団塊世代の定年退職後のライフスタイルを考える
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団塊世代の迷える子羊からのご挨拶
やっとの思いで出来上がったホームページです。
なぜか気恥ずかしい思いと、ちょっぴり晴れがましい気分になっています。
入社して初めてもらった社員証。研修後、所属が決まって手にした真新しい名刺。
ちょうどあの頃のようです。
“G”とは、ジェネラルの“G”つまり将軍のつもりが、気がついたらジジイの“G”になっていました。
5年前に患った一過性脳溢血や、2年前に受けた心臓手術のせいかは分かりませんが、まわりも本人もジジイの“G”で定着してしまっている今日この頃です。
私としては、学生時代に比べ気力も意識も、外見(?)さえも何一つ変わっていないつもりで、GパンにTシャツ姿で南の島暮らしを営んでいます。
ホームページ作成は、若者のようにはいきませんが、60歳を間近に控えての手習いとご笑覧頂ければ幸いです。
ご挨拶 2
HP開設から10日が過ぎました。
沢山の方にご覧いただき、驚くと共に深く感謝しております。
開設直後は口から心臓が飛び出してくるのではと思うほど、ドキドキしていました。
あの時ほどではありませんが、いまだに.ハラハラものです。
カウンターの数が気になりだし、その上、ゲストブックへの書き込みはどうだろうなどと、僅か10日で生意気にも人並みな事を言い出している自分に少々呆れています.。
南の島に住みながら、十分な情報も提供できずに、気ままに書き綴っていますが、ヨチヨチ歩きのおじさんの事と大目にみて下さい。
時間の許す限り更新していますので、是非お立ちより下さい。
心からお待ち申し上げております。
ご挨拶 3
物価の安いフィリピンに緊急避難し、ロビンソン・クルーソー暮らしを始めて1年と1ヶ月になりました。
以来、よちよち歩きで始めたパソコン学習。
文章を書くだけとは違い、覚えなければいけない事が山ほどあるうえ、やれパソコンが固まってしまった、画面が突然勝手にスクロールして大暴走を始めたなど苦労が耐えません。
パソコンがすでに古くてメモリー不足に苦しみ、パット操作でのカーソルの移動に遊ばれ、挙句の果ては、テレビに見とれてうっかりセーブするのを忘れて閉じてしまい、朝からこつこつと書き綴ってきた文章を消してしまう始末。
パソコンに向かって八つ当たりし、“馬鹿たれがー!”と罵ってみたところでどうにもならず、しまいには“お願いしますよ、パソコン様!”と哀願しながら、未だになかなか思うように作業がはかどらない日々を送っております。
紆余曲折の末、やっと自分のホームページを持つことが出来て20日目。
病気をするまでは毎日忙しない生活でしたので、今こうしてパソコンの前に座り、文章を書いていることに不思議な感覚を覚えます。
ボケ防止になるどころか、容量オーバーで少々加熱気味。
冷蔵庫で頭を冷やし冷やし、クールダウンしながら継続していきたいと考えておりますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。
ご挨拶 4
HP開設から1ヶ月が過ぎました。
多くの方々にご覧頂き、大変感謝しております。
時間の歩みがこの1ヶ月間というもの、いつもの2〜3倍も長く感じてしまいました。
考えてみると、これまでの私の人生を通して、このように自分自身を曝け出したことはありませんでした。
長い間、何を考えているかをだれにも悟られないように、注意深く恐る恐る生きてきました。
人間、開き直ると何でも出来るのかもしれません。
無難に生きる事だけを考えていた時に比べ、何か憑き物が落ちたような、開放されたような不思議な感じです。
若い時に、今ほど素直に自分の気持ちを表す事が出来ていたら……。
今頃になってHPでぐちゃぐちゃ訳の分らない事を書くぐらいなら、若い時にもっと恋文でも書いておけばよかったと思います。
“あの時こうしていたら、こんな人生になっていたかもしれない”と、いろんなバージョンを想像してみるだけでもワクワクしてしまいます。
いろんな自分の人生を想像してみることも楽しいものです。
先日、私のHPを少しでも多くの方にご覧頂きたいと、うっかり同じ病の方々が集う掲示板にお邪魔した時、78歳の大長老から“経済的な話はするな! 泣き言を言うな!”とお叱りを受けてしまいました。
しかし残念ながら私は、武士は食わねど高楊枝というような高邁な精神も美学も持ち合わせておらず、今後も在りのままを素直に曝け出して行きたいと考えております。
どう飾り立てても、ない物はない訳ですので、見苦しさを曝すのもまた人生と笑覧頂ければ幸いです。
今後もよろしくお願いいたします。(2005.7.3)
ご挨拶 5
自分のHPを開設して以来、まだ僅かな時間しか経過していません。
しかし、望めば簡単に自己表現媒体を所有出来るという時代に生きていることに、驚くと同時に感謝して止みません。
かつて、個人が自由に表現手段を持てたことなど、長い歴史を通してあり得ませんでした。
子供の頃の学級新聞でさえ自己表現とは程遠いものでしたし、大学紛争当時の立看板は、政治思想宣伝の手段であり、ヒステリックな叫びでしかなかったように思います。
つい最近まで、私は個人が社会に対して言葉を持つことなど許されるはずもないと思っておりました。
未だに、現在のように一人気ままに好き勝手なことを口走り、思いつくままに語れる環境に生きている自分自身が信じられません。
私にとって自分のHPは、人生のカウントダウンに入って知り得た素晴らしい世界なのです。
無告の民の一人として生きて来た者には、今まで見えていた世界が、突然、黄金色に光り輝き出したようなものなのです。
いくら言葉を尽くしても足りません。
こんな思いで、自分の表現媒体を大切に育んでいきたいと思っております。
小人閑居して不善をなすとか申しますが、心して精進して参りたいと思っておりますので、これからもよろしくお願いいたします。(2005.7.14)
ご挨拶 6
HP開設以来50日が過ぎました。
フィリピンというよりは、海外移住あるいはロング・スティをお考えの方に、ロビンソン・クルーソー的生活(安価な)を在りのままご紹介することで、何らかのお役に立てればと思い立ち始めてみましたが、お役に立つような有用な情報をお知らせすることもなく、気ままにその時々の出来事を書いているだけのHPになってしまったようです。
情報を期待して頂いた皆様には、大変失礼をしてしまいました。お許しください。
しかし、気ままな暮し向きを包み隠さずお伝えすることも、皆様が海外生活をお考えになる時、何らかのお役に立つのではなどと、いまなお詭弁を弄しております。
海外生活をお考えの誰もが経済的に恵まれた環境にある訳ではないと思うのですが、いかがでしょう?
私自身、十全な計画や資金があって海外生活を考えた訳ではありません。
必要に迫られての選択でしたが、一年が過ぎてみると結果的に正しい選択だったようです。
経済的な面だけではなく、精神的にも、健康面においてもよかったと思っております。
今私は、いい時にも悪い時にも、生き様そのものもひとつの情報になりえるのではと考えています。
私のHPは、かつて情報にもなりえなかった無告の民の呟きであり、叫びであり、大いなる企みでもあるのです。
どうぞお暇な時には、お立ち寄りください。今後ともよろしくお願いいたします。(2005.7.23)ご挨拶 7
いつまで継続するものか自分でも皆目見当もつきませんでした。
“更新など頻繁に出来るのだろうか?反論や攻撃的書き込みがあったらどうしよう。いやそれより、だれも見てくれなかったらどうしよう。書き込みなどしてもらえるのだろうか?”などと不安いっぱいの船出でした。
羅針盤も海図もないまま、ただ一人荒れ狂う大海へ小さな笹舟で漕ぎ出したようなものでした。
唯一の救いは、波頭の間に間に見え隠れする灯火だけという頼りないものでした。
HP開設数日後、初めての書き込みを頂き、嬉しさと安堵感、そして温かい励ましの言葉に感激しました。
あの時から2ヶ月。何とかここまで来ることが出来ました。
これも皆様のお陰と折心より感謝しております。ありがとうございます。
最近、少しだけですが考える余裕が出てきたように思います。
今つくづく、肩の力を抜くことの難しさを痛感しております。
肩の力を抜いて自然体になることが肝要などと簡単に言われていますが、私の場合はというと、肩や首に精一杯力を入れることの容易さに比べ、力を抜くことの困難さに直面しております。
一日も早く、自然体でHP運営に取り組んでいけるようになりたいと願いつつも、力を抜くために息を吸ったり吐いたり、頭を振ってみたり、首を回したり、肩を上下させているようではまだまだ先のことのようです。(2005.8.2)
ご挨拶 8
約1ヶ月間も夏休みを取ってしまいました。
エンジン不調による緊急ピットインを一度でも経験してしまうと、ちょっとしたエンジン音の変化にも敏感になってしまい、不必要にピットインしたくなってしまうものです。
今回もまた、無事に人生の耐久レースを再開することが出来ました。
さて、これからサーキットを何周することが出来るやら……。
とにかく次回のピットインまでは、レースを続行出来そうです。
足の速い若者レーサーに惑わされて、ペースを乱すことがないように注意し、マイペースで周回を重ねていきたいものです。
とは言うものの、未だに自覚が足りないのか、車体も車齢もビンテージと言う現実を忘れ、追い上げて来る後続車に逆上して、ついアクセルを踏み込んでしまう性格に我ながら呆れてしまいます。
心配顔で見つめるピット・クルーのためにも、事故でレースを放棄しないように、笑われても、野次られても、ただひたすら完走することだけを目指して頑張っていきたいものです。
“ホームページの更新で生存を確認しているから!”という日本の若い友人の言葉に答えるためにも、可能な限り継続していきたいと思っております。(2005.8.30)ご挨拶 9
進化から深化へ、そして真価へ。
21世紀を生きる人間に求められていることらしいのですが、進化出来なかった人間は、これからも20世紀を背負って生きていくことになるのでしょうか?
世界は、17世紀の産業革命以来つい最近まで、発展することこそ進化と認識し、素晴らしいことだと信じてきた筈なのに。
20世紀から21世紀へ移行するどさくさに紛れて、コピーライターが捻り出したような語呂合わせのキャッチ・コピーに哲学的な香り付けをし、世を上げての馬鹿騒ぎ。
いつの時代にも、どこででも繰り返されてきた人類史上の狂気は、詭弁に優る詭弁を弄した世界観を、今また生み出してしまったようです。
進化の美学は、厚化粧の上に更なる厚化粧を強要し、進化のスピードは速くからスローに変化し、ご丁寧にも速度を落とすのは深化するためという言い訳までをも生み出しました。
果たしていつまで有効な、価値あるお題目でいられるのか疑わしいものです。
先日の米国南部を襲ったハリケーンに対するコメントとして、アメリカ合衆国大統領は全国民に向かって、
“我々は、テロとの戦いばかりでなく、自然災害とも同時に戦わなければなりません”
と演説していましたが、これこそ、その場凌ぎの厚化粧のような気がしてなりません。
ふと見たニュースが引き金となり、つい柄にもなく過激なことを口にしてしまいました。
“真夏の夜の夢”ならぬ“残暑の宵の悪あがき”とお聞き流し下さい。(2005.9.10)ご挨拶 10
19日は敬老の日。日曜日は中秋節。
横浜中華街では、巨大な月餅がプレゼントされたそうです。
木の実や塩卵を入れた月餅、黒々とした胡麻餡月餅、干した果物が一杯入った月餅など沢山の種類がありますが、これを名月に捧げた後、家族全員で食べます。
月に捧げる餅ということから、月餅と呼ばれるようになったそうです。
日本の月見団子と一緒です。
これが済むと、10月1日は中国の国慶節、10日は台湾の双十節の準備で忙しくなるのが、世界中の中華街の習慣です。
そしてこの時期から、上海蟹のシーズンの始まりです。
冬に向かって、どの店も蟹づくし。
山東や四川、台湾や海南など、どの料理屋でも上海蟹を楽しむことが出来ます。
私が子供の頃には、ごくかぎられた上海出身者の店でしか食べられなかったのですが、便利になったものです。
蟹が街に溢れると、すぐに新年。何かと忙しくなります。
最近、私は、あまりに早く時が過ぎて行くことに戸惑いを覚えています。
数年前までは気にもしなかったのですが、今では時間の進む速度が遅くなればと祈りたい気持ちになっています。
そんな歳になってしまったのかと、改めて驚いているこの頃です。(2005.9.21)ご挨拶 11
10月3日で、HP開設以来100日目を迎えることになります。
ハラハラドキドキで迎えた開設初日から、気が付けばもう100日。
あまりの時間の早さに驚いています。
他の方々のHPや掲示板を覗いて見ても、いまだに専門用語からしてチンプンカンプン。
文章を書いても何を言いたかったのか自分でも分からなくなって、1時間掛けて書いた原稿を全文削除。
“本来もっと作文はうまかったはず……”と、首を捻りながら再度書き直し。
こんな状態で、よくここまで続けることが出来たものだと我ながら感心しております。
健康上の理由で行動に制約があり、現地情報らしきものも思うように提供出来ないことを残念に思っています。
リタイヤしての海外暮らしと言ったところで、その生活が日常となってしまえばそう変化がある訳でもなく、実際は極平凡なものです。
しかし、日本にいた時に絶えず感じていた焦燥感も、気負いも、羞恥心もどこかに霧散してしまい、肩の力を抜いて自然体で暮らせることに満足しています。
こんな暮らし振りを、少しでもお伝え出来ればと考えております。
今後ものんびりと、マイペースで頑張って参りますのでよろしくお願いいたします。(2005.9.30)ご挨拶 12
ほんの少しずつですが、私のロビンソン・クルーソー的生活術がご理解を頂けるようになり、心強く思っております。
HP開設当初は、だれ一人理解者がいなくても在りのままの生活を伝えていければいいと思っておりました。
しかし、一切の虚飾を排除するだけでは、上辺だけのものになってしまうことに気付きました。
本当に気取らず、言い訳せず、その時々を在りのままにお伝えするためには、心の中からも虚栄や虚飾を拭い去らなければなりません。
普通以上に普通な私にとって、それは何よりも難しく、高いハードルのように思われました。
しかし、南の島暮らしのお陰か、自然に今の自分自身をお話出来るようになってきているような気がしております。
こんなに簡単なものではないのでしょうが、今日は喜び、明日は戒め、怒り、恐れ、失望、挫折の繰り返しが人生。
ここで終わりと思うまでは、恥も外聞もなく、無様に生き続けてみようと思います。
お暇な時には、お訪ね下さい。(2005.10.10)ご挨拶 13
第2の人生とは、よく聞く言葉です。
いや私自身でも使っていた言葉です。
それ程深い意味があった訳ではなく、何かと便利なような気がして使っていたのですが、最近、第1の人生は何だったんだと聞かれ、無意識に仕事をしていた時だと答え、何か変な気分になりました。
第1とは、時間的に前という意味で使っていたり、順位を意味していたり、その場その場で適当に使い分けていました。
つまり、時間的に前となる現職の頃を第1とし、退職後をセカンドライフや余生といった意味で第2の人生と考えていたようです。
また何の疑問もなく、主なる人生に対する副次的人生という意味で、人に言われるのではなく無抵抗に、自分自身で第2の人生という言葉を使っていたですから、やはり何か変です。
あらためて考えてみると、私にとって今こそが第1の人生、つまり主なる人生ではないかと思えてなりません。
この考え方は、可笑しいのでしょうか?
退職後や引退後、老後などが第2の人生として表現されていますが、それは経済活動優位の考え方を前提にした言葉ではないのでしょうか?
言葉などどうでもいいことかもしれません。
しかし私の場合、自分を無批判に言葉に合わせてしまうといった傾向が強いので、今後少し、自分なりの言葉を考えてみようかと思っております。(2005.10.20)ご挨拶 14
もうすぐ11月。あと1ヶ月で今年も終わりです。
4ヶ月前HPを開設した時は、今年の末まで続けられるだろうかなどと不安でたまりませんでしたが、何とか持ち堪えられたようです。
海外での一人暮らしでは、時間だけは十分にあります。
今までの人生では考えられないような、勝手気ままな生活を送ることが出来ました。
柄にもなく創作メモなどと気取って雑文を考えたり、一人空想に浸ったりの毎日。
ロビンソン・クルーソー的英語習得術などと構えて見たのですが、気が付いたら、現地の生活に慣れれば慣れるほど、話す言葉は日増しに減少してしまいました。
英語が話せないとなどと考えていたのも馬鹿馬鹿しいほど、日常的に使用する英語は限られたものです。
相手の都合も無視して、“現地の人たちと交流しなければ”などと考えていたのですが、生活が落ち着いてみると、人付き合いは日本と同じく限られた人になっていました。
こうした事情から、長い間ロビンソン・クルーソー的英語習得術をお休みしてしまいましたが、これからは必要最小限の使用頻度の高い言葉について皆さんにお伝えしていこうと考えております。(2005.10.30)ご挨拶 15
なんの断りもなく、1ヶ月近くもHPをお休みしてしまいました。
お詫び申し上げます。
緊急ではなかったのですが、今年4回目のピットイン?をしてしまいました。
主にエンジン系のチェツクをしたのですが、ポンプに異常はなく、パイプも詰ってはいませんでした。
一度、壊れたエンジンですので、動きが悪くても仕方のないことです。
最早、順位を争うことは望めません。
しかし、慎重に扱えばまだエンジンは持ちこたえそうなので、無理せずのんびりとコースの風景でも楽しみながら、完走目指して頑張って行こうと考えています。
どうか気長にお付き合いください。
今後も時々、断りもなくピットインすることがあるかもしれませんが、出来る限りレースを継続して行く所存でおりますので、どうぞよろしくお願い致します。(2005.12.3)ご挨拶 16
今年もあと20日。冬を越せないと医師から伝えられたのが2年前。
どうにか3年目の新年を迎えられそうです。
今頃になって初めて自分自身の人生にリアリティを感じているのですから、我ながら呆れてしまいます。
社会や対人関係といった箍から開放されてみると、確立されていたはずの自我は霧散し、鏡に写る老いた男の顔だけしか“私”を認識する術はありません。
そう思った瞬間、果たして鏡に写し出された顔の主が自分なのかも定かではなくなってしまいます。
柄にもなく少々意味ありげなことを考えてみようとしたのですが、ここから先には進みません。
進まないことを言い訳にベッドに横たわってみたものの寝付くことも出来ず、天井の染みを見つめては、あれこれと思いを巡らしております。
年末を間近に、クリスマスに忘年会、大掃除と、何かと忙しなく過ごしている皆様を羨ましく感じております。
“皆様、楽しいクリスマスをお過ごしください!”
と言いたいところですが、アメリカではイスラム教に配慮してクリスマス・ツリーをホリデー・ツリーに、クリスマス・シーズンをホリデー・シーズンに変更する法案が議会に提出されたとか。
“年末”が世界の“終末”に変わることのないよう祈りたくなってしまいます。
南の島の美しい風景も慣れ親しんでしまうと、テレビで見る雪景色が恋しくもなってしまいます。(2005.12.11)
ご挨拶 17
南の島暮らしを始めて2度目の正月を迎えることになり、日本から持参した“地球の歩き方”という旅行ガイドブックを改めて読み返してみました。
毎朝1時間の海岸散歩から部屋に戻り、昼食の準備に取り掛かる時間まで、誰もいないプールで過ごすことにしているので、何か読むものをたえず持って行くことにしています。
しかしすでに読む本もなくなり、このところ同じ本を幾度となく眺め回していました。
そんな時、書架の中にポツンと放置されていたガイドブックが目に留まり、特別興味もなかったのですがプールまで持参したのです。
ぺらぺらとめくっているうちに、関心もなかった本のはずが釘付けになっていました。
1年前は読んでも意味が分からず面白くもなかったものが、今では読んでいて分かるではないですか。
内容を理解出来ることに驚いてしまいました。
欄外に追記してある注意事項や街中でのちょっとした話題に“そうそう、そうなんだよ”などと一人納得しております。
プールサイドでブツブツ言いながら頷いている姿は、不気味なものだったかもしれません。
しかし、傍目が気にならないほどの衝撃を受けていたのですから、仕方のないことです。
フィリピンに来る前や来た当初には何のことかチンプンカンプンだった内容が、目で読む速度で理解出来るのですから気分は最高!
何故、今までガイドブックを手に取ろうともしなかったのか不思議でたまりませんでした。
1年前に理解出来ていたら、無駄な時間も経験もしなくて済んだのにと思う反面、無駄な時間を過ごしたからこそ、こうやって理解出来るようになったのかもしれません。
それで気付いたのですが、ガイドブックに書いてある内容が余りに詳し過ぎるということです。
現地事情に精通した人々の手で書かれているために、親切さがかえって初心者には難解で、分かりにくい内容になってしまっているのかもしれません。
事情通の方々にも、私のような初心者でヨチヨチ歩きの時もあったはずです。
その時のレベルまでタイムスリップして案内書を書いて頂けると本当に有り難いのですが、読者の皆様から私のような希望や要望はないのでしょうか。
少々不経済であっても、初旅行時でも理解出来る、個人旅行初心者専用のガイドブックがあればいいなぁと思ってしまいました。
分かる内容であって欲しいと思うのは、すぐに理解出来ない私のような人間の単なる我がままになってしまうのかもしれませんが……。(2005.12.20)ご挨拶 18
もうすぐカウントダウンです。
横浜の山下公園では、係留されている氷川丸の甲板に設けられた2005の表示が2006に変わった瞬間、港内に停泊している大小の船舶が一斉に霧笛を鳴らし、新年を祝うのが毎年恒例の行事になっています。
南の島では実感が沸きませんが、一人で夜空に輝くイシスとオリシスを眺めながら、新年を迎えるのもなかなかいいものです。
今年は何とか、予算の月4万円以内で暮すという目標を達成することが出来ました。
しかし、生き延びるだけの座して死を待つような暮らしには変わりありません。
“もう病人は止めにした”のですから、来年は経済活動に精を出してみようと考えています。
生き延びれる時間を、少しでも長引かせるためにも必要なことなのです。
はてさて何が出来るのかは分かりませんが、今まで通り出たとこ勝負で頑張ってみようと思います。
半年間ですが、皆様には大変お世話になりました。
来年もどうかよろしくお願い致します。
末筆になりましたが、よいお年をお迎えください。(2005.12.31)
ご挨拶 19
新年のご挨拶はさておき、このHPが半年間生き延びることが出来たのは、多くの皆様のお陰と深く感謝しております。
さて、私のHPのタイトルとその内容には、いつの間にか大きな差が生じてしまいました。
私のような経済難民は、経済的に行動が制約されてしまうため、ガイドブック的情報を提供することがなかなか出来ないのです。
しかし捉え方によっては、私自身の生活を有りのままに書き記すことも、情報のひとつになるのではないかと考えました。
その結果、現在のようなスタイルとなった次第です。
退職後の海外生活と一口に申しましても、様々なライフスタイルがあることと存じますが、私の日々の生き様をお伝えすることで、これもひとつの現実として参考にして頂ければと思っております。
私にとって最も重要なことは、旅行者から定住者としての日常生活を、いかに速く築き上げることが出来るかということです。
日本国内の都市や田舎、NYやパリ、ロンドンと住む場所が変われば、非日常の生活からのスタートとなりますが、慣れるに従いそれは日常となっていくものです。
非日常への憧れだけでは長続きしません。
定住者になるということは、どこで暮らしても自分らしい日常生活を送るということではないかと思います。
自分のライフスタイルが確立していれば、どこに住もうとも自分自身の生活を管理することが出来るのです。
裏を返せば、完全な日常生活を築き上げる能力があれば、どこにでも順応することが可能ですし、どこで暮らそうとも変わりない日常生活になっていくものだということです。
文化的で歴史的な街に住んだからといって、自分が文化的で高尚な人間になった訳ではありません。
自らのアイデンティティーを見失わないためにも、海外暮らしをお考えの皆様におかれましては、まず計画立案の前に、ご自身の日常や非日常を明確にしておくことをお勧め致します。
海外で生活するからといっても、極めて単純で退屈な日常生活を送ることに変わりはなく、その中で楽しみや幸せを生み出すのは自分自身の管理能力次第ではないかと思います。
新年早々、夢のない話になってしまいましたことをお許しください。
知ったかぶりの世迷言、書初めならね恥のかきぞめとご容赦頂ければ幸いです。(2006.1.10)
ご挨拶 20
日本は大変な寒波に見舞われ、豪雪による被害が連日BSのニュースで報じられていたかと思えば、急に平年並みの気温に戻り、また週末にかけて寒くなり東京でも雪が積もるとか。
南の島で雪の話はぴんと来ませんが、ここフィリピンでもこのところ気温が低くエアコンをオフにして寝る日が続いています。
日本の寒波のせいでフィリピンも涼しくなっているのだなどという冗談がでるほどです。
たしか1998年に東京でも大雪が降ったと記憶していますが、早いものでもうあれから8年になります。
“何かしなければ、何かを始めなければ”と思いながら生きてきたのですが、気がつくとこの長い年月の間もただそう思うだけで、特に何か行動する訳でもなく過ごしてしまいました。
無意味な焦燥感のみが、日々肥大化してきています。
状況の変化を望みながら、極めて受動的な生き方しか出来ない自分自身に嫌気がさしてしまいます。
“情に掉させば流され、とかくこの世は住みにくい”と言った人がいましたが、逆らうどころか流されることにも怯えているような私では、環境を変えてみたところで何も始まりません。
その時が来るまで、“まだですかねー? いつもならもう来てもいい筈なのに。いや遅れているだけですよ”などと、役者にでもなった気分で時空間を漂いながら“来ないもの”を待ち望むしか出来ないのかもしれません。
こうした私の思いなどをよそに、また新たな一幕芝居の幕が上がってしまったようです。(2006.1.20)
ご挨拶 21
つい先日お正月と思ったら、もう月末。
中国の旧正月になってしまいました。
中国国内で昨年まで禁止だった爆竹も、今年は解禁されました。
“やはりこれがないとお正月じゃない”という、老人たちの嬉しそうな笑顔がテレビのニュースで報じられていました。
マニラのチャイナタウンは、パッシグ川の北にあるキアポにありますが、横浜の中華街のように区分が明確ではありません。
16世紀にスペイン人によって建てられたキアポ教会を中心にして、チャイナタウンが広がっている地区です。
東京の御徒町、台北の龍時山寺と西門町がミックスされたような、活気のある下町にあるそうです。
獅子を先頭に長いドラゴンダンスの行列が続くパレードは、サンフランシスコやNY、マレーシアにフィリピン等、世界各地で見ることが出来るお馴染みのものとか。
キアポのチャイナタウンは、香港やマカオのように金相場の表示物を店頭に出している貴金属店が多く、バンコクのチャワラやシンガポール等と似ていると聞きます。
世界各地に住む日本人の社会では、在外公館や商社マンを中心とする階層が上位となるヒエラルキーが、暗黙の内に形成されているそうです。
各階級の中にも多くのコミュニティーが存在し、それぞれにヒエラルキーが形成されているといいます。
その結果、全体としての纏まりがないとか。
纏まった方がいいのか、日本人社会のようにバラバラがいいのか、あるいはそれ以外の方法を模索するのがいいのかよく分かりません。
気が付けば旅行者から定住者に偶然なっていたような主体性のない人間には、考えさせられる問題です。
昔から日本人は、他郷で生き抜くことには不慣れな国民なのかもしれません。
不慣れな人間が他郷で生き延びるためには、“郷に入れば郷に従う”という選択肢以外はありません。
しかし最近、一部の国や地域では、かつてのアグリー・アメリカンならぬアグリー・ジャパニーズが存在してきているとか。
善意の援助が、無意識のうちに精神的、経済的に侵略していたというケースが増加しているそうです。
独り善がりの善意には、十分な注意が必要なようです。(2006.1.30)
ご挨拶 22
明日は建国記念の日ですが、不勉強な私には、祝日ということ以外特筆すべきことはありません。
日本人として恥ずかしくないのかとお叱りを受けるかもしれません。
しかし、落ちこぼれの海外逃亡者と、大目に見て頂ければ嬉しく思います。
最近、物忘れすることが多くなってきたようです。
先日も、版画家の棟方志功を思い出すのに、朝から夕方までかかってしまいました。
記憶の島現象というのでしょうか。
あることについては驚くほどよく記憶しているのですが、大切なことから順番に忘却しているようです。
今朝から国歌を思い出そうとしていましたが、夕食を済ませた今も思い出せません。
残念ながら、既に消失してしまったようです。
何年か前の建国記念の日には確か憶えていたような気もするのですが、どうもはっきりしません。
こんな状態で参考資料や書籍類もないまま、記憶だけを頼りにHPを作成することなど無謀そのものなのかもしれません。
もはや漢字を書くことも出来なくなってしまい、漢字とは書くものではなく図形認識しながら選ぶものに変わってしまいました。
変換ミスで間違った記述や誤字脱字が多々あるとは思いますが、建国記念の日という慶事に免じてお許し下さい。
国歌を忘れた言い訳になっていたでしょうか?
