バナー

1 邪馬壹国の名称

2 魏志倭人伝における距離

3 邪馬台国までの距離12000余里

4 志賀島の金印

5 神武東侵

6 天孫降臨

7 二倍年歴

8 君が代

9 磐井の乱<旧説>
(現在は磐井の乱はなかったとする立場)

10 万葉集の歌

11 ふたたび、神武東侵

12 「撃ちてし止まむ」の歌

13 都督府

14 法隆寺釈迦三尊光背銘文

15 大化の改新

16 倭の五王

壬申大乱(整理中)





ふたたび、神武東侵
古 田 説 従 来 説
 神武は「猶東に行かむと思ふ」と言っているのであって「猶大和に行かむと思ふ」と述べていない。

 つまり、神武東行、又は神武東侵であって、大和が目的地の東遷ではない。
 笠紫の岡田宮に1年、阿岐国の多祀埋宮(広島県)に7年、吉備の高島宮(岡山県)に8年は単なる「寄留」ではなく、分国統治である。
 しかし、それは失敗し、平和的植民地だった吉備を根拠地として、最後の大和には武装的に進入した。
 神武東遷という。
 各地で寄留しながら、九州から国を挙げて、大和へ遷都した。
 日向国を出発し、吉備国で3年間、軍事力を整備して、3ヶ月で大和に突入した。(古事記)

 神武の出発地は、笠紫の日向すなわち、北九州の福岡県糸島郡「日向」(ひなた)である。
 笠紫を勝手に九州全土と曲解してはならない。
 神武の出発地は、筑紫の日向すなわち、九州の日向国である。


「撃ちてし止まむ」の歌
古 田 説 従 来 説
 神武が率いていた軍団は、久米集団だけだった。
 なぜなら、記紀にある大和進入の際の神武の歌、たとえば、
「みつみつし 久米の子等が 粟生には 韮一茎
  そねがそね茎 芽撃ぎて 撃ちてし止まむ」 は終尾に「撃ちてし止まむ」の句で全体のリズムが構成されている。
 ここで歌っている「撃ちてし止まむ」は、本体は自分たちが子供の時に親から教えられた童謡のような歌に最後に自分たち軍隊にふさわしい言葉「撃ちてし止まむ」を付けたのではないか。
 ところが、これら神武東行説話の歌では久米の子等以外への呼びかけがない。
 もし、神武が久米の子等以外の幾多の兵士を率いていたとしたら、その人達(大伴や中臣や蘇我や物部など)への呼びかけがない。
 しかも、日本書紀は近畿天皇家の正史として公布、公示されているはずだから、もしこの歌が事実でなければ、大伴や中臣や蘇我や物部などが不満の声を上げたはずである。
 神武は九州ですでに権力者であり、日向にあった都を大和へ遷都しようとした。
 記紀にある大和進入の際の神武の歌に「久米の子等」の言葉が頻出するのは、ただ、「久米部の歌」を引用したにすぎない。
(津田史学)

都督府
古 田 説 従 来 説
 太宰府には都府楼跡という史跡がある。中近世文書で「太府」と言えば太宰府の省略で、同じように「都府」と言えば都督府の省略である。
 だから「都府楼跡」というのは都督府の建物があった跡という言葉である。そして都府楼というのは都督府の建物を指す言葉である。

 この都督府は、日本書紀に「筑紫都督府」と記されており、この九州の太宰府以外には、都督府が日本の文献に出てくることはない。

 一方、 「都督」とは、倭の五王で、「使持節都督・・・」という形で宋書に出てくる五世紀からある官職名であり、中国の天子が、周辺の蛮夷の王に領地を治めるための政府を開くことを許す位階である。
 つまり、九州の筑紫に日本の都があったのである。
 そして、「評督」という制度は関東から九州までたくさん有る。そのたくさん有る評督のもう一段上のトップが「都督」である。

 また、「倭の五王」は中国の天子によって「鎮東大将軍」に任命されているが、筑後国風土記の中で、「東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衛頭と曰ふ。衛頭は政所なり」とあることから、磐井は、中国の位階制に従った太宰府の衛頭で執務を行っていた日本国の王者であることがわかる。

 さらに、太宰府には「内裏」という地名が残されている。内裏とは天子のおわします場所のことである。また、天子が住む建物である紫宸殿という地名もある。磐井以降、天子を自称した王者が太宰府に存在したということになる。
 その天子は「日出るところの天子、日没するところの天子に」という国書を隋の煬帝に送り、煬帝を怒らせた者、つまり、姓はアマ、名はタリシホコである。

 このように、中国、日本、それぞれの文献は、太宰府に日本の王者の都があったことを指し示している。
「大和朝廷以外に朝廷なし」という立場の学者は、日本書紀の天智記に「筑紫都督府」と書かれているが、これは日本書紀の編者が間違えたものであるとされている。

