6.5 捕虜や敗残兵の殺害
図表6.14 捕虜や敗残兵の殺害

捕虜や敗残兵の殺害は次の3つに類型化できる。否定派は、①、②の一部について殺害したことは認めているが、それらはすべて合法である、と主張しており、争点は国際法註65-1の解釈になる。幕府山の捕虜殺害など、事件の推移が問題になるものもあるが、個別事件の論争については、4.1~4.4節を参照願いたい。
①捕虜殺害; 投降してきた将兵を捕虜として収容後、又は収容せずにその場で殺害。
(事例) 幕府山の捕虜、太平門などでの投降兵・捕虜殺害、水西門などでの捕虜殺害、中華門外の捕虜殺害、など
②敗残兵殺害; 軍服を脱ぎ捨て市民の服を着た将兵を摘出して殺害。
(事例) 第9師団による安全区掃蕩(12/13~24)、兵民分離に伴う殺害(12/24~1/5))など
<注>市民の服を着て戦闘をしかける兵士を便衣兵(ゲリラ)というが、陥落後の南京で安全区に逃げ込んだ将兵らのほとんどは、戦意を失い武器も捨てているので、便衣兵とは呼ばずに単に敗残兵と呼ぶ。
③敗残兵の追撃戦; 逃走する将兵を追撃して殺傷。このケースは否定派と中間派は「合法」としているが、史実派は人道上問題あり、としている。本件はこの節の最後で、史実派の主張を紹介させていただくことにとどめる。
この項で対象とする主な捕虜殺害事件は下表のとおりである。
図表6.15 主な捕虜殺害事件と東中野氏の見解 単位:千人
No 日付 場所 部隊 板倉 南京戦史 秦 笠原 東中野 殺害者数(合法)とその状況 (「再現 南京戦」) 2 12/13 下関、太平門など (歩33) 3.0 2.0 3.0 数千 数百 紫金山南麓;収容後、攻撃してきたので殺害 1.3 0.3 太平門; 拘束したが、攻撃してきたので殺害 獅子山 0.2 4 12/14 堯化門 16師団 (歩38) 収容 収容 収容 7.0~8.0 収容 捕虜として収容 6 12/14 馬群 16師団 (歩20) 0.2 <0.1> 0.31 0.31 被拘束兵を捕虜として受け入れずに銃殺 7 12/16 -17 和平門―復興橋、江岸 歩33 0.4 9 12/14-16 水西門、など 6師団 (歩23) (歩45) 1.0 3.0 0.1 些細な原因で小競り合いの末殺害 10 12/12-13 中華門外 114師団 (歩66) 1.0 0.6 1.0 1.5 1.657 敵襲が継続しており、やむなく処刑 12 12/14-17 幕府山 13師団 4.0 3.0 8.0 20.0 1.2~3.0 捕虜が放火したので処刑 Max2.0 暴れて逃走し始めたので射殺 14 12/16 八卦州 海軍 釈放 釈放 釈放 数千 釈放
-15
歩38
(山田支隊)
注1)本表は、図表4.15から、敗残兵の摘出による事件と詳細不明な事件を除いて作成した。
注2)No.は、図表4.15と同じ番号。
注3)板倉、南京戦史、秦の各氏の数字は最大値である。
(a)田中氏は、第6の論拠で次のように述べる。 ・・・ 「南京事件の総括」、P52-P57を要約
・戦友がバタバタと斃れる苛烈な戦闘の最中、投降兵が出てきても白兵戦のさなかで捕虜にすることなどできない。「激昂せる兵は、片はしより殺戮す」は、当然の戦闘行為である。戦闘中の捕虜は、これをとる、とらぬは、そのときの部隊長の意志によるというのが陸戦法規の考え方で、違法ではない。
・陸軍歩兵学校の「対支那軍戦闘法の研究」(1933年1月)には、「捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の外之れを現地、または地方に移し釈放して可なり」とあり、殺してかまわないなどとは言っていない。
・中島中将の「捕虜はせぬ方針」は、上海派遣軍の大西参謀によれば「それは銃器をとりあげて釈放せい、ということです」。
・捕虜釈放の事例や捕虜活用の事例を紹介。
・幕府山の捕虜殺害について証言した栗原氏が「完全にのせられた」と述べていることをあげ、死者は1千~3千人(5千~6千との説もある)は、騒ぎ出したので殺害した、捕虜の脱走又は叛乱は「即時射殺」、これは戦時国際法の認むるところ、と主張する。
(b)東中野氏は、6.5.2項にあるように、唐生智司令官が脱出した時点で中国軍は捕虜になる資格を失っていた、と主張するが、図表6.15の各事件については、その主張はせず、釈放できない情況だった、反抗したから、放火したから、などを理由に合法だった、とする。
