6.7 暴行は中国兵のしわざ?
東中野氏は「南京虐殺の徹底検証」と「再現 南京戦」で、安全区には中国軍が反日攪乱の命を帯びて紛れ込み、掠奪や強姦などの噂を流したり、みずから実行してそれを日本軍のしわざであるかのように装ったりした、と傍証を含めて多数の論拠を提示する。この節では、この「反日攪乱工作隊」全般に関する事項について6.7.1項にまとめ、強姦、掠奪など犯罪ごとの議論について6.7.2項以降に整理した。 図表6.19 強姦・掠奪などは中国兵のしわざ? 
6.7.1 反日攪乱工作隊
東中野氏は「反日攪乱工作隊」が存在したことを、新聞記事など複数の史料をもとに主張する。以下、東中野氏が論拠とした史料のうち主なものについて、史料ごとに検証する。なお、検証に当り、6.2.3項で紹介した“ゆう”氏のサイトを参考にさせていただいた。
(1)ニューヨーク・タイムズの記事(1938年1月4日 1月3日上海発)
(a)東中野氏の主張
{ ・・・「元支那軍将校が避難民のなかに――大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」と題する記事は次のように言う。・・・ 【《~~》が新聞記事からの引用】
《 南京の金陵女子大学に・・・残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐1名とその部下の将校6名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちはこの大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃1丁に弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。 この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人たちや他の外国人のいる前で自白した。・・・》 ・・・} (「徹底検証」、P275)
<筆者註>: この事件は(3)で述べる「王新倫事件」のことである。
(b)笠原氏の反論
{ 記事のタイトル原文は、“Ex-Chinese Officers among U.S. Refugees, Colonel and His Aides Admit Blaming the Japanese for Crimes in Nanking” これを私【笠原氏】が訳せば「アメリカ人施設の難民の中に元中国軍の将校――大佐と彼の部下は、南京において悪事を日本軍のせいにしたことを認める」となる。東中野氏の訳は「大佐一味が南京全域で「反日攪乱工作をしたと決めつけるための訳である。・・・自分たちで匿って自分たちで発見し、心底から当惑した、というのも陳腐な訳である。 ・・・ この情報の出所は日本軍憲兵隊と推定される。この時点で南京には英・米・独の大使館員や新聞記者はいなかったから、この情報を上海に送信できるのは日本当局だけだった。」 (「13のウソ」、P203-P205<要約>)
(2)チャイナ・プレス(大陸報)の記事(1938年1月25日)
(a)東中野氏の主張
{ 上海でアメリカ人の発行するチャイナ・プレス(1938年1月25日号)も同じことを報じている。・・・12月28日現在で、外国大使館や建物から支那軍の将校23名と下士官54名、兵卒1498名が摘発された。これは、12月24日からの住民登録の結果でもあった。つづけて、チャイナ・プレス1月25日号はその前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。
《 その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(ワンシンロウ)がいた。彼は陳弥(チェンミィ)と名乗って、国際避難民地帯の第4部門のグループを指揮していた。また、前第88師の副師長馬跑香(マーポーシャン)中将や、南京警察の高官密信喜(ミシンシ)もいると言われている。馬中将は安全地帯内で反日攪乱行為の煽動を続けていた、と言われる。また、安全地帯には黄安(フワンアン)大尉のほか、17人が、機関銃1丁、ライフル17丁を持ってかくまわれ、王信労と3人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》 ・・・
注意すべきは、支那軍将兵たちは強姦の話を撒き散らしただけではなかった。それを証明すべく、自ら「強姦に携わった」か、強姦未遂に携わったことである。・・・} (「徹底検証」、P276-P277)
(b)笠原氏の反論
{ この記事はその前日に公表された「南京日本軍憲兵隊の報告書」を引用したものである。 ・・・ この報告があった頃、潜伏していた中国軍将兵が武力抵抗を試みて失敗する事件が何度か起こり、元将兵が摘発された事件が発生している。この記事はそうしたグループを摘発したときのものであろう。 ・・・ 難民にも気付かれないように用心深く潜伏していた元将兵たちが、当時にあっては可能性も未知数な国際的非難を呼び起こすために、自分たちの存在を日本軍側に知られ、難民に密告される危険を冒してまで「強姦」をしてみせたという東中野氏の「反日攪乱工作隊」説の発想は、現実を無視した「妄想」といえるものである。} (「13のウソ」、P206-P209<要約>)
<筆者補足> 上記の憲兵隊の報告はニューヨーク・タイムズも報じているが、兵民分離により摘出された中国軍将兵の数や発見された武器の種類と量、それらの高級将校は外国の大使館などにいたこと、その大使館はどの国のものか日本の報道官は明かさなかったこと、などを報じているが、王信労(=王新倫)についてはふれていない註67-1。
(3)王新倫事件
ニューヨーク・タイムズ(1月4日)の記事に登場する“大佐”は、チャイナ・プレスに登場する“王信労”のことで、彼らが逮捕されたことは、国際委員会の第28号文書(1937年12月31日2時30分)に「王新倫事件についての会談の覚書」として記録されている。以下はその要旨である。(原文は註67-2を参照)
{ 出席者: 徐博士、呉国珍氏(第6区住宅主任)、M・S・ベイツ、ルイス・S・C・スマイス(書記)
・呉国珍氏は王新倫が住宅委員のスタッフになってから知り合った。養蚕館の責任者は任則賢だったが、あまり有能でなかったので王新倫を補助としてつけた。
・任則賢が王に嫉妬し、憲兵隊にこのことを通報した。
・王は他の4人が銃を埋めた、と兵士に話した。
・ベイツによれば、金銭問題で元大尉と王との間にトラブルがあった。王は強姦をしたとの話もあるが、呉はそれを否定した。
・ベイツは、王がもし元兵士だったら我々は介入できないが、二人の使用人については身元を引き受ける、と述べた。 }
注)王信労と王新倫は同一人物
ベイツは日本大使館への手紙註67-3で、連行された4人のうち2人は金陵大学の使用人で1人は難民、王は「保安隊にいたとされている」と書いている。
この事件は、中国人同士のトラブルがもとで一方が他方を日本軍に密告し、道連れに数人の市民が連行された、という事件であるようだ。王が強姦したかどうかもはっきりしない。
(4)マッカラムの日記
(a)東中野氏の主張
