団塊世代の定年退職後のライフスタイルを考える
団塊世代のための暮らし方海外編
古代シュメールの遺跡から一片の土くれが発見されました。
円形土章のかけらなのか、高杯の一部だったのか?
このかけらに恋をしてしまった男がいたそうです。
彼は土くれを握り締めて、“恋文が届いた!”と叫んだといいます。
そして彼は、悠久の彼方のまだ見ぬ恋人に恋文を書き、小さな笹舟に乗せて未来へ流そうと考えたそうです。
奄美の市場で拾い集めた魚を糧とし、だれからも認められることなく色鮮やかな南国の風物を描き続けた田中一村に憧れた故なのか? それとも、南国の狂気のせいなのかは分かりませんが、“私もまだ見ぬ時の彼方の恋人に恋文を書こう! そして笹舟に乗せて送り届けよう!”という気になりました。
未来へ向けて恋文を書くことは、私に架せられた人生の課題であると思えてしまったのです。
余生、老後、退職後の人生設計などというありきたりの言葉に惑わされず、皆さんも自分に架せられた課題について、思いを巡らせてみてはいかがでしょう。(2006.4)
恋 文 紹 介 スーパーマンの息子 幼い頃から心に傷を抱えた男女の出会い
そこから繰り広げられる、ニューヨークを舞台にした現代の旧約聖書World of Left Eye 素敵な左目の世界
私は、いつでも黄金色に光り輝く街の中を吹き抜ける、爽やかで香しい南国の風のようになりたい……Time Traveler
―時の旅人―毎晩、翌朝目覚めぬことを祈りながらベッドに入るNYPD退職警官の一日
過去が凝縮してしまったような時間と闘い続ける彼は……
Time Traveler ―時の旅人― <目次> 序章 2006.7.5 6:30 am 2006.7.9 9:00 am 2006.7.12 10:30 am 2006.7.20 1:00 pm 2006.7.22 5:00 pm 2006.7.26 6:20 pm 2006.7.31 11:20 pm 2006.8.2 1:00 am 2006.9.13 終章 2006.9.17
序章
今から三十年前の一九七〇年の七月三日、独立記念日の前日に、ある娘が誕生しました。
その赤ちゃんはとてもグロテスクで、動物園のゴリラの赤ちゃんに瓜二つ。
とても人間の赤ちゃんとは思えませんでした。
それから三十年。グロテスクだった生物は、驚くことにすっかり人間へと進化していました。
信じられないことですが、それも普通以上に輝いており、魅力的な女性になっていたのです。
ゴリラの赤ちゃんが、妙齢で魅力的なレディーに変化してしまった三十年という時間の中には、三十万年、あるいは三百万年以上に亘る人類の進化してきた歴史が凝縮されているのかもしれません。
最初は“四”。次は“二”。そして最後は“三”。「スフィンクスのなぞなぞ」として有名な話です。
この娘も生まれてしばらくは、海から陸上での生活に進化した両生類のように、フロアーを背筋と腹筋で飛び跳ねて前進していたものです。
その姿は、アザラシやトドそのものでした。
それが一年を越えた頃から紛れもなく“四”に変わり、両手両足を使って至る所を移動し始めました。
その後立ち上がって二足歩行となり、ゴリラの赤ちゃんはやがて猿人から人類へと進化を遂げ、“四”から“二”へと変わったのです。
いずれ何十年か後には、杖を突いた老人へと変化し“三”となることでしょう。
“三”は杖をついた老人の姿。杖をついた老人の姿は、古代エジプトのヒエログリフでは異国の賢人という意味を持ち、尊いものの象徴記号として使われていました。
また古代エジプトの知恵として、子供の成長過程の中に人類の進化のプロセスが集約されているといわれていました。
その知恵を後世に伝える目的で作られたのが、「スフィンクスのなぞなぞ」だそうです。
真意はどうか分かりませんが、現代まで語り継がれて来たのは事実ですから、十分にその目的を果たしているようです。
ゴリラの赤ちゃんのような娘が、オランウータンの赤ちゃんへと変わる頃でした。
この娘は自我を意識し始めたのか、しきりに手指を動かし、明らかに猿人から人類へと移行していました。
手当たり次第に、書けるものなら机だろうが床だろうが、ドアだろうが窓だろうが一切構わず、すべてをキャンバスにして、直線や図形や意味不明な記号などを書きなぐるようになりました。
その一連の悪戯は、人類が文字記号を持ち得たことを示す行動だったのでしょうか。
昔、一人の老人がマンハッタンの東側に住んでいました。
昔といっても前世紀というほどの古い話ではありません。
しかし、娘がゴリラからレディーに変化するのに十分だった三十年よりもずっと前から、その老人は存在していたのです。
生きていれば優に九十歳を越えているはずですが、老人の消息は分かりません。
確認しようにも、だれに聞けばいいのか、どこに問い合わせればいいのかも分からないからです。
老人は「積極的に『無告の民』でありたいし、あるべきだと考え今まで生きてきた」と、口癖のように言っていました。
自らを語る時の枕言葉が、「無告の民」だったのです。
何度も耳にした記憶がありますが、それがどんな時だったかは覚えてはいません。
また友人、知人が何人いたのかも今となっては分かりませんが、限りなくゼロに近かったような気がします。
しかし一度だけでしたが、彼のところへスーツ姿の二人の紳士が訪れ、親しげに「ブラザー」と呼び合っているのを目撃したことがありました。
そのことからして、決して知人が皆無だったのではなさそうです。
この紳士たちの素性は、今なお知らないし、知り得ません。
老人に関する記憶は、今から考えてもさしたるものはありませんが、老人と最後に会った日、つまり二人の紳士が訪ねて来た日の出来事は、今でも鮮明に記憶しています。
それほど、普通ではない、普段の老人からは連想出来ないような奇妙なものでした。
紳士たちが訪ねて来る日の朝のことです。
普段は私から話し掛け、老人が返事をするというのが当たり前になっていただけに、老人から話し掛けられたのは意外であり驚きでした。
それも唐突に、
「君は社会と契約しているのかね? それとも自由と契約しているのかね?」
と聞いてきたのです。
「何がですか? 何の話なのか分かりませんが……」
私の発言を遮るように、
「社会と契約している人なら、こんなところに来てはいけない」
と、疑問顔の私を無視して、一方的に話し始めました。
「神と自由の契約をした人間ならば、絶対的にこの契約を守る責任を負うことになり、いかなる場合にも、この契約を守り通す義務から逃れることは出来ない」
老人は、何の話なのか意味不明の言葉を脈絡もなしに話し出していました。理解しかねる私に、
「本当は、人類すべてに共通した問題なんだがね。我々人間は、神に対し自由を守り抜く義務を背負い続けているという事実について、だれ一人として分かろうとしない。この契約は、いかなる政治体制にもイデオロギーにも、経済の法則の前ですら守り抜かなければいけないものなんだ。たとえ国家からの圧力がかかったとしても、屈服することは許されないものなんだよ」
と、普段の老人からは想像出来ないほど雄弁に語ったのでした。
ただの年老いた身寄りのない老人の姿は、そこにはありませんでした。
この老人との出会いは、全くの偶然。
一人暮らしの老人を見舞うという、一種のボランティア的関わりが始まりでした。
いやそれよりも、家族も頼るべき身内や友人もいない、寂しい孤独な老人への憐憫の情といった方が正しいかもしれません。
こうして定期的に老人を訪問するという社会的善人への努力が、過去一年と三ヵ月も続いていました。
哀れな孤独な老人から、自由についての契約の話など聞こうなどとは思ってもいませんでした。
人が訪ねて来るから部屋の掃除を手伝ってくれという老人の依頼を、軽い気持ちで引き受けたものの、訪問客と老人の話があんな変な話になるとは、その時には考えてもいませんでした。
そうでもなければ、たわいもない老人の一言に、あれほど動揺することもなかったでしょう。
午前九時半。いつもの老人なら、既に外出しているはずの時間。
しかしその日は、訪問客のためにスケジュールを変更。
老人と出会って初めての出来事でした。
老人の依頼通り室内の清掃を手伝っている間に、時はすでに十時半を少し過ぎていました。
訪問客は十一時時過ぎに来るそうなので、手落ちが無いように室内を再チェックしていた時のことでした。
「君は聖書を読むかね?」
またもや、老人の脈絡のない質問に晒されていました。
「聖書を読む時、目で読むのかね? それとも、声を出して読むのかね?」
朝から変な質問攻めで、一体どうしたというのでしょう。
しかも質問しておきながら、私の返事を待つことなく、一方的に話は進んで行きます。挙げ句の果てに、
「そろそろお客が来る時間だが、君はどうするかね? 一緒に居ても一向に構わないが」
考える間もなく、訪問客のノックが室内に響き渡りました。
その場を去るタイミングを失った私は、当然のように二人の訪問客を迎え入れました。
「いらっしゃいませ。どうぞお入りください」
なぜ私が老人の従者のように振る舞わなければいけなかったのか、今でもよく分かりません。
いずれにしても、我ながら感心するほどに、忠実な従者に成りきっていました。
老人も客も、だれ一人私の存在を、それ以上にもそれ以下にも認識しているとは思えませんでした。
迎え入れた私に、二人の客は無造作に帽子を手渡すと、
「ありがとう」
の言葉を残し、既に老人と挨拶を交わしていました。
何かしら映画でも、いやオフブロードウェイの舞台でも見ているかのような時代がかった光景に、私は不思議な心持ちで見入っていました。
手にした客のソフト帽をどこに置いたら良いのかと弄んでいると、
「サイドテーブルの上に置いて、そこに座りなさい」
老人は、御主人様が召し使いにでも言うような口調で、壁際の席を指差していました。
イギリス的なアクセントの言葉に、私はまるで機械仕掛けの人形のように、従順な従者のように振る舞っていました。
老人と客は、既に話し始めていました。
長い時間の空白など、そこには全く感じられませんでした。
まるで昨日からの継続した話題に興じているかのように、三人は真剣な面持ちで語り合っていました。
「ブラザー」
一人の客が、老人をブラザーと呼んだのです。
二人とも、老人より十歳、いやそれ以上に若いはず。
どんな関係なのか、年上すぎる老人を呼ぶにしては、兄弟とはいかにも不自然だし、本当の兄弟であるはずもありませんでした。
身寄りのない老人と、とても高価そうなスーツで身を固めた客との組み合わせは、不自然そのもの。
その上、ブラザー発言。私の頭の中で、いつしか不自然さは怪しさに変わり、目前の三人組に懐疑の眼差しを投げかけていました。
長身の紳士が、話を切り出しました。
「ブラザー。あなたの言われていた、ステンド・グラスの話をずっと考えていたのですが、やっと分かったような気がして突然訪問を思い立ちました。それから、同席している友人ももちろんブラザーですが、彼とも話し合い、ある確信が持てたので伺うことにしたのです。彼はステンド・グラスの話について、この一年以上考え続けてきた仲間です」
百八十センチ以上と思われる長身の客が、その隣に座っている客を差して紹介しました。
彼は長身の客に比べると細身の筋肉質で、身長はおよそ百七十センチ程度。老人とほぼ同じ身長のように思われました。
「ステンド・グラスの絵柄は重要なことではなく、外光、つまりは太陽光線の前では同等・平等になることを意味し、ステンド・グラスのフレームは、社会の象徴。そして、各ピースそれぞれが社会の構成員、つまりは人間を象徴しているのではないかと考えたのです」
一気に語り終えた長身の紳士は、老人の表情を伺うように見つめました。
語り手の熱意に対して、老人の態度はあまりに素っ気ないものでした。
「つまりステンド・グラスは、平等についての象徴記号なのですね」
という問い掛けに、老人はただ軽く頷いただけだったと思います。
無言の老人を相手に、客は一人で熱心に語り続けていました。
隣に座っている細身の紳士は終始無言でしたが、明らかにこの会話に参加していたように見えました。
うまく説明出来ませんが、あの場には言葉以外の、何か一般的ではないコミュニケーションの手段が存在していたように思います。
