道なき野に轍穿ち〜〜北海道拓殖鉄道





【導入編】

 筆者は久々に蒙を啓かれた思いがする。まずはこの写真を御覧頂きたい。

新幌内
新幌内付近(奥が新得方面)


 場所は鹿追町内、北海道拓殖鉄道の線路跡に立っているはずである。目の前には新幌内停留所があったはずだが、その痕跡はもとより、線路跡の全てが農地として耕されており、鉄道時代の雰囲気はまったく残されていない。

 しかし、この美しい風景に出会っただけでも、敢えてここまでやって来た甲斐はあったと思った。実に素晴らしい眺めではないか。遠くには北海道の脊梁山脈を配し、空は秋風をたたえて澄み渡り、大地には人々の努力の結晶が緑に輝いている。右奥はトウモロコシの実りだろうか。なんとも北海道らしい景色であり、心が洗われるような思いがする。

 次のこの写真を御覧頂きたい。

新幌内−中鹿追間
新幌内−中鹿追間(奥が新得方面)


 先の写真から500〜600mほど鹿追側にて撮った写真である。この区間では、北海道拓殖鉄道の線路跡は道路として転用されている。この雰囲気がまた味わい深い。両側を木々に囲まれ、昼なお晦き場所が醸す静けさ。こんな坂を列車が往来していたかと思うと、ぞくぞくするものを感じる。

新幌内−中鹿追間
新幌内−中鹿追間(奥が鹿追方面)


 さらに鹿追方面に進んでいくと、線路跡は道路とは呼べなくなる。たまに刈り払いされ、作業用車が通る程度の小径になる。それでも、鉄道時代の曲率が生きている姿は美しい。なめらかで麗美な弧を描きながら、急坂を下っていく。

新幌内−中鹿追間
新幌内−中鹿追間(奥が鹿追方面)


 もっと進むと、刈り払いもされない、即ち人間が滅多に足を踏み入れない領域になってくる。草々の丈は腰に届くかどうかで、進もうと思えば進めるところだ。とはいえ、足許はぬかるんでおり、進めば進むだけ帰りの苦労が増えるわけで、ほかにも行っておきたい場所がある以上、あまり時間を食うのは得策ではない、という判断が働いた。

 ……現代的感覚にとらわれている筆者は、浅薄であった。開拓当時には、この程度の道でも充分立派な道なのであった。参考文献(01)は以下のように伝えている。



 明治時代に入植した増田作平は
「当時はもちろん道路などはなかった。それでも、柏の大木が繁る中を樹と樹の間を縫って、馬車の通れるほどの平地はあったものだ。それを選んで迂回しながら往復しているうちにいつの間にか、道路ができ交通量の多いところから、それなりの道路になり、徐々に道庁や村が新道開削をしてくれるようになった。それでも萩や蓬、雑草がのび放題で背丈を越えていた。従って道路とはいいがたい道路を、熊牛方面まで往復する苦労は想像を絶するものであった。(後略)」
と語っている。

……

 馬車か馬橇か、歩くしかなかった時代に、日用小間物、着物など欲しさに、上幌内から熊牛の千間坂を越え、十勝川の渡船で屈足を経て新得へと向った。赤ん坊を背負い「おしめ」を抱え、背丈を越える笹や雑草を踏みわけ、昼食用に「おにぎり」を持って、野を越え山を越えて新得にたどりつき、用件が済むと直ちに帰路についたという。また音更、帯広までも幼児を背負って往復す婦人も少なくなかった。現在の感覚からは想像も及ばない苦難の道であった。(引用者注:二箇所に出てくる記述を合成)



 風景の美しさに耽っているどころではなかった。草々の繁茂に日和っているどころではなかった。北海道の本質は、もっとずっと違うところにあったのだ!

