南京事件の背景にあり根本原因ともいうべき日本軍の特質を以下の3つの文献を参考にして整理してみた。
・戸部良一他:「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」 (「失敗の本質」と略す)
本書は、ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄の6つの戦闘を分析し、日本軍の組織的欠陥や特性を分析したもので、6名の著者(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎)はいずれも戦史研究が専門ではなく、組織論や経営学などの専門家である。
・藤原彰:「南京の日本軍」
藤原彰氏は陸軍士官学校を卒業し、終戦時は歩兵大隊長をつとめており、陸軍内部をよく知っている方である。
・丸山眞男:「超国家主義の論理と心理」
天皇制のもとでの国家主義(ファシズム)についての論文で、終戦直後の1946年4月に雑誌「世界」に掲載されたもので、当時は大きな反響をよんだようである。著者の2等兵としての従軍経験も折り込まれている。
上記文献で指摘されている特質は多岐にわたり、それぞれ相互に関連しているが、南京事件に関連した範囲で次の5点に集約した。これらは、どちらかというと否定的な特質になっているが、陸軍の体質がすべて悪であったわけではなく、節末の「余話」にあるように、優れた特質が戦後に受け継がれ、日本の経済成長などに貢献したことも事実である。
図表8.3 日本陸軍の特質

(1)精神主義
日本軍は火力の重要性を知ってはいたが、日露戦争の成功体験や、物的資源よりも人的資源の獲得が経済的に容易であったこと、人命尊重意識が相対的に稀薄だったこと、などから白兵銃剣突撃主義を戦略原型とし、それに適応するために精神主義に傾倒していった。 (「失敗の本質」、P247-P248<要約>)
日露戦争後、陸軍は歩兵操典などを全面的に改訂し、「攻撃精神」と「必勝の信念」が、軍人、軍隊にとっての最高理念だと主張するようになる。天皇のために死ぬことが軍人の本分であり、捕虜になることは許されないこととされた。 (「南京の日本軍」、P77-P78<要約>)
作戦不成功の場合を考えるのは、精神主義・白兵主義の表現である「必勝信念」と矛盾する、として戦略オプション(コンティンジェンシー・プラン)を用意しない傾向が強かった。 (「失敗の本質」、P208<要約>)
日本軍の戦略志向は短期的性格が強かった。短期決戦志向の戦略は一面で攻撃重視、決戦重視の考え方とむすびついているが、他方で防禦、情報、諜報に対する関心の低さ、兵力補充、補給・兵站の軽視となって表れる。 (「失敗の本質」、P195-P196<要約>)
(2)皇軍意識と独善性
丸山眞男氏は、天皇制による「超国家主義」が、エリート軍人の独善性を高める一方で無責任体制をつくり、他国民への優越感や捕虜・市民への暴行の心理的要因の一部になるとともに、合理性を排除し精神主義に傾倒する要因にもなったとする。
戦前の天皇制において天皇は主権を保有するだけでなく、道徳や倫理などを体現する存在、つまり絶対的な神のような存在とされた。その天皇が統率する日本が“悪”を行うことはありえず、いかなる暴虐行為も背信的行動も許容されると考えられた。社会的地位は、その地位の機能ではなく、精神的権威の流出源である天皇との距離で測られ、天皇に近い位置にいる人ほど優越的地位を占めることができた註83-1。
天皇が統帥権により直轄する軍は、皇軍と称して一般庶民などに対する優越意識を持つようになる。支配層の道徳を規定しているのは法でも罪の意識でも公僕観念でもなく、天皇への近接感であり、自らの利益を天皇のそれと同一視し、反対者を天皇に対する侵害者とみなすことになった。それは単に地位的優越だけでなく、価値的優越にもおよび、自己中心的なプライドが形成されていった註83-2。
独裁には主体意識があり責任意識もあるが、上から下への支配が天皇への距離に依存するところでは、個人の主体意識は薄く、責任感にも欠けていた註83-3。