{ 支那人の中から、強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。東京裁判に提出されたマッカラムの1938年1月の日記は、「支那人の或る者は容易に掠奪・強姦及び焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのではないと立証すら致します」というふうに記す} (「徹底検証」、P277)
(b)笠原氏の反論
{ 東中野氏は以下のように欺瞞的な引用の仕方をする。 【下記の下線部分だけを引用】
《 1938年1月8日――今、日本兵は安全地帯における我々の努力を信用せぬように試みております。彼らは貧賤な支那人を脅迫して、我々が云ったことを否認させようとします。支那人の或る者は容易に掠奪・強姦及び焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのではないと立証すら致します。 我々は今、狂人や馬鹿者を相手にしているのだと時々考えます。・・・ 》
・・・ 日本軍の特務機関関係者が、貧しい人々を金品で買収し、かつ「言う通りにしなければ命を保障しない」といった類の脅迫をして、安全区委員会の抗議している日本軍の暴行は、実は中国軍が行なったものだと証言するように迫り、実際にそれに従った難民、中国人がいたことを書いている。} (「13のウソ」、P211)
日本側が中国人を買収して、犯人は中国人であると証言させようとしたことは、ドイツの外交文書などにも書かれている註67-4。また、買収したかどうかわからないが、上海派遣軍参謀長飯沼少将は同様の工作を行ったことを日記に記している
註67-15。(5)将校をかくまったラーベ
東中野氏はラーベが将校を匿った2つの事例を述べる。(註64-1の表でNo.8,9,10に相当する)
一つ目は龍大佐と周大佐の事例で、{ 12月12日20時、唐生智逃亡の頃、龍大佐と周大佐がラーベを再訪する。そして「ここに避難させてもらえないか」と頼んだ。ラーベは良心の呵責を覚えることなく、敵兵を匿うのである。 ・・・ 龍大佐が「私と周の二人が負傷者の面倒を見るために残されました」と語っていたように、彼らは上官の唐生智の指示により計画的に残されたのである。} (「徹底検証」、P391-P392)
二つ目は、{ 陥落以来、羅福祥(本名は汪漢萬)を匿っていたことを、翌年2月22日の日記に71日ぶりに記す。その日の忠実な記録を日記と考えるならば、ラーベの日記は必ずしもその種の日記ではない。後で自己の体験を、ある観点から注意深く取捨し、再構成しながら書いた、目的志向的な日記であった。 ・・・ ラーベはドイツに帰国する際、汪漢萬を使用人と偽って汽船に同乗させ、香港への逃亡を援助した。高級将校の潜伏と逃亡を幇助し、自己を凱旋兵と同一視するラーベ、それはまた中立地帯委員長の理性の倒錯を示す。} (「徹底検証」、P391-P392)
ラーベがかくまった二人が「反日攪乱工作隊」とどういう関係があるか、東中野氏は述べていないが、ふつうの人がこの日記を読めば、ラーベは人道的観点でこれらの中国将兵を自宅に置いたと理解するだろう。
(6)まとめ
安全区档案に報告されているだけでも事件の数は400件を超える。その多くを「日本兵を装ってしかける」には、かなり大きな組織でなければできないが、そのような組織が存在したという形跡はない。仮にそうした組織があったとすれば、結果的にその活動は大成功だったのだから、組織の関係者から自慢話が漏れてきても不思議でないが、それもない。
王新倫らが憲兵隊につかまったとき、日本軍に徹底的に追及されただろうが、チャイナ・プレスに発表した簡単な記事だけで終わっている。もし、東中野氏が言うような活動が行われていたら、日本軍はもっと大々的に発表して日本の新聞にも書かせ、国際委員会にも何らかの連絡があったはずだが、そうした形跡もない。
このように「反日攪乱工作隊」に関する直接的な痕跡は日本軍憲兵隊の発表以外にはなく、東中野氏の主張は憶測に過ぎない。中国人がどさくさに紛れて掠奪や強姦などをはたらいた可能性はあるが、多くは日本兵の犯行によるものであろう。
東中野氏は「南京虐殺の徹底検証」では、「反日攪乱」という言葉を多用しているが、「再現 南京戦」では一言も使っていない。さすがに「反日攪乱隊」のような組織は非現実的とでも思ったのだろうか?
東中野氏は、「再現 南京事件」の第11章<入城式前日から3日間頻発した「強姦事件」>(P274-P304)において、12月16日~18日にかけて大量に報告された強姦事件は、中国軍将兵によるデマだった、として多数の根拠を示す。氏の論旨は散漫でわかりにくいが、要約すると次のようなものである。①16日夜に1000人が強姦された、とフィッチらは日記に書くが、ミニー・ヴォートリンの日記や国際委員会の公式資料などにそれに呼応する記述はない。②日本軍は統制が厳しく、大量の強姦をすることはありえない。③中国軍にはそのような情報を流す動機がある。以下の(2)~(4)は上記①~③に対応している。
(1)16日夜の1000人強姦
東中野氏は、フィッチとラーベの日記に記された「1000人の強姦」を議論の起点としてとりあげる。以下は、原文から引用しているが、東中野氏も同じものを引用している。(引用範囲はもう少し広い)
<フィッチの日記> { 12月17日 略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦されたのです。} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P34<戦争とは何か>)
<ラーベの日記> { 12月17日 ・・・アメリカ人の誰かがこんなふうに言った。「安全区は日本兵用の売春宿になった」 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。・・・} (「南京の真実」、P138-P139)
(2)ミニー・ヴォートリンの日記と国際委員会の公式資料
(a)ミニー・ヴォートリンの日記
東中野氏はミニー・ヴォートリンの12月16、17日の日記の一部を引用して、{ ヴォートリン女史の16日、17日の記述には金陵女子大【=金陵女子文理学院】から女性が連行されたという記述もなければ、金陵女子大における強姦の記述もなかった。従ってラーベ委員長の「金陵女子大だけでも百人以上の少女が被害にあった」という記述は間違いであったことになる。} (「再現南京戦」、P282) と断言する。
氏は、ヴォートリンの日記のいくつかの例をあげているが、次の記述だけでも多数の被害者がいたことは明確なのに、“誰かから聞いた話”として片づけてしまった。
{ 12月17日 ・・・ 疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ・・・ } (「ミニー・ヴォートリンの日記」、P61)
東中野氏は「百人以上」と書かれていない、などささいな問題を指摘してデマだと断定するが、それが独断にすぎないことは、16~19日のヴォートリンの日記をしっかり読めばわかるはずだ。註67-8に被害者となった女性たちの様子、キャンパスに侵入してきた兵士の事例、日本大使館の対応などを記載した部分を引用したのでご覧いただきたい。
(b)国際委員会の公式資料
東中野氏は次のように主張する。
{ フィッチ師が記した1000という数字は、国際委員会のメンバーに(16日の夜から17日の昼にかけて)訴えられた事例を、フィッチ師がざっと集計したうえで引き出した数字であった。しかし、16、17日に報告された強姦事件の事例はあわせて14件、被害者数は両日ともに10数人しかいない。フィッチ師のいう「1000人強姦」の記述はあきらかに間違っている。} (「再現 南京事件」、P295-P297<要約>)
