南の島での田舎暮らしやスローライフの中で思い浮かんだことを気ままに書き綴った“Gのつぶやき”です。
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タイトルにある“Gのつぶやき”とは、まさに私の“ひとりごと”です。
日頃から常に思っている事や、ふと浮かんできた事などを思うままに言葉にしてみようと考えました。
時には社会批判になってしまったり、単なる愚痴になってしまったり、また時には自分自身を励ますための言葉であったり、あるいは全く意味のない暇つぶしの話にすぎなかったり……。
“Gのつぶやき”が、今後どのように発展していくのか、今のところ私にも分かりませんが、とにかく自分自身の思いを、思うだけでなく表現してみることから始めてみよう……そんなところです。
2008年のつぶやき 貧困の功罪
2005年のつぶやき
2006年のつぶやきへ 2007年のつぶやきヘ 2008年のつぶやきへ
“団塊の世代”が意味するもの
1980年代には、熟年マーケットと呼ばれていた私たちは、いまや2007年問題の主役として社会的な関心を集めているようです。
様々なケア商品を手にした人たちが私たちの行く手を阻み、そしてその後には、私たちの死をも商品とする人たちが、空前絶後のビジネスチャンスとばかりに、今からその日のために日夜努力していることでしょう。
常に市場マーケットのおいしいターゲットである私たちに、次に待ち受けているのは“退職者マーケット”でしょうか。
不動産開発業者などを筆頭に、私たちの退職金を巡って熾烈な争奪戦が展開されています。
キャッチ・フレーズは、“団塊の世代を生き抜いてきた退職者に、快適な老後の生活を!”“老後を安心して過ごすために、確実な投資を!”といったところでしょうか?
団塊の世代とラベリングされた私たちは、良きにつけ悪しきにつけ、どこまでいっても市場社会のおいしい餌でしかないのでしょうか?
もうそろそろ餌を返上し、塊から開放され、自立した生活を謳歌すべき時が来たのでは?
まぁ、私の場合、すでに餌にもならないのでしょうが。
思い立ったら、即実行!?
昨日の朝からすでに30時間以上の断水。
この一年間で、こんなに長い断水は初めてです。
日本なら、どんな原因でいつまで続くという連絡がすぐに入ってくるところですが、ここでは何の情報もなく、どうすればいいのか対処方法すら分かりません。
日頃は特に、何が食べたいなどと考えたこともないのに、こんな時にかぎって“あれが食べたい”“あの店であれとあれが食べたい”などと思い巡らしてしまうのだからたまりません。
今日はどうした事か、中国料理が無性に懐かしく思えてしまいました。
横浜中華街の山東の水餃子に、楽園の上海料理。台湾料理の粽に、肉魯飯。鯛のアラを使った砂鍋。羊肉のしゃぶしゃぶ。
ただ考えているだけでは、何も始まりません。
ここで異国のことと指をくわえて生唾を飲んでいたのでは、ロビンソン・クルーソーの名が泣くと一念発起。
歩いて10分程の市場へお金を握り締め、一目散に走りだしていました。(本人は走っているつもりだったのですが……)
豚のミンチとキャベツに白菜。ネギと名前が分からないニラもどき? の野菜。皮を作るための小麦粉。
レシピを見ると薄力粉に強力粉と書いてあるのですが、何がどう違うのか分かりません。そこで、慣れ親しんだパッケージの小麦粉を購入しました。
思い立ったのが昼の2時過ぎで、悪戦苦闘すること3時間あまり。
なかなかどうして、見た目は上出来! つい自画自賛してしまいました。
早速今夜は、南の島の餃子パーテイ―。
味見もまだだというのに、“俺のGは、やっぱり天才のGだった!”と一人感動しています。
気がつけば、いつの間にか断水も収まっていました。
まもなく一人の宴を始める予定ですので、味については後日ご報告いたします。では、後ほど……。(2005.6.4)
思い立ったら、即実行!? (結果報告)
昨夜の宴は、もてなす客人がいなかったことを除いては、大成功だったことをまずはご報告するとともに、“Gの手作り餃子”の作り方を紹介させて頂きます。
白菜(4分の1)とキャベツ(小さいものを半分)をみじん切りにし、塩もみしてよく絞り、水分を十分にきっておきます。
豚肉のミンチ(200g)は、塩コショウしてから、胡麻油と醤油を適当に入れてよく混ぜ合わせます。
それから忘れるところでしたが、チキンスープの素をミンチにふりかけました。
それを粘りがでるまでよく練り、先ほど水気をきっておいた白菜とキャベツにニラを加えて、さらによく混ぜ合わせたものを具にしました。
ふるった小麦粉に塩をひとつまみ入れ、水を加えて練ります。
生地の固さは、耳たぶ程度でよいかと思います。
練った生地をビニール袋に入れて、10分程度、足で踏みます。
その後30分程度、生地を寝かせます。
出来上がった生地を小さなボール状に千切り分け、それを棒で丸く延ばしたら、餃子の皮の完成です。
少し厚めの皮で具をしっかり包み込み、30個の餃子が完成しました。
一人分にしては作り過ぎてしまったので、10個を焼いて5個をスープにし、残りは冷凍して次回の発作(急に餃子が食べたくなってしまう)に備えることにしました。
“何事も計画的に行動しなければ!”と常に心がけていながら、“今日の作り過ぎも計画のうち!”と一人納得していました。
さて味はというと、“絶品! これなら餃子屋が出来る! やはり俺のGは……”と思わず唸ってしまうほどの出来栄えでした。
何といっても、トウバンジャンと胡麻油に醤油を合わせたタレで食べたのが正解だったようです。
今回の暴挙? 暴走? により大根をはじめモヤシ、固い中国豆腐など色々な食材が手に入ることが分かり、“次回は何を作ろうか”などと今からワクワクしています。
どれだけ豊かに暮らせるかは、自分次第です。
一日の大半の時間を食べるために使い、忙しく過すことも、適度なリハビリになるようです。(2005.6.5)
生き延びた意味
午前6時30分、今朝もまた薬の服用から一日が始まります。
一日10種類、朝、昼、夜、そして就寝前の4回。
合計18個もの薬をもう2年近く服用し続けています。
生きるために服用しているのか、薬を服用するために生きているのか分からなくなる時もあります。
とにかく食後の服用のために、規則正しく食事をしています。
食事に多くの制限があるため外食もままならず、食べることに一日の大半を費やし、まめに自炊している毎日です。
以前には考えられないほど模範的で、従順な子羊同様の生活。
私を知る人達が見たら、悪夢でも見ているのでは? と我が目を疑いたくなることでしょう。
異口同音にそこまでして長生きしたいのか? などと非難されてしまうかもしれません。
事程左様に今の生活が無味乾燥に見えるのか、以前の生活が破天荒だったのかは知りませんが、当事者の私は至極快適。毎日楽しく暮らしています。
やせ我慢しての発言ではありません。
普通なら薬の副作用が心配になるほどの量なのですがさして気にもせず、暮らしの中の儀式として大量服用しております。
死んでいてもおかしくなかったのに、生き長らえることが出来た命です。
生活に多少の制限があったり、薬を大量に服用したりするのは当然のことだと受け止めています。
私事になりますが、手術が始まってすぐに私の心臓は止まりかけ、慌てた執刀医が開いたばかりの胸の中に手を突っ込み、心臓を直接手で揉んで蘇生させたそうです。
悪運強く生き延びた私がICUで思った事は、医師への感謝よりも先に、生き延びた意味を考えなければということでした。
私が生き長らえたことには、何か意味があるのではないかという思いに駆られてしまったのです。
私が病気になったことも、手術を受けたことも、生き延びたことも、すべてが偶然ではなく必然ではないかと思いました。
これらがすべて必然なら、今こうして考えていることも必然になります。
今はまだその意味は分かりませんが、今分からないことも必然と思えば、分からないことに悩み苦しむ必要性を少しも感じることはありません。
分からないということは、今すぐ分かる必要がないということであり、必要な時が訪れたら自然に答えが出てくるものなのだろうと、何の根拠もない勝手な解釈で満足しています。
かつては、理想や夢、社会への不平不満、言葉にならない不安を抱え、社会と対峙することでしか自分の存在を確認出来ませんでした。
“自分には、他人とは異なる何かがある”と、意味のない自負心だけを拠り所とし、自己正当化の論理を展開することで安堵していた時もありました。
あの頃は、即答出来ない事が許せなかったし、自分に即答出来ないものなどないと信じていました。
そんな私が、“答えが出る時まで気長に待てばいい”と思えるようになったのですから、今まさに、全く新しい第二の人生を歩いているといえるかもしれません。(2005.6.9)
雨期は雨読の時?
