大きな事件や事故においては、ほとんどの場合その原因は複数あり、しかもそれらの原因は直接作用した一次原因、一次原因に作用した二次原因、さらに三次原因以降があることも稀でなく、原因どうしが複雑にからみあっている。この節では、識者が指摘した事件の原因を筆者なりに分類・分析した。
なお、原因には日本側の責に帰するものだけでなく、中国側の責に帰するものもある。
図表8.2は、事件当時の関係者や現代の研究者が指摘する原因を分類したものである。識者が指摘する原因は多数あり、それらは複雑にからみあっている。ここでは、次のように分類した。
①直接原因 ・・・ 捕虜殺害や市民暴行に直接作用したもの
ⅰ)捕虜の不法殺害に作用した原因
ⅱ)市民への暴行に作用した原因
ⅲ)戦闘や捕虜殺害に市民が巻き添えを食った事象に作用した原因
ⅳ)上記3つに共通して作用したみられる原因
②間接原因 ・・・ 直接原因の全部又は一部に間接的に作用した原因
③日本軍の特質 ・・・ 上記の原因の背景になった日本軍の組織特性(風土)
図表8.2 識者が指摘する事件の原因

以下、個々の原因について識者の主張を中心に紹介する。原因タイトルのうしろにつけた略字がその原因を提示している識者を表す。なお、出典文献は註82-15を参照。
略字 松 参 早 山 戦 秦 藤 吉 識者名 松井石根 参謀総長 早尾逓雄 山田栴二 「南京戦史」 秦郁彦 藤原彰 吉田裕
(1)捕虜の不法殺害の原因
(捕1)捕虜取扱い方針なし 《 戦、秦、藤、吉 》
1937年8月5日の陸軍次官通牒では、国際法を尊重せよと言う一方で俘虜という名称は使うな、と述べて捕虜取扱いに関する明確な方針を示していない註82-1。松井大将も捕虜については何も指示しておらず、捕虜を収容する体制などはほとんど用意されていない。南京戦史は困惑した現場を代弁して次のように記している。
{ 敵を撃滅することだけを念頭において戦っていた第一線諸隊は、多数の投降兵出現にさぞ困ったことであろう。その対応がまちまちであったことは一に戦況によるとはいえ前述の指示の不的確、対応準備の欠如が大きな要素といえよう。そしてその責は一に中央部及び方面軍が負わねばならないものともいえよう。} (「南京戦史」、P345)
まとまった数の捕虜を収容した後、中隊レベル以上の組織的判断で殺害してしまったほとんどのケースは、捕虜取扱い方針が示されなかったことに起因するとみてよいのではないだろうか。
(捕2)捕虜侮蔑思想 《 秦、藤、吉 》
日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」、つまり捕虜となるより死を選べという行動規範を叩きこまれており、捕虜に対する蔑視意識があった。それに加えて、上海戦以来の悪戦苦闘で高まった敵愾心、さらには中国人への侮蔑意識などが重なり、{激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。}(4.1.3項(1)) という状況に至ったケースもあった。少数の投降兵を収容時、もしくは収容直後に殺害してしまったような場合はこの原因が該当するのではないだろうか。
(巻1)中国軍の撤退戦略 《 戦、藤 》
南京死守を宣言していた唐生智は退却命令を出すのが遅れただけでなく、「各方面でいっせいに日本軍を正面突破して撤退」との命令を残して、自分はさっさと揚子江を渡って逃げ出してしまった。(3.5節(2)) その結果、逃げ場を失った中国兵は便衣に着替えて安全区に逃げ込み、市民との選別を困難にしたり、捕虜を無用に増やしたりすることになった。
「南京戦史」は、安全区のみならず市外に脱出する中国兵にも市民が混入し、戦闘に巻き込まれたり、捕虜として処刑されたりした可能性もある、と述べている註82-2。
(巻2)城内進入制限の黙殺 《 秦、吉 》
12月7日に出された「南京城攻略要領」註34-1で、城内掃蕩は各師団歩兵1個連隊だけに制限するように指示されていた。城内進入兵力を制限するのは、{ 血気の兵士と一般市民の接触を減らし、不祥事の発生を予防するのに有効で、いわば都市攻略の常識である。 ・・・ 結果的に各師団1個連隊という指示は守られていない。}(秦:「南京事件」、P101)