「小さなピースと大きなピースのどちらが重要かなどと考える必要もなく、すべてが同等の価値で寓せられる。ピースそれぞれがお互いに比較したり優劣を競ったりすることなく、存在を認め尊敬し合い、光の前で整然と光り輝いている。その姿は、我々に聖書の中で語られている『汝の隣人を愛せよ』の教えを、具体的に指し示しているように感じられてなりません」
これにも無言で頷く老人。
彼らの関心外にいるような疎外感を全身で感じていた私は、なぜか席を立つことも出来ず、会話の意図も意味も分からないまま眺め続けていました。
お茶やコーヒーどころか、喫煙することすらないままに会話は進行していました。
その時でした。終始無言だった背の低い細身の客が、会話に参入して来たのです。
それは、あまりにも唐突でした。
「ブラザー、あなたが語ってくれたという九十九人の話についてですが……」
身を乗り出し、堰を切ったように語り出しました。
「『友よ 恐れることなかれ
九十九人の嘲笑を 嘲りの言葉を
石もて打たれる苦しみを
友よ 尊ぶべし 卑怯者の勲章の輝きを
そして 友よ 誇るべし
荒野に立ちたる自らを……』
このフレーズは分かるのですが、この後の、
『苦しみは さらに七日間続き
自らの脳細胞を鉛色に染め
あらゆる悩み 苦しみからの
逃避を試みることでしょう
しかし八日目の朝
まだ眠い目に かつて見たことのない広がりが映り 何の前触れもなく
全く新しい広がりと遭遇するでしょう
その時 あなたは知るでしょう
生まれいずる悩みも 悲しみも
感動さえも 一切が無意味だったことを
そして あなたは知るでしょう
“開放”の意味を……』
この八日目の朝以降を、前段のフレーズのように受け取ることが出来ません」
この発言をも老人は無視するかのように、全く違う話をし始めたのです。
「気取りは男の華やかさ。気取りを縦糸に、愚かさを横糸に織り上げたような人生。君には興味があるかね?」
だれに話すとはなしに、老人は言葉を続けました。
「私は今まで、分からないものは分からないままに、分かり得ないものは分かり得ないものとして、さして重要なこととは考えずに生きて来た。分かる必要があるならば、必要な時に分かるだろう。今、分からないことは、差し迫って分かる必要がないものと、至って楽観的に過ごして来てしまった。でも、一度として不都合を感じたことはなかったよ。このことからして、決して間違った方法ではなかったようだね」
意味不明な会話は、結論らしいものもないままに、あっさりと終わってしまったのでした。
「それじゃ、また。お元気で」
簡単な言葉を残して、客人は去って行きました。
老人は、まだ室内にいる私を訝るように見つめて、
「おや、まだそこに居たのかね」
老人の態度に、私は反射的に、
「それじゃ、また」
と言うと、急ぎ足でその場を去りました。
多くの疑問と質問を積み残したままに……。
時計は、午後四時を指し示していたと思います。
一人、気分を害して屋外に出ると、街は霧雨に濡れ、セントラル・パークの木々も高層ビルも雨に煙っていました。
ほんの数ブロックのつもりが、憤慨していたのかタイムズ・スクエアの近くまで歩き続けていました。
あの時から、早いもので既に三十年の時が過ぎてしまいました。
「それじゃ、また」この一言が老人との別れの言葉。
その後、老人を思い出すことも、意識することもありませんでしたし、あの日の出来事を、ことさら意味のあるものとして記憶していた訳でもありません。
しかしふと気が付くと、私は既に五十歳を越えており、あの時老人の家で見た二人の客人と同じような年齢に達しているではありませんか。
それ相応な年齢に達していて当然なのにも関わらず、私は自分自身に愕然としてしまいました。
と同時に、なぜかしらあの時の、老人のしたり顔を思い出してしまったのでした。
6:30 am
午前六時半。
既に目覚めてから一時間、ベッドの中での拷問のような時間を過ごしていた。
毎日同じことの繰り返し。
一度くらい若かった頃のように、何も考えず昼過ぎまででも眠り続けたいものである。
ここ数年、正確には退職してからというもの、朝方決まった時間に目覚めてしまう。
老人になると目覚めが早くなり、これが老いの現れの一つだとか。
まさか自分が実感するとは、考えてもみなかった。
これといった悩みも、思い惑う問題もなく、また、夜も眠れないほどにわくわくして夜明けを迎えるようなこともない、決まりきった生活。
単調という表現では言い表せないほど規則正しい生活。
それも意識的、予定通りにというのではない。
むしろその対極の、いかにして時間を苦しむことなく浪費するかにすべてのエネルギーを傾けているような生活。
無目的、怠惰な生活と罵られても一向に構わなかった。
子供の頃から、人の謗りや嘲りの言葉と接するたびに、反射的に他と違う道を歩み進んでいる自分を確認してきた。
これをよしとし、よきこととして生きてきたことへのつけなのか?
あるいは、罰なのか?
自分が退職し老人になっても、怠惰、無価値と、他者から誹謗されればされるほど、困ったことに、極自然に自分は正しい道を歩んでいると素直に思ってしまうのだから、どうすることも出来ない。
怠惰な怠け者の一日がまた始まろうとしていた。
ベッドから起き上がるにも緩慢な動作が必要だった。
ばねに弾かれたようにベッドから飛び出し、一分一秒でも素早く行動していた若い頃が信じられない。
少しでも時間が無駄に浪費できることを望んでいるかのように、すべての動作を必要以上に緩慢にしていた。
ベッドの両側にはサイドテーブルが、その上にはグリーンのシェイドのリーディングライトと写真立てが置かれていた。
ベッドヘッドの上部には絵が掛けられ、ベッドの足元側の壁にはキャビネット、ドアの横手にはワードローブが設置されていた。
窓を覆い隠す遮光カーテンと、窓際に設置されている腰高のスチーム暖房用パイプ。
ベッドとドアの間に敷かれた、申し訳程度の古びたカーペットが一枚。
壁に取り付けられた四個の間接照明。
質素というより、極めてシンプルな壁紙の寝室。
ベッドから起き上がると、最初にベッドメイキングに取り掛かる。
就寝の痕跡を消し去るように、高級ホテルのベッドメイキングを思わせるほど丁寧に。
枕を正しくセットしなおし、足元の予備のブランケットを几帳面に折り畳む。
そして、パリで共に過ごしたオランダ人のエスタとの思い出の小さなテディーベアーを、このブランケットの上に座らせるというのが、朝一番の日課になっていた。
テディーベアーは、既にあちこちの布が薄くなり、かろうじてそのみすぼらしい体型を保っていた。
もう半世紀も前になるが、パリのアパルトマンで、「パオ」と名付けたこの小さな人形と共に生活していた。
今となってはかけがえのない宝物である。
不確かな足取りで寝室を出ると、木製の洗面台と陶器のシンクが置かれているバスルームに足を進め、洗面を済ませた。
片面の壁全体に置かれた木製の棚の中に、一つの乱れもなく整然と積まれたタオルを確認し、その白さに自ら満足してバスルームを後にした。
客用のサロンを通り抜け、ダイニングキッチンへと足を運ぶ。
コーヒーを沸かす準備を済ませると再び寝室に戻り、退職する以前と同様にパジャマから外出着へと着替えを済ませた。
寝室のカーテンを開け、外を眺めるのでもなく、忌まわしいものから目を背けるかのように足早にキッチンへ戻り、朝食の準備に取り掛かった。
これもすべて終わった後、キッチンの水道の蛇口を捻り、ステンレスの大きなシンクから、水しぶきが飛び散るのも気にせず勢いよく水を出すと、手術前の医師のように神経質に手を洗った。
この朝の手洗いは、もう何十年も続いている儀式だった。
濡れた手を拭きもせずに、水滴を滴らせながら大きな深呼吸をすると、息を止めたまま、キッチンの窓を覆っているロールブラインドを一気に開け放った。
東側に面した窓から、六月上旬の眩しい朝日が部屋を覆いつくし、それまで薄暗かった室内は一斉に光で満ち溢れた。
爽やかですがすがしいはずの朝日も、私にとっては忌まわしいものでしかなかった。
雨の日や、曇りの日や、雪の日が嬉しくなってしまうほどに、この強烈な朝日が苦手だった。
朝の光線の強烈さは、年ごとに増しているように感じられた。
目映いばかりの朝日によって、それまで闇に包まれていた唯一の心地よい空間は、無残にその闇のベールを剥ぎ取られてしまった。
すべてが「時計」によって拘束され、支配されているような現実の社会へ、無理やり引き戻されていく恐怖に襲われる。
退職の数ヶ月前に、「老後の人生設計」と名付けられた、ニューヨーク市の主催するセミナーに参加したことがある。
セミナーは三日間。
針のない空白の時計が印刷された、幾枚も紙が配られた。
この空白に自分で針を書き込んで、一日のタイムスケジュールを作り上げるという訓練が終日行われた。
老後の生活をやり繰り出来なくて、自殺する高齢者が後を断たないらしい。
そのために、一日の生活のリズムを作る練習をするというのが目的らしかった。
私は、退職してまで時計の針に追われる生活など金輪際ごめんと思っていたが、考えが甘かった。
一人になっても、退職しても、この社会で生活する以上、時計とお金から逃げることは出来ない。
こんな簡単な事実を、今ごろになって痛感するというのも情けない話。
今では、時計に追われる実感が、若い頃以上に切実なものへと変化していた。
「無駄に空気を吸うな! 社会に貢献出来ないなら、自ら出来ることを探してでも、社会に奉仕しなければならない!」こうした世論が構築されてしまった社会では、至極当然なこと。
いつからか、死ぬまで人間は社会の役に立たなければならない、ということになってしまったらしい。
一般社会の支配的な原理に基づいた時間の概念から、完全に解き放たれた自由な空間。
この空間は、自分自身の体内にある理想郷。
つまりトーマス・モアのいうユートピアや、プラトンが古代エジプトの神官から伝え聞いたアトランティスは、自らの体内にあるという思いが日々強くなってきている。
身体の細胞の一つ一つが市民。
各臓器類は、市民生活を支えるサービス機関。
神経系統は、情報ネットワーク。
動脈がエネルギーを供給し、静脈が不要物の回収を行う。
大脳は情報管理センター。
大統領も、政治家も、外交官も、軍人も、警官も、すべてを人間の身体にある器官が司り、公平で平等な関係にある理想郷。
何にもどこにも属さない、自分だけの世界。
それが、体内のアトランティス。
この世界には、社会一般で認識されている時間の概念は存在していない。
そこには、自分だけの独特の時間認識が存在している。
それは、次のようなものだ。
一分一秒や一日一年を示す時間、つまり時計やカレンダーで認識する時間をY軸とする。
これは個人にも関わりの深い時間認識である。
それに対して個人とは全く無関係に、社会の権力者によって作り出された時間が、X軸として存在している。
X軸の時間の経過は、その時々の権力者たちの都合で、早めたり遅くしたり自由自在に操られている。
軍人だった私の場合、退役後の現在の時間経過に比べ、第二次世界大戦から朝鮮戦争へと、社会情勢の激流に流されていた現役時代の時間経過は、異常とも言えるほど早かった。
Y軸でいう一日や一年という時間とは、明らかに異なった時間の中で生きていた。
このような時間認識がX軸、つまり歴史軸である。
そして、歴史軸上の時間の経過を記録したものが歴史年表ということになる。
一見、個人にも関わりがあるように思われがちだが、実際には一個人とは全く無関係な次元で時が経過している。
歴史年表は、その時々に歴史を塗り替えていった人たちが作り上げた、その人たちだけの時間だからだ。
歴史は繰り返されるという言葉を耳にすることがあるが、X軸の時間は、早まったり遅くなったりするだけでなく、時をさかのぼることだってあるのだ。
人は無意識のうちに、X軸とY軸の両方の概念を踏まえたZ軸を、個人の人生と錯覚させられて生きているのかもしれない。
その方が、歴史を操る権力者にとって好都合だからだ。
故に人は、Z軸上のマイナス方向に誕生点があり、プラス方向にいつか訪れる死亡点を設定して、その間を常にプラス方向に移行しているように思ってしまうのだ。
今現在が0点であり、昨日は既に過去で、明日は未来だと……。
でも、十年前の私は、その時マイナス十年の地点にいただろうか?
