6.6 市民への暴行はわずか?
図表6.17 市民への暴行はわずか?

(1)否定派の主張
田中氏は、第5の論拠で「難民区は安泰」であり、南京在住の非戦闘員は安全区(難民区)に避難していたので、市民の犠牲はほとんどなかった、と主張する。(以下、「南京事件の総括」、P44-P52を要約)
①12月14日、歩7連隊は安全区の出入口10数個所に歩哨を立て、無用の者の立ち入りを禁止して掃蕩を行った。歩36連隊脇坂連隊長は、中に入ろうとしたが歩哨にとがめられ、入れなかった。
②安全区には一発の砲弾も打ち込まれず、空襲もなかった。放火もなく、一部の不心得者による、強姦・暴行・窃盗事件等が国際委員会の公文書に記録されているが、婦人・子供の殺害は全然起きていない。紅卍会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無に近い。便衣兵と誤認されたり、徴用、拉致等の扼に遭った者は若干いたが、概してこの地区は平穏だった。
③南京の全市民は例外を除き全員ここに蝟集していたから、安全区が安泰ということは、南京の全市民が安泰であったということである。
④ラーベは日本軍が安全区を攻撃しなかったことに対して感謝する書簡を送り、マッカラムは日本兵の善行を日記にしたためている。
⑤同盟特派員の前田雄二氏は1959年の週刊誌『世界と日本』で、「・・・同盟通信社の旧支局は難民区の中にあり、入城4日目にはこの支局に拠点を移し寝泊りしていた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたが、万はおろか千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずがなかった。捕虜の処刑はあったが、戦闘行為の枠内であり、非戦闘員の多量虐殺の事実はなかった」と述べている。
⑥下関から北へ1.8キロの宝塔橋街にある保国寺には6,7千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。14日、砲艦比良艦長の土井申二中佐は、該地区の整備確保を行い、紅卍会支部長陳漢林総代表から感謝状を受け取った。このような将兵や司令官が婦女や子供もむげに殺害するような命令を下すはずがない。
(2)史実派の反論
「南京大虐殺否定論 13のウソ」ではこの否定論に触れていない。
(3)安全区の警備(田中氏主張①)
歩7連隊は安全区内の掃蕩作戦の一環として歩哨を設置したのであって、治安維持が主目的ではない。「無用の軍人は入れるな」という命令が出ていたので、「入れてくれ」と高級将校が頼んでも入れなかったのは当然だが、侵入しようと思えば周囲10キロにもなる安全区の境界線を越えて入ることは簡単なことだったろう。
このような任務は職務権限を持った憲兵が行うべきものだが、陥落時に憲兵はわずか30名ほどしかいなかったとみられる註66-1。国際委員会は14日に歩哨の設置を要求し、15日に「特務機関長」が「歩哨をたてる」と約束している註66-2が、12月16日から20日まで連日憲兵の配置を要求し、その後12月26日、1月2日にも特定の場所を指定して要求している註66-3。
ミニー・ヴォートリンが管理していた女性専用難民収容所(金陵女子文理学院)では、12月20日、高級将校が視察に来た際、女性を拉致しようと侵入してきた日本兵がみつかり高級将校から叱責を受けたが、その夜から25人の憲兵が配置された。ところが、その憲兵が2人の女性を強姦したため、翌日から屋外の警備だけをするように変更した註66-4。これでヴォートリンの収容所では強姦がほとんどなくなったが、それ以外の所ではまだ発生していた。
(4)安全区の治安(田中氏主張②)
(a)一発の砲弾も打ち込まれず、空襲もなかった!?
空襲がなかったこと、砲撃対象でなかったことは事実だが、流れ弾が2発落ちていることは、東中野氏も認めている(6.4.1項(1)ⅱ)。 「一発も打ち込まれず」は誤りである。
(b)放火もなし!?
スマイス報告(図表4.19)によれば、安全区内の建物1493棟のうち0.6%(=9棟)が放火により損傷を受けており、「南京安全区档案」の事件簿(事例番号75)にも安全区内で放火があったことが報告されている註66-5。城内(安全区外)では13%、城外においては何と61.6%もの建物が放火の被害を受けているので、それらと比較すれば「安全区内の放火は極めて少ない」といえるが、1000棟に6棟もの割合で放火があるのに「放火もなし」と胸を張って言いきれるものではない。
(c)婦人・子供の殺害は全然起きていない!?
「南京安全区档案」に記載されている事件のうち、殺人事件33件(図表4.6)について調べてみると、犠牲者総数65人のうち、女性は19人、子供(15才以下)が7人もいる註66-6。事件は安全区外で起きたものも含まれるが、4.6.1項(1)でも述べたようにこれは南京事件全体から見れば氷山の一角にすぎない。実際、スマイス報告(図表6.18)では、女性の殺害者数650名と報告されている。
また、紅卍会の埋葬記録によれば、埋葬した女性は82人、子供は46人である註66-7が、これには白骨化して性別が分からなくなったようなものは除かれているとみて良いだろう。「婦人・子供の殺害は全然起きていない」は全くの誤りである。
(d)便衣兵と誤認されたり、徴用、拉致等の扼に遭った者は若干いた!?
