6.4 証言や証拠の信憑性(2)
この節では南京事件の存在を示す記録や写真などが改竄や偽造されたものだ、という否定論について述べる。
図表6.9 証言や証拠は改竄、偽造ばかり!?
(1)東中野氏の指摘
東中野修道氏は「南京虐殺の徹底検証」(以下、「徹底検証」と略す)の付章「改めて『ラーベ日記』を読む」において、ラーベの日記(平野卿子訳:「南京の真実」)を批判している。「南京の真実」はラーベが現地で書いた日記を直接訳したものではなく、2~3段階の編集を経た結果を翻訳したもの(図表6.11参照)なので、この間に本人または編集者により改竄された恐れがあるのではないか、というのが東中野氏の指摘である。
付章は見出しのついた15コの段落で構成される註64-1が、4コは日記の批判ではなく、6コは「反日攪乱工作隊」(6.7.1項)に関するものである。ここでは残りの5コについてコメントする。
ⅰ)「日本軍の行う合法的な処刑」という注釈がない!
(a)東中野氏の主張 (「徹底検証」、P383-P384を要約)
ラーベの日記(1月9日): { 11時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった「小規模の」死刑について報告した。 ・・・ 山西路にある池のなかに中国人(民間人)を追いこみ、 ・・・ 男が水中に沈むまで発砲し続けた。}
これと同じ記述がティンパリーの「戦争とは何か」と徐淑希の「南京安全区档案」などにあり、ラーベの言う「死刑」は「日本軍の行う合法的な処刑」であると注記されているが、ラーベの日記にはそれがない。ラーベは合法的な処刑を非合法な虐殺と暗示したのである。
(b)反論
以下は「南京安全区档案」の注記の文面である。(「戦争とは何か」も同様)
{ (注)我々は日本軍による適法な処刑について抗議する権利はないが、これは確かに非能率で残酷な方法で行われている。また、このような処刑方法は、我々がこれまで日本大使館員達との個人的なやりとりで、何度も言ってきたような問題を引き起こすのである。つまり、安全地帯内の池で人を殺すのは、池の水を汚染し、そのため地帯内の住民への給水源が深刻に減少をきたすのである。・・・} (「安全地帯の記録」、P240)
これは、国際委員会が日本大使館に対して「池の水を汚さないで欲しい」と申し入れている文書であり、日記になくて当然である。また、「適法な処刑」は「抗議する権利はない」をさす目的語で、この事件が適法だとは言っていない。
ⅱ)私的日記と公的文書の落差
(a)東中野氏の主張 (「徹底検証」、P385-P386を要約)
ラーベの日記(12月11日): { 榴弾が落ちた。福昌飯店の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者(略)さらにもう一発、榴弾(こんどは中学校)。死者13人。}
「流れ弾による破壊は実にわずかであった」。そう、明記するのは、ほかならぬラーベの署名する国際委員会9号文書である。市民が流れ弾で死んだのであればこのように言えなかったから、ラーベの言う死者とは兵士のことなのである。肝心要のことが省略されていた。
(b)反論
9号文書には次のように記されており、日記とは異なる目的で流れ弾の被害を述べている。
{ そこ【安全区】では流れ弾の砲弾による被害は殆どなかったし、 ・・・ 日常生活を平穏裡に続けさせる舞台は貴方達のためにしっかりとでき上がっていた。・・・この時本市に滞在していた西洋人27人全てと中国人住民は14日、貴国兵士達が到るところで行った強盗、強奪、殺人の横行に全く驚かされたのであった。}(「安全地帯の記録」、P157-P158)
9号文書が言いたいのは、「流れ弾による損害は少なく、日本軍の暴行さえなければ平穏な日常生活を継続することができた」ということであり、死傷者が市民かどうかは問題にしていない。この文章だけで「死者は兵士」と断定するのは論理の飛躍である。
ⅲ)過度に脚色されたラーベ日記の矛盾
(a)東中野氏の主張 (「徹底検証」、P386-P388を要約)
ラーベの日記(12月13日): { 我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。・・・}
「たくさんの市民の死体が転がっていた」とあるが、支那軍正規兵は敗戦の際は軍服を脱ぎ捨て平服を纏っていた上、逃げようとする友軍兵士を督戦隊が背後から撃っていた。また、市民のほぼすべては安全区内にいたと言っているので、中山北路と上海路の交差する戦場に市民がいるはずはなかった。 死体は撃たれて死んだ兵士の死体だった。
(b)反論
メインストリート(中山北路)から右折して上海路に入ったところは難民がたくさんいる安全区の中である(図表6.10参照)。東中野氏は何か勘違いしているのではないか。
ⅳ)ラーベ自身の露骨な改竄
(a)東中野氏の主張 (「徹底検証」、P386-P388を要約)
ラーベの日記(12月13日): { ・・・上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて我々に日本人司令官は、2日後に来るといった。・・・}
ヒトラー宛上申書: { 自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司令官は3日たたないと到着しないということでした。中国の民間人の死体がそこここにありました。いくつか調べてみたところ、至近距離から背中を撃たれているのがわかりました。たぶん逃げようとするところだったのでしょう。}
日記では、日本人司令官は2日後に来ると軍医が言っているのに、上申書では自転車に乗った前哨が3日後になる、と食い違っている。また、至近距離から背中を撃たれている、は日記には書かれていない。これはラーベ自身による露骨な改竄、即ち拡大宣伝であった。
(b)反論
6.2.3項で紹介した“ゆう”氏は、ラーベに同行したスマイスの手紙などとも照合して12月13日の行動を調査している。 詳細はこちらを参照。
ここでは“ゆう”氏の調査を参考にして、日本軍に出会うまでのラーベらの動きを地図(図表6.10)にしるした。①~④は図表6.10の同じ番号に対応する。
①12月13日昼前後、日本軍が進出した、との情報を受けて、ラーベ、スマイスらは日本軍と接触を持とうと、メインストリート(中山北路)から上海路経由で出発した。
②「神学校」(おそらく、「金陵女子神学院」)付近で、20体程度の市民の死体があることを発見した。ラーベとは別行動をしていたフィッチがこの殺害を目撃しており、「日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民20人を殺した」(「大残虐事件資料集Ⅱ」、P30 <戦争とは何か>)
③安全区の南の境である漢中路に達した時、「自転車に乗った日本兵」に出会った。その日本兵から、新街口(漢中路と中山路の交差点)に「将校」がいる、と言われた。
④新街口に近い漢中路の南側(安全区と反対側)に、100名ほどの日本人部隊がいた。そこで「将校」(隊長)に対して「安全区」のことを説明した。
図表6.10 12月13日のラーベらの動き
日記と上申書の違いは上記経緯を知れば容易に説明できる。総司令官の来るのが2日後と3日後に別れているのは前者が新街口で会った軍医から聞いたもので後者は「自転車に乗った日本兵」から聞いたもの、「至近距離から背中を撃たれて」はフィッチの情報であろう。
日記はプライベートな記録だが、上申書は南京の惨状を訴求するための文書だから、内容や表現に差が出るのは当然である。
ⅴ)目撃してもいない作り話がヒットラーへの上申書に!
