6.3 証言や証拠の信憑性(1)

証言や証拠は伝聞や憶測によるものばかりで目撃者はいない、これも20万人云々と同様によく聞かれる否定論である。こうした主張の対象になっているのは、次のような外国人の証言や記録である。

・東京裁判におけるベイツやマギーら安全区国際委員会メンバーの証言

・国際委員会が日本大使館などに提出した文書を集めた「南京安全区档案(南京安全地帯の記録)」

・ベイツとフィッチの日記やメモなどをもとに作成されたティンパリーの「戦争とは何か」

日本人の証言や記録が対象になることは少ないが、否定論にとって不都合なものは「伝聞、憶測」を持ち出すときもある。

証拠が改ざんや偽造されているという主張については、6.4節で述べる         

              図表6.7 信憑性のない証言や証拠!?

 

 

6.3.1 伝聞や憶測ばかり

(1)否定派の主張

の項ではマギー牧師の証言と福田外交官の証言の2つの否定論について述べる。

(a)安全区国際委員会のマギー牧師は、東京裁判で多くの殺人があったことを証言したが、そのうち現場を目撃したのは1件だけ、と述べた。国際委員会がリストアップした事件のほとんどは同様に伝聞や憶測にもとづくものである、というのがよく使われる否定論である。

(b)田中氏は、第4の論拠「国際委員会の日軍犯罪統計」で、当時、外交官補だった福田篤泰氏が次のように回想しているという。

{ 当時ぼくは役目がら毎日のように国際委員会の事務所へでかけていた。そこには、中国の青年が次から次へと駆けこんでくる。『いまどこどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している』、・・・その訴えをマギー神父とかフィッチなど3,4人が、どんどんタイプしていく。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されてもこまる』といくども注意した、時に私は彼らをつれて強姦や略奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。
ある朝、アメリカの副領事から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで勝手に盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で、雪の降るなかを下関へ駆けつけた。朝の9時頃である。現場についてみると、人の子一人おらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。『困るね、こういうことでは!』とぼくも厳しく注意したが、とにかく、こんな訴えが連日山のように来た」 } (「南京事件の総括」、P39-P40

田中氏は「南京安全区档案」について、「国際委員会が抗議した425件63-1の日本軍非行の中には、非行でもなんでもない事件もあり、前述のように伝聞、噂話、憶測が大部分である」 (同上、P43という。

(2)史実派の反論 ・・・ 「南京大虐殺否定論13のウソ」、P189-P194を要約

マギーは東京裁判の法廷で2日間にわたり、南京で目撃、見聞したことを証言した。これに対してブルックス弁護人から次のような反対尋問が行われた。

ブルックス弁護人: 「マギー証人、それでは只今お話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身いくらくらいご覧になりましたか」

マギー証人: 「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」

マギーが目撃した事件をマギーは次のように証言している。(一部要約)

{ 中国人が私の家の前を歩いていました。それを日本の軍人が後ろから誰何しました。中国人は非常に驚いて歩行を早めて逃げ去ろうとし、その先にある角を曲がろうとしましたが、そこには竹垣があって行き詰まりになったため、逃げることができませんでした。日本の兵隊はそれを追いかけ、そして殺したのです。まるで彼らは何事もなかったように煙草をふかしながら去って行きました }

渡部昇一氏はこの市民の被害がなぜ虐殺にあたるのかと述べているが、この場面は中国人が日本兵に危害を加えようとしたものでないし、武器でも秘匿したゲリラ兵と認定されたわけでもない、間違いなく一般市民を不法殺害した事例である。

マギー証言の信憑性が高い理由を箇条書きにする。

①他の殺害の殺害場面だけは伝聞であるが、連行されている場面や殺害後の現場は自分で目撃しており、証言内容も具体的で前後の事実の流れも自然で、信憑性は高い。

②ウェッブ裁判長もマギー証言の信憑性を認め、ブルックス弁護人に対して「あなたはあまりにも小さいことを質問なさっていると思います・・・」と注意している。

③彼自身が撮影したフィルムや他の国際委員たちの手紙、ラーベの日記などと照合してみてもその信憑性は証明される。

証言の信憑性は他の多くの証言や資料と比較・照合してその信憑性を検証するのが学問的方法であるが、否定派はマギー証言の断片だけを切り取り、殺害や強姦の瞬間を目撃しなければ「伝聞」であって事実として認定できないという暴論を平然と主張する。