いや十年前の私は、その時もやはり「今、自分は0点にいる」と認識していた。
そう考えると、X軸もY軸もZ軸も、自分の人生を考える上では、全く不要に思える。
この考え方は、私が私の望む年齢にいつでも存在していることを意味している。
こうした私だけの空想の世界は、朝の冷酷な光線が室内を照らし出すと同時に打ち消され、頭から冷水を浴びせられたように、否が応にも現実の世界へと引き戻されてしまう。
まさに闇に包まれたワンダーランドは、朝日の前に霧散してしまうのである。
何はともあれ、朝食は強烈な朝日に晒された無残なものだった。
銀製のバターナイフを握る手は老人の手そのもので、パンを千切る指先もまた弱々しく見える。
薄切りのイギリス風トーストと、バターにマーマレード。
それと、薄切りポテトを入れたスクランブルエッグにレモンをたっぷりと絞り、パプリカをふりかけたものがその日の朝食だった。
これは若い頃、ベイルートに滞在していた頃のレシピだが、シリアのアレッポでの朝食は、オリーブオイルとハモス(雛豆)のペーストを混ぜ、パセリの微塵切りをふりかけ、レモンを絞り、それをパンに付けて食べるシリア風豆料理が常食だった。
かつて覚えたレシピを思い出しては作るのが、私の単調な生活に変化をもたらしていた。
私の朝食のレパートリーは、これだけではない。
空豆とオリーブオイルをペーストにし、レモンを絞ったアラブ風朝食。
時には、バケットに半熟の目玉焼き二個と、ベトナム風ドリップ式コーヒーなどなど。
いろいろな料理を楽しんでいるが、唯一再現出来ないレシピがある。
新鮮な子羊の肉を使ったシリア風生肉団子を、昼食でもなく夕食でもなく、朝食に食べたかった。
シナイ半島から北アフリカ諸国の回教徒たちが、新年や特別な時に口にする子羊の生肉を、ニューヨークで食べてみたいという思いは、断ちがたい欲望の一つになっていた。
コーランに定められた屠殺法で処理された子羊の肉。
鋭い小刀で喉の頚動脈を切断し、一滴の血もこぼさずに受け止め、無駄にすることはない。
左足のアキレス腱に刃を入れ、風船を膨らますように傷口から空気を吹き込む。
時々、子羊の全身を叩きながら、まんべんなく空気を毛皮と脂肪の間に送り続ける。
丸々とボールのように膨らみきった子羊。
ナイフで足から腹にかけて切り裂いていく。見事に毛皮が剥がれ、丸裸の子羊が現れてくる。
脂肪分が少ない腿の赤身の肉を使ってミンチにし、砕いた大麦の粉と刻んだパセリを混ぜ合わせ、小ぶりの肉団子を作る。
生のまま、たっぷりとレモン汁をかけたシリア風子羊の生肉団子。
これを朝食に食べるのが長年の夢になっていた。
昼には、子羊の血を使った内臓の煮込み料理。
夜には、新鮮な子羊の肉を使ったモロッコ風クスクスという具合に、丸一日かけて子羊を食べ尽くしてみたいと思い続けていた。
肉の残りは塩漬け。
ベドウィンのように。
9:00 am
イースト七十三丁目、マディソンアベニューとパークアベニューの間にある古煉瓦が美しいタウンハウスからセントラルパークまでは、ゆっくりした足取りでもほんの五〜六分。
しかし、わざわざ六十丁目のミッドタウンの入り口まで、五番街の公園側を二十分近くかけて歩くことが日課となっていた。
六十丁目側の入り口周辺には、観光客相手の数台の馬車と御者、それに似顔絵描きを生業とするアーティストたちが群がっていた。
枯れた樹木を象ったブロンズ製の彫刻が展示されている入り口を入るとすぐに、フェンスで囲まれた犬専用の運動場があり、一人で何頭もの犬を引き連れた人たち(散歩屋)が占有していた。
それらの風景を横目で見ながら、緩やかな坂を下ると池に出る。
小さなレストハウスが五番街寄りにあり、テラスには十数脚の椅子とテーブルが置かれていて、池を挟んだ反対側にベンチが設置されている。
そのベンチがいつもの指定席。
樹木を背にしてベンチの一つに座ると、今日もいつもと同じ様に、足元に数匹のリスたちが集まって来た。
忙しそうに走り回るリスたち。
いつものニューススタンドで買い求めたニューヨークタイムズを、おもむろに隅から隅まで読み始める。
背後には新緑の樹木が広がり、森の中の湖畔にいるような気分になる。
木々の背後には、セントラルパークを飲み込むように高層マンションと近代的な高層ビルが建ち並び、壁面のガラス窓全面を恫喝するように朝日で輝かせているのだが、ここから見えることはなかった。
馬鹿げた話だが、造り手であるはずの人間が近代的な建造物に威圧され、睥睨されているようにしか見えない。
高名な建築家の作品ファイルの、巻頭を飾る人工の構築物たちは、まるで支配者でもあるかのように、尊大な態度で人間社会に君臨しているようだった。
第一次大戦後、列強の手で中近東の地図が大幅に書き換えられた頃、シリアのアレッポに数ヶ月滞在したことがあった。
アレッポの街並から、遺跡のような印象を受けたことを覚えている。
幾千年もの歴史が圧縮され、日常の生活の中に生き続けているような街だった。
市内の中心に小高い丘があり、市街地を見渡すように城址があった。
市内にあるシーク(バザール)の人ごみと喧騒、ざわめきを覆い隠すようなシーク内部の薄暗さは、時代を超えたアラビアンナイトの世界。
そこもやはり混沌とした世界ではあったが、ここ五番街から受けるような威圧感は微塵も感じなかった。
薄暗いシークの中で、目のない微生物が蠢いているような印象は、一度として受けたことがなかったように記憶している。
アレッポの旧市街の一角、ミルクバーとも呼べるような雑貨屋の三階の一室で、私のアレッポ滞在は始まった。
当時、外国人専用の高級ホテルはあったものの、外国人向けの長期滞在宿泊施設などは皆無だった。
市内のシークを訪れる旅人専用のキャラバンサライ(隊商宿)は無数にあったが、外国人には門戸を開放してはいなかった。
幸運にも、中近東に滞在すること二十年というオーストラリア人、アラン・クリフトンという初老の紳士と出会ったことで、快適なシリア滞在を送ることが出来た。
アランは、ロンドンタイムスと契約した特派員で、第一次大戦中の変貌してゆくアラブ世界を静観していた専門家だと自負していた。
第一次大戦が終結するまでトルコ帝国の支配地だったシリアからシナイ半島一帯を、大戦後はイギリスとフランスが分割統治していた。
何もない砂漠の上に人為的直線が引かれ、イギリスとフランスによるパッチワークのような、継ぎはぎだらけの地図を出現させた。
最も有力な外国語も、トルコ語からフランス語へと変わっていた。
ダマスカスにあったホテルのバーで、怪しげなフランス語を操りながらアラブ語を交えて、バー全体を我が物顔で仕切っていたのがアランだった。
アランをホテルの支配人と間違えて声を掛けたのが、彼との出会いだった。
悪戯っぽくウィンクしながら、
「これは、これは、客人。古代ヒッタイトの支配地へようこそ」
大仰に、アラブ人風な仕種を交えて迎え入れてくれた。
「アメリカ人とは驚いた! ここではオーストラリア人の私と同じぐらいに珍しい。まったくの少数派がまた一人増えたことになる」
長い長い自己紹介の後、ジャーナリストであることを語ってくれた。
私がアレッポからダマスクスへの旅を計画していた時、アランがその旅をアレンジしてくれたことがあった。
アランは、
「ありがた迷惑なことに、イギリス人のローレンスとかいう軍人のおかげでダマスクスに通ずる道は破壊されてしまったし、陸路を隊商に混じって行くしかない」
と言って、同行する隊商まで手配してくれた。
彼の語ったローレンス氏は、第一次大戦終結後のパリ講和会議にアラビアのプリンスの衣装で出席。
今や、独立を唱えるアラブ人代表団のオブザーバーとして、世界のマスコミに登場していた。
第一次大戦中、サウジのプリンスの軍事顧問としてアラブ独立を目指した砂漠の英雄であり、特にアメリカで人気の高かった人物でもある。
「自国での異端者が、その顕示欲のはけ口として他国で英雄になっても、最終的にはアラブ人のだれもが、彼を道化師以上の存在としては取り合わない。それが文化の差というものだよ。七世紀から十世紀に掛けて、アラブ人はヨーロッパの南半分以上を支配した人々の末裔だよ。今でこそヨーロッパ人に下僕のように取り扱われていても、そのプライドはだれにも支配出来ないものだ」
アランは、彼独特のアラブ論を一方的に語ってくれた。
決まって毎回、
「彼らの最大のミスは、ステーキという地上最高の美味を、アラブの食生活に取り込まなかったことだね。神もこの一点だけについては、先見の明がなかったようだよ。羊や動物の屠殺法まで事細かに定めたというのに……」
という話になってしまう。
アラブ諸国では食べることの出来ない、肉汁の滴る分厚いステーキへの憧れが、アラブ論よりも優先してしまうのが常だった。
アランが見せたアメリカ人への好意も、もしかしたらステーキ同盟でも締結しようという下心があっての、極めて高度な外交手腕の成せる術だったのかもしれない。
最後はバーのカウンターで酔いつぶれて眠り込んでしまって、一度として結論らしきものを聞くことはなかった。
五番街の建物と人波を見ると、反射的にシリアでの出来事やアランのことを思い出してしまう。
このところ、ほぼ毎日同じことを考えていた。
10:30 am
時間は十時半になっていた。
公園を後にして、五番街のショーウィンドゥを眺めながらゆっくりと歩いた。
ミッドタウンのアメリカアベニューから六番街を越えて、マンハッタンの西側にあるジョージのホテルが次の目標だった。
ジョージのホテルとは私だけの呼称で、正式な名前はあるが私にはどうでもよかった。
警官だった頃、そのホテルは低収入者用のシェルターだった。
僅かな収入はあるもののホームレス直前という者たちを相手とした木賃宿である。
ジョージがアルバイターとしてこのホテルで働き出したのは、彼がコロンビア大学の学生だった頃であり、雑用全般、その上ソーシャルワーカーのような仕事までもこなしていた。
いつしか一風変わった住人たちから信頼を得たジョージは、大学よりもここから学ぶものの方が多いと言っていた。
大半の宿泊者が身寄りのない者、またアルコールや薬物の依存症を抱えている者たちで、ジョージは酔っ払いや孤独な老たちの愚痴や悩み、時には叶わなかった夢の話を聞きながら、ホテルでの仕事を辞めることなく大学を卒業し、専門は分からないが大学院まで卒業してしまった。
そして彼は、卒業後もこのホテルに留った。
