6.2 東京裁判が捏造?
南京事件は東京裁判まで日本人も世界も知らず、米英中も問題にしなかった、東京裁判で日本の悪逆非道ぶりを示すために、ドイツのホロコーストと並ぶ残虐事件として、伝聞証拠ばかりをかき集めて「南京大虐殺」を連合国が捏造したものである、と否定派は主張する。
証拠の信憑性については6.3節で述べるが、ここでは、誰も知らなかった、問題にもしなかった、という否定派の主張を次の4点に分類してその内容と肯定派の反論を整理した。
(1)南京事件に関する報道は世界でもほとんどない → 6.2.1項
(2)国際連盟や米英も問題にしていない → 6.2.2項
(3)中国でも問題にしていない → 6.2.3項
(4)日本では誰も知らなかった、箝口令など布かれていない → 6.2.4項
図表6.4 東京裁判まで誰も問題にしなかった!?
(1)否定派の主張
つづいて、その他の報道について以下のように述べる。
①ニューヨーク・タイムズ; トップをにぎわしたのはパネー※1号事件で、ダーディン記者のレポートは大ニュースではない。南京虐殺がトップ記事になったことも、社説にとりあげられたこともない。小さな記事は12月から1月にかけて10回あるが、大量殺害記事など皆無である。
②シカゴ・デイリー・ニューズ; 「中国兵退却時の混乱と日本兵侵入時のパニック状態」を報道しており、どっちもどっちといったとらえ方である。
③ロンドン・タイムズ※2; パネー※1号事件は報道しているが、大量殺害も虐殺事件ものっていない。
④サンデー・エキスプレス; 日本に関する報道は、パネー※1号事件、日本の外交方針、アリソン殴打事件だけ。(南京事件の報道はない)
⑤タイム; 南京に触れた記事は3回あるが、いずれも他新聞の記事のダイジェストのようなもので、大虐殺があったとか、日本軍の非人道性を非難するような論説も解説もない。
そして最後にこうしめくくる。
{ 「当時ナンキン・アトローシティとして海外に大センセイションをまき起こし諸外国から非難をあびた・・・」というようなことはないのである。}
※1 パネー(Panay)号・・・パナイ号とも呼ぶ ※2 「ロンドン・タイムズ」は通称で正式名称は「タイムズ」
(2)史実派の反論
笠原十九司氏は「13のウソ」で次のように述べる。
{ 南京事件が当時世界で報道されなかったというウソは、旧内務省警保局「出版警察報」(・・・)を見るだけで見破れる。同書には戦時中、言論・出版の弾圧と統制を仕事にした当局が、南京事件を報道した外国の新聞・雑誌を検閲して発売禁止処分にしたリストが記録されている。つまり、日本当局は、世界の南京事件報道を検閲して税関段階でシャットアウトし、日本国民には見せないようにしていたのである。}(P41)
{ アメリカでは、事件初期に南京で取材していた「ニューヨーク・タイムズ」のF.T.ダーディン、「シカゴ・デイリー・ニューズ」のA.T.スティールの両記者の報道をはじめ、南京事件が多くの新聞・雑誌に報道されていた。また南京安全区国際委員会のジョン・マギー牧師が虐殺の現場を撮影したフィルムを友人のジョージ・フィッチ牧師が密かに持ち出して、アメリカに渡り、政府高官の前をはじめ各地で上映、報告して回っていた。 }(P42)
{ 南京事件と同時に同域で日本の海軍機がアメリカ砲艦パナイ号(・・・)を撃沈するパナイ号事件が発生し、前者はアメリカ国民に日本軍の侵略性、残虐性を印象づけ、後者は日本軍がアメリカに不意打ちの敵対行動をとったという怒りを呼び起こし、両者あいまって対日抗議の日本製品ボイコット運動が展開された。}(P42-P43)
(3)現場からの報道
陥落後に城内に残っていた外国人ジャーナリストは次の5人である。ダーディン(NYタイムズ)、スティール(シカゴ・デイリー・ニューズ)、スミス(ロイター通信)、マクダニエル(AP通信)、メンケン(パラマウント映画)。この5人は12月15日にアメリカの砲艦オアフ号にのって南京を離れ註62-1、上海に移動している。また、ロンドン・タイムズのマクドナルド記者は、パナイ号に乗っていて撃沈され、上海に戻る途中で15日、南京に寄っている。したがって、これらの記者たちが見たのは、6~7週間続いたという南京事件の最初の2~3日でしかなく、事件の全貌は見えていない段階での報道である。
12月16日以降、南京に外国人ジャーナリストはいなくなり、その上、外国人に対しても報道規制が行われるようになった註62-2ため、南京事件に関する報道は限定的になる。
(4)ダーディンの記事は中国軍への非難が主体?
