福岡県北九州市若松区には現在脇田祇園山笠、竹並祇園山笠、二島祇園山笠、小石提灯山笠等があります。
どれも江戸中期から後期にかけて始まったものと思われますが、詳しい資料は残っておらず、詳細は不明です。享保
20年(1735年)6月9日、白山神社の若松祇園祭発起者として、庄屋矢田市左衛門の名を記した古文書が残っております。
「御山所中廻る」という記述がありますが、この御山がどのようなものであったのか、詳しい事はわかりません。山笠が
あったのかどうかは別として、この頃から祇園祭が始まったようです。
享保17年(1732年)春にはしかが流行し、多数の死者が出ています。秋には飢饉のため、餓死者が多数出ました。この時山鹿で御救い米が出ると聞き、おきく、千松の姉弟は二里の山道を歩いて行こうとしましたが、小竹の平川でついに力尽きて倒れ、その場で餓死したといわれています。後に人々はこれを憐み、地蔵を祀り供養したそうです。翌18年にも多数の死者を出しており、「五穀豊穣」「無病息災」を祈願する祇園祭は、当時の人々にとっては、実に切実なものだったのでしょう。「天満宮勧請、宝暦3年(1753年)11月28日、翌年6月24日夏祭り。祇園宮勧請、船頭町発起。御山並東西御供山若松所中より。6月24日夏祭り。船頭町並東西中町共に作り物等仕立て、年々賑わいあり候」という古文書が残っております。

この御山と御供山が現在の神輿と山笠のようなものであったのかどうかは、残念ながらわかりません。作り物というのも
どのような物かはわかりませんが、年と共に祭り自体は賑やかな物へと変貌していったようです。明和4年(1767年)5月
若松祇園社の古文書には、先年6月10日御祭日、花山、子供踊りと記されています。この花山というのは現在八屋祇園
や中津祇園等で見られる踊り山のようなもので、子供が踊っていたのではないでしょうか。

脇田祇園山笠は、脇田漁港八幡岬にある大比叡神社の山笠です。8月16日と17日に行われ、市内でも最後に行われる山笠です。平家の落武者の庵があったので安屋と呼ばれるようになったとも言われる安屋地区ですが、昔は塩田もあったそうです。大比叡神社の近くにある笠松神社には、明治**六年と書かれた山笠図が残っています。描かれているのは現在の博多の飾り山笠をほうふつとさせるものです。昔は博多と同じ岩山が出ていたのでしょう。かつて脇の浦には大阪通いの船がいて、藩の用船をつとめ、若松から大阪へと御年貢米を運送していたそうです。また博多への船便もあったそうです。船による物流で博多と結ばれていた脇の浦に、博多の山笠が伝わったものと思われます。同じように脇田にも伝わったのではないでしょうか。現在の山笠は他の地区同様低くなっていますが、往時と同じように数少ない舁き山として残っています。   脇田祇園山笠  

 
博多祇園山笠(飾り山笠)