一九六〇年半ば、ベトナム戦争や黒人の公民権運動、そして反戦運動などと世の中が騒然としていたちょうどその頃、マンハッタン再開発計画の波がこのホテルを襲った。社会的弱者専用ホテルの住民たちが、ホームレスへと追いやられる危機に直面したのだ。そろそろ引退を考えていたオーナーは、老朽化したホテルをリフォームし、新たに観光客専用のホテルにしようという市当局の再開発話が、売却のいい機会だと思ったようだった。そんな時、ジョージはオーナーに直談判を申し入れ、ホテルの経営権を譲り受けた。どれだけの金額だったのかは知らないが、オーナーが死ぬまで一生面倒を見続けることを条件に、僅かな現金でこのホテルの実質的オーナーになったのだ。
彼の新しい経営方針は変わっており、その頃若者たちの間で流行していたコミューン的発想が導入された。
当時、このホテルを住まいにしていた八人の老人たちには終身の滞在を保証し、宿代の代わりに僅かではあったが労働を分担させたのだ。
六階建ての古ぼけたビルの各階に、定住者となった老人たちを管理人として配置し、空いている部屋を、短期利用者や国内からの旅行者に提供することからホテル経営が始まった。
一年後、あまりに傷みの激しい室内に改装工事の必要性が差し迫った時、彼は大学時代の友人たちに声を掛け、ビレッジ周辺のロフトに住み始めていた若いアーティストたちの協力を得て、僅かな費用で室内の模様替えを行った。
一室をそのまま、若いアーティストたちの作品にするという提案を試みたのである。
報酬として作品完成までの期間、無償で宿泊させるという前代未聞の条件で、この計画は始まった。
この試みはアーティストたちの間で話題になり、参加すること自体がアートだと多くの若者たちの力が結集され、古ぼけた六階建てのホテルは瞬く間にアートギャラリーへと変貌したのだった。
このことがニュースで取り上げられて以来、世界中から若いアーティストたちがこのホテルを目指して集まって来るようになった。
中には、何とか自分の作品を残したいという思いを抱えて、このホテルを訪れるアーティストもいるらしい。
六階建てだというのにエレベーターもなく、クーラーどころか電話もフロントに一台だけという、すべてが古色豊かな時代を超越したサービスであるにも関わらず、このホテルを訪れる客は後を断たない。
今ではニューヨークの名物ホテルになっており、半年先まで予約が一杯だという。
何といっても、圧巻はチェックイン。
空き室の鍵を全部預けられ、気に入った部屋を自分で探す。
部屋探しの際、利用者は必然的に各室のアート作品を鑑賞することになり、最も気に入った作品の部屋に滞在出来るというシステムだった。
部屋によっては、作品について意見を書くノートを作者が備え付けているらしい。
ホテルとギャラリーが一体化したこのホテルの若きオーナー、ジョージに挨拶し立ち話をするのが、私にとって人と言葉を交わす僅かなひとときになっていた。
笑顔で迎え入れてくれたジョージは、
「後、1ヵ月ぐらいかな。だいぶ悪いんだ」
最上階に長年陣取っている退役軍人で自らを自虐的にスクラップの兵隊と称している老人について話してくれた。
「今日もベッドから出て来ないんだ。もっと下の階に移ることを勧めてみたんだが、プライドを傷付けてしまったようだよ」
と弱々しく語った。
一抹の寂しさが両者の間に漂ったまま、ジョージのもとを去ることにした。
古びた煉瓦作りのホテルの外壁面には、ロンドンからのアーティストの作品という、地下鉄車内の風景が描き出されている。
その作品を見上げながら歩みを再び東の方向へと向け、私は二十五丁目と六番街のコーナーにある、ギリシャ人の経営するカフェに向かった。
近くに国連ビルがあり、長期滞在専用のホテルが密集するこの地域は、ダウンタウンの心臓部でもある。
退職前から、このカフェを気に入っていた。
大きな窓ガラスの店内を向いて、髪の乱れを直した。
その窓は、鏡のように道路を歩く人々と近隣の風景をはっきりと映し出していた。
中を覗き込んで、道路に面したカウンターテーブルに陣取っている客が一人であることを確認し、店内へと進んだ。
芳ばしいコーヒーの香りが漂う店内では、四、五人の客がコーヒーを楽しみながら、本や新聞などを読みふけっていた。
ココアパウダーを軽くふりかけたカプチーノを手にして、外を眺められるよう窓際のカウンターに座る。
心臓を病んでいるため、何をするのにも大きく肩で息を吸い込み、潜水夫のようにヒューッと息を吐き出して呼吸を整えた。
目の前を忙しそうに歩き去っていく、観光客と思われるカップル。
信号を無視し、車の往来を確認するのも煩わしげに、足早に道路を渡ろうとしている女性。
大きな荷物を抱えて、私の視界から走り去る青年。
多種多様な人々が忙しく通り過ぎて行く。
もう私には、戻りたくても戻れない無縁の世界。
既に通り過ぎてしまった過去の世界。
このガラスを通した風景を見ていると、いつも異次元から眺めているような不思議な感覚に包まれ、まるで透明人間になってしまったような気分になる。
時計の針は、既に正午を指していた。
空席が目立っていた店内も、ほぼ満席になっていた。
それは、私にとって休息の終わりを意味していた。
暗い店内から外に出ると、あまりの明るさに軽い立ち眩みを覚えた。
通りは一挙に人口が増加したように、ランチタイムを楽しもうとビルの中から人が溢れ出ていた。
1:00 pm
昼食の定番は、路上のサンドウィッチスタンドのホットドックだった。
このところマンハッタンの各地にフランス風ブラッセリーが急激に増えたが、まだ一度も利用したことはなかった。
リトルイタリアでのパスタ料理、モッズストリートとキャナルストリートが交わる界隈の中華料理、中近東からの移住者たちのトルコ、シリア、アルメニア、エジプト料理など、マンハッタンを歩き回るだけで世界を旅した気分になれるほど、この街はインターナショナルな雰囲気に満ち溢れていた。
今日は、数ブロック先のニューヨーク大学の裏手にある、ワシントン広場まで足を延ばした。
若者たちが、様々な国の楽器を演奏したり、音楽を聴いたり、ダンスを踊ったりと思い思いに午後のひとときを過ごしていた。
この若者たちの醸し出す雰囲気が、ことのほか好きだった。
今日はホットドックを止め、公園の大学側入り口近くに露店を出す、トルコ人移住者が作るケバブ・サンドを買い求めた。
小銭を探そうとズボンのポケットに手を入れると、指先が小さく折った一ドル紙幣を探り当てた。
引っぱり出して皺を伸ばすように広げた時、一ドル紙幣の裏側に印刷されたピラミッドと目の絵柄が飛び込んできた。
この絵柄、特に目に見覚えがあった。
シリアのアレッポに滞在中、アルメニア人の大家ジャック・ドナベディアンに誘われて、地中海に面した国際都市ベイルートを旅したことがある。
アルメニア正教に属していたジャックが訪れたのは、ベイルートのキリスト教徒が多く住む市街地の一角にある兄の家だった。
ジャックは観光ガイドのように、市内の名所を精力的に案内してくれたのだが、アランからの紹介だからというだけで親切にしてくれた訳ではなかった。
ジャックと親しくなったのには、それなりの理由がある。
ジャックから三階の小部屋を借りて、一週間が過ぎた頃の話になる。
八月のある深夜、スークの入り口近くのレストランで、シリア産赤ワインをしたたか飲んで帰った時のことだった。
屋外の暗闇の中に、ジャックと彼の妻シルビアが佇んでいた。
笑顔で挨拶すると、困惑しきった表情を返して来た。
どうやら部屋の内側から鍵をかけ、鍵を室内に置いたまま外に出てしまったらしい。
部屋の中には赤ちゃんがいて、ミルクの時間も過ぎてしまっているのだと、ジャック夫妻は心配顔で言った。
それを聞いた私は、酔った勢いも手伝って、無造作に壁の雨樋をよじ登った。
二階に面した窓を割って室内に侵入し、中からドアを開けてやったのをきっかけに、ジャック夫妻との付き合いが始まったという訳だった。
その事件の翌朝、
「朝食はもうお済みで? もしよろしかったら、御一緒にいかがですか?」
と朝食に誘ってくれ、改めて彼自身と彼の妻シルビア、愛娘サピを紹介してくれた。
二人ともアルメニア人。ロシアとトルコの侵略を逃れて、この地に移り住んだという。
フランス語を流暢に話すアルメニア人だった。
愛娘サピは、生後十ヶ月。目の大きな笑顔の可愛い赤ちゃんだった。
鍵を開けてやっただけのことで、サピの命の恩人になってしまっていた私は、以来アレッポ滞在中ずっと、一日三食シルビアの手料理を食べることになった。
シルビアの料理は、惜しみなくバターを使ったフランス風シリア料理とでもいえそうなものだった。
揚げたてのポテトフライが三度の食事のたびに食卓を飾り、バター風味の豊かなポテトと季節の野菜をふんだんに使った料理は、とても魅力あるものだった。
この時の体験から、後の私の人生で、朝食は豊かなものを食べるのが習慣になってしまった。
その時のベイルート旅行も、ジャック夫妻の好意で招待されたものだった。
ベイルート滞在三日目の朝のことだった。
「今日は特別なところへ案内するよ」
というジャックに連れられて、ベイルート郊外にある遺跡を訪れた。
「ここは古代フェニキアの王の墓所といわれるところだよ」
その遺跡は、海を眺める小高い岩山にあり、方形に切り出された大岩を巧みに積み重ねて構築した墳墓だった。
地下の玄室に通じる入り口を数歩中へ入った時、
「上をご覧なさい」
ジャックの指先に促されて後ろを振り返り見上げると、入り口の上部にはうす暗い明かりが灯されており、岩に彫られた一つの目が浮かんでいた。
「フェニキアの王様の紋章なんです。もしあなたが、世界中のどこかでこれと同じ印を見かけたら、今日のことを思い出してください」
ジャックは、
「この目には多くの言い伝えがあります。人類の歴史にとって、大変意味ある印と言われています。その意味は、あなたに分かる時が訪れたら、だれに聞くこともなくあなた自身の手で解き明かされます。その時まで、じっと待っていればいいのです」
と、意味深げに語ってくれた。
さりげなく取り出した一ドル紙幣に、その目が印刷されていた。
見慣れたはずの一ドル紙幣。
なのにジャックと共に見た目のことを、なぜか今まで思い出すことはなかった。
それなのにどうして、今頃になって思い出してしまったのか?
今がその意味を知る時?
漠然と考えてしまった。
古代フェニキア王の印が一ドル紙幣の中に、それもクフ王の大ピラミッドの上部で輝いているのだろう?
古代フェニキアは、小国でありながら航海術で世界にその名を轟かせたとはいえ、その目がどうしてここにあるのだろう?