田中氏はダーディンの書いた2つのレポートは、約3分の2以上が中国軍を非難するような内容だ、と述べているが、それは誤りである。
まず、12月18日のレポートの見出しは「捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う」となっている(5.1節に記事の一部あり)。本文は約4800字※、うち約半分が日本軍の虐殺、掠奪、強姦などについて書かれており、中国軍を非難している部分は全体の30%くらいである。
次に1月9日のレポートの見出しは、「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」となっており、1万3千字※を越える長大な記事である。南京攻防戦の経緯を詳しく述べた後、日本軍による暴虐行為や安全区国際委員会の活動などを記している。中国軍を非難している部分は「焼き払いの狂宴」の段落を含めて全体の約20%、日本軍の暴虐ぶりを書いた部分もそれとほぼ同じ分量である。
ダーディンは、自分が南京で見たことをできるだけ客観的に記事にしようとしているようで、中国を非難することに多くを費やしているわけではない。
※「南京事件資料集Ⅰ」に掲載されている日本語への訳文の文字数
(5)その他紙誌の報道
田中氏が取り上げた新聞雑誌のうち次の3紙誌の記事は5.1節に掲載したが、田中氏の主張には一部誤りもあるし、どれも読者が南京事件を知るのに十分な内容である。
(a)シカゴ・デイリー・ニューズ
記事の内容はダーディン記者の記事とほぼ同じで、中国軍を非難する記事もあるが、ダーディン以上に日本軍の暴虐行為に関する記述が多い。{日本軍の略奪はすさまじく、それに先立つ中国軍の略奪はまるで日曜学校のピクニック程度のものであった }(「南京事件資料集Ⅰ」、P467) この文章が象徴するように、「どっちもどっち」などという記事ではない。
(b)ロンドン・タイムズ
田中氏は、大量殺害や虐殺にふれていないと述べるが、見出しには「勝者の蛮行」、「看護婦からの強奪」などと書かれており、{ 兵士だったと思われる若者や多数の警官が一堂に集められて処刑された }(同上、P504-P505) というのはどうみても「大量殺害」である。
(c)タイム
スティール記者の記事を引用しているが、敗残兵狩りを野兎狩りにたとえたり、{「日本軍にとってこれが戦争というものであろうが、私の目には殺人としか映らなかった」 }(同上、P543) など、「虐殺」を訴求している。
(6)欧米での報道状況
図表6.5は「南京事件資料集Ⅰ」に掲載されている米英関連の新聞雑誌記事86件のうち、日本軍の暴虐行為に関する記事31件について記事の量と掲載日を新聞・雑誌ごとに整理したものである。
31件のうち半分の16回は新聞紙面にして4分の1以上を占める大きな記事になっている。(5.1節に一部の新聞の記事あり)
「南京事件資料集Ⅰ」の掲載記事は、全世界の新聞雑誌から網羅的に収集したものでなく、期間も37年9月頃から38年5月頃までである。ロイター、APなどの記事を掲載した新聞雑誌は他にもあるだろうし、38年夏以降東京裁判までの間に特集記事などでとり上げられたものもあろう。
図表6.5 南京事件に関する新聞・雑誌記事(米英関係)
|
|
新聞・雑誌名 |
記事件数 |
記事量※1と掲載年月日 | ||
|
大 |
中 |
小 | |||
|
1 |
ニューヨーク・タイムズ |
7 |
37/12/18 37/12/19 38/1/9 38/1/25 38/1/28 |
38/1/31 |
38/2/9 |
|
2 |
シカゴ・デイリー・ニューズ |
6 |
37/12/17 37/12/18 38/2/3 |
37/12/15 38/2/4 |
38/2/9 |
|
3 |
サウス・チャイナ・モーニング・ポスト |
4 |
38/3/16 |
37/12/25 |
38/2/10 38/2/23 |
|
4 |
タイム |
1 |
|
|
37/2/14 |
|
5 |
(ロンドン)タイムズ |
1 |
37/12/18 |
|
|
|
6 |
チャイナ・ウィークリー・レビュー |
1 |
38/1/1 |
|
|
|
7 |
チャイナ・トゥデイ |
1 |
1938年 |
|
|
|
8 |
チャイナ・フォーラム |
1 |
38/3/19 |
|
|
|
9 |
デイリー・メイル |
1 |
37/12/15 |
|
|
|
10 |
ハンカォ・ヘラルド |
2 |
|
|
38/2/15 38/2/19 |
|
11 |
マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー |
1 |
|
38/2/11 |
|
|
12 |
ライフ |
1 |
38/1/10 |
|
|
|
13 |
ワシントン・ポスト |
3 |
38/1/12 |
38/1/28 |
37/12/17 |
|
14 |
世界日報※2 |
1 |
|
37/12/18 |
|
|
|
合計 |
31件 |
16件 |
7件 |
8件 |
注)「南京事件資料集Ⅰ」に掲載された記事のうち、日本軍の暴虐行為に関連した記事。
※1 記事量 「南京事件資料集Ⅰ」の日本語訳文の文字数から次の基準で分類
大:本文の文字数が約1600字以上のもの(現在の日本の新聞で紙面の1/4以上)
中: 同 約600字以上、1600字以内