また、吉田裕氏は次のように述べている。
{ 東京裁判の法廷で、中支那方面軍参謀副長であった武藤章が、「南京の場合は、2大隊か3大隊が市中に入ることになっていました。ところが全軍が入城してしまった結果、遂に南京掠奪暴行事件となったのです」と証言している。} (吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」、P144)
多数の将兵が城内に進入したことにより、掃蕩戦で巻き添えになった市民が増えただけでなく、市民への暴行も増加することになったとみられる。
(巻3)性急な入城式 《 秦、吉 》
“城内の掃蕩が終わっていない”と上海派遣軍の飯沼参謀長などが反対したにもかかわらず、松井大将は12月17日の入城式を強行した。その結果、16日の掃蕩では怪しい者すべてをその日中に処刑することになり、多くの市民が巻き添えになった註82-3。また、捕虜の処刑を急がせる結果にもつながった。
(3)市民への暴行の原因
(市1)憲兵不足 《 秦、吉、他 》
秦氏は次のように述べている。憲兵不足は下記の日高信六郎や上砂勝七のほか、国際委員会のフィッチも指摘している(4.5.2項(9)(b))。
{ 軍紀取締りに当るべき憲兵の数が不相応に少なかった。東京裁判の日高信六郎証言によると、12月17日現在の城内憲兵はわずか14人で、数日中に40名の補助憲兵を得られるはず、とある。この14人は上海派遣軍所属の憲兵と推定されるが、第10軍の方も憲兵長上砂勝七中佐が「20万の大軍に憲兵100人足らず」と書いているぐらいだから、南京占領直後に城内で活動していた正規の憲兵は、両軍あわせても30名を越えなかったと思われる。 ・・・ これでは効果的な取締りを期待するのは困難というより、不可能に近かったであろう。} (秦:「南京事件」、P102)
(市2)占領後の計画なし 《 秦 》
占領後の軍政計画が策定されておらず、住民に食糧を供給し、生活基盤の電気や水道などを復旧し、治安を確保するなどの生活秩序を復旧する計画がなく、形だけの自治委員会が発足したのは陥落後2週間以上たった1月1日であった註82-4。兵士たちの非行を取り締まる憲兵も警官もいない状態が長期間続いたのである。
(4)共通原因
(共1)中国人への憎悪 《 松、秦、吉、藤 》
戦争のときに敵国を侮蔑したり憎悪をあおることはよく行われることで、その意味でこれを原因とするのは適当ではないかもしれないが、秦氏は次のように述べている。
{ 指揮官としての腕の見せどころは、兵士の悪魔性を封じ込めながら、そのエネルギーを戦場で爆発させるように誘導するところにあった。 ・・・ 南京の戦場ではそのバランスが狂い、ついで軍紀の急速な崩壊を招来した。しかも下級指揮官ばかりでなくトップレベルの指揮官まで巻き込まれてしまったところが、ほかに例を見ない特徴であろうか。} (秦:「南京事件」、P221-P222)
以下のような要因により、中国人への侮蔑が入り混じった激しい憎悪感情が一線の将兵の間に発生し、それを指揮官がうまくコントロールできなかったと考えられる。
(共1a)上海戦の悪戦苦闘 《 松、吉 》
松井大将は「支那事変日誌抜粋」で、上海戦以来の悪戦苦闘が将兵の敵愾心を強烈にした註82-5と述べ、吉田氏は次のように指摘する。
{ 一般的にいって激しい戦闘の連続は戦友を次々に失ってゆく兵士たちの敵愾心を高揚させ敵に対する報復の念を強める。日本軍の場合、こうした一般的事情に加えて中国人に対する蔑視感や中国の抗戦力に対する過小評価が根強かっただけに、中国軍民の予期せぬ激しい抵抗に直面したとき、敵愾心の押さえがきかぬまでに異常に亢進し、これが兵士をすさまじい殺人機械に変貌させる大きなバネとなったのである。} (「天皇の軍隊と南京事件」、P43)
(共1b)中国軍のゲリラ戦術 《 松、吉 》
松井大将は「支那事変日誌抜粋」で、便衣兵による抵抗が軍民の区別をつけがたくしたことが市民を巻き込む原因のひとつとなった、と述べる註82-6。また、吉田氏によれば第10軍が杭州湾に上陸する直前に「支那住民に対する注意」と題する指示を出し、支那住民にはスパイを勤めたり、日本兵に危害を加えたりする者がいるので、十分注意をするとともにこうした行為を認めたら断乎たる処置を執るべし註33-3、との指示を出している。そのせいか、「逃げる者は射殺」と証言する兵士註45-2もいる。