また、当時の一般庶民は封建時代の「お上には従え」の意識が強く、各人の行動を自らの判断ではなく、お上の指示に求める傾向が強かった。それは、上からの圧迫を下へ順次移譲していくことによって全体のバランスを保つ現象につながった。中国やフィリピンなどで行われた日本軍の暴虐なふるまいの直接の下手人は一般の兵隊であった。国内では人民であり、軍では二等兵でも、ひとたび外地に行けば、皇軍として現地民に対して優越的地位に立ち、自身にのしかかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのである註83-4。
藤原氏も同様のことを述べている。
{ このような暴力と抑圧は、上級者から下級者へ、古参兵から初年兵へ委譲されていくが、抑圧を委譲する相手のない末端の兵士たちは、それをより弱い者、無力な捕虜や占領地住民へ委譲することになったといえよう。} (「南京の日本軍」、P76)
「圧迫の移譲」だけでなく、天皇制そのものも世界に延長しよう考えていた人もいた。
{ 西洋文明は既に覇道に徹底して、みずから行き詰まりつつある。王道文明は東亜諸民族の自覚と復興と西洋科学文明の摂取活用により、日本国体を中心として勃興しつつある。人類が現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は始めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。} (石原莞爾:「最終戦争論」、P82)
(3)合理性の軽視
精神主義に傾倒し、現人神(あらひとがみ)の天皇を中心とした体制を保持しようとすれば、合理性を軽視するのは当然の結果であった。
(a)合理性より情緒や空気が支配した戦略策定
日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというより、組織内の融和を優先させ情緒や空気により決定される傾向があった。日本軍は現実の状況から出発し、ときには場当たり的に対応する方法が得意だった。このような方法は客観的事実の尊重と結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいては有効な方法だったが、日本軍は情報を軽視する傾向があり、科学的方法とは無縁の積み上げ方式で戦略を策定したといわざるをえない。
日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができた者はほとんどいなかった。「戦機まさに塾せり」、「天佑神助」、「神明の加護」などの抽象的かつ空文虚字の作文には、それらの言葉を具体的方法にまで詰めるという方法論がまったくみられない。 (「失敗の本質」、P199-P202<要約>)
日本軍は、作戦計画の重要な前提が成立しなかったり、変化した場合の対応計画(コンティンジェンシー・プラン)を軽視したため、計画の堅実性と柔軟性を奪う結果になった。
方面軍、軍以上の高級統帥の方針は「統帥綱領」に定められているが、そこでは作戦方針や計画はいったん決定した以上、その貫徹を期することが求められていた。統帥綱領のように高級指揮官の行動を細かく規制したものは、アングロサクソンやドイツ兵学にもなく日本軍独特のもののようである。こうした綱領類が聖典化する過程で、視野の狭小化、想像力の貧困化、思考の硬直化という病理現象が進行し、ひいては戦略の進化を阻害し、戦略オプションの幅と深みを著しく制約することにつながったといえよう。 (「失敗の本質」、P208-P209<要約>)
(c)アンバランスな戦闘技術体系
日本軍の技術体系は、全体としてバランスがとれているとは言い難い。ある部分は突出してすぐれているが、他の部分は絶望的に立ち遅れている。一点豪華主義だが、平均的には旧式なものが多かった。その典型が「大和」※1と「零戦」※2である。また、日本軍の武器には、その操作に名人芸が要求されるものがあった。 (「失敗の本質」、P211、P216<要約>)
※1 大艦巨砲主義の精華として誕生した大和は、艦隊決戦には抜群の強さを示したが、時代の趨勢は空母を中心とした航空戦に変化していた。
※2 零戦は航続力、速度、戦闘能力において世界最高水準にあった。防禦性能を犠牲にしてぎりぎりまで軽量化したが、熟練操縦士の充足や大量生産への対応ができず、米軍の戦闘機に主導権を奪われていった。