小: 同 約600字以内(現在の日本の新聞で2~3段×20行程度の記事)
※2 「世界日報」: サンフランシスコで発行されていた華僑の新聞
(7)中国での報道状況
田中氏は中国での報道にふれていないが、中国でも南京事件は報道されている。大公報註62-3は陥落直後の南京市内の状況を把握できず、英米系の新聞報道ではじめて暴虐行為を知って、12月25日に大きな記事にする。それ以降は、ほとんど連日のように「日本軍の蛮行」を報じ、3回の社説で日本軍を非難している。
また、南京から帰還した人たちの体験談が、新聞雑誌などに掲載されている。ほかに、徐淑希の「南京安全区档案」(1939年)や「日本人の戦争行為」(1938年)などが出版され、1938年1月(又は12月下旬?)には陥落時に南京にいたロイターのスミス記者による講演註62-4も行われている。
図表6.6 南京事件に関する新聞・雑誌記事(中国関係)
|
|
新聞・雑誌名 |
記事件数 |
記事量※1と掲載年月日 | ||
|
大 |
中 |
小 | |||
|
1 |
大公報 |
21 |
37/12/25 38/1/31(説) 38/2/11(説) 38/2/21 38/3/9 38/3/28 |
37/12/25 37/12/28(説) 38/2/13 38/7/21(説) |
37/12/17 37/12/26 37/12/28 38/1/22 38/1/23 38/1/24 38/2/2 38/2/9 38/2/23 38/3/5 38/6/13 |
|
2 |
救国時報 |
1 |
|
38/1/5 |
|
|
3 |
新華日報 |
1 |
|
38/5/30 |
|
|
4 |
チャイナ・プレス |
1 |
|
|
37/12/25 |
|
5 |
ノースチャイナ・デイリー・ニューズ |
4 |
|
|
38/1/9 38/1/25 38/1/27 38/2/8 |
|
|
合計 |
28件 |
6件 |
6件 |
16件 |
(注)チャイナ・プレスとノースチャイナ・デイリー・ニューズは「南京戦史資料集」、他は「南京事件資料集Ⅱ」に掲載されている記事のうち、日本軍の暴虐行為に関連した記事。
※1 記事量は図表6.5と同じ
※2 (説)は社説
(7)まとめ
田中氏は、南京事件を取上げている新聞・雑誌・著作などを、伝聞によるもので信用できない、主題は中国軍の非難である、大量殺害や虐殺事件はのっていない、社説も日本を非難する記事もない、他紙の焼き直し、などと指摘している。既に述べたようにこうした指摘の多くは事実と異なるが、仮に正しいとしてもそれらは読者が南京事件を知ることに何ら障害となるものではない。
田中氏のあげた新聞雑誌はいずれも販売部数の多いもので、それだけでもかなりの読者がいると思われるが、それ以外にも筆者が「南京事件資料集」などで調べただけで、世界の新聞雑誌19紙誌がのべ59回にわたって記事を掲載している。他にも南京事件を扱った新聞雑誌はあるだろうし、著作や講演なども行われている。世界中の少なからぬ人たちが南京事件を知っていたことは間違いない。
(1)否定派の主張
田中氏は、第11と第12の論拠で次のように主張する。(以下、「南京事件の総括」、P90-P95を要約)
(a)「国際連盟も議題にせず」(第11の論拠)
1937年8月13日※1から国際連盟第18回総会が開かれ、支那は北支事変※2を提訴した。つづいてブラッセル会議が開かれ、「日本に抗議する対日宣言文」や「日本の空爆を非難する案」が採択される。このように当時支那は日本の軍事行動をいちいち提訴し、国際連盟は支那の言い分をうけいれて日本への非難決議をそのたびに行っている。翌年1月26日から第100回国際連盟理事会が開かれ「支那を支援する決議案」が可決された。もし、南京アトロシティがあったならば、当然この会議にかけられ、日本非難の決議となったにちがいない。しかるに支那代表顧維鈞によるその提訴すらなかった。としたあと、<編注>として{ 第100回理事会で顧維均中国代表は、採択を前にして「南京で2万人の虐殺と数千の女性への暴行があった」と演説し、国際連盟の「行動を要求」したが、・・・ 採択されなかった。}※3(P93) と述べている。
※2 日本政府は9月2日に「北支事変」の呼称を「支那事変」に変更している。(註62-5)
※3 顧維鈞は日本への制裁を要求する演説の中で南京での虐殺や暴行に触れたが、要求した行動(=制裁)は採択されなかった。(註62-5)
5月9日から開かれた第101回国際連盟理事会で、支那は日本軍の空爆と山東戦線での毒ガス使用を非難する提案註62-6を行い、可決された。すなわち、日本軍の南京空爆の非難や毒ガス使用の非難決議はあっても“南京虐殺”の非難提訴はなかったのである。
(b)「米・英・仏等からの抗議もなし」(第12の論拠)
1938年1月以降、中国の日本に対する非難や抗議が続き、王寵恵(おうちょうけい)外交部長声明、蒋介石声明、国民政府声明、・・・など日本に対する抗議的主張が行われた。しかし、それらの抗議の中に南京事件に関する抗議はまったくない。
中国に多くの権益を持つ米、英、仏等から個別にさまざまな抗議が寄せられ、日本側もその都度謝罪したり、弁償したりしている。しかし、これら3国が共同で抗議したのは、1937年9月22日に行われた南京空爆への抗議だけである。日本軍の空爆、砲撃による南京市民の死者は僅か600人で、そのような被害に対しても抗議しているのに、いわゆる南京アトローシティについては一言半句の抗議もしていない。これは、そのような事件はなかった、なかったから抗議のしようもないわけである。