(2)史実派の反論 ・・・ 「13のウソ」、P171-P172を要約
吉田裕氏は「13のウソ」で東中野氏の「交戦者」の資格を中心に反論しているが、それは6.5.2項にまわし、ここでは収容後の捕虜の扱いに関する部分だけをそのまま引用する。
{ 特殊な状況の下では、戦争の法規、慣例の遵守義務より軍事上の必要性が優先されるとする学説は、一般に「戦数」とよばれ、投降兵の取扱いなどがその典型的な事例とされる。しかし、そうした学説に対しては、当時からきびしい批判があった。例えば、横田喜三郎『国際法(下)』(有斐閣、1940年)は、「かような範囲の広く不明確な例外を認めるときは、戦闘法規の違反に対して容易に口実を与へることになる」などとしてこの学説を明確に否定している。
さらに重要なのは、海軍大臣官房「戦時国際法規綱要」(1937年)である。 ・・・ 戦数についてもこの学説を次のようにしりぞけていたのである。 ・・・(引用部分省略)・・・
もっとも「南京戦史」が指摘するように、ある状況の下では捕虜や投降兵の殺害は許容されると考える信夫淳平のような学者もいた。しかし、その場合でも、信夫の前掲「戦時国際法講義」第2巻が、「事実之(捕虜)を殺す以外に軍の安全を期するに於て、絶対に他途なしといふが如き場合には、勿論之を非とすべき理由はない」としているように、そうした状況はきわめて限定的に解釈されていたことに注目する必要がある。}
(3)捕虜の収容
田中氏は、戦闘中に投降してきた敵兵がいても捕虜として収容するかどうかは部隊長の意志により決めることができる、と主張する。これについては、前出の信夫淳平は、「敵の大部分が白旗を挙げても、一部に抵抗する兵がいる限り、降伏を受け入れる必要はない、と解したい」註65-2と述べており、このような状況であれば捕虜を受け入れる義務はないと解釈していたようだ。
ただし、田中氏は、{ {ヤッチマエ!}といって、「激昂せる兵は、片はしより殺戮す」と佐々木少将などの回想録に出てくるが、これは当然の戦闘行為で・・・}というが、佐々木少将の12月13日の私記にはこう書かれている。{その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する }(「南京戦史資料集Ⅰ」、P378) 「俘虜続々投降」し「上官が制止」しているにもかかわらず殺戮しているのを戦闘行為の一環とみなしてよいかは、はなはだ疑問である。
(4)収容後の捕虜の扱い
秦氏は、{ 一度捕虜として受け入れ、管理責任を負った敵兵を正当な法的手続きを踏むことなしに処刑するのは、明白な国際法違反行為であり、第二次大戦でも日本軍のほかにはあまり例がない}(秦:「南京事件」、P190) と述べ、ほかにも裁判なしの捕虜処刑を違法とする学者は多い註65-7。
戦数理論を適用するにしても、「捕虜殺害以外に絶対に他途なし」という限られた条件でのみ認められるが、東中野氏が指摘する事件のうち少なくとも次のような状態は、とてもこの条件を満足しているとはいえない。(詳しい状況は、本レポートの4.1.5(馬群)、4.3(幕府山)、4.2.3(中華門)を参照)
・馬群; { 馬群では前日、・・・夜襲された輜重隊が6名の戦死者を出していた、・・・句容でも・・・輜重隊が襲撃され戦死傷者を出していた・・・拘束した逃走兵から手榴弾を投げられ・・・苦い経験をしていた。これらのことが原因となって、・・・被拘束兵を捕虜として受け入れずに銃殺に処している。}(「再現南京事件」、P118)
・幕府山; { 捕虜の放火にたいする「最後の取るべき手段」、すなわち関係者処刑の「軍命令」が出て、・・・揚子江で銃殺された。}(同上、P164)
・中華門; { 12月13日、城門が陥落したからといって、すんなりと戦闘がおさまったわけではなかった・一刈勇策少佐が倒れ、手塚清中尉も負傷して戦線を離脱していた宇都宮66連隊第4中隊が、12月13日、被拘束兵の処刑に及んだのは、このようにまだ敵襲が続いていたときのことであった。}(同上、P184)
東中野氏は「被拘束兵」という新しい言葉を創っているが、馬群では「敵の武装解除をやり待っていた」(同上P118)、幕府山では「非戦闘員が解放されて約8千人が残った」(同上、P163)、中華門では「12月12日22時から捕虜に食事を支給していた」(同上P182)状態であり、3件ともいったん捕虜として収容したものであることは間違いない。
(5)収容又は解放された捕虜
次の2件は獲得した捕虜を収容又は解放している。
