古田史学を簡潔に紹介します


2004.10より公開    MENU表示http://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/ へのリンク
   石田泉城のブログ
はじめに
 私は、歴史学者古田武彦さんのファンで,、古代史をこよなく愛する者です。
 古田武彦さんのリーズナブルで素晴らしい九州王朝説が発表されて以来、ほとんど学会は反論できないまま無視した状態になっていることを、とても残念に思い、簡潔に「古田武彦氏の説」を紹介しようと思った次第です。

 古代史の定説と言われるものは、”全て仮説”ですが、ほとんどが皇国史観や大和朝廷を前提に作られていますので、現在では、まるで理解できないような説になっています。
 それでも、それら根拠の希薄な仮説が、統一感もなくバラバラに通説として存在したままで、極めて特異な状況になっています。

 古田武彦氏の素晴らしい仮説は、結論だけをみるとすぐには理解できないかもしれませんが、それは従来、学校で刷り込まれた歴史に惑わされているからではないでしょうか。

 これまで、教えられるがままに定説と言われる日本の古代史を受け入れてきた人が多かったと思います。私もその一人でしたが、本当は、合点がいかなかったことが数多くあったはずです。

 というのも、古代史に限ってはどの定説も、すっきりしないからだと思います。また、定説と定説がリンクして体系化されていないことも納得できない大きな要因ではないかと思います。

 たとえば、私が教科書で習ったときは、大和に邪馬台国があると教えられ、魏志倭人伝に記述された距離も方角も異なるのに、なぜ大和に邪馬台国があると言えるのだろうかと、疑問に思いましたし、納得もできませんでした。
 銅鐸の鋳型が九州からぞくぞくと出土したこと、棺の外に置かれた三角縁神獣鏡の扱われ方など近畿説を否定する様々な考古学の発見により、今では、説得力のある近畿説の発表は、ほとんど無いように思います。

 このほかにも、古代史にはいろいろな疑問があります。
 なぜ、日本の王者が持っているはずの金印が九州の糸島半島から発見されたのでしょうか。大和朝廷に続くならば正倉院に保存されているか、少なくとも近畿から発見されなければいけないはずだと思います。
 三角縁神獣鏡にしても、そんなに大切なものなら、正倉院にあって良さそうなものですが、1枚もありません。

 なぜ万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂という有名人が日本書紀に登場しないのでしょうか。出生も不明です。
 官位が低かったからと言うのが定説のようですが、明確な根拠はありません。
 万葉集に「読み人知らず」が多いのも謎ですね。歌人がわからない歌とは何を意味しているのでしょうか。

 40歳くらいが寿命だと言われる時代に100歳以上の長寿の天皇がゾロゾロいます。なぜ、こんなに天皇が長寿なんでしょうか。何か訳がありそうです。

 大化の改新のあと、元号は続かなかったようです。飛び飛びの元号とは、どういうことでしょうか。

 倭の五王とそれぞれに対応すると定説で言われている天皇とは、全くマッチしません。讃を仁徳天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇とする根拠が薄弱です。この定説では親子・兄弟の関係が一致しませんから、間違っているとしかいえないでしょう。

 銅鐸、銅矛、銅剣など青銅器の分布をみれば、明らかに古代は多元的国家と思えますが、そのようには教えられなかったですね。

 とにかく、根拠があいまいな子供だましのような学説ではなく、古田史学は、いろんな疑問に明快に答えます。
 ですから素直に理解できます。

 文献の原文を勝手に自説に都合良く直してしまう通説は、全く信用できません。これに対して文献を勝手に直さずに、理論付けを行う古田氏の仮説は、素晴らしいと思います。
 
 古田氏の説は、以下のように、いろいろありますが、まず第1に邪馬壱国の位置を方角も距離も、文献を改訂せずに、明確に特定したことでしょう。

 このほかにも、通説よりしっかりした説明で納得できます。

<古田史学の説の数々の一部>
1 邪馬台国ではなく邪馬壹国である。 三国志では邪馬台国と書かれていない。全て邪馬壹国と書かれている。
2 金印「漢倭奴国王」は、漢の直接統治の属国の王に与えられたのだから、「漢の倭の奴の国王」ではなく、「漢」の「倭奴」の「国王」と読む。
3 倭国は新羅と国境を接すると好太王碑にある。倭国の領地は、日本列島と朝鮮半島にまたがっている。
4 卑弥呼の時代には、魏では短里(77m)が用いられていた。
5 魏志倭人伝で、帯方郡から邪馬壱国までに至る距離を加算すると、確かに12000余里となる。
6 邪馬壹国の首都は、九州北部の今の太宰府、都督府である。
7 中国側が認めていた倭国は、九州中心の国である。
8 九州王朝は倭(ゐ)と呼ばれ、卑弥呼から白村江の戦いまで、延々と続いた。
9 「邪馬壹國」は九州王朝の前身であり、その後九州王朝は白村江での敗北により九州王朝の天皇である筑紫の君薩夜麻が唐の捕虜になり、滅亡にむかった
10 天孫降臨の地は、日向国(ヒュウガノクニ)ではなく、筑紫の日向(ヒナタ)である。福岡市と前原市の間にある日向峠である。
11 古い時代、日本では2倍年歴が使われていた。
12 磐井の乱は、ねつ造である。磐井の乱はなかった。
13 日出ずる処の天子は聖徳太子ではない。九州王朝の多利思北孤である。
14 天皇の称号を最初に用いたのは九州王朝である。
15 大和王朝の前に独自の年号を使っていた。いわゆる九州年号である。
16 壬申の乱の吉野は吉野ヶ里で有名な吉野のことである。  など
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