(a)東中野氏の主張 (「徹底検証」、P388-P389を要約)
次のようなことは日記には書いていないのにヒットラーの上申書には書いてある。これを一般に捏造と言うのではあるまいか。
①元兵士の疑いをかけられ(略)何千人もの人が、機関銃あるいは手榴弾で殺されました。
②ガソリンをかけられ、生きながら火をつけられた。
③下は8歳から上は70歳を越える女性が暴行され(略)局部にビール瓶や竹が突刺され散る女性の死体もありました。これらの犠牲者を私はこの目で見た。
④住民の半数がペストにかかって死んだのではないでしょうか。
(b)反論
①12月16日の日記に次のような記述があり、同様の兵士連行は12月13日、12月15日にも記されている。{ 武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。 ・・・ いたるところで処刑が行われている。}(「南京の真実」、P136-P137)
②2月7日{ ・・・犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。}(「南京の真実」、P269)
③2月3日{ 局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人でさえ、なんども暴行されているのだ。}(「南京の真実」、P254)
④東中野氏は何を考えているのかわからないが、住民はペストで死んでいない。{ 健康状態はともかくまずまずでした。この点に関しては、なによりまず、南京が比較的寒かったおかげです。そうでなければ、住民の半数がペストにかかって死んだのではないでしょうか。}(「南京の真実」、P345-P346<ヒットラーへの上申書>)
(2)ラーベの日記の問題点
日本で発刊されているラーベの日記は、平野卿子訳:「南京の真実」(講談社/講談社文庫)であるが、この本については誤訳など、多くの批判がある。以下、大阪府立大学の永田喜嗣氏の論文「ジョン・ラーベ『南京の真実』試論」(人間社会学研究集録7(2012年2月刊行)から、問題点などを要約する。
①ラーベの日記の系譜
図表6.11は永田氏の論文をもとにしてラーベの日記の系譜を図解したものである。ラーベは持ち帰った日記や資料から「南京空爆」を編集し、それをもとにラーベ家に滞在した経験があり外交官で歴史家のエルヴィン・ヴィッケルトにより編集された版をもとにして出版されているものが多いが、中国語版「拉貝日記」だけがオリジナルの「南京空爆」を翻訳している。 図表6.11 ラーベの日記の系譜
②訳語の適切さの問題
・ドイツ語; Der Generalissimo hat dem Komitee 100000 Dollar zur Verfügung gestellt.
・英語; The generalissimo has placed 100,000 dollars at the committee’s disposal.
・中国語; 最高統帥向委員会提供了10万元経費
・日本語; 蒋介石は委員会に10万ドルの寄付を申し出た。
{ 原文の主語は「Der Generalissimo」で、「大元帥」「大総帥」「総統」などを意味する言葉だが、国民党の総統を意味しているものだと分かる。英語版、中国語版も原文に倣った表現に訳している。しかし、日本語版のように主語を「蒋介石」としてしまうと、蒋介石、個人の行為のようにも理解できてしまう。} (上記論文、P228-P229 <要約>)
③原版→編集→翻訳による弊害
・ドイツ語; Um 10 Uhr früh erhalten wir den Besuch des Marineleutnants Sekiguchi. Wir geben ihm Kopien unserer Briefe an den Oberkomamndierenden der japanischen Armee.
・英語; At 10 a..m. we are paid a visit by naval Lieutenant Sekiguchi. We give him copies of the letters we have sent to the commanders of japanese army.