(a)堯化門の捕虜(4.1.1項(2))
堯化門周辺で投降してきた捕虜は、歩38連隊の戦闘詳報によれば7200人、これらは市内に搬送され中央刑務所に収容されたとみられるが、詳細はわかっていない。
1937年12月30日の朝日新聞は上海派遣軍の発表として捕虜は1万5百と報道したが、「南京戦史」は収容した捕虜総数を6千余人(中央刑務所以外の収容所も含む)と推定註65-3している。また、捕虜担当の榊原参謀は、「中央刑務所に収容された捕虜は約4、5千、翌年1月そのうち半分は労役のため上海に移送した」註65-4と証言している。
したがって、堯化門で収容したという7200人は数字が大きすぎるか、一部が殺害又は解放された可能性もある。
(b)下関での捕虜(4.2.1(3)項)
第6師団戦時旬報などによれば、歩45連隊が下関付近で捕らえた捕虜5500人はその場で釈放している。釈放された捕虜の多くは、揚子江を渡って中洲(江心州)に渡り、ここで国崎支隊に発見されたが、「自活せよ」といわれて再度釈放されたとみられる。残りは三叉河を経て江東門方面に南下したが、第6師団の別の部隊に捕えられ、処刑されたものも少なくなかったようだ。
(6)日本軍の捕虜観念
日本軍の捕虜取扱いが粗雑だったことを示す記録は多数残っている。
(a)陸軍歩兵学校の教科書
1933年に作成された「対支那軍戦闘法の研究」は、本項(1)で田中氏は「殺してかまわない、などと言っていない」と主張するが、田中氏が引用した文章のあとに次のような文章が続くのである。
{ 捕虜は ・・・ 地方に移し釈放して可なり。 [以降、田中氏は引用せず]支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者多く、其存在を確認せられあるもの少きを以て、仮に之を殺害又は他の地方に放つも、世間的に問題となること無し } (「徹底検証」、P87)
(b)陸軍次官通牒(1937年8月5日)
「支那事変」は公式には戦争としていなかったため、国際法の遵守について開戦直後に通達を出しているが、秦氏は「国際法のすべてではなく「害敵手段の選用」などであって、交戦法規のすべてではなかった」註65-5 と述べている。
(c)戦闘詳報に「捕虜処断」の記載
歩33連隊の戦闘詳報には、3096名の「俘虜は処断す」とあり、歩66連隊第一大隊の戦闘詳報には「旅団命令により捕虜は全部殺すへし」との記載がある。秦氏は、上海戦でも捕虜処断の記述がある戦闘詳報が2件あり、公式文書である戦闘詳報に国際法違反の捕虜殺害を記載したのは捕虜殺害が当然という気分があったことを物語る註65-6、と述べている。
(d)捕虜管理のための組織なし
ハーグ陸戦条約は第14条で戦争開始時に俘虜情報局を設置し、捕虜の留置、移動など、のほか捕虜に関する問い合わせへの対応を行うことを求めている。(Wikipedia:「ハーグ陸戦条約」) しかし、{陸軍中央部は、捕虜管理のための機構(俘虜情報局、俘虜収容所など)を作らず、要員も配置しなかった。日露戦争や太平洋戦争では、捕虜に関するジュネーブ条約を準用すると約束し、機構や要員も準備しているから、事変だからという理由だけではなく、中国人に対する抜きがたい蔑視感情も影響したにちがいない。} (秦:「南京事件」、P197)
(e)戦陣訓
1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令で、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という有名な一節がある。南京事件当時にも、俘虜になることを禁止する慣習があったと見てよいであろう。自らが捕虜になることを禁止された日本兵が、敵国の捕虜に寛大な処置をとれるわけがなく、上官がそれを指示することもできないのは当然であろう。
~ ここまでは公式資料や記録にもとづくものだが、以下は非公式なものになる。 ~
戦後、松井石根大将は東京裁判に備えて「支那事変日誌抜粋」を作成したが、捕虜殺害についてはまったくふれていない。この資料について、板倉由明氏は、{東京裁判にあたり松井大将が予期したものは、市民に対する暴行と外国権益の侵害だったが、捕虜・投降兵の殺害に対する準備は全くといって良いほど無かった。これは松井氏だけでなく、日本側のほとんどが同様であった。} (板倉由明:「本当はこうだった南京事件」、P46<要約>)
(g)中島中将日記(註41-3にも一部記載あり)
12月13日の日記に次のように書かれている。