または、倭の五王は天皇家であるので、「筑紫都督府」は、大和朝廷の地方の出先官庁であると説明されている。
私の気持ち
 私は、教科書では、都督府は、学ばなかったように思う。
 しかし、太宰府については、白村江の敗戦のあと、701年に太宰府の官制が定まり、筑紫に水城が築かれたり狼煙台が設置されたり、また防人の制度ができたりした。結局、朝鮮半島からの侵略はなかったと学んだように記憶している。

 今では、都府楼跡と太宰府は、大宰府政庁(都府楼)跡と称されるように、太宰府イコール都府楼になっている感がある。
しかし、やはり、太宰府と都督府は名称が異なるように、全く別物である。
 時代の異なるものを、ごちゃ混ぜにするのは納得がいかない。
 結果として、都府楼のことは曖昧になっているような気がする。

 郡評論争が決着し、700年以前は評制、701年以降が郡制であることが事実と判明した今日、「評督」に対する「都督」は自然に受け入れられる。

”使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王”の都督から、
都督→都督府→都府→都府楼→都府楼跡
へ、そして京都御所以外にあった紫宸殿。それは、まさしく当時の日本の都を指す。
九州王朝のあかし。
古田氏はみごとに解いた。
私は、そう思う。


法隆寺釈迦三尊光背銘文

古 田 説 従 来 説
1 銘文中の上宮法皇の没年は推古30年2月22日(法興元32年)である。これに対して日本書紀では聖徳太子の没年は、推古29年2月5日である。当然両者は別人である。

2 上宮は普通名詞である。一つの神社に複数の社(やしろ)があるとき、位置が最も上方または奥にある社のことである。
 上宮は、太宰府にも大分県にもある。

3 法皇とは、”僧籍に入った天子”、”仏法に帰依した最高権力者”を指す用語であり、終世、太子であった聖徳太子に用いる称号ではない。しかも太子はナンバー2であって一度も最高権力者にはならなかった。

4 銘文中の表記”鬼前大后”、”干食王后”はそれぞれ”天子の母”、”天子の正妻”であって、決して”太子の母”、”太子の妻”ではない。

5 ”諸臣”は”帝”や”天子”に対する述語として用いられ、太子の家臣には用いられない。

6 推古朝につくられたこの銘文には、ナンバーワンである推古天皇の存在の痕跡がない。

7 銘文冒頭の年号”法興”は崇峻と推古にまたがる年号であるから、近畿王朝内の年号ではない。これは九州王朝の年号”九州年号”である。

8 私年号はありえない。聖徳太子の銘文の中の年号であるならば、近畿王朝として私年号を使うこと自体が矛盾である。使う必要がないばかりか、使うことが問題である。

 このように従来、聖徳太子の縁由と信じられてきた本尊が実はそうではなかったと帰結した。
 その裏打ちとして、日本書紀において天智9年に「災法隆寺。一屋無余。」は「(本尊をはじめ)一屋余す無し」の意味であると文章を理解するのが正道である。

 また、法隆寺の家屋が焼失した中で釈迦三尊だけが残ったならば、日本書紀に特筆されるべきであるが、記載はなく、また、この釈迦三尊敬造の事実も記載されていないのである。

 このことからも、釈迦三尊は聖徳太子の関係ではなく、他から持ってきたものであることを示している。

1 日本書紀に書かれている聖徳太子の没年である、推古29年2月5日は誤りである。
 日本書紀は当てにならない。
 銘文の推古30年2月22日が正しい没年である。

2 推古天皇15年(607年)に聖徳太子が斑鳩宮のそばに建立したもので、その釈迦三尊は聖徳太子が作らせたものである。

3 上宮太子は聖徳太子の別称である。
 法隆寺は聖徳太子が建立したのだから、釈迦三尊の光背銘文中の上宮法皇は聖徳太子である。

4 鬼前大后は、ハシヒト大后と読み、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女である。

5 干食王后は、カシハデと読み、膳夫人にあてるのが多数派である。

6 ”法興”は私年号である。

7 一屋余す無し。ただし、本尊は無事であったと考える。
 だから、この釈迦三尊は建立したときのままで、聖徳太子に関するものである。

 建物は、天智天皇9年(670)に焼失したが再建された
新たに判明した事実と私の考え

 
「私年号」とは、天皇家による「公年号」がある場合に、これに対して称する年号である。天皇家の年号が無い時代であるから私年号という呼び方は適切ではない。

 一方、私年号とすれば、近畿王家の重要な銘文に使うこと自体が問題である。

 この2点から、これは公の年号である。
 しかも、”法興”は近畿王朝の年号ではない。
 とすれば、天皇家以外の王朝のものである。
 これが導き出される当然の結論になる。


 もう一つ気になることがある。
 金堂や塔などの建築様式が大化改新(645年)以前に用いられていた尺度(高麗尺)で設計されていることから、法隆寺は大化改新以前の建築で創建当初のままだとする非再建説が唱えられた。
 しかし、1939年、現在の西院伽藍の南東部から火災に遭ったとみられる伽藍跡(若草伽藍)が見つかり、これが火災で焼失した前身寺院に当たり、再建されたことが証明された。再建論と非再建論との論争に終止符が打たれたのである。