(3)ネットでの反論

「13のウソ」では福田氏の証言については述べていない。6.2.3項で紹介した“ゆう”氏は、福田氏の証言について次のように評価する。

①福田氏の回想を記録した文書は5件ほどあり、それぞれ内容に微妙な差がある。そのうち「南京事件の総括」のものは、他の文書をベースに田中氏が自分でインタビューした内容を加えて修正したものと思われる。

②「いま ・・・ 女の子を輪姦している」との訴えが来ているのに、のんびりとタイプを打っているのは不自然、「女の子云々」の前書きなしに単にタイプしている、という文書もある。

③国際委員会のメンバーを伴っての「現場検証」も田中氏がベースにした文書にはあるが、それが記述されていない文書もある。国際委員会の文書にこうした「現場検証」を行った記録はない。

④次の「材木盗難」の事例は内容が具体的で事実と認定できるが、これは「副領事」の申し入れに関するものであり、国際委員会とは無関係である。

⑤スマイスは東京裁判の宣誓口供書で、報告書を提出する前に関係者に会うなどして的確に報告されていると思う事件だけを報告していた、と述べている。

国際委員会が、不意に駆け込んできた得体の知れない証言者の訴えをそのまま「抗議」の材料としたとは考えにくく、スマイスなどが、証言者の資質、具体的な証言内容などを総合的に判断して最終的な「事実認定」を行った、と見た方が妥当なようだ。 詳細は こちらを参照 

(4)まとめ

“ゆう” 氏は、マギーの証言についても詳しく調べ、直接目撃した以外の事件も被害者本人または被害者の妻や夫などから状況を聞いたり、現場に足を運んだりしていることを確認している。 (詳細は こちらを参照

 ”ゆう” 氏の指摘((3)①)のように、田中氏が聞きとったという福田氏の“証言”の内容にあやしい部分もあるし、福田氏本人も事件から相当の時間がたってからのことなので記憶があいまいになっているところもあろう。福田氏の回想だけで「国際委員会が抗議した425件は伝聞、噂話、憶測が大部分で信用できない」と結論づけるのは飛躍しすぎている。

国際委員会が作成した「南京安全区档案」では、最初の事件リストを報告した1937年12月16日提出の第8号文書で、スマイスは文書の冒頭と末尾で調査済みであることの念押しをしている。

冒頭(注)以下のものは私どもが綿密に調べる時間を持てた事例に過ぎず、私どもの担当者にはもっと多くの事例が報告されています。 【末 これらの事例は国際委員会の外国人委員または職員により確認済みであります。} (「安全地帯の記録」、P151,P153

国際委員会の証言や記録は、伝聞といっても風説や風聞などと違い、被害者本人や被害者に近い人からのものであったり、自分で事件現場を見にいったりして確認しておりその信頼度は高いといえよう。

伝聞がすべてニセ情報とは限らないし、目撃したから正しい、というわけでないことは、最近もてはやされている“クチコミ情報”の信頼度を見れば明らかであろう。

 

6.3.2 目撃者のいない大虐殺!?

(1)否定派の主張

田中氏は、第3の論拠と第15の論拠で次のように述べる。

(a)「累々たる死体など見た者はいない」(第3の論拠) ・・・ 「南京事件の総括」、P33-P37を要約

紅卍会の許伝音副会長は東京裁判で、「・・・私は屍体が到るところに横たわって居るのを見ましたが・・・」と証言、多くの証人が南京城内は「累々たる死体の山」で横町も大通りも屍体で埋まり、「道路には二条の血の河が流れ」「流血は膝を没し」「死体を積み上げ、その上を自動車が走っていた」などと証言した。だが、南京に入城した幾万の将兵も、将兵と共に入城した百数十名の新聞記者やカメラマン、評論家もだれ一人こんな状況は見ていないのである。

ベイツは城内で1万2千人の男女及び子供が殺された、というが、東京日日新聞の若梅、村上両記者はそんな状況を見たとはいっていないし、世田谷区の5分の4ほどの狭い市街に1万2千もの屍骸がゴロゴロしていたならば、あちこち死体だらけで、屍臭は尋常でないはず。