ジャック夫妻を思い出しながら、手にした一ドル紙幣をしげしげと眺め続けていた。
半円形のピタの中に、トルコ風サラダと羊肉のバーベキューから切り落とした肉片を挟んだ、かなりボリュームあるトルコのケバブサンドと、ソーダを一本。これが今日の昼食。
公園中央付近にある円形の噴水を眺める石段に腰を下ろし、ゆっくりとした動作でケバブを頬張った。
白いピタを掴む手は、新緑のみずみずしい木々や花々の美しさ、周辺の風景とは異質な、節くれ立った老人の手そのものだった。
近くでたむろし談笑している四、五人の若者たちは、自分たち以外のだれをも気に掛けることはなかった。
彼らのもとから漂ってくるマリファナの匂い。
彼らは、現実社会と空想世界の狭間で、時間を浪費しているようだった。
夢見る世界は違っていたが、社会に対して自己を対峙させる構造は、私と同一のものかもしれなかった。
唯一の違いは、どうにかなるさと思える彼らの年齢と、自己の存在理由を見出せないままにこの年まで生きてしまった私の年齢かもしれない。
私が彼らの年齢の頃は、ちょうど第一次大戦と第二次大戦との狭間の時期にあたる。
二十代の約半分以上を、すべてが混沌としていたヨーロッパと中近東で過ごしていた。
この当時私は、パリに集まった若者たちの醸し出す雰囲気というか熱気、そしてそのエネルギーの持つ魅力の虜になってしまっていた。
アーティストを目指す若者たち。冒険に人生をかける夢多き人々。男性に対峙し、男性のように振る舞う女性解放の闘士たち。多種多様な人たちが群れ集っていた。
連日、市内の主だったカフェで、初対面の男女が熱い議論に明け暮れていた。
その頃、サンジェルマンデュプレのカフェで偶然隣り合わせて座ったのが、オランダ人のエスタだった。
見事な黒髪のエスタは、ラテン系の女性に多く見られチャーミングさを漂わせていた。
初対面だと言うのに、積極的に発言する彼女に惹かれてしまった。
その後、スペインの現状、フランスのインドシナでの植民地主義、北アフリカでの独立運などを糾弾する会合で意気投合し、会合の後、極自然に彼女をアパルトマンに誘った。
その夜、自由についての議論に熱中し、夜が明けるのも忘れて話し込んでしまった。
幾本目かのワインを飲み干して外を見ると、遅い冬の朝日は既に昇っていた。
「あっ、忘れてた」
ベッドの上で笑い転げてしまった。
全裸に近い状況でありながら、論議して一夜を過ごしてしまったのだ。
大きな笑い声が二人の間の壁を、羞恥心を取り除いてくれ、安心しきって抱擁したまま眠り込んでしまった。
あの時の安らぎを、幸福感を、それ以降今日に至るまで味わったことはない。
それから七ヵ月近く昼夜を問わず、言葉で、全身で、会話は延々と続いた。
我々の間には、一切のタブーが存在していなかった。
また、一切の羞恥心を排除し、新しい価値を築くべく共同作業が続けられた。
二人だけの生活に長い髪は不要だと言って、エスタは丸坊主になってしまった。
女性が髪をとかし、しなを作るのも無駄と、ばっさりと美しい黒髪を切り落としてしまったのだ。
この事件を契機に、日常生活に着衣は不要と、全裸での生活が始まった。
時には嵐よりも激しく、全人格をかけたような闘いを繰り広げたかと思えば、あまりに単純な解決法の発見に驚き喜び合うという生活が続いた。
その頃私は、スペインの独裁者フランコ政権への抵抗のための国際義勇軍の呼びかけに身を投じようと考え、その決断をつけかねていた。
そんなある日、エスタに救いを求め、
「一体、僕はどうしたらいいんだ。人生は一度しかないというのに……」
と、シェークスピア劇の役者のように、彼女の優しい言葉を期待し、精一杯の甘えを演じてしまった。
「本当にあなたがやりたいのなら、相談などいらないはずよ。人間は、好きなこと、楽なこと、楽しいことだけを真面目に忠実に、それのみを追い駆けていればいいのだから。それを社会だの正義だのお金だの、将来のことだの我々のためだのと、いろいろな言い訳を言い出したら、もうそれは自由を放棄した証拠なのよ」
彼女の答えは、強烈すぎるほどに残酷なものだった。
エスタとの共同生活は、この一言で終焉を迎えてしまった。
翌朝、エスタは突然スペイン国際義勇軍にその身を投じてしまった。
それを最後に、彼女と会うことはなかった。
エスタは多くの思い出と多くの教えを残して、寒い真冬の鉛色の空を後に、パリからスペインのカタロニアへと向かった。
そしてスペインの土になってしまった。
その後私は第二次大戦に参戦し、何ということか、ヨーロッパでもなく北アフリカでもなく、泥沼のような太平洋の戦場へと駆り出されてしまったのだった。
若者たちの言葉で表現すれば、この時挫折してしまったのかもしれない。
大戦中の強烈すぎるほどの体験に、最初から希薄だった人生設計のプランは空中分解してしまった。
戦後も多くの仕事の誘いから遠ざかり、結局食べていくためだけの理由でニューヨークの警察官になった。
昇進することなく、ただ日々を食べるだけに費やして、巡査のままで定年を迎えてしまった。
今、この広場の若者たちを見ていると、私はパリ十六区フォンテーン三六番地のアパルトマンでの、エスタとの会話からずっと解き放たれることなく、この年になるまで彼女の言葉の呪縛に拘束されているのかもしれないと感じる。
いまだに真の楽しいこと、楽なこと、本当にしたいことが見つからないまま、多くの時間を費やし続けている。
午後四時近くになると、ニューヨークのあれほど棘々しい太陽光線に夕暮れ前の陰りが見え出し、辺りを柔らかい光が包み込んでいく。
若者たちの語らいは、まだまだ遅くまで夜を徹して、あるいは朝までも飽きるまで続けられることだろう。
若き日のエスタとの会話ように……。
5:00 pm
ワシントン広場を後に、ニューヨーク大学を通り抜け、足は自然に昔の警邏区ソーホーへと向かっていた。
倉庫街だったこの地区に、最近、若いアーティストたちがアトリエ兼住まいとして、あるいはギャラリーとして利用するために集まって来るようになっていた。
この時期の午後五時はまだ明るく、とても夕方とは言い難かった。
私は、ここで過ごす時間を楽しみにしていた。
この街は夜になればなるほど活発に活動し、深夜から明け方がそのピークになる。
社会一般とは違った若者だけが持つ独特な時間が存在している街だった。
静まり返った街は、ちょうど私がベッドの中でしわぶきを室内に響かせる日の出前と同じなのだ。
古ぼけた街並みに響く靴音は、いつの間にか力強いものへと変化し、私は背筋を伸ばし、威厳に満ちた表情で歩いていた。
あれほど弱々しかった手も、生き生きと甦ってくる。
かつての私は、市政府支給の制服と制帽で支配者の気分に浸り、警棒を弄びながら腰の大口径の拳銃を誇示してこの街を闊歩していた。
この街に足を踏み入れると、私は一気にその頃へフラッシュバックする。
若い頃の自分を取り戻せるような気がするのだった。
低い午後の光は街並みを二つに切り裂き、光と影の世界を作り上げていた。
好んで薄暗い影の世界を歩いていた私は、唐突にジャックと訪れたエジプトでの経験を思い起こしていた。
私は、大ピラミッドがあまりにもカイロの市街地に近かったことに驚いてしまった。
それは、無秩序に隣接するアパート群と、その建物を飾る満艦飾の洗濯物を背景にそびえていた。
それまで見慣れていた大ピラミッドと、第二、第三の大小のピラミッド群は、すべて砂漠を背にして写された写真ばかりで、ビルだの洗濯物が一緒に写ったものなど一度として見たことがなかった。
王の玄室を見学しようと訪れた大ピラミッドの内部は、想像を絶する湿度に加え、黴の臭いが充満していた。
急勾配の階段に喘いでいる私を見たジャックは、花崗岩を刳り貫いた空の棺を指差して、
「この中で休んで瞑想しては?」
と悪戯っぽく誘ってくれた。
とにかく何でもいいから休みたいと思った私は、勧めるジャックの言葉に従った。
が、それが間違いだった。
軽率な行動が、取り返しのつかない事態を招いてしまった。
私が棺の中に身体を沈めた途端、それまで室内を照らしていた数個のカンテラの灯をジャックが消してしまったのだ。
暗闇の中で、ジャックの声だけが室内に響いた。
「人は生まれてきたように、暗闇から明かりを見ます。そして死を迎え、再び暗闇へと帰って行くのです」
不思議な言葉だけを残して、ジャックの気配は玄室から完全に消え去り、静寂な闇の中に私一人が取り残されてしまった。
一体、どれだけの時間が過ぎたかは不明だった。
決して短い時間ではなかったような気がする。
この時の恐怖は、それまでに味わったことのないものだった。
漆黒の闇の中で、立っているのか、横たわっているのか、座っているのか、中空に浮いているのか、何もかもが分からないままに時間が過ぎ去っていった。
表現の仕様のないほどの不安定さ、不確実さ、自分がだれなのか、これらをよく考えてみる。
鏡に映った像や写真を見て、それを自分と見なしていたことの頼りなさを……。
今までの自分自身の認識は、明かりの元でのものでしかなかった。
暗闇で味わった、実体のない実存感。
叫びたい衝動。闇に押しつぶされてしまいそうな威圧感。
自然に呼吸が荒くなり、助けを求めて叫び声を上げる一瞬前、眩しいばかりの光が網膜を襲った。
明かりの消え去る前の世界に自分がまだ存在していることを確認出来た時、
「死の世界はいかがでしたか? 上も下も横もない、世界を漂っている身体は、あなたが考えていた自分自身と一緒でしたか?」
薄暗いクフ王の玄室にジャックの声がした。
「今のあなたと同じようにだれもが死を体験出来れば、人生について死という到達点から帰納法的に考えることを思い付くでしょう。死を恐れるあまり、演繹的な人生を送ることの無意味さに気付くはずなのですが……」
と語ってくれたジャック・ドナベディアン。
この時の経験からなのか、私はその後一度として、死を大前提とした生き方に疑問を感じることはなかった。
蓄えもなく、社会的地位も名声も、係累もない淋しい人生。
孤独に、あるいは貧しさに、自殺を考えても少しもおかしくないような境遇。
しかし私は、これまでに自殺を考えたこともなければ、寂しさを感じたことすらなかった。
努めて考えないようにしている訳ではなく、あまり重要なこととは思えなかっただけの話なのである。
しかし、自分自身が生まれた意味や、生かされている意味を考える時、私は絶えず言い知れない不安に襲われる。
何かに恐れを抱いて生活しているような気がしてならなかったからだ。
それが死に対する恐れではないことだけは確かなのだが、私は何を恐れているのだろう?
何に対して不安をいているのだろう?
ローマ帝国のエルサレム提督ピサロの前で、「イエスに死を!」と叫んだ群衆への恐れなのか?
人間の持つ、救いようのない独善への恐れなのか?
キューバ革命や中国の辛亥革命などの党員たちは、どの時代、どこの世界でも、革命成功の前夜までは、紛れもない犯罪者集団である。
その理念や思想が正論であっても、反体制であることには変わりなく、社会の敵と見なされる。
しかし革命が成功したその瞬間から、犯罪者は大手を振って街を闊歩し、革命の英雄としてその功績を賛美される。
絶えず群集を操作し、その後で群集の正当性をあらゆる法解釈で高らかに社会に宣伝するのが、権力者の習性なのかもしれない。
シェークスピアの戯曲の一つに、カエサル暗殺をテーマにしたものがある。
この劇中、カエサル暗殺の首謀者ブルータスをローマ市民が歓呼の声で迎え、英雄ブルータスの行為を熱狂的に支持する場面がある。
興奮する市民を前に、ブルータスは自己の正当性を訴え、その心情を聴衆に吐露すると、聴衆の大半が彼の言葉に涙ぐみながら「ブルータス! ブルータス!」と呼び叫んで彼を称えた。
その直後、ブルータスの友人アントニーが演台に上がり、ブルータスを賞賛した後、カエサルの功績と彼への哀悼の心情を語った。
するとアントニーの話に聞き入っていた熱烈なブルータス支持派たちは、たちまち掌を返したようにアントニーの側に立ち、ブルータスに「裏切り者! 暗殺者」と罵声を浴びせかけ、先ほどまでの英雄を犯罪者にしてしまった。
古代ギリシャの政治学者は、民主主義を衆愚政治と評価したが、現代の政治家たちは、民主主義を人類が手にした英知の賜物として崇めている。
私はもしかしたら、社会を盲目的に信仰し追従している人々を恐れているのかもしれない。
もしくは、そんな人々を自由に操作し、あらゆる正義を作り上げることが可能な社会に恐怖を感じているのかもしれない。
かつての巡回区を出る時、若く輝いていた頃の自分は消え失せ、今日気が付いた一ドル紙幣の目について考えていた。
この目の持つ意味と言い知れない恐れについては、まだ分かる時ではないのだろうか?