 つまり、日本書紀の記述が事実であったのである。
そして日本書紀には、釈迦三尊が燃えずに残ったとの記載がないのである。もちろん残っていないとの記述もない。ということは、銘文は聖徳太子のものではない。こう考えるのが自然ではないか。

 となると、”この釈迦三尊は他から持ってきた”という古田説が裏付けされ、信憑性が出てきた。

 さらに2001年2月20日、1943年から1954年までの解体修理の際に取り出された心柱の標本を「年輪年代法」で測定すると594年に伐採されたヒノキ材だったことが明らかになった。
 この結果から、670年に焼失し、710年頃に再建された法隆寺の木材も、どこかから持ってきたという可能性が大きくなった。
 というより、建物も本尊もろとも移築したのではないかということが、俄然クローズアップされるのである。
 和田萃(あつむ)・京都教育大学教授(古代史)は「古い木材を転用しようにも法隆寺以前の時期の大和にそんな巨大な建物はない」という。となると、大和以外の可能性が、さらに増したように思う。

 ところで、奈良文化財研究所の鈴木嘉吉元所長は「心柱は、それまで山の中に置いてあったのではないか」と言っているが、山の中に置いておけば数年で朽ちてしまう。全く木材のことについては何も知らない素人の無責任な発言である。

 なお、一部の非再建論者は、古い木材であることを理由に非再建であると主張しているが、本末転倒である。
 燃えてしまったという事実そして、文献があることを無視して、従来説に固執するあまり、間違いに間違いを重ねているように思う。


 このほか
 @釈迦三尊像の台座裏から発見された「辛巳」(621年?)の年号のある墨書
 A下壇の台脚部裏から発見された墨絵の天部像と数種類の墨書
 B阿弥陀如来像の台座裏から発見された、七世紀初めの朝鮮半島から日本を訪れた使節をスケッチしたと見られる人物像があり、十分な検討が必要である。


大化の改新

古 田 説 従 来 説

 大化の改新は、九州年号の大和元年(695年)のことであり、畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害したクーデターである。

 日本書紀が言うところの”豪族を誅した程度のこと”で、政権を改新することができたのか全く疑問である。

 既存の権力、天皇を倒して政治を大改革したのであれば、特筆されることが理解できるが、日本書紀の記述では、倒されたのは新興勢力の蘇我氏であり、倒したほうが代々の天皇で、最高権力者とされる。
日本書紀の記述は明らかに矛盾がある。

 大化の改新は7世紀末の出来事であると考えられる。
 郡(こおり)と言う用語が用いられるのは、大宝律令の制定以降であり、それ以前は評(こおり)を使っていた木簡が見つかっている。
 大化元年(645年)に始まる大化の改新は、日本独自の国家の秩序を打ち立てようとした画期的な出来事である。

 国家が土地と人民を直接統治する「公地・公民の方針」など律令制の成立にかかるものである。
 日本書紀に書いてあるとおり真実である。

 どの教科書でも、特筆されているとおりである。


私の感想

 大化の改新は、教科書で”改心があった”ばかりか、聖徳太子の”大きな功績”であり、日本の歴史の中で”最もすばらしい評価”が与えられているように学んだ。
 しかし、大化の改新のあとに元号が続かなかった事実からは、大化の改新が成功した改革であることが、見えてこない。
 また、大化の改新は、明治維新のために作られた言葉ではないかとの疑念が、ふつふつと湧いてくる。

 ところで、中学社会 [改訂版] 新しい歴史教科書 (平成18~21年度 使用版)には、「東アジアでは、中国の王朝が定めたものとは異なる独自の年号を定めて使用し続けた国は日本だけだった」と記述されている。
 誤解を招く記述にびっくりする。
 2点にひっかかる。
 一つは独自の年号は、日本以外にはなかったように読めること。百済にも新羅にもその国独自の年号があったはずである。
 もう一つは使用し続けたというところ。実際は途切れているじゃないか。
 こんな教科書でいいのだろうか。

 他の教科書には、こうした記述は無いようなので、少しほっとしている。


 


倭の五王

古 田 説 従 来 説


倭の五王は畿内ではなく九州の王である。

ヤマト王権では讃、珍、済、興、武など中国風の一字名称を名乗った記録はないことから、倭の五王はヤマト王権の大王ではない。

(通説の五王の想定は、こじつけであり当てはまらない。)

倭の五王の在位年と日本書紀の天皇の在位年とは全く合わない。

大規模な対外戦争を継続しながら、一方で巨大古墳を築造することは考えられないので、近畿王朝は、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた倭とは独立した勢力と思われる。

従来説では、同じ形式の埋葬方法である古墳が各地に広がっているのは、ヤマト勢力の拡大であるとするが、古墳は文化交流の結果であり、ヤマト王権の拡大と結びつけることは稚拙である。