田中氏は第8の論拠で、{ 拉致されたもの、つまり行方不明者は4200人・・・ }(6.6.2項(1)(a))と述べているが、4200人を”若干”というのは非常識であろう。
(5)南京のほとんどの市民は安全区にいた!?(田中氏主張③)
すでに、6.1.1項で述べたように、南京の全市民が安全区にいたわけではない。
(6)感謝状(田中氏主張④)
ラーベは日本軍とケンカをしてもいいことは何もないことを知っていたから、ヨイショした方がいいときにはヨイショしているだけ。ラーベは12月30日の日記に次のように書いている。
{ 松の盆栽を二つ買った。平たい磁器の鉢に入った立派なものだ。福井氏と南京地区西部警備司令官の佐々木到一少将に渡す年賀だ。ふたつともあまりきれいなので、手放すのが惜しくなってしまった。だが、ごのご時世だ、日本人をたてておかなければ。} (「南京の真実」、P179)
マッカラムの日記は、都合のよい部分(下線部)だけを引用している。
{ 礼儀正しく、而も尊敬して、私共を処遇して呉れました、若干の大変愉快な日本人がありました。他の者は非常に残忍で、私共を脅迫し殴打したり、平手打等をやりました。リッグス氏はもっともひどく平手打をされました。私は時々、一日本兵が若干の支那人を助けたり、又、遊ぶ為に支那人の赤子を拾ひ上げて居るのを目撃しました。 ・・・ 而して良心的な日本兵は極く少く、全然有るか無いかです。} (東京裁判のマッカラムの宣誓口供書(12月29日の日記) 「大残虐事件資料集Ⅰ」、P119)
前田雄二氏は、その著書「戦争の流れの中に」で次のような事件を目撃した、と述べている。(同書、P117-P121<要約>)
・12月16日;軍官学校で新兵訓練を兼ねた「捕虜の処刑」
・ 同上 ;挹江門にあった大量の死体 【これは中国軍の督戦隊によるもの】
・ 同上 ;交通銀行の裏での「捕虜の処刑」
・12月17日;下関で「2千に達するかもしれない死体群」
また、{ 兵隊たちは、めぼしい家の扉を破ってまわったのだ。もっとも部隊では、こうした行動を「掠奪」とはいわず、「徴発」といった。} (同書、P80) ともいう。
当時の上司であった松本重治氏は前田氏ら南京駐在の記者たちから次のような話を聞いている。この話を聞いた時期は田中氏が引用した雑誌よりあとになると思われるが、相手により言い方がずいぶんと違うものである。
{ ・・・ 戦闘行為と、暴行、虐殺との区別がなかなかできないということであった。 ・・・ 女子に対する暴行、殺人も極端にまで行われたらしいが、軍隊として組織的にやったものとは信ぜられないという。・・・ 何十万とかいう「大虐殺」事件はなかったようだといい、戦闘以外の虐殺被害者は、まず、1、2万というところではないかともいっていた。・・・} (松本重治:「上海時代(下)」、P374)
(8)宝塔橋街の難民区(田中氏主張⑥)
南京城からわずか1.8キロの所に6千人とも2万人ともいわれる人たちがいた、ということは、「南京市民のほとんどは安全区にいた」という田中氏の主張と明らかに矛盾する。
詳細な資料が残っていないので治安の良し悪しは不明だが、城内の安全区や郊外の棲霞山難民キャンプ(4.5.3項(4))の情況をみれば推して知るべしであろう。土井申二艦長が感謝状をもらったのは事実だろうが、ラーベの感謝状と同じようなものではなかろうか。
秦氏は憲兵による摘発について、次のように述べている。
{ ・・・柳川第10軍の法務部陣中日誌が発見され、『続現代史資料(6)』(みすず書房)の「軍事警察」に収録されている。3か月余りで軍法会議にまわされた殺人、強姦、放火などが62件、118人を数えるが、第10軍憲兵隊長の上砂勝七【かみさご しょうしち】中佐が、「わずかに現行犯で目に余るものを取り押さえる程度」と自認しているぐらいで、全貌を察するには程遠く、アトローシティの主役である上海派遣軍のデータは行方不明のままだ。} (秦:「南京事件」、P206)
(10)まとめ
安全区の治安が区外と較べれば良かったことは間違いないが、「南京安全区档案」に報告された凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦)だけでも、東京都の180倍もの事件が起きている(図表4.13)のである。
南京戦に参戦した将兵たちの多くは善良な人たちだったが、理性で自らの感情や欲望を制御できなくなった将兵が少なからずいたのも事実であろう。国際委員会の報告書やミニー・ヴォートリンの日記によれば(註66-3、註66-4)、彼らは数人のグループで徘徊しながら獲物を狙ったようだ。そのような連中を取り締まる憲兵の体制が貧弱だったり、見つけても軽い説諭やビンタくらいで放免してしまったり、あるいはこうした行為を黙認してしまう指揮官がいたり、統制面の不備もあった。
秦郁彦氏は次のように述べている。
{ 参加者の間では「予後備兵が悪かった」「前線より後方部隊の方がひどかった」と語る人もあり、お行儀の悪い特定の部隊(16師団を筆頭として、赤羽工兵隊、内山砲兵旅団、101師団の谷川連隊など)を名指しする人もいるが、いずれも狭い視野からの見聞で、参加部隊の汚染度は似たり寄ったりではなかったか、と思われる。} (秦:「南京事件」、P223)
スマイス報告の内容については、4.7.4項を参照されたい。
(1)否定派の主張
(a)田中氏は、第8の論拠で次のように述べる。 ・・・ 「南京事件の総括」、P73-P78を要約
南京事件でもっとも信憑性のある第一級史料は、ルイス・S・C・スミス博士の「南京地区における戦争被害調査」であると私は信じている。 ・・・ その調査の実施方法を見ても実に細心、精密であり、合理的でかつ公平である。(以上原文通り、スミスはスマイスのこと)
戦争による被害者の情況は、死者3250人のうち、軍事行動によるもの850人、兵士の暴行によるもの2400人であり。負傷者は3050人である。拉致された4200人は、日本軍に荷役あるいはその他の労役に徴発されたものもあるが、6月にいたるも消息はほとんどない、「日本軍によって殺された者の数をかなり増加させるにちがいない」と博士はいっている。
このスミス博士のもっとも信憑性ある学術的調査報告に対して、虐殺派はこれを取上げようとせず、洞富雄氏のごときは“悪用されては困る”とさえいっている。
東京裁判で弁護側はスミス博士の証人喚問を要求するが、裁判所はその要求をしりぞけて宣誓口供書を証拠として受理した。スミス博士がその気になれば、調査結果をいくらでも水増し修正できたはずだが、彼は自分の調査書の一字一句も変えなかった。