6:20 pm
黄昏時のマンハッタンは、ほっとする一時である。
また、肩の力を抜き大きく伸びをして、「今日も後少しだ」と決まって時計を眺める時間でもあり、辺りの風景を楽しむだけの余裕も生まれた。
街は、オフィスビルから吐き出された帰途につく人々で溢れる。
この人々の作り出す流れにも似た動きを眺めていると、水が高いところから低いところへと流れていくような、自然の摂理と法則のようなものを感じずにはいられなかった。
この流れの中で、群れに同化出来ずに生きて来た私の存在は、川の流れを二分している岩に似ているのかもしれない。
あるいは喉に刺さった魚の小骨? そんな気がしてならなかったが、かと言って自分が大自然の法則に逆らって生きていると言う訳でもなかった。
夕暮れ時の複雑な色合いの空を背景に群立する人工の直線的構造物は、その輪郭を曖昧にし、次第に薄墨色の世界へと同化されていく。
代わって幾層にも重ねられたイルミネーションが輝き始め、人工的虚像の世界へと全体をのめり込ませていった。
人々の流れの中、五番街へと向かう。
五十丁目の信号を右折し、人通りの少ないパークアベニューへと歩みを変えた。
朝、家を出る時に感じていた、今日一日かけて浪費しなければならない気の遠くなるような時間の重圧もなく、心地よい散歩を楽しむことが出来る時なのだ。
ゆったりした歩調で歩きながら、エスタの誘いで、モロッコのマラケシュで一冬を過ごしたことを思い出していた。
たいして変化に富んだ人生でもなかったのだが、毎日色々と思い出すことがあるものだと自分でも呆れてしまう。
マラケシュの旧市街地、キャスバを訪れたことがある。
迷路のような薄暗い路地を、出口を求めて彷徨っていた時のことだった。
路地と路地が交差し、家々の中庭なのか小さな広場なのか、ちょっとした空き地に行き当たり、どの道を進むべきかと考えていると、ミントの香りが漂ってきた。
ありとあらゆるアラブのスパイスの香りと、乳香、没薬の香りが入り混じった独特の匂いの中に、爽やかなミントの香りが辺りを包み込んだ。
ちょうどその時だった。
「出口をお探しですか?」
小柄な青年が、家の入り口から顔を出した。土造りの壁面に取り付けられたブルーのタイル製ベンチを指差して、
「ミントティーは、いかがですか?」
と誘ってくれた。
彼の名は、モモ。ベルベル人とのこと。
銀製のファティマの手を売って暮らしているという。
ファティマの手とは、北アフリカの回教徒達が大切にしている一種のお守りのようなものだそうだ。
注意深く周りの家々を見回すと、どの扉にも各種デザインのファティマの手が取り付けてある。
モモは、ミントの葉を何枚も無造作にポットに詰め込み、大量の砂糖を入れ、お湯を注いだミントティーを私に差し出した。
強烈な香りと甘いお茶がこの地の気候に合っているのか、実に美味しかった。
彼は、このミントティーを幾度も勧めながら、
「人の前には、絶えず二つの道があるものです。それは楽な道と、見るからに険しい道の二つです。もし道に迷ったら、貴方の目前に広がる綺麗な道をお進みなさい。すぐに出口に辿り着けますよ。でも、もし貴方に人生を楽しむといった粋狂さがあるなら、その時は目前の狭くて猥雑な道をお進みなさい。少々厄介な道かもしれませんが、この道を歩めば心の平穏と安らぎを手に入れられることでしょう。これは、古いアラブの諺です」
と、老人のような口調で奇妙な話をした。
そしてモモは、話し続けた。
「一つの道は、時計の道。もう一つは、砂時計の道。時計は、永久的に時を刻み続けますが、砂時計は、自分が時の経過を知りたい時にだけ用いればいいもの。不要ならば放置しておけばいいのです。砂時計だけの人生も、楽しいものですよ」
モモは笑いながら、
「少々、無駄話が過ぎたようで。これはアラブ人の悪い冗談ですよ。もし、何かお困りのことがあったら、この街のどこからでもモモとお呼びください」
と言って、家の中に姿を消してしまった。
さっきから私は、ここニューヨークで「モモ!」と叫んでも、彼が出てきそうな気がしていた。
今までの私は、モモの話したどちらの道を歩んで来たのだろう?
自宅のタウンハウスに辿り着いた時には、午後七時四十分を少し過ぎていた。
三階の自室までは、時代がかったエレベーターで昇る。
エレベーターの重い扉を開け、さらに内側の扉も開けて中に入ると、おもむろに三階のボタンを押す。
エレベーターは、ゆっくりと上昇を始めた。
ミッドタウン辺りのモダンな高層ビルなら、さしずめ十階、いや二十階くらいまで楽に到達するぐらいの時間をかけて、やっと三階に着くような代物だった。
エレベーター同様、薄暗い三階の廊下も、モモに会った時のような佗びしさを漂わせていた。
部屋のドアには、二十三丁目のストリートマーケットで買い求めた、銀製のファティマの手が飾られていた。
何を守ろうというのか? 何から守ろうというのか? 黒ずんでしまったファティマの手だけが、いつものように私を迎え入れてくれた。
部屋に入ると、一切を振り払うように各部屋の明かりを灯した。
この時期、暖房は不要だったが、少しばかり肌寒さを感じた私は、サロンにある大型の暖炉にも火を入れ、着替えもしないで夕食の準備に取り掛かった。
解凍してあった鶏の胸肉を少々多めの水で十五分ほどボイルし、茹で上がったら熱いうちに裂いた。
手際よくリズミカルに動く私の指は、瑞々しくしなやかに見え、昼間のような頼りない老人の手ではなくなっていた。
米と二つ割りにした生アーモンドをバターで炒めたものに鶏のスープを加え、十五分ほど強火で炊く。
その後、弱火に切り替えて五分。
火を消して二、三分ほど蒸らしたら、シリア風アーモンドライスが出来上がった。
これをプレートに盛り付け、ライスを覆い隠すように先ほど裂いた鶏肉を飾り、最後に微塵切りのパセリを全体にふりかけた。
スープは、チキンのクリアスープ。
玉ネギとニンニクをすり下ろしてヨーグルトと混ぜ合わせた、イラン風ヨーグルトスープをドレッシング代わりにしたサラダ。
それから、オリーブとそら豆のペーストにベーグル。
毎日のことだが、料理をしながら明日のメニューとレシピを考えている時が幸せだった。
明日の夕食は、ぶどうの葉を使ったシリア料理。
必要なものは、ぶどうの葉とインディカ米、大麦を砕いたものと子羊のひき肉。それにパセリがあれば十分だ。
米と大麦、ひき肉と微塵切りしたパセリを混ぜ合わせ、ぶどうの葉で包んで蒸しあげた料理。なかなか豪華なメニューだ。
パリでエスタと暮らしていた頃には、今のように冷蔵庫など持ち合わせていなかった。
夏場は毎日、路上のマルシェに買い物に行くのが日課だった。
これが冬になると、状況は一転。
アパルトマンの窓の外が外気の冷蔵庫といった具合で、ミルクや野菜、肉やチーズなどを保存していた。
窓越しに眺めては、「まだ肉がある。そうだ、煮込み料理にしよう」などといった具合だった。
玉ネギと赤唐辛子で大量のスープを作り、数日前の石のようになったバケットとスープだけで過ごしたことも、今となっては楽しい思い出。
小説「三銃士」の中に出てくるスイス人傭兵が、ロワール川沿いの旅篭で、暖炉の火で炙られている鴨を見て、「ああ、あの滴り落ちる脂を受け皿に取って、ジャムと混ぜ合わせて、パンに付けて食べたいものだ」と言った記述を思い出し、怪しげな調理油にイチゴジャムを混ぜ合わせ、指ですくってそれだけを食べたこともあった。
料理を客間のダイニングテーブルへと運び、部屋の明かりを消して燭台に火を灯した。
蝋燭の明かりと暖炉の火が室内を包み、炎の揺らぎが一人だけの夕食に興を添えていた。
時折、暖炉で燃える木が乾いた音を立てた。
一人暮らしにしては手の込んだ料理だが、これもまた時間を浪費する知恵でしかなかった。
炎の揺らぎは、時に多種多様なことを思い起こさせてくれた。
壁に映る影は、炎の揺らぎのせいで微妙に変化を見せていたが、この影や、壁や天井やカーペットの染みなどが、思いもよらない記憶の扉の鍵になっていた。
一九七〇年の十月末だったと思う。
多くの人が、毎夜ベトナムからのテレビ中継を見ていた。
そしてこの戦場からの生中継が、戦争に対する一般の幻想を打ち崩してしまった。
その上で新たな考えが権力者によって捏造され、新しい価値観が提供されたのだ。
世界平和、世界の正義、世界の民主主義を守ることがアメリカの責任であり義務なのだと、無防備な一般市民をプロパガンダの前に晒し始めていた。
頭を飽和状態にした若者たちは、嵐の中で舵を失ってしまった小さなボートのように、社会に翻弄された。
個が真面目に個を追求すれば、そこには社会の価値観との軋轢しか生まれて来ない。
個が個を追い求めることは、個の反極にある人々にとっては危険なものと映るだろう。
体制や社会を維持したいという人々の願いが、道徳や倫理を生み出して来た源なのかもしれない。
半世紀も前に、エスタが面白いことを言っていた。
「性や愛までもが、国家権力の統制の下、国家公認マークをつけている社会。反神的で獣のようだと、眉をひそめて快楽主義と非難したところで、それ自体が籠の中での出来事。すべてが許容範囲の中でのことでしかない。性への興味や関心が、人間の創造性の源などと言うことは許される考え方ではない」と言うエスタの行動や言動は、既成の考え方に敵意でもあるかのようで、驚かされることが多かった。
ある日、私がエスタと薄暗い室内でキスをした時、彼女の平手が私の頬を襲った。
あまりの痛さに目を白黒させていると、
「どうして目をつぶっているの! だれを考えてキスしてたの! 本当に失礼な人ね!」
思いもかけない一言に、絶句してしまった。
エスタ曰く、この目をつぶる行為そのものが、社会によって教育された賜物であり、社会によって行われる教育の成果だと言うのだった。
エデンの園から追放されたアダムとイブの話は耳にするが、それ以前にどんな生活があったのか? どんな性生活をしていたのか?
あるいはしていなかったのか? どうしてだれもそのことについては話そうとしないのか?