竹並祇園山笠
竹並祇園山笠は建武2年(1335年)の創建と伝えられる須賀神社の山笠です。博多祇園山笠の飾り山笠と同じ岩山の流れを組み、数少ない岩山の舁き山として残っています。往時は今より更に3mほど高い山笠だったそうです。起源については不明ですが、ある年悪病が流行したため須賀神社に、竹並の村落が3戸になるまで山笠を建てるから、悪病が流行しないようにと祈願したのが始まりだとも伝えられています。江戸初期の竹並は、現在の田園地帯とは大きく異なる風景だったようです。蜑住は海人住と書き、塩田があったと思われる塩屋から蜑住、竹並地区にかけては、どうも海辺だったようです。「元禄元年(1688年)竹並村から海人住村の小島まで、堤八百二十間、新田五,六十町築立さる」という記録が残っています。黒田藩は塩田よりも米の増産を奨励し、この地区の塩田を埋め立てて新田開発をしたのです。この時払川村が新開村となっています。つまり今の払川地区は、この頃まで海だったのです。塩田があった頃、塩が博多まで運ばれていた事もあったでしょうし、脇の浦や脇田と同じように、博多の山笠が伝わったのかもしれません。:元禄になって熊手、陣の原、穴生と干拓が進み、寛延3年(1750年)本城村新田を開発しています。洞海湾沿岸地帯は、埋め立てによってできた新田だったのです。竹並の山笠は昭和30年代半ば頃、一時中断した時もありましたが、昭和54年地区の若者を中心に復活話が持ち上がり、見事復活し現在に至っています。復活した時、初めての舁き山に若者たちは悪戦苦闘し、なかなか山笠は動きませんでした。その時「お前たっちゃ、つまらんのぉ」と言って、古老たちが舁き棒をひょいと担ぎ上げて山笠を担いだのには驚かされました。現在の山笠には、幟旗とスダレと呼ばれるバレンが飾られていますが、これは他の地区の山笠では見られない大きな特徴です。人形山笠にバレンを飾るのは、他に曽根の山笠や糸田の山笠等でも見られますが、幟旗と一緒に飾っている山笠は、他にはありません。幟旗やバレンは、共に豊前国の山笠に共通して見られるものです。筑前国だった若松の山笠に、なぜ豊前国の山笠の様式が見られるのかは不明です。ところが須賀神社の社殿内に、明治十二年の山笠図が飾られていますが、これには幟旗もバレンも描かれておらず、元々若松の山笠にはなかった物のようです。どのような経緯でこの様式になったのか、残念ながら詳しい事は不明です。竹並の山笠には先端部の四隅にバレンが飾られていますが、実はこれも珍しい飾り方なのです。糸田や弁城の人形山笠に飾られているバレンは、先端部の中央に飾られており、竹並のバレンの飾り方とは明らかに違います。また田川地区に多く見られる鉾山のバレンも、先端部の中央に飾られています。ところで、佐賀県呼子の小友地区に伝わる山笠は、竹並の山笠と同じく先端部の四隅にバレンを飾っています。佐賀県では唐津地区を中心に山笠が残っていますが、なぜか呼子の小友と小川島の山笠だけに、バレンを四隅に飾る山笠が残っているのです。小川島の山笠は現在曳き山になっていますが、かつては舁き山だったそうです。小友の山笠は今でも舁き山で、浜崎系の博多の岩山の流れを組む山笠です。幟旗こそありませんが、その外観は竹並の山笠ともよく似ており、何らかの関係があるのかもしれません。
二島祇園山笠は麻生遠江守が勧請したと伝えられる日吉神社の山笠で、その起源については不明です。二島はかつて御笠郡観世音寺の所領で、その鎮守日吉山王権現の神事には、必ず二島郷から供料等を納めていたそうです。麻生氏支配の頃には多くの社領を有していましたが、豊臣秀吉の九州征伐の際社領は没収され、一時衰退しました。関が原の合戦後黒田長政が筑前国に入国したのを機に保護され、島郷三大社の1つとして24ケ村の祈願所となり隆盛しました。元々神仏習合の神社であったため、明治期の廃仏毀釈でかなりの影響を受けてしまいました。本来山笠は祇園社の祇園祭に出る物なのですが、日吉神社には祇園社は合祀されていません。かつて藤ノ木和田にあった祇園社は、安永4年(1775年)に創建され、天保6年(1835年)に再建されたとの記録が残っているそうです。小石の幟山笠の幕が製作された翌年の事であり、この頃各地で山笠が出るようになったのかもしれません。戦前の山笠は竹並と同じ岩山の舁き山で、戦後しばらくはこの形でしたが、その後現在の直方系の人形山笠へと変貌していきました。二島の山笠は竹並の山笠と比べると笛の囃子方の人数が多く、山笠の側面に乗せる等金田や糸田の山笠の影響もあるようです。
 二島祇園山笠(昭和16年)

画像提供二島祇園(東二島)
今井祇園


光明八幡神幸祭

かつては筑前国黒田藩の所領であった若松ですが、小石の山笠は、豊前国今井(行橋)の須佐神社、今井祇園の幟山笠の系統です。元文2年(1737年)若松の日吉神社を勧請して創建された小石日吉神社に豊前国の山笠が伝わっているのには、小石村大庄屋高崎家の存在が深く関与しているようです。高崎家は黒田長政が豊前中津から筑前福岡に転封になった時共に国入りし、小石村の庄屋になりました。明和7年(1770年)から文政6年(1823年)の間、正次郎から三代続けて大庄屋となっています。
畑祇園