彼は南京近郊6県の農民たちからも戦争被害の状況を調査している。もし伝えられるごとき非戦闘員の“大屠殺”があったとするならば、その種の重大なる聞き込みは、スミス博士やベイツ教授その他の委員に報告されるはずであるが、そうした記載はないのでそのような事実(大量の集団殺戮)は無かったということである。
(b)北村稔氏は、「南京事件の探求」で次のように述べている。 ・・・ (同書P164-P178を要約)
スマイス報告は、現地調査の豊富な経験を持つ社会学者が作成したものである。しかし、日本軍の行為を批判してほしいという国民党の意を体して作成されたものでもあった。スマイスには被害状況を過大に評価する動機は存在するが、過少に評価する動機は存在しなかった。
都市部調査(City Survey)における人的被害について、大阪学院大学経済学部の丹羽春喜教授が統計学的見地から詳細な分析をしている。丹羽教授によれば、被害者となった成年男子中の44.3%は独身・単身者だが、1938年春の南京市男子総人口中の独身・単身者比率5.2%と比べて異常に高い。その原因はこれらの被害者に南京市民ではない多数の便衣兵が含まれているからだ、と判断している。
農村部調査(Agricultural Survey)については、調査が行われた地域は必ずしも日本軍の侵攻経路と緊密に重なっているようには見えない。住民は避難できたはずだし、日本軍はこの地域を1週間ほどで急進撃し、進撃の矛先から外れる地域は数多く存在した。都市部では50家族に1家族を抽出して調査が行われ、その結果を50倍して全体状況を割り出しているが、農村部の調査では3つに一つの村を選びその村の10家族に1家族を選んで調査したのであるから、調査結果を30倍すれば調査した限られた地域の数字は集計される。ところが、スマイスは各県の限定地域の1家族あたり平均被害状況に、県内の全家族数を掛けている。このような集計方法では被害に全く遭わなかった家族の数も掛けるべき家族数に参入されてしまい、被害状況は大幅に増大する。
(2)史実派の反論
笠原十九司氏は、「南京難民区の百日」で次のように述べる。 ・・・ (同書P383-P395を要約)
農村部調査(Agricultural Survey)については、調査時点で離村したまま帰っていない者が13万余うち帰宅が予想できないものが42、800人もおり、日本軍の暴行事件による死者26,870人という数字はもっと増えるはずである。また調査は帰村している農家のみを対象にしており、家族全員が殺害された農家は対象になっていない。スマイス調査のデータはサンプリング調査による数字であること、南京市の6県全部の調査ではなく、農村より人口の多い各県城の被害を含めていないという限界をもつが、南京近郊農村の民間人がいかに多数殺害されたかが推測できる貴重な資料である。
都市部調査(City Survey)は、南京居住市民の救済を目的にした調査であるため、一家全員が犠牲になった家族、離散した家族、郊外から難民区に流入してきて犠牲になった人々などは、調査対象外になっている。調査は無事で家に戻って居住できた家族や安全区内に家族で居住していた市民だけを対象にし、深刻な被害を受けて自宅に戻れていない家族や家族が破壊された市民を除外しているため、殺害された市民の総数を知る調査資料としては、大きな限界がある。
(3)田中氏の矛盾
田中氏は第5の論拠で「婦女子の殺害なし」と主張する。この主張が誤りであることはすでに前項(6.6.1項)で述べたが、さらに補足すれば、田中氏が「もっとも信憑性のある」とするスマイス報告の都市部調査における市民の殺害者数を性別、年齢別にまとめた表(図表6.18)によれば、兵士暴行による女性の死者は650名、14歳以下の子供も150名を超える。
図表6.18 性別・年齢別の死傷者・拉致被害者 出典:「大残虐事件資料集Ⅱ」、P254<第5表>
|
単位:% |
死亡 |
負傷 |
拉致 (男のみ) | ||||||
|
男性 |
女性 |
男性 |
女性 | ||||||
|
兵士暴行 |
その他* |
兵士暴行 |
その他* |
兵士暴行 |
その他 |
兵士暴行 |
その他* | ||
|
5歳未満 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
|
5~14歳 |
6 |
8 |
8 |
- |
- |
- |
8 |
- |
- |
|
15~29歳 |
25 |
25 |
23 |
- |
44 |
80 |
65 |
- |
55 |
|
30~44歳 |
22 |
8 |
15 |
14 |
35 |
20 |
11 |
50 |
36 |
|
45~59歳 |
19 |
42 |
15 |
57 |
15 |
- |
8 |
- |
9 |
|
60歳以上 |
28 |
17 |
39 |
29 |
6 |
- |
8 |
50 |
- |
|
合計 |
100 |
100 |
100 |
100 |
100 |
100 |
100 |
100 |
100 |
|
1000人当たり(人) |
8 |
3 |
3 |
2 |
8 |
1 |
6 |
0.5 |
19 |
|
該当者数(人) |
1800 |
600 |
650 |
350 |
1700 |
250 |
1300 |
100 |
4200 |
*「その他」は軍事行動によるものと不明のもの
*図表4.18では、兵士暴行による死者2400、軍事行動と不明の死者計1000となっており、上の表と50ずれているが、端数処理によるものと思われる。
また、同じ第5の論拠で田中氏は「便衣兵と誤認されたり、徴用、拉致等の扼に遭った者は若干いた」というが、「もっとも信憑性のある」スマイス博士の調査結果は「拉致された者4200人」である。この数字はとても「若干」というレベルではない。
農村部調査については、「大屠殺があったとするなら報告があるはずなのに、無いということは大量の集団殺戮はなかったということを意味する」と述べるが、数百数千の単位での集団殺戮はなかったとしても、4.5県の合計で2万6千人以上が日本軍の暴行によって殺害されているのである。「大量の集団殺戮」はなかったかもしれないが、「大量の殺戮」はあったのである。
(4)北村教授の算数力
北村氏は、スマイスはティンパリーとともに国民政府宣伝部からカネをもらってこの調査報告書を作ったと言っているが、それが虚偽であることは6.3.3項で述べた。
①都市部調査には便衣兵が多数含まれている!?