歩23連隊の坂本※1大隊長は14日に中華門から入城したが死体はほとんどなかった、第10軍参謀谷田勇氏は14日午後に下関で約千人※2ほどの戦死体を見た、朝日の近藤記者、報知の二村カメラマン、などはそれほど多くの死体は見なかった、と証言している。

※1 原文の「証言による南京戦史」では“坂元” ※2 原文(同左)では、「千体以上の通常人の死体」

(b)「目撃者のいない“大虐殺”」(第15の論拠) ・・・ 「南京事件の総括」、P110-P125 を要約

日本の新聞記者など120人が占領と同時に南京城に入城したが、「朝日」の今井正剛記者、「東京日日新聞」で「百人斬り」の記事を書いた鈴木二郎記者を除くほかは、一人として婦女子の虐殺や一般市民および捕虜の大量殺害などは見ていないのである。読売新聞の上海特派員だった原四朗氏はこう述べている。「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ケ月後のこと。当時、軍による箝口令がしかれていたわけではない。なぜ、今ごろこんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった。また中国軍の宣伝工作だろう、というのが大方の意見だった」 以降、同じような証言を2~3件紹介している。

つづいて、阿羅健一氏の著書「南京事件 日本人48人の証言」のうち17人の証言のエッセンスを紹介したあと、最後に「多くの従軍記者やカメラマン、作家、詩人などが口を揃えて言うごとく、「南京大虐殺」などということは、東京裁判がはじまるまで、見たことも聞いたこともない事件だったのである」としめくくっている。

(2)史実派の反論

「南京大虐殺否定論 13のウソ」ではこの否定論に触れていない。

(3)大量の死体の目撃者

大量の死体は、北部の下関や挹江門周辺、西部の漢中門などで多数の人に目撃されている。大量の死体を見ていない、と証言した人たちは城内を見て言っている人が多いようだが、紅卍会の記録によれば城内で収容された遺体は4、758体(図表4.23)で、城外北部や西部に較べると4分の1から3分の1くらいしかなく、しかもそれらは池や山林、空き家など目立ちにくい所にあったようだ。

(a)北部(下関、挹江門周辺)での目撃者例

下関の死体は13日の戦闘によるものと、城内で摘出した敗残兵を“処刑”したものの両方があり、挹江門の死体の大部分は陥落時に中国軍の督戦隊が自軍の兵士を射殺したものと思われる。

・NYタイムズのダーディン記者やシカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者は、下関での数百人の殺害とそこにはすでに大量の死体があったことを新聞記事にしている。(5.1節参照)

・海軍軍医大佐 秦山弘道氏の従軍日誌; { やがて挹江門に到るや、高く聳ゆる石門のアーチ形なる通路は、高さの約3分の1は土に埋れて、これを潜るには下関側より坂をなす。徐(おもむ)ろに進む自動車は、空気を充満せるゴム袋の上に乗れるが如く、緩やかなる衝動を感じつつ軌るあり。これ、車が無数の敵屍体の埋もれる上に乗れるなりと、さもあるべし。土の総薄きところを進むに、忽ちにして土の中より肉片の沁み出づるあり } (「証言による南京戦史」(10)、P32

・ほかに、佐々木元勝野戦郵便長、第10軍参謀 吉永朴少佐、上海派遣軍 岡田酉次少佐、上海派遣軍参謀 大西一大尉、松井軍司令官付 岡田尚氏、海軍従軍画家 住谷盤根氏、その他多数の目撃証言がある。(証言内容は63-2を参照)

(b)西部(漢中門)での目撃事例

・ベイツは、漢中門外に3000人の死体があったことをクレーガーが目撃し、埋葬隊が確認したことを「戦争とは何か」に記録している63-3

・歩20連隊(16師団)の牧原信夫上等兵は12月27日の日記に漢中門外に5~600の死体が放置されていたことを記している。

(注)クレーガーが目撃したのは1月上旬で、この死体は12月24日からの兵民分離によって敗残兵とみなされた人たちのものと思われ、分離作業が進むにつれて死体が増えていったものと思われる。