この問題こそが人間を理解する上で重要な問題の一つだと、エスタは頬を紅潮させながら語っていた。
与えられたものでなく、籠の外の自由を求め、そこで繰り広げられる愛の形や性について考えるのが、エスタにとって楽しく幸せなことだったようだ。
男の子は射精の始まる前、女の子は生理が始まる前の性への興味は、大人になってからの区切りのある行為と違って、満足するまで幾日でも、それこそ次の興味が湧いてくるまで無制限に続いていた。
これは、エデンの園でのアダムとイブの関係を考える上での重要なヒントになるというのが、彼女の大仮説だった。
11:20 pm
就寝には早すぎるので、シャツだけの軽装で夜の散歩へ出掛けた。
部屋の明かりをそのままに外へ出てみると、まだ人通りは多く、決して夜中近くという印象は受けなかった。
外気は少々肌寒かったが、暖炉で火照った体には気持ちよく感じられた。
セントラルパークとは反対側のパークアベニューの方向に足を進めたが、パークアベニューの交差点を渡る頃には、ついに人通りも絶えた。
それから一ブロック直進すると、レキシントンアベニュー。
小さなスーパーや理髪店、アラブ文字やギリシャ文字のネオンサインが目立つ街だ。
既に店じまいした中国人の八百屋など、五番街などでは見られない下町の風情がそこにはあった。
パキスタンからの移民夫婦が経営している食料品店の外には、ベンチが一つ置かれていて、いつも数人の男たちがたむろしていた。
「こんばんは。調子はどう?」
と、一人の男が親しげに声を掛けて来た。
「いつもと変わらないよ」
と答え、私は店内に入った。
朝食用のミルクと、料理に欠かすことの出来ないレモンを買い求めるのが目的だった。
食料品の並んだ店内を奥まで進み、ミルクのカートンをクーラーの中から取り出す。
乳製品専用冷蔵ボックスの照明が、辺りを青白い光で染め上げており、そこには、カラフルな店内とは違った異質な空間が作り出されていた。
ミルクを持つ私の指も、手も、腕も、そして顔までも、青白く冷たそうな光で照らし出されている。
いつも決まって、警察の死体置き場を連想せずにはいられなかった。
急ぎ足でその場を離れ、レモンを手にするとレジへと向かう。
レジの女性は、まだ移民して来てそう長くないのか、言葉の不足分を補うかのように満面の笑みで客と対応していた。
後数年もすれば、この女性もすっかりニューヨークが故郷のアメリカ人になってしまっているのだろう。
満面の笑みの代わりに無愛想な口調で、さも面倒臭そうに接客するのが言葉の出来る証と言わんばかりに、すっかりアメリカ人になっているに違いない。
外の男たちは、相変わらず目的もなく毎夜集まり、通りを歩く人たちを深夜遅くまで眺めながら、眠くなるまで居続けるのだろう。
サミュエル・ベケットのゴドーを待ちながらという一幕芝居を見たことがある。
六、七人の役者が、舞台の上で最初から最後まで、
「まだですかね?」
「遅いですね」
「もう来てもいいんだが……」
と繰り返す。
だれを待っているのか、来るはずのないものを待ちわびているという内容だったと思う。
示唆に富んだ現代人の空虚さ、不安定さを鋭く描き出している作品だと賞賛する評論家たち。
しかし、私にはよく分からなかった。
食料品店のベンチに群がる男たちを見るたびに、この芝居を思い起こしてしまう。
そして決まってその男たちの中に、「まだ一時か……」と腕時計を覗き込んでいる自分自身の姿を見出してしまう錯覚に襲われてしまうのだ。
この錯覚が、思いもしなかったことへと私をいざなってくれた。
「時間は、時計でしか分からないもの。しかし時計は見えるが、時間を見ることは出来ない。時計は、時間を計るものなのだろうか? あるいは、認識するものなのだろうか? この世にあるものすべて、言葉にならないものはない。言葉にならないものは見えないだけで、存在しないものではない」というヨハネの黙示録についての解説を思い出してしまった。
時間のように、言葉があるのに目に見えないものは、存在するが見えない、確認出来ないということなのだろうか?
私は何の疑問も持たずに、時計を見ることで時間を見ているつもりでいた。
見えないはずのものを見ていたのだろうか?
今まで、こんなことを考えてもみなかったのは、なぜだろう?
そういえばヨハネの黙示録には、「初めに言ありき、言によらざるものなし」と記載されている。
文字は初め、神のものであって人間のものではなかった。
人間は、言葉しか授かってはいなかったはずである。
かつては歴史や律法、収税など、権力者に必要なことのすべてを、言葉としてシャーマンが記憶していた。
権力者は、自分に都合のいいことだけを記憶させ、その意向を支配地の隅々まで行き渡らせるために、シャーマンを利用していた。
しかし権力者の力が肥大化していくのに従い、記憶を必要とされる内容も膨大となっていき、やがてシャーマンの能力は、それに追い付くことが出来なくなり役割を終えてしまった。
そこで、情報の記憶と伝達を必要とした権力者は、言葉を文字として書き記すことでシャーマンの代わりとすることを思い付いた。
神のものであった文字を、権力者は人間のものにしてしまったのだ。
権力者にとって不都合なものは、すべてこの時点で排除されてしまい、その結果人間は、神聖な意味や普遍的価値まで失うことになってしまったのかもしれない。
さらに愚かにも、権力者は文字を神格化してしまった。
神なる衣で着飾らせて文字を宗教にし、神殿という情報集積基地を持つことで、権力の絶対性の堅持を図ったのだ。
それは時と共に変化し続け、現代の王たちは神殿に代わってメディアを支配し、国家として情報集積機能を持つに至っている。
そしてそれらの情報には、権力者の意向のままに、矛盾に継ぐ矛盾が積み重ねられているのだ。
情報も社会的価値観も日替わりで変化している今日、法の解釈でさえも日々変化してしまっているのかもしれない。
かつて、世界の頭脳を集結した神殿といわれていたアレキサンドリア文庫は、ローマ軍のシーザー(カエサル)の手によって焼き払われてしまった。
中国では、秦の始皇帝の手によって焚書坑儒が行われ、すべての書籍が焼き捨てられた。
絶えず新しい為政者は、その体制の絶対化を図るために、これまでの社会的思想や哲学の元となった書物を最大の害悪として消去することから、新たな価値基準を創造してきた。
人間の築き上げてきた権力や王権は、絶えず文字の概念を掌握しコントロールすることで絶対化してきたはずなのだが、今や文字は人の手を離れて新たな文字を勝手に増殖し続けている。
文字が暴走してしまった結果、人間が文字に支配されているという皮肉な現象を引き起こしている。
シェークスピアが戯曲を書き上げる際、すでに死語と化していた言葉を精力的に収集し書き上げたという。
その理由は、文字が既に汚染されていたからだという話を聞いたことがあった。
シェークスピアの新しい考えをより正確に伝えるためには、限りなく汚染度の少ない文字を必要とし、それを死語の中から捜し求めたという。
エスタとの実験的生活の中で、この話に触発されて、汚染されていないコミュニケーション記号が現代に存在するとすれば、それは素数の中にしかありえないと結論付けた。
そして、十一桁の素数を言葉の代わりにして、会話遊びに熱中したことがある。
不思議な数の組み合わせに思いを託した、二人だけの密やかな会話。
分かったのか分からなかったのか、しばらくの間、素数遊びに熱中したものだった。
エスタの受け売りなのか、最近、形容詞を除いて動詞だけで生活することの重要性を感じ始めていた。
基本的な動詞はどこでも通用するものであり、それに対して形容詞は、文明の象徴であるように思えるのだ。
形容詞の豊富さこそが、文明の証であり誇りであるような気がしてならなかった。
ゆっくり歩いても、スーパーから部屋までは十五分程度。
夜の散歩は私にとって、未整理なままの知識のジャングル探検なのかもしれない。
人間この年まで生きて来ると、本人の自覚とは別に、膨大な量の経験や知識が集積されてくるものだ。
取るに足らないことを思い出しながら、いつの間にか部屋に帰り着いていた。
1:00am
深夜を過ぎても寝付けない。
この悪い習慣は退職してからずっと続いている。
寝室を除いて各部屋の明かりを消し寝室に行く。
ベッドの足元のテディーベアーを、壁際にあるキャビネットの上に丁寧に移動させるのが決まりだった。
毎日のことなのだが、室内の明かりは一晩中つけたままにしていた。
ベッドの上に横になり、長かった今日一日を振り返る。
なかなか睡魔は訪れない。
寝苦しく両足をばたつかせ腿を叩き、何度も寝返りをうっては、大きなため息を吐く。
一刻でも早く、何も考えずに眠りに就きたい。
願うような気持ちで七転八倒し続ける。
固く目を閉じ、眠りを仕切り直してみるのだが、なかなか上手くいかない。
無理に寝付くことを諦め、今夜も私は、夢の中で懐かしい人たちと再会出来ることを期待しながら、思い出を辿ることにした。
いつしか私は、パリでの出来事を思い浮かべていた。
行きつけのカフェでハロウィーンパーティーが企画され、若者たちが思い思いに仮装して集まった。
謝肉祭の仮面を付けた私とエスタを見て、主催者の英国人キャシーが、自分のチャイナドレスを着てみることをエスタに勧めた。
仮面だけの仮装を婉曲にとがめ、半ば強制するようにエスタに着替えを迫ったのだった。
私はエスタのチャイナドレス姿を期待し、キャシーと共に着替えを勧めていた。
小柄なキャシーのドレスはエスタの体にピッタリとフィットし、エスタの黒髪が艶やかさをさらに妖艶に変えていた。
浮かれてしまった私は、グラスを重ねた末、
「素晴らしい。まるでキャシーみたいだ」
とエスタの耳元で囁き、強く抱きしめていた。
数日後の夜、ベッドルームにチャイナドレス姿のエスタが現れ、
「キャシーみたいでしょ。あなたのために着てあげたのよ」
と言うと、普段のエスタからは想像出来ないほど激しく燃えた。
「どう? キャシーを抱きたかったんでしょ? キャシーってこんなに凄いのかしら?」
今までの自分の行為は、キャシーが乗り移っていたんだと言わんばかりに、他人事のように話した。
汗まみれのエスタは、
「このドレス、キャシーには返さないわ。時々キャシーになって欲しいでしょ! だからここに置いておくの」
そう言いながら、素肌に直接着ていたドレスを脱ぎ捨てた。
そして、
「みんな同じなのにね。一人の女はすべての女を演じられるし、男も同じなのに……。そう思えないのが人間。知恵があったら、無駄な努力も不必要になるのにね」
と呟いた。
エスタのこの時の言葉をどう理解したらいいのか、あの時からずっと今に至るまで、私の記憶の片隅に謎としてい続けている。
ジャック・ドナベディアンとのエジプト旅行が終わり、船がベイルートに入港する直前に彼の語ってくれた不思議な話が、エスタの謎の言葉と重なって、私に何かを語りかけているような気がしていた。
昔、エジプトの神官が言った話だそうだ。
人類の歴史には、金、銀、青銅、鉄という四つの偉大な文明があったという。
今はちょうど、鉄の文明が終わる時期。
鉄の後にはどうなるのか、金の文明に戻るのか、あるいは人類の歴史が終わってしまうのか、それはだれにも分からないことだと言っていた。
本物の金には、表面が傷いても、その傷すら美しい紋様に変えてしまうほど、人間の理解を超えた不思議な力があるのだそうだ。
何千年いや何万年と時間が経過しても、地中や海中にあっても、金は一切腐蝕することもなく、金属でありながら生きていると言われている。
つまり、金は富の象徴なのではなく、不変の、普遍的価値の象徴記号なのだそうだ。
ジャックは、人類の歴史は普遍的価値の世界、つまり金の文明から始まったのだと言っていた。
そして金の時代こそ、人類が神と共に在った時代なのかもしれないと。
しかし次第に人間は神から遠ざかり、銀の文明に移行してしまった。
やがて、人間が人間の価値観を持って神に近づこうとした青銅の時代が訪れ、しまいには、人間は神を蔑ろにし、自らが世界の支配者として君臨する鉄の文明に突入してしまった。
私たちが生きているこの世界こそ、まさに鉄の時代なのだとジャックは言い、次のように語った。
「我々はいつか、普遍的価値が尊ばれ、崇められる時代に戻らなければならないのです。それがいつなのかは、だれも知りません。いつかを知るよりも大切なことは、いつでも戻れるように準備しておくことなのです。平凡な暮らしの中に散りばめられている、普遍的価値を探し出していくことなのです。普遍的な価値はその姿を隠しつつ、だれもが普通で当たり前と認識している一般的な考え方の中に生き続けていると言われています。歴史の中で多くの人の王によって、幾度となく普遍的価値の消去作業が行われて来たのにも関わらず、多くの書物や知恵が、密かに姿を変えて生き延びているのです。いつの時代にも、何の連絡も脈絡もなく、一握りの人たちが世界各地に存在し続けてきました。彼らは評価されることもなく、取り沙汰されることもなく、だれにも気付かれることのない普通の人として、それぞれが手にした普遍的価値を知るための鍵を、時代を超えた次の担い手に密かに託し続けて来ました。私が貴方に語り掛けたように、いつか貴方もだれかに話すことで、大切なメッセージは時代から時代を超えて語り続けられていくのです」
寒気が私を現実の世界へと引き戻した。
足元の乱れたブランケットを胸元まで引き上げようとした私は、何気なく自分の手を見た。
そこには、エスタと共に過ごした時のものでもなく、ジャックの話を聞いていた時のものでもない老人の手しかなかった。
ベッドサイドのテーブルの上には、満面の笑みを浮かべた若き日の写真が、小さな錫製の額に収まっていた。
笑みを浮かべた姿と、今ブランケットを引き寄せた弱々しく老いた手は、確かに同次元に存在していた。
エスタの謎の言葉も、ジャックの不思議な話と同様に、普遍的価値を知るための鍵なのかもしれない。
今日も結論は見出せなかったが、私に必要なことなのならば、いつか自然と理解出来る時が来るだろう。
その時まで、注意深くじっくりと待つことにしよう。
終章
私は退職するまで、あの時の老人について思い出したことなどありませんでした。
そんな私が、偶然出会った訳でもないのに、なぜか急にあの老人のことを思い出し、それ以来数ヶ月間、老人と対話し続けています。
老人との対話と言っても、私が置かれている状況を、どう適切に説明すればいいのか分かりません。
老人を思い出し、一人空想の世界に浸っているだけの話かと言うと、そうでもないのです。
とにかく老人は、考えれば考える程、不思議というより変なのです。
老人についてお話ししようにも、いまだに老人の名前すら分かりません。
名前よりもブラザーといった漠然とした呼び方の方が、あの老人には相応しいように思います。
名前だけでなく、年齢も出身地も、仕事は何をしていたのか、本当にだれ一人として係累がいなかったのか、思い出せば出すほど何も知らないのです。
それなのになぜ、そんな老人とこの数ヶ月間も関わっているのだろうと首を捻ってしまいます。
始めの頃、私は老人の存在を借りて、若かった頃の自分自身を思い返しているだけではないのかと考えていました。
と同時に、私は自分の記憶力が衰え始め、思考力が曖昧になって来ているのではないかと不安になり、自分自身を疑いたくなっていました。
と言うのも、老人に関する記憶が甦ってくる一方で、老人の顔がいつまでたっても不鮮明なままなのに気付いたからです。
手や指、老人を包む光や匂いは鮮やかに甦って来るのに、顔や表情だけが曖昧なのです。
皮肉そうなしたり顔が目に浮かんで来るような気がしていたのですが、老人に関するエピソードを思い起こせば思い起こすほど、見えたはずの表情が曖昧になっていくのです。
表情以外の事柄が明瞭になればなるほど、反比例するかのように、今では全くといっていいほど不明瞭なものになってしまいました。
しかし、三十年前、老人とそれほど話をした記憶はないはずなのに、なぜか老人の声だけは聞こえて来て、私の耳に多くのことを語りかけてくるような錯覚に襲われ、今では老人と会話しているような気分に浸るどころか、連日多くの事柄について老人と話をしています。
無責任な話ですが、素面のままでかなり際どい体験をしているようなのです。
今こうして老人と連日話していると、老人は驚くほどに精力的で雄弁です。
年齢を感じさせないどころか、まるで青年のように熱く語り掛けて来ます。
私が勝手に老人を思い出したから、私と老人の間に不思議な関係が生まれてしまったのでしょうか?