{ 大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くるとなしたる共千5千1万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひゾロゾロついて来るから安全なるものの、之が一旦騒擾せば始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、・・・
此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案として百二百に分割したる後適当のか処に誘きて処理する予定なり } (「南京戦史資料集Ⅰ」、P326)
板倉由明氏は、{・・・一種の放言として、片っ端から殺してしまえ、と筆を滑らせたのであろう }(同上、P388) といいつつ、{ 「南京事件の実態」と称して教科書に採用するのは不適当}(同上、P389)と突き放す。 一方、東中野氏はこの「放言」を延々と分析したうえで、{投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針}(「徹底検証」、P119) と結論づけるが、10年後に発刊した「再現 南京戦」では、{ 眼前の事態に臨機応変かつ適切に対処するための、最悪の事態を想定しての言葉であった}(「再現 南京戦」、P117)、と変わる。どうにでもとれる表現だが、「捕虜を受け入れるときの状況によっては殺してもよい」ともとれる。
教科書への採用是非はともかく、軍の最高幹部にこのように考えていた人もいた、ということである。
(h)捕虜殺害命令
公式な捕虜殺害命令は出ていないようだが、非公式な指示はいくつか記録されている。
①幕府山捕虜に対する長勇参謀の独断と思われる「皆殺せ!」の指示。(4.3.2項(3))
②歩38連隊副官の児玉義雄氏の「『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた」という証言。(4.1.3項(4))
③中華門外で捕虜を殺害した歩66連隊第一大隊の戦闘詳報に「旅団命令により捕虜は全部殺すべし」とある。ただし、この戦闘詳報は改竄した疑いが強いとされている。(註42-2参照)
(i)捕虜の試し斬り
①中島中将日記
{ 12月13日 ・・・ 本日正午高山剣士来着す。 捕虜7名あり直に試斬を為さしむ。 時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸二つを見事斬りたり} (「南京戦史資料集Ⅰ」、P324)
②16師団副官宮本四朗氏の遺稿
{ ・・・ 南京城内はわが師団が警備することになり、南京陥落後は内地からいろいろな人がやってきた。なかには、海軍関係の剣道の教士が、陸軍将官の紹介状を持ってきて、非常識にも捕虜を斬らしてくれなどと、師団長に直接申し込んで来たりした。もちろん、こんな輩は門前払いをくらわした。} (「証言による南京戦史(8)」、P8)
(7)まとめ
陥落直後は、敵味方入り乱れての“紛戦”状態だったから投降兵を捕虜として受け入れるのが困難な状況があったかもしれない。しかし、いったん捕虜として受け入れた後の殺害は、現在わかっている状況をみるかぎり、不法といえよう。たとえ、「捕虜殺害以外に絶対に他途なし」という状況だったとしても、捕虜を管理する組織も設置していないのでは、その管理責任を問われてもしかたがない。
南京攻略の計画を策定した段階で、「包囲殲滅」を戦略として採用するのであれば、国際法を遵守するという意識をもって冷静に戦闘の行方を予測すれば、大量の捕虜が発生する可能性を認識し、捕虜を管理する俘虜情報局のような組織を設置することは不可能ではなかったはずである。本来、そうした組織は戦闘開始前に必ず準備すべきものであり、軍中央や軍司令官などの責任が問われても不思議ではないだろう。
この項でいう「敗残兵」とは、陥落後、軍服を脱ぎ捨て市民の服に着替えて安全区などに逃げ込んだ敗残兵のことである。否定派などは、こうした敗残兵を便衣兵(市民の服を着た兵士・・・ゲリラと同義)と称するが、軍服を捨てた兵士たちは、ほとんど抵抗を示していないので、単に「敗残兵」と呼ぶ。
ここで対象とする主な捕虜殺害事件は下表のとおりである。
図表6.16 主な敗残兵殺害事件 単位:千人
|
No |
日付 |
場所 |
部隊 |
板倉 |
南京戦史 |
秦 |
笠原 |
東中野 |
|