丹羽教授の「被害者となった成年男子の独身・単身者比率(44.3%)が異常に高いのは、便衣兵が多数含まれていたから」という論考は、次の2点より誤りである。(詳細は註66-8を参照)
a)丹羽氏は男子全体の独身・単身者比率を5.2%と推定しているが、算出方法に誤りがあり、正しくは20%前後になる。被害者の独身・単身者比率44.3%が異常に高いわけではない。
b)スマイス報告では、被害者の有無を家族から聞き取り調査しているので、家族のいない便衣兵が殺害や拉致をされても調査対象にはならない。丹羽氏はスマイス調査には人口統計には含めない調査カードがあったはず、と主張するが具体的な痕跡は示しておらず、憶測に過ぎない。
②農村部調査方法は誤りか?
北村氏はスマイス報告書を読み込んでおらず、算数も苦手なのではないだろうか。都市部調査と農村部調査では方式がまったく違うことを知るべきである。
<都市部調査の方法>
都市部調査では、調査時点の人口や家族数がまったくわからないので、2段階で調査している。まず、住民が住んでいる家を住居地図と照らしわせながら調べて戸数(家族数)を数える。次に、50戸に1戸の割合で調査員が訪問し、被害状況を聞いて調査表に記入する。調査戸数は最初に調べた戸数を50で割った数なので、調査結果の合計値に50を掛ければ全体の数字が算出できる。
<農村部調査の方法>
ところが農村部調査は地理的に非常に広く戸数も厖大な数になるので、都市部と同じような調査はできない。そこで、6年前に調査したときの家族数(戸数)を使うことにした。農家は農地に依存して存在するから、家族数(戸数)が大きく変わることはない、と考えたのであろう。そして、標本をできるだけ無作為に集めるために、主要道路を8の字状に行き、3村落のうち1つを選びその村落について10戸に1戸を調査対象とした。そして、調査結果から1戸毎の平均値を求め、それに6年前の調査で判明していた農家数を掛けてその県全体の数字を推定したのである。
調査地域の戸数がわからないのに、単純に30を掛けて算出しても何の意味もないことがおわかりいただけただろうか。スマイスの方法によれば、県内の様々な地域が調査されるので、被害に遭った家族、遭わなかった家族の両方が無作為に抽出され、北村氏が心配するような偏りはない。もちろん、統計調査である以上、実態とぴったり一致するわけではないが、一定の精度は得られる。
(5)スマイス報告の問題点
スマイス自身が指摘する問題点及び研究者の指摘する問題点のうちリーズナブルと思われる指摘を以下に掲げる。なお、サンプル調査であること、サンプル数が少ないことを理由に信頼性が低いことを指摘するむきもあるが、母集団の各層から無作為にサンプルが選ばれれば、一定の精度が得られることは統計調査の常識である。例えば選挙予測や世論調査などは、日本の成年人口約1億人に対してわずか2~3千人の抜き取り調査で傾向をつかむことができるのである。
(注)項目タイトルのうしろにある<×>はその問題を指摘している人を示す。
<S>; スマイス自身が報告書で指摘、<笠>;笠原十九司氏、<戦>;南京戦史、<他>;その他の研究者
(a)都市部調査(City Survey)
①人口が少ない<S>
日本軍が調査した結果をもとに推定した人口25~27万に対してスマイスが調査した結果は22万余となっている。スマイスはこの原因を、調査員の手の届かぬ人々、移動途中の人々としている註66-9。都市部調査の方式では、人口が増えれば犠牲者数も増えることになる。
②殺害者数、拉致者数が少ない<S>
幼児の殺害者数がゼロ、拉致者に女性がまったくいないのは不自然、と指摘し、その背景には日本軍の報復を恐れて申告していない場合がある、とスマイスは述べ、紅卍会の埋葬記録から殺害された市民は1万2千人と推定している註66-10。
(b)農村部調査(Agricultural Survey)
③家を離れたまま戻っていない人々が多数いる<S><笠>
調査結果によれば、家を離れたまま戻っていない人が13万人以上おり、このうち11万1千人は南京に近い江寧県の人たちである。調査員は村の指導者からも村人の情況を聞いており、それによれば当初住民の30%は家族ごと移動したまま戻っていない註66-11。
戻っていない13万人や家族ごと移動した人たちすべてが殺害されたわけではないが、どの程度影響があるかは不明である。(その人たちの死亡率が調査対象家族の死亡率と同等であれば、調査結果は変わらない。)
④病死者が少ない<S><他>
板倉氏は病死者が少ないことを指摘し、秦氏は殺害者数を“補正”している。(4.7.4項(6)参照) スマイスも100日間で千人あたりの病死者数3.8人は極めて少ない、5歳以下の病死者は一人も報告されていない、と認めつつも、この100日間は豊作で例になく温和な季節であり、疫病や変った病気はほとんどなかった、殺害者数にいちじるしく影響することはない註66-12、と述べている。
⑤農家だけが対象で県城などの都市在住者は調査対象外<笠>
そのとおり。史実派が主張する事件の範囲である近郊6県のうち1.5県も調査範囲外である。これらを対象に加えれば、死亡者数が増加することは間違いない。
(c)双方共通
⑥一家全員が犠牲になった家族、離散した家族などは対象外<笠>
そのとおり。スマイス調査が犠牲者数の推定を主目的としていないことが影響していると思われるが、市民の犠牲者数の推定は極めてむずかしいようだ。(以下の余話を参照)
⑦中国軍に殺害された死者も含まれる、回答に作為が入る<戦>
その可能性を完全に否定することはできないが、統計調査ゆえに発生する誤差の範囲であろう。
