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風景街道「豊の国・歴史ロマン街道」−小倉・足立山から宇佐の森へ
■地域のねらい
・県を超え小倉〜行橋〜中津〜宇佐の歴史・文化の共通意識を育む
・郷土の歴史景観を保存し、美しい国土文化をつくる
・地域が互いに連携し、各地域の活性化する
・広域的観点から歴史と文化を発掘し、観光の振興を図る
■活動エリアと地域資源
・旧中津街道・勅使街道沿線(国道10号、213号、496号など)を中心とする地域。
・常盤橋・国分寺跡・中津城・宇佐神宮など歴史的資源が豊富。
・旧史跡を訪ね保全活動の啓発活動や街道の清掃、植樹等の活動を実施
■地域の活動推進体制
・豊の国風景街道推進協議会
(構成)
【民間】NPO法人足立山麓文化村等
(活動団体計17団体)
【行政】福岡県、大分県、北九州市、苅田町、行橋市、みやこ町、築上町、豊前市、吉富町、上毛町、中津市、宇佐市、北九州国道、大分河川国道
■設立趣旨
わが国は、これから急速に人口減少・少子高齢化が進んでいきます。これと共に、工業生産中心だった北九州地域の市民意識に変化が生じ、市民には地域の自然・風土・街並み・建築の歴史的景観を見直し、これを身近に感じて心の豊かさを求めたいという要望が強まっています。
このような市民意識の変化の中で、国土交通省では、全国に「風景街道」を設定し、これを舞台に国土文化を育て、地域の連携を深め互いに振興をはかろうとする施策を進めています。これからは「選ばれる時代」であります。私たちも、この機をとらえ、北九州地域のうち豊前方面の歴史に着目し、古くは奈良時代の和気清麻呂公、戦国期の黒田孝高如水、近代では幕末明治の福沢諭吉などの活躍に歴史のロマンをつなぎ、自然度豊かな小倉・足立山から国道10号沿いに南下し行橋・中津を経て森厳な宇佐の森まで、「豊の国・歴史ロマン街道一小倉・足立山から宇佐の森へ」を設定したいと存じます。そして私たちは、福岡・大分両県を結ぶこの地域に伝わる歴史を再確認し、地域文化を掘り起こし、風景街道沿線地域の活性化をはかっていくべきと考えます。
一方、広くアジアの情勢をみると中国などの成長が著しく、新北九州空港もすでに開港し、やがて到来するであろう中国・韓国などからの国際観光の訪問先としても、当風景街道の役割は大きいと言わねばなりません。このように豊前の国の風景街道は、地域間の共通意識による地域活性化、地域の歴史文化の発掘、これによる観光事業の振興などに大きく貢献していくものと思われます。
ここに、これらの方策を促進するために、両県について、NPO法人足立山麓文化村(北九州市小倉北区)および「宇佐の文化財を守る会」(宇佐市)に事務局を置き、風景街道「豊の国歴史ロマン街道一小倉・足立山から宇佐の森へ」を設立するものであります。
■活動方針
1. 現地を知る
・現地見学会 区間を分けて歩く
・歴史景観を見て確かめる
2. 歴史を学ぶ
・歴史シンポジウムを開く .