|
12/14 |
安全区→玄武門 |
16師団 |
|
0.3 |
<0.6> |
0.6 |
すべて合法 |
|
|
12/13-24 |
安全区 |
9師団 |
3.0 |
6.5 |
7.0 |
6.67 | |
|
16 |
12/24-1/5 |
安全区 (兵民分離) |
16師団 |
2.0 |
|
2.0 |
2.0 | |
|
|
12/24-1/10 |
南京近郊 |
歩33 |
1.0 |
2.0 |
2.0 |
数千 |
(1)否定派の主張
(a)田中氏は、「南京事件の総括」の第1章 虐殺否定15の論拠ではなく、第2章で次のように主張する。以下、「南京事件の総括」P153~P154の要約である。
松井大将は東京裁判宣誓口供書の中で次のように述べている。「支那軍は、・・・一部将兵は所謂「便衣隊」となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少なからず、附近の人民も亦あるいは電線を切断し、あるいは烽火を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我軍に幾多の危難を与えたり」
いうまでもなく、このような便衣兵は陸戦法規の違反である。武器を捨て常民姿になったからといって、それで無罪放免かというと、戦争とはそんな甘いものではない。戦時国際法によれば、交戦資格の条件は次のとおりである※が、この条件からみても便衣兵は交戦資格を有するものではない。
①部下の為に責任を負ふ者其の頭に在ること
(部下について責任を負う一人の者が指揮していること)
②遠方より認識し得へき固着の特殊標章を有すること
(遠方から認識することができる固着の特殊標章を有すること
③公然兵器を携帯すること
(公然と武器を携行していること)
④その動作につき戦争の法規及び慣例に従って行動していること
(戦争の法規及び慣例に従って行動していること)
※この部分は、「再現 南京戦」から引用。なお「特殊標章」とは軍服などのことである。
わが国の国際法の権威である信夫淳平博士は次のように述べている。「非交戦者の行為としては、その資格なきになほかつ敵対行為を敢てするが如き、いづれも戦時重罪犯の下に、死刑、もしくは死刑に近き重刑に処せらるるのが戦時公法の認むる一般の慣例である」(信夫淳平:「上海戦と国際法」)
(b)以上は、否定派がよく使う否定論だが、東中野氏は別の論法で「便衣兵」の殺害を合法と主張する。以下、「再現 南京戦」P341~P347を要約する。
南京の中国兵は、唐生智司令官が逃亡したこと、軍服を脱ぎ捨てていたこと、公然と武器を携帯していなかったことから、不法戦闘員であり捕虜にはなりえなかった。当時の外交官や国際委員会なども日本軍の処刑を不法と非難したことはなかったし、東京裁判でも日本軍の捕虜処刑を指摘した人はいなかった。
ところが、1980年代になると北村稔、秦郁彦、板倉由明、吉田裕などが「裁判なしの捕虜処刑は違法」と指摘するようになり註65-7、南京大虐殺があったという前提に立って、その根拠を裁判なしの捕虜殺害に求めるようになった。
吉田裕教授は、南京の中国兵は「国際法上の『戦時重罪』を構成する」とし、その処罰には軍事裁判(軍律法廷)の手続きが必要不可欠であったと主張する。戦時重罪について、吉田裕教授が根拠としている立作太郎(たちさくたろう)は次のように述べている。
「戦時重罪中、最も顕著なるものが5種ある。
(甲)軍人(交戦者)により行はるる交戦法規違反の行為
(乙)軍人以外の者(非交戦者)により行わるる敵対行為
(丙)変装せる軍人亦は軍人以外の者の入りて行ふ所の敵軍の作戦地帯内亦は其他の敵地における有害行為
(丁)間諜
(戊)戦時叛逆等」
このうち(甲)は、交戦者の資格4条件のひとつ(④法規慣例の遵守)であるが、資格4条件の他の3つは戦時重罪にあげられていない。この3条件は、正規兵が戦争を行う上で破ってはならない鉄則であり、それを守らない戦闘員は「戦争犯罪」以上の大罪であった。つまり、助命や裁判にかんするいかなる権利をも有しなかったのである。
(2)史実派の反論
(1)(a)の田中氏の主張に対しては、「裁判の手続きを経ずに処刑してしまうのは国際法に違反」という反論が定着しており、東中野氏もそれを認めた上で新たな合法論をひねり出してきたと思われる。したがって、ここでは東中野氏の論述に対して吉田氏が「現代歴史学と南京事件」の第2章(P68-P81)で述べている反論を紹介する。反論の対象になったのは、雑誌「月曜評論(2000年3月号)」に投稿された論文なので多少論旨が異なる所もある上に、難解な法律論なので、筆者なりに要点を絞って要約させていただく。