(6)まとめ
スマイス報告は、上記のような問題はあるにせよ市民の犠牲者数に関する唯一の信頼できる史料であることは、いずれの派も認めている。一方で、これを犠牲者数の算定に利用しているのは中間派だけである。史実派と否定派が、“信頼できる”といいながら、具体的な数字を出すに至っていないのは政治的、感情的な背景があるのであろう。
1945年3月末から6月にかけて行われた日本軍と米軍など連合国軍との間で戦われた沖縄攻防戦の犠牲者数は次の通りである。(Wikipedia:「沖縄戦」)
・日本側死者総数 188,136人
-軍人、軍属 94,136人
-民間人 94,000人(うち、55,246人は戦闘参加者)
・連合軍側死者総数 20,280人
民間人の犠牲者数を直接調査することは不可能だったので、1945年と1946年の沖縄県の住民数の差から求めているが、1946年の人口には沖縄戦後に生まれた子供、本土へ疎開していた者、海外からの引き揚げ者や復員兵などが含まれるため、実際の戦没者はもっと多い、といわれている。沖縄平和紀念公園にある「平和の礎(いしじ)」に刻まれている日本人の戦没者名は軍人を含めて226,842人※で、上記より4万人近く多い。 ※2017年3月現在 沖縄県人については沖縄戦以外での死者も含む
民間人の「戦闘参加者」というのは、戦没者援護法との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人である。民間人で編成された「防衛隊」や有名な「ひめゆり学徒隊」も含まれる。このなかには、いわゆる“便衣兵”として戦闘に参加した者もいたであろう。アメリカ軍は毒ガスなど不法な手段を使って、兵士達を殺害し、陥落後は強姦や市民への暴行が多数発生したという。
6.6節の註釈
{ 東京裁判の日高信六郎証言によると、12月17日現在の城内憲兵はわずか14人で・・・ 南京占領直後に城内で活動していた正規の憲兵は、両軍あわせても30名を越えなかったと思われる。その不足を補うために一般兵から臨時の補助憲兵を集める予定にしていたが、実際の配置は1週間近くおくれた。これでは効果的な取締りを期待するのは困難というより、不可能に近かったであろう。」 (秦:「南京事件」、P102)
{ 12月19日 ・・・ 【日本大使館員から】 われわれのきいたところでは、最近、憲兵が17名到着したので、彼らは秩序を回復するのを助けるだろうとのことでした。5万余りもの軍隊にたいしてたったの17人! といっても、われわれは大使館の3人の人にたいしてむしろ好意をもっております。} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P36 <戦争とは何か フィッチの日記)
{ 1月初めには定員約400名の中支那方面軍憲兵隊が編成され、・・・ } (秦:「南京事件」、P178)
註66-2 <国際委員会と日本軍との面会> 出典:「安全地帯の記録」
12月14日 第1号文書「南京日本軍司令官への手紙」 {私どもは国際委員会が以下のことをできるように謹んで要請するものであります。 1.安全地帯の入口には日本軍歩哨1名を立てて頂くこと。 ・・・ } (P138-P139)
12月15日正午 第6号文書「特務機関長との会見の覚書」 { ・・・ 1.中国人兵士を捕まえるため市内捜索がなされるべきである。 2.安全地帯の入口には歩哨を立てるであろう。 3.人々はできるだけ速やかに各自の自宅に戻るべきである。それゆえ我々は安全地帯を捜索せざるを得ない。 4.武装解除された中国人兵士を取り扱うにあたっての日本軍の人道的態度を信頼されよ。 ・・・ } (P146-P147)
註66-3 <国際委員会からの憲兵配置要求> 出典:「安全地帯の記録」
12月16日 第7号文書「福田氏への手紙」 {・・・ 国際委員会は日本帝国陸軍が以下の措置を直ちに講じられることを謹んで提案します。 1.捜索はすべて責任ある将校のもと正式に組織された部隊により行われること(トラブルのほとんどは将校のいない3,4人のうろつく兵士達に起因しています)。 2.夜間は、そして可能ならば日中も、安全地帯の入口全てに歩哨(昨日少佐が提案)を立て、はぐれ日本兵が一人も安全地帯に入ることのないようにすること。 ・・・ }(P149-P150)
12月17日 第9号文書「日本大使館への手紙」 {・・・ 1.日本帝国陸軍は掠奪、家屋侵入、婦女暴行、拉致の現場を見つけられた兵士を逮捕する完全な権限をもって昼夜を問わず安全地帯を巡察する正規の憲兵隊の制度を立ち上げること。 ・・・ } (P158-P159)
12月18日 第10号文書「日本大使館への手紙」 {・・・ 1.昨日の要求と同じく安全地帯を憲兵が昼夜通じてパトロールすることを繰り返し要求します。 ・・・ } (P165)
12月19日 第14号文書「日本大使館への手紙」 {・・・ 我々は貴方がたが歩哨を、昨日リストに挙げました18の難民収容所と今朝のウィルソン氏が要請した大学病院に、立ててくださることと心から信じております。 ・・・ } (P174)
12月20日 第16号文書「日本大使館への手紙」 {・・・ 今日まで他の方法はとられていないので、我々は歩哨が今晩以降18の難民収容所と大学病院に立てられ、また日中には五台山のふもと金陵女子学院の向い側の我々の粥炊き出し所と大学運動場にも立てられるよう切望する。 ・・・ 貴下の手中にある憲兵の数は事態に適合するには十分ではないのである。} (P189)