(c)城内の死体

ラーベは、ヒットラーへの上申書で次のように述べている。

{ 処刑が行われたのは、揚子江の岸か街の空地、あるいは南京におよそ3千ある小さな沼のそばでした。これらの沼はみな、程度の差はあっても投げ込まれた死体で汚染されています。 ・・・ 紅卍会を通じて、私たちはひとつの沼から124体もの死体を引き上げました。どれもが紐あるいは電線で縛られていたので、一目で処刑されたのだとわかりました} (「南京の真実」、P359  

(4)目撃者はいない? ・・・ 阿羅健一:「南京事件 日本人48人の証言」の分析

田中氏は阿羅氏の上記の本に掲載された多くの証言を引いて「目撃者はいない」と述べている。阿羅氏は統計的手法により調査したわけではないし、(5)で述べるように回答者の思いには複雑なものがあっただろうから、この調査結果をもって“虐殺”があったかどうかを結論づけるのは無理がある。とはいえ、48人がどのような回答をしたのかをまとめたのが図表6.8である。(グラフの元データは63-4を参照)

過半数の人が「“虐殺”はなかったと回答しているが、面談した37人のうちで捕虜殺害を見た人が5人、聞いた人が9人もいる。グラフではわからないが、「“虐殺”はなかった」と明言した人のうち2人は捕虜殺害を目撃、別の2人は聞いた、と回答していることに留意したい。

  図表6.8 「南京事件 日本人48人の証言」の分析

注1)48人のうち面談したのは37人で残り11人は手紙による回答になっている。

注2)グラフ1,2 虐殺があったということですが・・・ 虐殺を見たり聞いたりしましたか? といった質問(面談相手により質問が異なる)に対する回答

 「なかった」: なかった、見たり聞いたりしたことはなかった、と明確に回答した人

 「回答せず」: 質問に対して有り無しを明確にしなかった人

 「あった」: そのようものは(わずかだが)あった/聞いた/見た、と回答した人

注3)グラフ3,4 面談した人だけを対象に、捕虜殺害と市民への強姦・強盗(掠奪)を見聞したかどうかをどのように述べているか、を集計した。

注4)グラフ中の数字は回答者数。

(5)48人の証言の信頼度

(a)立場による証言の違い

証言はその人の立場によって異なる。秦氏は、「阿羅氏は兵士の証言はカットした、と述べているが、外交官、報道関係者などは現場に立ち会うことは少なく、将校は口が固く、クロの状況を語るのは応召の兵士が大多数である。その兵士も郷土の戦友会組織などから口止めされている場合はいいよどむ」63-5と述べている。

(b)なぜ、捕虜殺害を目撃した人が、「虐殺はなかった」と回答したのか?

「虐殺は見ていません」と回答した報知新聞の二村カメラマンは、次のように述べている。

{ 捕虜とて何をするかわかりませんからね。また、戦争では捕虜を連れて行く訳にはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います } (「南京事件 日本人48人の証言」、P80

この証言のように「戦争だからしかたがない」と語っている人が多数いる。当時、最前線にいた将兵の気持ちを素直に代弁しているのだろう。捕虜殺害を見たり聞いたりしてもそれが不法かどうかにかかわらず、「戦争につきもの」のことであり、「“虐殺”はなかった」と認識して当然なのである。

(b)「“虐殺”はあった」と回答することの重さ

阿羅氏がヒアリングした人の中には、捕虜殺害や市民への暴行を見たり聞いたりしなかった人もたくさんいるだろう。特に数日間しか滞在していない人はそうした行為を見聞していない可能性は高い。一方で、実際にはそれらしいことを見たり聞いたりしているのに「ない」と回答したり、有り無しを明言しなかった人も少なくないだろう。“30万虐殺”という言葉に抵抗感を持ったり、上記のように「戦争だからしかたない」と考えたり、集団や地域への帰属意識の高さから関係者に迷惑をかけたくないと思ったり、「なかった」と主張している人たちから脅迫めいた苦情を受けることへの不安、加害者という事実を認めることへの生理的な拒絶反応、・・・ そうした複雑な思いが回答した方々にはあったのではないだろうか。これは、回答した方々を責めているのでは決してない、ということを念のため申し添えておく。

(6)まとめ

大量の死体や捕虜殺害の現場を目撃した人は、ここで紹介した人以外にもたくさんいるし、捕虜殺害に加わった兵士たちの証言もあることは4章を見ていただければわかる。また、掠奪(強奪)や強姦は犯罪行為であることを誰もが知っているので、犯行は隠れて行っているはずなのに、現場を見たという証言も少なからずある。

人間には見たくない現実から目を背けようという力が無意識に働くことは否めない。さらに、事件から数十年もたっており、記憶の薄れやヒアリング時の立場などにも影響されることを考慮すべきであろう。

6.3.3 ティンパリーは中国の宣伝工作員!?