(d)学習の軽視
日本軍は、失敗した戦法・戦術などを分析しその改善策を追及して他の組織にも展開する、ということが行なわれなかった。物事を科学的、客観的に見る姿勢に欠けており、敵戦力の過小評価や自己戦力の過大評価が行なわれ、組織的な学習を妨げる結果になった。失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部分へも伝播していくということは驚くほど実行されなかった。
また、対人関係や人的ネットワークに対する配慮が優先し、失敗の経験から積極的に学びとろうとする姿勢が決定的に欠如していた。組織学習に不可欠な情報の共有システムもなく、失敗事例を自由闊達に議論することも許されていなかった。 (「失敗の本質」、P230-P232<要約>)
(4)属人的組織、下剋上
(a)人的ネットワークの偏重
軍事組織としての明確な官僚制的組織階層が存在しながら、インフォーマルな人的ネットワークや個人間の情緒が強力に機能する特異な組織であった。階層による意思決定システムは機能せず、根回しと腹のすり合わせによる意思決定が行なわれていた。その中核にいたのが、陸軍幼年学校→陸軍士官学校→陸軍大学というコース註83-5で養成されたエリート集団であった。 (「失敗の本質」、P219-P221<要約>)
(b)下剋上
陸大出身者を中心とする超エリート集団は、参謀という職務を通じて指揮権に介入し、組織内部におけるリーダーシップは、往々にしてラインの長やトップから発揮されずに幕僚によって下から発揮された。いわゆる幕僚統帥である。参謀らは、指揮官を補佐するより指揮官をリードした。(「失敗の本質」、P220<要約>)
このような下剋上の状態になったのは、満州事変後の人事上の過失によるものだ、と今村均大将は述懐している註83-6。
(c)プロセス(過程)や動機を重視した人事評価
個々の戦闘においては、戦闘結果よりリーダーの意図とか、やる気が評価された。個人責任のあいまいさは、組織学習を阻害し、論理よりも声の大きな者の突出を許容した。このような志向が、作戦結果の客観的評価・蓄積を制約し、官僚制組織における下剋上を許容していったのである。
業績評価があいまいであったため、信賞必罰における合理主義を貫徹することを困難にし、結果として一種の情緒主義が色濃く反映されて、信賞必罰の“賞”のみに汲々とし、必罰を怠る傾向をもたらしたのである。 (「失敗の本質」、P236-P238<要約>)
(5)変化への対応力欠如
日本軍が失敗した本質的な原因をつきつめていくと、「環境に適応しすぎて失敗した」といえるであろう。ちょうど、恐竜がマツ、ソテツなどの裸子植物を食べるために徹底的に適応したが、気候変動や食物変動に適応できなかったと同じようなことが起ったと考えられる。 (「失敗の本質」、P246<要約>)
なぜ、変化への対応力がない組織になったのか、「失敗の本質」が指摘する原因を以下にあげる。
(a)安定しすぎた組織
軍事組織は平時にいかに組織内に緊張を創造し、多様性を保持して高度に不確実な戦時に備えるかが課題になるが、日本軍は多様性が抑制されたきわめて安定的な組織であった。
{ 「彼等(陸海軍人)は思索せず、読書せず、上級者となるに従って反駁する人もなく、批判を受ける機会もなく、式場の御神体となり、権威の偶像となって温室の裡に保護された。 ・・・ 政治家が政権を争い、事業家が同業者と勝敗を競うような闘争的訓練は全然与えられていなかった」(高木惣吉「太平洋開戦史」) } (「失敗の本質」、P266)
(b)はきちがえた“自己超越”
進化は創造的破壊を伴う「自己超越」現象でもある。
日本軍にとって不幸であったのは、第一次大戦という近代戦を組織全体がまともに体験しなかったことである。戦車、航空機などの軍事組織の戦略や組織自体を根底から変革させる技術革新にも、実感をもって十分目をむけることはできず、過去の戦略や行動基準を自己革新する機会を失った。
日本軍はある意味において、たえず自己超越を強いた組織であった。往々にして、その自己超越は、合理性を超えた精神主義に求められた。そのような精神主義的極限状態は、そもそもはじめからできないことがわかっていたものであって、創造的破壊につながるようなものではなかった。