12月26日 第24号文書「日本大使館への手紙」 { ・・・ 今まで、夜間、問題が起ってきた場所が3ケ所あります。とりわけ①聖書師資訓練学校収容所、ここでは最近の4夜、7人の兵士が少女達を強姦に来ていますし、昨夜などは兵士はそこで夜を過ごしさえしました。②漢口路小学校収容所、及び③五台山小学校収容所です。 ・・・ これら3ケ所に、少なくとも数夜、憲兵を配置して下さるようお願い致しました。} (P209-P210)
1月2日 第29号文書「日本大使館への手紙」 { 安全地帯内を徘徊する兵士達に、安全地帯の外にいるよう命令したとの29日付けの貴下の声明を感謝しております。これにより事態は非常に改善されました。しかしながら、昨日今日と残念なことが起っております。多くの安全地帯入口は警備がなく、5~6人の兵士達の数グループが腕章をつけずに安全地帯内を徘徊しています。 ・・・ } (P219)
註66-4 <女性専用収容所への憲兵配置> 「ミニー・ヴォートリンの日記」、P69-P79
{ 12月20日(月) ・・・ 3時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵がきてくれることを大まじめに願っていた。中央棟にひしめく避難民の視察をわたしたちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性5人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らはわたしたちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、跪いて助けを求めた。わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることはできない。
・・・ 驚いたことに、夕食のすぐあと、今夜の警備要員として憲兵25名がキャンパスに派遣されてきた。どうやら午後発生した事件の効き目があったようだ。
12月21日(火) ・・・ 朝食のあと、例の25人の警備兵が昨夜危害を及ぼした(女性二人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。そうしないと兵士の恨みを買うことになり、そのほうが当面している災難にもまして始末が悪いかもしれない。 ・・・ わたしたちは領事に、たいへん申し訳ないが、あんなに大勢の兵士に石炭や茶やお菓子を出すことはできないし、それに夜間に派遣してもらう憲兵は2名だけ、昼間は1名のはずではなかったか、と言った。領事はとても察しのよい人で、昨夜は25人もの警備兵がキャンパスにいたにもかかわらず、万事うまくいったわけではないことを理解した。
12月22日(水) ・・・ 毎晩、25人の警備兵がキャンパスに派遣されている。彼らが配置された最初の晩、いくつかの不幸な事件が発生した。昨夜は何事もなく平穏だった。今夜も昨夜と同じ方式、つまり、日本兵には外を警備してもらい、中はわたしたちが警備するという方式をとることを上手に提案した。・・・
12月25日(土) クリスマス・ディナーのときにサール・ベイツが「地獄のクリスマス」と題して記事を書いているところだ、と言った。実際のところ、この金陵女子文理学院ではそのようなことはない。このキャンパスは多少なりとも天国である。 ・・・ 昨夜も平穏な一夜だった。校門に警備兵25人が配置され、漢口路と寧海路を巡回してくれた。ここの何週もの間で初めて朝までぐっすり眠った。 ・・・ }
註66-5 <放火事件の例> 「安全地帯の記録」、P191
{ 第75件 12月19日の夕方午後4時45分頃、ベイツ博士は平倉巷Ping Tsang Hsiang※ 16号の家に呼ばれた。そこは日本兵が数日前に難民を追い出した所である(リッグス、スマイス、スティール目撃)。彼らはそこで掠奪を終え、3階に火をつけていた。ベイツ博士は消火につとめたが、既に遅すぎ家は全て焼け崩れた。(ベイツ)}
※平倉巷: Googleマップによれば、南京大学(当時は金陵大学)の300メートルほど南。
註66-6 <婦人・子供の殺害者数>
対象データの詳細は4.6.1項を参照。 数字は事例番号、カッコ内は殺害者数で記入ないものは1人。
・婦人;62、63(2)、139、188、195、205、219(4)、223(2)、270(2)、299、303、425、本文
・子供;219(5)、本文(2)
註66-7 <紅卍会の埋葬者数>
「南京事件資料集Ⅱ」、P270-P273 ここに掲載されている表は女性の合計値の足し算が誤っているので修正している。
註66-8 <丹羽教授の論考は誤り>
6.2.3項で紹介した“ゆう”氏は、丹羽教授の論考を入手して詳細な分析をされている。ここではそれを参考にさせていただき、筆者なりに分析した結果を報告する。“ゆう”氏のサイトはこちらを参照。 (筆者の分析とはやや異なる)
丹羽氏の論考は次の2つあるが、主旨はほとんど同じである。なお、これらの論考では、都市部における殺害・拉致者に大量の便衣兵が混入している、という主張のほかに、拉致された者たちの多くは殺害されていない、殺害の25%は中国人によるもの、といった主張もあるがいずれも憶測に過ぎず、北村氏もとりあげていないのでここでは除外する。
ⅰ)丹羽春喜:「スマイス調査が内包する真実を探る」、雑誌「自由」平成13年4月号、自由社、P43-
ⅱ)丹羽春喜:大阪学院大学「経済論集」9巻2号、1995年8月刊、P39-
(1)被害者男性の独身・単身者比率の算出