(1)否定派の主張

ティンパリーは国民党宣伝部の顧問であり、宣伝部の依頼で作成した「戦争とは何か」は中国の宣伝文書にすぎない、と北村氏は述べる。(以下、「南京事件の探求」、P27-P52を要約)

・「戦争とは何か」の出版元はイギリスのゴランツ書店で、一般に販売するとともに「レフト・ブック・クラブ」の叢書として出版されている。レフト・ブック・クラブは左翼知識人の団体であり、その背後には共産党やコミンテルンの影があった。

「近代来華外国人名辞典」に次のような記述があった。「TimperleyHarod John、オーストラリア人、第一次大戦後来華、ロイター社駐北京記者、後マンチェスター・ガーディアン及びUP駐北京記者、1937年盧溝橋事件後、国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」。

世界の常識では、新聞記者の仕事はその性質上、情報工作(諜報といってよい)と容易に関係してしまう。情報工作者が身元を秘すのは世界の常識で、南京や東京の裁判にティンパリー自身が姿を現わさなかったのも説明がつく。

宣伝部の国際宣伝処長だった曾虚白は自伝で、ティンパリーとの接近について次のようにいう。「ティンパリーは我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に「抗戦委員会」に参加していた3人の重要人物のうちの一人だった。彼が(南京から)上海に到着すると我々は直ちに彼と連絡をとった。彼に香港から飛行機で漢口にきてもらい、直接に会ってすべてを相談した。我々は目下の国際宣伝において中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパリー本人とティンパリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、発行することを決定した。2つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」

ティンパリーもスマイスも、単なる「正義感に燃えた第三者」ではない。その記述には国民党の外交戦略に「奉仕する部分」が存在しているはずである。

「戦争とは何か」の序文でティンパリーがこの本を書くことにした動機をイギリスへの記事送信を日本軍に邪魔されたこと、と書いているが、航空便や無電などで記事を送ることもできたはずで、意図的に悶着をおこそうとした感がある。

北村氏は、ティンパリーが国民党の片棒をかついでいるかのように述べているが、別の章では次のようにも述べている。{ ティンパリーの“What War Means”など代表的な国民党の戦時対外刊行物には、予想に反し事実のあからさまな脚色は見いだせなかった。残虐行為や個人的正義感に基づく非難は見られるが、概ねフェアーな記述であると考えてよいのではないか。} (同上P123-P124

(2)史実派の反論    

以下は、笠原十九司・吉田裕編:「現代歴史学と南京事件」の第8章で井上久士氏が述べる反論である。P245-P252を要約)

国際宣伝処が設置されたのは、1935年12月だが、本格的に活動を始めたのは1938年2月である。曾虚白はその処長であったが、それから半世紀もたって書かれた自伝は、自伝によくある自分の過去の活動への自画自賛や記憶違いが存在していると見てよい。

ティンパリーが南京から上海に来た、というのは誤り(南京に滞在する外国人リストにのっていない)、金を渡してティンパリーやスマイスに本を書かせたというのも誤りで、自分の手柄を大きく見せたかったのであろう。

・「中央宣伝部国際宣伝処27年度工作報告」には、「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた2冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した。その後、彼が書いた「日軍暴行紀実」とスマイスの「南京戦禍写真」の2冊は、大いにはやりベストセラーになって宣伝目的を果たした」とあり、ティンパリーが編集した原稿を買い取ったのである。

北村氏はティンパリーの著書の内容はご都合主義で書き換えたりしていないことを自ら認めており、ティンパリーを「情報工作者」で怪しげな人物であるという議論の根拠はなくなる。

