第6章 否定論とその反論
この章では、南京事件は無かった、とする否定派の主張とそれに反論する史実派などの主張、及び筆者の評価を紹介する。個別事件の否定論は第4章で述べているのでここでは事件全体を包括するような否定論をとりあげる。否定派の主張の多くは、田中正明氏の「南京事件の総括」に記されている“虐殺否定15の論拠”に含まれるので、これを主軸にその他の否定論も交えて抽出し、それを人口、捏造、証拠、捕虜、市民、その他、の6つのカテゴリーに分類した。史実派の反論は主として「南京事件調査研究会」が編集した「南京大虐殺否定論13のウソ」(「13のウソ」と略す)に依拠している。
主な否定論と本レポートでの記載箇所
主唱者 否定論 分類 記載箇所 田中 ①当時の南京人口 人口 6.1.1 田中 ②難民帰還で人口は急速に増加 人口 6.1.2 田中 ③累々たる死体など見た者はいない 証拠 6.3.2 田中 ④国際委員会の日軍犯罪統計 証拠 6.3.1 田中 ⑤難民区は安泰、感謝の書簡 市民 6.6.1 田中 ⑥架空の捕虜大量殺害説(捕虜の釈放) (幕府山の捕虜) 捕虜 6.5.1 4.3 田中 ⑦崇善堂の11万埋葬のウソ 証拠 6.4.2 田中 ⑧スミス博士の戦争被害調査 市民 6.6.2 田中 ⑨何応欽上将の軍事報告 捏造 6.2.3 田中 ⑩中国共産党の記録にない 捏造 6.2.3 田中 ⑪国際連盟も議題にせず 捏造 6.2.2 田中 ⑫米・英・仏等からの抗議もなし 捏造 6.2.2 田中 ⑬米・英のマスコミほとんど取り上げず 捏造 6.2.1 田中 ⑭箝口令など布かれていない 捏造 6.2.4 田中 ⑮目撃者のいない“大虐殺” 証拠 6.3.2 田中 パール判事の日本無罪論 その他 6.8.1 東中野 ラーベの日記は信頼できない 証拠 6.4.1 東中野 ニセ写真ばかり 証拠 6.4.3 東中野 捕虜殺害は合法 捕虜 6.5.1 東中野 便衣兵(敗残兵)殺害は合法 捕虜 6.5.2 東中野 中国兵犯人説 市民 6.7.1 東中野 大量強姦はうわさ 市民 6.7.2 東中野 掠奪ではなく徴発 市民 6.7.3 東中野 放火犯は便衣兵 市民 6.7.4 北村 ティンパリーは国民党政府の宣伝工作に従事 証拠 6.3.3 北村 スマイス報告の犠牲者数は過大 市民 6.6.2
注1)①~⑮は、田中正明:「南京事件の総括」に記載の“虐殺否定15の論拠”である。
注2)東中野氏の否定論は、「南京虐殺の徹底検証」及び「再現 南京戦」による。
注3)北村氏は、「南京事件の探求」による。
図表6.1 否定論(1) ・・・ 人口関連
(1)否定派の主張
「陥落時の南京の人口は20万人だったので、30万人も殺すことはできない。安全区国際委員会の文書に『安全区の人口は20万人、安全区以外にほとんど人はいない』と書かれている」 これが本件に関する一般的な否定論である。
田中正明氏は軍人の数も含めて推定している。{ この安全区(難民区)に南京市民全員を収容して保護に当ったのである。 ・・・ 【安全区国際委員会が発行した文書に】3回にわたって、安全区内の難民の総人口は20万人であると記述されている}としたあと、南京の人口は15万人、12万人、防衛軍は5万人、などを記述した文書を紹介し、{ 以上の史料を総合してみると、当時の南京の人口は12万~13万から最高20万の間とみてまちがいない。唐生智麾下の南京防衛軍は3.5万から5万である。防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。それがどうして30万なのか? 幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない} (「南京事件の総括」、P25-P27)
(2)史実派の反論
まず、「南京の人口20万人」との主張に対して次のように述べる。{国際委員会が述べているのは、・・・安全区に避難した・・・難民の総計のことである。これを南京事件前の南京市の人口であるかのごとくいうのはウソである。それにこの否定論には総勢15万人にたっした南京防衛軍の事が抜け落ちている} (「13のウソ」、P84-P85)