しかし、ゲリラ戦を中国側の責任として片付けるわけにはいくまい。アウェイで戦争をするときにゲリラ戦を覚悟しなければならないのは、過去の戦史をみても明らかだ。日本は沖縄戦で市民をゲリラ戦に使い、本土決戦でも一般国民を巻き込んだ戦いを計画していたし、アメリカはベトナムでゲリラ戦をしかけられ敗退している。
南京事件当時の参謀本部作戦課長だった河辺虎四朗によれば満州事変後の満州でもゲリラ戦に悩まされ、これを克服するのは「社会の安堵感の普及」つまり民衆の信頼を勝ち取ることしかない註82-7、と述べている。
(共1c)中国人を侮蔑 《 松、藤、吉 》
松井大将は入城式後に各軍、師団の参謀長に軍紀風紀の粛正について訓辞し、その中で「支那人に対する軽侮の念がこの事変を生起させた、支那人の軽侮は誤りである」といった趣旨を述べていることが12月18日の飯沼日記註82-8に記されている。
日本人にこのような中国人に対する侮蔑感が現われた経緯について吉田氏は、色川大吉の指摘を引用して「日露戦争で勝利した後、経済的にも軍事的にも先進国の仲間入りをしたことを意識し、それまで畏敬の念をもっていた中国人を侮蔑するようになった」と述べている註82-9。
(共2)軍紀頽廃 《 松、秦、藤、吉、他 》
軍紀頽廃が市民への暴行や捕虜殺害の原因になったことは間違いない。1938年1月4日付で陸軍幕僚長(=参謀総長)の名前で松井大将宛に送られた「軍紀・風紀に関する件」では、軍紀・風紀の維持を困難にした要因として「迅速なる作戦の推移」と「部隊の実情等」をあげている註82-10。「迅速なる作戦」は「急激な進軍」、「部隊の実情」は予後備兵が多いことをさしているとみられる。「急激な進軍」は徴発への依存となり、それが軍紀の乱れにつながった。軍紀の乱れた原因はほかにもいろいろありそうだ。
(共2a)予後備兵の増加 《 山、秦、藤、吉 》
戦争が急激に拡大し兵力の増強が必要となったため、現役を退いた予備役、後備役の兵を召集せざるをえなくなった。こうした兵について陸軍士官学校出身で終戦時は歩兵大隊長だった藤原彰氏は次のように述べている。
{ 年齢の高い者は30歳代後半になっており、体力の低下はまぬかれない。 ・・・ この時代のことなので、多くの者は妻があり、子どもも3人も4人もあって、一家をささえており、後顧の憂いの多い階層である。また同じ隊の将校や下士官が年下であったり、現役時代の後輩であったりすることもあって、上官と部下の関係がかならずしも額面どおりにいかない場合もあり、厳正な軍紀がたもちにくい面も多かったといえる。} (藤原彰:「南京の日本軍」、P90)
また、13師団の山田栴二少将も予後備兵のだらしなさとして、敬礼しない、服装の乱れ、武器の手入れせず、行軍中の勝手な行動、強姦や掠奪の横行、などを日記註82-11に書いている。
さらに、藤原氏は兵のみならず現役の幹部も不足していたという(藤原彰:「南京の日本軍」、P91)。
(共2b)志気の低下 《 藤、吉 》
吉田氏及び藤原氏は、志気や戦意の低下が軍紀の乱れる原因のひとつになったという。吉田氏は上海在勤の一等書記官田尻愛義の回想録を引用して、{日本軍の志気は低調そのもので中国軍の方が高い。捕虜をみても、大和魂は先方に乗り移った感がする・・・}(「天皇の軍隊と南京事件」、P36)と述べる。中国軍の記録にも日本軍の志気は低かったことが記されている。(3.5節余話「中国軍からみた日本軍」) なぜ志気が低下したのか、吉田・藤原両氏は予後備兵の増加、上海戦の苦闘、戦争目的が不明確、などをその原因としている。
(共2c)徴発は諸悪の根源 《 山、早、秦、藤、吉 》
早尾逓雄陸軍軍医中尉は上海・南京戦で頻発した事件を調査した報告書で、{徴発は次第に意義を変え濫用した結果、犯罪となり兵卒の心を堕落させる。}と記し、徴発が市民暴行のきっかけになったとしている。(6.7.3項(5))
秦氏は、徴発が諸悪の根源だったことを指摘する指揮官クラスも少なくなかったという。