わずか数人の国際委員会が信憑性を確認しながら事例として報告できるのは限られた数しかないことは自明の理であり、フィッチは事例をもとに1000人をはじき出したのではない。
さらに氏は国際委員会の日本大使館への抗議でも1000人強姦にはふれていない、と述べる。
{ 12月17日に日本大使館に抗議した第9号文書で、「強姦」という言葉を使っているのは1ケ所だけだった。強姦が蔓延しているのであれば、この第9号文書に「ざっと計算してみても昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦された」と書かれていて当然なのに、書かれていない。} (同上、P298<要約>)
確かに9号文書では強姦に関する記述は少ないが、12月18日の第10号文書(主題は便衣兵捜索に関する要望)では、「女性のパニック」についてかなりのスペースを使っている。
{ ・・・昨晩、我が委員会のベイツ博士は家にいれば襲われるのを理由に昨日逃げ込んできた千人の女性達を保護するために、南京大学寮に泊まり込みに行きました。 ・・・
午後8時にフィッチ氏とスマイス博士がミルズ牧師を金陵女子【文理】学院の校門近くの部屋で泊まらせるために同大学に連れて行きましたとき(このことは14日以来我々のうちの誰かが、一人或は数人で3千人の婦人や子供達を保護するためにずっと行ってきたことであり、昨日はパニックのために4千人にまで増えていました)、【このあとヴォートリンの17日の日記にある日本兵による「捜索」が記述され、捜索方法などについてクレームが述べられている】。
女性達の間でパニックが起こって、彼女らは今や保護を求めて千人単位で我々アメリカの施設に集まってきて、男性達はいよいよ孤立しつつあります。(例えば古くからの小桃園語学校では16日までは600人の人々がいましたが、12月15日の夜に余りに多くの女性がそこで強姦されたので、200人の男性を残して400人の女性と子供が金陵女子学院に移りました。これらの公共施設の諸建物は元々3万5千人を収容する能力がありましたが、女性達の間にパニックが起こったので収容人数は5万人まで増えました。・・・)} (「安全地帯の記録」、P162-P163<要約>)
また、ベイツは日本大使館への手紙で日本兵による強姦の事例を数件あげて善処を要求している註67-9。
このように、南京大学(=金陵大学)や小桃園語学校などでも強姦事件が多発したこと、金陵女子文理学院には17日におよそ1000人が新たに避難してきたこと、その他の難民収容所や一般家屋でも多数の強姦が発生していること、などを考慮してフィッチは1000人が強姦された、と推定したのであろう。
東中野氏は以下を根拠に日本兵が大量の強姦を犯すことは考えられないと述べる。
①夜の外出は危険で外出禁止令も出ていた。(「再現 南京戦」、P285-)
②朝夕「点呼」があった。(同上、P287-)
③安全地帯への関係者以外立ち入りは厳禁されていた。(同上、P288-)
④陥落後、日本軍は転進の準備で多忙を極めていた。(同上、P289-)
⑤処罰はことのほか厳しかった。(同上、P292-)
⑥上海派遣軍の塚本浩次法務官は扱った事件は10件前後、と証言している。(同上、P301)
これらは間違いではなかろう。多くの日本兵は善良な人間だったと思うが、残念ながらそうでない日本兵が少なからずいたことは次のような証言や記録から裏づけられる。
ⅰ)夜になると抜け出す兵がいる、という日本軍兵士の証言がある。(4.6節 註46-4)
ⅱ)安全区の掃蕩を行った歩7連隊は、安全区の中に分宿している。(註67-5)
ⅲ)第10軍の憲兵隊長だった上砂勝七氏は、「皇軍が聞いてあきれる状態だった」と述べている。(註67-6)
ⅳ)第10軍の憲兵日誌によれば「現行犯で取り押さえる程度」だけで62件、118人が軍法会議にまわされた、とある。上海派遣軍の資料は発見されていない。(6.6.1項(9))
ⅵ)「南京へいけば、女はいくらでもいる」とハッパをかけられていた。(6.4.3項(4)(c))
ⅶ)復員後、「戦闘中に覚えたのは強姦と強盗位のものだ」と発言する兵士もいた。(5.2節 註52-4)
(4)中国軍の動機
東中野氏は中国軍将校が強姦のデマを流したのは、「日本軍の南京占領を引き延ばすことと、査察(掃蕩)を中止させること」だという。
{ ・・・ 12月16日、金沢7連隊は外国権益の建物にも査察の手を伸ばした。欧米人にとっては自分たちの権益に日本軍が入ってきた不快さや、中国将校を匿っていることへの恐怖が頂点に達したが、抗議のしようがなかった。一方、中国軍将校にとっては、日本軍の南京占領をできるだけ困難にし、引き延ばそうと狙っていたが、摘発の手が伸びてくる恐怖にかられていた。欧米人と中国軍将校の思いはこのとき、日本軍嫌悪という1点で一致した。 ・・・
国際委員会は強姦などの不祥事の多発を理由に「20万市民の苦難と困惑」を指摘し、日本軍の査察の中止を要求した。 ・・・ 中国軍将兵にとっても、欧米人が金沢7連隊を追い払ってくれるがゆえに好都合であった。
中国兵も欧米人も12月17日が入城式であることを知らなかった。・・・掃蕩が16日で終ったことも知らなかった。知らなかったゆえに、まだ掃蕩は続くと思って、強姦の話を流し続けたのである。しかし、実際はただの噂に過ぎなかった。} (「再現 南京戦」、P302-P304<要約>)
強姦の風聞で市民が混乱したくらいで日本軍が掃蕩を中止するとは考えられないし、日本軍の占領が長引けば潜伏している中国兵が摘発されるリスクは高くなる。いずれにしても、中国軍将校の動機に合理性はまったく認められない。
(5)まとめ
一晩で1000件が事実かどうかはさておき、16~18日に日本軍兵士による大量の強姦があったことは、日本軍側の状況証拠をみても明らかである。もし、ほとんどがデマによるものであったとしたら、日本大使館は国際委員会に抗議したはずだし、慰安所を作る必要もないし、憲兵体制を強化することもなかったであろうし、「参謀総長戒告」もなかったであろう。
東中野氏は、「12月16日から18日に頻発した強姦は中国軍将校によるデマが主因だ」とするが、19日以降の強姦については何も述べていない。1月上旬から2月上旬にかけて頻発した強姦は、安全区内ではなく近郊で多発しているが、この頃には日本軍の掃蕩も終了して中国軍将校の動機も薄れただけなく、地理範囲が広がることによりデマを流すのも簡単ではなくなったであろう。こうした時期を考慮せずに、上海派遣軍塚本法務官の言葉だけを丸呑みして{【南京事件全体の】強姦事件は10件前後} (「再現 南京戦」、P301) と断言してしまうのは「中国軍将校デマ説」の限界を示すものといえよう。
東中野氏は、「再現 南京事件」の第10章「城内(安全地帯)掃蕩戦3日間における掠奪」(P258-P273)において、
・日本軍は占領のために必要な物品を調達したが、それらは定められた“徴発”の手順に沿って行い対価を支払った。
・日本兵の中に略奪に走った個々人がいたことは否めないが、それは極めて少なかった。
・南京市民や中国兵が行なった略奪はかなりあったとみられる。
などと主張するが、「反日攪乱工作隊」は登場しない。
(1)占領業務のための調達(徴発)?
