図表8.4 日本陸軍の特質

人間は必ず過ちやミスを犯す、それがプロジェクトの失敗に至らないようカバーし、成功確率を高めることがプロジェクト管理の目的である。プロジェクトは、プロジェクト立ち上げ後に策定した計画に基づいて実行され、計画と実績の差異を逐次監視しながら、検出した問題への対応、計画の変更などを含めてプロジェクトを制御していく。そのため、プロジェクトの計画が重要視されている。
また、のちに類似のプロジェクトを行うとき、前回より効率的に進められるようプロセス(手順)を継続的に改善していくが、問題の分析は個人の責任追及ではなく、徹底したプロセス(手順)志向で行われ、どのプロセスにどのような問題があったかを追求する。
以上が、現代のプロジェクト管理の基本的な考え方である。
プロジェクト管理の国際標準であるISO21500では、次の10個のサブジェクト・グループの単位でプロジェクトの計画や監視・制御などを考えるよう要求している。
①統合(以下の9つのサブジェクト・グループを統合する計画や管理)
②ステークホルダー(プロジェクトの利害関係者の管理)
③スコープ(プロジェクトの作業範囲の特定や変更管理)
④資源(プロジェクトの要員や使用する設備などの計画、管理)
⑤タイム(スケジュール計画、監視・制御)
⑥コスト(コスト計画、監視・制御)
⑦リスク(リスクの特定、対応計画、監視・制御)
⑧品質(品質に関する計画、監視・制御)
⑨調達(物品やサービスの調達に関する計画、管理)
⑩コミュニケーション(プロジェクトに関する情報の交換、提供に関する計画・管理)
前置きが長くなったが、以下、上記のサブジェクト・グループに沿って、「南京攻略プロジェクト」の問題点を整理してみる。掲載順序は重要度の順にした。なお、ここでの指摘は当時の関係者を批判するためのものではなく、現代人の教訓としての見方のひとつを示したものにすぎないことをお断りしておく。
(1)プロジェクト推進の基本事項が不明確 <統合>
プロジェクトの開始にあたっては、そのプロジェクトの目的・目標、前提条件や制約条件などプロジェクトを推進するための基本事項を定めた「プロジェクト憲章」が定められ、それに基づいて実行計画や行動基準・判断基準などが作成される。「南京攻略プロジェクト」では、プロジェクトの出発点になるこれらの情報がきわめてあいまいであったことが、最大の問題であろう。
南京戦の重要な目的のひとつに“抗日活動の抑制”があったはずで、そのためにはただ勝てばよいというものではなく、“勝ち方”にも気を配る必要があった。松井大将は日本の主導のもと蒋介石政権とは別の親日政権をたてることが、中国民衆にとっても望ましいことだと信じていた註84-2。だから、南京攻略にあたり、文化財の保護、民衆に危害を加えないこと、外国権益を侵害しないこと、などの命令を出しているが、命令の主旨は理解されず、暴支膺懲と南京の占領だけが目的であるかのようなプロジェクトになってしまった。
もともと、上海戦以降の戦略についての国家レベルの合意が得られていない状態で、南京を落とせば蒋介石は屈服する、という希望的観測で始められた戦闘であった。屈服とはどういう状態をいうのか、蒋介石が屈服したらどうするのか、屈服しなかったらどうするのか、そうしたシナリオがない状態で、諸外国や国民を納得させる目的を設定することはできなかった。この時点で南京攻略プロジェクトを実行する意義があったのか、すら疑われるのである。まがりなりにも、日中戦争の目的(大義)が公表されるのは、およそ1年後1938年11月の「東亜新秩序声明」(註52-3)まで待たねばならなかった。
(2)リスク管理の発想なし <リスク>
プロジェクトが計画通りに終わることはほとんどない。必ず外乱、内乱が入って、計画の変更・調整を余儀なくされる。リスクに適切に対応できるかどうかはプロジェクトの成否に大きく影響する。そのため、あらかじめ発生する可能性のあるリスクを洗い出し、発生確率が高く、発生時の影響が大きいリスクについてはコンティンジェンシー・プラン(対応策、代替策)を決めて準備をしておく。
日本軍にはこうしたコンティンジェンシー・プラン策定の発想は乏しかった(8.3節(3)(b))が、南京攻略にあたって第10軍は南京城が一撃で落ちなかった時には南京城内を焼夷弾や毒ガス弾で爆撃することを提案しており註84-3、そうした発想が全くなかったわけではなさそうだ。
結果論になるが、南京攻略戦にはリスクとして考慮すべきことはたくさんあった。例えば、捕虜殺害や市民暴行が発生するリスクの発生確率はきわめて高い上に、発生したときの影響も大きいにもかかわらず、何の対策もとられていない。包囲して逃げ道をふさげば、中国兵が民服に着替えて市民にまぎれこむ可能性も想定できたはずである。また、食料を現地での徴発に頼ることは、調達できなかった場合や、調達に伴う住民との軋轢などのリスクもあった。