2回目の雨期を迎え、今さらながら時の流れの速さに驚いています。
またこれからの数ヶ月、気まぐれな大雨と台風に驚いたり呆れたりの日々が続きます。
別に困る訳でもないし、嫌がる程の事でもないので、雨読にでも浸っていようかと考えています。
読書の秋ならぬ読書の雨期という事になります。
しかし電力事情が悪い上に照明の暗さに、いささかまいっています。
老眼鏡をかけても文字が読めないのですから、この薄暗さを解決する事が急務になります。
老眼鏡をかけて天眼鏡片手にこれでもまだ読めないとボヤくのが、夜だけではなく昼日中にまでなる雨期。
心静かに過ごすためにも、明るい照明を探して来なければなりません。
こうした時、田舎の島暮らしの不便さが切実に感じられてしまいます。
明るい照明探しに4時間近くもかけて大きな街まで出かけなければと考えると、今年もまたロビンソン・クルーソー的生活を満喫してしまおうかなどとものぐさになってしまいます。(2005.6.11)
狼狽
どうしたことか左足がむくんでしまいました。
フィリピンに来て初めての事。すわ一大事! 心不全の予兆ではないかとあせってしまいました。
ラシックス(利尿剤)をいつもより多めに飲んで、足を高くして早めにベットに入りました。
とんだ日曜日になってしまったものです。
翌日にはむくみも引き一安心したのですが、昨日の狼狽ぶりを思い出し少々ブルーな気分になってしまいました。
丁度2年前の今頃は、手術が怖くて何かと自分自身に詭弁を弄して、“俺はいつ死んでもいいんだ。十分過ぎる程生きたんだから……”などと最後の悪あがきに明け暮れていました。
なのに今、ちょっと足がむくんだだけで周章狼狽している自分自身に、呆れ果ててしまったのです。
あまりの身勝手さにうんざりしてしまいました。
成り行きとはいえ、こうして南の島暮らしをしてみると満更でもありません。
すべてを失い、残ったのは命だけという危機的状況にありながら……。
未だに、生き延びたことには意味があるはずと思い込みたい一念で、やり残した事のため? まだ気がついていない何かをするため? などと言い訳しているのですから、潔さなど微塵もありません。
こんな姿など見たくはなかったのですが、うまくいかないのが人生。達観など出来るものなのでしょうか?
椰子の葉陰で、まだまだ思考錯誤の日々は続きそうです。(2005.6.14)
文明と非文明
南の島暮らしを始めて以来、毎朝5時には起きていたのですが、昨夜はいつもより早く床についたというのに、どうしたことか午前11時半まで寝入ってしまいました。
朝、昼、夜、就寝前と規則正しく服用していた心臓の薬を、こんな場合はどう服用すればいいものかと、目覚めて時計を見るなり考え込んでしまいました。
“朝の7錠は、ただちに飲むべき? それとも朝の分はパスして、昼食後から通常通り服用したほうがいい? いや待てよ、心臓の場合は、薬の飲み忘れによる悪化が怖いという話だったからパスするのはまずい。今すぐ朝の分を飲むとして、昼用の3錠は何時に飲む? 夕食後の7錠は?“
などと考えていたら、ふとあることを思い出しました。
30歳の頃、パパラギという本を読んだ記憶があります。
赤道直下のギルバート島(?)近くの島の住民達が、文明と対峙した結果、古来の生活を選択して行くというような話だったと思います。
表現は軽いのですが、かなり辛らつな文明批評だったということだけを、今尚、鮮やかに記憶しています。
また、フランスの文化人類学者レビ・ストロースは、パプア・ニューギニアのある部族に、文明の象徴である鉄の斧がもたらされた時のエピソードを次のように紹介しています。
それは、10倍近い生産性の向上が島にもたらしたものは、より多くの昼寝の時間と必要以上の宗教儀式だったという話です。
この宗教儀式に招待された近隣の部族は、始めは引き出物の豚を持ち参加していたのですが、あまりの回数の多さに悲鳴をあげ、ついに引き出物の豚をめぐって争いが起こるようになってしまいました。
鉄の斧が持ち込まれる以前は、部族同士の争いもなく平和でした。
文明は、昼寝の時間と宗教儀式を増やしただけではなく、平和だった場所に争いまでをももたらしたことになります。
皮肉な事にその戦いは、今では首狩り族の戦いの踊りとして観光客に紹介されているそうです。
しかし、文明人を自負する人達がもたらしたものが原因で争いがおこったという事実は、一切語られることがないそうです。
文化と文明は相反するのではないかと、事ある度にレビ・ストロースは語っていたそうです。
私の生命を支えている“薬”。これこそ人類が生み出した文明の象徴かもしれません。
鉄の斧が昼寝の時間を与えてくれたように、私にも貴重な時間を与えてくれているのかと思うと複雑な気持ちです。
鉄の文明がもたらした弊害が平和の破壊なら、薬がもたらす弊害は?