私が生まれる前の時代だったら、不敬罪か敵性外国人のスパイだといわれても仕方がないことだったでしょう。(2006.2.10)
ご挨拶23
私の住む街は、アメリカの退役軍人ばかりでなく、ヨーロッパ出身の元船員が数多く住んでいます。
ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、英連邦諸国の国旗が、各家々に誇らしげに飾られていたのですが、最近ちょっとした変化が起きています。
いくつかの国の旗が見えなくなったのです。
近くにイスラムのコミュニティがあるので、無用な摩擦を回避しようという配慮から姿を隠したとか。
パンツや寝巻きなど、思いつくものなら何にでも利用されている星条旗も、世界各地で焼かれたり引き千切られたりと大変な目にあっています。
独善と強権に対する反発から、世界各国の嫌われ者の代名詞のような存在だった星条旗ですが、イスラム教徒による一連の抗議活動の前に、その影も薄まってしまったようです。
しかしフィリピンでは、デンマークの旗の前で一瞬影を薄めていた星条旗が、再び憎しみの象徴として早くも復活してきているようです。
米兵の引き起こした事件が引き金となって、米比間で結ばれた不平等協定に対する反発からだそうです。
米兵の絡む事件が起きる度に、日本国内でも同様の問題で反基地運動が引き起こされています。
かつて日本国内でも沖縄の反基地運動や、60年、70年の安保闘争、そしてベトナム戦争反対運動の時に、盛んに星条旗が焼かれたことを記憶しています。
しかしその後、あまり目にしなくなってきました。運動が成熟したためか運動自体が形骸化したためなのかは分かりません。
フィリピンでデンマークや星条旗が焼かれるという事件は、私も含め日本人にとっては、何となく他人事のように見えていることでしょう。
しかし、日本の国旗が中国や韓国で反日運動の象徴として焼かれ、引き千切られているようなことが、フィリピンでも起こらないとは限りません。
怒りを直接その国の人間に向けるのではなく、象徴である国旗に向けるだけで済むならば、それもひとつの平和的抗議活動になるのかもしれませんが……。(2006.2.20)
ご挨拶24
3月3日は桃の節句、雛祭りです。
お雛様を飾り、来客には白酒やあられが振舞われたとか。
甘酒を白酒というのか、白酒なるお酒があるのか、子供の頃からこの歳になった今でも気になっています。
子供や孫がいれば、この疑問はすでに解決済みだったはずです。
ここフィリピンで暮らして、今までに椰子ワインなる蒸留酒(焼酎?)は幾度か口にしたことがあるのですが、残念ながら本物の椰子酒を飲んだのは一度だけです。
だれに聞いても“椰子酒ならどこにでもある”とあしらわれてしまいます。
田舎に住んでいてこんな状態です。
かえってマニラのような都会の方が、手に入りやすいのかもしれません。
どうも椰子酒と白酒は、私にとって幻の飲み物のようです。
日本で友人に聞かれて、“椰子酒は美味しいし、安い!”などと言っているいい加減さをちょっぴり反省しています。
世の中には、多くの幻の食べ物や飲み物があります。
手に入らないから幻なのでしょうが、だからこそ食べたくなったり、飲みたくなったりしてしまいます。
少なくとも椰子酒は、手の届くところにありながら幻となってしまう酒です。
美味しい椰子酒が手軽に手に入るようになったら、是非皆様にお知らせしたいものです。(2006.2.28)
ご挨拶25
フィリピンに吹き荒れかけた嵐も、気が付いたら収まっていたようです。
得意満面の笑みをたたえ、少々ドスのきいた声での勝利宣言ともとれるテレビでの発言。
“ペソ高に株価の高騰が私の政権の維持を歓迎している証拠だ”
という小柄の大統領。
普段はNHK国際放送しか見ていないのですが、非常事態宣言の発令以来、意味も分からないままローカルの報道番組を眺めておりました。
政治向きのことは分かりませんが、フィリピンのニュースキャスターの女性は声が低く、男性は声が高いというのが気になってしまいました。
どのチャネルのニュースを見ても、この傾向が強いのではないでしょうか。
男性は低音で女性は高音というのは偏見かもしれませんが、タガログを理解しない私には、ことさら奇異に感じられてしまったのです。
非常事態宣言の発令に関するニュースそのものよりも、このことばかりが気になって仕方なかったのですから呆れてしまいます。
イザヤ・ベンダサンが言った“水と安全をタダだと思っているのが日本人”という指摘が、このような私のことを指しているのだろうと、この歳になって初めて気がつきました。
世の中の情勢に対しても、他人事とは思わずに自分に関わる問題として、もう少し注意深くならなければいけないと痛感しております。(2006.3.10)
ご挨拶26
年中行事化した為政者のための為政者による政変劇は、今回もまたインフレ報奨金が功を奏して無事(?)一件落着となったようです。
東南アジアの特性は混沌とした多様性にあるとは、1970年代ベトナム戦争終結直後によく聞かれたアメリカの歴史学者の言葉です。
その言葉通りこの国の混沌とした社会情勢は、歴史に深く根ざした固有の文化と思いたくなる程に、多様な表情を見せてくれます。
バンブーダンスの軽やかで危ういステップにも似て、明るい笑い声と嬌声を伴った緊張感に満ち満ちているかのようです。
フィリピンの安全弁は、バチカンとアメリカの栄光と陰を同時に背負った豊かでしたたかな財閥と、それに連なる政財界の存在なのかもしれません。
常軌を逸しているペソ高に、つい愚痴ってしまったようです。
今回は柄にもないことを口走ってしまいましたが、経済難民で漂流者の戯言とお聞き流し下さい。
ご挨拶27
時間がどんどん早く進んでいきます。
昨年末は、観測史上初めての記録的な大雪と騒がれていたのが嘘のように、桜の開花は例年より早く訪れたようです。
どんなに厳しい冬でも、春が来れば確実に木々は芽吹き、花は咲くものです。
人生を春から秋までの期間と認識すると、死は厳しい冬ということになります。
しかし、人生を厳しい冬の期間と捉えれば、死を迎えることは春の到来を意味していることになります。
秋から夏までの一生や春から冬までの一生、あるいは冬から秋までの一生と人生様々です。
果たして私自身の一生は、春から始まった人生なのか、夏なのかあるいは秋、それとも厳しい冬からの人生だったのかなどと、知ったところで何も始まらないような、愚にもつかないことをあれこれ考えてしまいます。
なんとか残りの人生が明るく楽しく、幸せなものでありたいと願ってのことなのかもしれません。
あるいは迎える死の恐怖から、なんとか逃れたいためなのかは分かりませんが、口にしたくないほど嫌な話題であることだけは確かなようです。
観念的でしかなかった死は、いつの間にか曖昧ながらも日々、リアリティーを増して来ているような気がしてなりません。
なんだかんだいっても、死について考えることはやはり嫌なものですし、怖いものです。
私が誕生した時、母が生みの苦しみに耐えたように、今度は私自身が死の苦しみに耐えなければならないのかもしれません。
“俺はいつ死んでもいいんだ”などと、夜な夜な盛り場を徘徊していた頃が、無性に懐かしい今日この頃です。(2006.4.1)
ご挨拶28
先週土曜日からホーリーウィークが始まり、次の日曜日4月16日はイースター・サンデーです。
卵に絵を書き、色彩を施された卵を親が隠し、それを子供たちが探すといった昔の習慣を知る子供たちが少なくなって来ているそうです。
現在ではチョコレートの卵で代用され、いつしか日本のバレンタイン・デーと同じく、子供がチョコを貰う日と認識されているとか。
しかし、もはや休日の一つでしかなくなってしまった国々の多い中、カトリック教徒の多いフィリピンでは盛大に祝う習慣が今も健在です。
イスラム教徒に配慮して、クリスマスをホリデーと言い換えようとしたアメリカ政府と違って、政府よりもバチカンの影響力が大きいフィリピンならではのこと。
ミンダナオの分離独立を目指すイスラム反政府活動や、イスラム教徒の社会的地位向上を叫ぶ運動が日々高まりを増すこの国で、果たしていつまで現在のような国家的宗教行事が続けられるのか、他人事とはいえ気になるところです。
安定した静寂の中で安らぎを求める外国人の身勝手さと、非難されても仕方のないことです。
安定と国家的発展は、二律背反になるのでしょうか?(2006.4.10)
ご挨拶29
今日は、ビーフンに野菜の中華風あんかけと、昨夜の残りのご飯を温めただけの簡単な夕食でした。
食べながら、貧乏料理もいいけどたまには究極の料理を食べてみたいものだなどと考えてしまいました。
朝食は、ビーチに面した白いバルコニーで気持ちのいい風を全身に感じながら、かりかりのベーコンか太目のポーク・ソーセージを茹でたものとスクランブル・エッグ。
香ばしい焼きたてのバケットに美味しいバターとマンゴー・ジャム。
よく冷えたパパイヤに、ゴブレットになみなみと注がれた冷たいミルクとフレッシュ・オレンジジュース。
それとも朝から肉汁したたるミディアムレアのニューヨークカットのステーキ?
こんな朝食を想像して、“毎日こんなの食っていたら確実に死ぬな。いや、その前に財布の中身が瞬時に蒸発しちまう”などと呟いてしまいました。
ふと我に返り、さて明日の朝食は何にしようかと冷蔵庫を覗き込んで、“フーッ”と大きな溜息をひとつ。
これが暇を持て余したロビンソン・クルーソーの、ある日の夕食風景でした。(2006.4.20)
ご挨拶30
22日土曜日の午後から発熱してしまい、38.5度と37度の間を1日に数回行ったり来たりする日が1週間も続いてしまいました。
慌てて解熱剤を飲んでも効くのは直後だけという原因不明の熱が続き、少々舞い上がってしまいました。
インフルエンザの兆候もなく、デング熱? それともマラリア?
解熱剤ロキソニンと抗生物質クラビットを飲んだら固定薬疹が悪化してしまい、慌てて服用を停止。
咳や痰も出ないし、頭や関節などにも痛みはありません。
体温が平熱に近づくと鼻水や咳が出るようになり、やはり風邪だったのかと安心していると、期待は見事に外れてまた発熱。
これが一日に1〜2回あります。
困ったことに昨夜から、少量ですが血が混じった粘りの無い痰が、出て来たり出て来なかったり。
先日熱い食べ物を飲み込んで喉を火傷したので、それが原因なのか、あるいは正真正銘の血痰なのか、いずれにしても不気味です。
心臓病の私としては、肺炎や感染性心内膜炎などが怖いのでインターネットで調べてみましたが、症状が完全に一致するものはなく、そうはいっても部分的に適合している病名が気になり、調べる度に新たな病気にかかった気分になっている今日この頃です。
ありがたいことに、呼吸器や心臓の状態には何の変化もないようで、むくみや息苦しさもありません。
熱が出ても食欲も大盛で、回虫でもいるのかな?と思ってしまうほどです。
今日はやっと落ち着いたようで、平熱の時間が増えて来ました。(2006.4.29)
ご挨拶31
大型連休も終わり、日々の暮らしに落ち着きが戻った今日この頃ではないでしょうか。
母の日が終わると気になりだすのが入梅のことですが、フィリピンでも今月下旬には雨期が始まるそうです。
今年は例年にない暑さで、南国の人々も根をあげていると聞きます。
真夏の避暑地バギオでも、例年に比べ平均気温が4〜5度も高く、地元の人は勿論、涼を求めて訪れる観光客もあまりの暑さに減少したといいます。
そのためか、普段は閑散としている田舎の海浜ホテルが大盛況。
何よりもエアコンが効いた海辺のリゾートが一番ということになっているらしいのです。
私は、毎月上がり続ける異常な電気料金に、昨年は室温が25度を超えたらエアコンを使うことにしていたのですが、この一年で、27度、28度、今では30度を超えなければ使用しなくなってしまいました。
日中は日陰にいれば風が爽やかなので快適なのですが、夜となると凪の時間が長くなり、ついついエアコンのスイッチに手が伸びてしまいます。
現地の新聞に、この暑さで扇風機を一日中回し続けたため、中国製の扇風機が燃え上がり大火事になってしまったという記事がありましたが、この火事が原因で、ノンブランドの中国製扇風機と名指しで、使用に関する注意が出されたのですから驚いてしまいました。
電気製品や日用品、外国ブランドの食料品からファッション用品、はてはセブメイドの拳銃までと、インチキやコピー商品が氾濫しているフィリピンでのことですので、役所もあまりの暑さにおかしくなってしまったのかもしれません。
火事の正確な原因は分かりませんが、電気代が気にならなければ、とにかくエアコンでも扇風機でも何でも回し続けていたくなってしまうほどの暑さです。
早くも今年の台風は凄いのがたくさん来るぞとか、雨期が大変だなどと噂されています。
日本での大雪や中部ヨーロッパの洪水と迷信好きのフィリピン人が、今度はフィリピンで天災が起こると噂し始めても少しも可笑しくないほど、今年の夏の天候不順は半端じゃありません。(2006.5.10)
ご挨拶32
早くも雨期入りのようです。
暑くて雨が欲しい乾期には、一粒の雨も降らない日が1ヶ月近くも続きますが、これが雨期となると、激しい雨が突然降り出しては数時間続くといった日が10月頃まで続きます。
台風の影響を受けると終日雨という日が続くこともありますが、それ以外の時は、毎日数回激しい雨が降ります。
でも、フィリピンに移り住んで3年目になるのに、雨傘や雨靴など何一つ持っていません。
持たないというより必要がなかったのです。
雨を衝いても出かけなければいけないような用事もなく、外出中に降られたらどこかの軒先を借りて、のんびりと雨が上がるのを待てばいいことですし、たとえ頭からぐっしょり濡れたところで、気持ちがよいだけ。
雨が止んだら強烈な南国の日差しがコインランドリー並みの早さで乾かしてくれるのですから、改まって雨具や傘等を持つ必要もない訳です。
晴耕雨読のような生活、その日の行動はお天気まかせといったところです。
水と保存の利く食料品に、停電になっても困らないロウソクの準備が出来ていれば、1週間程度なら心配無用。
漂流者気分で窓から空と海を眺め、夜には停電でもないのに室内や窓辺にロウソクを立て、もの思いにふけるのもなかなかいいものです。
あるときはロビンソン・クルーソーになり、ローハイドのウィッシュボーン気取りでスパンプと豆缶を開け、ベッドから枕やシーツを窓辺に持ってきて野営気分に浸る還暦間近のスタンドバイミーのような毎日。
もはや日本での暮らしなど出来そうにもない程、完璧に体質改善が出来てしまったようです。
長い人生、緩急の心得が肝要になるのかもしれません。
比較すればどこまでいっても限りがありません。
永久にプラトニックでしかないのです。
身を粉にして働いた時期をY軸に、今の生活をX軸と仮定して、Z軸の人生観を見出す努力が漂流者の使命かもしれないなどと都合の良い詭弁を思いつくのも、雨期入りして気温が下がり心地よい暮らしが戻った産物なのかもしれません。(2006.5.20)
ご挨拶33
もう五月も終わりです。フィリピンでは6月が新学期になります。
イギリスやアメリカは9月だそうですが、夏休みが終わってから新学期が始まるという点では、フィリピンもアメリカと同じようです。
日本は3月が年度末で、4月から新年度になり、これに習って新学期が始まります。
アジアの国々においても新学期は様々なようですが、どんな基準で決められているのでしょう。
新学期という概念自体が、19世紀末英国でパブリック・スクールが開設されて以降のことではないのでしょうか?