・歴史を知って地域間の共通意識を育てる
3. 地域ごとに歩道などの清掃を手伝う
4. 不釣り合いな野外広告物の整序を行政に提言する
5. 当風景街道のガイドブックを作成する
平成22年 活動計画
1. 現地見学会
2. 歴史シンポジウム
3. 地域別学習会
■地域資源の要約説明

常盤橋
城下町小倉の紫川河口に架かる橋で、小倉から出る長崎街道、中津街道、秋月街道など小倉5街道の起点になっていた。江戸期の木構造の橋で、現在も床・高欄など往時の橋観を見ることができる。
幕末、安政年間(1850年代)ドイツ人医師・博物学者シーボルトが来日し、この橋を銅版画で紹介している。
小倉城
江戸期初め1602(慶長7)年、細川忠興が関ヶ原戦の功績により入部。
当時は毛利氏の支城であったが、忠興はここに5層6階(高さ約29m)の天守閣を築城した。石垣は足立山の自然石(野面石)を用いている。
1632(寛永9)年、細川氏が熊本に移封され、譜代の小笠原忠真が明石藩から小倉藩15万石領主として入る。 小笠原氏は江戸期10代230年余にわたり居城とした。 幕末になり、1866(慶応2)年の長州征討時に奇兵隊の攻撃を受け、自ら城を焼く。現在の天守閣は1959(昭和34)年、鉄筋コンクリートで復元された。 城内には、明治時代の軍都小倉の象徴・旧陸軍第12師団司令部の門柱が残っている。平城。別名:勝山城。
福聚寺
黄檗宗の名刹。小笠原初代藩主・忠真が菩提寺として1665(寛文5)年に足立山麓に創建。開山は中国僧・即非で、わが国に黄檗宗を伝えた隠元の高弟という。当初、七堂伽藍を配置していたが、天明期に焼失。1802(享和2)年に再建されたが、再び幕末の長州戦で一部焼失した。本堂・不二門・鐘楼は残り、現在、中国風の建築様式をとどめている。
妙見宮
和気清麻呂は足の回復を感謝し、足立山と湯川温泉のあるこの地に四男の妙運に命じて妙見宮と平癒寺を建立させたという。神仏混交の社殿である。境内には猪に乗った清麻呂公の像がある。
葛原八幡宮
和気清麻呂の足が癒え、平城京に無事帰るよう、里人が八幡神を拝み、八幡宮を勧請したと伝えられる。その後、清麻呂の子真綱が勅使として豊前に下ったとき、この地に遷し葛原八幡宮になったという。
1853(嘉永 6)年、京都神祇官より祭神となった清麻呂公の霊に「護王大明神」の御幣を賜り、社宝となっている。
境内に清麻呂公の立像がある。
石塚山古墳
前期古墳では、九州で最大・最古の畿内型前方後円墳である。苅田町役場に隣接する丘がそれである。3世紀末から4世紀初の築造と推定。全長130m。前方部は幅50m、長さ60mで先が広がる撥形をなしている。後円部は径70mの3段築造で、墳丘に葺き石を詰めている。
1796(寛政8)年、石室が見つかり、銅鏡・矛などが出土。同町馬場にある宇原神社に保管されている。国指定史跡。
御所山古墳
北部九州では壮麗な墳丘の前方後円墳で、九州では珍しく周濠を持つ。5世紀半ばの築造とされ、全長119m。前方部と後円部のくびれ部分に「造り出し」という突起を設けるなど、畿内の応神陵、仁徳陵と同じ形態を有している。後円部は割り石を小口積みした横穴式石室で、その特徴から筑肥地域の文化的影響を受けていると言われる。 出土品は四禽四獣鏡、勾玉などの装身具、馬具などの鉄器片があり、被葬者は豊前地方の県主・国造クラスと推定されている。
飴屋御門
小倉藩を代表する豪商玉江家飴屋(行事飴屋)が、藩主を迎えるために建てた門(京都郡旧行事村)。通称、「御成門」と呼ばれている。門は一間薬医門で、本瓦葺き。幅5.8m、奥行2.2mの総檜造り。1830年代(天保年間)の建築である。宝永年間(1705年頃)に3代目・宗利が飴づくりに成功、美味しさが評判になったという。
豊前国府跡