もしかしたら、薬の進化によって人間本来の生きる強さが徐々に失われているのかもしれません。
今は目に見えなくとも、いずれすべての人類が、生まれた時から薬の服用なしでは生きられなくなっているのでは……。
ちょっと話が飛躍しすぎですね。
薬とは関係ありませんが、私の中でいつの間にか漢字というものが、書くものから選ぶものへと変化しつつあります。
また、話言葉も徐々に形容詞が減って、動詞だけの会話が増えてきているように思います。
文明社会とプリミティブな社会の差は、形容詞の量なのかもしれません。
つまり形容詞が多いほど文明度が高い社会で、非文明社会とは形容詞の少ない言語形態を持つ社会ではないだろうかということです。
だとしたら、この1年間で私は、完全に非文明社会に片足を踏み入れてしまったことになります。
私自身、たしかに量的から質的な価値観に変化してきたような気がしています。
独断と偏見かもしれませんが、もしかしたら文明社会は量的価値観に基づいており、非文明社会は質的価値観に基礎をおく社会なのではないでしょうか?
質的価値観を重視する生活をしていながら、文明が生み出した薬によって生を維持している私は、何とも微妙な暮らしをしているといえます。
ところで私の薬はどうなったかと申しますと、時間をずらして服用することにしました。
朝の分を午後12時に服用し、午後4時に昼の分。そして、午後8時に夜の分を飲むことにしました。
質的価値観を重視するといっても、やはり文明の産物を拒絶するだけの強さは、微塵もございませんでした。
やむなく薬の服用を強いられている方々、薬の飲み忘れには十分注意しましょう。お互いに……。誕生日
後1ヶ月で、私の2度目の人生も2年目を迎えます。
手術直後は、頂いた命を大切に有意義に使わなければと思ったものですが、時間が過ぎ体調にこれといった変化も見られないと、“喉元と過ぎれば熱さを忘れる”の喩え通り、次第に手術以前の破天荒な自分自身に戻っていくのが怖い今日この頃です。
これではいけないと思うのですが、明日からと明日からと逃げてしまうのですから救い様もありません。
だからといって愛想を尽かす訳にもいかず、困ったものです。
後1日で還暦目前の誕生日を迎えてしまうというのに、今年もまた何もせず惰眠を貪っていたようです。
このまま何一つ意味あることなく終焉を迎えるのかと思うと、暗澹としてしまいます。
幾度となく死線をさまよって生き延びてきたというのに、この世に生を受けた意味を模索するでもなく、慣性の法則に支配されたような人生。
今年もまた再び何とかしなければと焦ることしきり、今日明日は通過儀礼で反省三昧。
やはり昔の人のいう通り○○は○○なきゃ治らないのかもしれません。
特別講師の時計屋さん
私が子供の頃、近所に時計屋さんがありました。
店内には、大きな振り子の付いた掛け時計や鳩時計が飾られており、店頭近くのガラスで区切られた一角には、いつも片目に拡大鏡を付けた小父さんが座っていました。
アルミの丸いシェイドが付いた小さな自在スタンドで手元を照らしながら、身を屈めて時計を修理している姿を記憶しています。
しかし気づいたら、いつの間にか街中から昔ながらの時計屋が姿を消していました。
なぜこんな話を始めたかというと、私の住むフィリピンの小さな街には、まだ懐かしい風景が沢山残っているからなのです。
たしか1978年頃だったと思います。
アメリカ国内でも昔ながらの時計職人が消え、社会問題化したことがあったそうです。
丁度同じ頃、アップル・コンピューターが話題となり、人々の関心がIBMの大型コンピューターから小型のPCへと移り始めていました。
この話題の前では、時計職人の行く末など霧散してしまったとか。当然のことかもしれません。
教育関係者の間では、子供達を対象としたPC教育が取り沙汰され、天才を生み出すためのプログラムが話題となっていたそうです。
そんな時、デンバーコロラドの小さい町にある小学校から依頼を受けた若いPC専門のプログラマーが、一人の年老いた時計職人を連れて小学校を訪れたそうです。
怪訝顔の関係者を尻目に、その青年は極小のドライバー・セットを子供達一人一人に配ると同時に、机の上に40センチほどの長さに切った両面テープを2本貼り付けるよう指示しました。
そして年寄りの時計職人を紹介すると、子供達と一緒に座ってしまいました。
老人は壊れた時計を子供全員に配り、好きなように分解するよう命じたそうです。
驚いていた子供達は、老人の話が冗談でないと知ると、嬉々として時計を好きなように分解し始めました。
それを確認した老人は、分解したものを順番にテープに貼り付けていくよう子供達に指示しました。
約1時間後、テープに貼り付けた最後の部品から今度は順番に組み立てていくよう命じました。
大人達はもとより、子供達のだれもが不可能と思った組み立て作業が、老人の手助けもなく粛々と行われていったそうです。
それまでじっと座っていた青年は、驚いている大人達に向かって、子供達に必要なのはPCの操作を教えるのではなく、論理性を教えることであると話し始めました。
時計を分解した順序とは逆の順番通りに部品を付け加えていけば、誰にでも出来るということこそが論理のステップを身に付ける最良の方法論だと語ったそうです。
この一件が契機となって、全米各地の小学校が、失業していた時計職人を特別講師として迎え入れたそうです。
フィリピンの露天で時計を修理している職人さんの姿に、神話といえるほど大昔の話を思い出してしまいました。
無刀無一刀無心刀
昔の話になりますが、心理学の初回の講義で、老教授が黒板に書いたのがこの“無刀無一刀無心刀”という文字でした。
真偽のほどは分かりませんが、北辰一刀流の極意とのことでした。
「“無刀”つまり刀を捨てても、“無一刀”刀なしでも刀に代わる物で敵を制してしまうが、“無心刀”心の中の刀や牙をも捨て去ると、体から出る殺気もなくなりだれひとり襲ってくる者はいなくなる。すなわち、達人とは人に敵意を抱かせない者を意味し、万が一敵に襲われたら己の未熟を恥じ、切られて死ね!」
という極意だそうです。本当にこんなことが出来る人がいるのかと驚いてしまいました。
しかし後に知ったのですが、この老教授は毎年、学生に向かって同じ話を繰り返していたそうです。落語でいう枕話だったようです。
会社の研修で、“人間とは歳を重ねるにしたがって丸くなり、温厚になっていくことが肝要だ”という話を聞いたことがありました。
またこれとは正反対ですが、“人間、死ぬまで角を落とさず磨きをかけ、鋭くなっていくことが大切”という話もどこかで聞いたことがあります。
どれが正しいということではなく、どの生き方が好きかということではないかと思いますが、私の場合どれも重すぎます。
右から風が吹けば左に流され、前から風が吹けば後ろに退くという行き方が一番性に合っているような気がします。