そして、陥落前の南京市の人口については、{ 1937年11月23日に南京市政府が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡があり、そこにはこう記されている。「 ・・・調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。・・・」}(同上P85) 11月23日以降、江南地域の都市、県城から日本軍に追われて逃れてきた難民がいる一方、市内から安全と思われる近郊農村などに避難していった市民もおり、{ 南京攻略戦が開始されたときは、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万人であったと推測される。それに ・・・ 中国軍の戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など総勢約15万人を加えてカウントしておくべきである}(同上、P86)
(3)陥落時の市民人口は推定値
南京市の人口は、信頼できる調査によれば1937年3月末時点で約102万人であった註61-1。8月からの空襲以降、脱出する人が増えて、上記肯定派の反論にあるように開戦前の11月23日の人口は約50余万になっていた。ここまでは警察が調査した結果であり、一定の信頼がおける数字である。この後、南京から脱出する者がいる一方、進撃する日本軍に追われて南京に逃げ込む者もいただろうが、人口調査は行われておらず信頼できる数字は存在しない。田中氏が推定した12万~20万の根拠と称する文書は以下のようなもので、いずれも推測にすぎない。
・安全区国際委員会の報告書:「安全区内の難民の総人口は20万人」
・ドイツ・フランクフルター紙特派員:「漸く15万人を数ふる小都市になり下がった・・・」
・米誌『タイム』:「15万人の南京市民が避難した安全区を・・・」
・雨花台陣地を守備した旅長:「市民数概ね20万」
・松井大将:「避難区に収容せられある支那人は・・・其数12万余に達し・・・」
もちろん、史実派の40~50万人も推測であり、陥落時の南京市の人口について信頼できるデータはないのである。
(4)安全区人口=南京の人口ではない!
南京市は、南京城とその周辺の「城区」と、近郊の農村・山間部の「郷区」に分けられる。安全区は「城区」の一部で面積は城内とその周辺部(40平方キロ)の10分の1以下(3.8平方キロ)しかない。国際委員会は12月17日に日本大使館に宛てた文書で、{13日に貴軍が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていました }(「大残虐事件資料集Ⅱ」、P126) と述べているが、下記のように安全区以外にも南京城とその周辺にはかなり多くの市民がいた可能性が高い。
・夏淑琴さん(4.5.2項(3)参照)のように安全区外の自宅で暴行の被害に遭った人たちがいる。他にも安全区外に住んでいたという証言註61-2も多数ある。
・日本軍将兵にも「家の奥に人がいるのを見た」と証言する人たち註61-3がいる。
・棲霞山、宝塔橋など、安全区以外にも城外にいくつかの難民キャンプがあった註61-4。
・1938年1月中旬に安全区の人口が25~30万人に増加したという国際委員会の文書があるが、増加したのは主として城内にいた住民が移ってきたからである。(6.1.2項参照)
・12月15日まで南京城内に残留していたニューヨーク・タイムズのダーディン記者は難民区(安全区)以外にもたくさんの住民がいた、と語っている註61-5。
また、犠牲者数には中国軍将兵も多数含まれるので、陥落時に南京周辺にいた中国軍兵力も考慮しなければならない。中国軍の兵力については、4.7.3項でも述べたように、5万人(戦闘兵のみ)から15万人(雑兵も含む)まで推定値には幅がある。
(5)まとめ
例えば、「南京事件など無かった! 人口が20万人しかないところで30万人も殺せるわけがない・・」などと主張されると南京事件は存在しなかったかのように思ってしまう人もいるかもしれない。少し考えればわかることだが、この否定論では30万人(又は数十万人規模)の虐殺を否定することはできるが、中間派の主張する数万人規模は否定できないのである。実際は、人口20万という数字の信頼度が低いので、30万の否定すらも論理的には怪しい。
事件から半年以上過ぎた1938年8月の信頼できる調査でも、南京市の人口は30万人までしか回復していない。“安全”は戻ったかもしれないが、“安心”は戻っていない証しではないだろうか。
(1)否定派の主張
田中氏は次のように述べ、安全区の人口が増加したのは南京の治安が急速に回復したことを示すもので、東京裁判や中国側の証言が示すような虐殺はなかった、と主張する。