※なぜか、第11の論拠では「支那」、第12では「中国」を使っている。
(2)史実派の反論 ・・・ 「南京大虐殺否定論13のウソ」、P44-P51を要約
国際連盟や英米などは、9月に都市爆撃の非難、10月に9か国条約や不戦条約に違反しているという決議、11月には中国侵略への非難、などを行った。南京事件という一つの不法事件よりもっと根本的な中国侵略そのものが連盟総会で激しく非難されたことを問題にすることもなく、非難決議に南京虐殺の一行がないと得意然としていう、田中氏の国際感覚のお粗末さには、慄然とする。
1938年前半の欧州は、ドイツがオーストリア併合を行うなど、まさに欧州大戦が今にも勃発しそうな情勢に直面していた。そうした状況において、顧維均代表は国民政府が消滅させられる危機的状態から脱するために、列強からの中国援助と対日経済制裁をいかに引き出すかという国運をかけた大きな問題に忙殺されていたのである。
アメリカの国立公文書館の国務省文書の中には、当時の南京大使館から送信されてきた南京事件に関する膨大な資料が保存されている。「当時の駐日アメリカ大使グルーは南京大虐殺全体に対して日本政府に抗議していない」という否定派がいるが、グルーは南京で日本軍が行なった強姦、殺人、略奪などを文書に記録しており、アリソン事件やアメリカ人財産の掠奪、破壊について強く抗議している。日本政府と外交関係を険悪化させてまで南京事件そのものに全体的に抗議をするのは、グルーの職権を逸脱していた。
(3)各国からの非難等
田中氏の記述には誤りや不明瞭な点があるので、氏がふれていない事象を含めて以下に整理する。
・1937年9月 国際連盟第18回総会; 9月28日に「都市爆撃に対する対日非難決議」を全会一致で可決、10月6日、日本の軍事行動が9か国条約と不戦条約に違反していると判定し、「中国を道義的に支援する」ことを採択。
・1937年10月 米ルーズベルト大統領の「隔離演説」; 日本やドイツを疫病患者にたとえ、平和を守るためにはそれらの「患者を隔離」しなければならないと訴えたが、米国世論の反発をかった。
・1937年11月 ブリュッセル会議(九か国条約会議); 日本の中国侵略を国際法違反であるとして非難、警告する宣言を採択。
・1937年12月 パナイ号事件でアメリカが日本に抗議; 日本が陳謝し、賠償金を支払うことで決着。
・1938年1月 国際連盟第100回理事会; 中国代表の顧維均が侵略の現状を述べ、日本への経済制裁などを要求したが、第18回総会の「道義的支援決議」を再確認しただけだった。
・1938年1月 アリソン事件でアメリカが日本に抗議; 日本が陳謝し、犯人を処罰した。
・1938年5月 国際連盟第101回理事会; 顧維均は中国への武器・資金の支援などを要請したが、毒ガス使用を非難する決議を採択して終わった。
(4)まとめ
田中氏の指摘どおり、米英中は日本の中国侵略については非難したが、南京事件を公式に非難することはなかった。当時の各国の事情は次のようであり、実質的な効果を期待できない抗議や非難の優先順位は下げざるをえなかったのだろう。また、南京は日本軍が占領しており、事件の詳細や全貌が把握できなかったことも影響しているとみられる。
・中国; ひん死の状態にあった中国が求めたのは、自国への物資や資金の援助と日本の制裁であったが、いずれも認められず非難決議だけで終っている。公式の非難はないが、蒋介石の声明や国民党機関紙などで日本軍の暴虐行為を非難している。(6.2.3項(2)(3)参照)
・アメリカ; 37年当時、アメリカはまだ孤立主義の世論が強く、ルーズベルトの隔離演説にも多くの批判が寄せられた。
・イギリス; 欧州ではドイツの不穏な動きが活発化していた。また、イギリスには親日派と反日派の対立があり、日本への対応方針が揺れていた。
犠牲者の規模や事件の全貌は掴めていないものの南京で日本軍の暴虐行為があったことを各国政府は知っており、公式な抗議や非難がないからといって、事件がなかった、ということにはならない。
(1)否定派の主張
田中氏は、第9と第10の論拠で次のように主張する。(以下、「南京事件の総括」、P78-P89を要約)
(a)「何應(応)欽上将の軍事報告」(第9の論拠)
国民党政府で軍政部長(国防相)を務めた何応欽将軍が8年間にわたって全国代表者会議でおこなった軍事報告をまとめた著作がある。1938年春に行った報告で「南京の失陥」の項目があり、そこには南京城攻防戦の模様が記されているが、日本軍の暴虐も“南京虐殺”もどこにも出て来ない。南京に万を越す大虐殺があったというような記録は、中国側の第一級公式史料である何応欽上将の報告にさえその片鱗も見出せない。
(b)「中国共産党の記録にもない」(第10の論拠)
次のような文書において南京事件には触れていない。
・「抗戦中の中国軍事」; 1938年6月20日刊行の第109号で南京の戦闘記録があるが、虐殺は出てこない。
・アグネス・スメドレー著「中国の歌ごゑ」; 著者はコミンテルンメンバー。「南京陥落」の感想は述べているが、虐殺には触れていない。
・1938年夏インド医師団が訪中し中国首脳と会談した時の記録にも出てこない。