・中国語; 上午10 点,日本海军少尉关口来访,他向我们转达了海军“势多”号炮舰舰长和舰队军官的问候。我们把致日本军最高司令官的信函副本交给了他。
・日本語; 朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
{ 原文をそのまま訳したと思われる中国語版を日本語に訳すと、「朝の十時、関口海軍少尉の来訪を受ける。少尉は我々に砲艦「勢多」艦長および艦の士官からの挨拶状を渡した、我々は少尉に日本陸軍最高司令官へ送った手紙の写しを渡した」となり、日本語訳では、「挨拶状を渡した」という訪問理由がなくなっている。これはドイツ語版、英語版にもないので、ヴィッケルト版で落ちているのであろう。また、「関口海軍少尉」が「関口鉱造少尉」となっているが、関口氏が海軍士官であることがわからなくなり、原文にはない「鉱造」が追加されてしまっている。} (上記論文、P229-P230 <要約>)
④永田氏のまとめ
{ ラーベ日記は超一級資料であることは間違いない。 ・・・ しかし、本論で見てきたとおり、日本で出版された『南京の真実』はあまりにも貧弱で問題も多い。おそらく「論争攻防戦」の道具には成りえなかったばかりか、逆にその欠陥部分が無駄な論争の火種を撒いたりさえする。ジョン・ラーベの日記は本来、史料として残したものではなく、個人の日記であった。南京攻略前夜から陥落、日本軍の占領まで、その場で起こったことを目の当たりにしてきた一人の人間の赤裸々な記録である。 ・・・
『南京大屠殺史料集』等の中国側翻訳史料出版物の翻訳の的確さと慎重さは評価に値するものであることも確認できた。日本での「南京事件論争」という内戦を一日も早く終結させ、加害国としての研究を被害国中国と変わらぬ高度な研究の成果として纏め後世に残すことが肝要であると思う。 ・・・ } (上記論文、P233)
(補足)残念ながら、前述の東中野氏の指摘は永田氏が懸念するレベルのものではない。
(1)否定派の主張 田中氏は、第7の論拠で次のように述べる。・・・ 「南京事件の総括」、P66-P73を要約 東京裁判で弁護側は、「埋葬記録は10年もたってから想像で作ったもの、死体発見場所からみてもこれらの死体は戦死者、1日当たり埋葬者数が不自然に増加している期間がある、雨花台等日本軍が清掃した地域にこのような多くの死体が存在するはずがない、女・子供の数字が不自然」、など誰しもが持つであろう疑問を反論している。 南京市政府行政統計報告などによれば、崇善堂の事業内容に葬儀や埋葬は含まれていない。南京日本商工会議所の資料では、崇善堂が本格的な活動を再開したのは1938年9月から、となっている。以上により、崇善堂の膨大な死体埋葬はまったく架空である。 また、紅卍会の埋葬記録で12月28日に6466とだけ記入されているが、1938年4月16日の大阪朝日新聞が「城内で1793体、城外で3万0311体収容と報道しており、この約6千体は紅卍会の水増しである。洞氏はこの6千体は揚子江に水葬したのを隠すため、と言っているが、「証言・南京大虐殺」には12月28日「城内各地で納棺、中華門外普徳寺6468とあり、矛盾している。 以下を付言する。 ⅰ)埋葬死体のほとんどは、中国軍の戦死者である ⅱ)南京にはおびただしい数の傷病兵が南京に後送されてきた。死体にはこれら傷病兵も含まれる。 (2)史実派の反論 ・・・ 「13のウソ」、P120-P137を要約 東京裁判に提出された遺体埋葬記録は、当時の記録文書そのものではなく、戦後裁判のために整理し直されたものである。紅卍会の楊登瀛氏によれば、死体収容・埋葬記録は日寇に没収されてしまったが、紅卍会と崇善堂は当時の資料の一部をひそかに保存していたので、それをもとに埋葬記録を整理しなおしたということである。 紅卍会は道院という新興宗教の社会事業団体で1922年に設立され、200余りの支部と300余万の信徒を有していた。当時、南京の道院の会長は陶錫三で、「南京市自治委員会」の会長でもあった。 紅卍会の埋葬については、南京特務機関の同年3月の報告に、3月15日現在で城内1793体、城外で29,998体を収容した、とある。紅卍会の記録によれば3月15日時点で城内は上記数字と同じ、城外は35,099体で5000体ほど多いが、これは魚雷営の腐乱死体を後で補足したためとみられる。 また、南京市自治委員会を引き継いだ「督辦南京市政公署社会処」に同年8月下旬、紅卍会が提出した調査表には4万と少しの遺体を埋葬、と記されており、これも埋葬記録とほぼ一致する。 崇善堂は、中国に近代以前からあった「善堂」とよばれる慈善団体のひとつであった。1938年2月6日付けで崇善堂の周一漁堂長が「南京市自治委員会」に宛てた書簡によれば、38年初めに埋葬隊が組織され、自動車も保有していたことがわかる。他にも崇善堂が埋葬活動を行っていた記録はある。 崇善堂の場合、簡単に埋められた遺体が風雨で露出しはじめているので、それらを別な場所に移すか、その場に土を盛って塚をつくるというやり方が多かったようで、そのために大量の遺体を埋葬できたのかもしれないが、埋葬遺体数の記録には厳密さを欠くところがあったように思う。崇善堂についての記述が南京特務機関の報告などに出て来ないことも事実である。しかし、彼らが埋葬作業を行い、相当の遺体を埋葬したことは疑いないことである。 (3)東中野氏の主張 東中野氏は紅卍会の埋葬について次の2点を主張するが、いずれも史実派は否定している。 (a)紅卍会が埋葬を開始したのは2月1日からで、それ以前の埋葬記録は水増しの偽造である。その根拠は、満鉄社員で南京特務機関の一員として出向した丸山進氏が、埋葬は「2月初め」から始まったと証言したこと、及びラーベが1月31日の日記に「わが家の前にうちすてられていた中国兵の死体がようやく埋葬された」と書いていることである。また、東中野氏は丸山氏の「紅卍会に3月15日までに埋葬を完了するよう指示した」という証言と、紅卍会の埋葬記録が3月15日から減ることから、埋葬完了は3月19日、と断定し、1日平均の埋葬量×作業日数で埋葬数を計算し、多くても1万3千~1万5千体、と結論付ける。 (「南京虐殺の徹底検証」、P302、P306、P314ーP316) →史実派の反論; 南京特務機関の38年2月の報告には「紅卍会屍体埋葬隊(隊員約600名)は、1月上旬来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当り2月末現在に於て約5千に達する死体を埋葬し・・・」とあり、丸山氏の回想にも「概ね2月初めから始め」とあるだけで、1月末まで埋葬を許可しなかった、とは言っていない。 (「13のウソ」、P128-P129) (b)1996年2月24日、NHKスペシャル「映像の世紀⑪JAPAN」で放映された「アメリカのニュース映画1938年1月」に紅卍会が出てくるが、その一コマはニセモノであった。服の腹の部分に白地に大きく卍と描いた人物が登場するが、朱友漁は「卍が全作業員の腕章や救援隊の隊旗に描かれていて」と述べているのと異なる。 →史実派の反論; 紅卍会の埋葬班長だった高端玉氏は「埋葬に従事した者は上着かベストを着ており、上着の胸と背中には卍の字があった。上着が間に合わないものは腕章をしるしにしている者もいた」と述べており、胸に卍が書かれているのが普通だった。 (「13のウソ」、P130-P131) (4)まとめ 4.7.5項でも述べたが、崇善堂の埋葬記録によれば、4月の埋葬量は約10万体にのぼる。2月、3月が2500体ほどなので異状に増加している。また、収容場所は南部・東部・西部であるが、この方面での大規模な捕虜などの殺害は、日本側記録で最も多い笠原氏の推定でも2万2千余註64-2、中国側の証言でも3万9千註64-2ほどしかない。大半が戦死としても戦死者数は、多く見積っている研究者でも南京周辺全域で3万しかない。崇善堂が埋葬作業をしたのは事実であろうが、埋葬記録には不審な点が多い、と言わざるをえない。 紅卍会について、田中氏が指摘する6466体を史実派は説明しきれていないが、こうした不審点が多少はあるものの、合計4万余体の埋葬は、概ね信頼できる記録ではないだろうか。ラーベは2月15日の日記に、{ 紅卍会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。}(「南京の真実」、P291) と書いているが、紅卍会の記録によれば2月11日までの埋葬者数は約1万5千(上記6466体含む)なので、総埋葬量4万3千と概ね一致する。 田中氏は、何の根拠もなく「ほとんどの死体は中国軍の戦死者であった」というが、軍服を着用していない遺体を戦死者と断定するのは無理があろう。ベイツは次のように述べている。{ 埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約30パーセントはかつて兵隊になったことのない人々である} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P47 <戦争とは何か>) この話は上記ラーベの日記と同様に紅卍会から聞いたものと思われる。 田中氏が主張する「傷病兵の遺体も含まれる」はその通りであるが、どのくらいかはわからない註64-3。 (1)否定派の主張 東中野修道氏は著書「南京事件 証拠写真を検証する」において、次のように主張する。 関連写真を延べ3万点以上見たなかから、南京大虐殺の証拠として使われている写真を143枚取り出し、それらの写真が南京大虐殺の証拠として適切なのかどうか、検証した。(同書、P17<要約>) 証拠写真の源流となっている70枚※の写真は次のような写真だった。 ①いつ、どこで、誰が撮影したものか不明の写真がほとんど。 ②撮影者の明確な写真であっても、演出と思われる写真や改竄された写真であった。 ③場所が南京であることが明確な写真はほとんどなく、南京を占領した冬にそぐわない写真が多い ④30万人虐殺というのに、大量虐殺を示す写真は1枚もなく、虐殺を恐れる市民の表情を伝える写真は1枚もなかった。 (同書、P128<要約>) ※東中野氏は143枚の写真を3つに分け、その最初の区分で1938年夏に発刊された2つの書籍に掲載された写真70枚(重複を除くと64枚)を「源流」と称して分析している。2つ目の区分は、戦後に発行された書籍に掲載されたもの51枚、3つ目は撮影者がはっきりしているもの28枚、を「検証」している。(図表6.12参照) 次の3点を結論とする。 ①南京での大量虐殺や強姦などを裏付ける「証拠写真」は1枚もなかった。 ②今日、流布する南京大虐殺の「証拠写真」なるものは、ティンパリー編「外人目撃中の日軍暴行」※と国民政府軍事委員会政治部編「日寇暴行実録」の2冊を源流としていた。この2冊に抗戦用写真として掲載された写真は、収集・盗作・ないしは撮影工作されたプロパガンダ写真であった。 ※中国語で『外人目睹中之日軍暴行』 “What War Means”(戦争とは何か)の中国語訳 ③この2冊をもとに中国共産党の新たな情報戦が1970年代から始まった。共産党の時代になっても写真の修正などは「日常茶飯事」になった。 (同書、P236-P238<要約>) (2)史実派の反論 笠原十九司氏は「南京大虐殺否定論13のウソ」で次のように述べる。笠原氏は著書「南京事件」で写真を誤用し、否定派などから激しい攻撃を受けた。 { 私が「南京事件」の章扉に掲載した写真は、「日寇暴行実録」に収録されていた写真で、オリジナルは朝日新聞のカメラマンが撮影したもの[キャプション(説明文)は「我が兵士に護られて部落へ帰る女子供の群」]だった。・・・私はこの写真に「日本兵に拉致される中国人女性たち」というキャプションを付して掲載した。その時点で国民政府が抗日プロパガンダに悪用したものであることを見抜けなかったことを反省し、反省文を雑誌に掲載し、誤用した写真は差し替えた} (「13のウソ、P221-P222) 日本の従軍カメラマンたちが、殺害場面を目撃しても撮影しなかった最大の理由は、当時「新聞掲載事項許否判定要領」に基づく厳しい陸軍の検閲制度があったからである。「我軍に不利なる記事写真」は掲載不可であり、「我軍に有利なるヤラセ写真」は掲載できた。安全区国際委員のマッカラムはヤラセ写真の撮影場面をこう日記に書いている。「1938年1月9日――難民キャンプの入口に新聞記者が数名やってきて、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は1枚も撮らなかった」 (同上、P225-P227<要約>) 次のような写真は撮影者と場所などが特定でき、証拠写真としての信頼性が高い。 ・村瀬守保氏; 兵站自動車第17中隊の兵士で非公式の写真班を務めていた氏は、戦火の直後をまわって、比較的自由に撮影でき、軍部の検閲も受けなかった。