{ 日本軍の虐殺によって、南京市民の人口が減少したというならわかる。ところが実際は減少したのではなくて、逆に急速に増加しているのである。 ・・・ これは前にも述べた第一級の同時史料である。すなわち南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使館等にあてた61通の公文書の中から人口問題に触れた箇所を抽出したものである。 ・・・ 12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載していたのが、1月14日になると増加して25万~30万となっている。以後、2月10日まで25万である。これはいったい何を意味するか。それは南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠である。 ・・・ 正月を控えて郊外に避難していた民衆が、誘い合わせて続々と帰り始めたのである } (「南京事件の総括」、P29) ※下線は筆者
(2)史実派の反論
「南京大虐殺否定論 13のウソ」ではこの否定論に触れていない。
(3)増えた人たちはどこから来たか・・
増加した5万人の人たちは、「『近隣』・『郊外』から戻ってきた」と田中氏は述べているが、この頃南京城の城門は日本軍によって封鎖されており、自由な出入りはできなかった。否定派の東中野氏は次のように述べている。
{ ・・・ 城門は日本軍が検問していたから、城内から城外へ出ることも逆に城外から城内に入ることも事実上不可能であったからである。「城内外の通行は(略) 城内外にある家族との関係其の他を考慮し、城外近傍の者のみ其の自由を若干認めあり」とは、昭和13年1月21日、南京特務機関が提出した報告である } (「徹底検証」、P201-P202
このような状況で5万人もの人が城門を通って城内に入ったとは思えない。5万人の大部分は安全区以外の城内にいた人が安全区に避難したと考えるのが妥当である。
(4)増えた人たちは“帰還”したのか・・・・
田中氏は、「(「南京」から)近隣に避難していた市民が“帰還”しはじめた・・・」と述べている。ここでいう「南京」は20万なり25万の人口があった場所、すなわち「安全区」のことであることはこれまで述べたとおりである。つまり、「帰還」した市民は、もともと安全区に住んでいたことになるが、陥落前、市民には安全区への避難指示が出ている中で、安全区の住民がその外に避難するというのはどうみても不自然である。これは、安全区外に住んでいた市民が治安の悪化により比較的安全な安全区に避難した、と考えるのが自然である。
ラーベは1月17日の日記に次のように書いている。{ 難民の数は今や約25万人と見積もられている。増えた5万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ }(「南京の真実」、P216) 「正月を控えて・・・誘い合わせて続々と帰りはじめた」というムードからはほど遠い状況であった。
(5)まとめ
田中氏は「南京」の地理的範囲をあいまいにしたまま話を進めたので、あたかも南京城又は南京市の外部から来た人によって人口が増えたようなイメージを読者に持たせてしまった。しかし、人口が増えたのは「安全区」であり、その原因は治安の悪い城内(安全区外)にいた住民が、相対的に治安の良い安全区に移ったためである。したがって、南京城とその周辺すべてが安全になったわけではなく、虐殺がなかったなどという結論を導き出すことはできない。
すでにお気づきと思うが、田中氏は前項の否定論「20万人の人口で・・・」では、安全区以外にほとんど住民はいなかった、としているのに、本項の否定論では安全区の「近隣」に少なくとも5万人以上の住民がいたことを認めている。明らかに論理の矛盾である。
安全区が他地域に比べて治安が良かったことは次の2つの数字が裏付けている。
①スマイス報告(都市部調査)の「建物の破壊と略奪状況」の調査によれば、放火又は掠奪された建物は城内全体で88%、城外では90%もあったが、安全区内では9.6%しかない。(詳しくは図表4.19を参照)