一般的には軟弱で情けないやつということになってしまうのかもしれませんが、自然体で無理をせず肩の力を抜いて、人に、物に、社会に対応していくことの方が達人の生き方のように思えてしまう今日この頃です。
南の島でだれに憚ることなく好き放題な暮らしを続けていると、このようになってしまうのかもしれません。
胸を張って“私にないものは金だけだ!”などとほざいても恥とも思わず、自然にこんな言葉が口をついて出る今の生活に、十分満足しているのかもしれません。
人間の偉大なる力と能力
薬の副作用なのか時々ふらっと目眩を感じてしまう事があります。
あまりに日常化してしまい、気にもならなくなっていたのですが、夕食の準備をしようとソファーから立ち上がった時、久しぶりに目眩を強く意識してしまいました。
この事が引き金になり、一過性脳虚血で入院した時の事を思い出しました。
入院中、人間の身体の精密さに驚いてしまったという話をしたいと思います。
10日ほどICUで過ごし一般病棟へと移りましたが、歩くことが出来ず、用意された車椅子での生活が数日間続きました。
“歩く練習を始めましょう”という看護師の言葉に、自力でベッドから起きようとしたのですが出来ませんでした。
この時、私は自力で立ち上がり歩く事などもう出来ないのだと思いました。
補助されるままベッドサイドに危うげに立ち上がったものの、固まったままでした。
サークルという歩行補助器をあてがわれ、立ち上がったばかりの赤ちゃんのように、サークルに身を任せた歩行訓練が始まったのです。
サークルに身体を任せた時の安堵感は、何にも例え様のないものでした。
入院するまで考える事さえなかった、立ったり座ったり、歩いたりすることがどれだけ凄い事だったのかと、その偉大さに驚いてしまい、一人感動していました。
1週間の歩行訓練後、サークルから離れて壁の手摺りを握りしめて歩き出したのですが、わずか数メートルの通路が横切れず立ち往生してしまい、改めて人間の身体の偉大さを実感してしまいました。
この気持ちは後に、階段の上り下りの訓練でも嫌というほど味わいました。
本当に凄いんですよ。こうしたメカニズムを備えた大脳を搭載し、生存しているのが私たち人間なのです。
そう考えると自分の身体を、存在を、自分勝手に粗末に扱うなんて恐ろしい事は出来なくなってしまいます。
病気をするという事は、私のような愚か者には、自らの持ちえた偉大なる力と能力を知らしめ、愚かさを諭し、感謝の念を抱かせるには必要な事なのかもしません。
とにかく凄いんですよ、人間って……!
だからこそ私の場合、生き延びている意味を知らなければという思いが人一倍強いのかもしれません。
と言っても未だ何ひとつ分からず、こうして南の島でのロビンソン・クルーソー的生活を送っている訳です。
いずれ分かる時がくるのでしょうか? それとも、何ひとつ分からないままなのでしょうか? どうやらまだ分かる時ではなさそうです。
後になってからしか分からないのが人間なのかもしれませんね。
分からないのはお前だけとお叱りを受けそうです。
私が気軽に自分の弱点をさらしているように思われるかもしれませんが、今になってやっと出来るようになったばかりなのです。(2005.7.16)
ルバロア革命
もう20年も前の話になりますが、私はルバロア革命という言葉を耳にしたことがあります。
“ババロア革命?”初めて聞く言葉でしたので、友人と顔を見合わせて笑いあったことがあります。
当時は社会全体が革命という言葉に敏感でしたので、いまだによく記憶しております。
フランスの文化人類学者レビ・ストロースは、“人間は歴史の中で農業革命と産業革命というふたつの革命を経てきただけではない”という自論を持っていました。
彼は、“人間は生産性という一面から見ても、ふたつの革命を合わせても足りないくらいの飛躍的な進歩を経験してきたというのに、だれ一人それを直視しようとしない”と語っていたそうです。
彼のいうルバロア革命は、約10万年以上前に起こりました。
人間は、それまで30万年以上も使い続けてきた旧石器を、新石器へと変えてしまいました。
旧石器を製造する時に出た石器の破片、つまりそれまで全く無価値だった薄片というゴミに新たな価値を与え、それを新石器として定着させていったのです。
この出来事をルバロア革命というそうです。
レビ・ストロースは、“人間の進化は、ゴミでしかない無価値なものの中から、次世代を支える価値が生み出される”と事ある度に話していたといいます。
“未来を支える新しい価値を求めるなら、何も考えずに、その時代の主流の価値観というノイズを排除し、何の意味もない無価値なゴミを、注意深く観察することから始めるのが大切である”というのが口癖だったそうです。
話は変わりますが、オランダに本社のある世界的企業の創設者は、19世紀末に、企業の年間収益の3%を、科学技術者に奨学金として支給すると全世界に向かって発表したそうです。
この奨学金制度は現在もなお継続されていますが、奨学金を得ることは至難の業といわれています。
なぜなら創設者の強い意向で、その時代を代表する研究者ばかりを集めた審査委員の頭脳でも理解出来ない無価値な研究か、あるいはどう考えても事業化や利潤とは結びつかない研究にしか奨学金を支給しないというものだったからです。
“100年後、あるいはそれ以上後に価値をもつ研究というものは、その時点で理解されるはずもない”というのが創設者の自論だったそうです。
このため現在この企業は、全世界で一番多くの特許を所有しているそうです。
“新たな価値は、たえず社会の周辺部からしか生まれない”という考えは、社会人類学的な思考法のひとつだそうです。
一笑には伏せない考えかもしれません。
生ゴミを捨てながら“まさか、この生ゴミも未来の……?”と呟き、まじまじと見入ってしまいました。(2005.7.22)
トンカツと投稿原稿
思いがけず記者採用のための投稿原稿募集のお誘いを頂きました。
先日、このままでは座して死を待つだけ、何か仕事をしなければと考え、藁をも掴む思いでライター登録のトピに書き込みしたのですが、初めてご連絡を頂き驚いてしまいました。
“捨てる神あらば拾う神あり”の諺通りと喜んでおります。
採用されたら一席が副賞の図書券1万円分1名、次席は3千円分の図書券と聞き、現在の生活環境からしてお誘い頂けただけでも充分と恐縮しております。
フィリピンの物価からして次席の3千円は1,500ペソ。1ヶ月の食費の半分以上になります。
なんとか入選したいと願いながら、800字の範囲内の“健康と旅”をテーマにしたジャンルに投稿してみました。
結果は分かりませんが、兎にも角にも手術後初めての経済活動。
原稿を書きながら、マスコミへの就職を目指して400字以内の小論文の練習に日夜励んでいた頃の思い出が、鮮やかに甦ってきました。
新聞の1面、国際面、そして社会面から三つのテーマを無作為に選び、三種類の原稿を連日書いていたことがあります。
数ヶ月間にわたってこの練習は続いたと記憶していますが、あれだけ練習したというのに結果的にマスコミ業界への就職はしませんでした。