南京での集団虐殺現場の生々しい写真もある。戦後、「村瀬守保写真集」を出版している。 ・シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者; カメラをもって撮影したが、日本軍に気づかれないよう背後あるいは遠くからそっと撮った写真がほとんどである。 ・国際委員会のマギー牧師とフォースター牧師; 彼らは日本軍の目を避けながら虐殺死体群、病院に運ばれてきた被害者など多くの写真を撮影していた。他にも国際委員たちが撮影した写真があり、イェール大学神学図書館に所蔵されている。 (同上、P230-P233<要約>) ニセ写真とは、被写体が現実とはまったく違い、「ヤラセ」「合成」「創作」などの詐欺的手段を使って撮影された写真である。南京大虐殺写真には、南京虐殺現場の写真でないものも多い。それらの多くは、南京事件の現場写真と特定できないだけで、首切り、刺殺などの残虐行為そのものは事実である場合が多い。こうした残虐写真には、日本兵が撮影し南京の写真屋に現像・焼き増しをたのんだものが中国人にわたり、南京軍事法廷で証拠として提出されたものもある。中国戦場における武勇談の一つとして、中国人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。 (同上、P234-P236<要約>) 否定派の「ニセ写真」攻撃のトリックは、あたかも「ニセ写真」をもとにして南京事件像が形成されているかのごとく錯覚させて、南京大虐殺も「ニセ」であると思わせるところにある。しかし、南京大虐殺論争で否定派が敗退したのは膨大な文献資料、証言資料が発掘、収集された結果であり、南京大虐殺の歴史事実は写真資料がなくても証明できるのである。 (同上、P237) (3)「検証」結果の分析 (a)「検証」対象の写真 東中野氏が検証対象とした143枚の写真の出所と、その被写体がどのようなものであったのかを示したのが、図表6.12である。 図表6.12 「検証」対象の写真
区分 出所 合計 被写体 犯行現場 死傷者 情景 斬首 殺害 強姦 掠奪 死体 負傷 源流 日寇暴行実録 39 3 2 5 2 12 2 13 外人目睹中之日軍暴行 31 5 2 4 0 9 0 11 戦後 16枚の写真帳 16 6 2 0 0 2 0 6 M.フィッチ提供の写真 21 6 6 5 1 1 0 2 各所からの写真 21 1 2 0 0 9 0 9 撮影者判明 マギー 9 0 1 0 0 2 1 5 スティール 4 0 0 0 0 0 0 4 フォースター 2 0 0 0 0 0 0 2 佐藤振寿 5 0 0 0 0 3 0 2 松尾邦蔵 2 0 0 0 0 1 0 1 村瀬守保 6 0 0 0 0 5 0 1 <重複分> -13 -5 0 -4 0 -2 0 -2 合計 143 16 15 10 3 42 3 54
(注1)出所 ・日寇暴行実録; 国民政府の戦争プロパガンダ用写真集に掲載されている写真(すべてではない) ・外人目睹中之日軍暴行; ティンパりーの“What War Means”の中国語版に掲載されている写真 ・16枚の写真帳; もと写真屋の中国人が、日本兵が持ち込んだネガから余分に焼き増しして保管していた、といわれる写真帳。表紙に「恥」と書かれている。(16枚すべてが対象) ・M.フィッチ提供の写真; 安全区国際委員フィッチ牧師の長女マリオン・フィッチ氏が保管していた写真。日本兵が撮影したと思われる写真も含まれる。 ・各所からの写真; 「さまざまなところから持ち寄られた写真」(どのような基準で収集したかは不明) ・マギー、スティール ・・・ ; 撮影者が判明している写真。(どのような基準で選択したかは不明) (注2)被写体 ・斬首; 首切りをしているシーン ・殺害; 刺殺など斬首以外の方法で殺害しているシーン ・強姦; 強姦被害の女性 ・掠奪; 掠奪が行われたシーン ・死体; 死体を写したもの ・負傷; 負傷者の写真 ・情景; 上記以外の風景や人物など (注3)重複 例えばフィッチ提供の写真は、「日寇暴行実録」など他の刊行物にも掲載されているので、そのダブリ分をマイナスしている。 (b)検証結果(指摘)と評価(反論) 図表6.13は、東中野氏が検証した結果の指摘事項とそれに対する評価(反論)を被写体の種類別に示したものである。 評価(反論)は、「『南京事件』143枚の写真&読める判決『百人斬り』」というサイトを運営する“pipopipo”氏が、東中野氏が検証した143枚の写真についての評価をまとめており、それを拝借させていただいた。 詳細は こちらを参照 なお、本レポートでは、写真の著作権に関する確認ができていないので、写真は掲載していない。写真は上記サイトに掲載されているので、そちらを参照願いたい。 検証結果(東中野氏の指摘)で最も多いのは、“説明誤り”で全体の40%ほどあり、次いで“演出”と“流用”が20%弱である。被写体別に見ると、犯行現場の写真は“演出”や“流用”が、多いが、死傷者や情景の写真では“説明誤り”が多くなっている。犯行現場の写真には被害者とともに、軍服を着た日本兵が写っている場合が多く、“説明誤り”では証拠能力不足を証明しきれないので、“演出”や“流用”を指摘しているのかもしれない。 評価(pipopipo氏の反論)を見ると、検証結果を“妥当”、もしくは“一部合意”するという写真は全体の15%しかなく、46%はほぼ誤り又は誤り、となっている。被写体別に見ると、事件の直接的な証拠になりうる犯行現場と死傷者では、“ほぼ誤り”又は“誤り”としている写真は約60%にもなるが、情景の写真では20%しかない。情景の写真はいろいろな解釈ができることが多いが、犯行現場や死体の写真には被害者や加害者が写っているなど、リアリティのある写真が多いせいかもしれない。 図表6.13 被写体別検証結果と評価結果
