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校庭写真撮影:2006年9月24日
グラウンド・プール写真撮影:2006年8月13日

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左は「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」による昭和50年の我が母校の航空写真である。

母校の構造がつぎはぎだらけであることは以前から気付いていた,校舎の外観や内装がセクションによって大きく異なるのである。私が在校中に写真の赤い屋根の部分 (北側校舎と中央廊下)が増改築されたが,他の部分も同じような経緯で増改築を繰り返されたことが容易に分かる。写真左端(南側)の校舎が低学年用だったが,明らかに屋根の色が違う。増築された校舎だったのである。それを証明するのが次の写真である。

右は昭和23年(1948年)の航空写真,上の写真とほぼ同じ範囲 になるようにくり抜いてみた。

校庭中央にある有名な二本の老桜を目印にすると分かり易いだろう。職員室などの中枢部分がある東側校舎の南側にもかつては校舎が伸びていたことが分かる。 正門を中心に左右に対照な校舎だったのである。

学校のメイン部分である東側校舎の南側が壊され,校庭がが南側に拡張され,敷地南縁に新校舎が造られ細長い通路で本校舎と結ばれた。釈迦内小学校HPには,昭和24年12月と昭和32年1月に新校舎の完成があったとあり,この写真の変化が起こったのは二つの時期のうちいずれかだと推定される。

体育館は屋根の色が変わっているが,構造から考えて昔のままだと思う。

さらに興味深いのは北側にある大館市立第二中学校の校舎,この頃はまだ「釈迦内中学校」であり,それも昭和22年4月に創立されたばかり。釈迦内小学校の体育館と新しさを感じさせる明るい屋根の通路で結ばれており体育館が小学校と共用だったことが分かる。

また校門も共用だったことが分かる。かつて二中生が小学生同様に小学校の校門をくぐり,中学校の玄関まで小学校の校庭を斜走していた通路の踏跡が昭和50 年の写真にでも確認できる。二中が独立校舎になったのは昭和24年7月である。体育館,北側校舎,技術室などはまだできていない。

同じ棟でありながら中学校舎の屋根の濃淡が南北で違うのは気になるところ,それも南半分の屋根の色は小学校のそれと等しく,色の違いは昭和50年の写真でも確認できる。釈迦内小学校OBの歴史家日景健氏によると,二中の北半分の屋根の白い部分は戦後の新制中学校なってから増築されたものだという。
学校周辺の景色は大きく変わっていないので,校門の間からいかに懐かしい風景が飛び込んでくるだろうかと否応なく期待が高まってしまう,それゆえ校庭に入った瞬間の落胆は隠せない。

昭和62年12月に竣工した新校舎にはかつての釈迦内小学校の面影は微塵もない。ここは本当にあの釈迦内小学校だったのか,という疑念を払拭するために昔と変わらぬものを探し回る。
校庭の中央にある二本の老 桜だけがかつての姿を想起させてくれる。古い卒業生ならこの桜の後ろに広がる校庭と木造校舎を記憶のスクリーンに映し出すことができるだろう。

門柱には 「大館市釈迦内児童センター」とある。かつてこの老桜の南側にあった校庭(運動場)と南校舎があった部分に保育園が建っており,旧校門は保育園の門になっ ている。




右の写真は昭和52年卒業生の卒業アルバムからのもの,同年卒の阿部悦美(旧姓渡辺)さんから提供して頂いた。

旧木造校舎と花壇,空を覆う満開の桜,タイヤ跳びが写されている。どれもこれもが懐かしいものばかり。

花壇に面した校舎1階が職員室で,その上が6年生の教室でした。職員室に入る時いつも緊張した。呼ばれるのは叱られるときばかり,あのときの不快な緊張感と鼻につくタバコの煙の記憶が,皮肉なことに私の記憶をより鮮やかなものにしている。

旧校庭の変化の大きさには落胆してしまうが,ここから少し離れるとかつてと殆ど変わらない物を見 つけることができる。
それはグラウンドとプール。本来は大館二中の設備だったと思うが昭和58年12月萩長森北麓に二中が移転して以降は釈迦内小学校だけが使っている。かなり贅沢な広さといってよい。

グラウンドの南端に立ち広く見渡す。二中の校舎と釈迦内鉱山の選鉱所がなくなっていることが最大の変化だが,その他の風景は昔と殆ど変わらない。
二中の 自転車置き場があった付近も殆ど同じように感じる。眼を細めると二中の運動部員達がトラックの土を蹴り,野球部の部員が土煙舞い上がるグラウンドでかけ声 高く練習する姿が目に浮かぶ。今や遠くを走る車の音が聞こえるほど静かだ。

プールに移動してみよう。
私は泳ぐのは遅かったが一応水泳部員だったので,プールに対する思い入れは人一倍深い。お色直しされているが各所にかつての姿を感じることができる。入り口付近には二中の音楽室とテニスコートがあり,プールの扉は両開きだったように記憶している。今は周囲の金網フェンスがかつての青く華奢な ものから白く頑丈そうなものに新調され,扉は片開きに変更されてている。多くのサンダルが散らばっていた土間部分はコンクリートで埋められている。
シャワー付近,シャワーの基礎はかつてのまま,かつては多孔鉄パイプを利用した構造で,パイプの外形は八角形的な135度の屈曲が4箇所にあったが,現在では垂直な屈曲が2カ所の単純な形になり,レンコン型の噴出口が6箇所設けられよりシャワーらしくなっている。目洗い場も基本的に変わりない。
プールの構造は一見なにも変化がない。スタート台の形,スタート台に付属した 背泳用のスタートグリップも同じである。プール槽もスタート台も単に補修されて再塗装されただけのように見える。このプールは鉄板槽の上にペンキ塗装されているので滑りやすい。背泳のスタートで壁を蹴るときに滑ってしまうので,私と同期の背泳選手M君なんかは足裏に松ヤニを塗っていた。
写真の位置,南側のプールサイドにはバラックがあり,中では薪ストーブが燃えていた。蒼い顔で震えながら錆びたストーブにすり寄り,獅子舞のように頭を振ってストーブに 頭髪の水をかけていた頃を思い出す。斜陽が陰るプール,練習の締めくくりの制限タイム付きダッシュトレーニングが始まるとまるで処刑に呼ばれた囚人ような気分だった。
プールサイドはかつて一辺が20〜30cmほどの正方形のコンクリートの敷石が敷き詰められて敷石の間からイネ科の雑草が顔を出していた。今はコンクリートで一様に埋められてすっきりしている。さらに大きな変化としてプール西側の超悪臭トイレの南側に更衣室らしき建物が合体し,さらに北側には浄化設備が新たに造られている。
プールには浄化水を導くための大きなパイプが設置されている。

15〜17℃程度の水温で,水面に浮いた桜の花びらを左右に切りながら震えて泳いだプール,植物性プランクトンが繁殖して真緑の視野で泳いだプール,さらに薬品でそのプランクトンが死滅して視界ゼロの茶色い世界で泳いだプール。ブラスバンド部練習のBGMの中,小学校時代は山田留三郎先生の怒号に震え,中学校では山本昭平先生の刺すような視線に内省を促されながら練習したプール,とにかくこのプールは思い出深い。

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