学校毎にそれぞれ新学期が違っていた時の方が歴史的に長く、どの国でも国家が確立されて以降に統一された制度のようです。
日本の足利学校から江戸末期の私塾などには、学年や学期などは存在していなかったと聞きます。
当たり前のことですが現代の教育制度は、個人の資質を高めるための教育ではなく、国家的生産性向上のための人材育成がどの国においても主目的のようです。
教育制度はいかなる政治体制の国家に於いても、国家発展のために何よりも優先的事項になってきたようです。
学校教育は国家の直接管理下に置かれ、国策の都合に合わせたものとなってしまい、もはや学問の自由は存在しません。
歴史的に普遍的な教育の精神が現代に生き続けているものは、現在では技術の修練が必要な世界だけになってしまったのかもしれません。
しかし、2007年問題を考えてみると、専門技術が必要な社会においてさえ今やそれがお題目だけになり、形骸化してしまったことを如実に物語っているのではないでしょうか。気になる問題です。
話は変わりますが、6月3日でこのHPを開設してからちょうど1年になります。
手探り状態で始めた極めて私的な現代社会の壁新にもかかわらず、多くの皆様にご覧頂き、心から御礼申し上げます。
後何年この壁新聞を続けていけるものかと気になるところです。
巨大で終わりの無い怪物に挑戦してしまったIT時代のドン・キホーテ、身の程をわきまえない愚かな戦い振りをご笑覧いただければ身に余る光栄と感謝しております。(2006.5.30)
ご挨拶34
料理には大別して、メニューを決めて食材を揃える方法と、今ある食材からメニューを決める方法の二つが一般的なようです。
言い換えると、旬の食材を美味しく食べるためのスタンダードな料理と、あるものだけで美味しく食べられるものを作リ出す魔法のような調理法ということになるかもしれません。
私はこの2年間、魔法でも不可能と思われるような、毎日同じ食料を使った飽ない料理を作り続けています。
よくもまあ飽きもせずこんなことが出来たものだと、我ながら感心してしまいます。
呆れているといった方が正しいかもしれませんが、経済的理由や健康上の食事制限が主な動機で始めてみたことでした。
この2年間というもの朝兼昼食が済めば、“夕食のメニューや食後のおやつは?”などと考え続け、まさに食うことのみの毎日でした。
夕食後のおやつを食べながら、“明日の昼は? 夕食は? まだ、お菓子を作れるだけの材料はあったか?”などと、休む暇もなく考え続ける忙しい日々を送って来た訳です。
暇をもて余すどころか、今までの人生でこれほど頭を使った記憶がないほどです。
フィリピンで暮らし始めた当初はホテル住まいだったため、海岸で知り会った漁師さんに2食の食事を作ってもらっていました。
海岸で煮炊きしながら、楽しく暮らしていたのです。
その時には、ガスコンロや冷蔵庫など文明的なものは何一つなく、食事の度に炭火をおこして準備するといった生活でした。
昼食を食べ終わるとちょっと海風に吹かれて昼寝をし、目覚めれば晩御飯の準備を手伝うという生活の繰り返しでした。
漁師さんは電気のない生活をしていたため、日没前に早めに食事を済ませ、暗くなるとホテルの部屋に帰るという生活をアパートが決まるまで続けていたのです。
食費としてお金を渡しても受け取らず、訳もわからないまま食客になっていました。
この間に冷蔵庫のない生活というよりも、ない生活の環境から生まれた漁師さんの調理術を習得することが出来、この時の経験が現在まで続いている私のワンプレート料理を支えてくれています。
漁師さんの料理は、昼には魚なりチキンなりを焼いたり煮たりするだけといった簡単なもので、それをご飯の上にかけて日本でいう丼や中国の天津飯のようにして食べます。
そして夜には、余分に作った昼の料理の残りにペッチャイやトマトなどの野菜を加え、シニガン(酸味の強い植物の種)で味付けしたフィリピンの代表的スープに変身させ、残りは醤油に砂糖、唐辛子などで甘辛く煮付けます。
昼に揚げた魚やチキンをご飯と一緒に炊き上げたり、マンゴーやバナナ等のデザート付きの日もあったりなどバラエティーに富んだメニューでした。
一日で使い切りの材料に限られた野菜や香辛料、薬味などを駆使したレシピには驚かされ、電気がなく燃料も限られた環境で、腐敗することを避けつつ飽きが来ないような味付けで毎日を暮らす技は達人そのものでした。
何が無いからと言ってはついつい外食をしていた私には、青天の霹靂でした。
そのお陰で、私も漁師さんの弟子になったつもりで、毎日キッチンに立つ生活を続けております。
今後どれくらい続くかは知りませんが、可能な限り作り食べ続けていきたいと思っております。(2006.6.10)
ご挨拶35
神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」
そのようになった。
地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。
神はこれを見て、良しとされた。
(旧約聖書 創世記 天地の創造 第三の日)
先日、成分分析などにより植物の持つ潜在的能力を開発研究しておられる方のお話を聞く機会があり、“植物との約束を守る”というフレーズを耳にしましたが、あまりに衝撃的な言葉に、その意味をお聞きすることも忘れていました。
衝撃的だったといいますのは、“植物との約束を守る”という言葉に、私は即座に創世記の天地創造3日目の記述を思い浮かべてしまったからです。
神から人間に与えられた植物には、何一つ無駄なものは存在していなかったはずです。
また私は、南方熊楠が若き日の昭和天皇に、“雑草という草はない”と言ったエピソードも併せて連想していました。
“新薬開発の鍵は、ジャングルの奥地にある未開の植物の中にある”という考えを元に、世界中の研究者などが、南米はもとよりアフリカの奥地にまで調査の手を広げているそうです。
未開に可能性を求めることは、人類の性なのかもしれません。
癌の特効薬や長寿の秘薬を求めて、世界中の未開の地に分け入っている研究者の姿は、古代中国の皇帝時代にもあった話であり、大航海時代の新大陸発見や植民地経営などさらなる富を求めて躍起になっていた頃と全く同じように見えます。
未知の植物を探し出す以前に、私たち人間はもっと基本的な植物の存在の意味から捉え直す必要があるのではないでしょうか。
進歩や発展や開発という大儀の裏で、宝を手にしてもその価値に気付かず、かけがえのない知恵を自ら捨て去ってきているのが私たち文明人なのかもしれません。
“植物との約束を守る”という言葉に、バビロンの塔以来神によって封印されてしまった“万物とコミュニケート出来る能力”を取り戻せる可能性を直観してしまいました。
植物を支配し管理するという旧時代の考え方から、未知なる植物や薬効を求めて植物をハンティングするのではなく、植物の持つ能力を真摯に学んでいくことで、新しい価値体系に基づいた本来のあるべき関係、約束された関係を再び蘇がえらせることが出来るのかもしれません。
“植物との約束を守る”という言葉に、年甲斐もなく悠久のロマンを夢見てしまいました。
トタン屋根を打つ激しい雨音の悪戯かもしれません。(2006.6.20)
ご挨拶36
20世紀も終わり目前となった2000年12月、私は心筋梗塞で緊急入院し、ICUで14日間過ごしたのですが、その時ふと小学校低学年の頃の出来事を思い出しました。
社会科の授業で先生が21世紀の話をしていた時、私は指を折りながら、21世紀に自分がいったい何歳になっているのかを数え、“そんなに長生き出来るのかな? 無理だろうなぁ”と、漠然と思ったのでした。
後1ヶ月足らずで21世紀を迎えるというところまで生きたのに、この有様です。
その時のことを思い出し、“人間には自分の人生の長さを予知する能力があったんだ”と一人ICUのベッドの上で納得し、“やっぱりこれで終わりか、私の人生もここまでか”と諦めていました。
“あぶなかったねー、もう少しで……”
という医師の言葉を聞いた時には、すでに年が変わり21世紀になっていました。
“生きてるよ!”と生存を実感した瞬間を境にそんなことなど綺麗さっぱり忘れ、師承な気持ちもこれまたどこかに消え失せてしまいました。
そしてその一週間後、“もうなおった!”と勝手に病院から脱走してしまったのです。
まさに“喉もと過ぎれば熱さを忘れる”の喩え通りでした。
今から思えばあの時、医師の言葉に従い十分に治療を受けていれば、後の心臓手術を免れることも出来たのかもしれません。
しかし、なんとか泥縄式に21世紀の壁を越えることが出来た私は、子供の時に感じていた寿命などどうでもいいことになってしまい、手術の前も後も死への恐怖について不感症になってしまっていたようです。
ところが後2日で還暦となった今現在、私はいい知れない不安のどん底に落ち込んでいるのです。
死を前提に一歩近づくことへの恐れでもなく、社会的に老人扱いを受ける立場に立つことへの戸惑いでもなく、不思議な説明不能な状態にあるのです。
紅いちゃんちゃんこを着る時を迎え、潔く自分の人生を反省したり自己満足に浸ったりする気など全くありません。
また、老後の人生かくあるべしといった気分にもなれません。
若い頃、冬山に登る前夜、突然机の中や書簡類を整理したくなった潔さとも違うのですが、ある面では似た心境なのかもしれません。
私にとって還暦とは、地図のある世界から地図の無い未開の地へ足を踏み入れる境界線のようなものなのです。
明確な目標に向かって前に進むのではなく、手探り状態で一歩一歩足を進めなければならない探検家にも似た心境かもしれません。
一歩進むたびに少しずつ、未開の地に足あとを記録していく開拓者といったところです。
21世紀を前に心乱れた時とは違い、2日後には未開地踏査を目指してべースキャンプを出る探検家、あるいは先遣隊の隊長のようなものということになるのかもしれません。(2006.6.30)
ご挨拶37
今までNHK衛星2で、大河ドラマ“功名が辻”を見ていました。
今まで大河ドラマをみたことがなかったのですが、国外に住んでいると懐かしさもあるのでしょうか、今では毎週この時間が楽しみになっています。
司馬遼太郎氏は、第二次世界大戦直前のノモンハン事件で戦車隊長を務め、復員後は大阪新聞社の文化部で美術記者をしていたと聞きます。
このころ構想を練っていた作品が“功名が辻”だったそうです。
歴史に“もし”はないといいますが、もし織田信長が天下を統一していたら、一体どんなことが起こり、どんな国造りをしていたのでしょう。
信長が安土に城を築いた時、泉州堺には、南蛮貿易に従事してアジア各地に日本人町を作り上げていた“堺衆”がいました。
当時は、現在のインドネシアはバタビヤ、フィリピンはルソン、ヴェトナムは安南、カンボジアはカンプチャと呼ばれており、堺衆は縦横無尽に東南アジア各地で活躍していたそうです。
ルソンには5,000を上回る規模の日本人町が存在していたといわれております。
信長の時代は、中世ヨーロッパでルネサンスの運動が幅広く展開されていた時期と、僅かですがオーバーラップしています。
当時日本を訪れていたイエズス会の宣教師たちの多くは、ルネサンスの息吹を体感していた人たちだったと、人間国宝の陶芸家・加藤唐九郎氏が生前に語っていました。
氏はこの話をする際に、決まって“茶の湯”の袱紗捌きの作法とローマンカトリックの“聖杯の儀式”との類似点を挙げ、両者間に存在していた密度の濃い文化の交流を検証するエビデンスとしていました。
そして、ヨーロッパから一方的に文明がもたらされたのではなく、相互互角に文化の交流をしていたのだと語っていました。
“もし信長が殺されていなければ、明治維新の屈辱的開国も陰惨なキリシタン弾圧もなく、そればかりか豊臣、徳川時代を通して作られた法度類に、後の世まで管理し支配されるような政治体制は生まれてはこなかった。信長の死は、日本に古来から生き続けていた世界に冠たる芸術的感性が、政治によって踏みにじられることになった象徴的な事件であり、ルネッサンスにまで影響を与えうるほどの日本人の芸術性は、その瞬間から衰退の道を辿り始めたのだ”と力説していた加藤氏の言葉が思い出されます。
それは、日本ばかりか世界の人類史にとっても不幸なことだったといいます。
豊臣の世になって織部伊織や千利休が切腹し、日本の魔女狩りは終わったというか、その必要がなくなったそうです。
加藤唐九郎氏の言葉、“芸術家とは、時の権力や政府と切り結ぶ覚悟が必要なんだ。織部や千利久のように……”は、心して聞かなければならない先達の教えかもしれません。(2006.7.10)
ご挨拶38
1週間前に突然電話が使用不能になって以来、まだ電話回線が不通になったままの状態です。
数日前、電話局に連絡しようとしたのですが、友人に“電話で怒ったりしたら、いつ電話が直るか分からないぞ。ここでは丁重にお願いして嫌われないようにしなきゃいけないんだ”と言われてしまいました。
こんな状態で怒らず丁寧に猫撫で声など出せるはずもありませんので自ら電話するのは止め、本日、私の代理として友人に電話局まで行ってもらった次第です。
結果は、今のところまだ分かりません。
今日中に復帰するのかしないのか、ただ待つことしか出来ないのも辛いものです。
ここのところPCとともに過ごす時間の割合が増えていたため、1週間も回線断絶の状態が続くと禁断症状にも似たイライラが高じて来てしまいます。
消費者優先が当たり前の社会に慣れ親しんだ者には、ここフィリピンの電話や電気などのライフラインに従事する人たちの絶対優位な立場は到底理解出来ないものがあります。
強力なコネもなく相手に気に入られるだけの如才もない人間には、願い事がすぐに叶えられることなどありはしないのかもしれません。
主導権を握っている人の気分次第という社会では、社会的に保障された権利や資格を持つか、あるいは権力者と友人になれるほどの財力でもなければ、日本での“普通は”が、全く通用しないことになります。
こうした社会環境の中で賄賂社会を否定することは反社会的行為になり、未整備な社会システムへのクレームは体制批判や大統領批判になってしまうのですから、どこをどうすればそのようになってしまうのか理解に苦しむところです。
権力や体制にべったりか沈黙を守る以外、生きる道はない社会なのかもしれません。
先進国並みの制度やシステム、建造物をいくら作っても、“仏造って魂入れず”の喩えそのままというのがこの国の現状のように思えて仕方ありません。
この国の反政府活動を見ても、それを取り締まる官憲を見ても、形だけは完璧にアメリカ映画を模倣しているのですが、魂の入った行動には見えません。
フィリピンの実態は、視覚的民主主義とでも言えそうな模倣が本質ではないでしょうか。
生活にゆとりが出来たら大人も子供もシミュレーション的人生ゲーム、モノポリーをエンジョイするというフィリピン人のリアリティーのない人生が、すべてを象徴しているように思われます。
午前11時45分に電話局から電話が入り、電話回線復帰の知らせを受けました。
何とか予定通りに、このご挨拶38の更新が出来そうです。(2006.7.20)
ご挨拶39
また、そろそろ定期的なピットインの時期となり、暗い気持ちになっています。
これといった変化もなさそうなので、今回だけは止めにしようなどと考えてはみるのですが、残り少ない薬を眺めていると何かしら不安な気持ちになってしまうものです。
毎回、厳しい経済事情から、定期的なピットインを何回か削減すれば費用が浮くのにと思いながら、そうするだけの勇気というのか潔さもなく、あてもないままに死の恐怖に負けてしまっているのですから救いようがありません。
金がないと泣き言を言っている自分自身が、可愛くてしょうがないのかもしれません。
考えたくない諸々の事柄から逃げるようにHP作りに縋り付いていたのが、今では逃避ではなく自己責任として自分自身の一生を総括しなければという思いに変わってきました。
HP上で甘えてみたり、ささやかな自己顕示欲を満足させているのですから不思議です。
ゲストブックを訪れてくれる人々とネットで繋がっていることに、“一人だけじゃないんだ”と安堵している次第です。
先日ゲストブックを訪れて下さった方から、日本のトイレが何もかも自動という話を聞いて驚いてしまいました。
世の中のトイレが水洗に変わり、ウォシュレットの登場に驚いたのも束の間、今では蓋の開閉から便器の水洗まで全自動になっているというのですから、理解の範囲を超えてしまいます。
人間の飽くなき探究心というのかエンドレスな欲望というのかは知りませんが、とにかく凄いものです。
身を削るような熾烈な開発競争の中から生み出される新商品の山。
いつの間にか人間は、それらを使用する立場から使用するために存在している立場に追いやられてしまっているのかもしれません。
最先端の便利な新商品を使うための人生になってしまったのでは洒落にもなりません。
人類が経験した旧石器から新石器に変わったときのような飛躍的発展は、昨今の研究開発には見受けられません。
開発のための開発、研究のための研究、売らんがための新商品競争を生み出してしまったのは、無意識、無批判、無抵抗な消費者そのもの、つまり私たちの責任であり、新しい商品開発には、人類的視野で見た哲学が必要なのかもしれません。
健全な研究開発は、健全な消費者の見識があって初めて可能になるものです。
“トイレに行きたい”という生理的欲求までも、腕時計のような物から送られるシグナルでしか判断出来なくなってしまう、そんな時代の到来もそう遠い未来のことではないのかもしれません。
進化と進歩について大いなる疑問を持ったところで、所詮は負け犬の遠吠え。
利便性から見放された現代のロビンソン・クルーソーの、悔し紛れの罵詈雑言でした。 (2006.7.30)
ご挨拶40
無事、ピットイン完了。
健常者の30%しか動いていない心臓でも、無理をしなければ何とかなるものです。
経済的ダメージに反比例したかのように、体の方は薬の量も少しですが減り、異常も無く平穏な暮らしに戻ることが出来ました。
そこで、手術以降落ち続けてきた筋肉を少し回復しなければと、スポーツジムにでも通って筋肉トレーニングを始めようかと考えました。
日本なら最低でも1万円はするであろう会員費も月額1,500円程度で済むようですし、退役軍人ばかりのジムですがインストラクターもちゃんとしているようなので、すぐにでも会員になろうと思ったのです。
しかしその前に、短パンにTシャツ、ビーチサンダルだけで生活していただけに、シューズやトレーニングウェアーなどを買い揃えなければなりません。
それを考えると、一度決めたジム通いも揺らいでしまいましたが、清水の舞台から飛び降りたつもりで、どこかで2,000円程度の出費を覚悟しなければいけないようです。
簡単な話、年4回の定期的ピットインの回数が減らせれば、費用はすぐにでも捻出出来ます。
しかし、スポーツジムで筋トレするために命を落としたなんて間抜けなことにもなりたくはありません。
インストラクターがついていたところで、“健康になるためなら死んでもいい”というアメリカ人たちの中に交じってのトレーニングですから、はたしてどういう状況になるのやら……。
といった訳で、今回は自宅で6キロの水が入ったコンテナを使った筋肉トレーニングを行うとともに、雨期も終わることですし海岸の砂の上を歩くことで身体作りをしていくことに決定!
見るからに病気といった雰囲気を一掃するためにも、多少日焼けをして健康的に見えるようにしなければなりません。
経済活動をするためにも、見た目の改革が重要になります。
筋肉作りにはプロテインが最適と聞き、100円ショップできな粉を大量に仕入れてきたのですが、はたしてきな粉がプロテインの代用品になるのか心配です。
当分、きな粉を舐めながら、自力のトレーニングに励んでみることにします。(2006.8.30)
ご挨拶41
人類を霊長類と分類し、他の動物、種とは違う特別な存在として位置付けていることに、つい最近まで一度も疑問を感じたことなどありませんでした。
ヒトは道具や文字を使い、喜怒哀楽の感情があり、思考し、神を信じ、他の動物とは比べようがないほど進化した存在であると信じて疑いませんでした。
しかし、フランス人の考古学者が、スペインのカタロニアで30万年から100万年前の断層を発見し、その発掘現場で、
“人類は未成熟であり、成熟するのに後何十万年、何百万年かかるのか分からない。今現在、我々は乳幼児でしかないことは確かだ”
と若き研究者たちに語ったとか。
“人類が種として成熟すれば、必然的に平和な世界が出来る”という彼の持論からすれば、もしも人類がもっと成熟していたならば、何の努力もなくして平和な世界となっていたに違いないということでしょう。
人類が成熟するための唯一の方法は、過去の経験の上に立ち、未来を見る知恵を持つことだそうです。
子供の頃から彼は化石が大好きで、毎日化石探しにあけくれていたといいます。
彼の母親は、息子のズボンの中から化石を取り出しては小言を言ったそうです。
“あなたは、他の子供たちとはちょっと変わっていたんですね”という学生の言葉に、“いや、変わっていたのは私ではなく、他の子供たちの方だ”と即座に反論し、“私は、子供の頃からアナキストだったんだよ”と語ったそうです。
人生70歳を超えるまで、ただひたすら化石を、古代人類の足跡を追い求め続けている老学者には、年齢や世代という一般社会の概念は全く通用しないとか。
80万年前のヒトの歯の化石を太陽にかざし、
“どうだい、宝石のように美しいだろう! この大きさを見たまえ、完全な形だ!”
と言う彼の顔は、少年のように輝いていたといいます。
彼の中には、幼児期の自分も青年期の自分もすべてがいまだに脈々と生き続けていて、TPOに応じた年代の彼になれるのだそうです。
“青年のように恋する時には、青年になれるんだ”と胸を張り、“ゲーテが死んだ時、彼の肉体は20歳の青年のものだったんだ。私もそうありたいものだ”とウィンクして見せるのが癖といわれるほど、これは彼の気に入っている話だそうです。
世代も年齢も一切が意味を失ってしまうほどの強烈な興味や思いを持ち続けて人生を送れるものなのか、私も考えさせられてしまいます。
本当に、泣き言や愚痴を溢している暇はないのかもしれません。(2006.9.12)ご挨拶42
“隣の花は赤い”という言葉がありますが、リタイア後を海外で暮らすということは大変なことなのかもしれません。
“よく決断しましたね。勇気がありますね”
“リタイア後は海外でと決めているんですが、整理がつかなくてなかなか今すぐという訳にはいきません”
“1ヶ月の生活費はどのぐらいですか?”
“なぜそこに住もうと決めたのですか”
などといろいろご質問を頂くのですが、私の場合はあまり参考にはなりません。
と申しますのも、病気が原因で経済的破綻状態に陥り日本から脱出した緊急避難難民なのですから、ご質問の意図にそぐわないお答えしか出来ないと思うのです。
“まあ、こんな生き延び方もあります”という軽い気持ちで自分自身の生活をご紹介しているのですが、
“病気になって無謀にも海外生活など、考えられない。信じられない。本当は元気なんでしょう?”
と言われることも度々あります。
どんな生活をしているのかと聞かれても、まあ適当にという訳にもいかず、心苦しく感じている次第です。
私がフィリピンを選んだ理由は、日本から近くて生活費が安く済みそうだったからということになります。
ではなぜこの場所にしたかというと、さしたる理由もなくただ成り行きでそうなってしまったからに他なりません。
マニラに着いた翌朝、ホテル周辺に屯するタクシーの運転手さんたちに、
“観光客があまり行かない静かなところで、綺麗なビーチがあり、マニラからそんなに離れていないところを知りませんか?”
と聞いたところ、即座に今住んでいる場所の名前が返って来ました。
予備知識も何もなく来てしまったというのが、嘘偽りのないところなのです。
飛び込んだホテルで夕食をと考え、レストランに行ってみると結婚式。
“新郎新婦は、地元のお金持ち?”
と、席へ案内してくれたウェイターに聞いたところ、無表情のままで、
“Not mach”
と言う答えが返って来ました。
その一言が気に入って、気がついたら住み始めていたという訳です。
たわいない一言が、人の一生を決めてしまうこともあるのです。
考え抜いて緻密な計画を立ててはみたものの、その先へは一歩も踏み出せないということが多々ありますが、それと同じくらいに、何も考えずに行動していたということもよくあるのではないでしょうか。
こうも成り行き任せになりますと、必要とするものが簡単に入手出来なかったりうまく環境に馴染めなかったりしたとしても、不満を言っている暇はありません。
今の環境をすべて肯定して、不足している物があれば代用品になるものを探し出したり、自ら作り出したりする知恵が必要になります。
ですから、貧しくても、何がなくても、どんな粗食でも美味しく食べるだけの知恵がある私は、胸を張ってそれを自慢したくなってしまいます。
生活し生きてゆくことに、ルールやガイド・ブックはありません。
自分で納得した生活が出来ていれば、それに勝る生き方はないと思います。
知恵はいろいろなことを生み出してくれ、納得した人生の過ごし方を体験させてくれるものなのです。
流れに身を任せることは、知恵の価値体系を理解し、実践していくことなのかもしれません。
日本にいた時にどんなに考えて計画を立てようとしても、今の生活を思いついたりイメージしたりすることは絶対になかったでしょう。(2006.9.20)
ご挨拶43
日本は秋ですね。
行楽の秋、読書の秋、食欲の秋、中秋の名月、天高く馬肥える秋。
秋にまつわる言葉はたくさんあります。
フィリピンはというと、先祖のお墓参りや、ハロウィンに感謝祭と色々な行事があり、海辺の公園ではカーニバルが始まります。
またこの時期になると、街では早くもクリスマスソングが流れ出し、いやでも後2ヶ月で今年も終わりということを意識せずにはいられなくなります。
私にとっては恐怖のクリスマスです。
果たして何人我が家を訪れるのか、今から心配しいています。
チップも去年のようにまとまると大変ですので、今年のクリスマスホリデーには、どこか近くのローカルのリゾートに避難しようかなどと考えています。
貨幣価値はなくなる一方で、3年前は10ペソで十分だったのに、去年は40ペソでも鼻で笑われてしまいました。
最近の物価高では、貰う方は100ペソぐらいをあてにしていそうです。
円安に無収入の身では大変なことです。
意を決して、私が彼らより先にクリスマス・チップを貰いに行ってみようかなどと考えてしまうほど。
情けない話なのですが、これが人生。
放蕩の末に辿り着いた所ですから、見栄を張っても自己満足するだけのこと。
今年は恥も外聞もかなぐり捨てて、この作戦に挑戦してみることが私の課題になるかもしれません。(2006.10.1)ご挨拶44
テレビは番組を変更して、北朝鮮の核実験に関する報道一色です。
東京では号外が配られ、“街の声”として年配の人たちのコメントが紹介されていました。
インタビューに答える人たちが年配に偏っていたのは偶然なのか、あるいは放送に堪える内容ではないものを削除していたらそうなってしまったのか、不可解な印象を受けてしまいました。
放送局側が独自の判断基準で選択したことなのでしょうか?
もしそうなら、情報の操作が行われていることになります。
“選択しなきゃ、聞くに堪えないものばかり。一体何を考えてるんだ!”
という視聴者の声が聞こえて来そうな気がしてしまいます。
しかし、予め放送内容を意図して作られているならば、それ自体が重大な問題ではないのでしょうか。
色々事情があるのでしょうが、インド、パキスタン、中国、アメリカ、フランス、ロシアなどが核実験を行った時、市民の反応は今回と同じだったのでしょうか。
数ヶ月前に北朝鮮がミサイル実験を行った際、“北朝鮮は、世界の平和を乱すならず者国家だ”と日本国民が声高らかに叫んでいる最中、イランが弾道ミサイルの実験を行い、イスラエルのレバノン侵攻が起こり、激しいミサイル攻撃が展開されていました。
しかしそれらのニュース報道は、まるで北朝鮮のミサイル実験に飲み込まれたように静かなものだったと思います。
北朝鮮もイランもイスラエルも、同じ時期に同じように平和を乱す行為をしていたと思うのですが、日本にとってなぜ北朝鮮だけが特別だったのでしょう。
地理的に日本に隣接していない国々の話だからでしょうか。
それとも、日本から見た大国といわれる国が平和を乱した場合は、仕方のないことになってしまうのでしょうか。
“アメリカが支援している国がミサイルを使っているんだし、もし悪い事ならアメリカがそう言うはず。何も言ってないんだから、いいんじゃない”という意識がどこかにあるのかもしれません。
私たちは無意識のうちに、自分の意見を述べることを恐れ、他人任せになってしまっているような気もします。
アメリカの発言を聞いてから、“あの国だから許せない”だの“あの国だからいいんだ”だのと言っている自分たちに、何かしら恥じらいを感じてしまいます。
こうしたことは、私たち団塊世代のこれからの生き方にまで、強く干渉しているようです。
本来、人の数だけの選択肢があるはずの人生が、幾つかの生き方にパタナイズされ、無言のプレッシャーでその中から選択するよう誘導されているのかもしれません。
残り少ない人生の時間までをも管理され、泣くことも笑うことも、怒りさえも自分以外の所で操作されているような錯覚に襲われてしまいます。(2006.10.10)
ご挨拶45
知恵を働かせると、退屈なはずの時間があっという間に過ぎてしまうほど楽しい時間に変わってしまうものです。
それは、美人と隣り合わせたり大好きな人と乗り合わせたりした電車が、あっという間に目的地に到着してしまうのと似ています。
それに反して、嫌いな人と過ごす時間や嫌なことをさせられている時間は、ため息が出るほど長く、時計の針が遅くなっているようにすら感じるものです。
私が南の島暮らしを始めてからというもの、時間が早く進んでいるように感じて仕方ありません。
終焉の時まで出来るだけ時間を稼ぎたいという思いとは裏腹に、あっという間にその時が来てしまうような錯覚に襲われてしまいます。
しかし本音は、好きな楽しいことをしている時には、時間が停止しているように感じているのです。
早く時が進むことに恐れるのではなく、早く進むと感じている時間を満喫し、子供の頃のように区切りのない、納得するまで、いや飽きるまで一つの興味を追い求めているということなのでしょう。
何がなければ出来ないというフラストが増加するような発想法ではなく、あるもので満足出来、自分自身で感心し、感動することの出来るものを生み出している毎日なのですから、楽しくて当たり前。
魔法使いにでもなったような感覚を楽しんでいます。
お仕着せメニューの中から選択した老後の暮らし方に合わせて暮らす努力をしなくていいのですから、それだけでも精神が解放された自由を満喫出来、金がないことなど問題にもなりません。
なければないなりの豊かな暮らしが出来るのです。
貧乏人の暮らしには、笑いしかないものです。
悲しく苦しい演技をしなくて済むのですから、それだけでもいいものです。
笑いしかない極貧生活なんて、皆様には想像もつかないことでしょうね。
浜辺で拾い集めて来た小魚をフライに、油がなければ素焼きに、あるいは、拾ったココナツのジュースで煮たり、ココナツから造った酢とナンプラーにチリを刻み込んでソースにしたりと楽しいものです。
毎日が実験のようで、はらはらドキドキの連続なのですから、退屈している暇などはありえません。(2006.10.20)
ご挨拶46
ラマダンの最終日とその翌日、浜辺からお土産売りが姿を消してしまいました。
いつも賑わっていたような気がしていた浜辺も、彼らの姿が消えると静寂そのものです。
聞こえるのは波と風の音だけ。浜辺にいるのは、1匹の犬と海に入って遊んでいる子供たちが数人。
漁師さんも観光バンカの船頭さんも、なぜかクリスチャンの船頭さんまでだれひとりいません。
お土産売りが姿を消して初めて分かったことなのですが、朝から夕方までこの浜を賑わわせていたのは、彼らを除いていなかったのです。
青く晴れ上がった空に浮かぶ真っ白い雲と、昼の陽光を受けてきらきらと光る海、そのすべてが不思議な雰囲気を作り出しており、SFの世界に迷い込んでしまったような錯覚に襲われてしまいました。
そして、毎日朝6時過ぎから日没まで、数人の観光客をただひたすら待ち続ける100人以上のお土産売りやバンカの船頭さんたちの置かれている厳しい環境を考えさせられてしまいました。
“買わなくていいから、何も食べていないので何か食べさせて!”