丹羽氏はスマイス報告第5表(図表6.18)から、男性の死者数2400と拉致された者4200の合計6600人<A>を被害者数とする。次にスマイス報告本文に書かれている「4400人<B>の妻、つまり妻全体の8.9%は、夫が殺されたか、負傷したか、あるいは拉致されたもので、これらの夫のうち3分の2、すなわち6.5%が殺されたか拉致されたものである」(「大残虐事件資料集Ⅱ」、P222) から、負傷者を含む4400人には妻がいたと判断する。
また、妻はいないが子供がいた夫の数を第3表(下記)の1932年の数字から、妻(=夫)の数の9.5%と推定して、妻又は子供のいた男性(負傷者含む)を 4400×1.095<C>※=4818人とする。
※妻又は子供のいた男性の比率は、第3表の構成比率から世帯主数の比率を求めている。
・夫と妻がいる世帯(タイプA,B,G,H)の比率=72.4%
・夫と子供がいる世帯(タイプC,I)=6.9%
・妻又は子供のいた男性の比率=(72.4+6.9)/72.4=1.095
このうち死亡・拉致された者を3分の2ではなく、6.5%÷8.9%=73%<D>を掛けて、4818×73%=3517人 と計算する。さらに子供156人<E>をひいて独身・単身者比率を44.3%と算出する。
以上を式にまとめると次のようになる。
(6600<A>-156<E>-(4400<B>×1.095<C>×73%<D>))/6600<A> =44.3%
(2)男子人口に占める独身・単身者比率
丹羽氏は1938年春の南京市男子総人口中の独身・単身者比率を次のようにして求めている。
①平和だった1932年の男子の単身・独身世帯主は第3表によれば、タイプE(5.3%)とタイプK(7.1%)をあわせた12.4%いる。
②1938年の世帯数は47450なので、独身・単身の世帯主は、47450×12.4%=5884人だったはずで、これは男子総人口(11万余)の5.2%に相当する。
スマイス報告第3表 家族構成(全地区のみ表示) 出典:「大残虐事件資料集Ⅱ」、P253
|
タイプ |
家族形態 |
比率<%> (1938年) |
比率<%> (1932年) |
|
A |
夫と妻 |
4.4 |
9.5 |
|
B |
夫妻と子供 |
26.2 |
33.1 |
|
C |
男と子供 |
2.6 |
2.3 |
|
D |
女と子供 |
6.6 |
3.4 |
|
E |
男一人 |
5.3 |
5.3 |
|
F |
女一人 |
2.1 |
2.1 |
|
G |
夫妻と親類 |
5.0 |
4.1 |
|
H |
夫妻と子供と親類 |
27.3 |
25.7 |
|
I |
男と子供と親類 |
5.9 |
4.6 |
|
J |
女と子供と親類 |
6.3 |
2.6 |
|
K |
男と親類 |
6.2 |
7.1 |
|
L |
女と親類 |
2.1 |
0.1 |
|
|
合計 |
100 |
100 |
(3)丹羽氏の計算の問題
丹羽氏は独身・単身者数を世帯主の数だけから算出しているが、家族の中にいる子供や親類のなかにも成年の独身・単身者がいることを忘れている。そのため、男子全体の独身・単身比率が著しく低く出てしまった。ただし、家族の中にいる子供や親類がすべて独身・単身というわけではなく、そこには夫婦もいたはずである。なお、本件は被害者における独身・単身比率には影響しない。
スマイス報告本文にある「4400人は妻全体の8.9%」だとすると妻は全部で49438人いることになるが、上記第3表に示された家族構成から、世帯主の妻の数(タイプA,B,D,G,H,J)を計算すると35967人となり、1万人以上の差が出てしまう。丹羽氏は、「この差は一部の妻を含む世帯の調査カードが家族構成の調査からは除外されたため」と持論に都合のよいように解釈して終わらせてしまったが、この1万人以上の差は家族の中にいる夫婦の数だと考えればすべて辻褄があうのである。現在は核家族化したので1世帯に2組以上の夫婦がいることは少なくなったが、ひと昔前は世帯主夫婦以外に息子夫婦などがいる3世代世帯は珍しくなかった。
(4)正しい独身・単身者比率
前述の妻の数を使って1938年春の時点での男子人口に占める独身・単身者比率を算出してみよう。スマイス報告では「4400人は妻の数全体の8.9%で、その3分の2は全体の6.5%」と述べるが、4400人の3分の2は全体の5.9%(8.9×2/3=5.93・・)で、6.5%だと妻全体は8.9%でなく9.75%になる。スマイスの計算違いか、サンプル数から計算したゆえの誤差なのかわからないが、以下では、8.9%の場合と9.75%の場合について計算する。
計算は被害者の計算で、丹羽氏が使った「妻又は子供のいた男性」の比率1.095を用いれば簡単にできる。
独身・単身者比率= (男子人口―子供人口(男)-妻又は子供のいる男性数)/男子人口
妻又は子供のいる男性数= 妻の数×1.095
さらに、平和の際の独身・単身比率を求めるために1932年の人口構成比率を使って同様の計算を行う。この場合、妻の数がわからないので、1938年時点での成年女性人口に占める妻の数を婚姻率として求め、そこから「妻の数」を求めることにする。
(4)により男子人口に占める独身・単身者比率を計算した結果は下表のとおりで、1938年で19~23%、平和だった1932年では26~30%である。男性被害者の独身・単身者比率44.3%と較べると14~25%低くなっているが、この程度の差は不自然とは言えない。むしろ、この差は独身・単身の若い男性の被害がいかに多かったかを如実に表した数字といえよう。拉致された者の55%、死者の25%は独身者の多い15~29歳の男性であり、これは死亡・拉致被害者(成年男子)全体の45%にもなる(図表6.18)。