{ 砲兵旅団長として華中に出征した澄田睞四朗少将は、次のように述べている。「上司から命令したのが《徴発》であり、然らざるものが《掠奪》だなどという理屈が兵隊さんに呑み込める道理はない。兵士達はこんなことから、 ・・・ 良心の麻痺を来して、軍紀風紀の頽廃を生じ、遂に放火、殺人(強姦)果ては虐殺なども、さほどの悪業とは、思わないような心境に立至ったと推するのは、筆者の僻目だろうか」(『任官60周年陸士第24期生小史』)} (秦:「南京事件」、P220)
山田栴二少将も同様な指摘をしている。(4.5.2項(7))
急激な進軍により補給が間に合わず、進軍中の食糧を徴発に依存したことが軍旗の頽廃、しいては市民への暴力につながった可能性が高い。
(共2d)強姦に甘い刑法 《 吉 》
南京事件当時の陸軍刑法では、強姦罪は「略奪の罪」の中に包含されており、掠奪に伴って起こる強姦以外は問題にしないかのような規定になっていた。また、当時の強姦罪は親告罪であったため、被害者の申告がないと罰せられなかった。1942年になって陸軍刑法が改正され、強姦罪は独立の項目となって強姦にともなう殺傷を取り締まる旨が明確にされた註82-12。
岡村寧次大将は武漢攻略前の1938年8月、憲兵隊長から輪姦事件を取り調べたところ被害者が告訴しないから、強姦罪は成立しないので不起訴とするとの報告を受け、憲兵隊長を叱咤し厳重に処分するよう指示している。その後、岡村大将は阿南陸軍次官に強姦罪の改正を強く求め、その結果1942年の改正が実現したようだ註82-13。
(共2e)時代に逆行した兵士管理 《 吉 》
明治になってからの初等教育の普及や大正デモクラシーの影響で兵士の知的レベルが向上して自律的な思想を持つようになり、軍隊内の生活規則も兵士の自覚を前提としたものに改められた。その後、共産主義運動の活発化、満州事変勃発などにより、「天皇の軍隊=皇軍」としての意識徹底を図るため兵士の管理・監視体制が再び強化されたが、かえって兵士の反発をかうようになった。
{1934年には、再度、軍隊内務書※の改正が行われ、・・・兵士に対する管理・監視を強化することが確認された・・・ この時期の天皇制軍隊は、兵士自身がすでに軍紀に盲目的に服従する存在ではなくなっているにもかかわらず、いわば時代の流れに逆行する形で、兵士に一方的な管理・監視体制の強化と天皇親率の軍隊であるという大義の強調とによって、軍紀を保持しようとした。換言すれば、天皇制軍隊は大正デモクラシー状況をくぐりぬけてきた兵士たちの内面的忠誠を獲得する新たな理念と組織原理を十全な形ではつくりだせなかったのである。} (「天皇の軍隊と南京事件」P195-P198)
※軍隊内務書; 兵営内の生活に関する一種の管理規定書(同上P193)
(5)間接要因
(間1)不明確な戦争目的 《 藤、吉 》
上海への派兵を決めた1937年8月15日、日本政府は「盧溝橋事件に関する政府声明」註82-14を発表し、戦争の目的らしきものとして「暴支膺懲と抗日運動の根絶」などを掲げた。
{ 「暴支膺懲」は国家的な合言葉となったが、対手が乱暴で言うことをきかないから懲らしめてやる、というだけでは、国民を奮起させるのに十分なスローガンとはいえなかった。国民にとって戦争目的が明確でなかったばかりでなく、軍隊の幹部でさえそれをはっきり理解できないのが実情であったといえよう。} (藤原:「南京の日本軍」、P117)
宣戦布告をせずに日中戦争を開始したのは米国の中立法の適用をうけて軍需資材の入手が困難になるため(2.4節(10))であったが、宣戦布告をするに十分な大義名分がなかったことも理由のひとつだと、吉田氏は述べる。
{ 11月7日付の海軍省の極秘文書に「大義名分に乏しく、国民をして疑心暗鬼を生ぜしむる虞」とあり、11月8日付の陸軍省極秘文書にも「内外人をして首肯せしむるに足るべき戦争目的の捕捉頗る困難」と指摘している(木戸幸一関係文書)} (「天皇の軍隊と南京事件」、P30)
戦争目的が不明確であることは、兵士の志気に影響するだけでなく、どのような勝ち方をするかの計画にも関係する。占領後の南京をどのように統治するか、中国民衆にどのように接するか、これらは何のために占領するかによって変わるはずである。松井大将が「支那人には親切にせよ」(「南京戦史資料集」、P219) と指示しても目的が不明確では説得力に欠ける。