各地で古墳が築造されたのは、出雲や吉備などの地方に独立した勢力が存在していることを示すものである。

宋書倭王武上表文では、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とあり、倭王武は自らを東夷であるとしている。
倭を九州とすると、「東の毛人」=中国・四国・畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=韓国南部となり、比定地が特定できる。通説では比定地を特定することができない。


倭の五王は畿内の王である。

ただ、五王をそれぞれいろいろな天皇に当てはめる説があり、一定していない。

1人目の讃は、15代の応神天皇(前田直典氏)や16代の仁徳天皇か、17代の履中天皇をあてる説がある。

2人目の珍は16代の仁徳天皇をあてるか、
18代の反正天皇をあてる説がある。

3人目の済は19代の允恭天皇、
4人目の興は20代の安康天皇、
5人目の武は21代の雄略天皇
にあてる説が多い。

たとえば、安本美典氏は、天皇の在位年数を平均10年強として中国文献の倭の五王関係の記事と照らし合わせて、倭の五王を次のように各天皇に比定している。

讃−応神
珍−仁徳
済−允恭
興−安康
武−雄略
私の感想

天皇の皇位継承は、15代の応神、16代の仁徳、17代の履中、18代の反正、19代の允恭、20代の安康、21代の雄略となっている。

讃と珍は兄弟である。讃を15代の応神とすれば、珍にあてはまるのは16代の仁徳であるが、応神と仁徳は親子であって兄弟ではない。

讃を16代の仁徳とした場合は、珍にあてはまるのは17代の履中であるが、仁徳と履中は親子であって兄弟ではない。

讃を17代の履中とすれば、珍にあたる天皇は18代の反正だが、次の済は讃の孫でなければならない。しかし、允恭は履中の兄弟である。これもあてはまらない。

済を允恭とすれば、允恭と親子関係である安康、雄略はそれぞれ興、武に想定できるが、讃や珍にあてはまる天皇はいない。

どの天皇をどの五王に当てはめようが、結局、どうやっても親族関係が合わないのである。

例としてあげた安本美典氏の比定は、親族関係を無視した説になっており、頭から否定せざるをえない。

また、様々な仮説がある中で、倭の五王が賛、珍、済、興、武となぜ自称したのか、その理由がどれも理解できない説明となっている。通常は和風の名称の中から読み方をこじつける方法がとられている。

私は、以上のことから倭の五王はヤマト王朝の天皇には全くあてはまらないと考える。
普通の理解能力を持っている人であれば、倭の五王をヤマト王朝のどの天皇に当てはめても納得できないだろう。

いちばん可能性があるのは九州王朝の王だと思う。


壬申大乱
    整理中です。 -


仏教伝来、柿本朝臣人麻呂、倭の五王<讃・珍・済・興・武>
「大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ」
九州王朝と大和朝廷について など 古田説、従来説を
これから順次、整理していきたいと思います。



邪馬壹国の名称について
古 田 説 従 来 説
 邪馬壱国があった3世紀に書かれた『三国志』の写本では「邪馬壹(壱)国」となっている。
 そして、「臺」と「壹」は全て間違いなく使い分けられていた。
 だから3世紀には「邪馬壹国」である。

 一方、5世紀に書かれた『後漢書』の写本では「邪馬臺(台)国」となっている。

 卑弥呼と陳寿の時代では「邪馬壹国」と称していたが、范曄の時代には「邪馬臺国」と称していたと考えるのが妥当である。

 自分に都合がよいからといって、勝手に原文改訂してはならない。
 三国志には邪馬壹(壱)国となっていても後漢書東夷伝、宋書、隋書などには邪馬臺(台)国となっている。
 また、邪馬台国は、ヤマトの発音に似ていて、これは大和を表している。

 これらのことから、三国志の邪馬壹国は邪馬台国の誤りである。

 三国志には本当は邪馬台国とあったものが、模写するときに邪馬壹国に間違ったに違いない。


魏志倭人伝における距離について
古 田 説 従 来 説
 周の時代は1日で千里を走る「千里の馬」という表現があるが、これは短里で77Kmだから理解できる。
 魏は周の制度に復帰する宣言をしており、3世紀当時は、短里で1里=77mが使われていた。

 これを魏志倭人伝が記す邪馬壹国の行程記事に当てはめると、その場所は九州の北部になる。
 福岡の板付遺跡には、縄文末期の水田があり、弥生遺跡から出土した中国産の銅鏡や絹が集中して出土しており、考古学の成果ともよく合致している。
 秦の始皇帝により中国が統一されて以来、中国では長里が使われていた。
 1里=400mである。

 これを魏志倭人伝が記す邪馬台国の行程記事に当てはめると、その場所は、フィリピンなどのとんでもないところに行ってしまう。
 だから、魏志倭人伝のこの行程記事は、デタラメで全く信用できない。


魏志倭人伝における邪馬台国までの距離12000里について
古 田 説 従 来 説
 朝鮮半島から九州に渡る間に2つの島がある。倭人伝でいう対海国(対馬)と一大国(隠岐の島)である。
 それぞれの面積は方四百里、方三百里と示され、正方形の一辺が各々四百里ある、三百里あることを表している。(方眼紙で考えれば正方形の中に入るような島の大きさである。)
 これが古代の中国で発明された数学で『方法』という言葉である。