と、お土産売りが物乞いに変身する姿を見たことが何度かありましたが、この無人の浜を見ると納得させられます。
物売りであろうが物乞いであろうが、彼らにとっては生存を懸けた戦いでありビジネスなのですから、物乞いはいけないなどといった腹の足しにもならない話など、飯が食える奴らの世迷言という彼らの気持ちも分かるような気がします。
しかし、そんな厳しい生存競争に明け暮れている彼らにとっても、ラマダンは特別。だれもいない浜辺を眺めながら、彼らの信ずる神の力の偉大さを感じずにはいられません。
イスラム社会にも、どんなに借金があっても正月は借金取りとの鬼ごっこも一時停戦という日本の習慣にも似た不文律があるのかもしれません。
商売がなくて金がなくとも、子供たちには新しい服を着せたい、靴を買ってやりたいと、自分の商品であるミンダナオ製ローレックスを質に入れ、何とか金を工面する姿を見ていると、自分自身が今まで生きて来たぬるま湯のような環境を思い返して恥ずかしくなります。
彼らを知れば知るほど、“彼らほど真剣に生きて来たのだろうか? 真面目だっただろうか?”と自問自答する機会が増えました。
やれ病気だとか、仕事が出来ないなどとほざいている自分が情けなくなってしまいます。
彼らのだれにも会えないし顔も見かけないとなると、なぜか不安になり、彼らを見ることでどこか救われていた自分自身のずる賢さが見えて来てしまいました。
“まだまだ下がいる。俺なんか良いほうだ”と、自己欺瞞していた最後の扉まで、ラマダン明けの浜辺の静寂によって開け放たれてしまうと、全く救いようがありません。
心地よいはずの南の島の陽光が、なぜか心に鋭く突き刺さって来るように感じているこの頃です。(2006.10.30)
ご挨拶47
無駄を許容する社会は、日本では歴史の中にしか見出せなくなってしまったようです。
日本以外の国では、文明国でも低開発国でも、まだまだ社会に無駄を許容するだけのゆとりや幅があるようです。
社会自体に弾力性があるのか、寛容さがあるのか、日本のように勝ち組だけが生存を許されるといった残酷な社会ではありません。
生き残りゲームの勝者だけがもてはやされる社会では、無駄を許容することなど思いもつかない愚考となってしまうようです。
子供が群れをなしてホームレス狩りを行い、殺人事件を起こしても、“ゴミ掃除したんだ”という言い訳が通用してしまうのですから、異常で残酷な社会です。
安倍新政権は、“美しい日本”を実現する内閣を標榜して“敗者復活プログラム”という意味不明な弱者救済計画を行っていくそうですが、敗者救済策という名称からして、“蜘蛛の糸”的印象を否定出来ません。
社会的に生産性のない者を敗者として切り捨てている社会構造そのものに関わる政策ではなく、まだ社会的貢献の可能性を残す人間に敗者復活の機会を与えてやろうという“骨までしゃぶりついてしまおう”的な国の温情には、優しさなどは微塵も感じられません。
どこまでいっても勝者最優先の社会構造からの発想で、“心優しい、いい人”を演じる三文芝居の滑稽な看板役者の大見得のようです。
乞食の語源といわれている“こつじき”とは、寺の山門周辺に住みつき、寺男の仕事の一部を手伝い、参詣者からのお布施で生計を立てていた修行者だったそうです。
これらの人たちも厳密な社会組織に組み込まれる過程で“ベガー”と決めつけられ、社会の恥と忌み嫌われる存在になってしまったとか。
国家的生産性のないあぶれ者で社会的に無駄と判断されてしまったということでしょう。
大宝律令が成立した時代には、公家、貴族、僧侶以外に人はなく、他の者は荘園に隷属した農奴でしかなかったそうです。
この当時でも、今のように厳密な管理体制は成立しておらず、無駄を許容するだけの余地があったようです。
歴史的に江戸末期までは、“河原乞食”“無宿渡世”などとして社会的無駄が許容されていたそうです。
それが、国家の近代化政策の進行に伴って無駄は粛清され、社会的には存在しないことになってしまったといいます。
“博徒”ですら社会的管理化で社会的無駄の回収作業を担い、すべての国民が国家の管理下におかれてしまったのです。
世界で日本ほど国民を管理下におくことに成功した国は皆無だそうです。
管理する側は、自らが管理しているという意識はなく、国民を指導する立場にある公的人間と自己規定し、国民の側も、自らが国家的管理下におかれているという意識は皆無です。
それでいて完全な統制社会が実現されているのだから、驚き以上に考えられないことです。
その画期的な事態の中で一切の摩擦も起こらず、官民一体となって統制社会の実現に取り組んでいるのが日本なのだという思いは、かつて帰属していた社会からスピンオフして海外暮らしをしている者でも、日増しに強まって来ているようです。
私のような無駄な存在を許容してくれる社会は、経済的に疲弊し、貧困に喘ぐ国ならではのことなのかもしれません。(2006.11.10)
ご挨拶48
アジアの貧しい子供たちの写真を見て、
“大きな目が輝いていて可愛い。彼らの罪ではないのに哀想”
と、純真無垢な子供たちと彼らを取り巻く貧しい現実とのギャップに涙ぐむ、善意に溢れた方々は数多くいらっしゃいます。
北の方で大雪に苦しむ人たちがいれば、雪かき用の道具持参で駆けつけ、南の方で津波が起これば、先を争って義援金を送るために銀行に駆けつけ、東の方で洪水が起これば援助物資を送り、また西の方で戦火に追われた多くの難民がいると、反戦のプラカードを持ってデモ行進の列に参加するという具合に、雨にも負けず、風にも負けず、日々、良いことをするために、不幸な人々を血眼で捜し求めている善良なる人たち。
人の不幸を糧にして、心優しき善良な市民になるための努力を惜しまない人たちは、皆様の周辺にも沢山いらっしゃることと思います。
ある時、イギリスのBBCテレビが製作した“援助の優しさに満ち溢れた社会”というドキュメンタリー番組を見たことがあります。
その番組は、援助者一人一人の優しさが生み出した、苦悩する世界の不幸な人々の現実を紹介し、現在の援助のあり方に疑問符を投げかけるという内容だったと記憶しています。
慢性的な食糧難で苦しんでいるアフリカに、さらに深刻な食料危機が訪れた時、世界各国から多くの支援の手が差し伸べられ、アフリカの人々は世界の優しさに感謝し、明日への希望を繋ぐことが出来ました。
しかし数ヶ月後、別の地で大災害が起こり、一度差し伸べられた優しい手は、今度は新しい災害地に向けられ、その半年後、中近東のある国に大地震が起きると、また前回同様、支援先は次へと変更されてしまいました。
毎年これの繰り返しで、結局アフリカでは何十万単位の餓死者が出てしまうのだそうです。
1回目の援助の額を基準に救済計画を立てて実行している最中に、援助の矛先は新たな災害へと向けられてしまい、結果、この地への援助はどんどん先細りして、翌年には当初の計画に基づいた救済計画の遂行が不可能となってしまうのです。
このため、子供の救済をプライオリティーの1番目として救済計画を立て直すしか手段がなくなり、そこから外れてしまった多くの人々が餓死してしまうのだそうです。
この支援の悪循環が世界各地で繰り返されている現実に、世界の天使たちは関心を持つ間もなく、新たな不幸にエネルギーが集約されてしまい、気まぐれの優しさによる犠牲者は増える一方なのだとか。
テレビの臨時ニュースを見て、反射的に行動する善意の人たち。
この善良さは、視点を変えると、ハンターが自己の欲求を満たすために見せる残酷さにも似ています。
善良ないい人でいたいという欲求の影に隠れてしまった過去の災害の被災者たち。
一度寄付をして一件落着してしまう善意と、どこまでも続く復興への苦しみ。
被災者が一件落着と感じることが出来る時まで、一緒に苦しみを分かち合える支援者が出てくることなど、夢の話になるのかもしれません。(2006.11.20)
ご挨拶49
感謝祭も終わり、今年もクリスマスに向かって街中がイルミネーションに飾られる季節になりました。
私が住む街からそう遠くないところに、クリスマスのテーマパークがあり、そこでは1年中クリスマスのオーナメントやイルミネ−ションが輝いているそうです。
連日気温30度を超える日が続く夏(3〜5月)も、朝から大雨が続く雨期やタイフーンシーズン(6〜9月)にも、クリスマスツリーが飾られているのです。
その周辺の道路沿いには、オーナメントやモールに各種の電飾、竹と紙で作られた大小様々なランタンを店頭に並べた露天が、一年中店を開けているそうです。
北半球の寒い季節のクリスマスや、南半球の真夏のクリスマスと、今では様々なスタイルのクリスマスが存在しています。
ショートパンツにアロハシャツや、Tシャツを着たサンタが、サーフボードに乗って浜辺に降り立つ所もあります。
NYの5番街にも一年中クリスマス用品を売る店があるのですが、なぜかフィリピンのクリスマスには、世界のどこにもないような不思議な雰囲気が漂っているような気がしてなりません。
フランシス・コッポラの“地獄の黙示録”の中で、リバーボートがメコンを遡上しカンボジア国境に向かっている途中、あるグランド最前線の要塞の様子が描かれていました。
指揮系統も何もかもなくなり、兵士が痺れた頭でどことはなく発砲し、夜には立ち込める硝煙の中にクリスマスのイルミネーションが不気味に光っている、そんな光景を思い出してしまうようなフィリピンのクリスマス。
もうもうと立ち込める排気ガスと高温多湿で、一年中揺らいで見えるクリスマスの装飾用電飾は、辺りに不気味さを漂わしているように感じてしまうのは私だけでしょうか。
もう早くも私の近所に住む人たちの愛想が良くなり、頼んでもいないのに形ばかりの掃き掃除をし始めました。
クリスマス・チップ目当ての異常な行動です。
子供がハロウインのお菓子を目的に、近所の家々を回るのはかわいいのですが、大人たちが争ってチップ獲得大作戦を展開する姿には、道路沿いで一年中クリスマスの装飾品が売られているのにも似た無気味さを感じてしまいます。(2006.12.1)
ご挨拶50
いつもよりもご挨拶が少し遅れてしまいました。
遅れたからどうなる訳でもないのですが、自分で決めたことが守れないと、何かしら居心地が悪いものです。
先日、私のゲストブックにお起し下さった方から、海外に長くいたからこそ分かる日本の素晴らしさについてのお話を頂きました。
国内にいたのではあまりに日常化し自明となっていることの中に素晴らしい伝統習慣があったり、日本の、日本人の誇るべき多くの事柄が忘れ去られ足蹴にされていたりと驚かされてしまいました。
この話題が私の中で渦巻き出し、以前、明治生まれの老紳士に、パリのフォブールサントノーレでお会いしたことを思い出してしまいました。
もう40年近くも前の話になります。
老紳士の身長は、ゆうに180センチは越えていたように記憶しています。
背筋を伸ばし友人たちと談笑していた老紳士は、フランス語と英語を巧みに使い分け実に堂々としたもので、きっと名のある方なのだろうと眺めていました。
しかしたまたま話す機会が訪れたので、私は担当直入に、
“外国語が堪能でいらっしゃいますが、御留学なされていたのですか?”
と聞いてみました。
“いやー、若者に誉められると、照れてしまいますな”
辺りにいた人たちの笑いを誘った後、彼は私を直視し、
“昔の人たちは、そう、パリで万国博覧会があった当時、日本を代表して参加していた幕府と薩摩の侍たちは、威風堂々としていたそうですよ。私など、大いなる耳年増。見よう見真似口真似だけにしかすぎません。残念ながら若い頃は、これを学びたい、学ばなければといった興味が持てず、ただぶらぶらと時を過ごしていました。お陰で親父から勘当されてしまったほどです”
この言葉を残して、再び会話の機会は訪れませんでした。
語学を学ぶ目的だけで留学するのも一般的となった現代を、彼だったら一体どのように評するか知るよしもありません。しかし、
“語るべき話題を持たず、語るべき専門分野もなく、言葉だけ学んで一体どうしようというんだ。言語学者なら別の話だが”
という老紳士の声が聞こえてきそうな気がしてしまいました。
かつての日本人にはあった気骨や、語るべきサブジェクト、そして日本人としての誇りは、外国語通の増加と反比例するように、自ら封印してしまったのかもしれません。
ニューズ・ドキュメンタリーの番組で、上着を脱いてシャツ姿になり、米国大統領とその家族の前で、“♪グローリー、グロリア・・・♪”とお笑い芸人のように両手をひらめかせながら踊っている前首相の姿を見ました。
笑いを禁じがたいブッシュ家族を前に、我意を得たりとばかりにさらなる声を張り上げ、これがフレンドリーな外交などと信じきっているわが国のかつての宰相の姿。
語るべきことがなくなると、人間こうなるものかと暗澹たる気分になってしまいました。
未だに書生のような気分で生きている私自身も問題ですが、憂いを感じてしまった私も、いつの間にか老人の域に達してしまったのかもしれません。(2006.12.13)
ご挨拶51
この時期は、忘年会にクリスマス・パーティーと肝臓を休ませる暇もなく、忙しい日々をお過ごしのことと思います。
年末の帰省に、年が明ければ年賀に新年会、まだまだイベントは続きます。大変ですね。
私のようなロビンソン・クルーソーには、月が変わるだけでしかなく、年末というよりはいつも通りの月末でしかありません。
自分ひとりで南の島のお正月を演出してみようと考えるには考えるのですが、どうも実行までは行きません。
経済的事情もあるのですが、それ以上に怠惰な生活が、すっかり身に付いてしまったのかもしれません。
先日、TVのNHK国際放送で、池波正太郎の鍋料理をイギリス人と日本人の司会者とゲストのアメリカ人が紹介している番組を見る機会がありました。
味噌味の出し汁に、大根の千六本とあさりだけというシンプルなあさり鍋に、深川の醤油味の出し汁に軍鶏とゴボウだけを入れた軍鶏鍋。
それから、大量の刻みネギに南蛮をかけて、浅草のどじょう鍋をふーふー言いながら食べている人たちを紹介していました。
番組を見ているうちに、南国でも美味しく食べることが出来る鍋はないものかと考え始めてしまいました。
たっぷりの白菜と水餃子を、醤油とトウバンジャンにごま油を少々加えたたれに付けて食べるのは、意外といけるかもしれないなどと思いついたのですが、一体だれが餃子を作るのかと考え却下してしまいました。
台湾の食材である魚肉団子やエビ団子にお豆腐というものなら、市場で揃うものばかり。
これはと思ったのも束の間、ありゃ高かったんだと気付いて、これまた却下。
この分では、いつも通りのスープかけご飯になってしまうような予感がしています。
テーブルの上で調理出来、家族全員で鍋を囲める料理は、考え方によっては世界に自慢出来る日本人の心、和の精神を具現化した食べ物なのかもしれません。
あるいは、家族皆で鍋を取り囲み寒い冬に立ち向かっていくという、冬の食と暖を一緒にとるという日本人の持つ合理性の現れたものなのかもしれません。
食文化は、考えれば考えるほどに奥深い意味があるようです。
大切にしていかなければいけないものの1つかもしれませんね。
キャンプの時、なぜかき決まってカレーを作っていましたが、皆で食べたあの味に勝る美味は、最近なくなってきているようです。
田舎の実家の味、家庭の味が食卓から姿を消してしまった結果、代わって家庭の崩壊、親子の断絶など色々な問題が、社会の日常的な話題になってしまったような気がします。
美しい日本は、自然の風景でも国を愛する心でもなく、ましてや国歌や国旗でもなく、冬の風物詩だった鍋を囲む家族の姿の中にあるものであり、それこそが世界に誇れる日本の心なのかもしれません。
暇にかまけて、柄にもないことを思ってしまったようです。
それにつけても、一人だけの鍋パーティーは侘しいものです。(2006.12.20)
ご挨拶52
今年も残すこと後一日になりました。
つたないHPですが、多くの方にご覧頂けたことを大変嬉しく思っております。
ありがとうございました。
私もこちらに移り住んで、来年で4年目になります。
今年は年末に体調を崩し、心不全のために体内に溜まってしまった4.5リットルの水分を、数日かけて搾り出したことをのぞけば、すこぶる快調に過ごすことが出来ました。
この時期は、やはり南の島暮らしがありがたく思えてなりません。
寒さが一番の敵とのこと、平均気温28度のこの時期のルソン島は快適です。
怖いことに、こちらでの暮らしが長くなるにつれて生への執着が強くなり、最初の頃の潔さは姿を消してしまいました。
体力増強計画などといって散歩や筋力トレーニングを始め、一回り太くなったふくらはぎを見て、“筋肉がついてきた”と喜んでいられたのも束の間、自分の健康状態を無視した運動のせいで、ただ単にむくんでしまっていただけだったという笑い話にもならないていたらく。
恥ずかしい話です。
健康のためなら死んでもいいというアメリカ人に笑われている始末です。
何はともあれ、無事に今年も終わることが出来たことを感謝しております。
来年こそは、少しでも経済的困窮からの脱出を図るべく、身体を壊さない程度に頑張ってみたいと考えております。
どうぞ皆様も良いお年をお迎え下さい。
来年もどうぞよろしくお願い致します。
恭喜新年!(2006.12.30)
謹賀新年
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
イラクからの暗いニュースで、私の2007年が始まってしまいました。
イラクで死亡した米兵が、新年そうそう3,000人を超えてしまったそうです。
イラク人の犠牲者は、アメリカ政府の発表では3万人。
国連の聞き込み調査では、既に10万人をはるかに越える犠牲が出ていると聞きます。
シーア派の反政府活動家百数十名を処刑したというのが、フセイン処刑の直接的な理由といいます。
イラン・イラク戦争当時、アメリカの指示でクルド人への化学兵器を使用し大量虐殺をしたことや、20年間に及ぶ独裁政治でイラク国民を苦しめ続けてきたこと、アルカイダとの関連、大量破壊兵器の所有などなど多くの問題が何一つ究明されることなく、“悪魔のようなフセイン”のレッテルを貼り付けただけで、真実は歴史の闇の中に葬り去られてしまいました。
抑圧されたイラク国民を悪政から解放し、民主主義を実現するという高邁な理想でイラク戦争を始めてしまったアメリカのブッシュ大統領は、賞賛されることはあても、平和への反逆者として糾弾されることはありません。
“極めて個人的な親子2代にわたる執念で、フセイン殺しを実行するために戦争を始めてしまったような印象を持ってしまう”とは、私の近隣に住む米退役軍人たちの話です。
“ブッシュはいつから神になったのか?”と、首を振りながら酒をあおる老人たちの言葉には、一笑に伏せないものがあります。
“理性を失ったようなアメリカの行動は、ローマ帝国の衰亡時と全く同じだ。今、私たちは歴史の同時性を体験していることを自覚するべきだ。さもないと気が付いたら滅亡へ猪突猛進していたということになってしまう”とは中国系退役軍人の言葉ですが、なにかしら重さを感じてしまいます。
年末から年始にかけてのドンチャン騒ぎの中での出来事でしたが、酔っ払いの中でソーダ片手に過ごしていると、彼らが吐き出すように語る“もう俺たちだけで十分だ。貧乏じゃなければ誰が兵隊になんかなるものか!”という言葉に、多くのことを考えさせられてしまいました。
新年早々、暗い話になってしまいました。
時と場所をわきまえない愚か者とご容赦下さい。
長い人生ですから、お詫びから始まる年があってもいいのではないかと開き直っております。(2007年元旦)
ご挨拶53
昨年、上がり続けていたジプニー代やLPGなどの料金が大統領の一声で下がり、安くなったのも束の間、また以前と同じ料金に戻ってしまいました。
“50センタボ安くなったと思ったら、すぐに3ペソぐらい簡単に値上げされてしまうのがフィリピンさ“
と、知り合いのフィリピン人も話していました。
彼は、毎朝小銭が財布に入っているかを確かめてからでないと、安心して出かけることも出来ないと言います。
以前、ジプニー料金が何の前触れもなく突然値上がりし、ドライバーから料金の不足を伝えられたものの、お金がなくて困ってしまったという経験をしたからだそうです。
それ以来、値下げされた後は特に、小銭を持ち歩くよう心掛けているそうです。
“政府が値上げしたことは100%信じられるけど、上がり続けていたのが値下げされたら、近いうちに大幅な値上げがある前触れなんだ。笑うことしか出来ないよ”
と諦め顔で肩をすぼめていました。
労働者への最低賃金が引き上げられたと報じられても喜ぶ者はおらず、それよりも今度は何が幾ら値上がりするのかを警戒するのが貧乏なフィリピン人なのだそうです。
今年は、値上げの話題から新年が始まりました。
信じられない諸物価の高騰を政府の公共料金の値上げが誘発し、電気料金の値上げ幅に比例して様々なものが値上がりするのですからたまりません。
それに加えて異常と思えるほどのペソ高。
年金暮らしのアメリカ退役軍人たちの暮らし向きも、日に日に厳しくなって来ているようです。
一昨年までは、私の焼く魚の干物の臭いに非難轟々だったのが、今年は年明け早々干物を焼く臭いがあちこちから漂って来ました。
そのせいか、チップ目当てのフィリピン人スタッフの行動も、前回のクリスマスに比べて控えめだったようです。
“もうアメリカの時代ではない。我々のペソの価値が上がり、ドルは下がっている。フィリピンはアメリカの植民地ではない。我々はアメリカの言いなりにはならない!”