(間2)急激な進軍 《 松、参、秦、藤、吉 》
「急激な進軍」とは、上海戦後間をおかずに命令を無視して南京戦をしかけたことを指す。松井大将は、「支那事変日誌抜粋」で“急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと”註82-5を指摘し、参謀総長も「「軍紀・風紀に関する件」で“迅速なる作戦の推移”については軍中央にも責任の一端があることを認めている註82-10。 また、藤原彰氏が指摘するように、急激な進軍は兵士の心理だけでなく、戦闘計画を杜撰なものにする結果になった。
{ そもそも南京攻略戦そのものが、兵站や補給を無視し、敵国の首都の一番乗りを争った猪突猛進主義の作戦であった。糧食はすべて徴発によるというこの作戦が、掠奪暴行の原因になったのだが、作戦第一主義で兵站、補給を軽視するという軍や師団の戦闘指導そのものに問題があったのである。さらに大量の捕虜が発生したとき、捕虜の給養の面でゆきづまり、短絡的に捕虜の処分に走ったことも問題がある。} (藤原:「南京の日本軍」、P95)
11月7日、上海派遣軍と第10軍を統合する中支那方面軍が設置されたが、目的は上海防衛にあったから、軍本部の要員はほとんどいなかった。それがそのまま、南京攻略戦に突入したため、方面軍の統率力は弱かった。
{ 人員は参謀部の副官や当番兵、通訳など20人ばかりにすぎず、司令部機構につきものの兵器部、経理部、軍医部、法務部(軍法会議)などの各部はなく、直轄部隊もいなかった。
司令官の指揮権限も、 1.全般的作戦指導、 2.兵站業務の統制、 3.宣伝謀略ならびに一般諜報、 の範囲に制限されていた。手足を持たぬ指揮機構は肩身が狭く、指揮下部隊に押しが利きにくい。手持ちの予備兵力や補給物資を持たぬからである。まして指揮権の範囲を制限されているとあれば、なおさらだろう。} (秦:「南京事件」、P73-P74)
8.2節の註釈
註82-1 <陸軍次官通牒に関する南京戦史のコメント> 「南京戦史」、P338
{ 「捕虜と呼ぶことも、軍の側から交戦法規をそのまま適用して戦うとも言うな」というのである。この通牒には前文に・・・交戦法規の遵守には触れているのだが、読む限りにおいて、それは尊重すべきは、害敵手段の選用等であって交戦法規全体ではない。捕虜については「そういう言葉も極力避けよ」というのである。
しかしこの「方針」はまことに理解困難な方針である。戦闘ともなれば必ず投降兵は出てくる。これをどう取扱うのか。扱うべき機構も施設も「戦争ではないのだから」と準備されないのであった。「戦争とならぬよう、事変の程度で収めたい」という気持ちは解らぬではない。しかし、事変勃発当初ならばたとえそうであったとしても、上海戦が起こり全面戦争のような形となり、さらに相手国の首都南京に攻め込むまでに戦局が大きく進展した時期となっても、依然として改めることなく、はっきりした方針も扱い方も示さなかったのは果たして如何なものであろうか。}
註82-2 <中国兵と市民の混入> 「南京戦史」、P367
{ 下関での殲滅戦において、脱出しようとした中国軍中に一般住民が混入していた可能性はあるが、その選別は不可能である。中国軍は降伏勧告を拒否したのであるから、一般住民を隔離して戦闘に巻き込まれないよう方策を講ずべき責任があった。}
註82-3 <性急だった入城式> 秦:「南京事件」、P105
{ 飯沼上海派遣軍参謀長は15日夕方、湯水鎮へ前進してきた方面軍司令部を2回も訪ねて入城式の延期を要請したが、松井司令官は、「時日過早の感なきにあらざるも、余り入城を遷延するも面白からざれば・・・」(「松井日記」12月16日)という漠然たる理由で、17日の予定を頑として変えなかった。その結果、派遣軍は ・・・ 全軍をあげた徹底的掃討作戦を実施することになる。
・・・ 晴れの入城式に宮様の身に危害が及んでは困る、という配慮から、疑わしいものはすべてその日のうちに始末する方針がとられた。とくに難民区の掃蕩を担当した第9師団が、選別の余裕がないままに青壮年男子のほとんどを便衣兵とみなして処刑してしまった・・・}
註82-4 <占領後軍政計画なし> 秦:「南京事件」、P103-P104