日本軍には、悲壮感が強く余裕や遊びの精神がなかった。そのために、既存の路線の追及には能率的ではあっても、自己革新につながるような知識や頭脳や行動様式を求めることが困難だったのではないだろうか。 (「失敗の本質」、P270-P273<要約>)
(c)異端や偶然を排除する独善性と閉鎖性
革新は異質な人、情報、偶然を取り込むところに始まる。
しかし、日本軍は組織を構成する要素間の交流や異質な情報・知識の混入が少ない組織であった。たとえば、参謀本部の最大の欠陥は、作戦課の独善性と閉鎖性にあったといわれる註83-7。そもそも戦闘におけるコンティンジェンシー・プランを持たなかったことは、偶然に対処するという発想が稀薄であったことを示している。 (「失敗の本質」、P273-P274<要約>)
(d)情報の知識化と蓄積に消極的
組織が進化するためには、新しい情報を知識として蓄積・展開しなければならない。
およそ日本軍には失敗の蓄積・伝播を組織的に行うリーダーシップもシステムも欠如していた。
明治の軍人が戦略性を発揮したのは、武士としての武道とならんで兵法が作法として日常しつけられていたからであった。その後の日本軍では、日露戦争の幸運なる勝利についての真の情報が開示されず、その表面的な勝利が統帥綱領に集約され、戦略・戦術は「暗記」の世界となっていったのである。戦略がなければ、情報軽視は必然の推移である。(岡崎久彦「戦略的思考と何か」)。 (「失敗の本質」、P274-P277<要約>)
(e)ビジョン(統合的価値)の共有に失敗
自己革新組織は、その構成要素に方向性を与え、その協働を確保するために統合的な価値あるいはビジョンを持たなければならない。
(太平洋戦争においては)アジアの解放を唱えた「大東亜共栄圏」などの理念を有していたが、それを個々の戦闘における具体的な行動規範にまで論理的に詰めて組織全員に共有させることはできなかった。このような価値は、言行一致を通じて初めて組織内に浸透するものであるが、日本軍の指導層のなかでは、理想派よりは、目前の短期的国益を追求する現実派が主導権を握っていた。「大東亜共同宣言」の一項に、「大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢した大東亜の文化を昂揚す」とあるが、第一線兵士は現地における現実のなかで、どれほどこの理念を信じて戦うことができたのであろうか。 (「失敗の本質」、P277-P278<要約>)
戦後、日本軍の持っていた組織的特質を、ある程度まで継承したのは企業組織であろう。戦後の日本の企業組織にとって、最大の革新は財閥解体とそれに伴う一部トップ・マネジメントの追放であった。これまでの伝統的な経営層が1層も2層もいなくなり、思いきった若手抜擢が行なわれた。その結果、日本軍の最もすぐれていた下士官や兵のバイタリティがわきあがるような組織が誕生したのである。 ・・・ 戦後の日本経済の奇跡を担ったのは復員将兵を中心とする世代であり、彼らが「天皇戦士」から「産業戦士」への自己否定的転進の過程で日本的経営システムをつくりあげたという指摘もある(中村忠一「戦後民主主義の経営学」)。
これらの人々の多くは長年にわたる経済統制と軍隊における体験しか持たなかったため、彼らの軍隊における経験が活用されることになった。率先垂範の精神や一致団結の行動規範は、日本軍の持っていたいい意味での特質であったといえる。意識すると否とにかかわらず、日本軍の戦略発想と組織的特質の相当部分は戦後の企業経営に引き継がれているのである。
日本企業の組織の長所は次のようなものである。
①下位組織の自律的な環境適応が可能
②定型化されないあいまいな情報をうまく伝達・処理できる
③現場における学習を活性化させ、知識や経験の蓄積を促進し、情報感度を高めることができる
④人々を動機づけ大きな心理的エネルギーを引き出すことができる
しかし、戦略については次のような欠点もある。
①明確な戦略概念に乏しい
②急激な構造的変化への適応がむずかしい
③大きなブレイク・スルーを生み出すことがむずかしい
④集団思考による異端の排除が起る