合計 被写体 犯行現場 死傷者 情景 斬首 殺害 強姦 掠奪 死体 負傷 写真数 143 16 15 10 3 42 3 54 検証結果 説明誤り 場所等 13 0 1 0 0 4 0 8 犯人 13 0 1 0 0 6 1 5 内容 38 0 0 1 2 14 2 19 合成・修正 6 2 2 0 0 2 0 0 演出 17 7 8 0 0 0 0 2 流用 24 7 1 9 1 5 0 1 その他 7 0 1 0 0 3 0 3 検証結果なし 8 0 1 0 0 0 0 7 南京以外 17 0 0 0 0 8 0 9 評価 妥当 11 0 1 0 0 4 0 6 一部合意 10 0 1 0 0 2 0 7 ほぼ誤り 24 0 1 6 0 11 2 4 誤り 42 13 7 1 0 13 1 7 判定不能 25 3 3 0 3 3 0 13 評価なし 27 0 2 3 0 8 0 14 その他 4 0 0 0 0 1 0 3 (注1) 検証結果(東中野氏の指摘) ・説明誤り(場所等); 撮影場所や季節などが誤っている ・説明誤り(犯人); 日本軍が犯人のようになっているが誤り ・説明誤り(内容); 写真の内容に関する説明が誤っている ・合成・修正; 合成や修正が施されている ・演出; 宣伝目的に沿って人工的にシーンを作成して撮影したもの(いわゆる“ヤラセ”) ・流用; 他の写真を使って実際にあったことのように見せている ・その他; 写真の使い方の不満や写真とは直接関係のない事項を指摘している ・なし; 「検証結果」が記述されていない ・南京以外; 説明に南京以外の場所名が書かれているなど南京以外の写真であることが明確なもの (注2) 1枚の写真で2つ以上の“検証結果”がある場合は、代表的な指摘事項に集約している。 (注3) 評価(pipopipo氏の反論) ・妥当; 東中野氏の指摘は妥当である ・一部合意; 指摘の一部は妥当だが、合意できない部分もある ・ほぼ誤り; 明確な論拠は提示できないが、諸々の状況などから誤りと推定される ・誤り; 指摘が誤りと断言できる明確な根拠がある ・判定不能; 指摘が妥当か、誤りか、判断できる材料がない ・評価せず; 反論の検討不要又は何らかの理由で評価していない ・その他; 東中野氏の指摘以外に対するコメント (4)日本兵が写した写真 斬首など犯行現場の写真は、日本軍兵士以外が撮影することが不可能なものが多い。東中野氏は、そのような写真を交戦中の敵国の宣伝本のために提供することはありえない註64-4、と言う。それはそのとおりだが、以下の証言を見ればこうした写真が出回るのは不思議でないことがわかる。 (a)呉旋さんの証言 ・・・ 洞富雄、他編:「「南京大虐殺の現場へ」、P217-P221 <要約> 呉旋さんは、1923年生まれで南京事件当時安全区にいた。1941年春、1冊の写真帳を拾った。写真は全部で16枚あった。表紙には「血」という文字と「恥」という文字があった。この写真帳は以前にも見たことがあり、持ち主は呉旋さんの知り合いの羅瑾という人だった。 羅瑾さんは写真館の店員だったときがあり、時期は忘れたが、日本兵が写真の焼き付けを依頼に来た。羅さんは依頼された写真を1セット余分に焼いて自分で保管したが、そのまま保管しつづけると危険がおよぶ可能性があると思い、捨てたのだという。呉さんは、その後もこの写真を保管しつづけ、終戦後、南京で行われた戦犯裁判の証拠資料として国民党に渡した。 これが、東中野氏が検証した「16枚の写真帳」の由来である。東中野氏はこの16枚のうちの一部が、呉さんが国民党に提供する前、1938年発行の「外人目撃中の日軍暴行」に掲載されている(のでこの証言はあやしい)、と述べているが、ネガは日本兵が保有しているので、他の場所で焼き増ししたものが出回った可能性を否定できない。 (b)佐々木郵便長の証言 ・・・ 佐々木元勝:「野戦郵便旗(上)」、P176-P178 <要約> 上海にはエロ写真の問屋があって、秘密に頒布されている。また正金銀行の裏庭では支那人が掠奪品や禁制品を密売しており、エロ写真も安く売っていた。エロ写真は褐色のハトロン紙に包まれて12枚セットで支那人、半島人、ロシヤ人、黒人、ヨーロッパ人、日本人など様々な人種が出てくる。 エロ写真のほかに戦闘の残虐写真がある。無残な死体のさまざまな写真である。支那女が泣きながら立って下半身裸になっているものもある。これらの写真は日本軍か支那軍かだれが撮影したものかわからない。 憲兵が毎日来て手紙の検閲をしている。このごろ一番多く出るのはエロ写真である。普通の手紙と違い中味が堅いからすぐわかる。検閲する憲兵の引出しはエロ写真でいっぱいになる。 村瀬守保氏は上記の笠原氏の解説にもあるように第13師団の輜重隊の兵士として従軍し、中隊の非公式の写真班として、約3千枚の写真を撮っており、最も信頼性の高い写真だと言われている。写真とは直接関係ないが、従軍兵士の生々しい証言として紹介する。 { 【上海から南京への途上で】 私たちはくずれかけている民家を探して班ごとに分宿です。・・・奥の部屋に踏み込むと、薄暗い懐中電灯に照らされて、下半身裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて死んでいます。少し奥には5~6歳の子供がうつぶせに死んでいました。プーンと血生臭いにおいがたちこめています。・・・ (5)検証結果の評価事例 (注)写真の番号は、東中野氏の本でふられた番号で、pipopipo氏のサイトでも同じ番号を使っている。 (a)事例1; 検証結果=“妥当”の事例(写真96:生首群) 生首が10個以上並んだ写真。 朝日新聞が1984年8月4日に宮崎県の元兵士の家で発見されたアルバムの中にあった写真として紹介されたが、「馬賊の首」の写真であったことが判明している。写真は“みやげもの”として現地で購入したものらしい。この兵士は「宇和田弥一」といい、水西門の捕虜殺害を日記に記している。(4.2.2項参照) (b)事例2;検証結果=“妥当”の事例(写真123:生き埋め) 兵士がスコップを持って人を埋めようとしている写真。 マギーの写真として、アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」註64-5に収録されているが、pipopipo氏のサイトによれば「『バトル・オブ・チャイナ』という映画の映像と思われる」となっている。 (c)事例3; 検証結果=“一部合意”の事例(写真125:挹江門の光景) スティール記者の撮影したもの。 「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」では「挹江門の光景」としているが、門の上に「仁」の字があることからこの門は中華門である。また、門の前にある死体は戦死体だったので、スティール記者はこれを新聞に載せなかった。これが東中野氏の検証結果である。 