{ 中央政権も市政府も去り、市の行政が唐生智司令官の軍権下に置かれていたのは既知の事実であり、唯一の行政主体である国際難民区委員会の権限を否認している以上、日本軍が代って南京市の軍政統治に全責任を負わざるをえないのは明らかであった。ところが、進入した日本軍は自活するだけの物資さえ持ち合わせぬ餓えた兵の集団で、まして住民を食わせ、破壊された公共施設を復旧して生活秩序を再建するどころではなかった。 ・・・ 市政府に代る自治委員会が再建されるのは【昭和】13年1月1日だから、占領から少なくとも2週間以上にわたり、南京市は無政府状態に置かれたと表現しても過言ではない。同じ中国戦線でも、古都北京の場合は、7月28日夜に冀察政権の宋哲元が撤退すると、・・・30日に設立・開庁と手際の良さを見せ、行政の空白は1日もなかった。}
註82-5 <松井大将「支那事変日誌抜粋」における原因分析> 「南京事件資料集」、P48
{ 我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。是れ思ふに
一.上海上陸以来の悪戦苦闘が著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。
二.急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと
等に起因するも亦予始め各部隊長の監督至らさりし責を免る能はす。}
註82-6 <松井大将「支那事変日誌抜粋」におけるゲリラ戦術の影響> 「南京戦史資料集」、P48
{ 敗走せる支那兵か其武装を棄て、所謂「便衣隊」となり、執拗なる抵抗を試むるもの尠からさりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明らかにすること難く、自然其一般良民に累を及ほすもの尠からさりしを認む。}
註82-7 <ゲリラ戦対策> 「河邉虎四朗回想録」、P63
{ 関東軍は ・・・ 討伐一点張りの主義を排して、日満軍官民の共同協力によって、武力示威と宣撫工作との節調、民生安定の社会的諸策等、それらが相互に相作用することにより、「匪民分離」の策を進め、匪団を孤立無援の状態に誘導することに努めた。
古今東西ともに、ゲリラの掃滅は大きな難事業といわれているが、私一個の体験は、あのような情勢下における対ゲリラ戦では、結局、治世の浸透と、文化の浸潤等による社会の安堵感が普及することによって、決勝が得られるものであることを感銘させた。}
註82-8 <松井大将の訓示> 「南京事件資料集」、P218-P219 <飯沼日記>
{12月18日 午前2・00より首都飯店にて参謀長会同。 ・・・ 司令官より老婆心として談話。
・・・ 【支那人を】武威に懼服せしむると共に皇軍に心服せしめ日支一体の必要を感せしむる以外出征の目的達成の途なし。之か為2,3注意を倍莅し度い。軍紀風紀の粛正。支那人に対する軽侮の念多し之か禍を為し今日の事変を生起したるとも言ひ得、 ・・・ 漢民族殊に支那人を個人的に観るときは気力、経済力共に侮るへからさる実質を有す。国民性の欠陥は統制と団結力なかりしに在り、故に之を加うれは恐るへき力を成す。而して現今之か実を結ひつつあり、軽侮するは誤りなるを銘心せよ。国際関係に対する自分の信念としては支那人には和く親切に英米其他諸外国に対しては正しくと言ふに在り・・・ 以上将校には伝えられたし。}
註82-9 <中国人への侮蔑意識> 吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」、P186
{ 日本の一般民衆の中国人観に質的ともいうべき変化をもたらしたのは、日清、日露戦争の国民的体験であった。とくに色川大吉が指摘しているように、日露戦争の影響は大きく、この戦争によって、「朝鮮、満州の戦場に出ていった100万という日本人大衆が、おそらく有史以来はじめてのスケールで直接に中国民衆に接し、これまで畏敬の念さえ持ってきたかれらに対し、はっきりした侮蔑意識を確認して帰ってきた」。そしてその侮蔑意識の背景には「明治維新ー文明開化」(近代化過程)を通過して、経済的にも文化的にも軍事的にも先進し、優越した”日本という国の一環”であるという鮮烈な自己認識が、倒錯した形で示されていた」のである。(色川大吉「日露戦争と兵士の意識」) }