 従来はこれらの島を全く里程の足し算の計算に入れず、部分部分を足した総里程は10600里にしかならず、倭人伝に書かれた12000里と一致しなかった。

 対海国の反対側に行くためには周囲に沿って半周すればよい。そこで半周すると、その距離は400+400で八百里である。
 一大国も対海国の場合と同様に周囲に沿って半周すると、300+300で六百里。
 つまり10,600里に、この800里と600里を足せば、総里程1万2千里になり、きっちりとつじつまが合う。
 そして、博多湾岸の不弥国が最後の到着点であり、言い換えれば女王国に到着したのである。
(多くの学者が不弥国は博多湾岸にあるということに異論はない。)つまり、糸島博多湾岸が女王国の中心領域である。

 この糸島博多湾岸は、日本で一番古い”三種の神器”(鏡、玉、剣)が出土した「吉武高木」、”三種の神器”とともに日本で唯一中国産の綿が出土した「須玖岡本」、を始め、「三雲」「井原」「平原」という”三種の神器”が集中している地帯であり、遺跡の状況ともよく合っている。

 邪馬台国の位置は、百花繚乱で、これと言った定説はないが、大きく分けて、九州説と近畿説に2分される。
 最近は九州説が優位で、九州内の比定地で議論が分かれる。
私 の 気 持 ち
 邪馬台国の位置は、半島から対海国まで1000余里、そこから一大国まで1000余里、そこから九州まで1000余里と言っているのだから、半島から九州までが3000余里の距離があることに異論はないはず。

 ソウル付近から朝鮮半島内で7000余里とすれば10000余里だから、12000余里ならば、だいたい九州北部あたりが中心地と言うことは、簡単な計算でわかるはずである。
 さらに、この島巡りの考え方、もう、これで九州北部は動かせない結論であって他には考えようもない。

 古田史学のキーポイントは、方四百里と、方三百里の計算で、総里程と部分里程がピッタリ合うことを示したことと、「乍東乍南」で朝鮮半島の7000余里を陸路で行ったことを示したこと。
 これは、帯方郡、楽浪郡の2郡に倭や韓などが当時とても重要であった鉄を運んだその道なんだと思う。
 これほどすっきりした説明は他の誰もできてない。

 私は,倭人伝の表現からは、こまかい国の比定ではなく、大枠を示すことが重要であると思う。

 様々な学者から、倭人伝の国の読み方が似ているだけで、その国は、この地域であると比定する案が示される。しかし、三国志の情報だけでは各国の位置の比定は難しいであろうし、たぶん、比定されても、私は納得しないだろう。

 この読み方が似ていることによる比定方法は、倭の五王のあてはめ法に似ていて、まるで、素人の発想である。そんなことだけで比定するものではなんの説得力もない。遺跡の状況など現地状況と符合するものでなくてはならない。
 そう考える。


志賀島の金印について
古 田 説 従 来 説
 志賀島の金印は、「漢の委奴(いど)国王」と読む。

 漢から当時の日本の国の王である委奴国の王に与えたものである。

 印綬の授与は君主である天子と臣下との直接の関係を示すものである。しかも金印は、最高の印であり、北方の「匈奴」と、それに比べ従順である東方の「委奴」の2国のみに授与したのである。

 漢の倭の奴の国王という3段の読み方は、中国の直接統治の制度から、あり得ない。

(旧唐書の「倭国伝」では、「倭国は古の倭奴国なり」となっている。)
 発掘当時、福岡藩の儒者、亀井南冥は、委奴を”やまと”と読み、天皇に授けられたものとしていた。

 この金印は偽作であると考える学者もいるが、江戸時代の学者をはじめ、久米雅雄ら多くの学者は「漢の委奴(いと)の国王」と読み、倭人伝の伊都国とする説がある。

 また、三宅米吉博士が明治25年に「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」と読む説を発表し、小林庸浩らが支持し定説となっている。

 つまり、どちらにしても、志賀島の金印は、漢が倭の中の国の一つである九州の糸島半島にあった国に与えたものである。
私 の 気 持 ち

 従来説の根底にあるのは、当時の倭は大和であり、漢から大和が治める国の中の小さな国である奴国に金印が与えられたものという考えである。これは大和しかないという勝手な思いこみの結果である。

 この思いこみのもとに、「匈奴」を” きょうど ”と読むことに異論がないにもかかわらず、多くの学者が「委奴」を” いど ”と読まずに” いと ”と読むのは、いかにも伊都国を前提に無理矢理読んでいる意図” いと ”が見えて、どうも怪しい。

 やはり、” きょうど ”に対応する” いど ”と読むのが、いちばん素直じゃないかと思う。つまり、日本列島の倭国であり、古の倭奴国であるとする旧唐書とも合致する。

 また、 漢は、漢の属国に対して、直接統治するという大義名分によって、多くの国に印を与えたものという点は十分に理解できる一方で、”倭国による奴国の二重統治構造を認める”という考えには疑問が生ずる。