と胸を張って発言していたアロヨ大統領ですが、昨年末、犯罪を犯した米兵の引渡しについて米国と交渉していた政府の国民向けパフォーマンスだったのか、その真意は分かりません。
しかし政府の態度に反比例するように、米ドルを買い漁る動きが政府関係者や財界人の家族に見られ、大きな動きとなって買われているのにもかかわらず、ドルは値を下げ続けているのですから不思議なものです。
この国には、経済の原理は全く通用していないようです。
過去一年で25%近いインフレを高度成長と豪語しているのですから、理解しようなどと考えてはいけないのかもしれません。
出来ることと言えば、自分の生活規模を縮小し余力を持たないと大変なことになるという退役軍人の動向を、注意深く観察して身を守ることだけのようです。
なにはともあれ、波乱の一年が始まりました。(2007.1.10)
ご挨拶54
早いです。時間の過ぎるのが、以前に比べて一段と早くなった感じがします。
もうすぐ中国の新年、旧正月です。中国のテレビ・ニュースは、早くも始まった帰省ラッシュの風景を報じていました。
飛行機は予約を取るだけでも大変で、北京−上海間の新幹線も人気が高く、何日も駅前に並びチケットを購入するほどだそうです。
山のようなお土産を持つ人たちで大混雑している列車のホームの様子が映像で紹介されていました。
隔世の感という言葉が思い起こされてしまいます。
少しばかり前の日本では、中国は現在の北朝鮮と同じく、仮想敵国として危険視されていました。
まさか自分が生きているうちに、これほど劇的な中国の発展を見られるなど、学生時代には考えられませんでした。
私の学生時代は、中国語を学んでいると就職に差し障りがあるからと止めていく人たちがたくさんいたという嘘のような話が、社会に満ち満ちていたのです。
それがこの20年、急激に発展する中国はすっかり“竹のカーテン”を取り払い、世界のリーダーを担う大国へと変化してしまいました。
現在では、中国語を話さなければと慌てて中国語教室に飛び込んでいく団塊の世代も多いと聞きます。
私の若い頃に現在の中国を予測していた人たちがいた記憶などないのですが、今頃になって“私は若い頃から、中国はこうなるだろうと思っていたんだ”という言葉も耳にします。
結果を見てからならば、いくらでも過去の心境は語れるというところでしょう。
現在もなお仮想敵国として見なされている北朝鮮ですが、一体どれだけの日本人が数十年後の北朝鮮を想像出来ているでしょう。
歴史の必然から考えると、未来に大きな変化が期待出来るのは、現在の低開発国になるのかもしれません。
そして現在の大国は、衰退するのみなのかもしれません。
新たなシルクロードで結ばれたユーロと中国の連合が世界に君臨し、アメリカや日本は歴史から消え去り、南北統一された朝鮮が、現在の日本のようなポジションにいることも考えられるのです。
そんな馬鹿なと思われることこそ未来の姿なのかもしれません。
しかし、周辺諸国の変化の中で40年前と何ら変わらないフィリピンを考えると、必ずしもこの推論が当たるとは言い難いようにも思います。
意外とフィリピンは、前世紀の姿を残す国としてテーマパークのような扱いを受けているかもしれません。
歴史の必然にも、例外があるということなのでしょうか。
韓国の釜山港とロンドンのヴィクトリア・ステーションを結ぶシルクロード新幹線の実現が早いのか、月旅行が一般化するのが早いのか興味あるところです。
私は断然、中国西域への帰省客と一緒に、少々時間がかかっても未来のシルクロード新幹線“こだま”でのんびり旅したいものです。(2007.1.20)
ご挨拶55
中国も半世紀前は今の北朝鮮のような状況で、農作物の出来も天候に左右され、飢えに苦しむ人たちで溢れていたとか。
西側の報道ですのでどこまでが真実か分かりませんが、何かしら不穏な空気が竹のカーテン越しに伝わって来たものです。
毛沢東と周恩来の指導体制が確立され、林彪のクーデター未遂事件が起こり、蜜月が続いていたソビエト連邦との関係も少しずつ冷え始め、緊張関係に移行して行った中国。
40年前には中国全土を文化大革命の嵐が襲い、街にも村にも紅衛兵が溢れ出ていたと言います。
大勢の若者たちに三角帽を被らされ、胸に罪状を書いたプレートをつけられて市中を引き回されている人たちの姿や、群集の前に引き出されて自己批判する人たちの姿を、西側の報道は連日伝えていました。
劉少奇も群集の前で自己批判させられ、ケ小平などの党幹部も紅衛兵たちの餌食でした。
毛沢東や中国共産党のマークが付いた赤い手帳や、毛沢東の言葉が印刷された赤い小冊子を持ち、胸や帽子に文化大革命の各種バッチをつけた紅衛兵たちの姿は、どう見ても子供のようにしか見えませんでした。
毛沢東の死後、文革を指導しクーデターを計画したとして、毛沢東婦人を含む“4人組”を逮捕。
これを契機に僻地に追放されていたケ小平が政権に返り咲き、急激に近代化が進められ、短時間で現在の発展の基礎が構築されました。
“黒い猫であろうが、白い猫であろうが、鼠を取る猫がいい”というケ小平の有名な発言で、共産主義は中国独自の民族主義的共産主義ともいえるダブルスタンダードの“中華主義”へと変革して行ったのでした。
1947年、毛沢東たち中国共産党は、飢えに苦しむ貧しい農民や労働者の生活を向上させ、安定した食糧生産をスローガンに、中華人民共和国を建国しました。
それが今では、IBMを買収し世界的コングロマリットの一翼を担うほどになり、都市と地方の経済格差も年々拡大化しています。
躍進的な発展にも少しずつ陰が忍び寄り、地方から綻び始めた鉄壁の壁を見て、中国が再び混乱する危険性を内包していると危惧する人たちや、それを期待する人たちがいることは、否定出来ない事実かもしれません。
世界各地の華僑社会にも、古来の台湾系華僑や大陸系華僑だけではなく、ニューチャイニーズという大陸系エリート集団が出現したそうです。
子供の頃に学んだ集合論を思い起こし、発展は未来永劫ではないという歴史の必然を確認したくなってしまいます。
“盛者必衰の理”なのかもしれません。栄華を極めてもあまりにも短い命、儚いものです。
発展の枠組みの外にいようが中にいようが、結果は皆同じで何ら変わらないのですから、楽しく生きたいものです。
何はともあれ、新年の朝に湯円を食べ、夜には水餃子に入れられた幸運の金貨を探り当て、今年こそ“恭喜發財”でありたいものです。(2007.1.30)
ご挨拶56
ルソン島北部のバギオは、高度1500m。
快適な避暑地なのですが、昨年は異常な気温の高さに避暑客の多くが海浜リゾート地に流れ、観光に従事する人たちには辛いシーズンだったと聞きます。
それが今年は、夏シーズン直前の気温が昨年と比べて低すぎ、またもや関係者をハラハラさせているとか。
2週間ほど前のバギオでは最低気温が5度まで下がり、テレビのニュースでも例のない低温だと伝えていました。
私が住むルソン中部でも、日中にクーラーが要らないほど快適な日が続き、就寝時には窓を締め切り、寒くてシーツをブランケット代わりにしなければならないほどでした。
南国だから長袖のシャツなど不要と、すべて処分してしまったことを悔やみたくなってしまいましたが、やっと今週に入って寒さから解放され、ほっとしているという有り様です。
異常気象は世界的なようで、ニューヨークからはセントラルパークで遊ぶTシャツ姿の人たちの様子が報じられ、日本からは雪のないスキー場や雪不足に悩む雪祭りのニュースが伝えられるなど、何か異変の前兆かと思いたくなってしまいます。
このところの世界的規模の天候異変に、京都議定書を足蹴にしていた米国政府ですら、慌てて地球の温暖化現象にレッド・シグナルを出し、化石燃料の消費削減のための植物性エタノールの開発に力を注ぐことを発表したそうです。
どうも米国政府のやることには、一貫性が認められません。
それどころか、後先を考えることも出来ないのかもしれません。
政府のエタノール発言直後から原料のコーンが異常な高値となり、開発研究の先行きを危ぶむ声が出て来ているそうですが、イラク戦争が異常な金属の値上がりを招き、銅などは戦争前と比較して7倍以上にもなってしまったことなどから、地球温暖化防止のための研究開発より、今後の投資先はどこがいいのかにアメリカ国民の関心が向けられてしまっているような状況を引き起こしているそうです。
やはり、地球規模での異常気象よりも目先の市場の動向の方が、世の政治家やビジネスマンには切実な問題なのかもしれません。
天候異変、異常気象、気温の上昇などの話題は、シーズンズ グリーティングでしかなく、私の“ご挨拶”同様、時候のご挨拶以上の意味は持たないようです。
水位の上昇で我が家が床上浸水しても、“いつかは水位も下がるだろうから、それまで待つしかない。泣く子と地頭、そして自然には逆らうことは出来ない”と、隣を眺めては納得するしかないのかもしれません。
才覚のある人たちにしたところで、“水が引いたら掃除用具が売れるから、今のうちに仕入れておけば儲かるぞ”といった程度。
植物エタノールの原料の買占めに精を出す現代のエリートたちと、全く同様なのかもしれません。
虚しいですねー……。(2007.2.10)
ご挨拶57
また、今年最初のピットインが近づき、何かしら複雑な気持ちです。
毎回毎回、経済的にも精神的にも背水の陣で臨み、かろうじてエンジン・ポンプが機能している状態ですが、差し迫った緊迫感はないので、返って余分なことを気にしてしまいます。
慣れとは恐ろしいもので、生きているだけで幸せと感じていたのに、術後3年、4年ともなると謙虚な気持ちもどこへやら、やれ金がないとかもっと贅沢をしたいとか、それも高じるともっと環境のいい綺麗な所に住みたいなどと、よくもまあいろいろな欲求が湧いて来るものです。
ヨルダンにあるアイン・モーゼの湧き水のように、枯れることがない砂漠の湧き水ならばよいのですが、欲望の泉になっても困ります。
人間命ある間は、欲望との闘いなのかもしれません。
今このご挨拶を書きながら、頭の中には分厚い豚ロース・ステーキの脂身が焼け焦げる芳ばしい匂いが充満しています。
醤油を付けてご飯の上にのせたステーキ・ライスの肉汁とたれがご飯に染みた旨味は、英語では表現出来ません。
些細なことなのですが、こうした醤油と肉汁の染み込んだご飯に美味しさを感じる味覚こそが、日本文化の本質のような気がしてしまいます。
目に見えず、形も知覚出来ず、香りという曖昧模糊としたものに価値を置く日本人の心は、言葉では表現出来ません。
季節によって柚子や菖蒲のほのかな香りを愛でる感性は、説明不能なことです。
死を目前に控えた我が子の着物に香の香りを焚き込む母親の感性や心情は、日本人にしか分からないものかもしれません。
20年ぐらい前に日本の電気メーカーが開発した自動翻訳機なるものが、スミソニアン博物館に収納されています。
その時、私の知人が、
“言葉の生まれた背景や歴史の研究もないままに、自動翻訳機が技術者の手だけで出来てしまったことは、人類が破滅に向かう速度を速めてしまったようなもの。機械では翻訳不能な微妙なニュアンスこそが、人類最後の時に知恵を生み出す鍵になるかもしれないというのに、重要な問題の理解も判断もすべて機械任せにしてしまう世界の潮流に、誰一人警鐘を鳴らさないのだから、未来は暗いね”
と言っていましたが、本当に伝えたい事柄を伝える術がないということは歯痒いことです。
独自の文化観を正しく伝えようとはせず、時の覇者、帝王の顔色を伺いながら、意味不明な笑みを浮かべて流れに身を任せてしまうのも日本人の美徳なのかもしれません。
自己のスタンディング・サーカムスタンスを正しく伝えることもせず、“ショウ ザ フラッグ”の一言で自衛隊を戦地に送り込み国際貢献していると錯誤しているのも、日本人だからこそ出来る芸当になるのでしょうか。
追従するだけが道ではないはずです。
追従もしくは対峙という二分法的理解は、西欧文明の特徴。
岡倉天心は、
“東洋の心とは、断定することなく理解していくことが出来る寛容さ、清濁併せ呑む心の広さにある”
と言い、それを理解出来ない欧米諸国を痛烈に揶揄し嘲笑しましたが、現代の日本は、自己説明や証明も出来ないことを嘲笑されているのかもしれません。
ほのかに路上に流れる焼き鳥やウナギの匂いに旨味を連想出来る日本人固有の感性も、いずれは過去の遺産となってしまうのでしょうか。
空恐ろしいことです。(2007.2.21)
ご挨拶58
少々長引いてしまいましたが、何とかピットから出ることが出来ました。
どこがどうという訳でもないのですが、金欠病だけは対処法がなく匙を投げられてしまうばかり。
無神論者が神頼みする訳にもいかず、自然快癒を待つしか方法はないようです。
しかし、日本のあまりの寒さに飛び込んだ某紳士服チェーン店で、税込み価格が9,000円を超えるズボンが、なんと390円で売り出しているのを見つけ、“まだまだ捨てたもんじゃない。運が残っている!”と思い、喜んで購入してしまいました。
貧乏も楽しむことが出来れば本物とか。私もどうやら本物になって来たようです。
桜満開の季節には相応しくないご挨拶になってしまいました。どうかお許し下さい。
さて、現在私の住むフィリピンの田舎町は、手に手にココ椰子の葉を持ち、教会から出て来る人で溢れています。
皆、復活祭を祝う敬虔なカトリック信者たちです。
そんな人ごみにもまれながら、私はふと“貧しい者ほど神の国に近い所にいる”といった聖書の内容を思い出しました。
“考え方次第では、私は神の国の門に一番近いところにいるのかもしれない”などと脳天気にしていられる私は、案外幸せ者なのかもしれません。
神の国の近くにいても、中に入ることを許されるかどうかは、また別な話であることなど気にもかけずにいられるのですから、この単純さに我ながら感心してしまいます。
“富優先の社会で貧困と戦う人々の構図”は、古代から現在まで寸分も違わず営々と繰り返されて来たにもかかわらず、明日を信じ、死後の世界での安寧を信じることで、貧困の中に善意を育んできた大多数の無告の民。
彼らの真面目な生き方と、どんな局面でも揺るがない信仰に裏打ちされたような人生は、自らを経済難民と自己規定し、現在の生活に満足しているという自己暗示をかけるのに四苦八苦している私には想像も出来ないことです。
改めて考えると、“経済的に困窮した生活に対して真剣に取り組む”とは、いったいどうすることなのだろうかという疑問に直面してしまいます。
真面目に状況と対峙し努力するとは、具体的にどうすることになるのでしょう。
経済的豊かさを手に入れて成功者となった方々は、“えり好みせずに一生懸命働き、生活に必要なお金を入手し、富の蓄積を片時も忘れないで努力し続ける術を身に付けることだ”とおっしゃるかもしれません。
しかし、私の身近にいる現地の人たちの暮らし振りを見ていると、キリスト教だろうがイスラム教だろうが、経済的豊かさと人間性は反比例する関係にあるのではないかと考えてしまうことが度々あります。
貧しいもの同士が、見返りを期待した相互扶助ではなく家族同様にお互いの存在を認め合い、敬意を持って助け合う姿をこの3年間幾度となく目にして来ました。
彼らもまた、困窮した生活の中で真剣に生きている人たちです。
彼らのそのような行動のファンダメンタル・ユニットが何になるのかは分かりませんが、直観的に、彼らの暮らし振りの中にこそ歴史的に検証された“人のあり方”が存在しているように思われてなりません。
自分自身の問題としてこの時期にこの課題に直面したことは、私にとって避けては通れない必然なのだと思っております。
今の状況を真面目に生き抜いた時、あるいは死を迎えた瞬間に、その答えに接することが出来るのかもしれません。
“歴史とは、眺めて評論するものではなく、自分自身の一挙手一投足を起点として、その源を探り求めていくフィールドである”と語った人類学者がいました。
まさにその通りかもしれません。(2007.4.1)
ご挨拶59
“生涯一捕手”とは、有名なプロ野球の選手が引退を前に語った言葉です。
それ以来“生涯一○○”という表現が流行になったようで、今でも時々耳にすることがあります。
随分前の話になりますが、“生涯一脇役”と言った役者の言葉をテレビで耳にした時、私は“生涯一○○”と誇れるような人生を過ごして来なかったという事実に直面して、少なからず動揺してしまいました。
それを契機に、あれやこれやと過去を振り返ってみることが多くなったような気がしています。
人に誇れるような人生には程遠い生き様で、思い返すたびに恥ずかしさで冷や汗をかき、恐怖で身の縮む思いがし、あまりの情けなさに笑いが込み上げ、挙句の果てに吐き気まで催してしまいます。
食べるためとはいえ、よくもまあ今まで風来坊を続けられたものだと、我ながら呆れてしまいます。
還暦を過ぎて気が付けば、自分自身が世にいうフリーターの元祖みたいな生活を送って来たのですから驚きです。
これって、名実共に“生涯一フリーター”ということになるのでしょうか?
思い返せばニートだった時もあったような気がしますし、人に語れるような人生ではありません。
人は、“何事にも捕らわれず、自由に生きれて羨ましい”と言ってくれるのですが、この言葉の裏には、性格破綻者あるいは社会の落伍者という意味が含まれているどころか、そのものと言われているようなものなのですから、“自由”という言葉を耳にするだけで、何かしら暗い気持ちになってしまいます。
フリードマンの「群集の中の孤独」の中で、“籠の中の自由”と“籠の外の自由”という話があります。
私も自ら進んで“籠の外の自由”に憧れて生き続けて来たものの、手にしたものは言い知れない疲労感と“孤独の中の孤独”という予想すら出来なかった結果でした。
孤独の中の孤独な状況でも自由を守り通す困難さと、今頃になって対峙しなければならなくなるなんて考えたこともありませんでした。
先日、人と会うために何年か振りに銀座へ行ったのですが、変わらない風情に安堵したのも束の間、大きなショーウィンドゥに映った自分自身に驚き、思わず後ろを振り返ってしまいました。
ショーウィンドウに映った疲れ果てたような老人の姿が、現在の自分自身とは思えなかった(思いたくなかった)からです。
その時、フリードマンの「群集の中の孤独」を思い出し、街中の雑踏や騒音の中で言い知れない孤独を感じてしまいました。
しかし私の住む南の島に帰ってみると、東京とは違う喧騒に包まれた、無秩序で混沌とした街中で、私は東京とは違ったポジティブな意味での群衆の中の孤独を感じました。
海岸で遊ぶ子供たちの嬌声やリズミカルに渚を打つ波音を聞きながら、青い空に浮かぶ雲の変化する姿を見ながら、心地よい“カオスの中で感じる静寂”を満喫しながら、籠の中では手に出来なかった自由の価値や意味を少しばかり感じることが出来たようです。(2007.4.10)
ご挨拶60
火曜日の夜、いつもお世話になっている東京の病院関係者から、“AERAの中にじい発見”というメールを受け取りました。
コンビニで週刊誌をめくっていたら、今週月曜日に発行された週刊アエラで、海外在住の方々の生活を紹介していて、その中にあった私の貧乏暮らしの記事を偶然発見したとか。
以前、アエラの編集部でライターをなさっている斉藤さんからお話があって取材して頂いたのですが、照れ臭いやら恥ずかしいやらで取材を受けたことをだれにも話していませんでした。
私のような者でも、海外で暮らすことで十分に経済的メリットがあるといった話をしたように思うのですが、いざこうして掲載されていたという話を知り合いから聞き、今頃になって、柄にもなく気取って偉そうなことを話してしまったのではなどと心配になり、記事を読む前から身を縮めて恥入っております。
記事掲載後に雑誌をお送り頂けるということでしたので、“人生という名の旅、恥はかき捨て”と開き直り、ドキドキわくわくといった心境で待っている次第です。
皆様にも機会がありましたらご一覧頂き、ご一笑下されば幸いです。
ここで、記事にして下さったライターの斉藤さんへのお礼も兼ねて、ある方からお聞きしたヨーロッパの老紳士のお話を書きたいと思います。
彼は典型的なイギリス紳士で、保守的で頑固者。それでいてお茶目な一面も持ち合わせた、ユーモアのセンスある老人でした。
そして、いつも自分1人の世界を漂っているような人物だったそうです。
彼が話をする時は、何の前置きもなく唐突に始まるのが常でした。
しかし、彼の中では四六時中継続していた話で、すべてが論旨明快なものだったため、突然の彼の言葉に戸惑ったりしようものなら、間髪を入れず雷が頭上で鳴り響き、“極めて失礼な人物”という烙印を押され、室外に放り出されてしまうというのですから、いい迷惑な年寄りでもあったようです。
考えた末に、“相手がそう来るなら、こっちもこっちのルールで答えてやる”と意気込み、言葉を詰まらせながらも老紳士の話を無視して自分自身を語り始めると、彼は上機嫌になり、“今日の夕食の予定は?”と聞いて来たのでした。
それ以来このパターンが定着し、拒否権の許されない誘いに運が悪かったと観念して、なけなしの大金をはたいて鉢植えの花を買い求め、決められた時間に老紳士のお宅へ出直すと、決まって鉢植えの花を庭に埋め変えさせられたそうです。
夕食は、いつも7時半。
ミートパイと、なみなみと注がれたミルクティ、そして食後のデザートに、たまにヨークシャープディング。
でも大概は、ピンクやグリーンの毒々しいバタークリームで塗り固められたようなラウンドケーキが4分の1個。
これで空腹を凌げるのだろうかと考えてしまうようなメニューだったようです。
彼の話は、いつも若かりし頃の武勇伝ばかり。
大半が、ビルマのカチン族をカチンレンジャーとして育て上げ、日本軍に立ち向かわせていた時のものでした。
しかしその話の合間合間に、金の輝きを放つ言葉がちりばめられており、気を抜いて聞いていることも出来なかったそうです。
老紳士の夢は、遺跡の平穏と静寂を守るために、遺跡の眠る砂漠でテント暮らしをしながら好きなワインを飲み、“掘らない考古学者”になることだったそうです。
ちまたでは、老紳士は酒類を飲まないとされていましたが、実は彼愛用のワインは、フランスのシャトーものの赤で、ノルマンディーのカルバドスやアルマニャックも好きだったようです。
“これらの酒は、師を同じくしたあまり好きではない友人が、毎年送ってくれるんだ。ワインの豊穣さの前には、僕は従順だよ。人間の好き嫌いなどはどうでもいいことだからね”
と、訳の分からない言い訳を繰り返し、たしなみ程度にグラスを傾け、膝をゆすりながら話をしていた老紳士……。
何のお礼も出来ない私ですので、ある老紳士の話を書いてみました。
“身近な所にある不思議の源を探ることこそ、人間を、歴史を学ぶ者の姿勢でなければならない”とは、その老紳士の口癖。
キングスカレッジの学長になった後も、こんなことを言い続けていたのでしょうか。少々、気になるところです。(2007.4.20)
ご挨拶61
ここのところ暑い日が続いています。
先日、マニラで今年最高の38度を記録したそうで、夜になっても気温が下がらず大変だったようです。
フィリピンの人たちは暑さに弱く(29度以上)、また寒さ(26度以下)にも弱いようです。
先月の初め頃、“寒くてよく眠れない”と言っていた知人が、今は“クーラーがないから、暑くて眠れない”と、顔を合わす度に話しています。
夏真っ盛りの今も、街中で毛糸のキャップを被った人をよく見かけます。
ファッションなのか、必要があるからなのかは知りませんが、不思議な人たちがいるものです。
早朝にはダウンジャケットを着込んだり、セーターを着込んだりしている人もいます。
また、“今年の雨期は早く始まるかも”などと、今から雨期仕度を始めている人たちも多いそうです。
冬仕度は日本の山村でよく耳にする言葉ですが、広い世界のこと、所変われば色々な仕度があるものです。
私の知人たちは海岸沿いに住む人が多いため、強風や高潮の台風対策に今から大忙しです。
強風で吹き飛ばされないよう椰子の木の傍に家を移動し、ロープで幹に家丸ごと縛り付けたり、屋根にロープをかけて砂袋をアンカー代わりにしたりなど様々です。
選挙候補者の顔写真がプリントされた厚手のビニールシート・ポスターを集めて来て、壁や屋根の補強材に活用するのが、どこの家でも行なっている一般的な台風対策のようです。
今日は、低所得者層の住宅(?)で行なわれている床上浸水対策の一例を紹介してみたいと思います。
それは、慢性的に起こる浸水から家財道具一式を守るため、生活の知恵から生まれた習慣です。
天井の梁から幾本も吊るした自転車の車輪のチューブを引っ張って家具に固定しておき、浸水の際に床に家具を密着させていたストッパーを外すと、瞬時に家具が中空に持ち上がるという仕掛けです。
赤ちゃんのいる家では、一年を通して赤ちゃん用のベッドを吊るし、ハンモック代わりにしている家も多いとか。
浸水だけでなく、鼠やゴキブリや毒虫から赤ちゃんを守るためにも便利な仕掛けなのだそうです。
“チューブの変わりにロープを吊るしておけば、首を吊って死ぬ時も便利だからね”
と笑い飛ばす彼らの話に、一緒になって笑うことは出来ません。
冗談を飛ばしながら浸水対策に精を出す彼らの厳しい生活環境を思うと、考えさせられてしまいます。
不平不満を言っても通用しない自然災害だけではなく、階級の高い富裕層から受ける災難もすべて天災として捉え、当たり前のように毎年毎年同じことを繰り返す彼ら。
ある貧困層のコミュニティーの長老は、
“すべてを自然なことと受け止め、泣き言を言う暇があったら積極的に諦め、次の手を考えて手当てしていくことが生き延びる知恵だ”
と語ります。
ぬるま湯のような生活環境で還暦を迎えた私などには、あまりに厳しすぎる言葉です。
頭では理解出来てもそれだけのこと。
知識が増えても、少しも役に立ちそうにはありません。(2007.4.30)
ご挨拶62
電話が不通になって30時間以上が経過してしまいました。
明日、無事にHPに掲載出来るかどうかは神のみぞ知ると言いたいところですが、ここフィリピンでは、回線が復帰しても電話が使用出来るかどうかは電話局の全くの気紛れ、神様でも予測不能なことが起こりえるのです。
周囲の電話が回復しても、なぜか我が家だけは1週間位不通のままというのも珍しいことではありません。
直接事務所に出かけて平身低頭して電話の回復をお願いしなければならないのですからたまりません。
対応する女性事務員の機嫌次第といったところです。
接客中に私用の電話が入り、楽しいおしゃべりが延々と続けられ、挙句の果てに“まだいたの。ところで何の話だったっけ?”なのですから、どうすることも出来ません。
女性事務員は客よりも社会的ヒエラルキーが高いらしく、彼女たちのご機嫌を損じてしまったら大変なことになります。
どうしても電話が必要なら、彼女や彼女の家族以上のヒエラルキーにある政治家、軍の将軍、国家警察の司令官などに助けを求めなければ問題は解決されません。
とにかく高くつくことは間違いのないことです。
ですから、“ご機嫌はいかがですか、マーム?”から始まって、終始笑顔を絶やさずに歯の浮くようなことを猫なで声で話し続け、彼女の優しさに哀願しなければならないのです。
笑い話のような話ですが、女性上位のフィリピンではこんなことは常識なのだそうです。
こうした女性をギャフンと言わせることが出来るのは、“アメリカ人”それも退役したとはいえ高級将校の意向は大したものだそうです。
しかし最近では、完全なキングスイングリッシュを話す英国人やオーストラリア人も、居丈高な女性たちには受けがいいとか。
彼女たちがキングスイングリッシュを耳にすると、借りてきた猫のようになってしまうというのですから可笑しなものです。
骨身に染み込んだ植民地根性とでも言うのでしょうか。
“時代劇のような英語(クラッシックな英語)”の威光は、今ではアメリカの退役将校の上だそうです。
こんな国ですから、日本人の話す英語など鼻であしらわれてしまいます。
一般的日本人はあらゆる面で、アメリカン・フィリピーノといったアメリカの市民権やグリーン・カードを持つ人たちの足元にも及ばないそうです。
江戸時代の長崎出島の小役人か、上海の外国通商館の買弁といった人たちと同格のような存在なのかもしれません。
退役軍人村に住んでいたところで私のように日本人名義の電話回線では、七光りも威光も期待出来ません。
何事もなく一刻も早い電話回線の回復を祈ることしか方法はなさそうです。(2007.5.10)
ご挨拶63
私の住む南の島には、何でも形からというのが得意な人々が多いようです。
と言うより、何でも形から始めるのは、政府のスタイルなのかもしれません。
文明国には電車が走っているというと、交通事情や利用者の利便性などは二の次で、先進国のイメージ醸成にはここが良いとか、ここに作れば目立つとか、あるいは政治家の利権と利便性が最優先という理由から都市化が進められてしまうという、世界に例を見ない不思議な国のようです。
高速が出来なければ、電車が走らなければ、もっと便利だったのにという話をよく聞きます。
政治家たちの見栄や利権のために、気紛れに先進国を模倣した結果、道路を挟んだ前の家に行くのにバスやジプニーを乗り継いで行かなければならなくなってしまったと、愚痴をこぼすことしか出来ないのがこの島の一般庶民の姿のようです。
虚栄、利権、国際援助、開発支援などの名目に合わせて、無計画にどんどん街が作り変えられていくのですから大変です。
しかしこうした政府や富裕層に対し、負けてはいないのが最下層の人々です。
彼らの生存能力の高さと逞しさには、驚かされてしまうことも度々あります。
電気、電話、ケーブルテレビの電線をごそっと盗んだり、電線から電気を共同で盗んでたこ足配線で利用したりしているのですから、ケーブルテレビの不正受信などは可愛いものだそうで、上が上なら下も下といったところです。
カソリックが国教の国ですから、何をしたところで懺悔すればすべてが許されると言う人たちです。
罪悪感などという不健康な考えなど、どこにも存在していないようです。
利用者のことなど考慮外で、全く無軌道に電車が走ったり高速道路が出来たりするのは、国家的文化になるのかもしれません。
19世紀末のドイツの神秘哲学者だったシュタイナーという人が、社会三層理論こそが理想の社会構造であると言ったそうですが、彼の提唱した精神の自由、法の下の平等、経済の友愛が実現された民主主義こそが理想という考えも、この国の指導層や富裕層にかかれば、“私たちの国は、まさに社会三層理論を実現した世界の範にたる民主主義の国家です”と胸を張ることになるのではないでしょうか。
無関心と無批判が生み出した勝手気ままな精神の自由、恐怖が作り上げた絶対なる銃の下での平等、賄賂に支えられた経済の友愛同盟ということになってしまいそうです。
“先日選挙が終わったばかりですが、8割近い投票率が私たちの国の民主度を物語っています”と、外に対しては形式的な民主主義が政府指導の下で完璧に作り上げられ、民意が政治に反映された理想的な政治形態の国で、アジアの優等生という空疎なイリュージョンを作り上げています。
“投票に行かない自由が欲しい”と言った、お土産売りの人たちの言葉が心に残ります。
ちなみに投票日の当日、彼らの仕事場である浜辺には、終日誰一人姿を現しませんでした。
“選挙の度に、人間になりたいと思う。俺たちには選挙に行かない自由がないんだから、人間以下なんだよね”
抜けるような紺碧の空と白い砂が、物悲しく感じられてしまいました。(2007.5.20)
ご挨拶64
毎日、夜中には雨が降り、日中は怪しい黒雲が顔を出すようになり、すでに雨期入りしたようです。
本格的な雨期となれば雨が昼夜を問わず降り続き、激しい雨音でテレビの音声も聞き取りにくくなります。
それどころか、BSチャンネルは完全に見れなくなってしまいます。
外に出られない日が何日も続くのですから、青空が見れる今のうちに日光浴をと考え、貧乏焼き(?)に精を出しているこの頃です。
道路が冠水してしまうのにも随分慣れましたが、この時期になると、“ああー、お金があったらインフラの行き届いた清潔な国に住みたい”などと考えてしまうのですから、にわか仕立てのロビンソン・クルーソーの化けの皮も、あっさりと剥げ落ちてしまいます。
連日停電に悩まされ、電話回線はズタボロ状態。
“知ってるかい? 毎日停電するのは電力不足なんかじゃないんだ。外国から誘致した工場や外国資本の会社や、地元の大金持ちを最優先に配電してるから、俺達貧乏人のところに電気が来ないんだ”という地元の人の噂話を信じたくなってしまいます。
“電線泥棒も、金持ちの家に送電される電線を盗めばいいものを、ガードが怖くて貧乏人の所の電線ばっかり盗みやがる”と言いたくなる気持ちも分かります。
泣く子と地頭どころか、お巡りさんにお金持ち、その上天気にも逆らえないこの国の暮らしには、いつまで経っても納得することはなさそうです。
せめてもの慰めは、しばしのピットイン。
異変が無いことを祈りつつ、“死なない程度にしばし入院”なんてことが頭の片隅をよぎることがあり、不謹慎な思いを慌てて打ち消しているのですから、まさに小人閑居して不善をなすそのままの暮らし振り。
雨雲を眺めながら建設的に物事を考えるようにしなければと考えています。(2007.5.30)
ご挨拶65
6月12日(火曜日)はフィリピンの独立記念日ですが、今年は11日(月曜日)が独立記念日の振り替え休日になるようです。
土、日、月と3連休にするための配慮なのかどうかは知りませんが、とにかくフィリピンの祝祭日はフレキシブルで、かなり弾力があると言うかいい加減と言うか。
昨年は一時帰国していたためあまり気にもとめていなかったのですが、今年は公共料金の支払いや買い物などの予定から気になって仕方がありません。
しかし浜辺の友人たちは、
“独立記念日? 6月の真ん中頃だと思ったけど違うのかなぁ?”