台湾の中華民国政府も、北京の中華人民共和国政府も、“南京大屠殺”の合唱をはじめだしたのは、東京裁判や各地でのB,C級戦犯裁判がはじまってからのことである。それまでは南京事件はなかったのである。日本人ばかりでなく、中国人にとっても、南京事件は東京裁判からはじまったのである。
(2)史実派の反論 ・・・ 「南京大虐殺否定論13のウソ」、P60-P71を要約
田中正明氏は、何応欽の報告書や中共の「抗戦中の中国軍事」に虐殺はふれられていない、として虐殺がなかったことの証明にしようとしているが、文書にはそれぞれの対象と目的があり、虐殺にふれていない当時の文献などいくらでもあげられる。
蒋介石は1938年7月7日、「日本に告げる書」を発表している。このなかで、日本軍の放火・略奪・虐殺を非難し、婦女暴行についても糾弾している。南京の名前こそ出していないが、明らかに南京での出来事を念頭に言及している註62-7のである。蒋介石は、1938年1月22日の日記に「倭寇は南京であくなき斬殺と姦淫をくり広げ・・・」と書き、国民党機関紙「中央日報」の1938年12月14日(南京陥落1周年)の記事にも、日本軍が「同胞20万の血を奪った」と記している。
中国共産党の刊行物の中で最も早く南京大虐殺に言及したものは、当時武漢で発行されていた週刊誌「群衆」で、その1938年1月1日発行の「短評」欄に「人類のともに退けるべき敵軍の暴行」と題する文章が掲載され、日本軍の無紀律状態などを指摘している。また、1938年1月8日に創刊された中国共産党の機関紙「新華日報」にも南京事件は掲載されているし、中共の本拠地延安で発行されていた政府機関紙「新中華報」(1938年6月30日)でも百人斬りを含む南京虐殺が述べられている。ただ、延安への情報伝達は遅い上に正確でなかったようで、内容には誤りもある。1938年5~6月に毛沢東が南京虐殺の情報を得ていたかどうかは微妙である。
国民政府は南京陥落後、1938年10月まで武漢(武昌、漢口)に主要機関をおき、そこで日本人向けに日本語放送を行っていた。その放送を日本側が傍受し、内閣情報部が「蒋政権下の抗日デマ放送」と題する極秘資料としてまとめている。1938年3月10日の日本語放送は、「日本軍の蛮行」と題するもので南京の難民から漢口の友人に寄せられた手紙註62-8を放送、そこには南京での日本軍の暴行が記されていた。
(3)ネットでの反論
「南京事件―日中戦争 小さな資料集」というサイトを運営する“ゆう”氏は、田中氏が指摘する資料を丹念に調査した結果を次のように述べている。詳細は下記URLを参照。
・国民政府関係; ここをクリック
・中国共産党関係; ここをクリック
①何応欽上将の軍事報告; 何応欽は自著「中日関係と世界の前途」(1977年)で、{ 南京陥落後の大屠殺で、殺害された市民が十万人以上にも達した}などと述べている。
②蒋介石秘録; { 倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ(1938年1月22日の日記) }
③宋美齢(蒋介石夫人); { 南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺いたしました。 }(宋美齢からアメリカの友人への手紙、「南京事件資料集Ⅰ」)
④中国共産党の週刊誌「群衆」; 上記(2)史実派の反論を参照
⑤アグネス・スメドレー著「中国の歌ごゑ」; { 日本軍が南京を占領すると、彼らはおよそ二十万の市民と非武装兵を殺戮したばかりでなく、病院にまで襲いかかって、戦傷兵、医者、看覆婦などを虐殺した} 田中氏は{南京陥落の感想は述べている・・・}と言っているが、これは「感想」ではない。
(4)まとめ
6.3.3項で北村氏が述べているように、国民党国際宣伝処は1938年春から本格的な活動を開始し、ティンパリーが編集した「What War Means(戦争とは何か)」の中国語版や独自の宣伝本である「日寇暴行実録」などを1938年夏に発刊している。こうした宣伝活動を国民政府や中国共産党の幹部が知らないはずがないのである。
「13のウソ」が述べるように、{ 文書にはそれぞれの対象と目的があり、虐殺にふれていない当時の文献などいくらでもあげられる。これらの文章のなかに南京虐殺がふれられていなかったといって、南京虐殺がなかったことの証明に全然ならないことは、小学生にもわかる道理である。 } (「13のウソ」、P61(一部要約)
(1)否定派の主張
田中氏は第14の論拠で「箝口令など布かれていない」として、「日本国民に知らされなかった」ではなく、無いものを知らせることはできなかっただけ、と言おうとしているようだ。以下「南京事件の総括」、P108-P110を要約する。
(a)「虐殺派」の中には、戦争中、とくに昭和12年末から13年の春にかけて、発禁処分や処罰を受けたものがいるといって、南京事件に箝口令が布かれていたかのごとく言う論者もいるが、それらはことごとく<流言蜚語>に類するもので、流言蜚語取締法に触れたもののリストアップであって、南京事件とは何ら関係ない。
(b)石川達三の「生きている兵隊」が発禁になった理由は、「・・・ 南京攻略参加に至る間の戦闘状況を長編小説に記述したるものなるが、殆んど全頁に渉り誇張的筆致を以て、(イ)わが将兵が自棄的嗜虐的に敵の戦闘員、非戦闘員に対し、ほしいままに殺戮を加うる場面を記載し、著しく惨忍なる感を深からしめ、(ロ)又南方戦線における我軍は掠奪主義を方針としているが如く不利なる事項を暴露的に取扱い、・・・以て厳粛なる皇軍の紀律に疑惑の念を抱かしめた」。 この理由を見てもわかるように、この発禁はあくまで一般的な軍に対する誹謗の規制で、特に南京で起きた何かを隠蔽せんとするものではない。