 三宅米吉博士らのワのナとする仮説には、漢が”倭国による奴国の二重統治構造を認めた”という決定的な欠陥がある。にもかかわらず、定説となっていること自体が、学問的ではない。
それは、皇国史観の”ワナ”かもしれない。

 金印ともなれば、それは相当の重みがあるはずで、倭の中の小さな国に与えられる性格のものではないことも十分に理解できる。事実、金印は当時の日本の他に、「匈奴」にしか、与えられていない。漢としても北の匈奴と南の倭人の国両方に金印を与えることは、バランスのとれた政策であろう。

 従来説は、委を倭に勝手に改変したり、金印であることや二重統治構造が妥当であることのリーズナブルな説明がない。もっと本質を探るべきではないだろうか。

 金印は、倭国の中の小国に与えられる性格のものではないと考えるのが通常の感覚であろう。


なぜ金印なのか
古 田 説 従 来 説
倭国の南界を極(きわ)むるや、
           光武 賜うに印綬を以ってす。

東南行舩一年で裸國、黒齒國に至る。
          使駅の伝うる所、ここに極まる。 
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す、
  使人ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
    光武賜うに印綬を以ってす。 
 従来説の読み方によれば、印綬が出土した志賀島の奴国が極南界となる。

 しかし、三国志では、志賀島の南にさらに投馬国があるとしており、志賀島を最南端とするのは全く理屈が合わない。
 また、東夷で唯一、金印を与えたのは、倭人が南界(南の世界の裸国・黒齒国)を極めたと報告したので、光武は倭国に金印を与えることにしたのである。

 このことは、@南アメリカ北西海岸から縄文土器とそっくりの土器が出土したこと、A日本列島に多い寄生虫が南米のミイラのうんちに発見されたこと、B日本と南米のインディオはHTLV型ウィルスが同一の型であり、同じ先祖である。という3つの科学的事実とよく一致している。

 極南海也=極南海なり と読む。

 倭の奴国は、倭の南の端にある。
 光武は、南の果てからきた奴国に印綬を与えたと解する。

 『倭人伝』が言うように東南方向に船で1年行ったところに裸国・黒齒国があるという話は、取るに足らない全くのデタラメである。
 縄文時代に倭人が太平洋を渡ったとすることは常識外であって、全く考えられない。


神武東侵について
古 田 説 従 来 説
 神武東侵は、史実である。

 大和は弥生前中期には銅鐸が出土するが、弥生後期には銅鐸は消滅する。壊された銅鐸も出土する。
 この考古学的な出土状況から、反銅鐸勢力が大和盆地に進入したと考える。
 古事記や日本書紀に書かれている神武の残虐の行為の描写は、作り話ではなく歴史事実の反映であり、神武が九州からきて大和・近畿を支配したのは事実である。
 神武は実在しないから、神武東侵は史実ではない。

 銅鐸は共同体の祭器であるが、大和に統一権力が出現したため、共同体の祭器が必要なくなった。
 このため銅鐸が出土しない。
(小林行雄の仮説で定説となっている。)


天孫降臨について
古 田 説 従 来 説
 「天孫降臨」 は歴史的事実である。
 「三種の神器」が出土する吉武高木は、弥生中期の初頭であるが、これを境にして出土物が一変するという考古学的事実に一致している。
 「天孫降臨」 は架空の話である。
 弥生時代前期末の紀元前2世紀に対馬・壱岐領域の天国(海人国 あまこく)から、筑紫(ちくし)といわれる博多湾岸に侵入した。
 アマテラスもその孫のニニギノ命(天津日子番能迩迩芸命)も実在の人物で、ニニギは侵略者であり倭国と言われた九州王朝の祖先である。
 ニニギノ命(天津日子番能迩迩芸命)は伝説の人物である。
 『古事記』天孫降臨の記述である「竺紫の日向の高千穂のくしふる嶺に天降りまさしめき」について、
 「筑紫(福岡県)の日向(ひなた)の高千穂(高い連峯)の中のクシフル峯(だけ)」つまり、天孫降臨の地は福岡県の日向である。
 天照大神の子孫の中央権力者としてふさわしい「三種の神器」類をもつ弥生王墓群が存在する地域である。
 「竺紫」は九州全土である。
(「クシフル峯」については、説明ができていない。)
 「日向」は「日向国」であり、「高千穂」は「高千穂峯」である。
 つまり、天孫降臨の地は南九州の宮崎県と鹿児島県の県境の地帯(高千穂・霧島山・高千穂峡)である。


二倍年歴について
古 田 説 古田武彦 
古賀達也、西村秀己、冨川ケイ子、澤井良介
従 来 説
      「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」         (倭人伝)
      「その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計して年紀となす」  (魏略)
 『魏略』の倭人記事は一年を春と秋とで区切る二倍年暦を指し示したものである。