といった程度で、誰も気にしてはいないのです。
日本で2月11日の建国記念日を連休にするために振り替えるなんてことが許されるのかどうかは知りませんが、アメリカの7月4日の独立記念日は変わることは無いと聞きます。
ところでフィリピンの独立記念日は、どこから独立した記念日なのか浜辺の友人たちに聞いてみたら、分からないという人ばかりで、たまにスペインかなとか日本?と答える人がいました。
中には、アメリカからの独立と答える人もいれば、
“アメリカの海兵隊員が事件を起こしても裁判権がフィリピンには無いんだから、アメリカからはまだ独立してないんだよ。それより、マルコスから独立した記念日かもしれない”
などという人までいるのですから驚かされてしまいます。そのうち、
“独立しようがしまいが、我々貧乏人にはどうってことないんだよ。独立して喜んでるのは金持ちだけなんだから、彼らの記念日なんだ”
と絶望的なことを言い始め、
“今の時期に休日が増えたからって、海に遊びに来るのは近所の人だけ。商売にはならないよ。海はもう大きなお風呂なんだ”
と、こんな調子で誰一人明確な答えを教えてくた人はいませんでした。
私自身聞いているうちに訳が分からなくなってしまい、
“何でもいいか、休日なんだから!”
と納得してしまいました。
“俺たちに独立記念日があれば、それはグ○○○○とラ○○から独立出来た時だね”と話していたイスラム・コミュニティの宗教指導者がいたことから、単なる笑い話で済ませる問題では無かったようです。
人口の80パーセントの人たちが低所得の貧民階級というこの国の、偽りの無い庶民の声なのかもしれません。
道路でフィリピンの国旗を売り歩く老人の姿に、一体何を祝おうとしているのかと考え込んでしまいました。
ご挨拶66
書くこともないのに無理して書いても意味の無いこと。
3年目に突入したこのHPも、当初の緊張感は弛緩し、怠惰なものになって来てしまいました。
これでは、こちらに来るまでの自分自身と大差ない生活態度ですが、“やっぱり死ななきゃ、治らないのか”などと呑気なことを言えたのも昨年までのこと。
ゆとりもフィリピンの生活費が安いことに由来していたのですが、ここのところの異常なペソ高と信じられない円安の到来に、私の経済逆難民の生活も当初の計画とは大幅に狂い始めてしまいました。
1万円が5千ペソあった為替の交換レートが遂に3千7百ペソを割り、諸物価の高騰も追い討ちとなって、生活苦が日々深刻になって来ています。
日本でならホームレスになるしか道はなかったのに3年間も先送り出来たのですから、今更泣き言を言っても始まりません。
予定ではこんなに長生きするなど考えもしなかったのですが、 “ままならぬは人の世と命だけ”という言葉を正に実感しております。
“さてこれからどうする”という大向こうからの掛け声に、舞台に1人取り残されて照れてはにかみ頭を掻いたところで、笑いも取れずただオロオロするだけでしかありません。
“いつまで続く、ぬかるみぞ”と、悲嘆に暮れた素振りをしても白々しく、“矢でも鉄砲でも何でも持って来い”と大見得を切るだけの才覚も覚悟もありません。
出来ることといえば、頬を引きつらせ声を裏返して客席を指差し、“アハハー! まだ居たのかい? 暇だねー”と居直った素振を取り繕うのが精一杯。
こうなって尚、ミニロトやナンバーズ、ドリームジャンボを夢見るだけの暮らしなのですから、救いようもありません。
この不様な体たらくをどこまで曝け出したら終わるのか、我ながら興味津々。
ある日、荒野の石がパンに変わり、砂漠のような大地に水が噴出し、すべてのものが潤うなんてことがあるかもしれません。
奇跡は、念じても起こらないものとか。ならば、口を開け天に向かって涎を流していても埒が明きません。
“身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もある”とか。どこまで行っても退屈はしそうもありません。
南の島暮らしも長くなると、色々と不都合が生じて来るようです。(2007.6.20)
ご挨拶67
後二日で半夏生。一年の半分が過ぎたことになります。
そして私の61歳の誕生日です。
昨年は、還暦という言葉に翻弄されていたようです。
言葉と文字の持つ魔力とでもいうのでしょうか。
考えれば考える程、私の生活はこの魔力に支配されていたとでも言いたくなるようなことが多々あります。
“ホームレス”が社会的に定着する前は、宿無しや放浪者、浮浪者、乞食などと言っていました。
一般社会の枠組み以外で生活する野良犬、野良猫と同等、あるいはそれ以下の存在と位置付けられ、自他共にそうなることが地獄へ落ちることと同様に恐れられていたものです。
終戦後、私が幼児だった頃には、地下道に住む子供の浮浪者の姿がニュース映画で取り上げられ、電車の中や繁華街には白装束でアコーディオンやハーモニカで軍歌を奏でていた傷痍軍人がいたものです。
しかしこの手の話題や姿は、いつの間にか社会の目から消えてしまいました。
マスコミが計画的、あるいは政策的に取り上げなくなってしまったのか、気が付けば日本は高度成長の真っ只中。
勤勉で忠実な模範的国民の姿が作り出されると、そのイメージの前に浮浪者や乞食の姿が町から駆逐されてしまいました。
その後、外来語なのか和製造語なのかは知りませんが、“ホームレス”なる言葉が一般的となり、“社会の落伍者、人生の敗北者”という新しいイメージが社会に定着してしまいました。
バブル崩壊後は、そのイメージに被害者という認識が付加されて社会的に容認され、社会福祉の対象者として保護される存在に変化して来ました。
もし“ホームレス”という言葉がなければ、私自身、随分と生活環境が違っていたように感じてしまいます。
敗者の美学に酔いしれて、自殺の道を容易に選択していたかもしれません。
言い換えれば、私のようにコピーライターの捻り出す言葉に左右された人生も有りなのが現代なのかもしれません。
海外への移住、ロングスティという言葉が世の中を駆け巡り、“セカンドライフ”という認識が実体の無いままに一人歩きしている今、貴重な人生を若いコピーライターの手に委ねていいものなのか考えてしまいます。
オイルショックやバブルと、いつの時代にもこうした社会的コピーに無条件に反応していたのが団塊の世代だったのかも知れません。
今や若者たちの間では、“セカンドライフ”なるバーチャル社会の中での生活が市民権を獲得し、この仮想空間でビジネスに成功したミリオネアーが沢山いるとか。
リアルもバーチャルも同価値、同意語。個人の生活は、どちらでも居心地の良い方にいるのが正しい選択となる訳です。
困るのは、今までの為政者とその体制のみ。
仮想空間での出来事に課税も出来ませんし、所得申告の徹底も出来ないのですから困ってしまうでしょうね。
IT時代とは、従来の支配体制や管理体制が崩壊し、バーチャルなアナーキーが存在出来る“ごっこ”の時代の幕開けなのかも……。(2007.6.30)
ご挨拶68
中国は雲南省大理市近郊に、梨族という少数民族が住んでいます。
世界のドキュメンタリストたちが一度は接してみたいと考える種族だそうです。
その理由は、シャーマンを中心に社会生活が営まれていることと、象形文字で記された経典が現在でも生き続けているからといいます。
シャーマンの弟子たちはもちろんなのですが、梨族の子供も象形文字を学校で学んでいるのだそうです。
梨族の象形文字は東坡文字(とんぱもしくはとんば)といわれ、古くはヒマラヤレンジで派生し、古代ラマ教の普及と共に梨族の社会に定着したという説もありますが定かではありません。
しかし古代のラマ教が伝播され、各地のアミュニズムと融合しで土着化し、独自の自然崇拝の宗教観を生み、現代まで伝わって来たという説を唱える東坡文字研究者たちは多いそうです。
梨族は、納豆や蕎麦粉を日常的に食べ、食習慣はブータンの伝統的食事に近く、日本人の食生活にも多くの類似性が見られるといいます。
あまり一般的なことではないのですが、食事の際には日本の箱膳のようなもので1人前ずつ料理が用意されるとか。
今や日本国内で箱膳という言葉は死語に近いものです。
雲南省は、少数民族の坩堝という側面があり、シーサンパンナの特別区には多くのタイヤイ族(タイ人と同類)が住み、タイヤイ語が北京官話と共に公用語になっているそうです。
タイ語が話せれば苦労しないという中国の特殊地域なのかもしれません。
ミャンマーのシャン州北部、黄金の三角地帯の一辺に位置することから、ある時期、けし栽培が主要な現金収入の道だったタイヤイ族の中にも、納豆やお祝い事に食する赤飯、各種の餅類など、日本と共通した食品が数多くあるそうです。
お茶の葉は、煎じて飲むだけではなく、お浸しとして食べたり発酵させて甘酢のような味のお茶請けにしたり、蒸し固めて碁石茶のようにしたものが生活の中に定着しているのだそうです。
梨族やタイヤイ族ばかりではなく、この地域に古くから居住しているワ族、ナガ族、ラフウ族、ロエモー族等などの種族の中にも、驚くほど日本と類似した食生活を営む人たちが多いと聞きます。
食品や食習慣が姿形を変え、日本国内各地に今なお脈々と生き続けているようです。
ということは、東坡文字のような象形文字が日本国内でも存在しているなどという可能性も、一概に否定することは出来ないのかもしれません。
沖縄のシャーマンであるノロ(巫女)の祝詞やアイヌモシリのユウカラの中に、急激な西欧化が押し進められた明治以降、私たち日本人は何かしら大切なものを置き忘れて来てしまったのかもしれません。
進化の波に飲み込まれ、アジアの人たちとの共有文化遺産ともいえるべきものを失ってしまった日本人は、アジアでも西欧でもない不思議な人たちとなってしまったのでは?
真摯に過去を振り返る努力が今こそ必要なのではないでしょうか。(2007.7.10)
ご挨拶69
トレジャーハンターって本当にいるのですね。
私の住んでいるところから僅か30〜40分ほどの所にある町で、昨年末に旧日本軍のゴールドバーがトレジャーハンターによって発見されたそうです。
何本かは知りませんが、バターン死の行進の道筋から発見されたようです。
先住民族アイタ族の一部の若者たちが、偽ゴールドバー詐欺グループの手先になっているという話は良く聞きます。
彼らが引き起こす事件が問題になったのもつい最近のことで、挙句の果てにオーストラリア人がアイタ族のゴールドバー詐欺グループから殺されるという事件まで起きてしまいました。
殺人事件直後のことでしたし、その話を聞いた時も一切その手のニュース報道はありませんでしたので、発見という話を聞いても素直に信じることは出来ませんでした。
今回の発見者は、以前マルコス時代にバギオで黄金の仏像を発見したのと同一人物で、その人物は黄金の仏像を発見した時、すべてをマルコスによって没収されたという苦い経験の持ち主。
そのため、以後一切トレジャーハンティングは秘密裏に行なっていたとか。
今回の発見直後に私の知人が通う教会に多額の寄付がその人物からなされ、礼拝堂が新造されたそうです。
トレジャーハンターとは古くからの友人で、同じ教会の信徒だったというその知人は、発見の話を直接トレジャーハンターから聞いたそうで、私もその人物の顔だけは知っていたので、一概に笑い飛ばすことも出来ずにいました。
今年の3月頃からトレジャーハンターの姿を街中で見かけなくなったものの、さほど気にすることもなくいたのですが、先日ばったり彼に会いました。
すると彼は開口一番、
“カナダとアラスカ、それに北極クルージングに行って来た”
と言うではありませんか。
知人にこの話をしたところ、
“彼はいつでもそうなんだ。宝を見つける度に、世界一周のクルーズに出かけるんだ”
と話し、バギオの一件以来、このライフスタイルを守っていることを教えてくれました。
彼の周辺にはいつもPNP(フィリピン国家警察)が付いていて、さり気なく彼を護衛しているとか。
アイタ族の集落近くからの発見にもかかわらず、詐欺グループは全く気が付かなかったというのも見事な隠密行動。
アンギレスとスービック基地を結ぶ高速道路建設に便乗した見事なカモフラージュ作戦。
多くの人々の目を欺いての大胆なトレジャーハンティング。
極秘情報や噂話が満ち溢れたこの国での隠密行動は、難易度において最高レベルに値するものですが、
“みんな欲があるから、簡単に事が進むんだよ”
と笑う私の知人も、ヴェトナム戦争中はジャングル戦の隠密行動のベテラン。
彼らだけにしか分からない極意があるのかもしれません。
ミンダナオやこの国の島々では、いまだに囁かれている旧日本軍が隠匿したという黄金伝説に纏わる詐欺事件が絶えることはありません。
多くの日本人がその被害者になったという話も良く聞きます。
しかし、本当のトレジャーハンターの行動は隠密裏になされ、外部の人間が知る頃には噂話程度の信憑性もなくなってしまっているのかもしれません。(2007.7.20)
ご挨拶70
暑中お見舞い申し上げます。
テレビのニュースで報じられるヒートアイランド現象。
つい先日、例年より数日遅れで梅雨明けたばかりだというのに、“今日も真夏日でした”というお天気情報。
暑さに喘ぐ各地の風景や、氷をプレゼントされ喜ぶ動物園の動物たちの姿は、ニュース報道の定番、恒例行事となってしまったようです。
慣れとは怖いものですね。
私が子供の頃の夏とは、様相が一変してしまったのかもしれません。
昔は、北回帰線を越えた南国では、一年中裸で暮らしているといった誤った情報がまことしやかに話されていたものです。
それが今では、昔の日本の夏のような爽やかな夏の日は、南国にしか残っていないようです。
例年のこととはいえ、日本の夏の物凄さを耳にする度に、南国で暮らしている私には、ここの夏が過ごしやすく、何も好き好んでこの時期に日本へ行くものかなどと思ってしまいます。
湿度が低いので、日陰に入ると爽やかな海風が吹き抜け、昼寝にはもってこい。
マニラなどの大都会は日本と同じなのでしょうが、海浜の小さな町での生活は、雨期を除けば快適そのものです。
日々の天気に懐かしい夏の日々を思い出し、それを体全身で感じている生活は、何にも増して幸せなことかもしれません。
日本でも着たことが無い浴衣姿で、海辺を毎夕散歩をしてみたくなってしまいます。
床机に腰をおろし、かき氷や冷えた甘酒などを飲んでみたいものだなどと感じる生活も、忙しさに追われる日本では味わうことの出来ない贅沢かもしれません。
今でもお金で買えないものが沢山残っているのが、田舎での暮らしのようです。
綺麗な殻の瓶の中に手紙をしたため、海流に任せて流してみたいなどと子供の頃の美しい寓話とロマンの世界に漂ってみるのも一興。
私の島暮らしも4年目を迎えて、やっとステレオタイプの島暮らし情報から逸脱することが出来、自分流の時の過ごし方が分かって来たようです。
真の自由の意味と対峙し、その価値を自分なりに分かりかけた今現在、この境遇に感謝しなければなりません。
社会人の若葉マークのような時に聞いた“人生、愚鈍であるべき”という禅宗の老師の言葉。
漠然とではありますが、40年後の今にしてやっと、その輪郭を掴めたような気がしている毎日です。(2007.7.30)
ご挨拶71
この数日間、久しぶりに絶海の孤島での漂流者生活をしていました。
あるだけのローソクを灯し、ムードある生活を楽しんだのは事実ですが、テレビも見れないし電話回線も不通となると、雰囲気がどうのこうのと言ってもいられなくなってしまうものです。
ジェネレーターはあるにはあるのですが、オイルの値上がりを反映してか、停電になってもなかなか送電してくれません。
ご近所の退役軍人たちは、ローソクを灯すことも無く、じっと送電されるのを待っているようです。
そんな中、ベランダに出てたばこを吸っている人がいて、不気味な赤い火が暗闇の中にポーッと見えました。
彼らが現役の軍人だった時には、グランド(前線)でタバコを吸う時には、火が見えないように両手でタバコを覆い隠して吸ったそうですが、今では多くの人がそんな事など気にせずにタバコを吸っています。
でも何人かは、バーでタバコが燃えるのを手の平で覆い隠しています。
一度身についてしまった習慣は、そう簡単には抜けないようです。
ある時友人の退役軍人が、暗闇でタバコの火を隠さずに吸っている人を見て、
“彼は、戦艦に乗っていたんだろう”
と言い、席を立つ時に必ずジッポーのライターでコツンと頭を叩く人を見て、
“彼は、デルタ地帯での戦闘経験が長かったんだ”
と、元軍人たちの経歴を話してくれました。
“みんな知り合いですか?”
と聞くと、
“余程の事がない限り、お互いに話すことはないんだ。誰もが話したくも無いし、忘れたいことだからね”
と答えてくれました。
昔の知り合いなどと顔を合わせそうになったら、顔を伏せて視線をそらし、お互いに気がつかなかったように振舞うのが暗黙のルールとなっているそうです。
小さい町に多くの退役軍人が住んでいますが、このルールはVVW(ヴェテラン オブ ヴェトナム ワー)、つまりヴェトナム戦争経験者の老人だけの間のものだとか。
そうした老人たちを無視するように、若い退役軍人たちが出身地や駐屯地が一緒だったと言って盛り上がってる姿には、VVWの老人たちの間に漂う重苦しさなど微塵も感じられません。
時に若者が酔いに任せてVVWの老人に話し掛けようとすると、仲間が慌てて止めに入り、丁寧に詫びて若者を引き離していく光景を目にします。
もうすぐ8月15日です。戦争経験者に国籍は無く、誰もが貝のように口を閉ざしたまま……。(2007.8.10)
ご挨拶72
約束の地を探して、100人を超す日本人が、私のすむ片田舎のリゾート・ホテルに滞在しているそうです。
雨期に入り湿りがちだったお土産売りの人たちが色めき出し、活気が浜に戻って来ました。
雨期の期間中、仕事を諦めていた彼らは、“社長! お土産、綺麗ねー、安いよ”を連発させてゴミで汚れた砂浜を走り回っています。
ミンダナオからの移住組み2世、3世たちは、雨期の間帰る所も無く砂浜にしがみ付いて雨期開けをただひたすら待ち続けているのですから、今回のような出来事があると誰もが躁状態になってしまっても仕方の無いことかもしれません。
“なんだって売るよ! 娘だってね”と、恐ろしいことを言っている売り子もいます。
人一倍子煩悩な父親たちからは考えられない台詞です。
本当のことではないのでしょうが、ドキリ!としてしまいます。
まあ、それだけの意気込みで千載一遇のチャンスを物にしたいということなのでしょうが、雨期前に見せていた顔とは違う一面を覗かせます。
彼らの待つこのリゾートも、日本人にとって海外生活を送る有力な候補の1つになっているとか。
乾期の時ならば、人懐こい純朴な現地人という好印象を持たれても可笑しくないお土産売りの面々ですが、生活を賭けて後のないギリギリの状況下で見せるこの時期の彼らの顔には、ゆとりなど微塵もありません。
日本からの客人の目には、五月蝿い銀蠅と映っても仕方ありません。
銀蠅が飛び回る環境は、不潔の一語で片付けられてしまいそうです。
“老後の暮らしは海外で!”という夢もいっぺんに覚めてしまいそうですが、あまり期待せずに肩の力を抜いて気軽に行なう終の棲家探しが、海外暮らしには必要条件になるのかもしれません。
退屈な暮らしを楽しいものにするのは、周辺の環境や絵葉書のような美しい風景ではないようです。
毎日眺めていると、魅惑的な人々にもエキゾチックな風景にも飽きてしまうものです。
飽きてしまうと、退屈な日々の暮らしとの戦いの始まりです。
そんな時、楽しく暮らせるかどうかは、自分探しに耐えられるかどうかの分かれ道のようです。
平凡な日々の暮らしの中に、新たな発見や感動を喜ぶことが出来るかどうかなのです。
終の棲家の地を探し求めることと同じように、退屈な時間を楽しい時間に変えることの出来る魔法を身につけることが肝要になるのかもしれません。
ご挨拶72が遅れてしまいました。
雨期の間の停電や電話回線の不通は、通過儀礼のようなもので避けては通れません。
こうした時にこそ、魔法が必要になるようです。
自分が所有し支配していたはずの時間と向き合う恐怖が体験出来る時です。
会社や友人たちとの交際や人気テレビ番組の視聴に費やしていた時間をいざ自分独りで管理するとなると、眩暈がするほど大変なことです。(2007.8.23)
ご挨拶73
定期的なピットインも無事終わり、帰って体重計に乗ってみると、なんと5キロ近く増えているではありませんか!?