ティンパリーが国際宣伝処の顧問であったことは間違いないが、顧問に就任した時期は「盧溝橋事変後」とあるだけで、「事変後」が必ずしも「直後」を意味するものではなく、ある研究者(文俊雄)はその時期を1938年7月と述べている。

(3)東中野修道:「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」

東中野氏のこの本も国民党中央宣伝部国際宣伝処がティンパリーなどを使って「宣伝本」を作った、と主張している。東中野氏が「発見」した「極秘文書」は「中央宣伝部国際宣伝処工作概要1938年~1941年4月」である。しかし、その内容は既に北村氏が明らかにした「曾虚白自伝」や「中央宣伝部国際宣伝処27年度工作報告」などと同じで、目新しい事実はない。

この本で東中野氏は「戦争とは何か」だけでなく、安全区国際委員会の記録やラ-べの日記が事実と異なる内容であることを証明しようとしているが、内容は「南京虐殺の徹底検証」や「再現 南京戦」などで書いていることを多少ブラシュアップしたものに過ぎず、「伝聞にすぎない、目撃していない、中国人のしわざ、ささいな相違がある、・・・」等、偏った憶測や誤った事実認定によるもので、合理的な説明にはほど遠い。また、曾虚白はスマイス報告も「宣伝本」のひとつであるかのように述べているが、東中野氏はスマイス報告にはふれていない。

笠原氏は「南京事件論争史」で次のようにこの本を批判している。

{ 同書の第一のトリックは、国民政府中央宣伝部顧問であったティンパレーが書いた「戦争とは何か」が南京大虐殺説の源流を作り、それが東京裁判で歴史事実とされた、という話にある。しかし、・・・ 南京事件を世界に発信したのは、アメリカ、ドイツ、イギリスなどの外交官であり、東京裁判で国際検察局が証拠として重視したのもこれらの外交文書であった。
同書の第二のトリックは、「戦争とは何か」を書いたときティンパレーはまだ国民党政府中央宣伝部顧問ではなかったことである。したがって東中野が強調するティンパレー編著「戦争とは何か」は中国国民党中央宣伝部が製作した宣伝本という説は成立しない。} (笠原十九司:「南京事件論争史」、P257-P258

(4)まとめ ・・・ アスキュー・デイヴィッド(David Askew)氏の書評

アスキュー氏は、オーストラリア人の歴史家で立命館アジア太平洋大学准教授、北村氏との親交もある。北村氏の「南京事件の探求」の英訳版についての書評論文註63-6を引用してまとめとしたい。

まず、北村氏の研究姿勢について、{ 北村自身は、方法論的には中間派でありながら、心情的にはまぼろし派である、と自認するであろう。心情が方法論によって抑えられている間は問題ないが、最近の北村の南京論では、心情に方法論の方が押されている印象を受ける }と述べる。

そして、本題の書評のうちティンパリーに関する部分は以下のとおりである。

{ ティンパリーと宣伝処とのつながりを考えると、ティンパリーは確かに裏表のある人物であったと認めざるをえない。しかし、同時に、次の点も強調して然るべきであろう。つまり、北村は『戦争とは何か』を編集・出版するにあたって、ティンパリーの動機がいわば不純であったことを巧みに明示しているが、この不純な動機の産物が、これまた眉唾ものであることは論証していない。不純な動機を有する者が、にもかかわらず、真実を物語ることも、また純白な動機を有する者が不本意ながら、偽りを口にすることも十二分にありうる。 ・・・ 換言すれば、南京アトローシティを検証する際、ティンパリーに関して問題視されなければならないのは、本人の精神的な動機云々では断じてなく、むしろその主張の内容の妥当性に他ならない。}

 


 

                    

  


6.3節の註釈 

63-1  <国際委員会が抗議した425件>

425件という数字がどのような数字なのかは不明。「南京安全区档案」の事件リストは事件番号1から444まであるが、46件は抜けている。うち7件は「大残虐事件資料集Ⅱ」にあるが、残りは中国版「ラーベの日記」にある。(以上、4.6.1項参照)

63-2  <下関周辺での死体目撃者>

・佐々木元勝野戦郵便長; { 【南京下関の江岸には掃蕩せられた敗残兵の死骸が累々として道路と岸壁の下と水打際に折重なっている。いかなる凄惨もこれには及ばない} (「野戦郵便旗」(上),P222