註82-10 <参謀総長 「軍紀・風紀に関する件」(要望)> 「南京戦史資料集」、P565
{ 遡て一般の情特に迅速なる作戦の推移或は部隊の実情等に考へ及ぶ時は森厳なる軍紀、節制ある風紀の維持等を困難ならしむる幾多の素因を認め得べし従て露見する主要の犯則不軌等を挙げて直に之を外征部隊の責に帰一すべからざるは克く此を知る }
註82-11 <予後備兵のだらしなさ> 「南京事件資料集Ⅱ」、P334 <山田栴二日記12月24日>
{ 予後備兵のだらしなさ 1.敬礼せず 2.服装 指輪、首巻、脚絆に異様のものを巻く 3.武器被服の手入れ実施せず赤錆、泥まみれ 4.行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曳く、車を出す、坐り寝る(叉銃※などする者なし)、銃は天秤 5.不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪 }
※叉銃(さじゅう);銃口付近を頂点に複数の銃を組み合わせ三角錐状に立てること
註82-12 <陸軍刑法における強姦罪> 吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」、P86
{日本軍の軍法規自体が強姦に対して「寛容」であったことである。 ・・・ 当時の陸軍刑法には独立した強姦罪の規定がなく、「掠奪の罪」の中に強姦罪が包含されていたにすぎない。すなわち、陸軍刑法第86条は、「戦地又は帝国軍の占領地に於て住民の財物を掠奪したる者は1年以上の有期懲役に処す。前項の罪を犯すに当り婦女を強姦したるときは無期又は7年以上の懲役に処す」としていたのである。略奪に随伴して起る強姦以外は問題にしないと言わんばかりの規定である。この陸軍刑法が改正され、「戦地又は帝国軍の占領地に於て婦女を強姦したる者は無期または1年以上の懲役に処す。前項の罪を犯す者人を傷したるときは無期または3年以上の懲役に処し、死に到したるときは死刑又は無期若は7年以上の懲役に処す」という形で強姦罪が独立の項目となり、強姦にともなう殺傷をも取り締まる趣旨を明確にしたのは、実に1942年2月のことであった。}
註82-13 <岡村寧次大将と強姦罪> 「岡村寧次大将資料(上巻)」、P301
{ 8月23日五十嵐憲兵隊長報告のため来訪、小池口における上等兵以下3名の輪姦事件を取り調べたところ、娘は大なる抵抗もせず、また告訴もしないから、親告罪たる強姦罪は成立せず、よって不起訴とするを至当とするとの意見を平然として述べた。同列した軍法務部長もまた同じ意見を述ぶ。
それに対し、私は叱咤して云った。強姦罪が親告罪であることぐらいは予もこれを知っている。 ・・・ 憲兵は須らく被害者をみな親告せしめよ、そうして犯人はみな厳重に処分すべしと。
・・・ しかしその後も各地でやはり強姦が頻発し、しかも示談が少くなく、その示談金が到る処日本金の15円に統一されているという珍妙な現象を聞いた ・・・ 内地に帰還した昭和15年3月26日、阿南陸軍次官に対し、この戦地強姦罪設定の意見を強く述べたところ正義の士である阿南は、直に同意し、改正に着手すべしと答えた・・・}
註82-14 <盧溝橋事件に関する政府声明> 大杉一雄:「日中15年戦争史」、P287
{ 政府は8月15日に「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表し、「帝国としては最早隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し以て南京背不の反省を促す為今や断乎たる措置をとるのやむなきに至れり」としたが、戦争目的は「日満支三国間の融和提携の実を挙げんとする}ものであるとし、このとき早くも後に謳いあげる「東亜新秩序建設」理念の原型を示している。}
日満支融和提携の具体的ビジョンである「東亜新秩序」が示されるのは、この声明から1年以上あとの1938年11月である。
註82-15 <原因を指摘した文献の出典箇所>