(c)当時の規制を見ると、パネー号、レディバード号事件の報道が規制されている。このように前もっての規制の外、随時省令などが出されていたが、南京事件の報道についてはこのような陸軍省令、海軍省令、外務省令など全然出されていない。
(d)参戦した将兵の方々に「南京事件にかんして喋ってはいけない、書いてはならぬ、といった箝口令のようなものが上官からありましたか」と聞くと、答えは一様に「とんでもない、なにもありませんよ」という返事だった。同じことを従軍記者の方々にもきいてみた。やはり同様に「全然ありません、ただし自主規制はしていましたがね、これは報道にたずさわる者の常識です」
(2)史実派の反論 ・・・ 「南京大虐殺否定論13のウソ」、P29から引用
{ ・・・ 日中戦争が始まると報道規制は、いっそう強化された。 ・・・ 1937年7月31日には、新聞紙法第27条による陸軍大臣の新聞記事掲載差止命令が発動された。これにより、陸軍関係の記事は、事前にゲラ刷り2部を警視庁および各府県警察部に提出し、そこで検閲を受けて陸軍当局の許可を得たのでなければ掲載できなくなった。海軍の場合も、同様の新聞記事掲載差止命令が8月16日に発動され、陸軍の場合と同じような運用がなされている。
重要なことは、検閲の際の判定基準である「新聞掲載事項許否判定要領」が、「支那兵又は支那人逮捕尋問等の記事写真中虐待の感を与ふる惧あるもの」「惨虐なる写真」などの掲載を禁じていたことである。こうした措置によって、日本軍によって戦争犯罪がなされたことを推測させるような記事や写真を掲載することは不可能になったのである }
(3)郵便長の証言
佐々木元勝野戦郵便長は、「野戦郵便旗」に次のように記録している。
{ 法務部が検閲した手紙1500のうち180通違反がある。その中には便衣隊や俘虜の銃殺を葉書などに書いたのがあるのである。このような事は禁止されているのであるが、俘虜や便衣隊は毎日のようにつかまって、みんなの好奇心をそそるのである。首を斬ったとか、パンパン拳銃で撃ち殺したとか、そんな話が多い } (佐々木元勝:「野戦郵便旗」、P69-P70)
(4)秦郁彦氏が語る“報道規制”
{ ・・・ 小俣行男記者(読売新聞)がいうように、「書いたところで記事にならないうえ、処分されるに決まっていたから、もっぱら“皇軍の勇戦”ぶり」(『侵掠』)しか書けなかったろう。
従軍記者のレポートは、まず出先陸軍報道部の検閲を受け、本社のデスクでチェックされる仕組みになっていた。たとえ紙面にのせてみても、内務省図書課(憲兵が常駐)の検閲にひっかかれば、報道禁止、責任者の処分となるのは目に見えていた。
とくに満州事変以来とみに強化された検閲の実態を知っていれば、前線記者たちが、最初から自己規制してボツにされるのが明らかな原稿を送らなかったことを責めるのは酷かもしれない。それにしても、あえてこのタブーに挑戦する記者が一人もいなかったのは淋しい気もするが、前記の入城式記事を送った今井正剛記者は、朝日新聞南京支局横の広場や夜の下関波止場での機関銃による大量処刑を目撃しながら筆にできなかった辛い心情を、次のように回想している。
「書きたいなぁ」
「いつの日にかね。まぁ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」
「いやもう一度見ようや。この目で」
そういって二人は腰をあげた。いつの間にか、機銃音が断えていたからだ。(『特集・文藝春秋-私はそこにいた』昭和31年) } (秦:「南京事件」、P17-P18)
(5)石川達三「生きている兵隊」と報道規制
「生きている兵隊」については5.1節で紹介しているが、その“解説”に相当するところで半藤一利氏は次のように述べている。
{ いま読めば、とりわけ反戦小説とか、反軍小説と言うわけでもないことが分かる。べつに皇軍内部の非人道的な残虐・不法を暴き立てているわけではない。内部告発なんかではないのである。 ・・・
戦闘のなかで人間性を失っていく兵隊の心理と行動とが、次々に抉り出されていく。その回想によれば、「くわしく事実を取材し、それをもとにして、たとえば殺人の場面などには正当な理由を書きくわえるようにした」というし、また検閲を考慮して「作中の事件や場所はみな正確である」というのである。軍はこれを読み、むしろ猛反省すべきときであったのに、それどころか臭いものに蓋の無謀を敢えてしたのである。なぜなら、忌まわしき南京事件が背景にあったればこそ、「生きている兵隊」を抹殺しなければならなかったから。彼らの側からすれば、この作品は「軍人を人間として書いた」ゆえに発禁なのである。 ・・・
こうして「生きている兵隊」以後、裏返して言えば、軍のタブーはより明確になったという。すなわち日本軍の敗戦、必然の罪悪行為、作戦の全容、部隊の編成と部隊名、人間としての軍人、これらは絶対に書いてはならない。そして大いに書くべきは「敵を嫌らしく憎々しく」なのである} (石川達三:「生きている兵隊」 <『生きている兵隊』の時代 解説に代えて 半藤一利>、P209-P212)
なお、発禁の理由などいかようにもつけられることは、諸兄ご承知のとおりである。