われわれの得意とする体験的学習だけからでは予測のつかない環境の構造的変化が起こりつつある今日、これまでの成長期にうまく適応してきた戦略と組織の変革が求められている。とくに異質性や異端の排除とむすびついた発想や行動の均質性という日本企業の持つ特質が、逆機能化する可能性すらある。
さらにいえば、戦後の企業経営で革新的であった人々も、ほぼ40年を経た今日、年老いたのである。戦前の日本軍同様、長老体制が定着しつつあるのではないだろうか。・・・日本軍同様、過去の成功体験が上部構造に固定化し、学習棄却ができにくい組織になりつつあるのではないだろうか。・・・
以上、「失敗の本質」から要約して引用した。この本が書かれたのは高度成長まっさかりの1984年である。昨今の企業不祥事などを見ていると、環境変化に適応できた企業とそうでない企業にわかれたように思う。しかし、この本がお手本としたアメリカでさえ、この30~40年の環境変化に対応できたとはいえない、むしろ日本以上に対応できなかった部分が大きいのではないだろうか。単に、昔は良かった、昔に戻ろう、ではなく、これまでの価値とは異なる価値を目標設定し、進むべき道や方法を見直す時が来ているのかもしれない。
8.3節の註釈
註83-1 <戦前の天皇制> 「超国家主義の論理と心理」、P552
以下は同書巻末にある「解説」からの引用である。
{ 丸山は、日本の「国体」の核心的特徴を道徳と権力の融合にみている。そこでは主権者である天皇に、真善美※の内容的価値も集中され、結果として天皇は絶対的な政治権力の中心としてのみならず、絶対的な道徳的精神的権威の源泉とも目されるにいたる。 ・・・ 主権者が同時に内容的な価値をも独占するとすれば、すべての社会的価値は、精神的権威の中心たる天皇から流出して来ることになる。したがって国家的社会的地位の価値は、その固有の社会的機能という尺度によってではなく、天皇からの距離という物差しによって測られることになる。ここには、国民の内に自立的な私的領域も個人の内面的自由も生まれようがない。}
※真善美;認識上の真と、倫理上の善と、美学上の美。人間の理想として目ざすべき普遍妥当的な価値をいう。(広辞苑)
註83-2 <軍人の優越意識> 「超国家主義の論理と心理」、P27-P29
{ ・・・ 軍人の「地方」人(!)に対する意識はまがいもなく、その皇軍観念に基づいている。しかも天皇への直属性ということから、単に地位的優越だけでなく、一切の価値的優越が結論されるのである。 ・・・
軍医大尉として永く召集されていた私のある友人の語るところによれば、軍医学の学問的水準は大学を含めて一切の「地方」の医学のそれよりはるかに高いというのが、・・・通説だったそうである。 ・・・ 事実は全く反対であった。 ・・・
戦争中、軍の悪評をこの上もなく高くしたあの始末の悪い独善意識とセクショナリズムはこうした地盤から醗酵した。ひとり軍隊だけでなく、日本の官庁機構を貫流するこのようなセクショナリズムはしばしば「封建的」と性格づけられているが、単にそれだけではない。 ・・・ 各分野が夫々縦に究極的権威への直結によって価値づけられている結果、自己を究極的実体に合一化しようとする衝動を絶えず内包しているために、封建的なそれより遥かに活動的かつ「侵略的」性格を帯びるのである。・・・}
註83-3 <責任感の欠如> 「超国家主義の論理と心理」、P30
{ ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。}
註83-4 <圧迫の移譲> 「超国家主義の論理と心理」、P32、P34
{ 自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に委譲していく事によって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。} (P32)