東中野氏は、{日本軍は占領に必要な備品などを調達しなければならなかったが、交渉すべき中国側の行政機構がなかったので、やむをえず「官憲徴発」の命令を下して日本軍将兵が調達を行った。それが組織的掠奪と見られたことは十分に考えられる。}(同上P262-P263)という。しかし、それはかなり乱暴な「調達」だったようで、東中野氏も引用しているシカゴ・デイリー・ニューズの記事、ベイツやフィッチが「戦争とは何か」に書いている掠奪の様子には次のようなことが書かれている。
・{ 車を2台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。} (シカゴ・デイリー・ニューズ12月15日)
・{ 米国旗を引き裂いて地面に放り出して、窓を一つこわして・・・} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P30<戦争とは何か>)
・{ 鼓楼病院でも看護婦の時計と万年筆を奪いました・・・} (同上、P30)
・{ 引出も押入れもトランクもすべてこじあけられ、鍵はこわされていました・・・} (同上、P33)
・{ 彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当り次第盗んだ・・・} (同上、P110)
盗んだものは、東中野氏によれば、手袋、セーター、万年筆、時計、懐中電灯、現金180ドル、オートバイ数台、ゴミ箱、自転車、壁掛け時計、などであるが、このうち占領に必要なものは壁掛け時計ぐらいだと述べている。では、それ以外のものは誰が、何のために盗んだというのか、あるいは証言は伝聞や風聞で信用できないというのか、氏は語っていない。
(2)徴発と掠奪
日本軍の徴発は次のようなものであった。
{ 日本軍の略奪と紛らわしい行為に、徴発というのがあった。ただしくは、“官憲徴発”といわれ、あるときは師団の作戦命令で徴発を指揮した。徴発の場合、経理官が物品の代金代わりに軍票で支払うか、留守の時は支払を約束する紙票を張り付けて帰った。略奪とは違い、支払いを済ますわけだが、中国人の許可なく持ち出すことにはかわりなかった。大多数の指揮官は、徴発は許すが略奪は禁ずという方針だったが、兵士たちは上官が命令したのが徴発であり、そうでないものは略奪だと考えていた。} (滝谷二郎:「目撃者の南京事件 マギー牧師の日記」、P68)
「支払を約束する紙票」は発行されなかった場合も多く、発行された場合でも次のような状況であった。
{ 然るに後日[中国人の]所有者が代金の請求に持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斤とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入していないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。 ・・・ 徴発した者の話では乃公[だいこう..自分のこと]は石川五右衛門と書いて風呂釜一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。(渡辺卯七「第9師団経理部将校の回想」) } (吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」,P82)
東中野氏はいくつかの事例をあげて、{代価を支払っての徴発は末端まで浸透していた}(「再現 南京戦」、P266)と主張する。確かにそうしたケースもあっただろうが、そうでないケースも多数あったことは次のような記録から容易に推定できる。
・中島師団長は松井大将との会見時に、自分自身が家具を持ち帰ったことを「なんだかけちけちしたことをぐずぐず言いおりたれば・・・」と発言している。(4.5.3項(6)(d))
・中島師団長はさらに、現金を掠奪する者がいたことを日記に記している。(註67-10)
・山田栴二旅団長は日記に、「徴発のふしだら、皆泥棒の寄集り」とまで記している。(4.5.2項(7))
・従軍記者の前田雄二氏は、家の扉を破ってまわることを「掠奪とはいわず、徴発といった」と述べている。(6.6.1項(7))
・日本兵の日記などにも「掠奪」の記録はたくさんある。(註67-11)
・上砂勝七(かみさごしょうしち)憲兵少将は、{ この徴発たるや、徴発令に基く正当な徴発は、現地官民共に四散しているため実行不可能で、自然無断徴用の形となり、色々の弊害を伴った。}(上砂勝七:「憲兵31年」、P176) と述べている。
・復員した将兵らが、「戦闘間で一番嬉しいのは掠奪」などと語っていたという、陸軍の記録がある。(5.2節 註52-4)
・石川達三は、「北支では金を払っていたが、南では“自由な徴発”が行われていた」と書いている。【おそらく現地の将兵から聞いたのであろう】 (註67-12)
(3)調達が掠奪とみられたのは言葉の壁が原因?