またまた心不全の前兆かと驚いたのですが、今のところ体に異常は無く快調そのものです。
日本滞在中に伸びきってしまった胃袋は、帰ってからというもの絶えず“何か食わせろ!”と大騒ぎしています。
美味しいものを食べた訳でも大食いしていた訳でもないのに、僅か1ヶ月で5キロの増加はただ事ではありません。
いろいろ考えた結果、食後のおやつに炭酸飲料が原因のようです。
一刻も早く、健康のための粗食の日々に戻らなければなりません。
美しい国日本は、私には豊かで飽食の国でしかなかったようです。
それにしても、日本という国も国民も皆、コピーライターが生み出すキャッチフレーズが大好きなようです。
キャッチフレーズ文化とでも呼べるような国民性は、日本独自の世界に誇れる大きな特徴、文化になるのかもしれません。
自分自身の存在や行動、暮らし方や人生までにもキャッチフレーズを求め、右往左往しているようにしか見えないのですから困ったものです。
マスコミは寸暇を惜しんで、ありとあらゆるジャンルに新しいキャッチフレーズを生み出し続けているようです。
政治や文化のみならず、深刻な社会的弱者に関する問題や凶悪な犯罪事件にまでもキャッチフレーズを付け、ファイリングしてしまうためなのか、何から何まで行き届いた気配りが感じられてしまいます。
ネーミングが大好きな人が多いアメリカでさえ、キャッチフレーズを生み出すことまではしないようです。
かつてイギリスのある老人が日本人を見て、“不思議な人たちだ。殺人現場を目撃していても、その日のニュース番組や新聞の中でその話題が扱われなければ、大したことでは無かったんだと簡単に納得してしまう。驚いた事に、僅かな記事でもニュース報道の中に自分の経験した事実が発見出来た時には、一変してあたかも人格が向上してしまったかのような社会行動をする”と首を捻っていました。
自分自身の経験も、社会的、つまりメディアの話題にならなければ問題にならないという価値観は、一体どこから生まれて来たのだろうと不思議がっていたものです。
メディアが話題にしないことは無意味で無価値という集団社会の評価が、個人の経験をはるかに凌駕してしまう社会など、日本人以外の人たちには考えも及ばないことかもしれません。
ファイリングされずにもれてしまったものは存在していないと断定してまう社会システムなど、フィクションの世界にしか存在しないのが国際的な通り相場ではないのでしょうか。
ジミー・カーターがアメリカ大統領に就任した直後にある晩餐会で、“我々アメリカ人は、日本の家族制度や社会制度に多くを学ばなければいけません。なぜならば日本の家族制度や社会制度は、我々のものよりも数世紀は先んじたものだからです”というスピーチをしたそうです。
日本を配慮しての社交辞令だったのかどうかは分かりませんが、“国家には国民を指導していかなければならない義務があり、官民合わせて心を一つにして国家の繁栄のため努力しなければならない”という日本社会の有り様に、一国の大統領として羨望の念を抱いてしまったのかもしれません。
支配する側、つまり政治家や経済界の大物たちは、自らが支配しているなどという意識を全く感じなくてよく、支配されている者、つまり国民の側にも全く支配されているという意識が存在しないのですから、何をしようと反政府運動やクーデターなどの起きる心配は一切無用。
このような国家があるなど信じ難い事かもしれません。
共産主義国家にしても成し得なかったファシズムが円滑に機能し、あたかもキリスト教社会でいう原始共産制とも言えるような社会体制が現実にあるなど考えられないことでしょう。
こうした社会から多くの事を学ばなければならないと言ったジミー・カーター元大統領の言葉には、心底から日本という国の有り様について知りたいという素直な気持ちが含まれていたのかもしれません。
今や日本は、上下心を一にして官民合意の上で搾取の構造を構築し、21世紀日本版新カースト制とでも言えるような国民管理システムを完成させてしまったようです。
国民総ナンバー制度という言葉が、漂流者の私には不気味に響いて来ます。
キャッチフレーズ大好きのマスコミは早々と、“今年の流行語大賞は?”などという話題を取り上げ始めたようです。
かくいう私も日本人のかたわれ。日本滞在中、体重が増えてしまった私は、瞬時に“体に悪い国日本”なるキャッチフレーズを思い浮かべて一安心(?)。
他人事のような気分になって一件落着してしまいました。(2007.9.30)
ご挨拶74
10月10日は双十節、中華民国(台湾)の建国記念日です。
10月1日が中華人民共和国の建国記念日、国慶節でした。
台湾系の華僑が多い世界各地のチャイナタウンでは、春節同様に盛り上がりを見せる時です。
ここのところ数年前から世界中のチャイナタウンにも異変が起こり始め、双十節を上回る勢いで国慶節が盛り上がりを見せているそうです。
蒋介石が総統だった頃には、考える事も出来なかったことです。
金門島に設けられた台湾の軍事要塞の砲門が、数キロしか離れていない中国大陸に向かっていたことなど、もう知る人も少なくなってしまったようです。
晴天白日旗という台湾の国旗も、オリンピックでも見かけることが無くなり、代わって今では梅の花の旗が台湾の旗になってしまいました。
しかし華僑世界では、晴天白日旗は今なお健在で、世界中のチャイナタウンの空にはためいているとか。
チャイナタウンで育ったとはいえ、日本人の私には、国慶節や双十節よりも月餅を食べる中秋節の方が馴染みが深いものです。
南の島で暮らす今でも、懐かしいのはやはり重慶飯店の黒胡麻餡の月餅や、木の実が沢山入った月餅になります。
“重慶よりも同發の方が美味しいよ”とか、“いや、満珍楼の方が味は上だよ”などと言って小公園で日向ぼっこをしている老爺たちの会話が思い出されてしまいます。
今日も外は激しい雨です。
窓から外の景色を眺めながら、この前東京で買って来た餡子を開けて、なんちゃって月餅を作ってみようかなどと考えていると、私の興味関心はもう食べることだけになってしまったのかなと、ちょっぴり不安な気分になってしまいます。
つい最近、昔の友人と連絡が取ることが出来たのですが、思い出すのが彼と競って食べた特性極辛カレーや超珍品蕎麦のペペロンティーニ、炊事班長の私が焼いたステーキ等など。事程左様に食が最優先だったことから、すでにその域に至ったのか、あるいは食に飢えているのか、恥ずかしい限りです。
彼の住む沖縄でカラスグアーと島豆腐をつまみに久米やドナンを飲みたいとか、1ポンドステーキに噛り付いてみたいとか、スパムのゴーヤチャンプルや山羊鍋もと、やはり食べ物優先になってしまう現在の我が思考に問題があるのかもしれません。(2007.10.10)
ご挨拶75
ついこの間ご挨拶74を書いたばかりだと思っていたのに、あっという間に時が過ぎていきます。
充実した日々を送っている訳でもなく、かと言って怠惰な日々を貪っている訳でもないのですが、無常にも時だけは過ぎ去っていきます。
昨夜テレビのニュースで、水泳のオリンピック選手だった木原さんが59歳で亡くなったことを知り、改めて人の命に限りがあることを実感してしまいました。
何をなすことも無くこの歳まで生き長らえてしまったことを、恥ずべきなのか喜ぶべきなのか考え込んでしまいます。
“人間は人それぞれに使命をもって誕生してくるのだ”という話を聞いたことがあります。
その時、“自分の使命は何なのか?”と、漠然とですが考えたことがありました。
そして今も尚あの時と同様に、“はてさて自分は今まで何をして来たのか? 自分の使命は何だったのか?”と考えているのですから救われません。
家族を持ち子孫を残すこともせず、何1つ意味ある成果も残せず、ただただ惰眠を貪っていたとしか考えられない私の人生。
これからでも残された時間内に何かしらの課題を見つけ、それなりの成果を上げ、“これが自分自身の使命だったのだ”と納得する事が出来るのでしょうか。
あるいは、最後の最後までただ漫然と時を過ごし、多くの悔いを残したと感ずることすらないままに、闇の中へと消え去るのか。
思い悩むことなくその時を迎えることが出来れば、それはそれで満足のいく人生だったと言えるでしょう。
しかし、連日連夜“あの時こうすればよかったのに”とか、“なぜあのまま与えられた環境に満足出来なかったんだろう?”などと、悔いるだけの日々を過ごすというのも虚しいものです。
雨期も終わり、晴れ渡る青い空の見える日が増えて来るに従い、毎年暗い気持ちになってしまいます。人生にリセット・ボタンはありません。グチャグチャになっても、論理的には整合性を持った人生でなければいけないようです。(2007.10.20)
ご挨拶76
電話回線のターミナルが故障してしまい、私の暮らす地域一帯は25日夜から31日昼まで回線が不通でした。
原因が分かったのは回線復旧後というのも間の抜けた話。
いつもの戸別攻撃的な回線不通ではなかったのがせめてもの救いでした。
昨日は電話が使えず不便な思いをしているところに電話料金の請求書が届き、切れそうになってしまったのですが、気持ちだけでも値引きしたのかいつもより若干安かったので、なんとか平静を維持することが出来ました。
回線復旧までは、“今日も駄目だった。明日に期待しよう”といった具合にじっと待つしかありません。
今フィリピンはホリデー・シーズン。明日から週明けまでオールセイント・デーのお休みが続きます。
週明けまでは駄目だと半ば諦めていたのですが、今日何の知らせも無いままに回線が復旧していました。
せっせとパソコン上でHPの更新はしたものの実際にはアップデート出来ず、更新日と実際に掲載出来た日に時間差が生じてしまいましたが、このような通信環境のフィリピンではいちいち細かい所まで気にしていても疲れるだけ。
ということで、更新情報の日付がアップデートを試みた日付となっていますことをお許し下さい。
さて今回は、当ゲスト・ブックの数少ないお客様であるNZ在住のなおこさんへの便りをご挨拶代わりにしたいと思います。
10月28日午前5時30分に旦那様を癌で亡くされたなおこさんは、このHPを通して偶然知りえた私の友です。
そんな彼女に、私は社会の慣例に沿った弔意を表すことも、気の利いた慰めの言葉をかけることも出来ませんが、どうしても書いておきたくなってしまいました。
手紙というよりは、老人の愚痴話となってしまうかもしれませんが……。
なおこさんへ
人間60年も生きてくると、多くの人との出会いや別れを経験するものです。
しかし私は、こうした別れを前にして敵前逃亡を続けてきた、いわば常習犯です。
自分の両親との別れや親しかった友人との別れ、大切な人との別れ、年下の若者たちの惨い死に直面することを恐れ逃げ回っていました。
それはペットの犬や猫、家畜の牛や山羊たちとの別れに対しても同じで、一度として直視することなく曖昧なまま現在まで生きて来ました。
生あるものの死に対し、気が付けば子供のまま大人になってしまったようです。
自分の中で悲しい別れと対峙し、整理し、自分なりに結論付けて来ることなく積み残したままで、これからも遭遇しなければならない多くの別れにも、目を瞑ったままやり過ごしてしまいたいと考えていました。
こんな私がいつの間にか、なおこさんとのゲスト・ブック上でのお付き合いを通して、徐々に積み残しの問題を処理していく気持ちになっていました。
なおこさんの生き様や元気さに勇気つけられ、やっと自分の心を開き、過去に謝罪し、避けて来た社会的儀礼に対しても直面することが出来るようになったのかもしれません。
大昔、年若い友人の死を伝えるためにグアムを訪れた際、彼の兄弟たちから感謝されるのではなく、代わりにビールの缶を投げつけられて逃げ帰って来たことがありました。
それからというもの、同じような状況下で“お前なんか人間じゃない! 冷たいやつ!”などと罵られても、それらの言葉をすべて受け流し、努めて何も感じない人間を装うようになりました。
古い友人が沖縄の嘉手納で事故死した時も、やはり平然としていました。
“彼の死は事故じゃなくて、自殺だった”と告げられても、他人事のように振る舞い続けていた私。
つい最近まで、私は左目からしか涙が出ませんでしたが、今日なおこさんからの訃報に接した時、両目から涙を流している自分自身に気が付き愕然としました。
そして、一瞬ですが私は人間に戻ったような気分になり、“未来に対し、一切の係累を絶つ”などと嘯いていたことが恥ずかしくなってしまいました。
友よ、苦しみ嘆くことなかれ。
友よ、失いし彼の人に涙することなかれ。
彼の人は、すべてを貴方に託し、
貴方を故郷に迎えるために、一足先に旅立っただけなのですから。
永遠の始まりを、貴方に告げるための旅立ちなのですから。
友よ、悲嘆にくれることなかれ。
彼の人は、7枚の衣を脱ぎ捨て、
イシスの秘儀を受けるために旅立ったのですから。
友よ、大いに彼の人を尊び、喜ぶべし。
共にその日が迎えられることを。
これは、古代ギリシャにおけるピタゴラス学派の人々の死生観を表すコーデックスの一節です。
古代から人の生き死に対する理解法は数多く存在していますが、中でもピタゴラス学派が唱えた人間の死は、消滅するのではなく魂が故郷に帰るという考え方であり、私はそれが気に入っています。
一足先に故郷に旅立つとは、この世に残された魂の半分を故郷に迎える準備をするという意味なのだそうです。
愛するもの間に訪れる死という別れは、補完する関係にある人たちに魂の約束を知らせる印。
愛しい人は、永遠の存在となっていつでも一緒にいてくれます。
そして約束の日が訪れるまで、ずっと支えてくれるはず。
本来ならば、お悔やみの言葉や慰め、癒されるような言葉を書くべきなのかもしれませんが、私は、今後もお嬢さんと共にNZで生活されていかれることを決心なさったなおこさんに南の島からエールを送りたいと思い、このような内容となってしまいました。
旦那様は勿論、なおこさんの生き様に共鳴している人たちは、私だけでなく沢山いらっしゃることでしょう。
大変だとは思いますが無理をせず、一歩一歩進んで行って下さい。
くれぐれもお体には気をつけて。2007年11月1日 Tom
ご挨拶77
ハロウィンやNYマラソンも終わり、11月11日はヴェテランズデーでアメリカの休日になります。
毎年各地でパレードが行なわれ賑やかなものなのですが、今年は例年に比べ少し様相が異なるかもしれないという話です。
私の住む町は退役アメリカ軍人が多く住む、いわば生き残り軍人のスクラップヤードだと、私の大家さんが自虐的意味合いを込めて話してくれました。
今年は、何かと纏まりのよかった退役軍人がパレード賛成派と反パレードを主張する反対派に別れてしまい、静かな戦いを繰り広げているとか。
パレードは生き残り兵士のお祭りだという人たちに対し、イラクやアフガンで連日アメリカの若者たちが戦争の犠牲になっている現実を前に、以前のような気分にはなれないと言う人たち。
POSTでは連日連夜、パレード派と反パレード派の間で激論が交わされているのだといいます。
POSTとは、退役軍人たちに便宜を図ってくれている集会所兼バー兼ミニスーパーのようなもので、このような施設は世界各地にあり、私の町にもPOST11447があります。
以前は、政府に反感はあっても個人的好き嫌いのレベルにすぎなかったものが、ブッシュ政権下で始められたアフガン・イラク戦争の是非を正す機運が国内で盛り上がり、それに影響された訳でもないのでしょうが、軍人の間にも公然と政府に反感を持ち、不信感をあらわにする人たちも増えて来ているのだとか。
イラク戦を継続するために不足する兵士の補充の目途が立たない状況下で、契約期間が満期になっても帰還命令が出されないまま放置され、戦いの継続を強いられている若い兵士たちが多数いるのだそうです。
その一方では、市民権取得や職業訓練、さらに大学への入学を保障する奨学金制度などを餌に、経済的に困窮している若者たちをターゲットとする兵士狩りが、全米はもとより世界各地で繰り広げられています。
そんな姿がマスコミや軍関連の新聞で紹介されるようになり、ヴェトナム従軍経験者の間から、“あれほど悲惨だったヴェトナム派遣軍でさえ、今ほど酷い兵士への裏切り行為はなかった”と異議が唱えられるようになったそうです。
“民主主義を守り正義を貫くため! 自由と平和を悪の手から守るため!”というスローガンに騙されてきたという老人たちは、“何十年立っても変わらぬどころか嘘を嘘で固め、取り返しのつかない過ちを年々エスカレートさせている政府と軍。
犠牲者をこれ以上出ないように働くことこそ、生き残った兵士たちに課せられた義務だ”と主張し始めたのが、彼らヴェトナム経験者たちだったそうです。
“そんなことをしたら、政府からの補助も援助も打ち切られてしまう”と、危惧するパレード派。
しかし今年のヴェテランズデーは、判断を各自に任せ組織的な活動はしないということになったとか。
私の大家さんは、当日は早起きして遠出をし、海を眺めながら失った友を思い出し、今も戦場にある若者たちのために祈りを捧げるそうです。
独り静かに過ごすのも反対運動の形のひとつになるとし、“もう十分だよ。政府や政治家、そして軍に利用されるだけだった人生! 自分のために戦う勇気を持てなかった自分自身を静かに見つめる日も、また11月11日なんだ”という大家さんは、今日一日かけて車の整備をするとか。
“この車、走るかどうかも分かんないからね”と冗談を飛ばしてはいたものの、いつもの元気も笑みも見ることは出来ませんでした。(2007.11.10)
ご挨拶78
後は感謝祭にクリスマス。
日本国内にいれば、師走の風に歳の瀬が近いことを実感させられてしまうのでしょう。
しかしこちらでは、一年中クリスマスのイルミネーションがどこかで輝き、4月だろうが7月だろうがジングルベルのBGMが流れているので麻痺してしまったのか、時折NHK国際放送で報道されるデパートの年末商戦のニュースを見ていても、不思議な印象を抱いてしまいます。
クリスマスはチップの季節の到来としか思えず、年末年始も月と年次が変わるだけでさしたる意味もなくなり、気持ちの上での切り替えポイントが曖昧になってしまったようです。
もし季節季節の移り変わりに関するニュースが全くなかったら、特に社会環境に拘束されやすい日本人は、フィリピンの人々よりも年月日々の移ろいに興味が無くなってしまうかもしれません。
一年中暑くて雨期と乾期しか節目が無くなってしまったら、ファッションも流行も意味がなくなってしまうことでしょう。
老舗指向やブランド指向もなくなり、用を足せば安いもので充分。車も走れれば充分で、走行距離や年式などどうでもよくなり、産業の花形自動車産業は大きなダメージを受け、産業構造そのものが変化してしまうかもしれません。
また年齢についても、何歳だからどうして、何歳になったからこうしなければならないなどといったことも無意味となるかもしれません。
日本にいる時は薄くなっていく頭髪が気になっていたのに、こちらで暮らすようになって、いつの間にかそんなことどうでもよくなっていました。
しかし、あら不思議! 気が付けば頭髪が再生して来ているではないですか!?