中華門の写真であることは間違いないが、新聞に載せなかったのは、当時、写真を電送することができなかったからにすぎない。なお、この写真は「南京事件資料集Ⅰ」にも掲載されており、スティール氏本人は中華門の写真と言っている。 (d)事例4; 検証結果=“ほぼ誤り”の事例(写真29~34:強姦・輪姦された女性の写真) いずれも陰部を露出させた女性の写真。 東中野氏は「当時出回っていたエロ写真に強姦のキャプションをつけたもの」と切り捨てている。 しかし、ここに写っている女性の表情にはせっぱつまったものがあり、無理やり撮影されているように見える。日本軍関係者の証言に強姦に関するものはたくさん残っており、これら写真が強姦の際に撮った写真でないとは言い切れない。 (e)事例5; 検証結果=“誤り”の事例(写真98:重慶爆撃による死者) コンクリートの階段に横たわる女性や子供を含む多数の死体を写した写真。 空襲が終って群衆が避難していた壕を出ようとしたとき、再び警報が鳴り、壕の扉が閉じられたためにパニック状態に陥った人々が窒息や圧死したもので、日本軍による直接の被害ではなく、不幸な事故によるもの。これが検証結果である。 しかし、爆死であるか圧死であるかにかかわらず、多くの市民が、軍事施設ではない都市に対する戦略爆撃の犠牲になったことに変わりはない。 (f)事例6; 検証結果=“誤り”の事例(写真101:斬首の瞬間) 首が胴体から離れたその瞬間を撮った写真。 刀を斬り込む際には右足が前に出るのに左足が前に出ている、斬られた身体が垂直のままで姿勢が崩れていないのは青竜刀の衝撃による斬首の状態に良く似ている。これが検証結果である。 青竜刀といえば、日本では刃幅の広い刀を思い浮かべる人が多いかもしれないが、中国では日本の薙刀のような形をしたものを青竜刀と呼ぶ。いずれにしても、この写真に写っているのは、明らかに日本刀である。 (g)事例7; 検証結果=“誤り”の事例(写真103~105;腹を割かれた女性の遺体など) 東中野氏は、腹を割かれたり、性器に異物を突き刺すといったやり方は中国で最近まで見られた光景である、と述べていくつかの事例を文献から引用し、中国の古来からの慣習を日本軍に投影したもの、と結論づける。 これは「中国人は野蛮だが日本兵がやるはずがない」と言っているのと同じだが、戦争という極限状態のなかで「中国人は野蛮なのだから我々もそのように対応すれば良い」ということが起っているのである。前出の村瀬氏もそのような殺し方があったことを証言している。 アスキュー・デイヴィッド氏が、北村稔氏の書評のなかで述べているように註64-6、慣習、民族性などを根拠とする主張は学術の世界では人種偏見、人種差別に相当するものとみなされる。自分たちが同じことを外国人から言われたらどう思うか、考えて欲しい。 (h)事例8; 検証結果=“誤り”の事例(写真138、139;揚子江の死体) 揚子江にあった大量の死体の写真。 東中野氏の検証結果は、揚子江上で溺死した中国兵、又は上流での戦闘で戦死した遺体が流れ着いたもの、となっている。 しかし、写真138には後ろ手に縛られた遺体が数体あるし、写真139は黒焦げ死体である。溺死体や戦死体であるはずがない。 (i)事例9; 東中野氏が検証しなかった写真(写真78; 日本軍の宣言書) これは「16枚の写真帳」のうちの1枚で、南京市云々と書かれた国民政府の貼り紙の上に「十二月十三日午前十時、小池部隊、林隊占領・・・」と大書されたものを写した写真だが、東中野氏は検証していない。この写真はネガを提供した日本兵のなかに、南京城攻略の日に南京にいた兵士がいた、ということを証明するものである。 (6)まとめ 南京事件関連の写真には、撮影者や撮影場所、時期などが不明なものが多いのは事実である。また、中国の宣伝本や“The Rape of Nanking”のように誇大な説明文や無関係な写真を流用するなど、歴史書として見るには不適切な本があることも間違いない。一方で、マギー・フィルムや村瀬守保氏の写真など、素性がはっきりしていて信頼できる写真もある。また、日本兵が撮影したとみられる写真には、南京事件とは特定できないものの、日中戦争において日本軍が中国各地でおこなった残虐行為を示唆するものもある。 写真だけで南京事件の存在を確定することはもちろんできないが、こうした信頼できる写真が裏付けの一部を担うことはできるだろう。 (7)東中野氏の検証について 南京事件の写真の検証は、東中野氏が「南京事件 証拠写真を検証する」を出版する前からあり、ニセだという指摘とそれへの反論が行われていたが、東中野氏はそれらの議論をふまえて、この著書を出版したようだ。3万枚もの写真を見て、そのなかの143枚の写真を検証するのに3年かかったという。その努力には敬意を表したい。また、明確な根拠のある実証的な検証や影の測定から季節を割り出すといった科学的な方法を採用しているものもある。 一方で、誤った前提をもとにした推定、結論ありきの論理展開、あるいは民族偏見に基づく検証、さらにはサンプリング検証に必須の標本(=143枚の写真)の選定方法を明確にしていない、など学術的とは言いがたい手法を使っているケースも少なくない。それは、一部の日本の読者には通用するかもしれないが、世界的に通用する手法ではない。氏は、このような手法で導出した結論をベースに、「ウソを取り払おうとする努力を妨げようとする人こそ、日中関係の真の構築を妨げている」(同書、P238) と述べているが、説得力に乏しい。 松井石根大将の秘書をしていた田中正明氏は、1985年「松井大将の陣中日記」(芙蓉書房)を出版した。板倉由明氏は、「歴史と人物 60年冬号」に多くの相違点があることを発表、朝日新聞も900箇所以上の改竄があると報道した。これに対して田中氏は「意図的に改竄したのではなく、不注意による誤記、脱落や原文の判読が不正確なところがあったのは認めるが、改竄したわけではない、と弁明した。しかし、板倉氏は、追記されているところもある上に、修正はすべて事件を否定する方向でなされていて、意図的なものである、とする。 (改竄例2) 避難民の帰宅が遅れている理由を、「我軍に対する恐怖心と寒気と家が失われていること」までは記しているが、その後に書かれている次の文章を削除している。「我軍に対する反抗というより、恐怖不安がなくならないことが重要な原因と思われ、各地守備隊に聞いても自分の思いが徹底されず、この事件に関する根本的な理解と覚悟がなく、軍紀風紀の弛緩が回復せず、幹部は情実に流れ、姑息に陥っている。軍みずからが地方宣撫にあたるのは有害無益であると感じる」。 ここでは読みやすくするため現代語に要約したが、原文を見たい方は、“ゆう”氏のサイトを参照されたい。 田中氏は改竄の糾弾にもめげず、1年半後の1987年春に「南京事件の総括」を出版、否定派の学者や著述家なども声援を送っている。まさに、「情実に流れ、姑息に陥っている」状態であろう。