{ 今次の戦争における、中国やフィリピンでの日本軍の暴虐な振る舞いについても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を蔽ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、ひとたび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於て、また軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、ひとたび優越的地位に立つとき、己にのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかったか。} (P34)
陸軍のエリートコースは、下記の東条英機や石原莞爾のように陸軍幼年学校から陸軍士官学校、陸軍大学校と進むコースで、日中戦争や太平洋戦争のときの最高幹部のほとんどはこのコースをたどった人たちであった。幼年学校に入学できたのは軍人の子弟と「生活中等以上の者の子弟」であり、士官学校には一般の中学(現在の高校に相当)からも入学できたが、陸軍大学は入隊後2年以上経過した者で上官(連隊長など)の推薦を受けたものであった。陸大の入学試験は厳しく、士官学校卒業者の1割ほど(定員50人)しか入学できず、その多くは幼年学校出身者であった。また、陸大の卒業成績はその後の昇進にも大きな影響を与えたが、成績優秀者には幼年学校出身者が多かった。
・東條英機; 1884年7月生れ、1899年東京陸軍地方幼年学校入学、1902年陸軍中央幼年学校入学、1904年陸軍士官学校入学1905年卒 1912年陸軍大学入学1915年卒
・石原莞爾; 1889年1月生れ、1902年仙台陸軍地方幼年学校入学、1905年東京陸軍幼年学校入学、1907年陸軍士官学校入学1909年卒、1915年陸軍大学校入学1918年卒
(注)いずれもWikipediaの各人年譜による。
藤原氏は、こうしたエリートコースの弊害を次のように指摘する。(「南京の日本軍」、P98-P102)
・幼年学校出身者は、少年時代からの特殊なエリート教育の結果、偏狭、独断で自尊心が強く、積極果断な実行力を信条とした。
・陸大の教育は、大軍の指揮と幕僚勤務のエリート養成が目的で卒業後の進級は早かった。幼年学校いらい培われた自負心がますます強まり、独善的で排他的な軍人をつくりあげた。
・幼年学校では独仏露のいずれかの外国語を学ぶが、英語はなく、英米の事情には疎かった。
註83-6 <今村均大将の述懐> 「南京の日本軍」、P102-P103
{ 満州事変勃発時の参謀本部作戦課長で、関東軍の独走に手を焼いた経験をもつ今村均は、その回顧録でつぎのように述べている。
「満州事変というものが、陸軍の中央部参謀将校と外地の軍幕僚多数の思想に不良な感作及ぼし、爾後大きく軍紀を紊すようにしたことは争えない事実である。これとても、現地の人々がそうしたというよりは、時の陸軍中央当局の人事上の過失に起因したものと、私は感じている。
板垣、石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものではある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた。にもかかわらず、新たに中央首脳者になった人々は満州事変は、成功裏に収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようという努めた諸官を、一人残らず中央から出してしまった。これを眼の前に見た中央三官衙や各軍の幕僚たちは「上の者の統制などに服することは、第二義的のもののようだ。軍人の第一義は大功を収めることにある。功さえたてれば、どんな下剋上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それらを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ」というような気分を感ぜしめられた」 }
註83-7 <作戦課の独善性と閉鎖性> 「失敗の本質」、P273
{ 有末精三(終戦時参謀本部第2部長)は次のようにいっている。
「参謀本部第一部とくに作戦課については、一種の独善的雰囲気があった。作戦計画について外に一切もらさず、またその策定について外からの干渉を排除し、意見を聞くことすらいやがった。・・・」}