a)交戦者の資格4条件は、民兵や義勇兵が交戦資格を与えられるための条件を示したもので、正規軍の交戦資格を直接規定した条項であるかのような書き方は読者を惑わすものである。
b)正規軍の場合でもこの4条件の遵守が求められるが、それに違反して行われる敵対行為は、国際法上の「戦時重罪」(戦争犯罪)を構成する。しかし、そうした国際法違反の行為が仮にあったとしても、その処罰には軍事裁判(軍律法廷)の手続きは必要不可欠である。
c)立作太郎が「戦時重罪」としている行為のなかに、交戦者の資格3条件が含まれていない、と東中野氏は主張するが、立はここで主要な事例を示しているにすぎない。立は正規軍による交戦資格4条件違反が「戦時重罪」になることを当然の前提として、民兵や義勇兵がこの4条件に違反すれば「戦時重罪」になることを明記している。
d)支那軍が降伏せず、抵抗を継続しているさなかに日本軍の行った「非捕虜――4条件に違反したため捕虜としての処遇を受ける資格を喪失した兵士――の処刑」が違法であることは国際法のどこにも明記されていない。明確に禁止されていない限り、それは合法だったと、東中野氏は主張するが、ハーグ陸戦条約の前文には「マルテンス条項」として知られるものがあり、条規に含まれていない場合は慣習、人道、良心などを考慮して運用すべし、と規定されている。明文をもって禁止されていない行為はすべて合法であるという考え方は否定されている。
e)東中野氏の自己矛盾(1) ・・・ 禁止が明示されていないものは合法とすると・・・
4条件遵守は当然の前提とされているが、ハーグ陸戦規則のどこにも「4条件に違反する行為を行ってはならない」とは明記されていない。明記されていないことを合法とするのであれば、4条件を遵守しないことも合法となってしまう。
f)東中野氏の自己矛盾(2) ・・・ 便衣兵ではないとすると・・・
東中野氏は便衣兵の存在を否定する。もし認めるならば、軍事裁判を省略した形での処刑の違法性が問われることになるし、安全区に潜伏した将兵は武器を所持していない以上、敵対行動を行う便衣兵とは異なるからである。そこで氏は足立純夫「現代戦争法規論」にある「敵が抵抗を継続している限り、国際法上、明文をもって禁止されている以外の一切の害的手段を行使して敵を破摧できる」を根拠に処刑できる、とした。しかし、便衣兵も存在せず、抵抗も終息していたということになれば、処刑合法説の根拠が失われることになるのである。
g)過去の便衣兵対応
1932年春の第一次上海事変では、「便衣隊」の激しい敵対行動に直面し、恐怖にかられた在留邦人は自警団を組織して「便衣狩り」を行い、そのため一般の中国人が誤認されて殺害されることになった。こうした事態に対して、海軍は「租界外に於て捕縛せるものは、之を憲兵隊に送致し、憲兵隊において調査処理す、租界内に於て捕縛せるものは、一旦之を憲兵隊に於て調査の上、工部局警察に引き渡す」こととされた。陸軍も海軍とほぼ同じ通達を出している。
このような先例が存在したにもかかわらず、南京の日本軍は「便衣隊容疑者」の憲兵隊送致という手続きすら講ぜず、彼らを直ちに殺害したのである。
(3)まとめ
田中氏の主張する「交戦資格を持たない便衣兵を処刑するのは合法」は誤りで、東中野氏をはじめ否定派系の学者も含めて「裁判せずに処刑するのは不法」と認めている。東中野氏の奇論は、吉田裕氏によって論破された。第一次上海事変ではしかるべき対策をとっていたことは、軍の幹部が便衣兵の即時処刑を問題行為とみていた証左であろう。
東中野氏は、外国の外交官や安全区国際委員会のメンバーが違法性を指摘しなかったことを合法の根拠のひとつとしているが、外交官だからといって国際法を隅々まで知り尽くしているわけではないし、ましてや国際委員会の宣教師やビジネスマンが熟知しているわけではあるまい。仮に知っていたとしても、裁判が行われたかどうか彼らが知るところではない。彼らは不法行為として訴求してはいないが、合法だとも言っていないのである。
付記 敗残兵の追撃戦
陥落直後、下関では揚子江を渡って対岸に逃れようとする中国兵は、急ごしらえの筏や板切れなどにつかまって渡ろうとしていた。これを陸上からあるいは軍艦の上から射撃して多数の中国軍兵士が犠牲になった。これに対して、否定派や中間派はこうした追撃戦は合法、とするが、史実派の吉田裕氏は次のように述べる。(「13のウソ」、P172~P175を要約)