その頃私は、寮で暮らしていました。ある日の夕食の時、月に一度のご馳走であるトンカツが食卓を飾りました。
あまりの嬉しさに、肉の厚さを確かめようと手にとって明かりにかざしてみました。
それは、脂身と肉が織り成す世界地図が見えてしまったほど薄いトンカツでした。
隣にいた学友が、“新聞記者なんて仕事してたら、一生このトンカツを喰うはめになっちまうぞ!”と無責任な一言。
この言葉で、私の人生は一変してしまいました。
信じられないことですが、今でこそ華やかな職業も、一昔前には大新聞を除くと地味で人気の低い職業だったこともあるのです。
呆れた話ですが、一枚のトンカツが人生を変えてしまったという馬鹿げた昔話です。
マスコミとは無縁の分野に就職してしまってからというもの、恋文以外に文章を書くこともなく過ごしてきた私が、今頃になって再度作文練習をしているのですから不思議なものです。
休止したままの羅針盤
1ヶ月も更新をしていないとなかなか前の様に、気軽に文章が書けなくなってしまうものです。
1ヶ月の空白は、私自身にいろいろな変化をもたらしました。
人に笑われないようなものを書かなければという思いが、上手い文章を書きたいという願いに変化してしまいました。
僅か1〜2ヶ月の間に、気分はすっかり作家気取り。我ながら余りの軽さに呆れてしまいました。
とにかく面白いもので、“あれを書きたいんだけど、そうすると前に書いたものと矛盾してしまう。”“このテーマだと病気が嘘みたいになってしまう”とか、“少しは賢く思われたい”などといろいろ考え、一人思い悩んでしまいました。
HP開設当初は無我夢中で、“とにかくマメに更新しなければ”と、足に浮腫みがくるまでPCの前に座り続けていたのに、この体たらく。
幾つになっても軽薄さに変わりはないようです。
若ければ軽さも可愛げになるものを、還暦前では馬鹿丸出し。
自然体で若者達のように、何の気負いもなく話す様にメールしたいものです。
団塊世代の悲しさか、頭と身体がバラバラ。思うようにはいかないものです。
“気取りは男の華やかさ”などと一人うそぶいて満足しているようでは、救い様もないかもしれません。
何はともあれ、初心に立ち返りHPを更新していきたいと考えております。
社会は矛盾の複合体と毛沢東の言葉を借りて、開き直って思いつくままに書き続けていくことにしますのでよろしくお願いします。
私は、今まで幾度となく究極の選択に直面してきました。
しかし実のところは、究極の選択に苦悩する新劇の役者や、ロイヤル・シェークスピア劇団のハムレットを演ずる役者をまねて、深いため息を吐いていればよかっただけのことだったようです。
生死を分けるような深刻なものではありませんでした。
誰かを模し、誰かを演じていればよかっただけのことだったのです。
しかし南の島への緊急避難を目前にして、“薬の受け取りと検査のために3ヶ月に1回帰国する必要がある”と医師から告げられた時、私の頭は、あまりの衝撃のため活動不能状態に陥ってしまいました。
それまでぎりぎりの生活費で耐久レースに備えていたのですから、さらにそれが増額することなど全く考えられないことでした。
不可能としか思えなかったのです。
生活費の補助制度などあるはずもなく、自ら運を天にまかせて医師の言葉を無視するか、悪あがきしてでも生に執着するかの判断をしなければならなくなりました。
今思うと、生きていくにあたり真っ先に考えておかなければならなかった問題だったのに、経済的危機からの緊急避難ばかりが先に立ち、肝心なことをすっかり忘れていたのです。
そういえば手術の時もそうでした。
生に対する執着は人一倍強いはずだった私が、“金がないから手術はしない!”と大見栄を切った直後、高額医療費の貸し付け制度があることを知った私は節操なく満面の笑みで、“ 宜しくお願いしまーす!”と医師に向かって深々と頭を下げ、手術そのものを忘れ、すべての問題が片付いたような気分になっていました。
いつも肝心なことが抜けてしまっているのです。
全くこのいい加減さのお蔭で、今まで生き延びてこれたのかもしれません。
南の島に来て以来3ヶ月に一度、検査と薬のため日本往復が続いています。
毎回、経済的な問題に暗澹たる気分で南の島に帰り着くのですが、着いてしまえば無責任なほどに楽天的になってしまいます。
“何とかなるか! 駄目ならその時に考えればいいこと。まだ生きているんだから、この難局を生き延びることが私の存在理由なのかもしれない”
などと手前味噌を並べているのですから呆れたものです。
これも南の島ならではのことかもしれません。
青い空、椰子の葉陰、美しい夕暮れ時の海岸、すべてが私の自堕落な人生を肯定し、応援してくれているかのようです。
何とかなるものです。
生か死か?とか金か命か?等の究極の選択が必要な時には、無責任なようですが、小さい頭で思い悩み苦しむよりも、大きな流れに身を任せた方が良いのかもしれません。
たえず自分自身では思いも付かないような解決策のお陰で、今尚、生き延びていることは紛れもない事実なのですから。(2005.9.1)
さよなら5分前の靴
“さよなら5分前の靴”
聞き慣れない言葉かもしれませんが、こんな言葉が戦時中の日本で密かに使われていたのです。
うっかり人前で使おうものなら、“非国民!”と誹りを受けてしまうほど、危険な反戦用語だったようです。
この言葉は、日本だけの言葉とつい最近まで思っていたのですが、使うニュアンスはチョット違うようですが、何とアメリカ人の、それも軍人の間でも使われていたようなのです。
“さよなら5分前の靴”とは、編み上げ式の軍靴を意味する言葉です。
日本では、出征する兵士が家族と別れる時、玄関の上がり框に腰を掛け、送る人に背を向けて靴紐を結ぶ間の、気が遠くなるほどに感じられる長く気まずい時間を指す言葉でもありした。
アメリカではというと、脱ぎ難い面倒な靴を意味する言葉だったとか。
ベトナム戦争当時には、すべての任務が済んでも、靴を脱ぎ終わるまでの5分間は緊張を緩めないように戒める言葉としても使われていたと聞きます。
“所変われば……”の喩え通り、あまりの違いに驚いてしまいます。
口にすれば非国民として憲兵や特高に逮捕された、第二次大戦中の日本。
スラングだったアメリカに対し、深刻なばかりではなく、多くの感情や意味を持った隠語でもありました。
背を向けて座る父を、兄を、最愛の息子を、あるいは愛しい恋人を、無言で見つめ続けた人々。
声にはならなくても、多くの言葉や思いが交差していた沈黙の5分間。
送られる兵士も、あらん限りの別れの言葉を後ろ姿に託したことでしょう。
“この時間が永遠に続けばいいのに……”という願いは、両者に共通したものだったに違いありません。
戦後20年も過ぎたある日、物置を片付けていた少年は、一足の埃まみれになった編み上げ靴を見つけました。
“わーっ、格好いい! もらってもいい?”