②「南京安全区档案」で報告された事件を発生場所別にみると下表のようになっている。国際委員会の情報源は国際委員会の関係者と安全区内の難民が主であるため、安全区外の事件は限られた数しか収集できていないとみられるが、それでも1月からは安全区外での事件が増え、1月末以降は安全区外の事件の方が増加している。(「場所不明」は安全区外が圧倒的に多いとみられる) これは、安全区から自宅に帰宅しようとした難民が帰宅途中又は自宅付近で難にあったという報告が増加しているためである。(4.5.4項参照) なお、冨澤氏も同様の分析をしているが註61-6、1月10日以降安全区外の事件が増加しているのは同じである。
図表 6.2 時期別事件発生場所
激震期 (12/13-12/26) 余震期 (12/27-1/23) 反動期 (1/24-2/6) 終息期 (2/7~) 合計 安全区内 185 33 60 4 282 安全区外 25 22 73 8 128 場所不明 4 9 33 2 48 記入なし 14 8 78 2 102 合計 228 72 244 16 560
※1 対象データは、4.6.1項と同じ
※2 「場所不明」は、発生場所の記述はあるが地図などで安全区内かどうか確認できなかったもの。安全区内は詳細な地図が残っているが、区外はそうした情報がないので、区外の地名である可能性が高い。
※3 「記入なし」は、発生場所の記述がないもの。
南京事件当時、日本の人口は60~70百万人、中国の人口は約5億人であった。同時期のアメリカの人口は1.2億、世界全体では20億人ほどである。有史以来、中国はインドと並んで世界で最も人口の多い国である。
日本の人口は鎌倉時代末期(1300年頃)に約1千万人だったが、およそ5百年後の江戸時代中期には3千万人に達し、その規模のまま明治維新を迎えた。明治維新後50年ほどで6千万人まで急増したが、人口増に経済の拡大が追いつかず、多くの人々が海外への移民となって日本を脱出して行った。移民先は、当初ハワイやアメリカ本土が多かったが、1924年アメリカは移民法を制定して事実上、日本からの移民を禁止した。(中国からの移民は1882年に禁止済み) 日本は新たな移民先を別な国に求めざるを得なくなり、それが満州事変の目的のひとつだった、とも言われている。
日中米の人口 (単位:億人)
|
西暦 |
日本 |
中国 |
アメリカ |
世界 |
|
AD1 |
0.003 |
0.50 |
- |
2~3 |
|
1300 |
0.098 |
0.85 |
- |
3.6~4.3 |
|
1700 |
0.29 |
1.50 |
0.01 |
6.1~6.8 |
|
1850 |
0.32 |
4.20 |
0.23 |
12 |
|
1925 |
0.60 |
4.85 |
1.23※ |
20 |
|
1960 |
0.93 |
6.57 |
1.86 |
30 |
|
2010 |
1.28 |
13.59 |
3.08 |
60 |
※1930年の数字
出典: ~1925年まで Wikipedia:「歴史上の推定地域人口」
1960年以降 国連:「World Population Prospects:The 2017 Revision
6.1節の註釈
|
信頼度 |
時期 |
報告者 |
南京特別市 ※ | ||||
|
南京市 |
近郊6県 | ||||||
|
城区 |
郷区 |
南京市計 | |||||
|
安全区 |
安全区外 | ||||||
|
〇:計数対象、-:対象外、?:不明 | |||||||
|
高 |
平常時 1936年6月 |
南京市政府 *1 |
〇 |
15万 (148,557) |
97万 (973,158) |
| |
|
高 |
平常時 1937年3月末 |
首都警察庁 *2 |
〇 |
〇 |
102万 (1,019,667) |
150万超 | |
|
中 |
開戦前 1937年11月23日 |
南京市政府 *3 |
〇 |
? |
50余万 |
| |
|
- |
陥落時 1937年12月初旬 |
田中正明 *4 |
〇 |
? |
? |
12~20万 |
|
|
- |
笠原十九司 *5 |
〇 |
〇 |
? |
40~50万 |
| |
|
低 |
1937年12月17日 |
国際委員会 *6 |
〇 |
- |
- |
20万 |
|
|
低 |
1938年1月14日 |
国際委員会 *7 |
〇 |
- |
- |
25~30万 |
|
|
中 |
事件収束時 1938年3月末 |
スマイス報告 *8 |
〇 |
〇 |
- |
25~27万 |
|
|
高 |
正常化後 1938年8月 |
南京市政府 *9 |
〇 |
〇 |