埋葬完了日について史実派はふれていないが、埋葬記録を見ると3月15日前後に埋葬数は少し減るが、3月23日から再び増加し、5月1日までに約6000体を埋葬している。この記録を見る限りとても3月19日に完了した、などといえる状況ではない。
第一線部隊の兵隊は厳しい命令を受けて目が血走っていました。 ・・・ 小休止で一緒に休んだ時の話を聞くと「南京一番乗りは師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、酒もある。速く行ったものは、やりほうだい、なんでもやれるぞ」と上官からハッパをかけられているのです } (村瀬守保:「私の従軍(新版)中国戦線」、P44)
6.4節の註釈
註64-1 <東中野氏が指摘するラーベの日記の不審点> 「南京虐殺の徹底検証」の付章「改めて『ラーベ日記』を読む」の15段落の内容は次の通りである。
No. 段落見出し 内容 区分※1 相違 批判 受容 1 検証の視点 他の文書にはある「日本軍の行う合法的な処刑」という注釈がない。 〇 2 ラーベの私的日記と公的文書の落差 流れ弾で死んだのが兵士か市民か明記されていない。 〇 3 過度に脚色されたラーベ日記の矛盾 上海路で見た死体は市民と記されているが、兵士の死体である。 〇 4 ラーベ自身の露骨な改竄 12月13日の行動が、日記と上申書で異なる 〇 5 目撃してもいないつくり話がヒットラーへの上申書に 上申書には日記に書いていない不法行為が書かれている。 〇 6 支那軍は安全地帯を徹底的に利用 ―― 日記の評価なし ―― - - - 7 安全地帯は中立地帯ではなくなった ―― 日記の評価なし ―― - - - 8 中立地帯委員長が敵兵の潜伏逃亡を幇助 ―― ラーベの人格批判 ―― - - - 9 64日間の不法滞在中に何をしたのか 元中国軍将校が略奪や強姦をした、とNYタイムズの記事にあるのに、ラーベの日記には書かれていない。 〇 10 反日攪乱行為に暗躍した支那軍将兵 上申書には将校を匿ったことが書かれていない。 11 ラーベの近辺に集中した「放火」 日本兵が犯人と断定できないのに「日本軍に間違いない」と書いている。 〇 12 自作自演の強姦劇か ラーベが自宅にいるときに強姦が頻発しているのは、ラーベの行動予定を知っている者が手引したから。 〇 13 流言蜚語を信じたラーベ 「金陵女子大学だけでも100人以上の少女が強姦された」は、将校らが流したデマ。 〇 14 撤回された日本軍戦時国際法違反説 ―― 日記の評価なし ―― - - - 15 埋葬は多くても約1万5千体 ―― 日記の内容を持論に利用 ―― 〇
※1 区分 <相違> ラーベが関連する他の文書と相違がある
<批判> 記載内容についての批判
<受容> 記載内容を受け入れて持論の根拠などに利用
※2 網掛け(No8~13)は、いわゆる反日攪乱工作隊に関する主張
註64-2 <東部、南部、西部の殺害者数> 単位:千人
(1)日本側記録(笠原氏推定・・・図表4.15より)
堯化門:7~8 不明(16師団):0.96 安全区→玄武門:0.6 馬群:0.31 雨花門外:1.5
安全区(9師団):6.67 安全区(兵民分離)南京近郊:4 合計 22.04千人
(2)中国側証言(孫宅巍説・・・図表4.24より)
漢中門外:2 三叉河:2 水西門外、上新河一帯:28 城南鳳台郷、花神廟一帯:7
合計 39千人
註64-3 <中国軍の傷病兵・・・中沢三夫氏の述懐> 「証言による南京戦史(2)」、P14
{ 南京は11月下旬より、遠く南方前線の戦死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室に充てられ、全市医薬の香び浸したる状態なり。これにより生ぜし死者も亦すくなからず。入城時、外交部の建物は大兵站病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁し、重傷者多し。日々、3、40名落命しつつありたり。}
註64-4 <日本兵が撮影した犯行現場の写真> 東中野:「南京事件 証拠写真を検証する」、P141
{ 日本軍が外国人、ましてや敵国側の撮影者に【反行現場の】撮影許可を出すことなど決してない。となると考えられるのは、撮影を許可された日本人や日本兵が「外人目撃中の日軍暴行」のために写真をこっそり提供したということである。
しかし、・・・交戦中の敵国の宣伝本のために門外不出の写真を提供することなど不可能である。 ・・・ こう考えてくると、これら一連の写真は、中国側が中国軍のじっさいの様子を撮るか、または演出された場面を撮ったと考えたほうが合点がいく。}
註64-5 <ザ・レイプ・オブ・ナンキン(The Rape of Nanking)>
著者のアイリス・チャンは1968年生まれの中国系アメリカ人でジャーナリスト、作家。自身で調査した結果をもとに1997年、首記の著書を出版、日本語版は2007年に「ザ・レイプ・オブ・南京」というタイトルで出版されている。アメリカで発刊された直後はニューヨーク・タイムズなどで絶賛され大好評だったが、その後、歴史学者などが精査したところ、史実の誤認がたくさんある、などの批判を受けている。使っている写真も偽物や説明文を都合のよいように変更している個所が多い、といわれている。
註64-6 <アスキュー・デイヴィッドの論文> 「書評 南京アトローシティ研究の国際化-Kitamura Minoru, The Politics of Nanjing: An Impartial Investigation の検証」、2008年10月、P563
{ 一般論として、「日本人はスパイ活動や対外外交には向いていない」といった一般化は、英語の世界では、学術書としてはまず許されまい。中国人論は一層露骨である。北村にいわせると、中国人とは「文化的誇張主義」を特長とする民族だそうだ。このような表現は、人種偏見、人種差別といわれても仕方がない。}