人間の頭も体も社会的通念という枠組みから解放されると、それぞれが自然の摂理に従って自由に活動し始めるのかもしれません。
若い頃、ゲーテが70歳を超えて十代の令嬢と恋をし、死んだ時の彼の体は30代の若者そのものだったという話を聞き、さぞや大変な努力が必要だったことだろうとため息をついたことがありましたが、肉体的な努力や気力だけで成せる技では無かったのかもしれません。
今では、ただ社会的通念や社会的倫理観、社会的価値観などから自己を解放しさえすればいいだけのことかもと思うようになりました。
観念から自分自身を解放し、自由を謳歌するだけで充分なような気がしています。
無職無収入となって考える事は、虚栄でも所有欲でも、欲望に満ち満ちた期待でもなく、ただ生き延びればいいということだけ。
そのために知恵を駆使していれば、年次も年式も走行距離もデザインも一切が無用となります。
今まで頭脳の大部分を占めていた問題がノイズでしかなかったことに気付くと、自己の内部にイコライザーを持つことが出来るようになり、よりいっそう解放された人生を満喫出来るのかもしれません。(2007.11.20)
ご挨拶79
連日、“私が好きな愛媛県”というテレビ番組の宣伝が、BS2で放送されています。
私は、愛媛県出身でもないのに、愛媛県松山市と聞くと学生時代にタイムスリップしてしまいます。
石鎚山に皿が峰、久万高原や面河渓谷など、若い時に訪れたことのある地名と風景が鮮やかに蘇えってきます。
松山市内の城山や、市電に大街道、坊ちゃんで有名な松山東高等学校、子規堂、そして道後温泉など良く覚えていたものです。
休みの度に神戸の中突から関西汽船の観光船で通い詰めましたが、今どんなに変わったのかは知る良しもありません。
タルトや坊ちゃん団子などのお菓子も、味は忘れてしまいましたが名前だけは覚えています。
道後温泉の隣にあった“としだ”という、じゃこてんが名物のうどん屋さんにもよく行ったものですが、今でもあるのでしょうか。
昔の思い出の地は、いつでも輝いています。
“春や春 十五万石の 城下町”から始まる司馬遼太郎の“坂の上の雲”は、来年のNHKの大河ドラマだそうです。
陸軍の兄と海軍の弟、秋山兄弟の物語です。
日本に騎馬兵を作りあげた兄と、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で撃破した作戦参謀だった弟。
幼馴染の松岡子規や、松山中学に英語教師として赴任してきた夏目漱石などが絡む物語。
彼らの手で日本に野球が誕生した経緯なども紹介され、文明開化の明治時代を背景に、日本を代表する青年たちの織り上げた壮大な物語でもあるのです。
“開国日本を背負って立った青年たちは、まだこれから彼らが歩む数奇な道について考える事も無かった”というような書き出しの中に、司馬遼太郎の歴史への思いが強く現れているという評論家もいます。
激動する社会をよそに、のんびりと少年期を過ごしていた秋山兄弟を育んだ四国の片隅の町松山に、大いに興味を抱いてしまったのが、このドラマ誕生の秘話になのだという話を聞いたことがあります。
日本を代表する多くの人材を生み出して来たこの町には、昔から不思議なオーラが出ていたのかもしれません。
温泉があり海と山に囲まれた何ら変哲も無い瀬戸内の城下町ではありながら、窮屈さなど微塵も感じさせない伸びやかな風土が、この町の宝だったのでしょう。
歴史の中には、自由都市の香りを残す幾つかの町があります。
世界へ雄飛した豪商たちの夢と野望の町、堺。
庶民の反権力をエネルーギーとして町人文化を爛熟させた大阪などです。
上方の笑いを現代に残す庶民の町大阪は、いまだにその特徴を色濃く残す町かもしれません。
しかし松山には、庶民の反権力も稀有壮大な夢や野望の片鱗もありません。
司馬遼太郎が指摘した、教条主義も無く、気候のように穏やかで、歴史も時間もすべてがのんびりと過ぎてゆくという不思議な町、松山。
世界の自由都市とはその成り立ちや歴史など全く違いながらも、本質はどこまでも自由にして伸びやかという、他に例を見ない“庶民の自由都市”だったのかもしれません。
和辻哲郎の風土論がそのままあてはまるような町。
私自身、一時期でしたが、この町と関わることが出来たことは大いなる幸せだったようです。(2007.11.30)
ご挨拶80
私の住む米退役軍人アパートから、また一人姿が見えなくなりました。
通称スクラップ・ヤードから出て行ってしまったようです。
国に帰ったのか、転居しただけなのか、病院にでも入ってしまったのか全く分かりません。
“聞かない、話さない、詮索しない”というのが、スクラップ・ヤードの無言のルールのようです。
私など典型的な日本人なのでしょう。何をするにも人に話し、アパートを出る前には、“お世話になりました。どこそこへ行きます”と挨拶しなければ落ち着かないに違いありません。
言い換えれば、自分の行動に他人がどう反応するかを見たくてたまらない性格なのかもしれません。
自分の行動を自慢したくて話す場合や、一身に同情をかいたい場合、そして自分自身の行動の是非を判定してほしい場合など、ケースは様々でも甘えの構造によるところが大です。
しかし、ここに住む退役軍人たちに通用する考えではないようです。
ここの住人の行動は、死期を悟った猫が自らの姿を隠してしまうのによく似ています。
誰かの姿が見えなくなったら、死んだのか死ぬ場所へ移動したのか、いずれにしても誰も触れたくもないし、触れて欲しくはないことになるようです。
何かそうしなければいけないという脅迫観念に、とりつかれてしまったようにさえ思えてしまいます。
前日まで普通に生活していても、突然朝には姿が消え、空いてしまった部屋の掃除が黙々とスタッフの手で行なわれているというのが毎度の事。
今年一年で、私の知る人が三人姿を消してしまいました。
高齢者が住んでいるというのに、今まで一度として救急車の音も、医者が来たような気配さえも感じたことはありません。
また、慌てふためくスタッフたちの姿を目にしたこともないのです。
こんな環境に3年以上も住み続けると、自分自身の死生観にも変化が生じたような気がして来るものです。
医者に宣告されるのではなく、自分自身で死期を判断し、最後まで自分の死という未知への恐怖と対峙したいなどと、出来もしないことを考えるようになってしまいます。
もう誰にも会うことが出来なくなってしまう死というものを、自分自身の理性の中に抵抗無く迎え入れることなど出来るものなのでしょうか。
甘えの構造の中で居心地の良さを満喫してきた人間に、一人死を静かに迎え入れることなど出来るのでしょうか。
知人の姿が見えなくなるたびに、“国に帰ったんだ”とか、“ここより環境の良い場所に転居したんだ”と思いたくなってしまう私は、紛れも無い日本人なのでしょう。
“死ぬ時も、皆と一緒ならば怖くない”生臭さが抜けない自分自身が情けなくもあり、嬉しくもありといったところなのでしょう。
どこまで行っても……。(2007.12.10)
ご挨拶81
40日近く気を抜いている間に、世の中は2008年になっていました。
新暦の新年は、遥か昔のことになってしまいましたが、旧暦の新年にはまだ間があり、ほっとしています。
怠け者らしい年明けになってしまいましたが、今年もどうぞよろしくお願い致します。
このHPは、私を知る僅かな人たちへ生存を知らせる便りにもなっていますが、まだ今年1年はなんとかなりそうです。
南の島暮らしを始めた当初は、“3年生きられれば十分”などと公言していたのですが、時間の経過は生への執着心を肥大化させてしまうようです。
人間幾つになっても、達観など出来るものではないのかもしれません。
こうなると厚かましくも、“住み難さが高ずると、どこかに移りたくなってくるもの”などと口走り、世界地図を広げて夢想三昧の毎日。
愚か者の標本のような人生でも、本人には限りなくいとおしいものなのです。
こんな具合ですので、死という自分自身との決別の時を恐れるあまり、その時には人目も気にせず取乱してしまうことでしょう。
あるいはその時でさえ人目が気になり、取り繕ってしまうのでしょうか。
どうなることやら、今から気がかりで仕方ありません。
新年早々相応しくない話になってしまいましたが、どうかお許し下さい。
こうした事を考えている時だけ、現実の貧乏生活から解放される一時。
情けないものです。(2008.1.23)
ご挨拶82
春節を前に中国南部が大雪に見舞われ、帰省客に大混乱が生じているという報道に接し、何かしらオリンピックが開催される中国に変事の兆しを感じてしまいました。
私の根拠の無い杞憂、笑い話で済めばいいのですが。
マネーゲームに狂乱する中国の姿に、一抹の不安と危うさを感じてしまうのは、年寄りの取り越し苦労なのでしょう。
疲弊する農民に3食を保障し、豊かな国造りを目指した中国共産党の精神は、いまや神話になってしまったようです。
ネズミを取る猫なら、黒い猫でも白い猫でもいいといったケ小平主席以来、大きく進路を転換し、急成長し続けてきた中国は、今やアメリカを追い越す勢いです。
新たな世界の領袖になれるまでに発展を遂げて来た中国ですが、都市と農村との格差は、言葉にならない程に拡大しています。
一髪触発の危険性も増大して来ているとは、イギリスの中国研究家の弁ですが、何かしらきな臭い暗雲を前途に感じられて仕方ありません。
1911年の辛亥革命、中華民国の設立、袁世凱の軍閥政治の混乱、五四運動、国共合作、そして中華人民共和国の建国と、1世紀の間に目まぐるしく変化してきた中国ですが、戦後60年以上も平和を維持し続けている日本のように、今後半世紀以上中国が安定して発展し、世界の中心であるという中華思想の国を維持出来るのかどうか気になるところです。
人の国の事ではありますが、国内での問題にとどまらず世界中を巻き込んだ混乱の火種になり兼ねないとなると、話は違ってきてしまいます。
古代ローマ帝国の衰亡と同じようにアメリカの衰亡が危ぶまれる中、“歴史は繰り返される”という言葉通りなら、次は中国と西ローマ帝国ユーロが世界の覇者となり、やがて衰亡していくということになってしまうかもしれません。
春節、新年というおめでたい時に考える事ではありませんが、恭喜新年と心から祝う気になれないというのも事実です。
せめてオリンピックだけは恙無く終わって欲しいものです。
また後から振り返って、2008年が歴史の中の陽だまりのような一年にだけはなって欲しくないものです。
ふと子供の頃に学んだ、算数の集合論を思い出してしまいました。(2008.1.30)
ご挨拶83
民主主義を人類の英知の賜物と崇めたてるアメリカや、世界の先進国。
しかし古代ギリシャで生まれた民主主義を、その古代ギリシャの哲人は衆愚政治と言い切り、権力維持に有効な国民掌握術と民主主義の欺まん性を指摘し、揶揄しているそうです。
それが、歴史の中でいつから、どのような経緯で人類の英知の賜物に変貌してしまったのでしょう。
いまや多くの若者たちの命を犠牲にしてでも死守する事が、世界の平和と自由を守る尊い行為となってしまっています。
世の政治家は、何をどのように語ったところで、所詮政治家という名の職業に従事しているにすぎません。
ヨーロッパの小国の中には、一切報酬を受けずに政治活動をするのが名誉なこととして、パブリック・サービスに専念している国会議員や地方の政治家もいるとか。
現在そのような方々は、絶対少数であることに間違いありません。
経済が最上位に位置している社会構造の下では、正義も倫理や道徳もすべて、経済に基づく判断基準で機能しているのですから、経済に疎い人間や生産性の低い人間は、社会の落伍者、駄目人間、生きる価値の無い者となってしまいます。
国家の経済活動に準じなければ、宗教さえも邪教やオカルトという烙印を捺されてしまうようです。
こうした一握りの権力者のエゴや富への欲望を満たすために粉骨砕身働けば賞賛が得られ、そのために努力しなければならないのが国民なのでしょうか。
古代ローマのカエサルを始祖とするのが現代の経済学ですから、虚しい事ですが、これが私たち国民の、弱者の真の姿になるのかもしれません。
旧約聖書の創世紀の中にあるカインとアベルの話になります。
アダムの妻イブの長男カインが弟アベルを殺してしまったことに怒った神は、“人は額に汗して一生働き続けなければならない”という罰を下したそうです。
これ以来、人は一生涯働き続けなければならなくなったといいます。
現代の私たちは、神の罰である“額に汗して働き続けなければならない”ということと、カエサル以降の“権力、支配者のために富の蓄積に専念して働かなければいけない”ということを混同してしまったのではないでしょうか。
これらを混同し信じて来た人が馬鹿なのか、信じ込ませて来た人たちが賢いのか、とにかく人は見事に騙されているように思えてなりません。
この誤認識が2千年以上も続いているのですから、犠牲になった人の数は数えきれません。
今年は世界の自由と民主主義の庇護者、世界の警察の長であるアメリカ大統領を選ぶ年。
無駄な事ですが、普遍的価値への回帰のためにも、アメリカの良識が“働く”の誤認識に気付いてくれることを願っています。
返還前の沖縄で見た“琉球芝居”の一場面。
世界の民主主義と自由を守るための戦いに飛び立ったアメリカの軍用機を指差して、話す言葉が聞き取れない程の爆音を、
“あれは、あなた、アメリカの屁なんですよ”
と笑い飛ばす場面が、アメリカ大統領選挙の年になるたびに思い出されてなりません。
遥か昔のお伽噺のようです。(2008.2.10)
ご挨拶84
2年前まではフィリピンにおける米ドルの信頼度は絶対で、どこの国の貨幣よりもペソとの交換率が優位でした。
それが現在では、開いた口が閉まらないほどペソが高くなってしまったため、ドル生活者のアメリカの退役軍人たちがため息をつき、中には悲鳴を上げている人たちもいるそうです。
アメリカの退役軍人と同じ様に、ため息を通り越して、根を上げているのがOFWです。
ペソ高によって家族の受取額が著しく減少してしまったため、OFWはその分送金額を増やさなければならず、その重圧に必死に耐えている状況なのだとか。
“このペソ高は、誰か偉い政治家が国を捨てて海外へ逃亡するために、ドルを掻き集めているからさ”
と、半ば諦め顔で肩をすぼめながら話すビジネスマンのジョークに、妙に説得力を感じてしまいます。
私の隣人、アメリカの退役軍人たちの生活振りにも、このところ大きな変化が見られるようになりました。
外食が主体の生活を改め、外食の回数を減らして自炊を始めた人たちも増えて来ているようです。
以前は、いつも市場から買い物をして来る私を奇異の目で眺め、自炊なんて信じられないと首を振っていた人たちが、今では挨拶代わりに、
“何か安いものがあったか?”
などと聞くのですから驚いてしまいます。
まったく相手にされなかったフィリピンのペソが、国際的な為替相場を無視して、天井知らずの高値が続いているのですから不思議なものです。
私如きの経済知識では分かりえない、高度なフィリピン経済学をどのように理解すればいいのでしょう。
連日景気のいい話がテレビや新聞を賑わせているにもかかわらず、国民の7割近い人たちが自らを貧困と位置付けており、6人に1人が飢えを訴え、また6人に1人が学費を払えず、子供に学校を辞めさせているという恐ろしい統計もあります。
ペソ高の恩恵は、国家でもなく1パーセントに満たない人たちに独占されているという貧困層の声に、リアリティーを感じてしまうのは私だけではないようです。
教育は海外で働かせるための手段となり、人材育成をしない国家は、長期的展望にたったビジョンを創ることよりも、OFWの仕事口の開拓を最優先事項と考えているのかもしれません。
小さな鉄の女性大統領は、寸暇を惜しんで世界を相手に0FWの市場開拓に余念がないようです。
“金が出来たら、フィリピンなんかに住みたくない”
と言い切る若者たち。
色々な不平不満を聞いているうちに、暗い気持ちになってしまいました。(2008.2.20)
ご挨拶85
長い間、ご無沙汰しておりました。
やっとの思いで生還出来たのは、私自身ではなく博物館にでも並ぶような頂き物のPCです。
今後は、高齢のPCのご機嫌を損なわないように、腫れ物にでも触るような気持ちで付き合っていかなければいけないようです。
さて、先日起こった沖縄に駐屯する海兵隊員による暴行事件は、被害者側の告訴とりさげで被告が釈放され、事件は終わったかのような報道がありました。
その報道を否定するように、アメリカ大使館と駐留軍側の発表は、“これで事件が終わったとは考えていない。犯人の兵士を引き続き軍が拘留し、事件の解明をする”というものでした。
この騒動の間に、泥酔い海兵隊員の住居侵入事件や偽札を使用するという事件も起こりました。
また、軍雇用の日本人警備要員が軍から支給された拳銃を基地外で携帯していたという報道もなされ、これにより、米軍内部の規定で日本人警備員が職務で基地間を移動する際の拳銃携帯を許可していたということが明るみに出てしまいました。
日本政府や警察がこの件を全く知らなかったのか、黙認していたのかは分かりません。
多くの議論を呼ぶべき問題なのでしょうが、意外と大きく騒がれる事も無く、日本政府の“誠に遺憾です”の一言で一件落着してしまうのかもしれません。
そんな中、今度は横須賀基地に停泊中の米国イージス艦乗組員のクレジット・カードが、タクシー運転手が殺された車内で発見されるという事件が起きてしまいました。
日本の警察が第七艦隊の基地司令部に兵士の尋問に協力してくれるように協力要請をしたところ、問い合わせの兵士はナイジェリア人のアメリカ海軍2等海兵で、3月上旬から脱走しているという回答があったそうです。
そしてその逃亡兵士は、品川で海軍の警備兵によって身柄を拘束されたとか。
逃亡兵士自らが自首したのだそうです。
海軍司令部がナイジェリア人兵士を逃亡罪で取り調べ中ですが、タクシー運転手の殺人事件とは無関係とのこと。
日本の警察が任意の取調べを依頼したところ、容疑者の兵士は事件への関与を否定し、犯罪の起きた時間には、事件現場から500メートルほど離れた横須賀のどぶ板通りのバーにいたというアリバイがあると話していると伝えてきたそうです。
その後の経緯は知りませんが、1ヶ月近く脱走した兵士が、横須賀基地の目と鼻の先にあるどぶ板通りを飲み歩いていたというのもおかしな話です。
アメリカの同盟国と胸を張る日本政府とアメリカ軍の間では、事件に対する認識に大きな開きがあるようです。
日本政府も、アメリカとの地位協定で苦しむフィリピン政府と全く同じなのかもしれません。
独立国というよりもアメリカの植民地という印象を拭えないのですから、情ない話です。
話は違いますが、刑事が暴力団に対して、“今回の家宅捜査の際、拳銃を1〜2丁は出してもらわないと困るのでよろしく”といった電話をしていたという話を聞いたことがあります。
日本国内で軍事的非常事態が起きた時には、自衛隊に警察、そして武装した民間人組織というアメリカ軍お墨付きのシミュレーション計画もあるのだとか。
このシミュレーションにある民間武装組織とは、暴力団を装丁しているのだそうです。
こんな話を聞くと、暴力団関係者からの拳銃摘発という報道を額面通りに受け取ることは出来ないのかもしれません。
報道は絶対の真実として教育されてきた時代の者には、何を信じて良いのかも分からなくなってしまいます。
米軍の取って付けたような外出禁止令も、実のところ引き金になった事件は、コザ市内のホテルで起きた海兵隊員によるフィリピン人女性暴行事件だったという話ですが、事の真偽は不明です。
21世紀に入ってもなお、沈みかけのアメリカという泥舟から逃れられない日本やフィリピンには、島国に共通した宿命や悲哀などでもあるのでしょうか。(2008.4.1)
ご挨拶86
3年目を迎える前に、アクセス件数が3万件になります。
HP開設当初、こんなに長く続けられるとは考えてもおりませんし、同時にこんなに多くのアクセスがあるとも思ってもいませんでした。
また、愚痴や不平不満は、生ある限り止め処なく湧いてくるものだということにも驚いております。
落伍者の南の島暮らし、勝手気ままな独りよがりのHPにもかかわらずおいで頂いた皆様に、感謝するとともに深くお礼を申し上げます
最近は、PCの状態にかこつけた怠け癖が顔を覗かせてしまっておりましたが、今後は健康な状態が維持出来る限り、精一杯精進して参りたいと考えておりますので、今後ともよろしくお願い致します。
我侭なHPには変わりありませんが、お暇な時には覗いて見て下さい。
HPの表題“団塊世代”も、すでに2008年を迎えて以降、急速に死語になっていくようです。
時代の移り変わりの速さについて行くことも出来ませんが、化石にはならないように頑張っていきたいものです。(2008.4.10)
ご挨拶87
夏本番、休日には海水浴客やBBQを楽しむ人たちで浜は溢れ、やっと活気が戻って来たようです。
客が戻って来たというのにミンダナオからの出稼ぎ部隊は姿を見せず、僅かに5〜6人のベンダーだけという例年にない淋しいシーズンになってしまいました。
今年は煩く付きまとうベンダーの恐怖から解放されて快適なはずなのに、何かしら物足りなさを感じてしまいます。
ベンダーの頭的存在の知人の話によると、昨年末、イスラムのコミュニティーで縄張りが決められ、イバやその他のビーチに分散して商売するようになったため、この辺りのベンダーが減ったのだそうです。
しかし本当のところは、観光客ですら財布の口を締めてしまうほど世の中が不景気なため、旅費や滞在費を掛けてまでミンダナオから商売に出てくる意味が無くなってしまったのだとか。
生活必需品や食料の異常な値上がりに苦しんでいるのは、ベンダーだけではなく一般的人々も同様です。
“ここに来るリゾート客の大半は、OFWが家族にいる人たちだけ”という地元の人たち。
日本で話題になっている格差の問題も、ここフィリピンではあまりに当たり前なことで、話題にもならないようです。
このような暗い話題が明るい浜辺に溢れている今シーズンは、この浜辺に頼って生活している人たちには辛いものになりそうです。
今日は労働者の日。大規模な反政府デモが行われているマニラ市内には、普段でも多い警察官に加え、乱闘服のPNPも溢れているようです。
重装備の警官や軍隊に包囲されての労働者の祭典は、大昔の日本のようです。
何が民主主義? どこが開かれた国家なのか? と首を捻ってしまいます。(2008.5.1)
ご挨拶88
ご無沙汰致しました。
ちょっとうたた寝のつもりでごろっと横になったのですが、目覚めたらなんと数ヶ月も過ぎていたのですから驚いてしまいました。
そこで慌ててメールチェックをしたところ、すべてが迷惑メールばかりで、その数はまさに数千件。
私信は一通もないという現実に、今更ながらロビンソンクルーソー的生活を享受している自分自身に呆れてしまいました。
人付き合いの煩わしさから逃避しているのですから当然のことなのですが、人恋しさを感じている自分自身にちょっぴり考え込んでしまいます。恥ずかしい話です。
さてHPをお休みしている間に、本当ならば身の回りばかりでなく社会的にもいろいろな変化があったと書きたいところだったのですが、部屋が黴だらけになっていたことの他、変化は一切ありませんでした。
物価が異常に高騰していたり、無差別な動機無き若者たちの犯罪が増加していたりと、世の中は騒然として来ているのですが、地球の地軸から遠く外れて暮らしていると、無責任に、“病んでるよ、世の中は。政治の貧困そのものだ!”となってしまいます。
ゲーテのファウストの中に、兌換券すなわち紙幣が地上に初めて現れる話があります。
宮殿にある王座の間で、金策に困り果てた宰相や大蔵卿たちの申し立てを聞いていた皇帝に、メフィストーフェレスは、
“すべての宝は依然として地中に埋まっています。土地は陛下のものゆえ、陛下が宝をおとりになるべきです”
と、お金の調達を約束します。
それを聞き、地下に眠る宝を掘り当ててくれるものと思って喜んだ皇帝でしたが、メフィストーフェレスの計画は、地下の宝を担保に紙幣を作るというものでした。
幾千枚もの紙幣を発行したことで一夜にして景気が回復し、喜んでいる宰相や大蔵卿に対し、
“怪しからぬことが、途方も無い詐欺が行われたらしい。わしの新書をここに似せて書いたのは何者か。このような犯罪がまだ罰せられずにいるのか”
と、皇帝は怒ります。
しかし大蔵卿に、昨晩の仮装舞踏会の最中に皇帝自らが署名したことを伝えられ、
“得心はいかないが、認めずばなるまい”
と、簡単に了承してしまうのです。
こうして、国家が国民を相手に大詐欺を働き始めた訳ですが、現実の社会においても、その詐欺の付けが今頃になって世界各地で噴出し、多くの問題を引き起こしていると言えるのかもしれません。
世に言う経済学は、ゲーテによれば詐欺行為となってしまい、また、商行為とは合法の範囲での詐欺行為と言う人もいます。
人間が生存する上で至極当然、自明となって疑うことなどありはしない根本問題について、今こそ問い正し、検証しなければいけない時期に至ったのかもしれませんね。
いずれにしても私の場合、負け惜しみの強がりでしかありませんが……。
久しぶりのご挨拶でしたが、このような話になってしまいました。“おいおい、またかよ!”とお笑いの上、ご容赦下さい。(2008.7.28)
ご挨拶89
私の妄想は限りなく膨らみます。
終日雨が降ってプールもお休み、市場へ出掛けることも億劫になり、雨漏りの跡が残る天井を眺めながら、ただただぼーっとしているだけの一日。
夕方になれば、嫌でも夕食の準備です。
もはや社交辞令化したようなメニューの繰り返しで、このところの麺類にも少々飽きてしまいました。
何をどう捻くり回しても、麺が肉に変わることもありません。
日本のうどんや蕎麦、スパゲティーやマカロニと種類を取り替えてみても、私が作ると手抜き料理には変わりありません。
海苔やふりかけを絡ませただけで、和風パスタなどと称して喜んでいるのが関の山。
これではいかんとばかりに、茹で上げた茶蕎麦を冷水でよく洗い、にんにくと赤唐辛子をオリーブ油で炒めたものと絡ませ、北部イタリア名物“蕎麦パスタのペペロンチーニ”と勝手な講釈を付け、ワインならぬグレープジュースで喉を潤しながら食べようというのが今夜の晩餐。
明日は米を炊き、炒青菜に豚肉と野菜のスープ、そして干しエビ風味の白菜のトロトロ煮を作ろうなどと考えているのですが、明日は明日の風が吹くことでしょうから、先のことは分かりません。
天井を眺めながらまどろむ私の白日夢は、蕎麦のイタリア風料理法から、さらに飛躍してしまいました。
明日の朝は、ロンドンのハイドパークにでも出掛け、ベイズウォーターの下町でインドの甘い甘いチャイを楽しむか、あるいはNYのセントラルパークからソーホーまでの道のりを散歩し、おしゃれな小さいカフェで店自慢の冷えた地ビールを飲むのも一興。いやいや、パリの下町カルチェラタンで、赤ワインを楽しむのもいいかなどという具合。
しかしそれでも飛躍は収まらず、ロンドンなら昼食は奮発してサボイホテルのランチ、パリならバケットサンドを齧りながら、サントノーレからオペラ通りを抜け、コンコルド広場近くの後期印象派美術館やルーブルにでも行き、NYなら文句なしにチャイナタウンだなという風に、留まることを知りません。
気楽な貧乏暮らしの楽しみの一つは、もしお金があったら……と仮定して、頭の中で世界を旅することです。
しかし最後に落ち着くのは、“ミニロトじゃ駄目だ。ロト6じゃなきゃ!”ということになってしまいます。
小人閑居して不善をなすとかいう古人の言葉を思い浮かべては、頭を掻き毟るのが雨の日の習慣になってしまったようです。(2008.8.3)
ご挨拶90
8月15日は、終戦記念日。
毎年のことですが、国会議員の誰が、閣僚の誰と誰が靖国参拝をしたとかいうニュースで、日本は朝から大忙しのようでした。
年老いた元兵士たちや遺族の参拝者、軍装に身を固めた若者たちの集団がテレビに映し出される1年に1回だけの不思議な記念日は、今年もまた例年通りのイベントデーとして無事に過ぎたようです。
終戦記念日が単なるイベントと化してしまう傾向は年々強くなり、後僅かですべてが形骸化してしまうような勢いを感じてしまいます。
1969年のこの日、私は神戸から東京へ出張する途中の車窓から、半旗になっている日章旗を初めて目にした時のことを鮮明に記憶しています。
それまでにあまり見たことの無い光景だったので、私はかなり年上の先輩に、
“終戦記念日の半旗は、戦争の犠牲者を弔う意味での半旗ですか?”
と尋ねてみました。すると先輩は、
“全共闘は駄目だな、そりゃ戦争に負けたことに対する半旗だよ。以前は敗戦記念日と言っていたんだ”
という回答。しかしそこで上司が,
“ちょっと待ってくれ。敗戦記念日は、戦争指導者だった軍部が口にしていた言葉だよな。それに対して終戦記念日は、行政的意味合いの強い言葉になるぞ。今まで思ってもみなかったけど、変な話だな”
と考え込んでしまいました。
40年近く過ぎてしまった過去の些細な出来事ですが、私は現在も気になってしかたがありません。
私は毎年この日になると、一体何に対する半旗だったのだろうという難題について、朝から敗戦と終戦という言葉を思い浮かべては堂々巡りしていました。
しかし今までと違って今年は、この難題の答えについて、何かしら光明が見えたような気がしました。
私の暮らすフィリピンのテレビ番組に出演していた老人が、
“戦争が終わって一番嬉しかったことは、日本の兵隊や憲兵隊の恐怖から解放されたことだった”
と話していたのです。
偶然耳にしたこの言葉が、私の長年の懸案事項に終止符を打つヒントとなりました。
フィリピンの老人同様、終戦当時の一般的日本人にとっても、昭和20年8月15日は、爆撃や空襲警報、特高警察や大政翼賛会に通じる隣組の相互監視の目、そして憲兵隊や召集令状などの恐怖から解放された日。
言い換えれば、本当は嬉しい日だったのではないでしょうか。
日本が引き起こした戦争で被害を被った他国の人々だけではなく、大多数の日本国民にとっても、やはり8月15日は、日本軍や戦渦から解放された喜ばしい日だったのではないかと思ったのです。
原爆記念日や沖縄戦が終了した記念日に、日本の若い音楽アーティストたちが毎年行っているコンサートがありますが、時の流れの中で年中行事化してしまった感を拭えきれない現在、隣国中国や台湾、韓国や北朝鮮、東南アジアの国々、ミクロネシアやオーストラリアなどで戦禍を被った無告の人々たちが手を取り合って祝う、若者の新たな価値観によるセレブレーション・デーがあってもいいのではないかと考えるようになりました。
若者たちがいつかそれを実現してくれることを願いつつ、私は私なりに8月15日にささやかなご馳走を作り、ひとり喜びの日を祝ったのでした。(2008.8.20)
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