・第10軍参謀吉永朴少佐; { 揚子江の埠頭下関に相当数数千の中国軍人の死体が水浸しになっていました } (「南京事件 日本人48人の証言」、P166

・上海派遣軍参謀大西一大尉; { 挹江門に行ったときは死体でいっぱいだった。17日か18日に下関に行ったが、揚子江には相当死体があった } (「南京事件 日本人48人の証言」、P185

・松井軍司令官付岡田尚氏; { 下関には松井大将と一緒に行きました。・・・相当の死骸が残っていました。松井大将も私もそれを見ています } (「南京事件 日本人48人の証言」、P198

・海軍従軍画家住谷盤根氏; {下関の埠頭の突端に鉄の柵があり、・・・ここに4~5人ずつ並べて後ろから銃剣で突いて落としていました。日本兵は20人ほどで中国兵は1000人弱いました。・・・翌朝、行ってみると死屍累々で800人ほどの死体がありました。(「南京事件 日本人48人の証言」、P276

63-3  <漢中門での死体目撃>  

「戦争とは何か」第3章約束と現実(ベイツの記録) (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P46-P47

{ 中国赤十字の責任者の一人は、われわれが漢中門外に行って、多数の死体があるのを視察するよう要請した。国際委員会のクレーガー氏は城門の外へ早朝に出てみたところ、その途中でこれらの死体を自分の目で見たと私にいった。しかし、城壁の上からは見えなかったそうである。その門は今封鎖されている。埋葬隊はその地点には3000遺体があったと報告しているが、それらは大量死刑執行の後、そのままに列をなして、あるいは積み重ねたまま放置されていた }

牧原信夫日記(歩20連隊第3機関銃中隊・上等兵)  (「南京戦史資料集Ⅰ」、P515

{ 12月27日 ・・・ 漢中門を出た所には5、6百の死体が真っ黒に焼かれて折り重なって居た。或は黄い皮が到る所むけ見苦しい状態で散乱して居た。大きな橋を通過し更に進む。道の到る所に遺棄死体が転っていた。 ・・・ }

63-4  <「南京事件 日本人48人の証言」回答データ

(1)面談での回答者

 No.

所属(事件当時)、氏名

“虐殺”

有無

目撃有無

記事

捕虜殺害

強姦強奪

1

大阪朝日新聞 山本治 上海支局員

×

×

×

 

2

東京朝日新聞 足立和雄 記者

×

 

3

東京朝日新聞 橋本登美三郎 支局次長

×

×

×

 

4

東京日日新聞 金沢喜雄 カメラマン

×

×

×

 

5

東京日日新聞 佐藤振寿 カメラマン

×

×

※1

6

大阪毎日新聞 五島広作 記者

×

×

×

 

7

東京日日新聞 鈴木二郎 記者

×

 

8

報知新聞 二村次郎 カメラマン

×

×

※2

9

報知新聞 田口利介 記者

×

×

×

 

10

読売新聞 樋口哲雄 撮影技師

×

×

×

 

11

読売新聞 森博 カメラマン

 

12

同盟通信 新井正義

×

※3

13

同盟通信 浅井達三 カメラマン

×

 

14

同盟通信 細波孝 無電技師

×

 

15

新愛知新聞 南正義

×

×

×

 

16

福岡日々新聞 三苫幹之介 記者

×

×

×

 

17

都新聞 小池秋羊 記者

 

18

福島民報 箭内正五郎 記者

×

×

×

 

19

10軍参謀 吉永朴 少佐

×

×

×

 

20

上海派遣軍特務部員 岡田酉次 少佐

×

×

 

21

上海派遣軍参謀 大西一 大尉

×

×

 

22

松井軍司令官付き 岡田尚 氏

×

 

23

10軍参謀 谷田勇 大佐

×

 

24

10軍参謀 金子倫介 大尉

×

×

×

 

25

企画院事務官 岡田芳政 氏

×

×

×

 

26

参謀本部庶務課長 諌山春樹 大佐

×

×

×

 

27

軍務局軍事課 大槻章 少佐

×

×

×

 

28

野砲兵第22連隊長 三国直福 大佐

×

×

×

 