東中野氏はラーベの日記を引用する。下記は東中野氏の引用と同じ内容・範囲である。
{ 12月17日 ・・・ クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、乗っていた3人の日本兵は、“We friend ・・・ you go!”と言って返してよこしたのだった。
このときの日本兵たちは午後にまたやってきて、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は以前韓※に言ったことがある。「『お客』を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」なんと韓は本当にもらっておいたのだ。“I thank you present! Nippon Army、K.Sato” ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!} (「南京の真実」、P139-P140)
※韓はラーベの使用人
これを氏は次のように解釈する。
{ 日本軍は前日調達したクルマの持ち主が判明したため、直ちに自ら返却に来ている。・・・もし、このとき日本軍将兵が十分な英語で「なぜクルマを持って行ったのか、なぜ今日持ってきたのか」を説明することができたのであれば、また違った状況になっていたであろう。 ・・・ クルマを持っていくさい、ローレンツが南京にいないあいだだけクルマを借用するという趣旨を英語で十分表現できていたならば、ここでも状況はずいぶんと変わっていたであろう。・・・} (「再現 南京戦」、P269)
言わずもがなだが・・・ 「クレーガーは車の前に立ちはだかり・・・」が、車を返却に来た状況とはとても思えない。また、クルマを借用するのであれば、「受取り」でなく「借用証」を置くだろうし、“I Thank you・・・”と英語で書けるくらいの英語力があればpresentとは書かないし、片言の単語と手真似で借用の説明くらいできるはずである。
(4)中国人による掠奪
東中野氏は、ロイターのスミス記者やミニー・ヴォートリンの日記、日本兵の日記などを引用して、南京市民や中国兵の略奪が多発したことを述べる。中国人による掠奪が横行したことは、安全区に潜伏していた中国軍人が手記で次のように述べていることからも事実であろう。
{ なぜ上海路ではあのように売買が行われたのだろうか。また商品はどこから来るのだろうか。 ・・・ 夜の間は獣兵【日本兵】は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。人々は難民区以外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。だから一晩動くと翌日には手に入らない物はなく、色々なものがすべて揃った。長い時間世に出ることのなかった骨董書画、磁器や、馬桶、たんつぼ、箸、お碗、小皿、電球までもが揃っていて、一つの家庭を作るのも容易なことだった。・・・} (「南京事件資料集Ⅱ」、P234)<郭岐「南京陥落後の悲劇」>
このような闇市場の繁昌には日本兵も一役かっていたことをヴォートリンは日記に書いている。
{ 1月25日 ・・・ 傀儡政府――陳さんが南京自治政府につけた名称だが――の当局者のところにも行き、盗品を売る店を安全区から締め出せないかどうか打診した。寧海路や上海路の沿道に何百という小さな店がにわかに出現しているのは、貧窮者たちによる掠奪が毎日増えていることを意味する。日本兵が率先して掠奪をしなかったら、彼らはあえて店開きはしなかっただろう。}(「ミニー・ヴォートリンの日記」、P135)
早尾軍医の報告書については、すでに4.5.2項(6)でも述べたが、徴発が諸悪の根源であったことを指摘している。笠原十九司氏の「南京難民区の百日」(P44-P45)によれば、早尾逓雄陸軍軍医中尉は上海第一兵站病院に勤務していたが、上海戦・南京戦で頻発した兵士の犯罪について、法務部や憲兵隊と連絡をとって調査し、その実態と原因について「戦場神経症ならびに犯罪について」という報告書にまとめた。以下は報告書の一部を現代語に要約したものである。(原文は註67-13を参照)
{ 徴発のように公然と許されていることも、最初は躊躇している者が、しだいに興味を感じ、競争心さえ起こすようになる。軍隊生活に不必要なものまで徴発し、内地に送る例や上官の機嫌をとり進級などの利益を図ろうとする者さえいる。
徴発は次第に意義を変え濫用した結果、犯罪となり兵卒の心を堕落させる。軍隊には「員数をつける」という言葉があるが、これは一種の窃盗である。徴発はこの「員数をつける」※の延長線上にあり、ついには掠奪となり強奪ともなる。 }
※「員数をつける」とは、兵士の装備品などを常に揃えておくことを意味する。軍隊生活では武器弾薬から装具類にいたるまで「天皇陛下から拝借した大切な物」とされ、すべてが揃っていないと処分をうけることもあった。このため、兵士たちは欠けた物や紛失した物は他の部隊から盗んででも揃えておく必要があった。【笠原氏の注釈】
(6)まとめ
中国人の掠奪も少なくなかったが、日本兵の掠奪もたくさんあり、狂暴になることもあった。
進撃中、“徴発”は主に食料品が対象だったが、陥落後はありとあらゆるものが掠奪の対象となった。
{ 勝利者の当然の権利と考えて、戦利品をみやげにと考え、そのために略奪が横行した。}(「南京難民区の百日」、P300) 掠奪品は「みやげもの」にするほか、上述のように闇マーケットなどで換金して現金で持ち帰ることもあった。
東中野氏は、「南京虐殺の徹底検証」で、ラーベの近辺に集中した放火は反日攪乱工作であった、と述べるが、「再現 南京戦」では12月20日前後に火災が多発したが、それは「便衣兵によるもの」、「日本軍は消火をこころがけていた」、と述べるにとどめている。
(1)ラーベの近辺に集中した放火
東中野氏は次のように述べる。
{ 12月19日、ラーベは自宅の南も北も大火事と記す。12月20日も放火、1月3日は近所で3軒も放火、1月5日も放火、9日も近所で火の手が上がった。12月27日にはまだ出店していそうもない「日中合弁商店」に、ラーベが使用人と見学に行くと、待ってましたとばかりに放火が始まる。 ・・・ 日記による限り、日本兵が犯人と断定できる証拠は何ひとつなかった。それでもラーベは「日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない」と推定する。ラーベを狙い撃ちするかのように上がった火の手たるや、その効果は絶大であった。} (「徹底検証」、P396)
ラーベが日記に、場所をある程度特定して書いている火災は12件あるが、そのうち“近所”と明記されているのは、12月19日、1月3日、5日、9日の4件、3日と5日は同じ火災とみられるので実質3件である。スマイス報告(図表4.19)によれば、安全区内の建物で放火されたのは0.6%しかないが、城内全体では13%約4千棟も焼失している。ラーベの自宅は、安全区の東南、中山路まで300メートルほどの所にあったので、安全区外の火事がよく見えた、というだけのことであろう。
ラーベの12月21日の日記にはこう書かれている。{ そういう火事の前兆はもうわかっている。突然トラックが何台もやってくる。それから掠奪、放火の順だ。} (「南京の真実」、P151)
(2)12月20日前後に多発した火災
国際委員会の第22号文書(12月21日付)「南京市の火災についての所見」では、12月14日朝に人口密集地域である城内南部を調査したが、中国人が放火したとみられる数件の火災以外、建物の焼失はなかった、と報告している。また、19日夜に安全地帯で火災の調査を行い、2件の火災を確認、国府路の方角(安全区外)に多数の火災が望見されている。
