静かな愛を〜〜名寄本線





■愛なき熱狂の空虚

 本稿での一人称は「私」で通すことにしよう。なぜならば、公論というよりむしろ私憤に近いからだ。内容は感情論とすべき類のものであり、客観性の担保がほとんどないことを、前提としてまず明記しておきたい。

 さて私は、廃線間際の鹿島鉄道沿線を二度訪れる機会があった。その一度目、石岡南台からキハ602 単行列車に乗った時のこと。常陸小川発で空いている車内には、数名の乗客の姿があった。うち年回りが私にほど近い方から、すっと話しかけられた。

「あなたは神岡鉄道に行かれましたか?」

 絶句せざるをえなかった。そして、時間が経つにつれて怒りが湧いてきた。ここにいる以上は神岡鉄道にも行っていて当然、と言わぬばかりの口吻は、なんとも腹立たしかった。なぜ私が神岡鉄道に行かなくてはならないのか。神岡鉄道は遠隔の地にあり、私にとってだけでなく行きにくい場所ではないか。特殊な荷姿の貨物輸送のため生き残ったという、鉄道としての特色が極めて明瞭であったがゆえに、さして強い興味を持っていたわけでもない。より正確にいえば、私の興味の対象となる鉄道ではなかった。

 そんな神岡鉄道が廃止になるからといって、敢えて時間と費用をかけて現地に行くべきなのか。私の頭中にある天秤は、興味×廃止≪時間×費用と、実にあっけなく答を導いた。ちなみに鹿島鉄道の場合は、興味×廃止≧時間×費用くらいの式になり、キハ07系由来の車両が存在し、かつ自宅から一時間少々という近場にあることが、訪れる決め手になったにすぎない。さらにいえば、いくら近場とはいえ家族での活動が最優先であるから、単独行動する時間がとれたのはただの僥倖なのである。

 しかしこの御仁は、私を廃止・引退イベントに群がる衆の一人、と決めつけていたようである。冗談ではない、一緒にされてたまるか、というのが偽らざる本音である。勿論、私の行動の表面だけを見るならば、廃止直前の鉄道に群がる衆の一人そのものであるから、この点で同類と目されるのは当然かもしれない。そうはいっても、内心はまた別次元の話というものだ。

 ある鉄道が廃止になるというだけの理由で群がるのは、記号論的な機会を消費する行動に例えられよう。そこに愛はなく、ただ空虚な熱狂だけがある。昔乗った思い出の名残にとか、ある車両を継続的に追っているからという程度の動機づけがありさえすれば、機会消費の陥穽から脱け出すことができる。そういった小さな理由さえ持たず、廃止イベントに追随するだけの連中には、鉄道への愛がない。がらんどうの虚しい熱狂は、廃止直前の鉄道に少々の臨時収入をもたらすだけで、廃止そのものを防げるわけではないし、廃止を悼む記録を紡げるわけでもない。その鉄道の歩みに論評を加えて、歴史を築き上げることなど、はるか遠いかなたではないか。

 以上について、私は20年以上も昔の昭和60(1985)年時点で既に痛感する場面があり、平成元(1989)年にさらに再確認し、翌年まで文章にまとめている。以下に紹介しよう。なお、かなりの長文なので、予め御承知ありたい。

名寄本線沿線走破記(全線・平成元年夏)







■愛あるならば廃止後もやってこい!

 実に17年ぶりに蔵出しした文章で、幼稚な部分が多々残っているゆえ、気恥ずかしくはある。しかしながら、読み返してみると廃線跡を訪ねる意識にブレは少ないと、我ながら安堵する。特に最後の一文、「その疲労よりも重いしこりが胸の中にわだかまっている」という部分は、当時感じた模糊とした暗い気分をそれなり巧妙に定着させたものだと思う。後年になるとさらに攻撃的な文章を書くようになっており、本文は久々にその気分の延長線上で記したものになった。

 さて、さまざまな偶然が重なって、名寄本線沿線を再訪する機会があった。時間に限りがあり名寄−下川間にとどまったが、得難い経験ではあった。そして、以上までに記してきた感情が、激しく増幅される結果にもなった。まず御笑覧頂ければ幸いである。

名寄本線沿線踏査記(名寄−下川間・平成19年)

 この記事の全行程を終えた時に感じたのは、とにかく強い怒りであった。腹立たしさ、という域をはるか超越した負の感情を覚えざるをえなかった。まさに廃止間際の鹿島鉄道では、日中の常陸小川折返という空いているはずの列車にさえ「彼ら」の姿があったではないか。休日ともなれば、至るところにカメラの砲列が布かれていたではないか。そして、ひと昔ふた昔前には、名寄本線でも深名線でも似たような状況であったのだ。しかるに今、名寄本線沿線にも深名線沿線にも「彼ら」の姿は絶えてない。かつての尋常ならざる熱狂は、いったいどこに消えたというのか。

 鉄道に対する真の愛あるならば、沿線の風景などに対する愛もあるはずだ。たとえ鉄道がほろびようとも、再び沿線を訪れることがあってよいはずだ。それはいわゆる「廃線」趣味にとどまるものとは限らない。猛り狂う熱を帯びずとも、永続する静かな愛こそが、ほんものだ。「社会の公器」たる鉄道への愛着あるならば、それは静かにたゆたうものとなり、興味の対象は社会性を備えた展開を示すはずだ。そうでなければ、むしろおかしい。

 逆にいえば、廃止直前の熱狂に右往左往する者どもは「社会の公器」に対する視点など持っていない、と言い切ってさしつかえあるまい。ほんものの静かな愛あるならば廃止後も足を運んでみよ!と地平線に向かって絶叫したい心地がする。廃止直前の空虚な喧噪に踊り狂うだけの者どもには、鉄道への愛を語る資格はない。断じて。

 しかしながら、そのおかしさがデフォルトというあたりが、おかしさの底をくろぐろと深いものにしている。よしんば異端であろうとも、数のうえで多くを占めるならば、異端でなくなる。これは悪しきポピュリズムどころの幣ではないのだが、遺憾ながら人間社会の真理<ことわり>なのだ。少数にとどまるならば、正統すら異端に追いやられてしまう。なんと荒れ果て、寂寞たる景色なのか。憤怒と憎悪に駆られ、絶望と焦燥に苛まれる小心を、どうか嗤わないでほしい。





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