29

砲艦勢多艦長 寺崎隆治 少佐

×

×

×

 

30

砲艦比良艦長 土井申二 中佐

×

×

×

 

31

上海海軍武官府報道担当 重村実 大尉

×

 

32

第2連合航空隊参謀 源田実 少佐

×

×

×

 

33

海軍従軍絵画通信員 住谷盤根 氏

×

×

※4

34

外務省情報部カメラマン 渡辺義雄 氏

 

35

陸軍報道班員 小堀次一 氏

×

×

×

 

36

領事館補 岩井英一 氏

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×

×

 

37

領事館補 粕谷孝夫 氏

×

×

×

 

(凡例) No.欄が網掛けされているのは、田中正明「南京事件の総括」で証言の一部を引用した人。 

      ”虐殺”有無の欄; 〇: あった 、 △: 回答せず 、 ×: なかった

      目撃有無の欄;  〇: 見た 、 △: 聞いた 、 ×: 見聞なし  

※1 佐藤氏は「南京戦史資料集Ⅱ」で、「88師営庭で百人くらいの敗残兵が無抵抗のまま殺害されているのを見た」、「写真を撮っていたら殺されていたよ」と述べている。阿羅氏のヒアリングでは、これを「戦闘行為の続きでしょう」と回答している。

※2 二村氏は、「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れていかれるのを見た」と述べている。

※3 新井氏は、「虐殺が全然なかったとはいえないが20万とかはありえない」と述べた後、「虐殺というのは東京裁判で初めて聞いた」と述べ、気持ちが揺れているようにみえる。

※4 住谷氏は、下関で捕虜を銃剣で殺すのを見て「とてもまともには見ていられない」と述べている。

(2)手紙での回答者 ・・・  東京日日新聞 浅海記者以外は、“虐殺”はなかった、と回答

中支那方面軍参謀 吉川猛少佐、第10軍参謀 寺田雅雄中佐、第10軍参謀 仙頭俊三大尉

侍従武官 五島光蔵中佐、上海憲兵隊 岡村適三大尉、

同盟通信 堀川武夫記者、朝日新聞 藤本亀記者、東京日日新聞 浅海一男記者

大阪毎日新聞 西野源記者、西本願寺 大谷光照法主、従軍作家 石川達三氏

註63-5  <誰が証言するか・・・>  秦郁彦:「昭和史の謎を追う(上)」、P181-P182

{  【阿羅健一氏の】 「数千人の生存者がいると思われる兵士たちの証言は、すべて集めることは不可能だし、その一部だけにすると恣意的になりがちだ。そのため、残念ながらそれらは最初からカットした」という釈明には仰天した。
筆者【=秦氏】の経験では、将校は概して口が固く、報道・外交関係者は現場に立ち会う例は稀で、クロの情況を語ったり、日記やメモを提供するのは、応召の兵士が大多数である。その兵士も郷土の戦友会組織に属し口止め指令が行きわたっている場合は、言いよどむ傾向があった。
・・・ 難民区の便衣狩り作戦( ・・・ )を調査するため、実行に当った金沢歩兵第7連隊の生存者に当ったときも、戦友会経由だったせいか、なかなか率直な証言がとれず困惑した。しかし、その一人がこっそり筆者に教えてくれた他県在住の兵士二人と会え、虐殺の生々しい光景を記した日記と証言を得ることができた。 ・・・ その結果、阿羅の本は「虐殺というようなことはなかったと思います」、「見たことはない、聞いたこともなかった」、「聞いたことがないので答えようもない」式の証言ばかりがずらりと並ぶ奇観を呈している。 ・・・ }

註63-6  <アスキュー・デイヴィッドの論文> 「書評 南京アトロシティ研究の国際化-Kitamura Minoru, The Politics of Nanjing: An Impartial Investigation の検証」、2008年10月 

The Politics of Nanjing: An Impartial Investigation は、アスキュー氏本人の日本語訳によると『南京の政治学――非党派的検証』であるが、基本的に北村稔:「南京事件の探求」に多少加筆した英訳本。アスキュー氏は北村氏との関係についてこの論文の冒頭で、{ 北村が同僚であり、南京をめぐる共同研究プロジェクトに共に従事してきた }と述べている。