奈良・平安時代、豊前国を治めるために、律令政府は主な地方に「国府」を置いた。この行政組織は、中央の命令を地方に伝え、地方の情報を中央に報告したり、政務・儀式・租税を施行した。 豊前国府には、正殿、脇殿、中門が建ち、8世紀から12世紀頃まで運営されていた。現在の国府跡公園には、政庁社殿の柱の跡や築地塀(復元)が設けてあり、往時の歴史を確認できる。
国分寺跡
奈良時代、聖武天皇(在位724〜749、東大寺造営、鑑真から授戒)の疫病・災害除去の詔を受けて、全国で国分寺が造営された。
豊前国分寺は8世紀半ばに建立され、七重塔・金堂・講堂など七堂伽藍を備えていたが、戦国期の兵火に会い焼失した。現在の本堂は、1666(寛文6)年に、三重塔は1896(明治29)年に再建。のちに昭和32年、県は三重塔を有形文化財に指定している。
御所ケ谷神籠石
行橋市南西の御所ケ岳(246m)の尾根沿いに、門跡・列石・土塁が3kmにわたって続いている。北部九州を中心に6〜7世紀に造られた朝鮮式山城である。門跡は東門・中門・西門など7カ所あり、特に中門は高さ約7m・長さ約18mにわたり花崗岩の切り石を積み上げて巨大な石塁を築造している。国指定の史跡。
奈良時代、朝鮮半島との外交など歴史的興味は尽きない。
綱敷天満宮
「浜の宮」ともいう。平安時代、901(延喜1)年、右大臣・菅原道真は太宰府権帥に左遷された。社伝によると、道真は瀬戸内海を海路北九州に向かう途中、強風で高塚の浜に漂着した。漁民は漁船の綱を敷いて道真に休んでもらった。955(天暦9)年、この故事により、祭神を菅原道真とし、社が設けられた。
1637(寛永14)年、小倉藩と豊後日出藩により現在地に社殿が造営された。境内には老松が繁り多くの梅がある。
本庄の大楠
この樹齢約1900年といわれる「大楠」は、周防灘に注ぐ城井川中流部の里(築上町本庄)にある。樹高23m、胸高周り21m。1922(大正11)年に国の天然記念物に指定。今日、環境省の調査で全国第5位の巨木と認定されている。現在、根元で幹が抉られ、中は約10畳の空洞となり、幹と枝を鉄柱で支えている。その姿は、必死で生きようとする生き物を見るようで、見学者の胸に迫るものがある。秋の夜には、大楠の前でクラシックコンサートが開かれる。
御腰掛
その昔(平安一鎌倉頃か)、宇佐への勅使や貴人が、見晴らしのよいこの峠で腰を掛け休息されたという故事からの地名。
現在、国道10号を通行する利用者への食事サービスや地場産の販売の場として、2000(平成12)年3月、道の駅「豊前おこしかけ」がオープン。豊前の物産・歴史文化・観光の情報を提供している。
宝福寺山
豊前市八屋の小高い丘が宝福寺山である。ここに黄葉宗の宝福禅寺があり、江戸初期・1670年代(延宝年間)に建立された。後に菅原道真公を祭る菅原神社も設けられている。この山はこんもりと大樹が茂り、古くから地域の人々に敬われており、山はつつじ(約3000本)の名所で、毎年4月下旬「つつじ祭」が開かれる。
八幡古表神社
この神社は山国川河口の左岸、吉富町小犬丸にある。この地はかって島であったが、山国川の流砂で陸続きになったという。神社の祭神は、息長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)、四十柱大神、住吉大神である。社には鎌倉時代の低値(くぐつ)という木彫りの操り人形が所蔵されている。この人形は4年に1度の放生会(夏季大祭)に奉納される舞と神相撲で使われる。この神事は、奈良時代に、宇佐八幡宮の放生会に古表船を出して傀儡を操り、伎楽を奉納したのが起源とされる。また、社には神功皇后の像という木造の女神騎牛像があり、女神が、手綱をとる神像は珍しい。
中津城
戦国期1588(天正16)年、天下統一をめざす豊臣秀吉の命を受け、中津に入った黒田官兵衛孝高(如水)は支配を広げ、山国川河口右岸に水運を考慮して築城に着手、約30年後、小倉藩主細川忠興が中津分藩の城として完成させた。その後、1632(寛永9)年、小笠原長次が中津藩8万石として入部。1717(享保2)年に丹後宮津から奥平昌成が入り、明治まで奥平氏の居城であった。