このプロジェクトの最大のリスクは、南京を占領すれば蒋介石は屈服するはず、という前提条件が崩れることであった。当時の参謀本部河辺虎四朗作戦課長が11月に上海を訪問した際、中支那方面軍参謀副長だった武藤章大佐と議論をしている。
{ 私的雑談の間であったが、参謀副長武藤氏と私とは予想判断の水かけ論をやった。彼は、南京を取ったら蒋介石は手をあげるといいはり、私はあげるもんかと突っ張っていた。} (河辺虎四朗:「河辺虎四朗回想録」、P86)
こうした議論を、「私的雑談」「水かけ論」としてではなく、公式討議として、「蒋介石は手をあげるか?」「あげなかったらどうするか?」「南京を攻略しなかったら?」など様々なケースについて、最新情報に基づいて議論をすべきであった。
南京占領後、トラウトマンをとおして中国側に新たな講和条件を提示したものの、決裂を宣言したあとの事態について分析や予測も行われないまま、その場の空気で場当たり的に「蒋介石を対手とせず」の結論を出してしまった。それが、日中戦争のドロ沼化を招き、ひいては太平洋戦争につながっていったのである。
(3)“勝ち方”への配慮なし <品質>
松井大将は、飯沼参謀長を通して「皇軍に心服親和せしめ日支一体の必要を感せしむる以外出征の目的達成の途なし」註82-8と述べているように、南京を占領するだけでなく、その勝ち方が重要だと考えていた。たとえば道路を建設するプロジェクトの場合、1年もしないうちに穴だらけになってしまうような道路だったら、その建設プロジェクトは成功とはいえないであろう。つまり、プロジェクトがもたらす成果の“品質”を確保することは目標を達成することと同じように重要なことである。
通常、モノを作るプロジェクトであればその品質要件が提示される。その「品質要件」は「南京城攻略要領」註34-1で“命令”されたものの、それを遵守するための具体的な施策には乏しかった。
松井大将は市民の暴行が発生する可能性があることを認識していたので、城内への入場制限の命令を出したが、その命令が守られていることを確認する措置はとられなかったし、憲兵を配置して兵士たちを取り締まることも充分ではなかった。こうした措置がとられていれば、市民への暴行はかなり抑えられたはずである。
“包囲殲滅戦”を行えば大量の捕虜が発生することは容易に予測できたのに、捕虜の処置方針も提示せず、捕虜収容部隊を用意することもしなかった註82-1。松井大将は東京裁判が始まるまで捕虜の問題があることを意識すらしていない(6.5.1項(6)(f))。さらに、入城式開催にあたり、飯沼参謀長らは掃蕩が完了していないことを理由に延期を進言したのにそれを無視してしまった註82-3。これらは、捕虜大量殺害の主たる要因となった。
(4)統率力がなかった中支那方面軍
<人的資源>プロジェクトの資源管理で最も重要なのは人的資源の管理であり、プロジェクトを適切に推進できる組織体制である。11月7日に発足した中支那方面軍は、上海防衛を主眼とした体制であり、軍本部の直轄部隊はほとんどなく(8.2節(5)(間3))、松井総司令官の権限も限られていた。このような体制が、「南京城攻略要領」註34-1を守らせることができなかったことや、占領後の軍政計画が遅れた要因の一つになった可能性は十分にある。
(5)徴発に依存する弊害を無視 <調達>
軍(プロジェクト)が組織として調達すべきものを個人の調達に依存すれば、モラル上の問題が発生したり、調達不能になったりする可能性があることは容易に想像できる。徴発が兵士の規律を乱す副作用があることは指揮官や軍医などからも指摘されていた。たまたま、南京攻略戦では地理的にも季節的にも恵まれていたため、兵士達が餓えることはなかったが、現地調達には調達不能というリスクがあることも忘れてはならない。
徴発に依存する弊害を無視して、「南京一番乗り」を目指してスケジュール優先で進めた結果が、南京事件を誘発する原因のひとつになっただけでなく、徴発に依存することによる問題やリスクが教訓として生かされることなかった。兵站軽視の姿勢はこの後も続き、その結果、インパール作戦註84-4のような悲惨な事件が起こってしまうのである。
(6)正確な事実を継承することの重要性 <コミュニケーション>
南京攻略戦の状況は、軍の発表などに基づき新聞などのマスコミが報道したが、軍は都合の悪いことは発表しないばかりか、報道規制も行っていた。マスコミも売上を伸ばすために、否定的な情報より国民が喜ぶ威勢のよい情報を優先的に流したかもしれない。その結果、南京で起きた捕虜や市民への暴行事件はもちろん、日中戦争がドロ沼化する可能性が極めて高いことなどは、ほとんど伝えられなかった。そうとは知らぬ民衆はひたすら南京陥落をよろこび、さらなる勝利を求めるかのような祝賀パレードを盛大に行った。もし、民衆が南京陥落を冷静な目でみていたら、「蒋介石を対手とせず」などといった声明は出さなかったかもしれない。