と、ともに片付けをしていた祖母に聞いたところ、祖母は表情を険しくし、
“そんな縁起でもない物。“さよなら5分前の靴”なんかさっさと捨てておくれ!”
と吐き捨てるように言いました。
その時初めて、“さよなら5分前の靴”を耳にした少年は、以来この言葉が何となく引っ掛かり、ことある度にこの言葉を思い出してしまったそうです。
“こんな言葉を知ってますか? 聞いたことないですか?”
から始まった彼の話は、夜遅くまで続きました。
この話を私とともに聞いていた元アメリカ軍人の友人が、アメリカでの使い方の説明を始めてしまい、思いもかけず日米決戦ならぬ驚き合戦を展開することになりました。
我々が巧みに英語を話したのではなく、横須賀、佐世保、沖縄と在日期間の長い友人が、巧みに日本語を使うので成立した話です。(2005.9.9)
ロズエル?
月面基地の建設はもとより、火星探査や木星の調査も行われ、今や国際協力で宇宙ステーションの建設も始まっています。
これからは、今まで以上にこうした人類全体のプロジェクトが盛んになっていくことでしょう。
20世紀の終わりを間近に控えた1997年、アメリカ全土はもとより、全世界を対象とした一大イベントの開催が企画されました。
それは1947年、米国ニュ−メキシコ州ロズエル市郊外に、未確認飛行物体が墜落した事件から50年が経過したことを記念するイベントでした。
アメリカのベル物理学博士(アレクサンダー・グラハム・ベル博士の孫)を始め、MITや米国有力大学の宇宙物理学者たちが中心となって、1997年を宇宙元年としようというものだったそうです。
ロズエル市長を始め、全米のテレビ、ラジオ、新聞、出版社等のマスメディアがこの計画に賛同し、さらに英国、ドイツ、フランス、カナダ、イタリア、オーストラリア、AFP通信、南米の各マスメディアがロズエル市に集結したことで、全世界が一体化するほどの規模となりました。
「ロズエル97」を契機に、新しい時代の幕開けを宣言しようというこの計画には、さらにエルトン・ジョンのAIDSコンサートや、クリントン大統領の50才の誕生パーティー等を手掛けた有名なプロデューサー、チップ・キュグリー氏や、ネルソン・マンディラ・トリビュートのプロデューサー、ケン・エリック氏が参加し、宇宙をテーマにした音楽と科学の一大イベントとなったそうです。
また、UCLA、デューク大学、コロンビア大学、ワシントン大学によって設立された[Save The Earth基金]の25周年を記念し、女優のメリル・ストリープ等が発起人となって「ロズエル97」に参画するなど、まさに名実ともに全世界規模の企画だったとか。
日本国内では、この催しは一切報道されなかったので、その結末までは分かりませんが、「ロズエル97」を契機に米国で製作されたテレビドラマ「ロズエル」が、数年前NHKの海外ドラマシリーズで放送されたようです。
日本国内では、「UFO」を際物とした扱いが中心ですが、カール・セーガン博士始め、多くの世界的科学者たちにとっては、既成の事実のようです。
満月を眺めながら、ふと宇宙の壮大なドラマを思い浮かべてしまいました。秋の夜長? 南国の島のマジック? いずれにしても、時に人間は、年齢に関わりなくロマンチックになるのかもしれません。(2005.9.23)
水電報
何かと気ぜわしく何も手が付かないという日が続き、呟くことも忘れていました。
これと言った特別な用事や、気になることも何一つなかったのに。
季節の変わり目だからなのか、1年も終わりに近付いたからなのか、ただボーッとしていたようです。
月が変わり10月も半ば近くになっていました。
明日10月10日は、体育の日で休日です。
中華街は台湾の双十節、建国記念日になります。
10月1日は、中国の建国記念日、国慶節でした。
台湾系の人口が多い横浜中華街では、お店の多くが青天白日旗と呼ばれている国旗を飾り、大変賑わうそうです。
1911年10月10日、孫文を中心とした辛亥革命は、中国の武昌で革命に賛同する学生たちが決起したことで成功したことから、10月10日を記念日にしたそうです。
聞いた話の上にいい加減な記憶ですので、もしご興味がおありでしたら調べて見て下さい。
正確な情報をお知りの方がいらっしゃいましたら、是非ご教授頂けると嬉しいのですが、よろしくお願いします。
革命の成否を握ったのが、武昌の決起だったそうです。
政府軍に包囲されていた武昌では、城内で決起したことを革命軍に知らせる必要がありました。
しかし電報、電信は一切駄目、狼煙も使えない、伝令も城外には出れず、全く連絡手段がなかったと言います。
この急場を救ってくれたのは、河漁師の老人だったそうです。
物心付いた頃からずっと河漁師一筋、他のものは何も知らないと言う名もない老人の知恵が、革命軍に成功をもたらしたのです。
老人の智恵なくして現代の中国、台湾の繁栄はなかったと言っても過言ではないと言われています。
老人の知恵とは、城外の同志に決起を知らせる手段として、河上の漁師が河下の漁師に連絡が必要な時に、昔から彼らの間で普通に行われていた方法を用いることでした。
その方法とは、何枚もの板切れに伝言を書き、それを1枚ずつ油紙に包んで大量に河に流すというものです。
老人から教えられた革命軍は、早速この方法を採用し、成功を収めたと言います。
この1件を記念し、河を利用したコミュニケーション法を水電報と名付け、現代にまで伝えているそうです。
これまた伝聞。真偽の程は分かりません。
漂流者には参考にしたり、調べたりする文献も術もありません。
その上、ネットでの検索をしようにも無料のものはなく、島現象の様相を呈して来ている曖昧な記憶を元にした呟きとご容赦下さい。(2005.10.9)
予期せぬ展開
このところ天気も安定してきて、青空が戻って来ました。
11月から3月までが、フィリピンのベストシーズンとか。
私も突き抜けるような青空に誘われて、久々にビーチに足を運んでみました。
驚いたことに筋力が著しく低下していて、砂浜をうまく歩けませんでした。
泳いでみたら、十数メートルしか泳げません。
いくら心臓が悪いからといって、これほど体力が落ちてしまったのかと愕然としてしまいました。
気持ちに身体が追いつかないもどかしさを、今回ほど味わったことはありません。
家に戻って鏡の前で胸を張り、両腕を曲げて力こぶを作ってみて、あまりの情けなさにがっくり肩を落としてしまいました。
雨期を言い訳にして自堕落な生活を送ってしまったつけは、私の予想以上でした。
南の島でのロビンソン・クルーソーなどと洒落ては見たものの、こんなに惨めな思いを味わうことになるなんて……。
