伏線が活きなかった?〜〜函館本線七飯−大沼間





路線図
函館本線七飯−大沼間付近路線図




■通称藤城線

 函館本線には路線が奇妙に絡みあう区間が存在する。七飯−大沼−森間がそれで、時刻表の路線図で見ると、逆「8」の字状の線形となっており、列車がどのように走るのか、路線図からだけでは判じがたい。特に七飯−大沼間では、東側の路線には途中駅が一つもなく、なおさら奇異な印象を与える。

下り普通列車
大沼で交換する普通列車
右:森発駒ヶ岳・仁山経由函館行4834D
左:函館発藤城線・駒ヶ岳経由森行4835D
平成19(2007)年撮影


 七飯−大沼間のうち、西側の路線は明治時代に北海道鉄道が敷設したものである。明治35(1902)年12月に(旧)函館(のち五稜郭)−本郷(のち渡島大野)間が開業、翌明治36(1903)年 6月には本郷−森間(駒ヶ岳経由)が開業しており、歴史は古い。

 もう一方の東側の線路は、七飯−大沼間の複線化と急勾配区間緩和を兼ねて国鉄が敷設したもので、昭和41(1961)年10月に開業している。正式な支線名はない様子だが、藤城線という通称は相当広く知れ渡っており、地元の方に使っても充分に通用する。

 西側の本線は最急勾配25‰で、仁山にはスイッチバックも存在するほどの急勾配区間だ。そのため、キハ40のような低性能車両だと40km/h程度の速度しか出せない。これに対して、東側の藤城線は最急勾配16‰であり、線形も良好である。

上り貨物列車
渡島大野を通過する上り貨物列車
平成17(2005)年撮影


 これら勾配の関係から、特急及び貨物の下り(坂を“上る”)列車は全て藤城線経由で、上り(坂を“下る”)列車は全て本線経由で、それぞれ運行されている。ただし、普通の上り列車は全て本線経由での運行だが、藤城線には途中駅がないことから一部を除く下り列車は本線経由で運行され、渡島大野・仁山両駅利用者の便宜を図っている。

 一部なりとはいえ下り普通列車の数本が藤城線経由で運行され、渡島大野・仁山を通過することに対し、両駅の利便性を削ぐものとして問題視する向きがある。これは一応尤もらしい指摘ではあるものの、函館本線では特急を最優先するダイヤが組まれているから、やむをえない面がある。急勾配に弱く足の遅い普通列車は、強烈なダイヤ阻害要因なのだ。

上り特急列車
渡島大野付近を走行する上り特急「スーパー北斗」
平成17(2005)年撮影


 そもそもこの指摘は両駅の現状に即しているとはいえない。北斗市(旧大野町)北端に位置する渡島大野でさえ、利用者数が多いとはいえない。信号所由来の仁山に至っては、山中の小駅にすぎず利用者数は極端に少ない。その両駅に如何ほど利便性を確保するかという部分を措いて、一部普通列車の通過を批判するというのは、プライオリティーという概念を軽視すること甚だしいものがある。

渡島大野駅
渡島大野駅全景
平成17(2005)年撮影


 渡島大野駅前には函館バスも入りこんでいるから、利便性は現状でも相応に確保されている。近い将来新幹線の駅もできるという線で、函館都市圏としての利便性確保を本気で主張するならば、日に数本の普通列車通過を云々するより、七飯止の区間列車延伸を対案として出すべきであろう。勿論、これとてダイヤ阻害要因とはなるものの、渡島大野までの延伸であれば、まだやりようがあり実現性は高い。なによりも、計画思想と(将来の)実需にかなうという意味において、質の高い提案になりうるではないか。

渡島大野駅
渡島大野駅に掲げられた看板
平成17(2005)年撮影




■渡島大野を経由した小さな謎

 ところで、北海道鉄道が渡島大野(本郷)を経由する線形を選択したことについては、小さな謎が伴う。七飯−渡島大野間は久根別川の上流域にあたっており、鉄道を敷設するには条件が悪い低湿地帯である。かような低湿地帯を避け鉄道を敷設するのが当時の常識だったはずで、国道 5号旧道に並行するような格好で、高燥な山地の裾野ばかりを踏んで大沼を目指すことは充分可能だったはずだ。たとえ藤城線のような良好な線形は確保できなかったとしても、七飯からすぐ高巻きを始めれば、高度を稼ぐのは決して難しくはない。

 さほど長い区間ではないとはいえ、高燥な地を捨て、敢えて低湿地に突っ込んでまで、渡島大野を経由したのは何故か。旧大野町の玄関とするには、駅の立地が北に偏りすぎており、この材料だけでは説得力に欠ける観が伴わざるをえない。