 『三国志』で、死亡時の年令が書かれている九十名の年齢を調べると、平均52.5歳で30〜40代が頂点にある。
 これは倭人の年齢が二倍年暦であらわされているからである。お盆と正月を祝うのがその痕跡である。

 『古事記』『日本書紀』の天皇の寿命が平均九十歳くらいである点も二倍年暦で理解できる。

 プラトンの「国家」、アリストテレスの「弁術論」、ホメロス「オデュッセイア」など他国の数々の有名な古典でも、二倍年歴や多倍年暦が使われている。
 倭人伝に記された倭人の年齢が、「百歳あるいは八、九十歳」とされていることについて、
全くの「誇張」である。
 真面目に取り扱うものではない。


君が代について
古 田 説  従 来 説
古今和歌集 第七 賀歌(がのうた)343 題知らず 讀人知らず(10世紀)

 わが君は 千代に八千代に 細石のいわを(or いわほ)となりて 苔のむすまで(or 苔むすまでに)
              
 「君が代」は九州王朝の讃歌である。

 賀歌とは、我が君である天皇や王の長寿を願って儀式で歌われたものであり、「題知らず、讀人知らず」と書かれていることは理解出来ない。
 「わがきみ」という以上、これは当然“特定の人物”を指す。これがもし、天皇家内の歌であったとすれば、当然、○○天皇とあるところだ。

 この歌は、次のとおり現在の福岡県である筑紫の字地名や神社そして祭神が読み込まれており、九州で作られた九州王朝の賛歌と考える。
 (地名群の相関と一致)
 
 「千代」は福岡市の字地名である「千代」。
 「八千代」は、「千代」の増複形で博多湾は八千代。
 「細石」は糸島郡の細石神社。
 「いわを」は細石神社の南にある井原(いわら)遺跡  と井原(岩羅)山、
 「こけむす」は桜谷若宮神社の祭神である苔牟須売 (こけむすめ)神がある。
 これだけ歌の中にあれば偶然の一致とは言えない。

 また、「君が代」の歌は、博多湾・志賀島の志賀海神社で行われる神事山誉め祭りの中で、今でも袮宜(ネギ)の方々により語られ伝えられているという事実が傍証となる。
 「君が代」は天皇の長寿を願った歌であり、当然、九州の王者を願った歌とは考えられない。

 「君が代」とは 「天皇の代」ということであり君が代が千代にも八千代にも 永久に 栄えますようにと唄った短歌が 「国歌」として採用されたものであろう。
 
<私の感想>
 もともと、「君が代」の言葉の必然性はよく分からなかった。

 正直に言うと、まさか「君が代」が九州王朝の讃歌なんていう古田説は、はじめは全く信じられなかったのだが、「君が代」のよく分からなかった歌詞の必然性も、古田史学の示すように、「君」の住む場所の名称を使った「君」への賛歌であるということであれば、納得できる。

 常識では理解できないが、素直な気持ちで向かえば、他には納得できる説明もないので、今のところ消極的肯定といったところだ。

 妙に「筑紫の君」の「君」と、この「君が代」の「君」が一致して気になる。 


いわゆる磐井の乱について
古 田 説  従 来 説
・日本書紀
・日本書紀の注釈書である「釈日本紀」にある筑後風 土記の引用部分(筑後風土記逸文)
・百済本記
日本書紀
 「磐井の乱」といわれるのは、531年に起きた九州王朝の「筑紫君磐井」に対する「継体の反乱」である。

 日本書紀では、継体天皇は物部麁鹿火を遠征させる際に、「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ」という。
 この発言は、磐井は大和政権から任命された国造ではなく、当時は北九州も中国地方西部も大和政権の領土でなかったという証拠である。
 しかも、反乱を鎮圧したのに、磐井の子の葛子の地位は安泰で、葛子から糟屋の屯倉を献上させたのみである。つまり、磐井も葛子も大和政権に任命された「筑紫国造」ではなく「筑紫君」、つまり九州をおさめる君主であったと考えられる。

 また、筑後風土記逸文では、「筑紫君磐井」と記されている。
 その風土記逸文では、そこに記載されている文面どおり、現在も磐井の古墳が残され、石馬の首が打ち砕かれている。
 つまり、風土記逸文は信頼に足るから、磐井は筑紫の君と呼ばれていたことも確実である。

 さらに百済本記では、 531年に日本の天皇と太子、皇子がともに死んだと書かれているが、継体天皇にはそれに相当する事件はない。
 一方、継体に20人以上の子があったと同様に磐井には多数の子がいたはずで、磐井と連座して殺されるのを恐れた葛子は、屯倉の献上で生き残ったと解する。