冬眠から目覚めた熊が恐る恐る歩き回り、身体を慣らしていくようなものならいいのですが、私の場合、落ちてしまった体力を回復するには時間がかかりそうです。
これからは、南の島での体力回復トレーニング計画を、真面目に遂行する必要があります。
来年の雨期には、今回のような失敗を二度としたくはありません。
願わくば来年の雨期までには、失ってしまった体力が回復していてほしいものです。
ふと、小学校時代の夏休みを思い出してしまいました。
毎朝決まった時間に起床してラジオ体操をしながら、“何でこんなことしなきゃいけないんだ”と思ったものです。
“計画的な生活を送りなさい”と夏休みを前に繰り返し言われましたが、ちょっとニュアンスは異なるものの、その大切さが今頃になってやっと分かったように思います。
子供の頃に無意味と思っていたことは、実は何一つ無駄ではなかったようです。
意外と、今のような漂流者暮らしには必要なことばかりのような気がします。
針のない時計に針を書き込んでスケジュールを作ることは、簡単なようで一番難しいものです。
漂流者になるためには、自分で自分自身の時計と時間を管理する能力を培うことが大前提になるようです。
気楽に生きることは、何よりも難しいような気がしてしまいました。
気楽に生きるためには、そのための最低限の計画も必要なようです。
すべてが自分の責任となると、責任を他に転嫁することは許されず、自己完結することが要求されます。
どう転んでもすべてが選択肢の一つでしかないのです。
となると、気楽に暮らすにも計算され尽くした無計画、計画的無秩序、計画的無責任と言う逆説的思考法が必要になります。
気ままな南の島暮らしの裏側には、大変な厳しさが隠されているのかもしれません。(2005.10.15)
ジャングルの知恵に守られた“安らぎ”
バイパス3本とドールという耳慣れない心臓手術を受けたのが2年前の8月。
生活費の安さから、フィリピンの片田舎に文字通りの緊急避難。
以来1年間、何事もなく過ごせたのは、アイタ族のお陰かもしれない。
アイタ族は、1991年のピナツボ火山爆発によって被災した種族。
ヴェトナム戦争当時、米軍特殊部隊にジャングルでのサバイバル術を教えたフィリピン先住民族でもある。
一部の集落では、現在でもふんどし姿で弓矢や吹き矢を用いた狩猟生活をしていると聞く。
アイタ族の四つの集落を束ねる長(マスター)と出会うことが出来たのは、ルソン島中北部の田舎町で暮らし始めて間もない頃だった。
旧米軍基地内にいまだに残っている訓練キャンプを珍しさも手伝って訪れた時、マスターも偶然そこを訪れていた。
ジャングル料理を共に楽しんだ後、彼らの前で食後の薬を服用した。
その量の多さに驚いた彼らに心臓を病んでいると話したところ、“待っていろ”の言葉を残し、マスターと数名の若者がジャングルの中に姿を消した。
待つこと数10分。
彼らは、両手で抱えきれないほどの植物を手に戻って来た。それからが大変。
“これは血液をきれいにする葉っぱ”
“これは血圧を下げるのに良い”
等と、5〜6種類のジャングル・ハ−バルについての講義が始まってしまった。とどめは、
“フィリピンに長く居るんだったら、ジャングルの知恵でお前を健康にしてやる!”
というマスターの言葉だった。
それ以来、現在に至るまで欠かすことなく、野生のノニや煎じて飲むと利尿効果のあるクゴンの根など、ジャングルからのハーバル便が届いている。
その効果は科学的には立証されていないものの、古くからアイタ族に伝わる豊富なハーバルの知恵と知識が、現在の私の健康を守ってくれているのは確かだ。
“ジャングルの薬屋さんも悪くないだろう”と笑ったマスターの笑みが、一番の妙薬となっているのかもしれない。(2005.10.23)
一瞬、時計が動いた街
土曜日のお昼、兵隊を満載した輸送用舟艇が波しぶきを巻き上げながら、2隻の補給船を先導してスービック湾に入港して来ました。
沖縄からパラワンに向かう途中の寄港だそうです。
ここで兵隊の休養とジャングル戦を想定した訓練をしてから、ゲリラ掃討を目的に昨年春からミンダナオで実施されている、フィリピン国軍と米海兵隊による“ワーゲーム”に参加するという話です。
アフガンやイラクだけでなくここフィリピンでも、名前はどうであれ現実に戦争が起きているのです。
皮肉なことに、このお陰で死んだような街に活気が甦って来ました。
数週間前から、米退役軍人会の会合が開かれ、歓迎のための準備が行なわれてきたのだということでした。
土曜日の朝までは、街を歩く退役軍人の姿に何ら変化はありませんでした。
それが夕方から日曜日にかけて、潮が引いたように退役軍人の姿が街から消えてしまったのです。
街は静かな普段の顔ではなくなり、マグサイサイ界隈のバーは上陸を許可された兵隊たちで溢れました。
街の著名人、政治家、軍人、警察関係者は、船長主催の船上レセプションに招待されたそうです。
この街に住む退役軍人会の会員もすべて、このレセプションに招待されたようです。
輝きを失ってしまっていた退役軍人の中には、大切に保管していた第1正装用軍服姿で出掛けた人たちもいたと聞きます。
それは、止まっていた時計が突然動き出したように、ストップモーションのまま固まっていた年老いた人形が動き出したように、異様な光景という表現がピッタリするほどだったそうです。
この光景を遠巻きに見ていたという友人の退役軍人が、“自分も、何も考えることなく無邪気に喜んでレセプションに行き、若い兵隊を前に武勇談を語り、浴びるほどただ酒を飲めればどんなに幸せだったかしれないのに、どうしてもそれが出来ないんだ”と暗い表情で語ってくれました。
彼の時計は退役してもなお、一度として止まることがなかったのかもしれません。
まだ高校生だった時、私は受験勉強の最中、エンタープライズ佐世保入港反対闘争をニュースで遠巻きに眺めていました。
それから40年以上経過した今現在も、他人事として戦争を眺めています。
彼の話を聞き、そんな自分自身の無責任さを鋭く告発された様な気分になってしまいました。
“君の、いや世の中すべての人が持つ辞書から、平和という文字を消し去ることが出来なければ、戦争がなくなることはないんだ”という彼の言葉は、私にはあまりにも重過ぎました。
私は明日、街で退役軍人を見かけたら、今までとは違った彼らの姿を見るかもしれません。
そして、ずっと動き続けていたかもしれない彼らの時計の音を、今まで聞くことが出来なかった自分自身を恥じるかもしれません。(2005.10.25)
日本の常識? 世界の常識?