下り普通列車
渡島大野に停車する下り普通列車
平成17(2005)年撮影


 渡島大野の構内が宏大、という点も気になるところである。上の写真では判じがたいが、実に二面五線という規模の大きさで、しかも上り待避線の有効長がやみくもに長い。一時終着駅だったとはいえ、それだけの要因でこの規模は説明しきれない。

 さらにもう一点付け加えると、七飯−渡島大野間の相当部分で、複線化を意図しているとしか考えられないほど、線路用地には余裕がある。実際のところ、渡島大野直近の踏切は複線対応であり(ただし片線は不使用)、なんとも怪しげなのである。





■未成に終わった大函電鉄

 その昔、大野市街と函館を結ぶ鉄道の計画が存在したことは、あまり知られていない。その名を大函電鉄といい、大正年間に発起され、工事もかなり進んでいた様子であるが、壮図むなしく未成に終わってしまった。

大野駅予定地跡
大函電鉄大野駅予定地跡
平成19(2007)年撮影


 迂闊なことに、筆者も近年まで、大函電鉄なる未成鉄道の存在を知らなかったのだが、ちょっとした機会を得て大野駅予定地跡を訪問する機会があった。大野駅予定地跡は公園となっており、その一角に掲げられた案内板に、未成鉄道由来の土地である旨が記されていた。以下、この案内板の記述を転記する。


幻の大函電鉄大野駅

 大函電鉄とは函館海岸町と大野本郷(現在の鹿島橋付近)間に急行電
車を走らせ、乗客及び貨物を運搬すると共に駅周辺に団地の計画を目論
んだものである。ここは、「大野」駅予定地である。
 1925年(大正14)函館市や大野村の人が発起人となり、軌道敷
設申請書を内務・鉄道両大臣に提出している。
 1931年(昭和6)認可着工にかかり大野や函館の有志が発起人と
なり、数万円を投入したものの資材不足、用地紛争などで工事は思うよ
うに進まなかった。それでも枕木、電柱など設置した部分もあり相当の
ところまで進ちょくしたが完成に至らず幻の大函電鉄となってしまった。
 本町下町には労働者の宿舎があったが強制労働のタコ部屋であり外国
から強制連行された労働者もいた。
 大函電鉄の跡として、用水上へ路線を敷くためのコンクリート橋脚が
大野新道沿いに幾つもしばらく残っていたが今はほとんどない。

平成11年10月

大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会





 事業の発起時期から推察すれば、軽便鉄道法公布後の「鉄道投資ブーム」の一環として数えられる計画でもあり、筆者仮説による「救世済民」事業である可能性も指摘できる。そのいずれであるにせよ、函館平野内で完結するローカル鉄道を目指していた、とは考えにくいところである。

 事業が発起された大正14(1925)年という年が実に怪しく、これは改正鉄道敷設法公布のわずか 3年後である。同法別表 129には「渡島国上磯より木古内を経て江差に至る鉄道」がうたわれており、函館と江差を結ぶ街道(現国道 227号に相当)沿線に立地する大野としてはこれを看過できず、対抗するために大函電鉄を発起したのではないか、という想像も生まれる。

 ただし、中山峠が厳しい険路であることは過去の記事にも記したとおりで、大野までの計画でさえ未成に終わった結果を踏まえれば、たとえ江差に至る遠大な構想を蔵していたとしても、実現は不可能であっただろう。それにしても、大野が函館−江差間の街道沿いに立地しているという事実の重みは、決して軽くはない。





■江差への支線構想があった?

 話を函館本線に戻そう。以上までの事実を勘案すると、函館本線が渡島大野を経由したのは、ひょっとして江差への支線を分岐する構想があったからではないか、という連想が働いてくる。

路線図
函館本線七飯−大沼間付近路線図


 確たる証拠がなにもない状況での想像にすぎないものの、当時の常識を破り敢えて泥濘に足を踏み入れた北海道鉄道の意図は、江差への支線分岐にあった、としか筆者には考えられない。この想像を正論と受け止めるか邪推とみなすかは、読者諸賢に委ねるとして、一見些細な線形のひねりにも歴史の綾がひそんでいるかと思うと、実に愉快ではないか。





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参考文献

(01)「私鉄史ハンドブック」(和久田康雄)

(02)「鉄道要覧」(運輸省鉄道局監修)



執筆備忘録

訪問:平成17(2005)〜19(2007)年

執筆:平成20(2008)年夏