20日の夕方フィッチとスマイスが、夜9時頃にはクレーガーとハッツが、ともに城内南部と東部を視察しYMCAの火災など多数の火災を確認している。フィッチとスマイスは下級将校に率いられた15~20名の日本兵が商店から物資を持ち出し、燃える建物を眺めている様子を目撃、クレーガーとハッツは、多数の兵士がいたが誰も火を消そうとはせず、むしろ品物を運び出していた、と報告している註67-14。
(3)ソ連大使館の火事
上海派遣軍参謀長の飯沼守少将は、1月1日の日記にソ連大使館で火事が起ったが、附近は日本兵が決して入り込まない場所(だから日本兵のしわざではないだろう)と安心していたが、1月4日に特務部の岡中佐から大使館の裏に日本兵が入り込み食糧を徴発しているのを発見された、との報告を聞き、今頃食糧に窮するも不思議、大使館に入り込むも不可解と戸惑っている註67-15。
①野村敏明軍曹(歩35); <戦後の証言>「これから利用する建物に放火するのは考えられない」
②牧原信夫上等兵(歩20); <12月17日>「今夜も便衣隊の放火による火事があった」
③前田吉彦少尉(歩45); <12月19日>「3階建洋館から黒煙が湧き出した・・・掠奪組の放火とみられる」
④山田栴二少将; <12月8日>「連日火災多く、皇軍らしからぬ仕業・・・諸隊に厳重注意」
⑤早尾軍医; <1938年?>「必要上の放火より遊戯的放火が多かった」
⑥フィッチ; <12月20日>「兵士たちが商店に入っていって放火するさまを見た」
⑦スマイス報告; <1938年>「南京の城壁に接する市街部と東南部郊外ぞいの町村は中国軍が放火し、城内と近郊農村の多くは日本軍によって放火された」
(4)まとめ
城内の放火が起き始めたのは19日頃から、と外国人達は言う。であれば、日本軍の宿営場所は決まっており、野村軍曹の証言「これから利用する建物を焼くはずがない」は説得力に欠ける。スマイスが述べるように、城外は中国兵の清野戦術によるもの、城内は日本兵によるものと考えるのが妥当であろう。(中国人によるものもあったかもしれない) 日本兵の放火目的は掠奪や強姦の痕跡を消すためだけでなく、早尾軍医が述べるように「遊戯的放火」もかなりあったのではないだろうか。
6.7節の註釈
註67-1 <1月24日のニューヨーク・タイムズ> 「南京事件資料集Ⅰ」、P443-P444
{ ・・・ 今晩、日本陸軍司令部は14日前に南京駐屯の憲兵部隊から受領したと称する報告を発表した。同報告は一月前の情況を扱っており、最後の日付は12月28日である。
本報告の報じる南京における査問会議は、難民キャンプおよび非軍事化されたはずの安全区に中国軍将校23名、下士官54名、兵士1498名が隠れていた。その内の一部は掠奪の件で処刑されたということを明らかにした。これら高級将校の一部は、大使館、領事館、その他中立国旗を掲げた建物に避難していたことが、とくに強調された。
これらの平服の中国軍将校及び副官は、明らかに多くの場合大量の軍需物資を隠匿していた。某国大使館近くと特に曖昧に言及された一防空壕の捜索では、軽砲1、機関銃34、小銃弾420000、手榴弾7000、砲弾500、迫撃砲2000が発見された。
記者側から質問を浴びせられて、日本の報道官は中国軍は全大使館員が退去した後に構内に入ったものであることを認め、いずれかの非中立的な外国が紛糾を起こしたと示唆しようというのではない、と言った。その大使館の国名を挙げるよう強く求められたが、報道官はこう言って返答を避けた。「この問題については皆さん自身の回答にお任せしましょう。」 さらにアメリカ大使館が関係しているかどうかと尋ねられても、彼の答えは「その点については触れないほうが良いと思う」というものであった。1月中、とりわけ15日以降の南京の情況についての情報を求められたが、日本の報道官は、まったく知らないと断言した。}
註67-2 <第28号文書:王新倫事件についての会談の覚書(1937年12月31日2時30分)> (「安全地帯の記録」、P217-P219)
{ 出席者 C.Y.徐博士(住宅委員長)、呉国珍氏(第6区住宅主任)、M・S・ベイツ博士(南京大学緊急委員会委員長)、ルイス・S・C・スマイス博士(国際委員会書記)
1.(省略)
2・第6地区主任の呉国珍氏は、この男、王新倫をよく知らなかった。が、彼らは同郷であり、王が住宅委員のスタッフになってから知り合うようになった。養蚕館の元責任者は呉の父親が任命したが、名を任則賢※1Ren Tze-Chienといった。彼はあまり有能でなかったので、王新倫に彼を助けるよう依頼した。
3.呉氏は王が南京市警察の警部であったことは知っている。
4.任則賢が王に嫉妬し、憲兵隊にこのことを通報した。任則賢は今も養蚕館にいる。
5.呉の言うには他の4人が銃を埋めた。王は兵士に対し、この4人が銃を埋めたと説明した。
6.ベイツ曰く、中国語の書類に署名をした男が言うには、このことが起る前にリエンチャン(大尉)※2がおり、(呉はルーチャン(大佐)※2だと主張)、金銭問題でこの元大尉と王との間にトラブルが起こった。後にこの元大尉は日本軍の仲間となり、昨日養蚕館から妻を引き上げさせた。「田中氏は、昨日私(ベイツ)に王もあそこで強姦をしていたと言った」呉は王が強姦したことは否定した。
7.徐博士がこれに対する我々のとるべき態度を問うた。ベイツの意見では、もし王が元兵士なら我々は介入できない。軍隊の問題である。彼はよそ者としてここへ来た。しかし、二人の使用人については我々(南京大学委員会)は身元を引き受け、他の者達はこの件に関係した難民達を含めて喜んで身元を引き受けた。
8.徐博士は日本大使館に報告のために出かけた。 L.スマイス }
※1 冨澤氏は“則賢”と訳しているが、「大残虐事件資料集Ⅱ」、P177 では、“任則賢”としている。
※2 同資料集によれば、「リエンチャン」は大尉、「ルーチャン」は大佐の意となっている。
註67-3 <ベイツ、リッグスから日本大使館への手紙(1937年12月30日)> 「南京事件資料集Ⅰ」、P146
{ 午後2時頃、金銀街6号の金陵大学蚕桑系の建物に憲兵隊将校および兵士が来ました。彼らはWC(便所)の後ろに小銃6、拳銃3~5およびそばで見た人たちによれば機関銃の部分と思われるものを発見しました。人々によればこれらの銃は敗残兵によって投げ捨てられたもので、面倒を避けるために埋められたものだと言います。憲兵隊は以下の男4人を連行しました。陳嵋(または王興龍)、楊広発、王二(通称)、姜銘珠。彼らについて言うと、陳嵋(王興龍)はいくらか教養のある人で、難民の世話に自発的に当っていました。今日、この事件が発生するまで何も悪い情報はなかったのですが、いま彼は保安隊に勤務していたと言われています。楊広発は金陵大学蚕桑系の職員・・・王二は蚕桑系の門番で私たちは保証できます。姜銘珠は・・・難民の息子です。 ・・・ おそらく、中国敗残兵が大量の銃を投げ捨てた後、人々が驚いて埋めたり、池に投じたりしたのでしょう。もし憲兵が池を調べたら、大量の武器を発見すると思われます。}
註67-4 <中国人を買収したとみられる文書>
「ドイツ外交官の見た南京事件」、P89
{資料23 報告 駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者-ローゼン(南京) 1938年1月13日南京ドイツ大使館分館 ・・・ 大使邸ではいくつかの中国の蒔絵が日本兵に盗まれた。その後、日本のある領事館警官が現われて、中国人が犯人であると証言させるため、大使邸のクーリーに50ドルを手渡した。かれは殺されるのを恐れて金を受け取ったが、その後ドイツ人の庇護を頼りに真実を語った。・・・}
ベイツの手紙(1月10日)<戦争とは何か> 「大残虐事件資料集Ⅱ」、P51
{国際委員会がいそいで集めた奉仕員も多数いますが、なかにはかなり不純な動機からやってきた者もいます。密告、脅迫、それに日本側が買収してスパイにすることもあったということは、今となって書き添えなければなりません。}
