2004年夏休み社会科地理の僕の宿題!?
なにも更新することないんでぇ
世田谷区の歴史、文化

世田谷区は古来より人が生活していた地域である.世田谷区にひとが生活していたというもっとも古い痕跡は約3万年昔の旧石器時代の遺跡である.1952年に旧根津山、現在の羽根木公園のローム層から打製石器が発見され、その後、下山(瀬田)、嘉留多(成城)、堂ヶ谷戸(岡本)、廻沢北(千歳台)など多数の場所で遺跡が発見されている.
約1面年前の縄文時代の遺跡になると川に面した大地を中心に130ほどの遺跡が発見されている.瀬田、稲荷丸北(上野毛)の貝塚のほかに、90誓い大小さまざまな集落が発掘されている.堂ヶ谷戸(岡本)では40戸以上の竪穴住居と穴を掘っただけの土抗墓も多数存在する.

約2000年前ころの弥生時代の遺跡は世田谷区内に20ヶ所ほど存在し、殿山遺跡(大蔵)は、中期のもので、円乗院(代田)、下山(瀬田)、堂ヶ谷戸(岡本)、陣屋前(喜多見)、上神明(成城)などは中期のものである.
区内に残る古墳時代の代表的な遺跡は、田園調布の宝莱山古墳、亀甲山古墳、世田谷の野毛大塚古墳、砧中学校7号墳などがある.また、古墳時代後期には谷沢川(等々力渓谷)、野川(上神明遺跡)などの多摩川支流に多くの横穴墓群が作られている.

大化の改新以降、地方には国、群、里の制度がしかれ、世田谷区は、当時の武蔵国の中の荘原群と多磨群の一部を含む地域であったと考えられている.平安時代中期に作られた字典「和名抄」には覚志郷、荘原郷、勢多郷、狛江郷などの名が出ている.

「万葉集」のなかの東歌には‘’多摩川にさらす手づくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛き‘’というものがあるが、この歌が世田谷の土地とどのように関係しているかは判明していない.地方の特産物を納める税の調として手づくりの布がこのあたりで多く作られていたのではないかと推測される.

平安時代に、関東地方に土着して勢力を伸ばしてきた武士団の一つが桓武天皇の流れをくむ武士の筆頭の一つ、桓武平氏である.その一族で北武蔵に住むようになった秩父重継が当時の世田谷区域を治める江戸氏の祖といわれている.秩父重継は12世紀始め江戸の地に館をかまえ、その地名をとって江戸氏と名乗った.その子供である江戸重長は「八ヶ国の大福長者」「東国無双の長者」と称される、武蔵国武士の実質的な棟梁でたいへんな実力者であった。1180年、同じ秩父平氏一族の河越重頼・畠山重忠らとともに源氏がたの三浦氏の居城・衣笠城を攻撃し、 郎従が三浦義明の首を挙げた。石橋山の合戦に破れた源頼朝が、再び勢力を盛り返して武蔵国へ入ろうとしたときはそれを阻止。頼朝は葛西清重に命じて江戸重長を暗殺しようとするが清重はこれを固辞した。こ徳の高さがうかがえるエピソードである。その後まで出掛けて頼朝に服従を誓い鎌倉幕府の御家人となった。

重長の次男、武重は木田見郷、現在の世田谷区喜多見を本拠とし、木田見武重と名乗るようになる.この木田見の地名は、13世紀後半にこの地をめぐって、60年もの間木民氏と争ったことを記す熊谷家文書にも見られる.

15世紀半ば、江戸氏が太田道潅に追われて江戸城から木田見郷へ移り住んだ頃、江戸氏はもともと同族であった木田見氏の家も継いだものと思われ、やがて世田谷城主吉良氏の家臣となり、後には後北条氏にも従い、地元の豪族として重んぜられた.

徳川家が江戸城に入ると、城と同じ江戸の名を使うことを遠慮して北見氏、のちに喜多見氏と姓をかえたようである.
江戸氏にかわって世田谷地域を治めたのは吉良氏である.吉良氏は清和源氏の一族である足利氏の一族である.吉良氏は南北朝時代に将軍足利氏を助け、東北地方で重要な働きをした一族である.

世田谷という地名がはじめて見られる古文書は1376年(永和2年)吉良治家が鎌倉の鶴岡八幡宮にあてた一通の寄進状である.

吉良氏は現在でも語り継がれている鷺草物語にも登場する.この吉良頼康と常盤姫との悲しい物語は中世の世田谷を舞台にした民話のひとつである.なお、鷺草は世田谷区の花ともされており、伝説の地となった九品仏には鷺草園がつくられている.

また吉良氏が建設した世田谷城は現在城址公園となっている.
戦国期になると世田谷地区は後北条氏の所領となる.この頃のボロ市が始まる.ボロ市は現在も行われており、400年の伝統をもつ世田谷の行事である.1578年(天正6)に小田原城主の北条氏政が当時交通の重要拠点であった世田谷宿に「楽市」を開いたのが始まりであるといわれている.世田谷では毎月六回、1と6の付く日に市を行う六歳市が行われていた.楽市は支配者の交代とともに行われなくなっていった.しかし、楽市の伝統は人々の生活に根強く残り、村人の農具や古着、あるいは様々な正月用品を売り買いする‘市’として年に一度、年の暮れに行われるようになり、明治に入って一月にも初市が開かれだし現在にいたっている.

江戸期に入ると幕府の城下町整備の一環として開発が進められた.武蔵野台地は水の得にくい土地であったため、1657年に1654年に作られた玉川上水から水をひくことを許され、北沢用水(1658年)、烏山用水(1659年)、三田用水(1664年)、品川用水(1667年)の4用水がつくられた.この工事により世田谷の耕地面積は増大し、取れ高も伸びることとなった.

明治期になると新政府のもと大規模な区画整備が行われる.江戸の末期、世田谷地域は42の村に分かれており,その支配は天領、旗本領、大名領、神社領であったが1871年の廃藩置県によって多くの村は東京府に属することとなった.その後1888年に公布された町村制によって村々が合併し、世田谷村、駒沢村、玉川村、松沢村が誕生する.合併は玉川村を例にあげると用賀、瀬田、野良田、上野毛、下野毛、等々力、小川、駒沢新田、深沢の各村がひとつになったものである.

その後東京市区改正事業に利用するために玉川電車(現在の東急田園都市線の一部)、京王電車(現在の京王帝都電鉄京王線の一部)を始めとする電車がとおり、関東大震災の折もたいした損害を受けなかったことから住宅地としておおいに発展していった.
1932年(昭和7)に東京市が拡張され、世田谷も東京市に所属、世田谷町、駒沢町、玉川村、松沢村の2町2村を統合した.「世田谷区」の誕生である.1936年に千歳など2つの村も世田谷区に編入され現在の世田谷区の形となった.

世田谷区はその後、大戦時に大規模な空襲をうけ焦土と化すが、戦後には特需、高度経済成長などにより復興し山の手のベッドタウンとして発展していった.

発展の影響として緑が奪われ、ごみ問題や汚染問題を引き起こした.そこで1960年代九版から環境保全運動が盛んになった.

現在では世田谷区は、緑と太陽をスローガンに内外に健康都市を宣言し、区政も積極的に政策を展開しはじめている.