原因 出典(注1) 記事(注2) 捕1 捕虜取扱い方針なし 戦 「南京戦史」P338,P345 軍中央も方面軍も方針提示せず 秦 「南京事件」P103 大量発生が予想された捕虜取扱い指針なし 藤 「南京の日本軍」P34-36 軍中央の指示は捕虜を殺害せよと取られる 吉 「天皇の軍隊と・・」P45 軍中央の方針は曖昧そのもの 捕2 捕虜侮蔑思想 秦 「南京事件」P197- 中国人に対する抜きがたい蔑視感情が影響 藤 「南京の日本軍」P76- 捕虜になるより死ぬまで戦うべし 吉 「天皇の軍隊と・・・」P47- 中国人の人格を認めない蔑視意識もあった 巻1 中国軍の撤退戦略 戦 「南京戦史」P367 一般市民を隔離せず 藤 「南京の日本軍」P28 撤退の方法がなくなり、一挙に崩壊 巻2 城内進入制限の黙殺 秦 「南京事件」P101 命令が守られれば問題は起こらなかった 吉 「天皇の軍隊と・・」P144 多数の将兵が乱入し蛮行に拍車がかかった 巻3 性急な入城式挙行 秦 「南京事件」P104- 疑わしい者はその場で始末した 吉 「天皇の軍隊と・・」P136- 城内が混乱しており入城式は時期尚早 市1 憲兵不足 秦 「南京事件」P102 憲兵の数が不相応に少なかった 吉 「天皇の軍隊と・・」P90 上砂勝七の証言を引用 市2 占領後の軍政計画なし 秦 「南京事件」P103 占領後の住民保護を含む軍政計画なし 共1 中国人への憎悪 共1a 上海戦の悪戦苦闘 松 「南京戦史資料集」P48 上海戦以来の悪戦苦闘 吉 「天皇の軍隊と・・」P43 激しい戦闘の連続は敵愾心を高揚させる 共1b 中国のゲリラ戦術 松 「南京戦史資料集Ⅱ」P185 敗走する中国兵が便衣になって執拗に抵抗 吉 「天皇の軍隊と・・」P78 第10軍注意事項で不審者は断乎処置 共1c 中国人の軽侮 松 「南京戦史資料集」P218- 中国人を軽侮するのは誤り 早 「南京難民区の百日」P49 女性差別意識と中国人差別意識が相乗 吉 「天皇の軍隊と・・」P146,186 侮蔑意識は蛮行に対する抵抗感を麻酔 藤 「南京の日本軍」P34 中国兵捕虜殺害は蔑視の表われ 共2 軍紀頽廃 共2a 予後備兵の増加 栴 「南京戦史資料集Ⅱ」P334 予後備兵のだらしなさ(敬礼せず、など) 秦 「南京事件」P223 「予後備兵が悪かった」という指摘がある 藤 「南京の日本軍」P90 後備兵が多いと軍の素質が低下する 吉 「天皇の軍隊と・・」P34- 年配者の志気があがらないのは当然 共2b 志気・戦意低下 吉 「天皇の軍隊と・・」P36 予後備兵の増加と関連大 藤 「南京の日本軍」P116 愛国心に訴求するような大義名分なし 共2c 徴発は諸悪の根源 早 「南京難民区の百日」P44- 徴発は兵卒の心を堕落させた 秦 「南京事件」P220 徴発が諸悪の根源だと気付いた指揮官 藤 「南京の日本軍」P95 徴発が掠奪暴行の原因になった 吉 「天皇の軍隊と・・」P77 補給を無視した無謀な作戦計画 共2d 強姦に甘い刑法 吉 「天皇の軍隊と・・」P86 軍法規自体が強姦に対して寛容であった 共2e 時代に逆行した兵士管理 吉 「天皇の軍隊と・・」P194-198 自律に目覚めた兵士たちを強制管理・監視 間1 不明確な戦争目的 吉 「天皇の軍隊と・・」P29- 日中戦争は大義名分のない侵略戦争 藤 「南京の日本軍」P117 暴支膺懲だけでは奮起させるのに不十分 間2 急激な進軍 松 「南京戦史資料集」P48 急劇迅速なる追撃戦で、補給が不完全 参 「南京戦史資料集」P565 「迅速なる作戦の推移」は軍中央にも責あり 吉 「天皇の軍隊と・・」P74 性急な攻略が兵士達の自暴自棄を加速 藤 「南京の日本軍」P95 兵站や補給を無視した猪突猛進主義 間3 中支那方面軍の体制 藤 「南京の日本軍」P24 方面軍の編成は南京進撃を想定していない 秦 「南京事件」P74 手足を持たぬ指揮機構は肩身が狭い
(注1)略字は識者名(本文図表8.2下を参照) 「天皇の軍隊と・・」は、吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」をさす。
(注2)「記事」は、「出典」に記載された内容の特徴的な部分だけを要約したものである。