註67-5 <安全区内に分宿> 歩7連隊水谷荘一等兵の日記 「南京戦史資料集Ⅰ」、P502
{ 12月15日 ・・・ 今日も夕方になって漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。}
註67-6 <第10軍憲兵隊長の回想> 上砂勝七:「憲兵31年」、P177
{ 戦域が拡大し、作戦兵力の増大に伴って、その要員の多数が教育不十分な新募又は召集の将兵を以って充たされるようになると、思いがけぬ非行が益々無雑作に行われるようになる。これには、指揮統率者の責任は固よりのことだが、わが国民の一般的教養の如何に低いかを痛感させられた。
皇軍々々と叫ばれていたが、これでは皇軍があきれる状態であったので、憲兵は一地を占領する都度、その都市村落の入口や要所に露骨な字句や、敵に逆用される虞れある文句を避けて、婉曲に日本兵に告ぐと題し、火災予防、盗難排除、住民愛護の3項を大きく書いて掲示した。}
註67-7 <南京見物に出かけた兵士> 山田支隊「堀越文男」陣中日記 「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」、P79
{ 12月16日 ・・・ 一日なすこともなし、××伍長以下ニケ有線班南京見物に行く。}
註67-8 <ヴォートリンの日記(12月16日~19日抜粋)> 「ミニー・ヴォートリンの日記」、P57-P69」
{ 12月16日 ・・・ 昨夜、語学学校から少女30人が連れ出された。そしてきょうは、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。そのなかの一人はわずか12歳の少女だった。
・・・今夜トラックが1台通過した。それには8人ないし10人の少女が乗っていて、通過するさい彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。
12月17日 ・・・ 疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は12歳の少女から上は60歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)それぞれの個人の悲しい話――とりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話――を書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。
・・・ ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が3人いま理科棟にいます――」などと使用人が言ってこない日はない。 ・・・
・・・ 夕食をとり終ったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。 ・・・ あとになってわたしたちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人間を正門のところに拘束したうえで、審問を装って兵士3,4人が中国兵狩りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が12人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った。
12月18日 ・・・ 恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、こどもたちが早朝から続々とやってくる。
・・・ 「アメリカの学校です。セイヨーガクインです」と叫びながらキャンパス内をあちこち走り回って毎日が明け暮れていく感じだ。たいていの場合、立ち退くように説得すればそれですむのだが、中にはふてぶてしい兵士がいて、ものすごい目つきでときとして銃剣を突きつけてわたしを睨みつける。
・・・ 日本大使館へ出向くことにした。・・・わたしたちの困難な体験のこと、また金曜日【12月17日】の夜の事件のことも報告し、そのあと、兵士たちを追い払うために持ち帰る書面と、校門に貼る公告文を書いてほしいと要請した。両方とも受け取ることができて、ことばでは言い表せないほど感謝しながら戻ってきた。 ・・・
12月19日 ・・・ けさも怯えた目付きをした女性や少女が校門から続々と入ってきた。昨夜も恐怖の一夜だったのだ。
・・・ 日本兵を追い出してもまた別の一団がいるといった具合で、キャンパスの端から端まで行ったり来たりして午前中が過ぎてしまった。 ・・・ 教職員宿舎2階の538号室に行ってみると、その入り口に一人の兵士がたち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、わたしが駆けつけたことで、二人は慌てて逃げ出した。
・・・このあと、呼び出されて北西の寄宿舎に行ってみると、そこの一室で日本兵二人がクッキーを食べていた。彼らも慌てて出ていった。 ・・・ }
註67-9 <ベイツから日本大使館への手紙> 「南京事件資料集Ⅰ」、P137-P140)
{ 12月17日 日本大使館諸賢 ・・・ (1)昨晩、兵士は多数の避難民でいっぱいの本学図書館に繰り返し侵入し、銃剣を突きつけて金銭、時計そして婦女子を要求した。 ・・・ (2)昨晩、市内のこの地区の他の多くの場所と同様に、兵士は図書館で婦女数名を強姦した。 (3)・・・ }
{ 12月18日 日本大使館諸賢 兵士による強姦、暴行と強奪のため悲惨さと恐怖が至るところで続いています。すでに7000人以上の貧民(その多くは婦女子)が本学の建物に避難しており、よその条件はここよりも劣悪なので、なお続々と押しかけています。だが、私はここの比較的良好な場所での過去24時間の記録を貴下に提供しなければなりません。 (1)・・・怯えた子供が一人、銃剣で殺され、もう一人は重傷を負い、危篤である。婦女8人が強姦された。・・・多くの人々がもう3日間も眠れず、恐怖心はヒステリックなほどだ。もし、この恐怖と絶望とが兵士の婦女襲撃への抵抗をもたらすとしたら、破滅的な虐殺が現出し、貴当局が責任を負うことになろう。・・・ (2)金銀街・・・婦人二人が強姦された (3)胡家菜園11号・・・婦人二人が強姦された、(4)本学教員の住む漢口路2号の教職員宿舎。婦人二人が強姦された (5)・・・婦人一人が強姦された (6)小桃園。ここは何度もひどい目に遭ったため、婦人全員が逃げ出した・・・昨晩、数名の貴館員は、これらの建物のいくつかの門に憲兵を置くと言明しました。・・・しかし、一人の衛兵も見当たりません。いずれにせよ、兵士はどこでも塀を乗り越えているのですから、全般的秩序が回復しないかぎり、少数の衛兵では役に立たないでしょう。・・・}
註67-10 <現金の掠奪> 中島今朝吾日記 「南京戦史資料集」、P333
{ 12月19日 ・・・ 最も悪質のものは貨幣掠奪である。中央銀行の紙幣を目がけ至る処の銀行の金庫破り専門のものがある。そしてそれは弗【ドル】に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて日本紙幣に交換する。此中(仲)介者は新聞記者と自動車の運転手に多い。上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある。
第9師団と内山旅団【野戦重砲兵第6旅団】に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多い。そして金が出来た為逃亡するものが続出するといふことになる。内山旅団の兵隊で4口、計3000円送金したもの其他300、400、500円宛送りたるものは4,50名もある。誠に不吉なことである。}