城は梯郭式の形を採り、濠に山国川の水を入れている。城郭は明治10年の西南戦争で焼失。現在の天守閣は1964(昭和39)年に模擬天守が再建された。平城(水城)。別名:扇城。
福澤旧居
旧居は中津城東の藩士屋敷にある。茅葺きが印象的な平屋は、敷地115坪、建坪31坪、間取り6部屋と土間・納戸からなり、裏に5坪の諭吉が勉学部屋にした土蔵がある。
諭吉は1834(天保5)年、中津藩士福澤百助の次男として大阪で生まれ、父の死去のため中津に帰郷。1850(嘉永3)年17歳の頃、母の実家のこの家に移り住んだ。旧居は保存がよく、見学できる。
思想家・教育者 福澤諭吉 略年表
1858(安政 5) 23歳 江戸出府、奥平屋敷で蘭学塾を開く
1860(万延 1) 25歳 威臨丸(艦長勝海舟)で渡米、
幕府外国方に採用される
1862(文久 2) 27歳 遣欧使節に入り仏・英・蘭など見聞
1866(慶応 2) 31歳 「西洋事情」初編を刊行
1872(明治 5) 37歳 「学問のすゝめ」初編を刊行
1890(明治 23) 55歳 慶応義塾に大学部を設ける
1894(明治 27) 59歳 耶馬渓を買収、自然保護に尽力
1897(明治 30) 62歳 「福翁百話」を刊行
1901(明治 34) 66歳 20世紀の到来を見届けて、2月逝去
旧居の隣に「福澤諭吉記念館」がある。館には、諭吉の書や原稿、著作の初版本、写真や肖像など、多数の資料が展示され、幕末・ 明治の福澤諭吉の啓蒙思想、独立自尊を学ぶことができる。諭吉肖像の壱万円札・第1号が日本銀行から寄贈、展示されている。
合元寺
中津城の南側の寺町に浄土宗の合元寺がある。壁が真赤に塗られてあり、赤壁寺と呼ばれる。
1587(天正15)年に黒田孝高が中津に入り、築上郡城井谷の領主宇都宮鎮房(しげふさ)を謀殺した。このとき合元寺には鎮房の家臣たちが投宿していた。ここに黒田勢が攻め入り、家臣全員が討死した。
寺の白壁は血で染まり、塗り替えても赤色が浮き出てくるため、壁全体を赤く塗ったという。新領主と国人の軋轢を伝える戦国期の重い史話である。
薦神社
中津城の南東に薦神社がある。宇佐神宮の御神験である薦枕の材料となるマコモが自生する三角池(御澄池)をご神体とする。
境内の神門は1621(元和7)年に細川氏によって再建され、現在、国の重要文化財である。三角地の水生・湿地植物群落は大分県の天然記念物に指定されている。
風土記の丘
「風土記の丘」は駅館川右岸の河岸丘段の台地にある。面積19haの史跡公園。公園内には川部・高森古墳群があり、3世紀末〜6世紀の6基の前方後円墳と多数の方形周溝墓などがある。
1921(大正10)年、三角縁神獣鏡4面などが出土し、これは石塚山古墳(京都郡苅田町)と同鋳型という。 また、南端には免ヶ平古墳や鶴見古墳などがあり、多様な古墳構造をみることができる。近くには、宇佐八幡の歴史・文化などを収めた大分県立歴史博物館がある。
宇佐神宮
全国に4万を超える八幡宮の総本社。豊前国一の宮。祭神は応神天皇・比売大神・神功皇后である。 769(神護景雲3)年、奈良朝廷から和気清麻呂が宇佐宮に派遣され、清麻呂は「国、君臣の分定まれり。僧・道鏡の即位を排除せよ。」との神託を伝えた。道鏡は左遷され、ここに皇位は皇族によって受け継がれることとなった(宇佐八幡神託事件)。
宇佐八幡宮は神仏習合の先駆けをなしている。宇佐・国東の仏教文化や大分・臼杵の石仏など、平安期に栄えた宇佐宮・弥勒寺の影響下で生まれたと言われる。 本殿は江戸後期に造られた檜皮葺きの「八幡造り」で、白壁に朱塗りの柱が美しい。国宝に指定。境内の寄藻川には呉橋が架かり、これは勅使が渡る神橋で朱塗りで屋根がある。境内面積はイチイガシなど森林43万uに及ぶ。宇佐神宮と周辺の史的文化財は、世界遺産への登録をめざし、準備が進められている。
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