(6)まとめ 本題の「日本では誰も知らなかった!?」について、偕行社の加登川幸太郎氏が、「証言による南京戦史」の最終回で述べていることを紹介してこの項のまとめとしたい。 { 筆者【加登川氏】は48年昔のこの事件のあった頃、陸軍大学校の学生であったが、すでに南京戦線である種の「不法行為」の行われたことを耳にしていた。大学校の学生の耳にも洩れてくるほどこの問題は軍中央部を悩ましたのであったのだ。従っていわゆる「南京事件」については日本軍が「シロ」であったとは、筆者は初めから認識していない。 ・・・ 畝本君も、証言された従軍将兵の方々も「自分の部隊に関する限り」非行の事実はなかった、事実無根であると確信されての発言であることに疑いを入れない。だが、これを全軍としてまとめて見る場合、戦争という異常事態の場で、「不法行為がゼロであった」という戦場が古住今来、どこかにあったであろうか。 ・・・} (「証言による南京戦史」(最終回)、P9)
東京裁判史観という言葉が最近よく使われる。学術的な意味はないようだが、東京裁判で“立証”された日本の戦前のしくみや体制が悪だとする考え方に反発して、それらを肯定的にみる歴史認識を示すようだが、その歴史観に沿って、例えば満州事変から太平洋戦争開戦にいたる史実を具体的かつ体系的に整理されたものを見たことはない。 東京裁判は「勝者による裁判」であることは間違いなく、収集された資料は連合国に都合の悪い資料が隠蔽されたり、偽証・捏造の類も多少は紛れ込んでいたりする。一方で、東京裁判で採用されなかった史料や、終戦時に日本側が焼却してしまった史料のなかに証拠能力の高いものもあったに違いない。その中には「コミンテルン陰謀説」のように「東京裁判史観」を否定する人たちにとって信じたくなるものもあるが、学術的にみればそれらは憶測の域を出ていない(8.1節(3)参照)。戦後、世界中の歴史学者が現代史を研究するなかで、現在我々が知っている歴史認識を大幅に変えなければならない事実は出てきていないのである。 それでも、櫻井よしこ氏の次のような言葉に魅せられる人たちが多くなっているようだ。 { いまこそ重要なのは、喪われた国家の再生である。私たちの国は、現代史においてどのような足跡を残してきたのか、父祖の世代がしてきたこと、してこなかったことを見詰めることである。それは、敗戦国日本を裁く東京及び南京の法廷で、どれほどの不条理が法の名の下で行われたかを知ることから始まる。 ・・・ 「南京事件」の真実を知ったとき私たちは初めて、私たちの心を重く塞いできた澱のような自己嫌悪や罪悪感を振り払うことが出来るだろう。事実を把握したからには、私達は自信を持って、物言わぬ政府に物を言うよう要望することが出来るはずだ。日本として主張すべき点を、国民を代表して政府に主張させることが、必ず、出来るだろう。そのとき初めて日本国の名誉は回復され、いわれなき汚名を着せられた幾多の人々の魂も癒される。 ・・・ } (「南京事件の総括」、P252 <解説>) 日暮(ひぐらし)吉延氏は次のように述べる。 { 東京裁判の欠陥をあげつらったら、それこそ、きりがない。しかし欠陥を理由に裁判を否定したところで、現在の日本の利益にはならない。むしろ戦争責任問題は日本のパワーを損なう。それゆえ東京裁判で指導者を裁かれ、BC級裁判では「4855名」(厚生省援護局編「引揚げと援護30年の歩み」)が裁かれたという犠牲の事実を、卑屈にならず、また自虐的になるでもなく、ただ毅然と対外的に示すべきだと考える。 ・・・ 「東京裁判をもっと冷静に考えよう」ということである。残念ながら、いまなお日本における東京裁判論は、そこから始めなければならない。} (日暮吉延:「東京裁判」、P393)
6.2節の註釈
註62-1 <ダーディンが南京を離れた理由> F・T・ダーディンからの聞き書き(1) 南京事件資料集Ⅰ、P561{ ―ところで、あなたが南京を離れなければならなかった理由は。
南京を離れたのは南京からニュースを送る手立てがなかったからです。すでに南京攻略戦も終わったわけですから、それ以上南京に留まる理由がなかったのです。 ・・・
―日本軍から圧力のようなものはありませんでしたか。
私が南京を離れる時は、日本軍部の圧力はありませんでした。ジャーナリストはニュースが記事にならないことには仕様がありません。とにかく、私の特種記事を送信する無線が必要だったのです。
それでも、もしそこに留まってさらに取材を続けた場合、じゃまだてがあったかもしれません。日本軍は、南京でおきている虐殺行為を世界に知られないようにせねばと気づき始めていました。私は日本軍の圧力なしに南京を離れましたが、もし留まっていたなら、そうしたことがおこったかもしれません }
註62-2 <外国人に対する報道規制>
当時、南京では外国人に対しても厳しい検閲が行われていた。それを裏付ける証言がある。
(a)ティンパレーに対する検閲
ティンパレーは「戦争とは何か」の序文で次のように述べている。
{ 昨年12月南京を占領した日本軍が中国市民に対して行った暴行を報ずる電報が、上海電報局の日本側電報検閲官にさしおさえられるという事実がなかったならば、おそらくこの本が書かれることはなかったであろう。こうして削除され、あるいは不完全なものになった電文の中には、著者が「マンチェスター・ガーディアン」紙に打電しようとした電報がいくつかはいっていた} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P20)
(b)ラーベへの脅迫