30万 (308,546) |
| |
※南京特別市の範囲
・城区: 城壁の内部と下関、中華門外などの城壁周辺地域。
・郷区: 郊外にある上新河区、孝陵街区、陵園区、燕子磯区の総称。ほとんどが農村。
・近郊6県: 江寧、句容、溧水、江浦、六合、高淳の6県。
*1 1936年6月 「南京市政府行政統計報告」 洞富雄:「南京大虐殺の証明」、P170
*2 1937年3月末 南京特務機関「南京市政概況」(首都警察庁調べ) 笠原:「南京事件」、P219
*3 笠原:「南京事件」、P220 笠原氏は “南京市(城区)の人口” と書いているが、*2の102万も城区の人口と書いており、郷区を含めた範囲を「城区」と言っている可能性がある。
*4 田中氏は複数の推定値を使っているが、安全区だけのものもあれば範囲が不明なものもある。
*5 笠原氏は「城区」の推定値としているが、*3にも記したように「城区」の範囲が不明確。
*6 国際委員会1937年12月17日付第6号文書 「大残虐事件資料集Ⅱ」、P128
*7 国際委員会1938年1月14日付第19号文書 「大残虐事件資料集Ⅱ」、P143
*8 「南京における戦争被害調査<第1表>」 「大残虐事件資料集Ⅱ」、P251
*9 *1と同じ統計 秦:「南京事件」、P208
註61-2 <安全区外にいた住民>
・マギー牧師が撮影したフィルムの解説書 フィルム3 {この男性の家は南門※の内側にあった。日本兵が12月13日にやってきたとき、かれらはこの男性の2人の兄弟を殺害し、かれの胸を銃剣で刺した。かれは12月27日になってようやく病院に運ばれた} (「ドイツ外交官の見た南京事件」、P171
※「南門」は「中華門」のこと
・ニューヨーク・タイムズ ダーディン記者 1937年12月19日 {安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われる。その死傷者数は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された } (「南京事件資料集Ⅰ」、P423)
註61-3 <日本軍将兵の証言>
・佐藤増次氏の述懐(歩九連隊第一大隊本部先任書記) {市街では住民を見なかったが、大隊本部の宿舎付近の民家の奥には、各家に1、2名の住民が残っており、残した家財を見張っていたようである。 本部の兵が食糧徴発に行って、”奥の方に人が居た”と言っていた} (「証言による南京戦史(8)」、P7)
・戦車第一中隊長・城島赳夫氏が12月13日中山東路を西に向かって進駐したときの様子{ 残留住民は家の奥の方にはいたようであるが、街路両側の民家は戸を締めており静かであった。本道上には障碍物はなかったが、中央ロータリーのところにトーチカ式の銃座があった} (「南京戦史」、P192)
註61-4 <安全区以外の難民キャンプ>
・ラーベの日記(1937年12月23日) {今日、シンバーグが棲霞山(せいかざん)から持ってきてくれた手紙には、棲霞山の1万7千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりをつくしているのだ} (「南京の真実」、P158)
※棲霞山: 南京の北東22kmにある丘 現在は南京市棲霞区
・砲艦比良艦長・土井申二中佐の証言 {そのあたりは宝塔橋街といい、中国軍の軍需物資の基地だったところです。軍需物資がたくさんあり、そのための引込線もありました。難民が保国寺に六、七千人ほどいました} (阿羅健一:「『南京事件』日本人48人の証言」、P255)
※宝塔橋街は、下関の北東、揚子江沿いにある。
註61-5 <<安全区以外の住民・・・ダーディン記者述懐> 「南京事件資料集Ⅰ」、P567-P568
{ 20万人というのは難民区内に集まった難民の数でしょう。他にも市内には大勢の人が残っていました。戸締りをして、みな家に籠っていました。 ・・・ 車で市内を回ったとき、家の中から中国人が出て来るのを見かけましたし、通りを歩いている中国人も何人か見ました。ですから、皆がみな安全区に入ったのではありません。}
註61-6 <冨澤繁信氏による場所別事件数> 冨澤:「安全地帯の記録」、P25
冨澤氏の調査では次のようになっており、1月10日以降は安全区外の事件が増えている。
安全区内 安全区外 合計 第1部(~1/9) 208 18 226 第2部(1/10~) 79 212 291 合計 287 230 517