 開拓時代の辛苦を思え。「道なき道」という慣用句は、ただの修辞でなかった。まさに字義どおり、道なき大地に道が刻まれていったのだ。なんという常識の差異なのか。現代であれば、道もない原野に入植させるという暴虐はありえない。道なり電気なり水道なり、最低限のインフラを構築してから入植者を迎えるのが、現代のまっとうなやり方であろう。そうではなく、まったく未開の地にいきなり人間を放りこむとは……。いくら時代背景が異なるとはいえ、慄然たる思いがする。

路線図
北海道拓殖鉄道路線図


 以上のような観点からも見渡してみれば、北海道拓殖鉄道にはさまざまな社会的意義が付帯してくることがわかってくる。筆者にその全貌を明らかにするほどの力があるか否かは措くとして、廃止後40年を経てもなお残されている痕跡の写真を散りばめつつ、北海道拓殖鉄道の歴史を辿ってみることにしよう。







【目次】





     
そのT〜〜前史及び河西鉄道

     そのU〜〜北海道拓殖鉄道の発起

     そのV〜〜タコ労働は「罪」のみ深い

     そのW〜〜熊牛トンネルの不可思議

     そのX〜〜北海道拓殖鉄道の計画の「真意」

     そのY〜〜北十勝線もまたならず



     補遺編〜〜北海道拓殖鉄道の価値と意義









【感想編】

 筆者は北海道拓殖鉄道に特段の思い入れはなかった。ただ、参考文献(09)で紹介されていた北海道拓殖鉄道と河西鉄道の交差部には魅かれるものを感じており、現地に行きたいという願望は持っていた。実際に現地に行ってみると、いろいろ発想が深まってきたものの、如何せん予備知識が少なかった。だから「見てある記」を書いて終わりかな、という予感が働いた。

 たまたまこの時期、北海道に関する記事を続けて書いていた。名寄本線・大夕張鉄道・留萌本線・江差往復・美唄鉄道・天塩炭礦鉄道と、読者諸賢がこれらをどう評価するかは措くとして、筆者自ら冴えを感じ、会心の記事を著せているという実感があった。ただし、書き上げるまでに一年以上の時間を要してしまった。その間、北海道拓殖鉄道での経験は、寝かせたままであった。

 ところで、所謂「廃」が趣味領域として認知を得てから既に十年以上になる。その間、だいぶ裾野が広がってきた一方、受け手(読者)の楽しみ方に変化が生じてきたと感じている。趣味にレベルの高低はないとしても、より軽く、即物的で、体験を重んじる方向に流れが傾いているように思える。

 その典型は「廃道趣味」である。当代の著名な廃道趣味者たちは明らかに「ライブ感」を売りにしている。汗かき苦労を重ねつつ、時には危険を冒しつつ、廃道を歩き、遺構を発見し、道路から自然へと還った障害を克服していく……。読んでいて面白いことは確かだし、心躍る読みものであることはまったく否定しない。しかし、筆者においては感動や共感が湧いてこない。イベントを消費するだけの記事を読むのは、切なくなるほど刹那的で、読後感があまりにも淡泊で薄っぺらだ。「早く次を読みたい」という焦燥はあっても、「もう一度読みなおしたい」というほど重みのある記事は少ない。また、主観が支配して、個人の楽しみが前面に出すぎているところも気になる。

 端的にいえば、彼らのやっていることは「釈迦掌上の孫悟空」なのである。例えばある峠越えの旧国道を踏破する試みは、今日において困難を極めることに疑いの余地はない。とはいえ、その旧国道ができる以前の昔、まったく道なき山中を歩き回り、測量して地図をつくった先人たちが現にいるのである。「ライブ感」を前面に出す廃道趣味は、先人のプロフェッショナルとしての力量と業績をよそに置き、それどころか市井の方々の足跡にも気づくことなく、いわば虚構を醸して、素人が廃道に挑む姿を演出しているにすぎない。

 電力会社で山奥の送電線をメンテナンスする方々や、測量会社で深山を測量する方々にとって、現下の廃道趣味は冷笑すべき対象に相違あるまい。「この程度の障害克服は我々の日常だ」とおかしさを感じてもいるだろう。だが、プロの方々の感想が表面に出てくることはまずない。プロはプロらしく、自らの則をわきまえ、日常の仕事に邁進するからであろう。





 筆者においても現下の廃道趣味に強い違和感及び抵抗感がある。「虚構」の上に乗った記事を読み、白々しさを覚えたことも一再ならずある。そういうモヤモヤした感情のなか、参考文献(18)に出会った衝撃は大きかった。廃道を取り扱うにはこの心掛けが大切だ、と膝を打つ思いだった。参考文献(18)はリンク先鬼峠様の「北海道観光大全」に載せられた記事であるが、内容が実に素晴らしい。