小石の幟山笠


文化9年(1812年)小石触には小石、小竹、若松、戸畑、中原、藤木、修多羅、二島、畠田、頓田、払川、竹並、安屋、有毛、乙丸、山鹿、山鹿魚町、高須、浅川、小敷、大鳥居、蜑住、塩屋、本城、本城御開の25ケ村が所属していました。高崎家はその大庄屋として君臨していたのです。この時各村の庄屋の給米が17俵から29俵だったのに対し、大庄屋高崎家は百俵の給米となっています。修多羅の塩田開発、小石の新田開発、荒地だった島郷に植林を行う等多くの事業を手がけ、明和5年(1768年)正次郎脇指御免(帯刀許可)となっています。

「文明3年(1783年)正次郎殿様御家督祝につき御祝儀差上、御料理頂戴す」という記録も残っており、黒田家とは深い関係
だったようです。また小倉小笠原の殿様の鷹狩りにも同行し、小笠原家からも名字帯刀を許されたそうです。かつて造り酒屋
も営んでいたという高崎家ですが、明治16年(1883年)行事村(行橋)の堤家から嫁を迎え入れています。当時の高崎家も経済
的に深い関係があって婚姻関係を結んだようで、高崎家を介して今井の幟山笠が若松に伝わってきたものと思われます。
今井祇園の幟山笠は豊前国の各地へと伝わっておりますが、筑前国で現存するのは畑、戸畑、小石の3ヶ所だけです。今井、
光明の山笠に比べ、畑、戸畑、小石の山笠は共に勾欄が豪華に造られていますが、これは製作年があとになるほど、豪華に
なっていったものだと思われます。小石の幟山笠の幕には天保4年(1834年)赤間の関(下関)牛次郎作との記録が残っており、
少なくともこの時期にはすでに山笠はあったようです。また戸畑西大山笠の勾欄には文政12年(1829年)3月の刻銘があり、
ほぼ同時期に戸畑、小石の両村で幟山笠が出るようになったものと思われます。ちなみに、天頼寺大山笠の切幕は慶応
元年(1865年)作との記録があり、幕末の動乱期にかけて形成されていったようです。また白山神社でも戦前は幟山笠が出て
いたそうで、写真で見る限りは小石と同じ形の幟山笠だったようです。現在でも一部が残っているそうですが、詳しい事は
不明です。

小石の山笠が提灯山笠になったのは、明治の中頃の事だそうです。前述の通り堤家との婚姻時期と重なっており、行事村に近い与原村(苅田)の灯山の影響を強く受けたものと思われます。灯山は宇原神社の神幸祭の山笠で、神幸祭は嘉吉2年(1442年)から始められたと伝えられており、当初は笠鉾が出ていたようです。慶長2年(1597年)からは鉾山が出るようになったそうですが、灯山に関する記録は少ないようです。尾倉村庄屋岡崎文書によると、安政5年(1858年)提灯鉾山が出たそうです。この提灯鉾山がどのような物なのかはわかりませんが、八屋祇園の山鉾に、その姿を想像する事ができます。  八屋祇園

苅田山笠
八屋祇園の山鉾のお社を低くして提灯を増やすと、苅田山笠の灯山に似た形になります。曽根新田の綿津美神社では、天保12年(1841年)龍神祭に桃燈山が出たとの記録が残っておりますが、これは提灯山笠の事だと思われるそうです。現在では曽根の神幸祭として、苅田山笠と同じ形式で、3つの姿に変わる山笠が出ています。曽根と苅田の神幸祭は、お互いに影響し合って現在の形になったのではないのでしょうか。もしそうだとしたら、小石の提灯山笠のルーツは、この桃燈山なのかもしれません。
 曽根の神幸祭

小石提灯山笠
小石の幟山笠(大正7年)
この写真は日吉神社の社殿内に飾られているものです。当時の様子が良くわかる貴重な写真ですが、幟山笠の右後ろに写っているのは、当時島郷各地で出ていたと思われる、岩山と同じ物のようです。これが小石日吉神社の物なのか、若松日吉神社の物なのか、又は二島日吉神社の物なのかは、残念ながらわからないようです。それにしてもこの二つの大きな舁き山を、わずかこれだけの人数で舁いていたのだとしたら、実に驚くべき事です。若松の村社日吉神社は、大正8年12月恵比須神社に合祀され、村社恵比須神社となりました。この岩山が若松日吉神社の山笠だとしたら、恵比須神社になる前の貴重な写真ということになります。

参考資料
若松市史(大正編、昭和編)
郷土藤ノ木(第22区自治会)
かんだの歴史軌跡(苅田町)
苅田山笠(苅田山笠青年会)
北九州市の民俗芸能(北九州市教育委員会)
日本の歴史(集英社)