図表66-8 男子人口に占める独身・単身者比率計算結果
|
妻全体比率→ |
1938年 |
1932年 | |||
|
8.90% |
9.75% |
8.90% |
9.75% | ||
|
人口 |
人口 |
比率※6 |
比率※6 | ||
|
女子 |
人口 ※1 |
108,727 |
108,727 |
100 |
100 |
|
子供 ※1 |
34,793 |
34,793 |
32 |
32 | |
|
妻 ※2 |
49,438 |
45,128 |
45.5 |
41.5 | |
|
婚姻率 ※3 |
66.9% |
61.0% |
66.9% |
61.0% | |
|
男子 |
人口 ※1 |
112,423 |
112,423 |
114.5 |
114.5 |
|
子供 ※1 |
37,100 |
37,100 |
34.4 |
34.4 | |
|
妻又は子供あり ※4 |
54,135 |
49,415 |
49.8 |
45.4 | |
|
独身・単身者 ※5 |
21,189 |
25,908 |
30.4 |
34.7 | |
|
男子独身・単身者比率 |
18.8% |
23.0% |
26.5% |
30.3% |
|
※2.妻の人口=夫が被害にあった妻の数(4400)÷8.9/9.75%
※3.婚姻率=妻の数・(女子人口ー子供数)
※4.妻又は子供のいる男性数= 妻の数 × 1.095
※5.独身・単身者数= 男性実行ー子供ー妻又は子供のいる男性数
※6.1932年は絶対人口がわからないので女子人口を100とした比率で表した。
(6)結論
スマイス調査は残った家族からヒアリングしているので、もともと単身だった人(第3表のE、F)が殺害・拉致されても、被害者として報告されることはない。丹羽氏はこうした家族については、近隣の人から話を聞いて調査カードを作って被害者数にカウントしたが、人口関連の統計では無視した、としている。しかし、そうしたことを行った具体的な形跡は示されておらず、憶測にすぎない。スマイスは、{ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P222) と断言している。調査表には現住所、前住所、職業などを記入するようになっており、スマイスの断言は正しいとみてよいだろう。
丹羽氏は便衣兵が多かったとする主要な根拠として、死亡・拉致被害者の独身・単身者比率が当時の男性人口に対する同比率に比して異常に大きいことを主張するが、丹羽氏が計算した男性人口に対する同比率は誤りであり、被害者の独身・単身者比率が異常に高いわけではない。スマイスが主張するように都市部での殺害・拉致者に便衣兵はほとんど含まれていないと判断するのが妥当であろう。
註66-9 <市部人口が少ない>
スマイス報告 一.市部調査 1.人口 「大残虐事件資料集Ⅱ」、P219
註66-10 <殺害者数、拉致者数が少ない>
スマイス報告 一.市部調査 2.戦争行為による死傷 「大残虐事件資料集Ⅱ」、P222-P223
註66-11 <農村の13万余人が戻っていない>
スマイス報告 第23表 移動および労働力の供給 「大残虐事件資料集Ⅱ」,P268
|
県名 |
以前の住民推定数 |
離村したまま帰っていない者 |
その比率 |
働き手の数 |
・・・ | ||
|
前年度 |
現在 |
まもなく帰宅するもの | |||||
|
江寧 |
544,300 |
110,980 |
20% |
264,400 |
213,800 |
32,600 |
・・・ |
|
句容 |
229,300 |
1,980 |
1% |
95,400 |
87,900 |
6,300 |
・・・ |
|
凛水 |
181,200 |
10,560 |
6% |
54,800 |
45,900 |
6,700 |
・・・ |
|
江浦 |
112,300 |
1,420 |
1% |
45,700 |
40,900 |
4,100 |
・・・ |
|
六合(1/2) |
144,100 |
8,290 |
6% |
66,900 |
58,900 |
7,700 |
・・・ |
|
計 |
1,211,200 |
133,230 |
11% |
527,200 |
447,400 |
37,000 |
・・・ |
{ 調査員は、農家調査の補足として、調査の道順における村のうち、二つおきの村で少なくとも3人の指導者に、農家調査に含まれるのと同じ点にかんし村人についての推定数を注意深く質問するようにと求められた。 ・・・ (その結果、)当初の住民のわずか70%しか居住していないということである。家族のメンバーのうち11%が家を離れているという農民個別調査の記録とこれとを比べてみると、戦時下の移動が通常、家族ぐるみ行われたことを示唆している。・・・
死亡者の数(第25表)は・・・推定されている30%の家族が、居住民の多数よりもその死亡件数が多いか少ないか、いずれかであったと考えられるのでなければ、変更をうけることはない。おそらく、初期に移動した家族、またかなり遠くへ行ったか、あるいは南京市内でも比較的安全な地区にいた家族のうちには、他のものよりうまく暮らして行けたものもあろう ・・・} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P246-P247)
註66-12 <病死者数の評価>
スマイス報告 二.農業調査 3.戦争と農民 「大残虐事件資料集Ⅱ」、P239