毎年この時期になると、日華事変前から終戦まで、上海のフランス領事館で通訳官をしていた、あるフランス人にまつわる話を思い出してしまいます。
日本の好色本の作者として名高い井原西鶴について興味を抱いた彼は、上海在任中、生活費も無視して給料の大半を井原西鶴に関する参考文献の収集に費やしていたそうです。
当時、日本租界の四馬路にあった内田書店はもとより、休暇の際には日本国内にまで足を伸ばし、文献収集に奔走していたと言います。
彼の名は、ボンマルシャン。
外国人の西鶴研究者ボンマルシャン氏は、日本ではあまり知られていないようです。
彼の生涯をかけた研究は、1970年代の終り頃、彼の死後ユネスコによって2冊の研究論文として刊行されました。
しかし彼の遺族を除いて、その刊行物の存在さえ知られてはいません。
ユネスコ本部にあるライブラリーの片隅に、現在もひっそりと収納されたままです。
1980年初冬、ボンマルシャン氏の貴重な蔵書全部が、パリの日本館に寄贈されるという話があったそうなのですが、話は頓挫してしまったようで、現在ではその所在を知るすべもありません。
パリの日本館とは、明治時代パリの社交界で勇名を馳せたバロン薩摩(薩摩男爵)が、贅を尽くして建築した大邸宅です。
戦後、フランス政府より日本に返還された後、一部を日本からの留学生の宿舎とし、残りは日本文化の紹介を兼ねた文化センターとして、現在もなお日仏文化交流の拠点として活用されています。
生前、ここのライブラリーに寄贈することを希望していたボンマルシャン氏の思いは、
“図書目録が完備されていない”
“項目別に整理されていない”
などと極めて日本の官僚的対応の前に、その存在が有耶無耶になってしまったとか。
井原西鶴の作品を理解するためには、井原西鶴本人の思想的背景や哲学を知ることが大前提になると語っていた彼の言葉どおり、蔵書には大蔵経をはじめ多くの経典が含まれていたそうです。
貧困に苦しむ間さえ惜しいと言いながら、人生をかけて取り組んだ彼の研究の成果は、ユネスコから出版された2冊の小冊子。
寄贈された蔵書を研究するのもキュレーターの立派な仕事のはずですが、寄贈された本の価値を寄贈者の知名度で計ってしまう軽薄な判断基準。
メジャーでないものは切り捨てるという薄っぺらな研究姿勢は、我が日本が世界に誇れる立派なものなのかもしれません。
誰か大志大望のない奇特な学生で、日本文学を専攻している人がいたら、興味ある研究になるのではないでしょうか?
是非ともお勧めしたいものです。
“Gのつぶやき”程度の与太話とお聞き流し下さい。(2005.12.12)
未成熟な言語と成熟した言語の狭間で
最近、日本人旅行者の青年に偶然会いました。
オーストラリアで1年間のワーキングホリデーの後、タイでタイ語と英語の勉強をしてきたとのことでした。
“タイで英語?”
不思議顔の私に、
“タイだとネィティブによるレッスン料が安いんですよ”
と親切に教えてくれました。
“凄いですね、英語が出来てその上タイ語も話せるんですか”
と言う私に、
“英語はまだまだ日本人です。ネイティブのようには話せません”
彼は、ネイティブと思われるようになりたいのだそうです。
そういう彼に私は、ここ一年感じ続けてきた英語に対する思いについて話してみました。
“英語と比較して、日本語は成熟した言語のように感じるんですが”
という私に大仰な身振りで驚きを表し、“このおっさん頭がおかしいんじゃないの”とばかりに同情の念を顕に見せながら、
“なんですって、英語ですよ! 英語なんですよ! 日本語のどこが英語よりも成熟してるって言うんですか? 信じられない!”
と話すだけ無駄とばかりに、
“明日朝に予定がありますので、失礼! 頑張って下さい”
という言葉を残して去っていきました。
どうやら無責任なおじさんの言葉が、純真な青年のプライドを傷つけてしまったようでした。
しかし私には、何をどうすれば英語が日本語よりも高等な言葉になるのだろうかと、彼同様に不思議に思ってしまいました。
ご理解頂けないかもしれませんが、日本語の語彙の多さに比べて、英語は極端に語彙が少ないのです。
Tsunami(津波)やUmami(旨味)などのように、英語では表現できない言葉が日本語には沢山あります。
一つの英語に対応する日本語が、あまりに多くありすぎてしまうのが問題なのです。
話すときに日本語に対応する英語を探し求めるために咄嗟に反応出来ないことで、英語が難しいと勘違いしている人も多いのかもしれません。
語彙の少なさを補うために、大きな身振りや手振りどころか、それでも足りないときには顔の筋肉までも使わなければいけないという切実な問題を抱えているのが英語ではないかと考えます。
それに引き換え日本語は、表情すら変えることなく言葉で多くのことを伝えることが出来ます。
それなのに、自分自身の持つ成熟した言葉を自ら否定して、ネイティブのような身振り手振りの習得に精を出そうというのも変な話です。
日本人の単語力は、平均的欧米人に比べて比較出来ないほど豊富という事実を、当の日本人自身が信じようとしないのでは話になりません。
学者か外交官、ジャーナリストにでもなるというなら別ですが、日常英会話を学ぶ人は、英語そのものの成り立ちから理解することが必要なのかもしれません。
米語は思考に適した言語というよりも、コミュニケーションを主体に発達してきた言語なのです。
アメリカは移民の国です。世界中から移民して来る人たちが、短時間で自分の意志を伝えられるようになるための言語が米語なのです。
ですから文法よりもまず、最少の単語の組み合わせで自分の意志を正確に伝えられるようになることが重視されているのです。
意思の伝達が出来れば、それで十分なのです。
それは正しい米語になるのです。
どこの国の人でも、会話をするために英語を学んでいるのです。
BBCやCNNのキャスターのようになることを目的に学習しようという人たちは、日本人以外あまりいません。
英語は、日々成長し発展し続けている言語なのです。
英語で的確に表現する語彙や概念がない場合は、積極的に外来語を取り入れて英語とし、その幅と深度を深めているのです。
英語は話せるようになる言葉ではなく、話すための言葉なのかもしれません。
極端な表現になるかもしれませんが、成熟し老成してきている日本語に比べ、英語は発展途上にある言葉といえるでしょう。
日本人が英語を話すのが苦手で難しいというのは、老成し弾力性を失った言葉に執着するあまり、そのままの日本語に対応する英語を探し求めてしまうために引き起こされている現象なのかもしれません。
自らの言語を英語に合わせて単純化することが、何よりも先に取り組まなければいけないことのようです。
青年との出会いが、私に再びこの問題を思い起こさせてくれました。
以前“Gの英語習得術”でご紹介させて頂いた内容と、重複してしまったことをお許しください。(2005.12.29)
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