長江上を脱出しようとする中国軍将兵・一般市民がのった小舟や急造の筏などを、海軍の砲艦が銃砲撃を加え、多数の中国軍民が犠牲になった。これは戦闘などとよべるものではなく、戦意を失って必死に逃れようとする無抵抗の群衆に対する一方的な殺戮にほかならない、たとえ敗残兵であっても、少なくとも降伏を勧告し、捕虜として収容する努力をすべきだった。
ところが、否定論者の一人藤岡信勝氏は「敗走する敵を追撃して殲滅するのは正規の戦闘行動であり、これを見逃せば脱出した敵兵は再び戦列に復帰してくる可能性があるのだから殲滅は当然である」とした。
1945年4月、沖縄海域への水上特攻作戦に出撃した戦艦「大和」などは米軍機の攻撃を受けて、沈没した。このとき、米軍機は漂流する日本海軍兵士に対して、数時間にわたって執拗な機銃掃射を加えたという。
いっぽう、日本の海軍機がイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」などを撃沈した41年12月のマレー沖海戦の際には、日本機は英駆逐艦による生存者救助作業をまったく妨害しなかった。
また、43年2月のビスマルク海海戦では漂流する多数の日本兵に対して連合軍機が数日にわたって機銃掃射を反復し、魚雷艇も海上を捜索して日本兵を射殺した。
藤岡氏の論法によれば、沖縄戦の米軍パイロットやビスマルク海海戦の連合軍は軍人としての本分に徹した称えるべき存在であり、マレー沖海戦の日本軍パイロットは戦場の現実を忘れた感傷主義者ということになるだろう。
※ジョン・ダワーは、アメリカの歴史学者。専門は日本近代史。
6.5節の註釈
註65-1 <国際法> Wikipedia:「ハーグ陸戦条約」
註65-2 <投降兵の受け入れ> 以下は、“ゆう”氏のサイトから、引用させていただきました。 {敵の一部隊が全員挙つて明確に乞降の合図をしたならば、攻撃隊は之を助命すべきのが原則である。 ・・・ 乞降は多くは白旗を挙げて合図するが、その白旗は之を挙げたる軍隊に限り、且その隊所属の各兵が悉く抵抗を止めたる場合に限り保護の効あるもので、たとひ之を挙ぐるにしても、スペイトが云へる如く、『戦闘の酣なる際に敵兵中の小部分が白旗を挙ぐるも、大部分が尚ほ依然抵抗する間は、攻撃側の指揮官は何等之を顧念するを要せずと為すのを最安全の法則』と見るべきである。 註65-3 <収容捕虜数> 「南京戦史」、P366 {捕虜収容所に収容された捕虜の数は、第16師団経理部部員某少尉の13年1月6日の日記に「今では大部数も減ったそうだが、3670人もゐるさうな、最初は1万人もゐたと聞く」と記されており、上海派遣軍12月29日発表として翌30日、朝日新聞には「捕虜1万5百」と掲載されている。また、直接の当事者である榊原参謀が、「【12月】17日頃、中央刑務所に収容された当初の捕虜の数は約4,5千と思う」と証言しているが、この証言を尊重し、中央刑務所(注・第一監獄所のこと)その他南京城内の収容所にその後追加収容された捕虜、1月5日ごろ捕虜として収容された約500の傷者も含めた総数を約6千余人と推定した。} 註65-4 <榊原参謀の証言> 「証言による南京戦史(11)」、P8 {・・・ 私は入城式に先だち、13、14日頃中山門から市内に入りました。俘虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食糧や収容場所などが決定しなかったので、「取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時機は速やかに示す」こととしました。 ・・・ 秦氏は次のように述べている。 {翌年1月上旬南京に出張した参謀本部の稲田中佐が、榊原派遣軍参謀から、「収容所の捕虜を上海で労役に使うつもりでいて、数日出張した留守に殺されてしまった」(稲田正純談)と聞いている。}(秦:「南京事件」、P125) 註65-5 <陸軍次官通達> 秦:「南京事件」、P197 {陸軍次官から北支那駐屯軍参謀長にあてた依命通牒(・・・)には、「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」中、害敵手段※の選用等に関し之が規定を努めて尊重すへく ・・・}とある。一応は交戦法規を尊重する主旨に見えるが、加登川幸太郎氏が指摘したように、それは「害敵手段の適用」などであって、交戦法規の全部ではない。 ・・・ さらに、この通牒の別の箇所では、「日支全面戦争を相手に先んじて決心せりと見らるるが如き言動、(例えば、戦利品、俘虜等の名称の使用、或は交戦法規そのまま適用せりと公称すること・・・)は努めてこれを避け」と指示している。読みようによっては、俘虜の待遇を含め国際法を守らなくてよろしい、と説いているかのようであるが、明示はせず、解釈の責任は受け取る方に任せて逃げた、ととった方が良いのかもしれない。} ※「害敵手段」とは、戦闘方法のことで、ハーグ陸戦条約第23条で次のような手段が禁止されていた。 ・毒、または毒を施した兵器の使用。 ・敵の国民、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。 ・兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること。 ・助命しないことを宣言すること。 ・不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること。 ・軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服またはジュネーブ条約の特殊徽章を濫りに使用すること。 ・戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。 ・相手当事国国民の権利及び訴権の消滅、停止または裁判上不受理を宣言すること 註65-6 <戦闘詳報への捕虜処断記入> 秦:「南京事件」、P68 {1つは第3師団の歩34連隊で、大場鎮の戦闘での「鹵獲表」に俘虜122名とかかげ、「俘虜の大部は師団に送致せるも、一部は戦場に於て処分せり」と注記している。もう一つは第13師団の歩116の戦闘詳報で、「俘虜准士官下士官兵29」として、「俘虜は全部戦闘中なるを以て之を射殺せり」とある。 註65-7 <裁判なしの捕虜処刑は違法とする学者たち> 「再現 南京戦」、P343-P345 ①北村稔:「南京事件の探求」; 「筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文運用に関する当時の法解釈に基づく限り、日本軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる」 ②中村粲:「敵兵への武士道」; 「軍司令官には無断で万余の捕虜が銃刺殺された。それを『便衣の兵は交戦法規違反である』と強弁してはならず、率直に戦時国際法違反であり、何より武士道に悖る行為であったことを認めねばならぬ」 ③原剛:「板倉由明 『本当はこうだった南京事件』推薦の言葉; 「 ・・・ 本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定するべきものであって、第一線の部隊が勝手に判断して処罰すべきものではない」 ④秦郁彦、他:「昭和史の論点」; 「 ・・・ 捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウィークポイントなんです。 ・・・ 捕虜の資格があるかないかはこの際関係ありません。その人間が銃殺に値するかどうかを調べもせず面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なんです」 ⑤吉田裕:「現代歴史学と南京事件」; <6.5.2項(2)を参照>
いや反対に、大部分が白旗を挙ぐるも、小部分とはいへ尚ほ抵抗する敵兵ある限りは、乞降の意思の不統制に由る責は我方之を負ふべき筋合でないとして、その白旗に我方亦敢て顧念するの要なしと解したい。 ・・・ 勿論敵の乞降者と抵抗者とを判明に識別し得るの余力が我方に綽々として存せば別論である。}(信夫淳平:「戦時国際法提要」(上)、P560-P561)
中央刑務所に収容された俘虜は約4~5千であったと思います。それは翌年1月、上海地区の労働力不足を補うため、多数の俘虜を列車で移送し、約半数2千人を残したように記憶しています。}
戦闘詳報は後世に残る公文書であり、作成に当っては都合の悪い部分は適当に加除して体裁を整えるのが慣行になっていた。不名誉な死亡事故を「壮烈な戦死」に修飾するぐらいは珍しくなかったが、その戦闘詳報に国際法違反の行為を堂々と記載したのは、すでに捕虜殺害は当然という気分が全軍に行きわたっていたことを物語る。}