えられている。

(1)戦争責任が日本にあることを公式に確認すること

(2)侵略戦争の再発防止を図ること

目的達成のために、膨大な量の資料が集められ、今でいう司法取引による証言も収集された。それらは裁判の証拠になるとともに、GHQの宣伝政策としてラジオや新聞などでも報道され、それまで何も知らされなかった一般の日本国民の間には、戦争指導者たちの処罰を求める声が高まった。当時の日本政府もこうした方法による裁判を受け入れざるを得なかった。

東京裁判と並行して、アメリカ流の民主主義が導入され、新憲法が制定されて、新しい国の形が形成されていくのを多くの日本人は歓迎した。しかし、1960年代後半になると戦前戦中のやり方を否定されたことに反発する勢力があらわれ、それは徐々に広がっていき、戦後体制を肯定する人々とそれを否定する人たちの間に深刻な分断が生じてしまった。

 もし、このとき、日本人も参加した上で連合国側の“悪”も含めて戦争の根本原因を追究し、戦争責任を裁いたとしたら、そうした分断を避けるか和らげることができたかもしれない。ただし、その場合でも被告は変わるかもしれないが、日本が行なった歴史事実の認識は現在のものと大きく変わるものではないであろう。

以上、日暮吉延:「東京裁判」を参考にさせていただき、筆者なりにまとめてみた。

 

 


 

                    

  


.4節の註釈  

54-1   <東京裁判の被告一覧>  出典:日暮吉延:「東京裁判」,P107P254  

 

主な役職

判決

訴因(判決時)

量刑

平和

殺人

戦争犯罪

 

陸軍

荒木貞夫

大将、陸相、皇道派の重鎮

終身禁錮

 

 

板垣征四郎

大将、陸相

死刑

 

梅津美治朗

大将、参謀総長

終身禁錮

 

 

大島浩

中将、駐独大使

終身禁錮

 

 

木村兵太郎

大将、ビルマ方面軍司令官

死刑

 

小磯國昭

大将、朝鮮総督、首相

終身禁錮

 

佐藤賢了

中将、軍務局長

終身禁錮

 

 

鈴木貞一

中将、企画院総裁

終身禁錮

 

 

土居原賢二

大将、奉天特務機関長

死刑

 

東條英機

大将、陸相、首相

死刑

 

橋本欣五郎

大佐、右翼活動家

終身禁錮

 

 

畑俊六

元帥、陸相、中支那派遣軍司令官

終身禁錮

 

松井石根

大将、中支那方面軍司令官

死刑

 

 

南次郎

大将、陸相、朝鮮総督

終身禁錮

 

 

武藤章

中将、軍務局長

死刑

 

海軍

岡敬純

中将、軍務局長

終身禁錮

 

 

嶋田繁太郎

大将、海相

終身禁錮

 

 

永野修身

大将、海相、軍令部総長

裁判中に病死

 

政治家

賀屋興宣

蔵相

終身禁錮

 

 

木戸幸一

内大臣

終身禁錮

 

 

重光葵

外相、駐ソ大使、駐英大使

禁錮7年

 

白鳥敏夫

駐伊大使

終身禁錮

 

 

東郷茂徳

外相、駐独大使、駐ソ大使

禁錮20年

 

 

平沼騏一郎

首相、枢密院議長

終身禁錮

 

 

広田弘毅

首相、外相

死刑

 

星野直樹

東條内閣書記官長

終身禁錮

 

 

松岡洋右

外相

裁判中に病死

右翼

大川周明

思想家、拓殖大学教授

精神病と判定され免訴

 

註54-2  <広田弘毅の死刑判決>  半藤一利、保阪正康、井上亮:「『東京裁判』を読む」、P447-P448

保阪: 東京裁判は復讐裁判だ」と言われますが、そういう裁判であるなら文官からも死刑を出さないとバランスがとれない。いけにえであることは間違いない。 ・・・

半藤: 死刑になった7人のうちの5人までは、BC級の罪状で責任上から死刑になったと思いますよ。不作為の罪でね。そこに当てはまらないのは東条英機と広田だけです。東條は開戦責任も敗戦責任もありますから、これは別として、広田をどうしても死刑にしなきゃいけない理由はないんですよ。ただ、日本の指導者が共同謀議を行っていたという前提で言えば、とくに「国策の基準」が採り上げられるのはやむを得ないかなと思いますね。「侵略的政策」が始まっているのはそこからだものね。 

半藤: ・・・ あとの5人についてはそれぞれの国が言葉は悪いけれど、復讐の血祭にあげないと国民の腹の虫がおさまらないと思ったんじゃないですか。ビルマは木村兵太郎、南京は松井石根、満州は土居原賢二、フィリピンは武藤章、シンガポールは板垣征四郎、そこで虐殺事件がおきていますからね。それ以外の理由が考えられないんですよ。

※「国策の基準」; 1936年8月に広田内閣が決めた国防方針。軍備の拡充及び大陸と南方への進出を決めた。