註67-11 <掠奪に関連する日本兵の記録>
前田吉彦少尉(歩45連隊)日記 { 12月16日 ・・・ 無統制に徴発を許した為かそれとも勝手にやっているのかその辺の窓や扉を勝手にやぶって食糧や衣服、こんなものを両手に抱えている兵隊が多かった。・・・}(「南京戦史資料集」、P466-467)
井家又一上等兵(歩7連隊)日記 { 12月19日 ・・・ 醤油と砂糖の徴発に出かけ難民の家に行き箱から蓋をとった釜の中を見、引出の中を開き色々と中をさがすのだ。難民の見ている前でやるのだから彼らとて恐ろしい日本兵の事何もする事も出来ずするままである。・・・}(「同上」、P477)
牧原信夫(歩20連隊)日記 新聞記者も“徴発”を行っていることが書かれている。 { ・・・毎日新聞の南京通信員志村記者に会う。・・・今夜夜具を探して居るのだと言って、民家に徴発に行ってこれ位兵隊はしなければ戦争は出来ないわ、と笑って居た。・・・}(「同上」、P514)
註67-12 <石川達三が見た掠奪> 石川達三:「生きている兵隊」、P44
{ 北支では戦後の宣撫工作のためにどんな小さな徴発でもいちいち金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発によるより他にしかたがなかった。炊事当番の兵たちは畑を這いまわって野菜を車一ぱいに積んで帰り、豚の首に縄をつけて尻を蹴飛ばしながら連れて帰るのであった。
やがて徴発は彼らの外出の口実になった。その次には隠語のようにも用いられた。殊に生肉の徴発という言葉は姑娘(クーニャ)を探しに行くという意味に用いられた。}
註67-13 <徴発は諸悪の根源> 早尾逓雄陸軍軍医中尉の報告 「南京難民区の百日」、P44-P45
{ ・・・ 徴発のごとき公然ゆるされし事さえ、最初は躊躇せる者がついには徴発に大なる興味を感じついては競争心さえ起こすにいたる。ついては不必要なる(軍隊生活には)物品を自己の利欲より徴発をなすにいたり、これらを内地に向って送りし例も少なからず、あるいは徴発により上官の機嫌を取り結び自己の進級等に利益をはかりし例も存せり。
徴発はゆるされたる行為なれどもこれを次第に意義を換え濫用となりし結果が、犯罪構成に立ちいたりしものにして、実に徴発なる教えは極めて兵卒の心を堕さしめたる結果をしめせり。軍隊には「員数をつける」という言葉あり、これは一種の窃盗行為なり。(中略)徴発はこの「員数をつける」をさらに大にして公けにせしものの如くに解釈せるの観あり。ついには掠奪となり強奪ともなり、しかもこれらの行為を恥ずるなきまでにいたりしものと思わる。
兵卒の大部分は性善良なりしを疑わず、しかるも戦場に来たるや予想せざるし不良行為が平然と行われしかも何らの制裁なきを見るや、いたずらに遠慮をなし不自由なる思いをなすより、「員数をつける」心持ちの下に余分の物品まで掠奪をあえてなすにいたりしものと解釈すべきなり。}
註67-14 <外国人の見た火災.> 第22号文書「南京市の火災についての所見」 「安全地帯の記録」、P205-P208
{ ・・・火曜日【12月14日】の朝、・・・ 【国際委員会の】何人かのメンバーは市の南部のドイツ人およびアメリカ人の資産の状態を調査していた。・・・ 市の広い地域は全く焼けていなかった。
委員会のメンバー達は12月19日夜、安全地帯内での火災の調査を行った。・・・平倉巷16号の1軒の家は日本兵達によって焼かれていた。・・・その日中、中山路と保泰街の角の建物は燃えつきた。そして、その晩、多数の火災が国府路の方角に望見された。
12月21日※午後5時から6時の間、フィッチ氏とスマイス氏は ・・・九江路のすぐ南のクリークから始まって白下路に至る間で、15名から20名の日本兵の集団をいくつも見かけた。それらの小集団は一見下級将校に指揮されており、燃える建物を街路の両側から注視しているか、あるいは商店から物資を持ち出し、他の店では床の上で焚火をしているのが見られた
※「安全地帯の記録」では12月21日となっているが、「大残虐事件資料集Ⅱ」では20日になっている。ラーベはYMCAの火災を20日の夜と書いていることから20日が正しいとみられる。
註67-15 <ソ連大使館の火災> 飯沼守日記 「南京戦史資料集」、P231,P233
{ 1月1日 ・・・今日午後ソ連大使館焼く。此処は日本兵決して入り込まさりし所なれは証拠湮滅の為自を焼きたるにあらすやと思はる。
他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑あるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり。・・・
1月4日 ・・・ 10:00過 特務部岡中佐来りソ連大使館焼失に就ての取調と米国大使館員(5日来る筈)と接衝の為来りしとて午前1:00迄話して帰る。同中佐ソ連大使館に到りし時裏手の大使かの私邸に笹沢部隊の伍長以下3名入り込み、食糧徴発中なりしと、今に到り尚食糧に窮するのも不思議、同大使館に入り込むも全く不可解。}
註67-16 <放火に関する証言など>
①野村敏明軍曹 { 「日本兵がよく放火した」と報じられているが、これは不可解である。日本軍がこれから利用しなければならない建物や、宣撫工作上からも大事な住宅などに放火するなど、とても考えられないことである。南京城内では、我々が入城する前から火災を起こしていたのである。}(「証言による南京戦史(4)」、P8)
②牧原信夫日記 { 12月17日 ・・・ 今夜も2,3ケ所火事があった。(便衣隊の放火によるもので、夜は外出禁止) ・・・ 12月21日 ・・・毎晩火事が起るが何故かと思ったら、果たせるかな支那人の一部が日本軍の居る附近に石油をまいて付火するのである。今日は1名捕えて殺す。}(「南京戦史資料集」、P513)
③前田吉彦日記 { 12月19日 ・・・ 帰途ロータリーを南下して泰准へかかるころ不図道畔の3階建の洋館から突如黒煙が湧き上がりその下にチロチロと火焔が出はじめたのに気付く。今朝来るときは火の気など一つもなかったのだが、此は掠奪組の放火と首肯れた。皇軍意識なんてものはひとかけらもない彼等の行動だ。・・・}(「南京戦史資料集」、P468)
④山田栴二少将日記 { 12月8日 ・・・ 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる仕業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸隊に与ふ、}(「南京戦史資料集Ⅱ」、P333)
⑤早尾軍医「軍医官の戦場報告意見集」 { 官憲の取締り行き届かざりし頃は、放火、掠奪、殺人、窃盗、強奪、強姦など、あらゆる重犯行為思うがままに行われつつありしが、取締り厳となるとともに放火は漸次数を減らしたるを見たり。必要上の放火よりは遊戯的放火の少なからざるを見たり。}(「南京難民区の百日」、P304)
⑥フィッチ(「戦争とは何か」 {12月20日 ・・・兵士たちが商店に入っていって放火するさまを見ることができましたし、さらに、さきでは兵士たちは略奪品をトラックに積み込んでいました。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」、P36)
⑦スマイス報告“まえがき” { 南京の城壁に直接接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切なものであったかはわれわれの決定しうることではない。 ・・・ 事実上、城内の焼き払いのすべてと近郊農村の焼き払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである。} (「大残虐事件資料集Ⅱ」、P212)