「道をつけたのではなく歩いたなりに踏み分けられたというような、越える時にはあまりの足場の悪さに馬から落ちたり、また馬ごと転がしてしまったりするような道だった」

「後に難所と言われる鬼峠さえまだなくて、“稲妻道”とよばれたすごく急で稲妻のようにジグザグの坂道を行く。足を踏みはずすとズーっと滑っていってしまうような坂道だった」



 鬼峠様が史料から採録した、地元在住の方々の鬼峠旧道に関する懐旧話にも凄味があるのに加え、鬼峠様自身が鬼峠旧道を歩いた時の記述は黄金の輝きを放っている。



「道なき道とはいっても、昔の人はここを歩くしかないと思ったからここに鬼峠が存在したわけで、昔の人と心を一つにすれば自ずと道は定まるはずである」

「当時の測量技師は確かにこの鬼峠を歩き、自分の目だけを頼りに等高線を描いたのだ。それはむしろ神業に近い偉業である。原生林の中で測量技師はあのピークをここにあると判断したのではないか……現在の地図と位置は異なるが、我々には彼の気持ちが理解できるような気がした」

「ニニウの盆地を一望にし、まわりはどこまでも山が続いている。わらじ履きの花嫁姿で鬼峠を越えた娘たちもきっとこの辺りでニニウを眼下にしたはずだ。ここで一生暮らすのだと知ったときどんな気持ちを抱いただろう」



 これらの記述から伝わるのは、確かな共感であり、歴史への畏怖であり、先人への尊敬である。道としての姿を失った鬼峠旧道を追い求めながら、鬼峠様は自らの感情を抑えて、客観的な書き方に徹している。刹那的で軽薄なライブ感など及びもつかない重厚さがこの記事にはある。そして、場所こそ違えど、開拓初期の北海道における交通事情の悪さが、涙を催す切実さをもって伝わってくるではないか。鬼峠様はまったく良い記事を書かれた。おそらくは鬼峠様自身の意図をも超え、趣味の領域を遥かに凌駕し、「歴史を追う」とは本来こうでなくてはならぬという手本となった。

 あとは連鎖反応である。『十勝の記憶 デジタルアーカイブ』に辿り着いたおかげで、「見てある記」どころではない記事に育ってしまった。奇縁というよりほかないが、この「志学館」に核となる記事を一つ加えられたよろこびは大きい。そして、読者諸賢が筆者のよろこびを共有できるならば、まったくもって幸甚である。









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参考文献

  HP『十勝の記憶 デジタルアーカイブ』(十勝支庁)より
(01)「鹿追町史 観光・交通」
(02)「清水町史 交通・観光」
(03)「新得町史 交通・観光」
(04)「上士幌町史 観光・交通」
(05)「足寄町史 交通・観光」
(06)「帯広市史 農業」
(07)「帯広市史 交通・観光」
(08)「陸別町史 交通・観光」

  HP『The Ruins of Rail 廃線跡を旅する』(吉田恭一)より
(09)「北海道拓殖鉄道」

(10)「私鉄史ハンドブック」(和久田康雄)

(11)「日本鉄道旅行地図帳1号・北海道」(今尾恵介監修)

(12)「北海道の鉄道」(田中和夫)

(13)「北海道拓殖鉄道」(鹿追町長)※鹿追駅跡に保存されている8622に付属する看板

  『混合列車 No.18』(北大鉄道研究会)より
(14)「北海道の鉄道トンネル」(藤原正浩・今崎充智・今尚之)

  『鉄道未成線を歩く<国鉄編>』(森口誠之)より
(15)「未着工で終わった国鉄未成線21線」

  HP『十勝の廃線路跡散策/北海道拓殖鉄道』(堀田家)より
(16)「2001年12月 8日 熊牛トンネル」
(17)「2004年 3月26日 熊牛トンネル」

  HP『北海道観光大全』(鬼峠)より
(18)「鬼峠ミーティング開催報告」



執筆備忘録

訪問:平成19(2007)年秋

執筆:平成20(2008)年夏〜平成21(2009)年春