 以上の論は古田武彦著「失われた九州王朝」による。

 しかし、近年は、”継体の乱全体が虚像である”と考えを大転換している。


 九州筑紫国造磐井は豊肥二国を占拠するとともに、朝鮮半島からの朝貢船を略奪した。

 新羅が東部を占領した任那へ遠征しようとした近江毛野臣は、同じ釜の飯を食った仲の磐井との交戦で、遠征ができなかった。

 この事態に対し、天皇は磐井討伐の詔を発し麁鹿火大連に筑紫以西の全権を与えた。

 528年、物部麁鹿火大連率いる討伐軍は、筑紫国御井郡(筑後平野)で交戦し、反乱側の首魁である磐井が討伐軍に斬殺され、反乱は鎮圧された。

 磐井の息子である葛子は、罪を贖うために朝廷に対して糟屋屯倉を献上した。

 日本書記のとおりである。








<私の感想>
 やや強引な論理展開もある古田史学。やはり冷静な吟味が必要だと思うこともある。
 近年、古田氏は「磐井の乱」も「継体の反乱」もなかったと考えるようになったようだ。
 しかし、私は、これは違うのではないかと感じている。

この件で特に気になる古田氏の仮説は、・・・・
   筑後國「風土記」の中で、継体が磐井を殺し石人や石馬を壊したと書かれており、実際に、現在も岩戸山古墳には壊れた石人や石像があるが、この破壊は日本に進駐した唐の軍隊が破壊したものである。
   磐井の乱以後に北九州地域の土器の様式が一変していないことが、「継体の反乱」がなかった傍証であるというもの。

 実は、古田氏は、その著作「失われた九州王朝」において、いわゆる磐井の年号は527,8年頃であり、九州年号で言う「僧聴」から「発倒」に変わったところである。
 この「発倒」は、「倒れた(王朝)を(再び)発する」という意味である。この意味するところは、「継体の乱」により磐井が亡くなり、新たな九州の君に変わったことを示しているとの仮説を立てていた。
 私は、この仮説は、やや強引であるというものの、「風土記」の記述や現在の岩戸山古墳の状況からみて、現在も妥当なところではないかと感じている。

 もし、倭の王朝が他の侵略した王朝に変わったのならば、土器の変更もあると考えられるが、政権交代だけで土器の様式変更があるとは思えない。つまり、古田氏の新しい仮説「磐井の乱も継体の反乱もなかった」については、的がはずれているように思う。
 むしろ、土器の様式に変更がないことは、九州王朝が大和政権に取って代わられなかったことを示すことになるのではないかと考える。

 ただ、少し疑問は残る。
 第1に、なぜ石人、石像をそのまま放置したのだろうか?
 正当な後継者がいたならば、当然、修復しただろうと思う。
 ヨーロッパの文明が滅びた時のように、破壊された遺跡がそのままになっているのは、征服した者がその地を支配したからだと思うが、そう考えると、磐井のあと実質は敵対者の政権か、それともかいらい政権と考えるべきなのか?

 それとも古田氏が言うように「継体の反乱」の時に破壊されたのではなく、唐の軍隊が破壊し、その後も唐の軍隊が常駐したためであろうか?



万葉集の歌について
古 田 説  従 来 説
万葉集巻一の三番の歌
     天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
天皇、宇智の野に、遊猟(みかり)したまふ時、中皇命の使間人連老をして獻らしめたまふ歌
     八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭伊縁立之
やすみしし 我が大王の 朝庭には 取り撫でたまひ 夕庭には寄り立たしし
従来説はおかしい。
まず、天皇の歌であると状況説明しているのに、中皇命(なかのすめらみこと)に該当する人が判らないのがおかしい。

次に、「わが大王」を「天皇」とするのはおかしい。
というのも、天子の配下に王がたくさん居て、王の中の有力な王が「大王」である。
つまり、大王は天皇ではない。

歌の内容も、一人芝居で、一人で男性役をやったり女性役をやったりしておかしい。

「わが大王」とあり、次に、「朝庭」と書いてある。 この「朝廷」は天子が居る所であり、「みかど」である。
つまり、大王がお仕えしている「みかど」という意味である。

「朝庭」は、「あしたには」ではなく「みかど」と読む。
「夕庭」は、「夕には」ではなく「みさき」と読む。

やすみしし大王にとっての帝(みかど)は、弓矢を撫でて大事にしておられる。
后(みさき)は帝(みかど)に寄り添っておられる。
つまり夫婦仲睦まじい状態を表していると解釈する。


この天皇は舒明天皇である。
中皇命(なかのすめらみこと)に当てはまる人はいない。

「朝廷」は、「朝(あした)には」と読む。
「夕庭」は、「夕には」と読む。

わが大王は、弓矢が好きで、朝には弓矢を撫でる。
夜には弓矢に寄り添う。

つまり、わが大王は、朝は弓矢を撫で、夜には弓矢に寄り添うくらい、弓矢が大好きであると解釈する。
<私の感想>

 従来説では、歌の内容が、単に弓矢が好きな大王の話で、軽薄な感じで、あまり上手い歌とは思えない。

 これに対して、古田説では、ほのぼのとした夫婦の愛が感じられて、従来説より格段に優れた歌と感じられる。
 しかも、仕える身から「みかど」を讃える歌として、ふさわしいように思う。


九州王朝と大和朝廷について など 古田説、従来説を
これから順次、整理していきたいと思います。 

古田史学の真髄2 へどうぞ。