ラーベは帰国が決まったあとの2月10日の日記に次のように書いている。
{ 昨日の夕方、福井氏※が訪ねてきた。昨日、日本大使館に会いにいったのだが、会えなかったのだ。なんと、氏は脅しをかけてきた。「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」 ・・・ 「それならばどう言えばいいんですか?」私が聞くと福井氏は言った。「ラーベさんの良識に任せます」 「つまり、報道陣にこう言えばいいんですね。南京の状況は日に日によくなっています。ですから、日本軍兵士の恥ずべき残酷な行為についてこれ以上報道しないでください。そんなことをすると、日本人と我々の不協和音をますます大きくしてしまうだけですから、と」 すると非常に満足そうな答えが返ってきた。「それでけっこうです!」 ・・・ }(ジョン・ラーベ:「南京の真実」、P274-P275)
※福井氏:日本大使館の福井淳総領事代理
註62-3 <大公報> 「南京事件資料集Ⅱ」、P6 ・・・ 註51-1と同じ
{ 大公報は、1902年に天津で創刊された新聞で、南京国民政府成立後は、基本的には国民政府を支持する立場をとりながらも、不偏不党の看板をかかげて、ブルジョアジー、小ブルジョアジー、知識人の支持を受けた。 ・・・ 日本軍の圧迫を避けるために1935年末に上海に支社を開設して上海版を発行しはじめ、日中全面戦争勃発後は、漢口で、ついて重慶で発行をつづけた。本書に収録した記事は漢口で発行されていたときのものである }
註62-4 <ロイター スミス記者の講演>
講演が行われた場所や日時は不明だが、1938年1月6日付のドイツの駐華大使トラウトマンから、ドイツ外務省(ベルリン)宛ての文書に次のように書かれている。
{ ドイツ通信社の代表から入手した、南京陥落前後に生起した出来事に関する、ロイターの南京通信員スミス氏の報告の抜粋を同封する。この報告によると、当地で一大センセーションとなった日本軍部隊のふるまいに関する報道は、誇張されたものではないようだ} (「ドイツ外交官の見た南京事件」、P43)
註62-5 <田中正明氏の史実認識誤り>
「13のウソ」によれば、田中氏は次のような誤りを犯している。
・1937年8月から開かれていた国際連盟総会 → 開催は9月13日から
・支那は北支事変を提訴 → 1937年9月2日に「支那事変」に改称
また、次の箇所は分りにくいので補足する。
第100回国際連盟理事会の決議について田中氏は、本文で「支那を支援する決議案が可決された」と述べ、その後<編注>で「顧維均代表は採択を前にして「南京で2万人の虐殺と数千の女性への暴行があった」と演説し、国際連盟の“行動を要求”したが、 ・・・ 採択されなかった」と述べている。顧維均が要求した“行動”は、日本への制裁であったが、理事会が決議したのは「道義的支援」であり、顧維均にとっては満足のいくものではなかった。 顧維鈞は、南京での虐殺や暴行に対する非難決議などを要求したのではなく、日本への制裁行動を要求する中で南京事件にふれたのである。顧維均の演説は次のURL(ここをクリック)を参照。
註62-6 <第101回国際連盟理事会における中国の提案> 伊香俊哉:「日中戦争と国際連盟の安全保障機能 1937-1938」、自然人間社会 28, 51-89, 2000-01-31、P75-P76
伊香氏によれば、第101回理事会で中国が提案したのは、中国への支援と毒ガス使用の非難であり、空爆への非難は提案していない。
{ ・・・ 翌(5月)11日、顧維鈞はハリファックス※に対して、中国支援の措置として、1.中国の領土防衛における努力を理事会が承認すること、2.中国への貿易と輸送手段の維持を理事会が連盟国に勧告すること、3.中国を武器・資金の供与により支援することを理事会が勧告すること、4.日本の毒ガス使用に対して理事会が厳重な注意を払うこと、という内容を示した。イギリスは結局、第1、第4点を認めることとし、理事会が5月14日に採択した決議は、中国が日本の侵入により脅威されたその独立及領土保全の維持のために行っている果敢な努力に同情を表した上で、毒ガスの使用は「国際法上非議」された戦争手段であり、もしこれを実施するならば文明諸国の排斥を受けるであろうと日本の毒ガス使用の疑いに警告を与えた。}
※ハリファックス: 当時のイギリス外相
註62-7 <蒋介石の「日本に告げる書」> 「13のウソ」、P63-P64
{ ・・・すべての国際条約と人類の正義は貴国の中国侵略軍によって乱暴に踏みにじられてしまった。そのうえ、一地区が占領されるごとに放火・略奪の後、遠くに避難できないわが無辜の人民及び負傷兵に対し、そのつど大規模な虐殺をおこなった。(中略)
とりわけ私が口にするのも耐えられないが、言わざるをえない一事は、すなわちわが婦女同胞に対する暴行である。10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一堂に並べ強姦してから斬殺した。・・・ }
註62-8 <国民政府の日本語放送(1938/3/10)> 「13のウソ」、P69-P70
{ 南京の難民から漢口の友人に最近寄せられた手紙によるとして、「私は昨年日本軍が南京に侵入した時から種々日本軍の暴行を受けました、日本軍は12日朝南京に入城しましたが、我々難民中1万は殺され4千は捕へられ又食ふに食がなく餓死するもの一日500名に上る有様であります」 ・・・ }