こんな状況は、不思議と言うよりもやはりどう考えても尋常ではないので、老人に直接尋ねたことがあります。
しかし老人の答えは、さらに私を混乱させてしまいました。
それは、私が老人を待ち望んでいたから、私の要望に応えて来てやったと言うものでした。
いつどこで私が、老人の訪問を望んだと言うのでしょう。
あまりの答えに絶句してしまいました。
しかし今では、どちらでもいいと思っています。
どうでもいいことなのです。
突然、私の前に現われた老人は、挨拶もそこそこに、この時を待ち望んでいたかのように話し出しました。
老人の口から、堰を切ったように言葉が溢れ出したのです。
「私と君が共に考えるのは、普遍的価値の意味についてだけ。それ以外に気を回せるほど暇じゃないんでね」
この言葉が、老人との不思議な関係の始まりでした。
老人はその後、一方的に話し続けました。
老人の話は漠然としか理解出来ませんでしたが、いつしか私は、三十年前に老人を訪ねて来た二人の紳士と同じような質問をしていました。
「あなたは八日目の朝の到来を信じているのですか? 八日目の朝になったら、一体何がどう変わるのですか? どうなると言うのですか?」
私の問い掛けに、老人もまたあの時の二人の紳士に見せた態度と同じように、聞き手の存在など眼中にない様子で答えました。
「静かな幕開けの時は、もう既に始まっているんだよ。ある人は舞台の裏方として既に働き出し、ある人は主役になるべく家を後にし、もう劇場に向かっている。またある人たちは、まだ深い眠りの中にいるのかもしれない。いずれにしても、人間が築き上げてきたバベルの塔から遠ざかろうとしている人々は、全身全霊で新たな始まりを感じ、それぞれがそれぞれに、その役割に向かって静かに動き出している。君にはまだ理解出来ないかもしれないが……」
老人は、哀れむような眼差しで私を見つめると、一呼吸おいて話を続けました。
「もう、大声や叫び声やシュプレヒコール、それに武器や英雄さえも、一切が不要なんだよ。そして静かな幕が上がる時、自分がどこにいるかを今から悩む必要はなく、その時まで静かに、ただ注意深く、その時を見逃さないようにしていればいいんだ。私の言葉を君なりに理解するのに、三十年間もの忘却が必要だった様に、今までの話を理解するにも多くの時間が必要なようだ。分かる時が君に訪れるまで、今までの話をすっかり忘れて、毎日を生きて行けばいいだけなんだよ」
どう理解すればいいのか戸惑っている私を無視するように、老人は先程までとは違う話題について語り始めました。
「すべての謎は、自己の中に存在している。自己を見極めると、そこには自己も他者も何の区別も要らないと言うことに気付くはずだよ。君は、一という数字を数学的に証明出来るかい?」
悪戯っぽく問い掛けて来た老人は、私の答えなどどうでもいいと言うように話を続けました。
「一を証明するには、二の概念が必要になる。つまり一と一とのプラトニックな関係を定義し、一と一とを包括する概念、つまりファンダメンタルユニットとしての三の公理がないと、一を規定することも定義することも出来ない。このことは私たちに、数は三から始まったと言う事実を知らせてくれている例の一つだ。数字が一から始まることは、あまりに基本的なことだから、数字の起源について考える者はだれもいない。どうして、最も基本的問題を正しく理解しようとはしないんだ。数が三から始まったと分かれば、一から始まったと信じていた時よりも、もっと多くの大切なことが分かるんだがね」
老人は一人可笑しそうに、大声で笑い出していました。
「どの言語にも一人称、二人称、三人称という概念が存在している。聖書の中の三位一体という言葉は、三=一と書き換えられる。こうしたことは、三の意味を私たちにいろいろと姿形を変えて教えてくれているよい例かもしれない。同様に人間は、普遍的価値を指し示す記号を、身近に見出すことが出来る。旧石器時代の人々は、横穴式住居から竪穴式住居を作って生活するようになった。ここで、よく考えてみたまえ。平地に立体的構造物を作るには、三角形についての認識がないことには何も始まらない。三角形を最小単位として理解していなければ、人類に三次元的認識は存在せず、立体構造物をこの世に出現させることはなかったと言える。人と共に神が在った時代、人は普遍的価値の中で日々の営みを続けることが出来た。神の言葉を失った瞬間、つまり人が聞く耳を失って以来、我々人間は不幸なことに、歴史の中に散りばめられた普遍的価値を見出す術を忘れ去り、解読する知恵までも失ってしまったんだ」
老人の話は、熱にうなされた者のうわ言のようで、私には理解不能でした。
「人間は高等かつ優秀であり、もっと複雑で難解な問題に取り組んでこそ、人類の進化があり得ると信じて疑わない。百年、何千年、何万年と、本来備わっていた能力、つまり知恵を慈しむという普遍的考え方を忘れ去り、本末転倒な考え方に支配されるようになってしまったようだ」
老人は、私に同意を求めるでもなく、混乱しきった私を嘲笑っているかのように、ただひたすら話を続けました。
「アダムとイブがエデンの園に留まってさえいればよかったのに、楽園からの追放というリスクを犯してしまった。そこまでして手に入れたかった知恵の実の意味や、その価値さえも忘れ去ってしまった人間は、カインとアベルの話以来、額に汗して糧を求めなくてはならなくなった。神は人間の不完全さを知り尽くしており、人間は救いようのない存在でしかありえない。ある時にはメシアを出現させ、救われない不完全な人間を救済し、人間は現在まで存在し続けている。この重大なことに、いい加減気付くべきだ。小さなキャパシティーの頭脳で、しかもその能力の僅か数パーセントしか使わずに、物事をより難しく難解にして問題に取り組んできたのが人間。そうすることが、人類の向上のように錯誤したままに。その上、それを褒め称えるような価値観で人間を縛り上げている事実に、そろそろ目を覚ます時じゃないのかね?」
老人は、物分かりの悪い子を諭すように、言い聞かせるように語り続けるのでした。
「個性化の時代とは、小さな頭でよく考え付いたものだよ。だが、外観のデザインを剥ぎ取れば、我々は車と全く同じ。同じ構造体で、同じエネルギーで、同じ機能で、部品で、動いているにすぎないんだ。つまりこれが分かれば、一人の男はすべての男に、すべての男は一人の男に、一人の女はすべての女に、すべての女は一人の女になれる。それ以上のことを、神は不完全な人間に求めてはいないよ」
老人は話を終らせると、
「それじゃ、また」
と言い残して、消えてしまいました。
いつものことですが、突然現われては、全く予期していない話をとうとうと語り、終わるとすっと姿を消してしまうのです。
確かに、老人から今までにない話を聞いたことは、紛れもない事実です。
老人は、私に自らの従うべきものは、自らの内部に求めよと言っているように思えてなりません。
真理を見守る目、知を愛する目を自己の内部に宿してしまった者は、絶えず時代と斬り結ぶ覚悟で、一人荒野に立ち続けなければならないのでしょう。
不完全な人間が荒野を歩き通すことの困難さは、モーゼと共にエジプトの地を逃れた人々が、四十年もの長い間、約束の地を信じてシナイ半島をさ迷った時の困難さや苦しみと同じものかもしれません。
老人がこの連日の会話の中で、
「真に求めることならば、大きく扉を叩きなさい。そうすれば、その答えがあなたの側にあることに気付くはずだ。問題を解く鍵は、身近に必ず存在している」
と言っていました。
ただすれ違っただけの人の中に、ふらりと立ち寄った本屋で手にした本の中に、あるいはテレビを眺めている時に、問題を解く鍵があることを知るだろうと説明してくれた老人の言葉が、疲れきった私の体にまとわりついてきます。
テーブルの上に置かれた写真の若き日の自分が、ソファーに身を沈めている私に、屈託のない笑みを送っています。
私はまどろみの中にあるのでしょうか?
覚醒しているのでしょうか?
すべてが曖昧なままに、老人と私と三十年前の客人、そして今の年若い友とが混在したまま、埋没していくような錯覚に襲われています。
無性に外気に当たりたくなり部屋を出ると、外は三十年前のあの時と同じように小雨に煙り、街灯に浮かび上がった建物も、セントラルパークの木々も、すべてが幻想的な霧の中に霞んでいました。
春を待つ木々の芽は、たっぷりと水分を含んでつぼみを膨らませ、静かに開花の時を待ち続けています。
私もまた、静かな幕開けの時を待ち続けなければなりません。
静かな狼煙が上がるその時を……。― 完 ―
団塊世代のための暮らし方 海外編 Copyright(C)2005 T.Shimizu.All rights reserved.