一般のプロジェクトでもプロジェクト内部から都合の悪い情報を外に出すことは極めて難しいので、第三者が監視したり、プロジェクト状況を数値化したりすることにより客観性を保持する対策がとられる。しかし南京戦では軍も政府もマスコミも不祥事の発生を知りながら、国民にはそれを知らせず、日中戦争から手を引くか中断して別の手段を考える機会を逃してしまった。
事実を正しく伝えることの重要性を認識する機会は日露戦争後にもあった。日露戦争後の講和では、南樺太の領有などを勝ち取ったが、賠償金の請求はしなかったため、反発した民衆が日比谷公園で暴動を起こした。しかし、日露戦争は日本が勝ったとはいえ薄氷の勝利で、これ以上戦争を続ける国力はなかった、戦病死者数は日本軍約8万余人に対してロシア軍は約4万余人註84-5と日本側犠牲者が圧倒的に多かったが、こうした事実は公表されなかった。それどころか多数の犠牲者を出した白兵突撃作戦が日本陸軍の基本的戦型(パラダイム)とされ、その戦型に適応するために精神主義が強調されていった。もし正しい情報が開示されていたら、日本陸軍の体質自身が変わっていたかもしれない。人は必ずミスを犯す、外部からの監視は本人のためにもなるのである。
(7)急速な攻略は犠牲を減らしたが・・ <スケジュール>
11月22日に松井大将が南京攻略を具申したときの想定スケジュールは、{12月中旬以降南京に向ふ攻撃を開始せんとするに在りて、遅くも2ケ月以内に其目的を達成し得る}(松井日記11月22日、「南京戦史資料集」、P8)であった。参謀本部も、{ 上海から送り越された作戦計画では、南京の攻略戦開始は、昭和13年1月中旬と予定されてあった}(「河辺虎四朗回想録」、P86) と、認識していた。つまり、当初予定より1~2ケ月も早く南京を陥落させたのである。このスピードは、中国軍が態勢を建てなおし、陣地構築などの準備をする時間を与えなかったことにより、日本軍の犠牲を抑えることができたことは間違いない。しかし、南京事件を起こしたことだけでなく、南京攻略をきっかけとして日中戦争が泥沼化したことを考えれば、得られた利益より失ったものははるかに大きかったといえる。
(8)スコープ、コスト、ステークホルダー
以下のような疑問があるが、情報不足につきコメントは省略する。
・スコープ; 占領後軍政計画は誰が行なうべきものであったのか?
・コスト; おそらく特別予算を組んだのであろう。それがどのような影響を及ぼしたのか影響はなかったのか不明。
・ステークホルダー; 安全区国際委員会のメンバーや外国の外交官やジャーナリストなどを味方につけることに失敗した。中国のやり方に不満を持っていた外国人も少なくなかったのだから、うまく対応すれば日本ファンを増やせたかもしれない。
8.4節の註釈
註84-1 <プロジェクトの定義>
PMIⓇ:「プロジェクトマネジメント知識体系ガイド(PMBOKガイド第5版)、2013 による。
PMI = Project Management Institute [米国プロジェクトマネジメント協会]註84-2 <南京占領後の松井大将構想> 「南京戦史資料集」、P14 松井日記
{ 12月5日晴 此朝多田参謀次長前線より帰来す。依て軍今後の作戦方針及南京占領後に於ける軍の企図に付予の希望を語り、更に軍特務機関の拡大、今後の謀略方針に付委細説明し、中央の方針確定を促す。其要如次。
一.軍今後南京攻略後の謀略は宋派、政学派、段派及在中支財界中親日者を糾合して、独立政権を江蘇、浙江、安徽を併せて設立せしめ漸次北支政権と連絡せしむ。 二、能はされは現国民政府の不良分子を排除して政府を改造せしむ・・・ }
註84-3 <第10軍の南京攻略案> 「天皇の軍隊と南京事件」、P78-P79
{ 11月30日、第10軍司令部は、中支那方面軍司令部および陸軍中央部に「南京攻略に関する意見」を具申した。・・・第一案として・・・「南京急襲案」を提示し、さらにそれが不可能な場合の第2案として「先ず南京に急迫して包囲態勢を完了し主として南京市街に対し徹底的に空爆特に「イペリット」[致死性の糜爛性毒ガス]及び焼夷弾を以てする爆撃を約1週間連続的に実行し南京市街を廃墟たらしむ」ることを主張し、「本攻撃に於ては徹底的に毒ガスを使用すること極めて肝要」としていたのである。}
註84-4 <インパール作戦> 「失敗の本質」、P92,P118<要約>
{ インパール作戦は、ビルマの防衛を主な目的とし、イギリス軍がいたインド北東部にあるインパールの占拠を目指して1944年3月から7月まで行われた作戦である。しかし、莫大な犠牲(参加人員約10万人のうち戦死者約3万、戦傷および戦病者約2万、残存兵約5万のうち半分以上が病人であった)を払って惨憺たる失敗に終わった。・・・補給を軽視し、戦略的急襲にすべてを賭け、コンティンジェンシー・プランを欠いた杜撰な計画であった。}
註84-5 <日露戦争の犠牲者数> Wikipedia「日露戦争」
<単位:人> 日本 ロシア
戦死・戦傷死 55,655 31,458
病死 27,192 11,170
小計 82,847 42,628
戦傷者 153,584 146,032
捕虜 1,800 79,000